2008年6月北海道新冠町、サラブレッド銀座と呼ばれる場所の一角にある中小牧場で雷雨が降りしきる空の下に1頭の仔馬が産まれようとしていた。
「ひいぃ!なんだってこんな日に限ってに雷雨になるんだよ!ああぁ落ち着けディアーチェ、よーしよしよし……」
「ケイはそのまま宥めていてくれ、よーし後一息だ…踏ん張れよっ……!」
大柄で小太りの男が言うとディアーチェと呼ばれた母馬の胎内から漸く脚先が見えて来る。緊張で強張っていた男の顔がほんの少しだが和らいだ。
「おっやっと出てきたな、血は……混じっていないか」
破水してから大分時間が経っていたため母体へのダメージが無いか心配していたが、特に出血等も無く男は一安心とばかりに息を吐きながら小屋から出るようとする。
「ふぅー……ケイ、すまんが飲み物を取って来るから少し見ててくr「矢郎さん!もう全身が出てきますよ!」
矢郎と呼ばれた男が母馬を見ると先ほど漸く脚が見えて来たかと思えばその勢いのままするするとあっさりと仔馬は胎内から外に出て来ていた。
さっきまで難産を覚悟していたがあっさりと産まれて来た仔馬を前に矢郎は少し呆けてしまった。
「……まぁ時間はかかったが無事に産まれてくれて良かった。どれお前さんは…女の子か」
「ディアーチェの2008は牝馬ですか、見た感じ問題は無さそうですね。後は立ってさえくれれば……」
母馬が産まれて来た我が娘を口先でつつき立たせようとするが一向に立とうとしない。数分経っても身じろぎしない仔馬を見て何か異常があるんじゃないかと
2人が顔を合わせ慌てて触診を始める…が
「「……寝てる?」」
胎内から出て来た事に気付いていないのか仔馬は小さく鼻息をたてすやすやと寝ているではないか、これには2人も初めての経験で面をくらってしまった。
「産まれた事に気付いて無い……のか?こんな馬初めてだぞ」
「でも死産じゃなくて良かったですね。改めて無事な事も分かったし矢郎さん少し休んで来たらどうですか?俺が見ておくんでもし何かあれば知らせますよ」
「すまんなケイ、それじゃあお言葉に甘えてちょっと休ませて貰うか」
緊張の糸が切れたと言わんばかりに矢郎の身体にどっと疲れが押し寄せて来る。まだ雨が止む様子も無く疲れた身体に力を入れ走り出そうとすると特大の雷が轟音と共に落ちて来る。
「うおっ!……でっかいのが落ちて来たなぁ。ケイ、ディアーチェは大丈夫か?」
「はい、少し驚いていますが暴れたりは…!や、矢郎さん!」
「ん?どうし……」
ケイの声に反応しディアーチェの方と向くと先程まで寝ていたはずの仔馬が立ち上がってるではないか、その額には稲妻のような流星が描かれているのが見える。
「いつの間に立って……さっきまで寝ていたはずなのに」
「ねえ見て下さいよこれ!この流星まるで雷みたいじゃないですか!まるで雷に導かれて産まれたような……凄いロマンチックじゃないですか?」
「はは……何時もなら笑い飛ばすところだが俺もそう感じずにはいられないな。何とも不思議な馬だ」
仔馬は少し周りを見渡すとまた座り眠り始めた、こうしてディアーチェの2008の出産は雷雨の中漸く終わろうとしていた。
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5月という遅い時期に産まれたディアーチェの2008は馬体こそ小さいものの特に異常も見つからず健やかに育っていき、同じ年に産まれた仔馬とも仲良く遊んだりしている。
そんな姿を見ながら牧場主の入早矢郎はとある人物を待っていると1台のタクシーが牧場前に着く。
「入早さん、お待たせしてすいませんでした」
「いえいえ大丈夫ですよ長夫さん、それでは行きましょうか」
タクシーから降りる長夫と呼ばれた男は入早に案内され牧場内の応接室へと入って行く。そこには今年産まれた仔馬の写真と血統等が書かれた資料が置いてある。
「繰り返しにはなりますがこの度はご愁傷様でした…もう道夫さんが所有していた競走馬の手続きはお済で?」
「ええ無事に、父の美内道夫が所有していた競走馬は全て私──美内長夫が引き継ぎました。母も親族も馬には興味が無いらしく父の会社の相続と共に全部押し付けられましたよ。
まあ昔から父と共に競馬場に行ったりしていて馬は好きなので逆に有難かったですけどね。」
