「セン……パイ……?」
最初、目の前の扉が開いたのは幻覚かと思った。
だって、あまりのも都合が良すぎる。自分がピンチに陥ったタイミングでたまたま誰かが助けに来てくれるなんて。
だから息ができずに朦朧としながらもなんとか発したその言葉は、目の前の青年に呼びかけたものではなく、現実かどうか確かめるようなものだったのかもしれない。
そしてエクスがそれに応えなかったことでアルスはこれはやっぱり幻覚の類いだと倒れたまま自嘲した。追い詰められて、呼吸すら難しいせいで朦朧とした意識が現実逃避を始めたのだと。
だがしかし、
「ぴぎゃっ!?」
エクスが無言で医者を殴り飛ばしたことで背中の圧迫感が消え、ようやくまともに息が吸えるようになったことで、やっぱりこれは幻覚などではないのだと悟った。
「がはっ、げほ……っ」
解放されたアルスは床に手をつきながら上半身を起こして咳き込んだ。あまりにも強く踏みつけられていたため、肺の形が変わってしまったような違和感を覚える。
だが呑気にはしていられない。アルスは息を整える暇もなく床で泣いている赤ん坊に飛びついた。詳しく診てみなければ分からないが、パッと見た限りでは幸いにも大きな怪我はしていないようだ。アルスはほっと息を吐いた。
しかし視界の端で殴り飛ばされた医者が起き上がろうとしているのを見たアルスは、赤ん坊を抱えたまま叫んで走り出した。
「とりあえず逃げて!」
「え?あっ、はい!」
突然言われたエクスは一瞬面食らったものの、すぐにアルスのあとを追うように医者の家を飛び出した。そのまま暗い闇の中を二人で走り出す。
急いで飛び出した外は思ったよりも月明かりで明るかった。抱えた赤ん坊の顔もよく見える。その赤ん坊は何度も怯えて疲れたのか、グズグズと泣いてはいるものの大きな声で泣くことは無いようだ。
「ていうかアルスさん、どういう状況!?なんか通りかかったらアルスさんのヤバそうな声が聞こえたから覗いてみたらなんかあのおっさんに襲われてるし!つーかその子どこの子!?もしかしてアルスさんの隠し子!?」
隣を走るエクスの言葉にアルスは思わず転びそうになった。
「ボクの子なワケあるか!お前はボクをなんだと思ってるんだよ!?」
ひょっとして背中を踏みつけられていたのも行き過ぎた痴話喧嘩かなにかと思われているのだろうか。一瞬そう考えたアルスは自分で自分の考えにぞぞっと鳥肌が立った。
軽く首を振って気色悪い想像を振り払ったアルスは一転真剣な様子で、
「この子は……この間ボクに絡んできた女の人がいたじゃん。ボクのせいで子供が死んだって。多分だけどあの人の子供だよ」
その説明を聞いたエクスは困惑した表情になる。
「は?いや、だって今アルスさんが言ったみたいに死んだんでしょ?というか、だからあんな半狂乱になっていたんじゃ……え、兄弟とか?」
「いや、多分兄弟とかじゃないはずだよ」
アルスはエクスの言葉を一蹴すると苦い顔で続ける。
「……死んだ『ことになっている』子だってあいつは言っていた」
今度はすぐには返事はこなかった。エクスは聞こえていなかったかのように押し黙ってしまい、それからしばらくしてからようやく、
「どういうことだよ、それ……」
呻くように言葉を漏らした。
対して今度はアルスが無言を返した。わざわざ懇切丁寧に説明しなくてもどういうことか、さっきの言葉だけで分かるだろう。
沈黙を受けたエクスは何かを振り払うように頭を振るとちらりと後ろを振り返る。
「今のところ姿は見えないけど…アルスさん、もっと早く走れない!?そもそもどこに向かってるんですかこれ!?」
自分でももどかしく思っていたことを指摘されたアルスは思わず歯噛みした。ただでさえ足は速いほうじゃないのに、息を整えずに走り始めたことやなにより本棚にぶつけた右足が痛んでうまく走れないのだ。もちろん我慢して走ってはいるが赤ん坊を抱えているのもあって、とてもじゃないが全力では走れない。
「向かってんのは村長のとこだよ!あと走んのはこれが限界!」
村の中でこんなことが起こっていたのだ、一番に頼るべきはやはり村長だろう。そう考えたアルスの言葉に返答したのはしかしエクスではなかった。
「ああ、やはり村長のところへ向かっていたんですね。まったく分かりやすい、先回りも容易しでしたね」
「!?」
