やがて英雄へと導く魔法使い   作:NJR

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第三章   英雄になっちまった!(2)

 翌日。

「さて!蜘蛛捕りに行くか!」

 爽やかな忠告無視宣言である。

 気持ちのいい晴れ空の下、準備を整えたエクスは昨日訪れた森へ意気揚々と向かう。その足取りは随分と軽い。なぜなら、

「魔法の糸で編んだ布かあ……いくらになるかな」

 頭の中でそんなことを考えているからだ。いや待てよ、わざわざ編まなくてもそのまま魔法の糸として売れば手間も省けていいのでは、と一人でブツブツ呟く姿をアルスが見たら怒鳴りつけるところだろう。だが彼を止める魔法使いはここにはいない。

「昨日師匠からきちんと対策を聞いたことだし、バッチリだな」

 昨日あの後、昼ご飯をご馳走になるついでに色々とアルスに質問をしておいたのだ。途中怪しまれたためメクイグモ以外にもいくつか質問をして、その度にアルスは丁寧に分かりやすく説明してくれた。

 そしてあれこれと話を聞いたエクスは、それを元に対策を立てれば問題なさそうだと思ってしまったのだ。時に中途半端な知識はかえって危険を招くものであるといういい例だ。

「とりあえず捕まえた蜘蛛を入れる用の篭と木槌を用意したし、あとは自分が襲われないように気をつければよし、と」

 魔法使い曰く、メクイグモは目玉模様の蜘蛛で、普段は木に潜んでいて獲物が近くに来ると枝や葉っぱから飛び跳ねて獲物の体に取り付き、こっそり糸を体に巻きつける。そして糸が固まって獲物が身動きがとれなくなったらいよいよ襲いかかるのだそうだ。だから僅かな刺激でも気をつけなければならない、と言っていた。

「つまり少しの刺激でも気付くように気をつけながら、体を動かしまくればいいことじゃん」

 うん、と一人で分かったかのように頷く。ちなみに体を動かしまくるというのは、メクイグモの糸は固まるまでは普通の蜘蛛の糸と変わらないため、万が一気がつかないうちに糸を巻かれていてもこまめに体を動かしておけば、固まる前にちぎれると教わったためである……実際はそんなに体を動かせば蜘蛛が飛び移ってきても気づきにくくなったりとそんなに甘くないだろうが、エクスはそういったことに思い至らない。

「やっぱり魔法使いってのは色々知ってんだなぁ。『便利なトロール』の話も面白かったし。少なくとも俺だけじゃ化物蜘蛛を捕まえるなんて無理だし」

 弟子入りして良かったとエクスは一人頷く。魔法使いではない自分でも魔法使いの知識があればきっと上手くいくし、他にも色々なことができるようになるのだろう。

 子供じみた期待を胸に、ただ目の前だけを見て歩く。その目には眼前の道が映るばかりで足元の石や木の根、ぬかるみなどは目に入らない。

 いっそ無責任なほど暖かな日差しの下しばらく歩くと、

「到着っと!さてさて、それじゃ……」

 奇妙な形の岩を通り過ぎ、森にたどり着いたエクスはさっそく近くの木を調べ始める。

 蜘蛛が飛び跳ねてきてもすぐに気づけるように神経を張り巡らしながら、グルリと木の表面を丹念に見て回る。

「…………」

 真剣な表情で上から下まで何か妙なところはないか、どこかに少しでも動くものはないかゆっくりと探す。だが、

「うーん……見つからないなあ……」

 たっぷりと時間をかけて木の周りを一周したがそれらしい蜘蛛が見つからない。所々で蟻がちょこまかと走り回っていたぐらいだ。

「ま、他の木も見てみるか」

 まだ一本目なのだし、とエクスは気を取り直して森の奥へ歩いていく。

 あまり深くまで入るつもりはないが、あまりに森の端っこすぎると見つかりにくいかもしれない。そう考え、行き過ぎない程度まで踏み入ることにする。

 一応辺りを警戒しながら進んでいると、なんとなくだが昨日と違う雰囲気を感じ始めた。

「なんかちょっと薄暗いな……」

 昨日も来た森だが、一人だとなんだか少し不気味に感じられる。日の光は少ないし、生えている草木は村に生えているような明るい黄緑ではなく暗い緑色だ。足元にはなんだか薄気味の悪い茸がポツポツと顔を出している。

 昨日はたいして気にならなかったのに、と考えていると、突然ギャアギャアと頭上でカラスが喚き出し、驚いたエクスは思わず転びかける。

「うわっ……とと!」

 なんとか転ばず踏みとどまったエクスは、カラスを睨みつけたあとなんとなくキョロキョロと辺りを見回す。そしてゆっくり立ち上がり、あまり奥まで行かずとっとと見つけて帰ろう、と早足で歩き出す。

 どこか心許ない感覚を無視してある程度歩くと、ほかの木よりも何倍も大きい大木を見つけた。ざっと比べてみても他の木の倍はある。

「おぉ……でかいなあ。この木ならいるんじゃないか?」

 なんという種類の木なのだろうか、木の肌はゴツゴツとしていていかにも固そうな皮が何層にも重なっている。上を見上げれば巨人が腕を広げたかのように大きく枝を伸ばし、深緑色の尖った葉っぱを茂らせている。

 やはりこの木ならいそうだ、と考えたエクスは木に近づいてじっくりと蜘蛛を探す。だが、

「いや、ここにもいねえし……」

 一通り大木を調べてみたものの、蜘蛛どころか虫の一匹も見つからない。

 はあ、とため息をついたエクスはググッと伸びをする。そして上を見上げ、もしや枝にいるのではないかと思いつく。

 だとしたら木に登って探さなければいけないのでは、と考え始めたところでふと、

「そういえば皮が重なってる木ってその隙間に虫が入り込むんじゃなかったっけ」

 たしか冬になると虫たちがそうやって寒さを凌いでいた気がする。冬に木の皮をめくれば何十匹もの虫が身を寄せ合っているものだ。今は冬ではないが、『隠れる』なら木の皮の隙間もありえそうだ。

「ふむ……」

 試しに木の皮を一枚めくってみることにする。鱗のようになっている皮の一枚に指を引っ掛け、そのままバキベキと音を立てながら皮を剥ぐ。

 一枚目では何もいなかった。諦めずにそのまま二枚目、三枚目とその部分だけ穴を掘るように剥いで行くと四枚目で、

「うわわっ!ちょっ、え、何これコイツ!?これ?これがメクイグモ!?うっわキッショ、コイツら!」

 そこには十匹ほどの奇妙な蜘蛛がウゾウゾと蠢いていた。

 大きさは大きいもので親指くらい、小さいものはそれの半分よりすこし大きいものでくらいか。一番前の脚が妙に長く、腕のように持ち上げて残りの六本足だけでちょろちょろと這い回っている。

 だが一番の特徴はその腹部だろう。

「目だ……」

 そう。真っ白な腹、その真ん中にある丸い黒模様。

 その蜘蛛はまるで目玉に蜘蛛の頭と手足が生えたかのような見た目をしていた。

「……とりあえずこいつら捕まえてとっとと帰ればいいか」

 その外見に思わず腰が引きかけたエクスはそれでも蜘蛛を捕まえようと手を伸ばす。

 糸を吐かれないように慎重に、しかし素早く蜘蛛たちを籠の中に放り込む。一匹一匹捕まえていては先に捕まえた蜘蛛が逃げ出してしまうので、エクスは蓋を開けた籠を木に密着させてその中にこそげ落とすようにいっぺんに落としていく。