「それは良かった、道夫さんには長年この牧場で産まれた馬をよく買って頂いていたもので本当にお世話になっていましたから……」
そのまま矢郎と長夫は道夫の思い出話に花を咲かせ──ふと矢郎がチラリと時計を見ると30分程経っていた。
「……と、すみません長夫さん。ついつい話し込んでしまいましたね」
「いえ私もつい……それでは本題に入りますか、この資料が今年産まれた仔馬のリストですか?」
資料には数十枚の紙と写真が纏められており長夫は1枚1枚に目を通す。
「そうです。長夫さんの最初の1頭になれる子がいるといいですね。」
長夫は父から引き継いだ馬は数頭いるがまだ自分で所有した事は無い。父の元で副社長として働き年収も資産もある。
そこで長夫は思い切って馬主資格を取り自分でも馬を買おうという事で、生前父が世話になっていた入早牧場まで出向いたのだ。
「シンボリクリスエス……ステイゴールド……キングカメハメハ……結構良い馬をつけたんですね」
「ここ数年いい感じに仔馬が売れていまして今年は思い切って勝負してみようかと、これでコケたら……ハハハ」
矢郎の苦笑いする姿を横目に資料に目を通していく、長夫はレースは見るもののパドックで馬の良し悪しが判るほど相馬眼がある訳ではない。
この子は可愛いな、この子は目がキリっとしているな、などぱっと見で分かる部分を頼りに資料を眺めていく。すると額に稲妻のような流星が走る1頭が目に留まる。
「入早さん、この青鹿毛の子は?」
「ああディアーチェの2008ですか、父はハーツクライで母父はマイシンザンの珍しい血統の子ですよ。」
「マイシンザンというとあのシンザンの?」
「そうです。シンザン、ミホシンザンと来てマイシンザンですね。マイシンザンの産駒ってたった21頭しかいないんですよ」
長夫は矢郎の説明を聞き流しながら写真の青鹿毛の仔馬を見る、まるで宝石を見つけたかのようにすっかり釘付けになっていた。
5分程経っただろうか、長夫は勢いよく立ち上がると矢郎に話しかける。
「入早さん、この仔馬を見せて下さい」
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「あそこにいるのがディアーチェの2008ですよ」
矢郎が指を差す場所には母馬と共に横になって寝ている青鹿毛の仔馬が居た。母子共に穏やかそうな顔つきで寝息を立てている。
「まだ産まれて2ヵ月ですが何時もディアーチェにべったりで…他の仔馬と遊ぶ時も一番後ろを引っ付いて行くような甘えん坊というか穏やかというか。」
「写真では分かりづらかったですが……小さいですね」
「そうなんですよ、遅生まれが影響しているのか分かりませんがあまり大きくならなくて。」
2人が話しているとディアーチェの2008が目を覚ましキョロキョロと周りを見渡す。そしてこちらに気付きトコトコと歩いてきた。
「おぉ……い、入早さん、触ってもいいです?」
「どうぞどうぞ、大人しいですから大丈夫ですよ」
そう言われて長夫が首を撫でると仔馬が気持ちよさそうに目を細める。そして腕に向かって頬ずりをし始めた。
「どうやら気に入られたみたいですね、ケイ──うちのスタッフですらここまで懐いたりする事は無かったですよ」
長夫は無言のまま仔馬と触れ合う。撫でたり匂いを嗅がれたり一緒に歩いたりしながら数分が経過した。そして矢郎に元に戻り勢いよく両手を取る。
「入早さん……この子、買います。幾らでも買います」
どうやらイチコロだったらしく長夫は入早の両手を取り勢いのままに発言した。
「……ありがとうございます、それでは詳しい話は応接室で──」
「もうちょっとだけ……もうちょっとだけ触っていてもいいですか?」
「え、ええ。もちろんです。」
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たっぷりと触れ合った後に応接室へと戻り購入についての話になる。矢郎から提示された金額は思ったよりも安いものであった。
「2000万……ですか?」
「そうです、本当はもう少し値段を付ける所ですが……まず遅生まれの影響か馬体が小さいです。恐らく成長しきっても平均体重には行かないでしょう。