暗がりの中から聞こえてきた声にぎょっとした二人は慌てて足を止めた。そして警戒する二人の前にザリ、とわざとらしく足音を立てて、医者が暗闇からにじみ出るようにその姿を現した。
「な、んで、どうやってここに……」
目の前の男に、わけが分からない、というようにアルスは呆然と呟いた。
それもそうだろう。二人は医者の家を飛び出してから村長の家に向かって最短の道を走ってきたのだ。先回りをするには二人よりもよっぽど速いスピードでわざわざ遠回りをしなければならない。だがいくらアルスの足があまり速くないとはいえ、遠回りしながら二人を追い越すことなどできるのだろうか。
だが続けて医者の後ろから現れたのはアルスのそんな疑問など吹き飛ばすようなものだった。
始め、月明かりが薄めた暗がりの中で何かの輪郭が蠢いているのが見えた。そしてそれがヌチャ、グチャリ、と湿った足音を立てて医者の背後、その闇の中から近づいてきた。
「は……?」
闇の中から姿を現したそれを見て、エクスが信じられないという顔をする。
アルスも医者が現れたとき以上に呆然とする。
「ヴォジャ、ノーイ……?」
そこに現れたのは以前川でエクスを襲った蛙の化物だった。水辺でもないのにあの時よりも大きなヴォジャノーイが、それも何体もあとに続くようにぞろぞろと出てくる。やはり陸上は動きにくいのか、それとも人のように二本足で歩いているからか、そいつらは不気味に体を揺らしながら医者のそばまで来るとそこで立ち止まった。
一瞬医者が襲われるのではないかとアルスは思ったが、医者は平然と魔物たちを侍らせている。
「ふむ、さすがにこいつらの名前くらいは知っていましたか」
医者は魔物たちを特に気にかけることもなく、顎に手をやってそう言いながらアルスを睥睨した。
「どういうことだよ……なんでお前はその魔物共を従えてんだよ!?そんなことができるなんて、それじゃあまるで……」
アルスが怒鳴るような問いかけに医者はむしろ不思議そうな顔で首をかしげると、
「何故って、そんなの私が魔法使いだからに決まってるじゃないですか」
「……え?」
ぽかんと、腕に抱えた赤ん坊や目の前の状況のことも一瞬頭から消え去ってしまった。自分でも意識せず間の抜けた声を漏らしたアルスは、そのまま思考の空白を埋められずに呆けた顔のままパチパチと瞬きをした。
代わりに口を開いたのはエクスだった。
「それは本気で言ってんの?」
「本気に決まってるでしょう。というかこの蛙達を見れば分かるでしょうに」
両手を広げて誇示するように魔物たちを示した医者はアルスに顔を向けると、
「そもそも私の信仰についてちゃんと説明したんですけどねえ。それとも私のことをただの頭のおかしい狂信者とでも思ったんでしょうか」
医者は呆れたようにやれやれと首を振るとトントンと小刻みに自分の首筋を叩いた。
「儀式や神からの恵みについてもあれだけ分かりやすく教えてあげたのに。もしかして恩恵云々は思い込みで実際にはただ無駄に生贄を殺しているだけとか考えたんですか?だから連れて逃げ出したとか?」
そこでようやく思考のピントがあったアルスはキッと医者を睨みつけた。
「無駄かどうかじゃなくて生贄自体がありえないんだよ」
だがアルスの言葉にも医者はくだらなさそうに鼻を鳴らすだけだ。次いでアルスがもう一度口を開くよりも先に今度はエクスが静かな声を発した。
「あんたは……自分も魔法使いのくせにアルスさんをあんなに否定してたのか」
抜き身の剣の、その冷たさのような視線が医者に向けられる。
「あまつさえ、自分が死んだと偽装して生贄にしていた子供たちの件までアルスさんに押しつけてたのか……同じ魔法使いなのに!」
大声を出したエクスにヴォジャノーイ達が一斉に反応した。それを片手を挙げて抑えた医者はぐりんとエクスに顔を向ける。
「同じ魔法使いなのに?はっ、違いますよ。同じ魔法使いだからです」
医者は固まった血が気になるのか、火傷に触れないように顔の血を擦り落としながら話を続ける。
「あなたは『便利なトロール』を知っていますか?」
医者の言葉にエクスは思わずアルスを見る。それは以前アルスに教わったものの一つだ。
「たしか……人間関係のいざこざや怨恨の解決法でいもしないトロールのせいにするって話だったような……それがなんだってんだよ」
フン、とつまらなさそうに鼻を鳴らした医者はコキリと首を鳴らして、
「まあ間違ってはいませんが五十点といったところですね。そもそも別に『便利なトロール』ってのはトロールじゃなくてもいいんですよ。要は問題を押し付ける相手がいればいいんですから」