「よしっ!これであとは帰るだけだ!」

 蜘蛛を全部籠の中に落とし終えると、中でカサカサと動き回る蜘蛛が逃げないように急いで蓋を閉じる。ついでに念のため紐で縛っておこうと籠を地面に下ろそうとすると、

「ん……?あれ、まだいるのか」

 視界の端で何か動いたような気がして目を向けると、さらに十匹くらいの蜘蛛が木の表面を走り回っていた。今度は人差し指くらいのサイズの奴もいる。

 そもそも魔法の布のためにどれくらい捕まえればいいのか考えていなかったエクスは、せっかくだしこいつらも捕まえてから帰ろうと籠を構える。

 すでに捕まえた蜘蛛が逃げ出さないように気をつけながら籠を構え、さっきと同じように籠の中に蜘蛛を落としていく。

 そうして一通り蜘蛛を捕まえ、さあ帰ろう、と顔を上げると、

「って、まだいるし。っていうかさっきはいなかったのに、どっから出てきてるんだ?」

 いったいどこから湧いて出たのか、最初は全然見つからなかった蜘蛛たちがあちこちでちょこまかと走り回っている。

 その様子を見て少し考えたエクスは、籠の容量的にさすがにこれ以上捕まえるのは厳しそうだと判断し、帰る事にする。

 改めて蓋が開かないように紐をしっかりと結び、顔を上げる。

「さて、それじゃそろそろ……ってあれ?」

 なんだか蜘蛛の数がだんだんと増えている気がする。この数十秒で倍の数になっているような……

「って、おいおいおいおい……!」

 そうこうしているうちにその数はどんどん増している。いや増しているどころではない。木のあちこちの隙間からたくさんの蜘蛛が這い出てくる。

 ゾゾゾゾゾゾゾゾゾ!!とまるで大木そのものから染み出してくるような大量の蜘蛛、蜘蛛!蜘蛛!!

「えっ……と……」

 大木を覆い尽くすほどの蜘蛛の群れ。そしてそれに比例した大量の目玉。その目玉全てがギョロリ!とエクスを睨みつけたような気がした。

「……やば」

 静かに、そろり、そろり……とその場を離れようとする。だが、

 ザザザザザザザザザ!!

「ちょっ!?」

 二歩三歩とエクスが動き始めた途端、到底蜘蛛とは思えない音を立てながら無数の目玉がエクスに迫ってきた。

「いやいやいや!やばいやばいやばい!」

 慌ててエクスも踵を返し、全力で走り出す。

「来てる来てる来てる!やばいって!これはガチでマズイって!」

 背中に迫る蜘蛛たちの足音がとにかくエクスを急き立てる。

 木を避け草を踏みつけ、全速力でただひたすら走り続ける。途中よく分からない茸を踏み潰し、足が滑って危うく転びかける。思わず変な声が出そうになるがギリギリで持ちこたえ、なんとかそのまま走り続ける。

 聞きたくもないのに、ザザザザゾゾゾゾ!と不気味な音がぴったりと後ろを追いかけてくる。ちらりと後ろに目を向ければ、無数の目玉模様の絨毯が延々と自分に向かって広がってくるようだ。

「くっそ……これどうすりゃいいんだ……!?」

 音を聞く限り、今のところ速さは同じくらいのため追いつかれることはないだろう。だがどこまで追いかけてくるのか分からない。このまま村まで追いかけてきたらとんでもないことになるのは分かりきってるし、それ以前にこちらは全力疾走なのだ。村云々の前に体力切れになる可能性も高い。

「……そうだ!川!」

 パッと脳裏に、アルスと行った川がアイデアとなって閃く。

 たしか深いところで腰くらいは深さがあったはずだ。あの川を渡れば奴らは追ってはこれまい。

 なにせ所詮は蜘蛛、しかも数がやたらと多いだけで一体一体はさほどの大きさではない。恐らく流れる水は渡れないだろう。

 不安なのはあの髭蛙だが、アルスの話を思い出す限りそう何匹もいるものではないはずだ。なによりあの蛙よりいまは後ろの蜘蛛の方が危険だ。

「つっても……どの方向だ……?」

 走りながらエクスは頭の中に必死に地図を描こうとするが、なかなか上手くいかない。

 思い返してみれば川にはアルスのあとに着いていっただけだし、なにより森の中を走るうちに歩いてきた方向を見失いつつある。木を避けたり、咄嗟に走りやすい所を走っているうちに、なんとなく方向がズレ始めた気がする。一応もと来た方へ向かっているはずだが……

「いや、大丈夫だ。自分を信じろ、こっちで合ってるはずだ……多分」

 ハッ、ハッ、と息を荒げながら自分の勘を信じろと自らに言い聞かせる。

 とりあえず道がうろ覚えながらも川に向かうには森を出なくてはいけない。半分は勘だがこの方向に走っていれば森は抜けられる。不安なのは体力が持つかどうかだが、そこはもう根性で頑張るしかない。

 必死になって走るエクスの額を汗が流れる。いや、額だけではなく全身が汗でびっしょりとしていた。

 そしてそれは全力で疾走するエクスの後ろに自然と振りまかれる形となる。

「……?」

 ふと、後ろから聞こえていた蜘蛛たちの音が聞こえなくなっていることにエクスは気づいた。

「なんだ……?って、あれ?」

 走りながら後ろを振り返ってみると、いつの間にか蜘蛛たちは追いかけるのを止めていた。

 さらに遠くへ目を向けると、離れたところでたくさんの目玉模様がウゾウゾと蠢いているが、追いかけてくる様子はない。

「……諦めたのか?」

 思わず足を止めたエクスは不気味に蠢く目玉達を睨みつけながら呟く。

 しかしすぐにいや、と首を振り、その判断を下すのは早計だと思い直す。本当に諦めたのかなんて分からないし、ひょっとしたら蜘蛛よりやばい何かがあるのかもしれない。

 息を整えながら警戒したように辺りを見回す。

「…………」

 だがとくに異常は見当たらない。ふう……と一つ息を零す。

 ひとまずは何もなさそうだがいつまたあの蜘蛛たちが襲いかかってくるか分からない。

 出来る限り急いで森から出たほうが良さそうだと考え、エクスは再び走り出した。

 

 

 

「あー、やばかったぁ……」

 走りに走って森から出たあたりでエクスは足を止め、ようやく安堵の息を吐いた。結局あれから追いかけてくる気配はなかったが、少なくとも森を出るまでは安心できないと足を止めることはできなかった。

 エクスはその場に座り込みしばらく息を整えると鬱蒼と茂る森を振り返り、

「……ふっ、くく……ははははははははははは!」

 思わずといった様子で腹を抱えて笑いだした。

「はは……やっば、なんだあれ。数多すぎ、くく、ってかやばすぎるだろあの群れ!ふふっ、あれがメクイグモかぁ。あー、そりゃ師匠も警戒するわ、あんなんじゃ。マジでやばかったぁホント」

 安堵からかやばい、やばいと言いながらひとしきり笑った後、改めてエクスはグルリと周りを見渡す。

 森に入った場所とは違う。だがある程度離れた右の方に見覚えのある奇妙な形の岩がある。どうやら道は多少ズレていたものの、そこまで大きくズレていたわけではないようだ。勘の鋭さによるものだろうか。

 とりあえずまだ流れる顔の汗をグイと適当に拭いたエクスは村の方向へと歩いていく。顔だけでなく全身が汗でびしょ濡れでどうにも気持ち悪いが、そちらは今はどうしようもない。

 村に戻ったらまず真っ先に着替えようと歩きながら考える。ついでに水浴びもしておこう。これだけ汗をかいたら着替えるだけでは不十分だ。

「ま、そのぶんの収穫もあったし。結果としては成功ってことで!」

 そう大きく頷くとエクスは腰の籠を目の前に掲げる。その中からはゴソゴソ、カサカサという音が聞こえてくる。さっきのことを考えれば少し不安になるが、きちんと紐で縛ってあるので大丈夫だろうと不安を振り払う。

 さて、と籠を腰に提げ直し村への道を歩く。

 村に戻ったらまずは着替えと水浴び、それから師匠の所へ行っていよいよ魔法の糸を作ってもらおう。そう、魔法の糸だ。いったいどんな感じなのだろう。時間がかかるという話だったがどれくらいかかるのか。

 さらに今日の冒険を自慢してやろう。うん、今日のこれは冒険だ。もちろん御伽噺や詩人が唄う英雄譚のようなすごい冒険ではないが、魔法の糸を求めて人の立ち入らぬ森へ入り、怪物の群れに襲われながらも宝(を吐き出す蜘蛛)を手に入れ無事に帰還したのだ。これは充分冒険と呼んでもいいだろう。

