寒い。
心臓はこんなにも熱いのに、悪寒が俺の体を撫でる。
今にも錆びつきそうな鉄の匂いがする。
鼻が曲がりそうな程に強く、濃く香っている。
耳を劈くサイレンの音が聞こえる。
大きな音なのに、妙に意識に入ってこない。
泥の味がする。
口の中にいつまでも残っている。
その寒さも、匂いも、音も、味も。
いつどうやって知ったのかは分からないが、しかし確かに覚えている。
嫌だ。
思い出したくない。
しかし、俺の身体が、思考が、鼓動が、心が、忘れることを許さない。
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
……嫌だ。
いつまでも過去から目を背けることは出来ない。
いつかこの記憶と向き合う時が来るだろう。
だが、それは今じゃなくていい。
……そう言って、いつまで逃げるつもりだ?
* * *
「!」
体がビクッっと跳ねて目が覚める。
上体を起こして、辺りを見渡す。
ちょっとした家具と大きめのベッドしかないこの宿の一室。
最近は毎日ここで眠っていた。
隣を見ると、サチが眠っている。
サチと話したあの日から、毎日一緒に寝ている。
と言っても、何も特別なことは無い。
恐怖で寝むれないサチを、確証もない言葉で安心させて寝かしつけているだけだ。
「……はぁ」
ため息がこぼれる。
また悪夢を見てしまった。
昔から俺に付きまとう忌々しい悪夢だ。
いつも暗闇の中同じ温度で、同じ匂いで、同じ音で、同じ味。
そして同じことを自問自答させられる。
延々と、繰り返し。
悪夢は体感で数時間続き、そして眠りが浅いうちに目が覚める。
「……」
両手を見る。
歪に曲がった獣じみた指が、悪夢と同じようにわざわざ仮想世界にまで着いてきた。
あの悪夢は、きっと俺の記憶に関係しているのだろう。
しかし、なんの記憶なのかは思い出せない。
俺は十歳頃に事故に遭ったらしい。
そしてその事故で俺は大怪我を負い、家族と、そして記憶を失った。
当初はよく悪夢を見ていたが、今の家族に迎え入れてもらい、料理を教わったり、空手を教わったりしているうちに悪夢を見る頻度は減って行った。
三年も経てば、ほとんど見なくなっていた。
それなのに、この世界に来て、再びあの悪夢は現れた。
週に一度見るようになり、黒猫団に入ってからは三日に一度見るようになり、サチと眠るようになってからは毎日見るようになった。
これのせいでここ最近は、レベル上げにも行っていないのに前より疲れが溜まっている。
いくら動かすのが仮想の肉体でも眠らなければ脳は疲れるし、精神も摩耗していく。
早いうちに何とかしなければ攻略に支障が出てくるだろう。
「どうかしたの?」
サチが目を覚まし、眠たそうな声で囁く。
「悪い、起こしちゃったか」
俺がそう言うと、サチはゆっくり首を横に振る。
「そうか。俺もちょっと夢を見ただけだ。もう少し寝ててもいいぞ」
「うん……」
サチが瞼を閉じ、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
俺はゆっくりベッドから降り、掛け布団を整えて部屋を出る。
外はまだ月が光を失っておらず、朝になるまで時間がかかるが、さほど長くはないだろう。
せっかくなので、俺はこの一時の夜を楽しむことにした。
人の少ない静かな街の中を散歩していると、気分が少し良くなってきた。
そろそろ戻ろうかと思っていると、後ろから名前を呼ばれた。
「よっ! 何してるんだ? こんな早くに」
声の主は、黒猫団リーダーのケイタだった。
「お前こそどうした」
「たまたま早起き出来たから、ちょっと夜の散歩にでも行こうかと思って」
「俺もそんなところだな」
談笑を続けながら、二人で街を歩く。
最近あったこと、現実であったことをひとしきり話し、話題が尽きてきた頃、ケイタは突然神妙な表情になって俺に話しかけてきた。
「なぁ、こんなこと聞くの失礼だと思うんだけど……いいか?」
「いいか、って……何の話か分からないからなんとも言えないよ。別にいいけど」
ケイタは脚を止めて深呼吸をし、まっすぐ俺の目を見てきた。
その様子に、若干の緊張が走る。
「ヨルの本名は……
「!」
心臓が跳ねる。
その名前は、確かに俺の本名だった。
適当に言って当てられる名前じゃない。
自分の名前が珍しいものだということくらいはわかっている。
現実の俺を知っていなければ、まずわかるはずがない。
「……どうして知ってる?」
意図せず、低い威圧的な声が出てしまった。
俺はケイタを知らない。
顔は覚える方だと自負しているが。
「昔地元が一緒だったんだ。覚えてない……というか、そもそもこっちが一方的に知ってるだけで面識もないんだけど。ほら、珍しい名前してるだろ? だから覚えてたんだ」
「あぁ、なるほど」
それならばケイタが俺の名前を知ってるのも、俺がケイタを知らないのも納得はできる。
ケイタの口ぶりからして俺が事故に遭い引っ越す前の話だろう。
どこかで見た顔がどこかで聞いた名前と合致して気になって質問した。というところだろう。
(本当にそうか?)