その言葉にアルスはハッとした顔になる。
「それって……」
「ええ」
医者はにっこりと笑って、
「つまりあなたが私にとっての『便利なトロール』だったんですよ」
にこやかな、けれど目は嘲るように歪めた笑顔でそう言った。
その言葉にエクスは拳を握り締めた。元より何の罪もない子供を親を騙して生贄にしているような男だ、良心を問うても無駄なことだろう。しかしそれでも村人からの扱いを扱いを見てきたエクスは、医者の言葉が到底我慢ならなかった。
だがエクスが何かするよりも先にすぐ隣から低い声が聞こえてきた。
「同じ魔法使いだから、だからこそ押し付けるのに都合がよかった……?」
その地を這うような声は俯いたアルスが発したものだった。
「……けんな、ふざけんな!!お前が!お前のせいで!!ボクがどんな目にあったと思ってんだ!このクソ野郎!!」
アルスは腕に抱いた赤子のことも忘れ、獣が吠えるようにずっと溜め込んできた怒りをぶつけた。間近で怒鳴り声をあげられた赤ん坊がさらにグズり始めるがアルスは気がつかない。視界が赤く染まるかのようにチカチカして、フー、フー、と荒々しい息をする。
だが医者はそんなアルスの怒りなどどこ吹く風のように肩をすくめた。
「まあ気持ちは分かりますがね、私はただ現実を見せてあげただけですよ」
その言い分がアルスの神経をさらに逆撫でする。
「何が現実だ!お前がボクに勝手に子供殺しを押し付けて、そのせいで村であんな風になったってのが現実だろうが!」
ただただ怒りが爆ぜるアルスに医者は真面目な顔になると、
「そうですよ。けれどそのおかげで正しい状態になったでしょう」
それを聞いて医者を睨みながらもあまりの怒りで言葉が出てこなくなったアルスに代わって、エクスが尋ねる。
「どういう意味だよ、それは」
「だっておかしいじゃないですか。魔法使いなのに人々からあれこれ仕事を頼まれたり、ましてや感謝されたりだなんて。そんなのは間違ってる。絶対におかしい。魔法使いなのに人々に受け入れられるなんて、そんなのはあってはならないんですよ」
吐き捨てるようなその言葉はアルスとはまた違った怒りのようなものに塗れているようだった。
「だから私がちゃんと正しい現実を教えてあげたんですよ。たしかに辛い思いもしたかもしれませんが、まあ現実を知るための勉強代のようなものです。人は成長するために時として痛みが必要なんですよ」
そう語る医者にアルスはいよいよ我慢ができなくなった。こいつだけは何がなんでもぶちのめさなきゃ気が済まない。そんな凶暴な考えがアルスを支配しようとする。
そんなアルスを少しだが落ち着かせたのはエクスの言葉だった。
「何が正しい現実だよ。なんでか分からないけどあんたがただそう思い込みたいだけだろ」
医者はそれまでの様子と違って無表情になるとジロリと異様な目つきでエクスを見る。だがエクスは一切気にすることはなく話を続ける。
「この間アルスさんのことで村の連中が揉めてたけど、ちゃんとアルスさんの味方はいたし。アルスさんが薬渡してたお婆さんとか、村長とか」
あの時アルスのために味方してくれた人達を思い出す。数は少なかったし、必ずしもそれで解決したわけではない。それでもアルスが人々のためにやってきたことがちゃんと届いていた人たちはいたのだ。
「あんたのせいでたしかにアルスさんのことを敵みたいな目で見てる奴らもいるけどさ、受け入れられていないわけじゃないんだよ」
そして医者の顔を正面から睨みつけ、
「それにあんたがなんと言おうとアルスさんは俺の師匠だ」
その覚悟に医者が返してきたのは言葉ではなかった。
「っ!?」
フォン!と唸るよな音を立てて何かがエクスのすぐ横を通り過ぎ、そのまますぐ後ろでボスっと草の上に落ちる音を立てた。
いったいどこに隠し持っていたのか、医者がエクスに投げつけたのはアルスの『火の杖』だった。たまたま外れただけで本当は当てるつもりだったようで、医者は舌打ちをすると醜く顔を歪めた。
「お前、そうだ……お前が余計なんだ、お前が……邪魔しやがって!」
ブツブツと口の中で何かを呟いた医者は突然激高したかと思うと、そのままエクスに襲いかかってきた。
「うわっ!?」