 はてさてあの小さな魔法使いはどんな反応をするだろうか。

 そう考えると足取りの軽くなったエクスは小走りで村に戻るのだった。

 

 

 

「って留守かい!」

 魔法使いの家の前で叫ぶ若者が一人。傍から見ればただの不審者だ。

 あれから村に戻り大急ぎで(しかしきちんと)着替えと水浴びを済ませたエクスは早速アルスのもとへ訪れたのだが、肝心のアルスがいくら扉を叩こうが鐘を鳴らそうが出てこない。どうやら留守にしているようだ。

「このタイミングで留守とか……いやまあ、でもしょうがないか、師匠だし」

 肩透かしをくらいがっくりと肩を落としたエクスはブツブツとなんか失礼なことを呟く。彼に(自称)弟子の自覚はあるのだろうか。

 とはいえ留守なのは仕方ない。

 はあ、とがっかりしたため息をついたエクスは、さてどうしようかと考える。

 ここで待っていてみようか。しかしアルスがどこに行ったのかは分からないため何時頃帰ってくるか予想できない。かといって別の日に出直すのはないだろう。あの大群に比べたら全然少ないとはいえ、家にメクイグモを置いておく気にはなれない。

「うーん……よし!探しに行くか!」

 どうせ小さな村だ、たいした手間ではない。

 エクスはそう考えとりあえず村を回ってアルスを探すことにした。ちなみに川や森など村の外にいった可能性もあるため、見つからなかったら素直にアルスの家の前で待つことにする。 

 エクスは両手を上に伸ばし大きく伸びをすると、さっそく意気揚々と歩き出した。

 その腰に下げた籠の紐が、いつの間にか緩んでいることに気づかずに。

 

 

 

 そして村の中を一通り探した結果。

「いや見つかんねえし……どこ行ったんだあの人」

 まずは村を一周し、そのあとしらみつぶしに探してみたがアルスの姿は見つからなかった。ちなみに家に戻ってきた様子もない。

 再びアルスの家の間に戻ってきたエクスは困った顔で頭をポリポリと掻く。

 さて、どうしようか。このままもう一周探しに行くか、それともここで帰りを待つか。判断に迷うところだ。探して見つからないなら村人に尋ねるという方法も一瞬思い浮かんだが、昨日のことを考えるとそれは憚られた。

 しばらく考えた後、もう一度だけ探して見つからなかったら家の前で待つことにしようと考える。

 さて、とエクスはさっそく歩き出す。同じように探すのもつまらないし、さっきとは逆のルートで村の中を歩くことにする。

「ふんふん、ふーふふん、ふふふふふふふん……♪」

 アルスを探しながら村の中をブラブラと歩く。今日も快晴で爽やかな風が心地いい。風が草むらや木々の間で踊ると、それに応えるように草木がサワサワと柔らかく歌う。

 草木の合唱を聞き流しながら歩いているとふと足元に小石を見つけ、なんとなく蹴り飛ばしながら歩いてみる。えいっ、と軽く蹴るとカラコロと転がっては止まり、自分が追いつくとまた転がっていく。まるで先を歩いては立ち止まって自分が追いつくのを待っていてくれているようだ。

(幼い頃はよくこうして歩いたな)

 なんとなく懐かしい気分になりながら小石を蹴り歩く。そうしながら頭に浮かぶのはアルスと今日の冒険だ。

(んー……師匠にどんな風に自慢してやろうかな)

 やはり一番はあの大群だろう。必死に走って走って逃げ切った。だがそれをどういう風に語ろうか。しかもあの蜘蛛たちは何故か途中から追いかけてこなくなった。これでは運が良かっただけに聞こえる。それでは面白くない。それに語りどころが蜘蛛の大群から逃げるだけというのも物足りない気がする。

(あれ……?そう考えると今日の俺の冒険ってたいしたことないのかも……いやいや、そんなわけない。今日のあれは立派な冒険だった、うん……はずだ)

 つらつらとそんなことを考えていると小石を強く蹴りすぎたのか、思ったよりも遠くへ飛んでいってしまい、ガサガサと音を立てて草むらの中へ消えてしまった。無意識に唇を尖らせ草むらを覗き込んでみるが、先ほどの小石は見当たらなかった。

「まったくどこ行ったんだ……」

 なんだか急につまらなくなったエクスは、早くアルスを見つけようと少しだけ早足になる。風が草木を揺らすサワサワという音がヒソヒソとされているようで妙にうるさい。

 とはいえ行き先が分からない以上は見つかるかどうかは運任せのようなものだ。

 辺りをキョロキョロと見渡してみるがやはりあの黒いフードは見当たらない。

 昨日メクイグモのことだけじゃなく予定も聞いておけばよかったな、とため息をつく。そうすれば少なくとも行き先だけは分かったのに。

 その後もブラブラと歩きながらアルスを探すが見つかる気配がない。

 はてさてこの分だと結局家の前で待ち続けることになりそうだな。

 そんなことを考えながらアルスを探していると、なにやら右腕と左の肘のあたりでモゾモゾと何かが動く気配を感じた。

「……?」

 蟻でも登ってきたかとエクスが目を向けると、驚くことに先程森で見たばかりの目玉が三匹程体をカサカサと這い回っていた。

「へ?……は、えっ!?ちょっ!?どっから湧いたコイツら!?」

 慌ててつい叩き落としそうになってしまうが寸前で思いとどまる。一匹でも村の中で逃がすのは多分マズイ。

「というかまさか……」

 もしや、と思い腰の籠を確認してみるとやはりというか、結んでいた紐が緩んで蓋が少しだけ開くようになってしまっていた。

「いや、開いてるし!くっそ!いつの間に緩んだんだよ!?」

 エクスは歯噛みするが今は早くなんとかしなければいけない。

 幸いというべきか、紐は緩んでいるものの完全に解けたわけではなかった。おかげで捕まえたなかでもとくに小さい三匹だけが籠から逃げ出したようだ。さらに緩んでいたり完全に解けていたらもっとたくさんの蜘蛛が逃げ出していただろう。

 とりあえず左腕を好き勝手に這い回っている一匹を捕まえ、中の蜘蛛が逃げ出さないように僅かな隙間を開けてさっと中に入れる。残るは同じように右腕を這い回っている一匹といつの間にか背中に移動している一匹だ。右腕の方は簡単に捕まえられたが、背中の方は手が届きにくいためなかなか捕まえられない。悪戦苦闘しながら捕まえようとしていると、回り込んで腹の方へと逃げてきたのをようやく捕まえる。

「あー……びっくりしたぁ……」

 捕まえた二匹を同じようにささっと籠に入れると、エクスは疲れたようにため息を吐いた。心なしか体も重くなった気がする。

「マジでいつの間に緩んだんだ……?ってか他にも逃げ出してないよな?」

 自分の言葉に不安になる。逃げ出さないように蓋を下にして地面に置いた籠に目を向ける。紐を結びなおす前に念のため確認しておいた方がいいだろう。

 エクスは軽く深呼吸をし、紐をゆっくりと解くと素早くさっと蓋を開け、素早く数える。間違っても全開にすることはせず、あくまで半開きだ。籠の中でカサカサと動く目玉模様は気色悪いが、今だけは数えやすくて助かる。

 そして蜘蛛が逃げ出す前に急いで蓋を閉める。すでに二匹ほどが出ようとしていたところをギリギリでなんとか脱走させずに蓋を閉じ、今度こそ逃げ出さないようにきつく紐を結びなおす。