それとディアーチェの産駒はあまり勝てておらず……過去の傾向からするとこの子も1勝出来るか出来ないかかもしれません。」
「……分かりました、正直に話してくれてありがとうございます。それを踏まえたうえで改めて購入させて頂きたいです。」
「ありがとうございます。まだ当歳ですのでデビューは早くても2年後の今頃になるでしょう、それまで道夫さんが遺した馬を見ながらお待ち頂ければと思います。」
そう言うと矢郎は立ち上がり契約書を取りに退室する。長年副社長として働き資産も中々にある長夫から見ても2000万という買い物は決して安くは無い。
だが長夫は高揚感と幸福感に満たされていた。
「初めての俺の馬……せめて1勝でも出来れば万々歳、か。」
運命の出会いとはよく言ったものだと思う、まさか初めて気になった女性が人間ではなく馬になろうとは思いもしなかったが。
何にしても惚れたもの負けだ、もし勝てずに引退しても自分が引き取ろう。いや最近はアニマルセラピーが流行っているから会社で見るのも…など気ばっか逸ってどんどん想像ばかり膨らんでいく。
「あ、そうだ名前……入早さんもディアーチェの2008としか呼んでいなかったから牧場内で呼ばれてる名前も無いのか。」
「そういえば額に大きな流星があったな、まるで雷みたいな…」
そう言うとカバンからケータイを取り出し海外での雷や稲妻の呼び名を調べる。
「ライトニング、ブリッツ、エクレール…うーんどれもしっくり来ないな。お、古語もあるのか」
「レヴィン……か、ちょっと女の子らしさが無いか?ちょっと砕けさせて…」
長夫がうんうん唸っていると廊下の方から足音と共に矢郎が帰って来る。
「長夫さんお待たせしました。こちらの書類にサインを…ってケータイを見ながら頭を抱えてどうしたんですか?」
「あの子の名前を考えていたんです、特に幼名等で呼ばれている様子も無かったので早いところ名前でも付けてあげたいなと。
額の流星から雷や稲妻を連想される名前を付けたくてちょっと調べていまして。」
矢郎も一緒になってケータイをのぞき込む。
「なるほど……ん、レヴィンですか」
「古語で稲妻の意味らしいんです、シンザンの血を引く馬なら古語もいいんじゃないかと思いまして。だけどちょっとしっくり来なくて…」
「あー……レヴィン、レヴィンレヴィン……」
唸る人間が2人に増え数分経ち長夫がはっと顔を上げる。
「レヴィ……レヴィなんてどうですか?レディと似た雰囲気で女性感もあり元の言葉からも大きく崩れていない…レヴィ!レヴィで行きましょう!」
「レヴィですか……うん、いいですね。いい名前だ。これからはレヴィと呼ばせて貰います。」
ひと段落つくと長夫は1人で先走っているのが急に恥ずかしくなりそそくさと書類にサインをすると逃げるように牧場を後にする。
「今日は色々とありがとうございました。なんか自分ばかり舞い上がってしまってすみませんでした……」
「お気になさらず、初めて馬を買う方は意外とあんなものですよ。また今度入厩される厩舎等について話しましょう、それまでレヴィは大事に育てさせて頂きます。」
「よろしくお願いします、それではまた。」
足早に牧場から出ると後ろで矢郎がタクシーを呼ばなくていいのかと声をかけて来るが長夫の耳には入って来ない。段々と歩くスピードが上がり遂には走り始めていた。
「俺の、馬……俺の馬!」
父も初めて馬を買った時はこんな気分だったのだろうかと思いを巡らせながら走り続ける、まるで初めておもちゃを買って貰った子供のように。
──しかし数分後には息も上がり足取りも重くなり道端でタクシーを呼ぶ長夫の姿があった。
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THE LEGEND
2012年11月 アメリカ Breeders' Cup Turf
同じ年に産まれた2頭の三冠馬
凱旋門に我らが旗を突き立てた暴君に呼応するかのように彼女は駆ける
ターフに奔る稲妻 恐怖すら覚える速度で全てを置き去りにする脚音が迫る
「来た来た来た!2頭の日本馬が併せ馬で上がって来る!」
「最強の戦士の末裔が世界を獲るぞ!」
─レヴィ─
小さな身体に秘めたるパワーは遂に世界を呑みこむ
あの日 世界の中心は日本だった