慌ててエクスが横に避けるとそのまま通り過ぎた医者は振り返ってエクスを睨みつけた。その目はギラギラと異様な光を放っているようでとても不気味だ。周りではいつのまにかヴォジャノーイ達がジリジリと距離を詰めてきている。
「……お前のせいでおかしなことになったんだ……何が弟子だ、あの東洋人といいどうせ下心で近づいただけのくせに……」
口の中でブツブツ呟き続ける医者の声は気持ち悪い虫の羽音のようにも聞こえた。そして自分に向けられているはずなのに何も見ていないようなその目にエクスは悪寒を覚えた。
「…………」
エクスは唇を引き結ぶと医者から距離を取るように一歩下がり、背中の剣を抜いて構える。それを見た医者は馬鹿にしたようにハッと嗤うと、
「素人がそんなもの構えたところでなんだというのだ。そこからじゃ私に剣が届かないことも分からないのか?まあだからといって私に近づこうとすればその前にこいつらがお前に襲いかかるがな」
そう言って両手を広げて自慢の化け物たちを誇示する。
対してエクスは一度だけ深呼吸をすると、
「ぅおらぁっ!」
「なっ!?」
斬りかかるのではなく、医者に向かっていきなり剣を投げつけた。
驚いた顔の医者だったがさすがに二度目ということもあってか、今度は咄嗟に脇に飛んで避けてみせた。
だが咄嗟だったとはいえ飛んだ先が良くなかった。医者が飛んだ先には大きめの薮があり、そこにに突っ込んでしまったのだ。バキバキメキ!と小枝の折れる音を響かせた医者は恨み言を言いながら立とうとしたところ、どうやら服が引っかかってしまったようで薮から抜け出せないでいる。
「こっ、この!くそ!……おい、バカガエルども!ボーッとしてないでとっとと助けろ!」
体勢が悪いのか引っかかった服を外せずジタバタと藻掻く医者はなかなか抜け出せないようで、そばでオロオロとしていたヴォジャノーイ達に助けを求める。怒鳴られた蛙達はワタワタとヒゲを揺らしながらなんとか藪の中から医者を助け出そうと四苦八苦し始めた。
「アルスさん!」
蛙と医者を尻目に短く叫んだエクスは医者の方には見向きもせずに走り出した。アルスもそのあとに続いて走り出す。
「くそ!待て!おい!」
髭蛙達に引っ張られながら医者が藪の中から叫んだ時には、もう二人の姿はそこにはなかった。
村長の家までの道は何匹ものヴォジャノーイによって封鎖されていた。その手には短い槍が握られていて、陸上といえど丸腰で戦うのはまずいとひと目で分かった。
二人は監視の目をなんとか掻い潜っていけないかと考えを巡らせたが、ヴォジャノーイの察知能力がどのくらいか分からないため無茶はできなかった。夜とはいえ月明かりもあるしそもそも魔物だ。闇に弱いとは限らない。おまけにもし目が弱くても音で察知されるかもしれない。
ならば正直に道を通らなければいいと畑の中を通ろうしたところ、畑の中にも同じように槍を携えたヴォジャノーイの姿があった。それどころか雑木林やぐるりと迂回した先の小屋の陰にまで潜んでいる。どうやら道のあるなしや方向に関係なくぐるりと囲むように村長の家に向かう途中すべてにヴォジャノーイはいるようだ。
アルスは赤ん坊を抱えたまま思わず歯噛みする。動きがあまりにも早い。恐らくは万が一逃げられたときのことを考えてあらかじめ展開していたのだろう。その用意周到さと手際の良さが忌々しい。
「どうする、アルスさん?このままじゃマズイでしょ」
エクスも焦った顔で声をかけてくる。
いっそ逆に村から離れてみるかとアルスは思案する。さすがに医者も村を全滅させる気はないのだろうし、世が明ける前にヴォジャノーイ達をどこかにやらなければならないだろう。一旦森の中にでも身を潜めて朝になってから堂々と村長のもとへ向かえばいいのだ。
しかしすぐにアルスは首を振る。村の外にもヴォジャノーイはいるかもしれないし、夜の間は野犬や狼も恐ろしい。それどころかまったく関係ない魔物に襲われるかもしれない。基本的に夜の間安全なのは村の中だけだ。かといって進むことができないのはさっき確認済みだ。それにいざ事が露見すれば医者はこそこそする必要がなくなるのだし、表立って暴れ始めるかもしれない。そうなれば朝になったからといってヴォジャノーイ達を隠す必要もなくなるだろう。つまりは、打つ手がない。
「……とりあえずさ、この子をどこかに隠そう」
考えて、ようやく出した結論はそれだった。
「え、でもそれだとその子が危なくないですか?」
エクスは心配そうな顔をするがアルスはフルフルと首を振った。