「ふう……えっと、捕まえたのがたしか二十匹で籠の中にいたのも多分二十匹だったから……まあ、多分大丈夫だろう」

 覗いたのはほんの僅かな時間ではあったが、エクスの記憶違いや数え間違いでなければ籠の中の数と捕まえた数は同じだった。とりあえずは安心だ。

 ほっと一息ついたエクスは座り込んだまま疲れたように空を見上げた。ただぼんやりとどこまでも広く澄み渡る青色を眺める。

「…………」

 柔らかく降ってくる日差しがポカポカと暖かい。先程まで緊張と焦りで強張っていた体を優しく風が撫でてていく。

 薄く柔らかそうな雲がのんびりと泳ぐ青空を眺めていると、こうして座り込んでいる自分がなんだか疲れてへたりこんだ蟻のように思えてくる。

「………………行くか」

 はあ、ともう一つ息を吐くと、エクスはおもむろに立ち上がる。

 とりあえず歩き出す前に服についた土埃を払おうと思い、ズボンを叩こうとしたところで、

「……ん?」

 なんだか体が動かしづらい気がする。というよりどんどん動かせなくなっているような……

「え、あれ!?ちょっ、え、ちょっと待って!?動けないんだけど!?」

 騒いでる間にも体はどんどん動かせなくなっていく。体をねじってみたり全身に力を入れてみてもまったく効果がない。

 そしてついに上半身が首から上以外まったく動かせなくなってしまった。下半身はまだ膝から下がなんとか動かせるがこれではろくに歩くことすらできない。

「やばい……なんでこんな動けなく……」

 途中まで言いかけてハッと何かに気づいたエクスは数少ない自由になる部分である首を動かして自分の体を見てみる。すると肩のあたりから膝上のあたりまでなにかとても細いものが絡まっている…いや、縛られているのが見えた。

 これが何か、など考えるまでもない。メクイグモの糸だ。

「は……?え?いや、だってさっき全部捕まえたはずじゃ……」

 逃げ出したメクイグモはさっき全部捕まえたはずだ。数だってちゃんと確認した。やっぱり記憶に間違いがあったか、それとも数え間違えたか。もしや大群からは逃げ切ったものの何匹かは気づかないうちにこっそり付いて来ていたのか。しかし着替えて水浴びもしたのに気づかないなんてことがあるのか。

 ほんの一瞬の間にそこまで考えたところであることを思い出す。

「たしか……メクイグモの糸は固まるまで十分ぐらいかかるとか師匠が言ってたっけ……」

 ならばやはりさっきの三匹が犯人なのだろう。時間的にもぴったりだ。

 エクスはとりあえず自分の把握できていないメクイグモがいるわけではないと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。

 とはいえそれと動けないのは別の問題だ、胸を撫で下ろしている場合じゃない。

 エクスはどうにか抜け出せないか体を揺すったりあれこれ動かしてみる。

「くっそ…動けなくなりすぎじゃね!?」

 しかし当然ながら抜け出すどころか一ミリも糸が動く様子すらない。固くなるほかにも蜘蛛の糸らしく粘着性も備わっているのだろうか。

 そのまま五分、十分となんとか抜け出そうと頑張ってみるが結果は変わらず。

「……どうしよう、これ」

 なんだかジクジクしてきた気分とともにポツリと呟く。

 なんかもう放り出して寝っころがりたいような気分になってきたが、そうも言ってられない。なんとかしないとずっとこのままなのだ。

 エクスはなにか対処法はないかと魔法使いの話を思い出していると。

「……そうだ!そういや、たしか叩けば石みたいに割れたり砕けたりできたはずだ!」

 アルスが話していた対処法をようやく思い出す。

 焦りで思考が鈍くなっていたのだろうか、なぜもっと早く思い出さなかったのかとエクスは自分に内心で文句を言う。だがそれはそれとして、

「とにかくなんでもいいから割り方を考えないと……」

 だが具体的にどうするべきか。自分は動けないのに叩くなんてことが出来るわけない。なにかに体当たりしようにも動かせるのは膝から下だけで、ちょこちょことほんの僅かずつしか移動できない。そもそも近くに体当りできそうなものが何もない。離れたところに体当りしたらむしろ向こうが折れそうな細い木があるだけだ。

「……マズイな」 

 改めて自分の状況を分析してみればかなり打つ手の無い状況である。

 エクスの額を一筋の汗が伝う。一瞬、本当にこのままなのかと思ってしまうが、

(いやいや、諦めるな。一人でどうにかできないなら誰かに助けてもらえばいいだろ)

 動かせるのが膝から下だけでかなり制限がかかっているとはいえ、移動ができないわけではない。どこか人のいるところまで行ってその人に叩き割ってもらえばいい。

 こんなことにもすぐに思い至らないとは、とエクスは自分に呆れてしまう。焦りというか、少しパニクってしまっているのだろう。

 エクスは軽く頭を振ると、すぅー、はぁー、と深く深呼吸をして気を落ち着かせる。

「……よし!」

 方針が決まったのならすぐに行動するべきだ。エクスは一人頷くとさっそく歩き出そうとする。

 するとそこで急に後ろから声をかけられた。

「あれ?何やってんのエビセンパイ?」

「っ!」

 膝下しか動かせない足でちょこちょこと動いて後ろを振り返ると、少し離れたそこにはあれだけ探して見つからなかった探し人がいた。いったいどこへ行っていたのか、足元に泥が付いている。

 ふわり、と風がアルスを撫でて行き、それに合わせて美しい銀の髪がゆっくりと揺れる。

「師匠……」

 その黒いローブを着たいつもどおりの姿に先程までの焦燥がほっと溶けていく。

 思わず二秒、三秒と惚けてしまったエクスは、我に返ると慌てて大声でアルスを呼ぶ。

「師匠!ちょっとお願いしたいことがあるんですけど!」

「なにー?」

 つい今しがたまでどことなく訝しげにしていたアルスだったが、エクスがあまりにも切羽詰ったような声を上げたからだろう、エクスに呼ばれたアルスはトテトテと小走りでやってくる。

 そんなアルスにエクスはひどく真剣そうな様子で、

「殴ってください!」

 変態か。

「……え?」

 エクスの言葉を聞いた途端アルスはぴたりと止まり、そして一瞬何を言われたのか分からないという顔をする。それからだんだんと変質者を見るような顔になり、

「きもちわるいよせんぱい!!」

 ズザザザッ!とすごい勢いで後ずさりする。というか、後ずさってから普通に走って逃げた。

「いや!違う違う!そういう、そういう殴ってと違う、違うって!違う!違う!そういう、違う、変態思考的な殴ってくださいじゃないんだって!」

 慌ててエクスは弁明するがアルスは逃げる足を止めない。まあ当然である。

 ここで叩き割ってくれる人がいなくなるのは本格的にまずいと思ったエクスは、きちんと理由を説明しようとする。

「違うって!動けないから殴って欲しいんだって!違う、ごめんって!そういう意味じゃないって!」

 しかしアルスは聞こえているのかいないのか、離れたところの細い木に隠れて顔を半分だけ出してこっちを見ている。その目は明らかに変態を見る目だ。

 一方エクスは叩き割ってくれる人に逃げられるかもという思いからより一層必死になる。

「違、それはそっちの勘違いじゃねえか!」

 勘違いさせたのは誰だろうか。

 その必死そうな様子にアルスが隠れていた木の陰を離れ、エクスの方へおそるおそる戻ってきてくれた。ただし片手にそのへんで拾った木の枝を持ち、反対の手には『アルスの森』を構えながらジリジリと距離を詰める感じで。エクスはちょっぴり悲しくなった。

 なおも警戒心マックスのアルスにエクスは今度こそ冷静に状況を説明する。

「違うごめんって、違うそういうことじゃない……ごめんあのー、あれなんだ、体が動かないんで今ここで固定されて……」

「固定?」

「固定っていうかあのー……動けないんですよとにかく」

 何も問題なくメクイグモを渡すならともかく、今のこの状況でメクイグモのことを説明すれば怒られるだろうと考えたエクスは言葉を濁した説明をする。

 一方それまで敵に出会った野生動物のようだったアルスの顔に訝しげな色が浮かぶ。

「え……動けないから殴って欲しいの?」

「殴って欲しい……殴って欲しい!」

「意味が分からないよセンパイ!」

 再びアルスが距離をとり始める。彼は説明という概念を知らないのだろうか。

「いや違っ、違うってマジで!そうじゃないんだって!いやだから、殴ってくれれば動けるようになるんだよ。殴ってくれれば……」

「え、どういうこと……?」

 エクスの説明にハテナマークを浮かべるアルスだが、とりあえず言いたいことは伝わったようで、

「な、なんかよく分からないけど……まあ、それで何かが解決するんだったら……」

「お願いします!全力できてください!」

 おそるおそる、といった感じでアルスはエクスの目の前まで来るとグッと拳を握り、

「じゃ、じゃあ……オラァッ!」

 ゲシッ!

