ここで点が入らなければ、慧峰高校の敗北がほぼ確定するこの場面。八回裏ワンアウト満塁という最高にプレッシャーがかかるシチュエーションで、晴真は心を鎮めるべく息を大きく吸った。
三塁を見ると、沢滝が身振りで『教えた通りにやってみればいい』と伝えてくる。打席に立つ前に聞いた勝算の高い作戦の使い刻は、この打席を置いて他にないだろう。性質上絶対に3球以内に決めなければならない作戦のため、晴真のバットを握る腕にも緊張が伝いより強く握り締められる。
──チャンスは三回……打つ。
「さぁ、こい!」
「無安打の癖に、威勢のいいこと……だっ!」
1球目はインコースへのストレート、これを晴真は空振りしまずワンストライク。コース予想は当たっていたがタイミングが凄まじくズレていた。
「へっ、口程にもないな」
「……もっと、無心で」
2球目はアウトコース低めの、ストライクからボールになるスプリット。晴真はこれに見事に引っ掛かり、早くも二つのストライクを献上してしまう結果となった。
頭で余計なことを考えてしまうせいか、どうしても作戦通りにバットを振ることができない。この作戦のキモはとにかく振ること、雑念が混じっていてはスイングのキレが落ちてしまう。
『本当は、あまり使わせたくはない手なんだが……どうしても打てないという時は、何も考えず投げられた球を追いかけるんだ。格上と認める相手にしか使えない最終手段さ』
晴真は認めた。今の自分では伊佐のピッチングに読み勝つことは不可能だということを。リード読みもへったくれもなく、ただ投げられた球を愚直に追いかけるという安易な方法を取れるのは、普通にやっても勝てない相手を置いて他にない。
四番打者として、相手の投手を打てないと認めるのはプライドが傷付かない訳でもない。それよりもチームの勝利の方が大事だから、白旗を上げるような真似も平然とできる。
ここまで三打席分見てきたから分かる、投球そのものが手に負えないということはない。あと一度のチャンスに、バッティングを噛み合わせることができたなら……飛ばすことはきっとできる。
「考えるな……」
──感じろ。ボールだけを、追い続けろ!
運命の3球目……ボール球を投げられた時点で終わりのこの勝負の軍配は、晴真の手によって慧峰高校に引き寄せられた。
「当たっ……たあー!」
「伸びろ、伸びろ!ぜってー捕られんなー!」
「大丈夫……ファールだ……!」
「切れる……切れる……!」
投げられたのはカットボール。左打者の胸元を抉るように変化するその球を、晴真は初めストレートを投げられたものと思ってスイングした……のだが変化したその瞬間、伊佐がアウトを確信した瞬間に身体を引いてスイングを修正。内に切り込むボールを芯で捉え、体勢を崩しながらもバットを振り抜いてみせたのだった。
あまり力のない打球だが、振り抜いただけあってその飛距離はなかなかのもの。風に揺られながら少しずつ伸びて、伸びて、伸びて──ライトスタンドのポールに直撃した。
減速したボールがスタンドに転がり落ち、八千代の応援団の足下でぴたりと止まる。晴真から八千代へ逆転満塁弾のプレゼントであった。
「……打っ、た」
誰もが黙り込む中で、晴真のその声だけが小さくこの空間に溶けて消える。駆け引きも何もあった物ではない闇雲な一振りが作り出した、最高の結果を全てが受け入れるには……彼がダイヤモンドを回り終えるまでの時間を要した。
最初は八千代ベンチの騒めきから、慧峰ベンチの喜びと驚きの叫びが飛び出し。ベンチに戻ってきた晴真を選手と観客達が拍手で迎え入れる。
「打ってみて、どうだったか?」
「……達成感も、何もあったもんじゃないね」
結果こそ満塁ホームランという最高のもの。しかしそれを出したのは偶然であるせいで、晴真の心中に喜びや達成感というものはまるでなかった。あるのは成功したことへの安堵と、こうまでしなければ勝てなかった相手への敬意。
今日の晴真は、才能だけでない経験値がもたらす強さというものを知ることができた。練習試合ではない本番だからこその本気の駆け引き……この日の経験はきっと、これからも勝ち続けていくためにも大事な糧となるだろう。心の底から湧き上がる苦味を飲み下し、次に備えるべくグローブを手に取りブルペンへと向かうのだった。