「あいつが言ってたんだけどさ、この子は明日の生贄の儀式のために眠らされてたらしい。逆に言えばその儀式まではあいつも何もしないと思うよ。生贄なのに死んでたら意味ないんだし」
それに、とアルスは木の陰から離れたところにいるヴォジャノーイを見ると、
「今はボク達と一緒にいるほうが危ないと思うし」
そう言うとエクスも納得したようで黙ってこくりと頷いた。
二人はそのままヴォジャノーイ達に見つからないように静かに移動すると、農具用の小屋の中に赤ん坊を静かに寝かせた。周囲の雑多なものを危なくないようにどかすと、散々泣いて疲れたのかいつのまにか眠っていた赤ん坊の頭を軽く撫でて外に出る。そのまま小屋の扉を閉めると、二人はどちらともなく覚悟を決めたように深く息を吐いた。
「……センパイ、あいつが狙ってんのはボクだけだろうからいっそ一人で逃げちゃえば?」
「何馬鹿なこと言ってんですか。そもそも赤ん坊の不審死の真相知っちゃったんだから俺のことも狙ってるでしょ」
一応忠告してみるがエクスには笑って返された。その言葉にアルスは自分の腰のあたりに手を伸ばす。『アルスの森』は今日は忘れずにしっかりとそこにある。アルスはそのことを強く意識した。
さて、せっかく赤ん坊を隠したのにそのすぐ近くに留まっていては意味がない。二人は再び静かに歩き出した。
そうしてしばらく歩くと、
「見つけたましたよぉ……」
ゆらり、と幽鬼のように医者が現れた。その後ろには長い髭を生やした蛙の魔物達がぞろぞろと続いている。
「まったく、悪あがきを…逃げたところで結局こうなるというのに…」
ブツブツと呟く医者はそこでアルスが手ぶらなのに気がついたらしい。コキ、と音を鳴らして首をかしげる。
「ああ……赤ん坊をどこかに隠してきたんですか。いったいどこにやったんです?」
アルスは眉を顰めて答える。
「答えるバカがどこにいるんだよ」
その言葉に医者は一瞬苛立ったような顔をしたがすぐにいつもの調子に戻った。
「まあそう言わずに。教えてくれればあなたのことは見逃しますから」
そう言って向けてきたにこやかな顔にアルスは短く舌打ちをする。隣でエクスがアルスと似たような顔で口を開いた。
「そんなこと言われて誰が信じるんだよ。馬鹿でしょ、いたら。そんなやつ」
「誰がお前を見逃すと言った。黙ってろガキが」
アルスに向けていたにこやかな顔から一転、忌々しそうにエクスを睨みつけた医者は間髪入れずにそう吐き捨てた。
あまりの態度の違いにアルスは不審そうな目を医者に向けた。
「どういうことだよ。なんでボクだけ見逃す気になったわけ?」
当然嘘だろうし、万が一仮に本当だったとしてもエクスを見捨てることになってしまうので誘いに乗る理由はない。だがそんな分かりやすい嘘を、しかもアルスにだけつく理由が分からない。エクスを見逃さないと言えばますます不審がられるだけだろうに。
医者はアルスに声をかけられたからか、再びにこやかな顔でアルスに向き直ると、
「いえね、少々強引なやり方ではあったもののあなたも現実を知ったことですし、そろそろいいかと思いましてね」
「そろそろいいかって何がだよ」
アルスの疑問に医者はにっこり笑うと、
「手を組みませんか?同じ魔法使い同士なんですし」
「……は?」
アルスとエクスは二人してぽかんとした。だが何を言われたか段々と頭が追いついたアルスはプルプルと小刻みに震え、そして爆発した。
「何ふざけたこと言ってやがるんだ!?お前、自分が何してきたのか分かってて言ってんのか!?」
医者の後ろに控えた何匹もの魔物のことも忘れて今にも掴みかかりそうな勢いで叫ぶアルスだが、それをエクスが抑える。
「駄目だってアルスさん!抑えて!挑発に乗ったらこいつの思うツボだって!」
そう言われたアルスはぎりりと医者を睨みつけ荒い息を吐きながらも、一旦無理矢理に拳を収める。
一方医者は鬱陶しげな顔をエクスに向けると、
「適当な事を言うんじゃない。何が挑発だ。私は本気で言ってるんです」
そう言って今度はアルスに諭すような声で語りかけた。
「こんな奴の言うことに耳を貸してはいけませんよ。どうせあなたが美しく、愛らしいから弟子だなんだと言って近寄ってきただけの下心野郎です。おそらく孤立してるから狙いやすいとでも考えたのでしょう、まったく浅ましい」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして医者はエクスを見下すように睨みつける。だがすぐににこにこと笑顔をアルスに向ける。