「ポギェッ!?」

 糸で固められていない顔を殴られた。

「えっと……これでいいの?」

「痛った……いや、違いますよ!体!胴体を殴って欲しいんだって!」

 殴られた顔をさすることもできずエクスは文句を言う。きちんと説明をしていないエクスに責任があるはずなのだがそんなことは気にせず、まったく……などと呟いている。

「ええぇ……もう、ワガママ言うなよポギェセンパイ」

「誰がポギェセンパイだ!」

 エビがポギェに進化した。

 エクスの抗議を軽く聞き流したアルスはやれやれとばかりに首を振る。変態を見るような目は止めてくれたが今度はなんだか面倒臭そうな顔をされている。

 エクスの方はなかなか拘束が解けない体を細かく揺すったり、小刻みに地面を蹴りつけたりし始める。どうやら二人でグダグダやっているうちに焦れてきたようだ。

「あーもー……どうすりゃいいんだよ……早く何とかして欲しいのに師匠がなんかアホだし……」

「お前の説明が悪いんだろぉ」

 自称弟子にアホ呼ばわりされたアルスはますます面倒くさそうな顔になる。

 だがそんな顔をしていても一応はまだ助けてくれるようで、アルスは改めて拳を握る。

「じゃあ、今度は腹パンすればいいの?」

「腹パ……えっと、まあそれじゃお願いします」

 腹を殴られるということに一瞬怯んだものの、腹部ならきちんと糸で固められている部分だ。今度こそこの戒めから解放されると考え、エクスは覚悟を決めて頷く。

「それじゃいくよー」

 アルスはエクスとは対照的に軽い感じで声をかけると、

「そぉい!」

「ゴブンっ!?」

 糸から外れてクリーンヒット。絶妙に糸と糸の隙間を縫って鳩尾にめり込む、いい拳である。

「どう?治った?」

「…………!」

 アルスの問いかけにエクスは答えられない。なにせ小柄で非力な少女とは言え、予測していなかった上に鳩尾である。エクスはどうにか頑張って呼吸を整えると、

「よ……よくもやってくれたな……師匠……」

「頼んできたのセンパイじゃん!?」

 まさに理不尽。

 だがエクスはアルスの抗議など聞いていない。拳が突き刺さったお腹を抑えてうずくまりたいが当然腹に手を当てることも、屈むこともできずにただ耐えるしかないのだ。

「おぐぅおうううぉぉ……」

 エクスは意味不明な呻き声を上げながら直立不動でプルプルする。

 そんな不気味な置物野郎に呆れた目を向け、

「まったく……どうすりゃ満足なんだよ」

 言われた通りにしたのにいったい何が不満なのか、アルスはますます面倒な気分になる。

 そもそも何故いきなり殴って欲しいなどとエクスが言いだしたのかそこから分からない。なにやら動けないだのと言っていたが……

 まさか新手のタカリじゃないだろうな、とアルスはエクスに不審そうな目を向ける。

「ん……?」

 そこでふとアルスはエクスの胸部のあたりで何かがキラリと光ったことに気がついた。よくよく見てみるとなにやら体にとても細いものが幾重にも絡みついているようだ。

「何これ……?」

 さらに二歩、三歩とエクスに近づき、顔を近づけじっくりと観察してみる。その細いものはエクスの体を上は肩のあたりから下は膝上までぎっちりと縛り上げている。

(紐……というよりは糸みたいだな、これ)

 これがエクスが動けなくなっている原因なのだろうか。とはいえエクスぐらいの体格なら簡単に引きちぎれそうではあるが……試しに触ってみると奇妙なまでに硬い。まるで石のようだ。試しに指先で叩いてみるとカンカンと硬そうな音がする。

「何だこれ?」

 これではエクスが動けなくなるのも無理はない。いったいこれはなんなのだろうか。

 エクスの体ごとペタペタと触りながら頭を悩ませるがいまいちよく分からない。

 まあ本人に聞けばいい話か、とアルスが顔を上げると、

「………………」

 なんともバツの悪そうな顔でエクスが顔を背けていた。

 その様子を見て、これはどうやらまた何かやらかした結果だな、と察したアルスは、

「ねえセンパイ。この糸みたいなの何?」

 顔を背けている方に回り込み、悪戯がバレた子供のような表情の顔を覗き込む。

「……えっと、その、ですね……」

 なにやら言い訳を探すかのように言い淀んだエクスは、

「えぇっと、師匠!そのことはひとまず置いときましょう!今大事なのはこれを砕いて、俺が動けるようになることですよ!」

 誤魔化すように勢いをつけて話を逸らそうとする。

 だがアルスは誤魔化されない。

「じゃあ砕くためにもこれが何なのか教えてよ」

「いや、あの、そのー……知らなくても叩けば割れるというか……とにかく叩き割ってくれればいいんで」

 そのいかにもな言葉にアルスはますます胡乱げな目を向ける。確実に何かやらかしている。いったい今度はなにをしでかしたのだ。

 そこでアルスはつい今しがたのある言葉に引っ掛かりを覚える。

「砕く……叩き割る……?」

 つい最近、というか昨日そんな話をした気がする。確かあれはエクスに聞かれてメクイグモの説明をしていた時だったはず……

「ってまさか!?」

 アルスは慌ててもう一度エクスの体に巻き付いている糸のようなものを確認してみる。

 見た目は完全に細い糸だ。これがもしあれだとしたら蜘蛛の糸にしては少し太めかもしれないが、そもそもあの蜘蛛自体が普通の蜘蛛ではない。さらに触ってみれば、その硬さはまるで石のようだ。

(本で読んだ特徴とぴったりだ……)

 そこで近くに籠が落ちていることにアルスは気がついた。村の子供たちが虫取りに使う感じの籠だ。

「あ、ちょっ師匠!?」

 その籠をアルスが拾おうとするとエクスが焦った声を上げた。

 構わず拾ってよくよく観察してみれば、蓋が開かないように紐でぎっちりと厳重に縛られている。さらにはカサカサという音が中から聞こえてくる。音からして入っている何かは一匹二匹ではなさそうだ。

「…………」

 アルスはいつになく厳しい目つきになると籠が開かないように確認し、そっと地面に下ろす。そして改めて弟子に向き直る。

「センパイ。あの籠に入ってるの何?」

「えっ……と、いや、あの。あれは…ですね……」

 出会ってからの今までで向けられたなかで、一番厳しい目と声色にエクスはたじろぐ。

「エビセンパイ」

「…………メクイグモです」

 さらに厳しくなった師の声にエクスはとうとう観念する。

 アルスはまるで雷のような視線を向けたまま、

「……センパイを縛った蜘蛛は?」

「あ…えっと、それはあの籠の中です。紐が緩んでたみたいで三匹…ちゃんと捕まえて籠に戻したし数も確認したんで、他に逃げ出したのはいないはずです」

「…………」

 アルスはエクスの言葉に何を言うでもなく、ただ黙って厳しい目を向け続ける。

「あ、あの……師匠……?」

 どうにもその視線に耐えかね、エクスはアルスにおそるおそる声をかけてみる。するとアルスはようやく視線を外し、はあ、と小さく溜め息をつく。そして何か考え込む素振りをしたかと思うと、

「とりあえずちょっと待ってて」

 と言い残しどこかへと行ってしまった。

 そしてそのままぽつんと一人残されたエクス。

「あー……やっちゃったなあ……」

 直立不動のままポツリと呟く。

 怒られるだろうとは思っていたが、予想よりかなり怒らせてしまったようだ。あそこまで厳しい目は見たことがない。いつものそれとは違って今回は本気で怒っているのが分かる。

「はあ…………」

 こんなはずではなかった、とエクスは溜息をつく。

 そりゃあ行くなと言われていたのだ、怒られることは予想していた。だが想像していたのはこんな風ではなかった。

 アルスを探し出し、メクイグモを渡してビックリさせる。行くなと言っただろうが、と怒られただろう。しかし結局無事に帰ってきたのだ、最後にはいつものようにジト目で呆れながらも仕方ないと言ってくれるだろう。そう思っていた。

 だが実際はこのざまだ。

 言うことを聞かなかった挙句こんな間抜けな結末ではアルスが怒るのも無理はない。アルスからすれば、だから言ったのに!という感じなのだろう。

「もっとちゃんと籠を確認しときゃよかったなあ……」

 だが今更後悔しても遅いのだ。結果としてアルスの言うことを聞かなかったせいで蜘蛛に襲われ動けなくなっている。ああしていれば、などと言ったところでそれは変わらない。

 エクスは胸の中の苦々しいものを吐き出すかのように一つ長い息を吐く。首だけを動かして空を見上げればやはり忌々しいくらいの青空だ。横に目を向ければ動けないエクスを尻目に美しい蝶がひらりひらりとのんびり、ゆるやかに暖かい陽の光の中を泳いでいく。

「……っ」

 一瞬、エクスはなにかに取り残されたような気分になり、頭をフルフルと振ってその感覚を追い払う。まったく、なんてのどかで忌々しい!