「九回の守備、お前に任せるぞ」
「うん……きっちり、3人で終わらせるから」
八千代は投手を交代せず、伊佐に被弾後もスリーアウトまで投げさせた。慧峰にその後追加点が入ることはなく、6ー7の一点リードという状況で最終回を迎えることとなる。
慧峰は投手と捕手を交代し、晴真がエースとしてこの重要な局面を投げる。一人は怪我で離脱し一人は疲労困憊でもう投げられない……名実共に晴真が慧峰の最後の砦。たった一イニングの登板ではあるがそのプレッシャーは計り知れないだろう。
「遂に出てきたか」
「アイツに照準合わせてたんだ、ここで打てなきゃ本当に俺達終わりだぜ」
「だからこそ、やらにゃあいかん」
「同点にするんだ、延長ならウチが勝つ!」
最終回、八千代高校の攻撃はクリーンナップから始まる最大攻撃力の構え。
迎え撃つは慧峰最高の守備陣形。たった一点を巡り両チームの最高がぶつかり合うのだ。
「お前ら……後は、任せたぜ」
「おう、必ず追いついてみせる!」
対戦する打者を前にして、この試合では初めての登板ながら晴真は実に落ち着いていた。先輩達が頑張ってくれたおかげで、自分はここまで出番を引っ張ることができた……あと1イニング、たったの3アウトだけを取ればいいだなんて、あまりにも美味し過ぎる役回りではないか。
緊張なんて微塵もしていない。彼の頭が考えていることはただ、先輩達の頑張りに恥じぬよう最善を尽くす……それだけであった。
「さっ、こぉい!」
「……いざ、尋常に」
肝心の第一球、沢滝が選んだのはインコースへのストレート。160キロを記録する速球は注文通りの軌道を刻み、そしてキャッチャーミットへ収まる前にバットに当たる。引っ張った打球はラインを越えて一塁側スタンドに入るファール。まずは一つストライクカウントをいただくことに成功した。
沢滝は今のスイングを、明らかに球種もコースも狙いに来ていたことを察する。実際に見るのは初めて故にズレてしまったが、どうやら一・二回戦でのデータで研究はしっかりしてきたようだ。
「……だとして、関係はない」
研究なんてされて当たり前のもの、むしろこれから先どんどんデータは増え、相手側の対策手段も確実かつ多彩なものになってくる。せいぜい二試合分程度のデータでされた研究など躱せずして、これから先を勝ち抜いていくことは難しい。
しかしながら、現在の晴真にはそこまでのことを求めるだけの経験値が足りていない。ならば対策を練ってくる打者を躱すのは、キャッチャーである自分の役目だ。沢滝は今やるべきことを頭の中で整理すると、晴真に不安を与えないよう堂々とした態度でミットを突き付けた。
「オーケー」
あのミットを前に、迷ったり余計なことを考えたりする必要はない。今やるべきことはあのリードに従ってボールを投げ込むことだけ。雑念を捨てて意識を集中し二球目をリリースする。
「ストライク!」
「また、インコース……!」
二球目もストレート、それも一球目と同じインコースへのボールであった。ストレートの後は変化球を投げてくる可能性が高いと判断し、外の球を待っていた打者の意識を外す一投、正直甘めのコースだったが不意を突くことはできたようだ。
一度想定を外すことができれば、相手は次にどうくるかという予測を立て辛くなる。迷いに揺れるバットでのスイングでは、三球目──晴真のストレートには追いつけない。
「ストライク、バッターアウト!」
「よし、まず一つ!」
遊び球は一切なし、三球全てインコースへのストレートで晴真は打者を捩じ伏せた。一つ目のアウトを取ったところで次の打者は四番……たった一度のミスすらも致命傷になる難敵に対し、沢滝がミットを構えたのはまたしてもインコースであった。
要求される球はストレート、さっきの打者と合わせて四回連続での同じ球。晴真が沢滝を信頼しているとは言え流石に不安になるリードだが、その不安は意図を理解することですぐに解消される。
迷いが消えたならあとは全力で投げるだけ。注文通りのコースを突き進むストレートに対し、待っていたかのように迷いなくバットが振られる。完璧にストレートを捉えるスイングは豪快な風切り音と共に完遂され……バットの下を掠めた打球は、ボテボテのピッチャーゴロとなって一塁に送られた。
「アウト!」
「やった、これであと一つ……!」