あまりに一方的な物言いにエクスも苛立ったらしい。ヴォジャノーイ達のことを気にしつつも声を荒らげて反論する。
「適当なこと言ってんのはあんたの方だろ!というかアルスさんの背中を思いっきり踏みつけてたくせに何言ってんだよ!」
「ぐ……」
痛いところを突かれたのか医者は一瞬黙り込む。だがすぐにエクスを睨みつけると、
「あれはついカッとなっただけだ!見ろ私のこの顔を!こんなひどい傷を負わされて平静でいられるか!」
一気に捲し立てた医者は気を取り直すように息を一つ吐くと、
「でもまあ実際私も暴力を振るってしまったわけだし、ここは一つお互い様ということで。多分ひどい火傷跡が残るでしょうが水に流してあげますから」
そう言って斜めにひどい火傷を負った顔をにこやかに歪めた。
アルスはその顔にゾワゾワとした気味の悪さを感じる。もしかしたらこいつは本気で言ってるのかもしれない。挑発だとか何かの罠ではなく、本気で自分と仲間になれると思っているような……
その気色悪さを押し殺すようにアルスははっきりと医者を拒絶する。
「そもそも背中云々以前にボクに冤罪を押し付けてたくせに何言ってんだよ!それに手を組むってことは子供を生贄にすることを見逃せってことじゃん。そんなことできるわけないだろ!」
そう言われた医者は小さく舌打ちをした。
「ですから、それはあなたに現実を見てもらうためだと言ったはずです。それにあなたをあれだけ否定して化け物みたいに扱ってきた連中の子供のためなんかに馬鹿な選択をするのはやめなさい。あんな奴らのことなんてどうなろうがどうでもいいでしょう。」
「だからそれはお前のせいだって……!」
「どうせ私がやらなくてもいつかはこうなっていましたよ。早いか遅いかの違いです」
怒るアルスに医者は肩をすくめてみせる。その姿にアルスが射殺さんばかりに睨みつけるが、ヴォジャノーイ達が牽制するように鳴き声をもらすのを見て黙り込んでしまう。
その様子を見た医者が呆れたように溜息をつく。
「まったく……これだけ丁寧に説明してもまだ現実というものが分かっていないようだ。あんな奴らにどれだけ期待しても無駄だというのに」
その物言いにエクスは言い返そうとしがそれより先にアルスが口を開いた。
「そんなこと、ない。こいつとか、黛とか……こんなボクでも、味方してくれる人はちゃんといたよ」
その言葉は途切れとぎれで不安そうではあったものの、それでもしっかりと医者の目を見ながらアルスは言い切った。
はたして心のどこを抉られたのか、アルスの言葉と視線に医者は腹を槍で貫かれたように大きく顔を歪めた。そうしてアルスを睨みつけながら口を何度か開け閉めしたが結局言葉が出てこなかったようで、代わりに息を小刻みに震わせながら深呼吸した。
何度か深呼吸を繰り返してなんとか様子が戻った医者はそれでもアルスを睨みつけて、無理に押さえ込んでいるような取り繕った静かな声で、
「だからさっきも言ったでしょう……そいつらはどうせあなたの美貌に寄ってきただけでただの下心に過ぎないって。何度も言ってるのになんで分かってくれないんだ……」
最後の方は半ば独り言のようだった。その薄気味悪い様子に魔物たちを気にしながらもエクスが言い返す。
「勝手な言いがかりはやめてくれない?俺も黛さんもそんな理由なわけないだろ」
ぎょろり、と音が聞こえてきそうな勢いでエクスを睨みつけた医者は恐ろしい形相で、
「なら何故弟子なんか名乗ってまとわりついてるんだ?ああ?魔法使いなのに近づくなんて下心以外に理由なんてないだろうが」
「はぁ?そんなのアルスさんがすごい魔法使いだからに決まってるだろ」
その言葉を聞いた医者は心の底から馬鹿にしたようにハッと嗤う。
「馬鹿かお前は。すごい魔法使いというならなおさら近づかないようにするだろう。頭が悪いと言い訳すらまともにできないのだな。美人の魔法使いと仲良くしようとしてる時点で下心が透けて見えてるんだよ」
そう言われたエクスは眉を顰めて押し黙ってしまう。その様子に言い返せないのだと思ったのか、医者はもう一度鼻で笑う。だがエクスはそんな医者をジッと見つめると、
「……つーかさ、ただ単にあんたに友達がいなかったってだけの話じゃないの、それ?」
「は…………?」