 八つ当たりだと分かっていても、せっかく吐き出したはずの苦いものが胸の内にこびりついているような気分だった。

 エクスは気持ちを切り替えるかのようにアルスが去っていった方へ目を向ける。

「ちょっと待っててって、あとどんくらいだろ…」

 そもそも何故急にどこかへ行ってしまったんだろうか。待っててと言うくらいだから、怒って見捨てられたわけではないのだろうが……いずれにせよこのままアルスを待つしかないのだが、身動きのできない状態でただ待ち続けるのもどうにも不安になる。

「あー……どうしたらいいんだよこれ……どうやったら動けるようになるんだよマジで……あーもう動かない」

 焦れてきたのか、飽きてきたのか、それとも不安を誤魔化すためか。エクスはまた体を揺すったり全身に力を込めてみたりし始める。

「どうしたらいいんだよこれ待って……あ」

 ガクガクと体を揺さぶっていると遠くの方にアルスが小走りでやってくるのが見えた。その手には何やら金鎚が握られている。

 そのままエクスの目の前までやってきたアルスは、急いでくれたのかハアハアと軽く息を切らしている。そして少しの間息を整えると、

「一つ言いたいんだけどさ」

「はい……」

 恐らく怒られるのだろうという思いがエクスの声を小さくさせる。しかし、

「石みたいに硬くなるっつってんのに素手で叩き割れるわけねえだろ!」

「あ」

 思わず間の抜けた声がエクスの口から漏れる。とにかく叩き割らなければという考えでそんな当たり前のことにも思い至らなかった。

 アルスは厳しい目つきの中に呆れた色を滲ませながら、

「まあいいや。とにかくこれで叩き割るから、ちょっとじっとしてろよ」

「はい、分かりました」

 金鎚を掲げてみせるアルスにエクスは素直に頷く。どの道動きたくても動けないのだ。じっとしてる他あるまい。

 よいしょ、という声とともにアルスが金鎚を振りかぶり、そして勢いよく叩きつける。

「ぐっ!」

 エクスの腹部に衝撃が走る。今度こそ硬化した糸にぶち当たったが、身動きを封じるためにある意味中途半端に巻かれた糸だ。いくら石のように硬いとはいえ、衝撃を完全に殺すことはできなかったようだ。

 まあ何はともあれ、これでなんとか……とエクスは体を動かそうとするも変わらず動かせない。

「……殴られても動けないじゃねえか……」

 もはや抗議する気力もなく、疲れたような悲嘆な声を上げる。対してアルスは、

「一発じゃ割れないっての。ほら、もっかいいくよ」

 そのまま再び金鎚を振りかぶったかと思うと、腹部や胸部に金鎚を何度も勢いよく叩きつける。その度にエクスは痛みに呻くことになるが我慢するしかない。

 そして何回目かで、バキン!と硬いものが砕けるような音が響いた。

 それからは早かった。バキ!バキ!バキ!とエクスの体を縛めていた糸の前半分が金鎚を振るうたびに割れ、砕け落ちてゆく。    

 そしてようやく、

「あ。動けた!ありがとう!ありがとう!ありがとう本当に!」

 金鎚が振るわれた前半分が完全に砕け落ちると、後ろ半分も殻を脱ぎ捨てるようにするりと外れ、ようやっとエクスは縛めから解放された。

「あー、ようやく取れた……」

 時間を見ればあまり長くないが、心情的には幾日ぶりかというぐらいの解放感だ。

 エクスはとりあえず大きく伸びをして強張った体をほぐす。ろくに身動きの取れない状態だったため、体のあちこちがギシギシと軋むように痛む。体をほぐすように腕や肩、腰や足などを動かした後、体についていた糸の残骸をボロボロと叩き落としながら安堵の溜息をつく。

「はあ……一時はどうなるかと思ったよ」

「…………」

 金鎚を地面に置いたアルスはパタパタとエクスの体をはたいて、糸の残骸を取るのを手伝ってくれている。だがその手つきは静かで、どうにも機械的だ。

 なんとも気まずい空気の中、一通り体についていた糸の残骸を落とし終える。

「…………」

 相変わらず無言のまま、アルスは厳しい目を向け続ける。

 エクスはどうしたものかと糸の残骸を落としている間ずっと考えていたが、結局素直に謝ろうと考え、おずおずとアルスに声をかける。

「あの……」

「色々と言いたいことはあるんだけどさ」

 しかし同じタイミングでアルスも話し出す。エクスの正面に立ってしっかりと目を見ながら。

 アルスの方が背は低いのに、エクスは自分が見下ろされているかのような気分になる。

「まず、どうやってメクイグモを見つけた?」

「え?」

 エクスは思わずきょとんとした声を出す。てっきり怒られるかと思っていたのに、いや、アルスの表情を見れば怒ってはいるのだろう。だがなら何故そんなことを気にするのか。

「えっと、普通に森の中で木にいたのを…」

 質問の意図が分からないまま正直に答えるが、それはアルスにとって納得のいく答えではなかったらしい。アルスは眉を顰め、疑わしげな目を向けてくる。

「……あのさ、昨日ボクがセンパイにかけた酸っぱい匂いの液体覚えてる?」

「酸っぱい…ああ、はい。森に入る前にかけられたやつですよね。たしか、蜘蛛よけだかなんだかって言ってた…」

 アルスは厳しい表情のままこくりと頷く。

「そうそれ。あれさ、一回かけたら体に染み込んで十日は効果が続くはずなんだよ。なのになんでそもそもメクイグモを見つけることができたわけ?」

「えー、と……」

 正直に話したらますます怒られるだろうか。

 一瞬エクスはそんな風に考えてしまったが、ここで誤魔化しても仕方ないと思い直し、素直に話し始める。

「別に特別なことはしてないんですけど……その、森の端っこのほうだと見つけられないかなって思って、そこそこ奥の方行ったんですよ。それで一際でっかい木を見つけてこの木ならいるかもなって考えて……」

 エクスの話をアルスは腕組みをして黙って聞いている。一度言葉を区切ると視線で続きを促され、エクスは続きを話し始める。

「その木をグルリと回って調べてみてもやっぱりいなくて。それで枝とか調べなきゃ見つからないのかなって考えたところで、ふとそういや木の皮の下にも虫って隠れるよなって思い出したんですよ。それで木の皮を何枚かめくったら……」

「メクイグモを見つけた?」

「はい、そうです」

 こっくりと頷くエクスにアルスはゆっくりと、深い溜息をつく。

「まあ、経緯は分かった。要は蜘蛛よけのおかげで近寄れずに隠れ潜んでいたメクイグモをわざわざ自分から突っつきにいったってわけか」

 突き刺すような声色でアルスは淡々と話をまとめる。そしてざらりと氷の如き視線をエクスへと向けると、

「というかさ、そもそもボクは行くなって言ったよね?」

「……言われました」

「ちゃんと危険だって、命に関わるって教えたはずだよね?」

「……はい」

「……ならなんで無視して行った?」

「それは……」

 一段低くなったアルスの声色にエクスは思わず言い淀む。だがアルスから突き刺さる視線は沈黙を許さない。

「……その……昨日師匠からメクイグモについて、色々とあれこれ聞いたからまあ多分、上手く出来ると思って……」

 その視線の圧に耐えかね、もごもごと口ごもってしまう。いつもと違ってアルスの目を直視できない。

「それで結果あのザマなわけ?」

「いやまあ、それは……」

 まさに返す言葉もない。だがエクスからすればきちんと一人で森から無事に戻ってきたのだ、完全な失敗というわけではない。最後の方だけを見ればただ失敗しただけに見えるだろうが、その前に一つ上手くいっているのだ。