「やられた……!」
「何だよ、あいつのストレートは完璧に捉えられるスイングだったはずだぞ!?」
晴真が投げたのは確かにストレートだが、それはいつものではない普通のストレート。いつものストレートよりも伸びが悪く落ちる軌道は、いつものストレートを狙ったスイングのちょうど下を通りバットの先を引っ掛けさせる。
相手が反応してくると信用したからこそ、裏を掻くこの一手がよく刺さる。これによりツーアウト目を奪ったことで、慧峰高校の四回戦進出まであとアウト一つに迫ることとなった。
「あと一つ……あと一つで……!」
「八千代に……勝てる!」
浮き足立ってきている。勝利が目前に迫ったことで少なからず気分が上がってきていることを悟り、このままではいけないと沢滝は皆の気を引き締めるべく声を出そうとした。
しかし彼が立ち上がって声をかけるより早く、晴真の方が声を張り上げる。あと一つのアウトを取るために最も重要な選手こそが、この場面で誰よりも気を引き締めていたのだ。
「皆さん、まだツーアウトです!最後まで油断せずキッチリ取り切っていきましょう!」
「御影……ふふ、随分と頼もしいじゃないか」
晴真がエースとして皆を鼓舞するなら、自分はそんな彼を支えてやらねばならない。沢滝は晴真が全力を出し切れるように、この打席を最後にするべくどっしりとした態度でミットを構えた。
一球目はアウトコースへのストレート。見送られたがこれはストライクの判定が下る。打ちにいく素振りも見せなかったところから、どうやら今の球は見に徹すると決めていたようだ。二球目は先程とは反対にインコースへ。打者はこれも見送るがまたしても判定はストライク。早くもあとストライク一つで勝利となる。
──もしかして、縮こまってる?
見送ったのは観察しているからではなく、まさか腕が竦んで動かないだけなのではないか。そんな疑念が湧いてくる消極的な態度だが、まさかそれで終わりとはならないだろう。三球目に投げた二球目と同じコースを辿りながら変化するツーシーム……それに合わせてファールにしてきたことで、その疑念が問題ないということが分かる。
打者は狙いを絞っていた。落ちる方のストレートまたはツーシームに狙いを定め、それ以外だと判断したら瞬時に見送る。自分がアウトになれば終わりと言うこの場面で随分な思い切りだが、それにより雑念が消えスイングは鋭くなっていた。
「さぁ、こい……ぜってえ打ってやる」
「……凄い、プレッシャーだな」
どこまでも粘り強く戦う相手に、プレッシャーを感じながらも腕はしっかりと振り切る。ストライクゾーン内の球でも簡単には打たせず、打球をフェアにすることを許さない。フルカウントになってからも10球以上2人の戦いは続いた。
そして、運命の21球目……インコースに今日一番のストレートが放たれる。打者は腕を畳んでスイングを合わせ振り抜いたが、ボールは芯を外れバットの根元に当たった。高く打ち上がった打球は風に乗ってセンター方向に飛んでいき、追っていたセンターの長田が立ち止まった。
──本当に凄い強い人達だった。強豪の強豪たる所以をこれでもかと思い知らされた。
「それでも、勝つのはウチです」
落ちた打球が長田のグラブにすっぽりハマる。センターフライでスリーアウト……ゲームセット。
これにより、6ー7で慧峰高校の勝利が確定した。
「勝っ、た……?」
「四回戦、進出……!」
「終わりか……」
「ちゃんと、頑張ったんだけどなぁ……」
「負けちまいましたねぇ」
「慧峰高校……普通に強かったな」
「御影、整列だぞ」
「うん、大丈夫……ちょっと気が抜けただけ」
荒ぶる鼓動と呼吸を鎮め、晴真は皆より少し遅れて整列に並ぶ。互いの健闘を讃え、スタンドからは惜しみない拍手が贈られていた。
「これ……ウチのマネージャーと保護者の皆さんが折ってくれた千羽鶴です。どうか勝ち残った慧峰さんに託させてください」
「八千代の皆さんの想い……お預かりします」
沢滝が受け取った千羽鶴は、慧峰の選手達にはとてもつもなく重たく感じるもので。彼らの甲子園に懸ける想いや名門としての誇りが、この千枚に集約されているように感じられた。
敗北者達の無念をも背負い、勝者は最後まで勝ち続ける事を誓い次に進む。
甲子園までは、あと5つ。