ピタリと医者の動きが止まる。そして段々と顔が赤く歪み、小刻みに震え始めた。
「おま……な……」
何か触れてはいけない部分に触れてしまったのか、医者は火傷も気にせずに顔をさするとブツブツと何かを呟き始めた。
「違う、あいつらが……何が、何が友達だ。ふざけるな、このガキが……私は魔法使いなんだ。友達なんかできなくても仕方ない……当然なんだ……」
二人が医者の様子を警戒していると突然医者はキッと目を吊り上げ、歯をむき出しにしてエクスを殺さんばかりに睨みつけた。そしてわなわなと震える口から低い声が漏れる。
「お前だって……お前だって下心で近づいただけのくせに…私達が受け入れられるなんて、そんなことあるわけない。なのに、なのにお前は…下等な凡人のくせに……!私を馬鹿にして……し、てやる……殺してやる!」
いきなり激高した医者の血走った目を見たアルスはエクスの袖を引っ張って後ろに下がらせた。だがそれがまた医者の琴線に触れたらしい。医者は袖を掴んだアルスの手に目を向けるとギリリ、と歯を軋ませた。
しかし同時にアルスの存在も思い出したようで、無理矢理に深呼吸すると低く震える声でアルスに向き直った。
「もう一度だけ、言います」
ドロリと粘ついた、それでいて真っ赤な火のような視線をアルスへと向ける。
「魔法使いが受け入れられることなんてないんです。そいつも、ほかの奴らも、あなたに好意的に見えるのは何か薄汚い打算があるからそういう振りをしているだけです。そうに決まっている。だからそんな奴らのことなど捨て置いて、私と共に来なさい」
そう語るのははたして彼が何を恐れているからなのか。
「最初にあなたが魔法使いと知った時は本当に驚きました。けれど喜んだんですよ、私は。仲間ができたってね。まだまだ半人前ののようでしたが、それはこれから成長していけばいいのですし」
「………」
「だからそれまで村の連中からは私が守って、助けてやらないと思ったんです。同じ魔法使いなんですから、それが先達としての責務だと。けれども驚きました。村の連中は魔法使いだと名乗ったあなたを全員ではないにしろ少しずつ受け入れていたのですから」
医者はそこまで語ると一度言葉を切り、目を伏せてゆっくりと首を振った。
「私は信じられない思いでした。だって魔法使いが堂々とそう名乗っているのに、石を投げられたり家に火を付けられたりするでもなく、まるで普通の人間のように挨拶をしたり冗談を言い合ったり、あまつさえ仕事の依頼をしたりするなんて。どう考えても異常な光景を前に私は気づきました。こいつらはあなたを利用するつもりなのだと。どうせ内心ではおぞましい化物とでも思ってるくせに、自分達の役に立つからといってへらへらと媚びへつらう振りをしているのだと」
「だからボクに冤罪を着せてまで遠ざけたって?」
アルスの言葉に医者は力強く頷いた。
「そうです!あいつらはどれだけ口では優しいことを言っていたって魔法使いを仲間として認めることなんてないんだ!絶対に!」
拳を振り上げ熱く語る医者とは対照的にアルスの目は冷ややかだった。
「だとしても、子供を殺していいことにはならないだろ」
「知ったことか」
至極まっとうな意見に返ってきたのは吐き捨てるような一言だった。
「今まで、今まで私達がどんな目にあってきたと思ってる。魔法使いというだけで散々に迫害されて……だから今度はあいつらの番だ。むしろようやっとやり返せるんだ」
まるで蛇がゆっくりと静かに這い寄るような、そんな声だった。
「私だけじゃあない……先祖代々迫害されてきた。親も、そのまた親も、さらにその親達も。あいつらはずっと、ずうっと迫害してきたんだ。魔法使いの一族という、ただそれだけで!」
「そ……」
何かを言いかけたエクスを片手で制したアルスは代わりに静かな声で言う。
「……気持ちは分かるけどさ、でもそいつらとお前が殺してきた子供達は無関係だろ」
「無関係?」
ギョロ!と医者は凄い勢いで目を向ける。
「いいや、無関係なんかじゃない!あの子供達にも私たちを追い立て殴りつけ奪って罵って否定し続けてきた奴らの血が流れてる!あの汚らわしい野蛮人どもの血が!」
再び言葉に熱がこもり始めた医者はもはやアルスを見ていなかった。
「奴らが嫌っているのは私という個人ではない!もはや私達という『民族』そのものを忌み嫌っているんだ!ならばこちらもあいつらという『民族』を憎んで何が悪い!?