次から次へと湧いてくる疑問点を飲み込んで、そういうことだと無理やり納得した。
本当は直接聞くべきなのだろう。
しかし、それを聞いたら俺と黒猫団との間に溝ができてしまうような気がして、俺は何も言えなかった。
* * *
「今日は休みだから、みんな自由に過ごすように」
ケイタが、黒猫団のみんなにそう言った。
丸一日休みを取り、一人で居る時間を作ろうという話は、少し前から出ていた。
それが今日。
パーティー全体で休み、遊ぶことは何度かあったが、完全に一人で休める日は今まで無かった。
おそらく、サチの一件がケイタの考えを変えたのだろう。
自由にできる時間ができる時間ができるというのは大きい。
とはいえ、俺は特にやることも無いので、最近会えていないジン達の所に顔を出そうかと考えていた。
「ねぇ、ヨル」
「ん?」
解散し、一人で歩いているとサチが声をかけてきた。
「その、ヨルが良かったらでいいんだけど、今日……、えっと……、一緒に居ない?」
「あぁ、いいぞ」
ジン達と会うのは別にいつでも出来る。
今日会わなくてもなんら問題はないだろう。
「ほんと? よかった」
胸を撫で下ろすサチに、俺は不思議に思って聞いてみた。
「というか、サチはいいのか? せっかくの休日に俺と一緒で」
「うん、ヨルと一緒がいいな」
「……そうか」
その返答に、少しだけ嬉しくなった。
なぜ嬉しかったのかはよく分からないが、少し懐かしい匂いがした気がした。
「それじゃあ、行こっか」
「あぁ、どこでも付き合うぞ」
そうして俺は、サチと一緒に色んな所を回り、色んな話をした。
歩いて、二人で話して、歩いて、美味しいものを食べて、歩いて、ちょっとだけフィールドに出て、歩いて、少しだけ現実の話をして、歩いて、そして買い物をしている。
武器や防具、アクセサリーや普通の服、色んなものを見て悩んだ。
「ねぇ、これどう?」
サチが不意にそんなことを聞いてきた。
「どれどれ」
サチの指差す物を見てみると、それは可愛らしい服だった。
戦闘にはなんの役にも立たないただの可憐な服。
だからこそ、今はとても魅力的に見えた
「うん、サチに似合うと思うぞ」
「ほんと? じゃあ買っちゃおうかな」
「これおいくら?」
払おうとする俺をサチが手で止めた。
「大丈夫、自分で買うから」
「……そうか」
お金は大量に余ってるので遠慮しなくてもいいのだが、そういう問題でもないらしい。
しかし、一度出した財布を下げるのも何となく後味が悪いので、俺は店内を見渡して何かないかと探してみた。
そして、一つの商品が目に付いた。
「似合ってるかな……」
早速買った服に着替え、不安そうに自身の体を見るサチを安心させる。
「大丈夫、ちゃんと似合ってるよ。あとこれ、プレゼント」
そう言って、俺はさっきこっそり買った帽子をサチの頭に被せた。
「大丈夫って言ったのに」
そう言いつつも、サチの表情は嬉しそうだった。
その顔を見て、俺の心臓が熱くなった。
対照的に冷たい空気が、俺の体を包む。
空を見ると、日が落ちかけていた。
「寒くなってきたな。そろそろ帰──」
振り返る。
サチが居ない。
「……サチ?」
今にも錆びつきそうな鉄の匂いがする。
鼻が曲がりそうな程に強く、濃く香っている。
耳を劈くサイレンの音が聞こえる。
大きな音なのに、妙に意識に入ってこない。
泥の味がする。
変わらず、口の中にいつまでも残っている。
どうだ? そろそろ思い出せそうか?
* * *
「ハッ! ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」
呼吸を求める自身の喘ぎで目が覚める。
背に凍った地面が並んでいる。
どうやら、悪い夢を見ていたようだ。