「いやでもほら、一応無事には戻ってきてるんですよ?しかもちゃんと一人で。たしかにそのあとあんな風になっちゃったけど、完全に失敗したってわけじゃ……」

「ただの結果論だよね、それ」

 苛立ったような声がバッサリと切り捨てる。

 そんなことはどうでもいい、とその鋭い目が語っている。

 アルスは静かに一歩、二歩とエクスに近づく。

「まあ結果論っちゃ結果論ですけど……そのー、戻ってきた後のやらかしも師匠のおかげでなんとかなりましたし、なので結局無事解決ってことで、今回はこのへんで「だから!」

 アルスはエクスの言葉を遮ると胸ぐらを掴んで乱暴に引き寄せ、

「お前がここでこうしてヘラヘラしてんのは運が良かっただけだろうが!たまたま無事だっただけで運が悪けりゃ死んでたかもしれないんだよ!なんでそれが分からない!?」

 その顔に真正面から叩きつけるように怒鳴りつける。合わせようとしない目を無理矢理にでも合わせるような格好で。

 エクスはその時、初めて間近で覗き込んだアルスの瞳の中にそれを見た。

 微かに揺れる碧い目のその奥。純粋な怒りだけではない、どこか怯えるような、何かを無くしかけたかのような不安の入り混じった瞳。目の前の自分に対する強い何か。

「……すみませんでした」

 刃物のような鋭さの中に揺らめくそれを見たエクスは、無意識のうちに、されど心からの言葉を口にしていた。

「…………」

 アルスは変わらず厳しい目をしたまま掴んでいたエクスの胸ぐらを離すと、一歩下がって黙ってエクスを見つめる。

「本当に……すみませんでした」

 もう一度、今度はしっかり頭を下げて謝罪する。

「……まあ、分かったならもういいよ」

 色々なものを無理矢理飲み込んだような顔で、アルスは小さな声で応じる。

 頭を下げたままのエクスからゆっくりと離れ、そして地面に置いてあった籠を拾う。カゴの中からはやはりカサカサと蠢きまわる気味の悪い気配が伝わってくる。

「これは危ないしボクが処分しておくから。いいね?」

「はい」

 ようやく頭を上げたエクスはアルスの言葉に素直に頷く。

 それを確認したアルスはもうそれ以上なにも言うことはなく、籠を片手にただ静かにその場を立ち去った。

 後にはエクスと、そして砕かれてボロボロになった糸の残骸だけが残されていた。

 

 

 

 アルスは乱暴な足取りで自宅までの道を歩いていた。

 右手に持った籠からは、こうして歩いている今もどこかゾワゾワした感覚が登ってくるような錯覚を覚える。

 だがそんなことも気にならないくらい苛立っていた。

 正直、昨日の時点で怪しくは思っていた。あれだけ色々聞かれたのだ、怪しく思わない方がおかしい。だがエクスにかけた蜘蛛よけの薬はエクスに言ったとおりおよそ十日は効果が続くのだ。だからもし忠告を無視しても空振りに終わる。無駄に時間と体力を消費するだけ。そんな風に考えていたのだ。だというのに、

(まさかそこまでするなんて!)

 見つからなければ諦めればいいものを、時間をかけて探し回った挙句隠れていたメクイグモを無理矢理探し当てるなど思いもよらなかった。

(まったく!)

 たまたま足元に落ちていた小石を思いっきり蹴飛ばす。小石はコロコロと転がって、ポチャンと近くの小さな池に落ちてそのまま沈んでいった。

「……はぁ」

 疲れたように溜息をついたアルスは一転、今度は重い足取りで歩き出した。

 苛々とした気持ちは未だに胸の内にあるが、先程までの刺々しいものとは違ってどこかどんよりとした重苦しいものになっていた。

 煤けた煙を胸いっぱいに吸い込んでしまったような気分のまま歩を進めていると、

「……ん?」

 視界の端で何かがちらついた。なんとなく気になってそちらの方を向くと、左の方の草むらで黄色い蝶と白い蝶がいつぞやのように仲睦まじく花の間を舞っていた。

 じゃれあうかのようにヒラヒラと飛び回る様子はまるで追いかけっこのようだ。それともあれは白い方が黄色い方を先導しているのだろうか。

「……っ」

 思わず、目を逸らす。

 アルスは無理矢理意識を右に向けて、歩きながら左の方を見ないようにする。

 だが蝶たちはそんなアルスのことなどお構いなしに、草むらからアルスの進行方向へと飛んできた。アルスのほんの一メートルくらい前を二匹してヒラヒラと飛び回る。

「…………」

 アルスはその様子にどうにも苛立って、木の枝か何かで追い払おうかとなどと考え始めると、蝶たちはそのまま右の方へと飛び始めた。白い方が先に、黄色い方がすぐ後を追うように。

 だが突然それまでヒラヒラと飛んでいた白い蝶が不自然に空中で停止した。少し遅れてその後を追いかけていた黄色い蝶も同様にいきなり空中で止まってしまう。なんだか二匹とも宙で浮いたまま体を震わせ、もがいているようだ。

「……?」

 不思議に思ってアルスが近づいてみると、木々の間に張られた蜘蛛の巣が見えた。二匹はそこに囚われていたのだ。二匹の間では獲物がかかったことに、巣の主が嬉しそうに蠢いている。二匹もいっぺんにかかったものだからどちらから食べるか迷っているように見える。

「……ああ」

 その光景にジリジリと心の臓が焦げ付くような感覚と、足元が崩れ落ちていくような感覚を同時に覚えたアルスは思わず低い、とても低い呻き声を漏らしていた。

 どうにも目の前の光景が許せなくなったアルスはつかつかとクモの巣に歩み寄ると、そのまま素手で蜘蛛の巣をガバッと破り捨てた。手にベトベトした糸が絡まるが気にせず二度、三度と宙を引っ掻くようにして八本足の居城を完全に破壊する。

 突然自分の家兼罠を壊された哀れな蜘蛛は慌てたように木を伝って逃げていった。

 そうしてあとに残ったのは未だ糸に絡まって飛べずにいる二匹の蝶とアルスだけだ。蝶たちは巣が壊されたのに合わせてそのまま地面に落ちていた。

 アルスは近くの木に手を擦りつけて手のベタベタをある程度取ると、(完全には取れなかった。後できちんと洗わなければなるまい)メクイグモの入った籠を地面に置き、自身もしゃがみこんでもがいている蝶を拾い上げ、絡まっている糸を取り除き始めた。まずは黄色い方から。

 アルスに拾われた手のひらの半分ほどの大きさの蝶は怯えているのか、飛べないくせにジタバタともがいている。

 アルスは潰してしまわないように気をつけながら、絡まっている糸を丁寧に取ってやる。

「ほら、取ってやるからじっとしてろって……うし、これでよし、っと」

 なおももがく蝶に優しく声をかけながら慎重に作業を続け、ベタベタと絡まっていた糸を完全に取り除く。

 ようやく自由の身になった黄色い蝶はしばし羽を震わせていたが、やがてアルスの掌の上からヒラヒラと泳ぐように飛び立った。そのままゆっくりとアルスの周りを円を描くように飛び回っていたが、しばらくすると未だ飛べずにいる白い蝶の周りを心配そうに飛び回り、そしてその隣にそっと降り立った。

「…………」

 アルスは無言でその様子を眺めた。眺めて、そして仕方ないとでも言うように白い蝶を拾い、同じように絡まった糸を取り始めた。

「……お前のせいだかんな」

 ベタつく糸を取りながら掌の上の蝶に向かって小さく声をかける。

「お前がちゃんと蜘蛛の巣があることに気がついていればこうはならなかったんだからな」

 白い蝶は聞いているのかいないのか、アルスの掌の上で触覚をゆらゆらと揺らしている。当然ながらその目からは何の感情も読み取れない。

 そもそも黄色い蝶が白い蝶の後を追っていたかどうかも定かではないし、それに蝶に話しかけたところで蝶が人間の言葉を理解できるわけもない。

 それを分かっていてもアルスは口から出る言葉を止められない。

「お前がもっとしっかりしていれば防げたことだろ。こうやって助かったのなんて所詮は結果論に過ぎないんだからな。たまたまでしかないんだよ。運が良かっただけ」

 どうにも苛々とした気持ちが抑えられない。

「自分が慎重さを欠けばこうなるって思わなかったのかよ。自分だけならまだいいけどさあ、お前のミスで巻き込まれるやつがいるだろ。考えなしに連れ回しやがって。何を浮かれてんだお前は」

 果たして、それは目の前の蝶に向けての言葉だったのか。

「危険だって分かってただろうが。ヤバい蜘蛛がいるって、その蜘蛛は命に関わるって知ってたのにお前はそれを無視したんだ」

 白い蝶はただ静かに、掌の上で未熟な魔法使いを見つめ返すばかりだ。

「蜘蛛よけの薬があるから大丈夫?本当に?なんでまだまだ半人前の魔法使いがそんな判断を下せるんだよ?そもそもメクイグモなんて知識として知っているだけで今まで見たことないだろ。で、それが薬のおかげで、だから同じように薬さえかけていれば今までみたく蜘蛛に出会うことはなく問題はない?そうじゃないだろ。そもそも素人を無闇矢鱈に連れ回すこと自体考えなしの行動じゃん。『もしも』が起こったとき、いったいどうするつもりだったんだよお前は?」

 いいや、実際に起こってしまったのだ。たまたま運良く、最悪の結果にならなかっただけで。

 グツグツとした気持ちが胸の奥底で渦を巻くように煮えたぎる。だが、そんなことはお構いなしに、

「あっ」

 いつの間にか糸を全部取り除かれていた蝶は、八つ当たりには付き合いきれないとばかりにさっさと飛び立つ。

 宙を泳ぐその様子は、さっきまで蜘蛛の糸に囚われてもがいていたとは思えない軽やかさだ。そこに黄色い蝶も加わり二匹で踊るかのようにヒラヒラと舞う。そうしてしばらくすると二匹は戯れながらゆっくりとどこかへ飛んでいった。

 一人残されたアルスはその様子をただ黙って見送る。

 蝶たちが飛び去ってもまだしゃがみこんだまま立ち上がらずにいる少女は、ふと手に残った蜘蛛の糸を見つめた。白く粘つくこれはベタつくだけで固まるわけではないのに、何故だか背筋が冷たくなるような気がする。

 目を逸らそうと顔を上げると、地面に置いてあった籠が目に入った。きっと中では本で読んだ気色悪い蜘蛛が今も蠢いているのだろう。

 アルスは思わず目をつむりたくなって、けれど結局つむらなかった、そして籠も、手にまとわりついた蜘蛛の糸も改めてその目で見る。

「……分かってるよ、誰が本当に悪いのかなんて」

 ポツリと呟いた。

 アルスは静かに立ち上がると少しだけ歩いて、たまたま目についた道端の柵に腰掛けた。ついでに顔を隠すかのようにグイとフードを引っ張って目深に被り直す。

 そうしてゆっくりと息を吐くと、改めて胸の中に重たいものを感じる。

 怒りでも後悔でも嫌悪でもあるそれは誰に向けたものなのか、未熟な魔法使いはようやくその矛先を正しい方へと向けることが出来た。

「……忠告一つで責任を全部放り出せるほど、『魔法使い』は軽くない」

 歌うように、それでいて噛み締めるように呟く。

 つまり、有り体に言ってしまえばそういうことなのだ。

 自らの知識により誰かが何か危険な目に遭うかもしれないという時、当然ながら忠告をする。そして忠告したから自分に責任はない、無視したのは向こうなのだから責任は向こうにある、などと魔法使いは言えない、

 何故なら魔法使いとはそういうものなのだから。知識の重さを理解できない者は魔法使いたりえない。

 だからアルスはいっそ血が出そうなほど唇を噛み締める。

 例え駆け出しでも半人前でも、アルス・アルマルは『魔法使い』なのだ。故にそれは他の誰でもない自分自身が、一番に理解していなければいけないことだ。

 そもそもメクイグモ以前に、魔物が出るかもしれない川に連れて行ったこともそうだ。あれだってまあそれっぽいのを前に一回見ただけだし、本当に魔物だったかどうか分からないし、と軽く考えた結果蛙の魔物に出くわして危険な目にあっている。結局なんとかなったが、それもまた今回と同じ結果論に過ぎない。

 小さく、息を一つ。

 彼女の思考は細く渦を巻いているのに、どこか散り散りになりたがっているようでもあった。しかしアルスは魔法使いとしてそれらを無理矢理にでも束ねる。

 そうしてアルスは再び自分を責め立てる。自分を振り返れば振り返るほど自己嫌悪が募っていく。

(……なんであんなことしたんだろう)

 自分はこんなにも愚かだっただろうか。そう考えて緩く首を振る。普段はもう少しだけ思慮深かったはずだ。もちろん完璧には程遠いし、まだまだ半人前の未熟な身だ。それでもいつもはもう少しだけましだったように思う。

 ならば何故なのだろう。

 何故あれらの危険を軽く考えていたのか。

 自分はいったい何を浮かれていたのか。

「……だって」

 だってすごいと言ってくれたのだ。怖がることもなく、かといって媚びへつらうこともなく、ただ純粋にキラキラした目で、子供のように。

 そう、まるで自分が一人前の立派な魔法使いかのように。

「すごいって……かっこいいって言ってくれたんだ…………」

 不意に胸の内で渦巻いていたものが頭に集まって熱をもって溢れ出しそうになり、アルスは慌てて頭をブンブンと振った。これではまるで子供のようではないか。さらにパチパチと瞬きも何回かして目を乾かしておく。

 自分に呆れてさらにうんざりしていると、何か鳴き声のようなものが聞こえた気がした。なんだろうと思って少しだけ顔を上げると、遠くで牛を散歩させている姿が見えた。あれはエクスが逃がしてしまったあの牛だろうか。そんなことをつい考えてしまってアルスはようやく小さく笑った。

 そのまま周りを見渡せばポカポカとした日差しが降り注いでいる。アルスは少しだけ考えると、いい加減帰ろうと考えて柵から降りて籠を拾うと再び歩き出した。時折聞こえてくる牛の声が段々と遠ざかっていく。それを聞きながら歩いていると意識は再び自分の内側に向いていく。

「……」

 まるで、物語の魔法使いにでもなったような気分だった。

 歩きながらアルスは胸の中で呟く。

 エクスはたまに物語の魔法使いのイメージを押し付けてきていたが、実を言うとそんなに悪い気分ではなかった。

 アルスとて憧れたりもしたのだ。物語に出てくる魔法使いのようになりたいと。深い知識を蓄えていて鋭い智慧を持ち、様々な魔法を用いていくつもの困難を乗り越えていく。そんな偉大な魔法使いになりたいと思ったものだ。

 けれど現実は魔法使いは嫌われ者で、その上自分は魔法使いとしても未熟な半人前だ。

「憧れなんて捨てるべきだったのかな……」

 結局現実から目を背けていただけだったのだろうか。その現実逃避を後押しされたからこうなってしまったのだろうか。

 そこまで考えてアルスはフルフルとかぶりを振る。それではまるで責任をエクスに押し付けているようではないか。それではいけない。せめてこれとぐらいはまともに向き合わなくては。アルスは自らに傷を刻むように自分に言い聞かせる。

「やっぱりボクは駆け出しの半人前、か」

 自嘲するように呟くアルスをゆっくりと穏やかな風が撫でていくが、この陰鬱な気分までは拭いとってはくれない。

 溜息をついて見上げた空はやっぱり忌々しいくらいの快晴で。

 黒いフードを被ったアルスは一人だけ取り残された影のようだった。

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