叫んだ言葉には憎悪よりもまるで泣いているような色が塗りたくられていた。いいや、恐らくはそれ故の憎悪なのだろう。
なんと言うべきか、アルスはただ黙って言葉を探す。それを無言の否定と受け取ったのか医者は、
「何故分からないんだ!?知っているだろう、あの惨めさを!この憎悪を!あなただって魔法使いなんだから!」
縋るように、そう叫んだ。
しばらく黙っていたアルスはやがてポツリと漏らした。
「まあ、分からなくもないかな……」
溜息をつくようなその言葉に医者は口元をほころばせ、驚くような顔をしているエクスに勝ち誇るようにフンと鼻を鳴らす。だが、
「けれど、そこで堪えられるか、踏ん張れるかどうかが大事なんだとボクは思う」
続いたその言葉に表情を消した。
「お前の言いたいことは分かるよ。ボクだって、お前がボクに着せた冤罪に関係なく最初から魔法使いを不審な目で見てくる人はいたし、それ以前に魔法使いが差別されたり、そのせいでひどい目にあう話なんて散々聞いたよ」
二人の視線が注ぐ中、静かな声でアルスは語る。
「でもさ、だからってお前のやり方で何が解決するんだよ。お前のそれは子供が駄々をこねているようなもんじゃん。そんなんじゃ何も変わらない。復讐を言い訳に宗教に逃げてるだけだ。お前はさ、もっと現実的なやり方で立ち向かわなきゃいけなかったんだよ。そうすればもっと違った結果になってたかもしれないのに。お前こそ、ちゃんと現実と向き合うべきだったんだ」
そう言うとアルスはそっと憐れむように、
「……何よりお前も『あんなもの』に出会わなければそこまで堕ちなかっただろうにな」
「黙れ!!」
それまで黙って聞いていた医者がとうとう大きな声で吠えた。
「黙れ黙れ黙れ!小娘が賢しい振りをして綺麗事ばかり並べ立てやがって!私が現実と向き合うべきだっただと!?その現実とやらがどれだけの苦痛と屈辱と絶望にまみれてると思ってる!?だからこそ、その苦痛と屈辱と絶望に向き合ったからこそこうなったんだろうが!おまけに私の信仰まで否定するだと!?ふざけるな!この方のおかげで私は救われたんだ!」
一気にまくし立てた医者は荒く息を乱しながらアルスを睨みつけた。その姿をアルスはジッと見つめる。
そして、その深く済んだ水底のような紺碧の瞳を細めて静かに尋ねた。
「ならさ、もしお前が本当に救われたなら、なんでお前は未だに一人ぼっちなんだよ?」
そのアルスの問いに医者は何も言葉を返すことができなかった。なんとか、何かを言い返そうと幾度か口を開け閉めするものの、舌が、声が思うようになってくれないのだ。
代わりに出てきたのは、目をそらして逃げ出すような否定の言葉だった。
「お前は……お前は『魔法使い』じゃあ、ない……!」
震える指をアルスへと突きつけ叫ぶ。
「あんな風に、あんな当たり前みたく村人と笑いあえて、あまつさえ弟子なんかができるような小娘に『魔法使い』が分かるものか!!」
アルスは何も言わなかった。何も言わずにその美しい瞳でただじっと医者を見つめ返すばかりだった。
「っ!」
その瞳の中にいったい何を見たのだろうか。医者は激しく顔を歪めて目をそらした。そして口の中でブツブツと呟くと、何かを後ろに控えていたヴォジャノーイから受け取った。
「もういい……」
そう呟いてアルスとエクスに憎悪に燃える目を向ける。
「もう分かった。結局お前は『魔法使い』足り得なかったという、それだけのことだ。ならもう殺す。私を否定したお前も、それを唆したそこの小僧も、ここで二人共殺してやる!」
そう叫んだ医者はヴォジャノーイから受け取った何かを高く掲げた。
(あれは……杯?)
掲げられたそれを見て、剣か杖かと考えていたアルスは眉を寄せる。いや、たしか盃は水の属性を司っていたような…
だがそんな悠長に考えている暇はなかった。ゴボゴボという音と共に杯の中から湧き出た大量の水がアルス達に襲いかかった。
「アルスさん!」
先に反応したのはエクスの方だった。アルスの腕を掴むとそのまま横に飛んで水を躱す。次の瞬間、ドッという重たい音を立てながらついさっきまで二人が立っていた場所に大量の水が地面を濡らした。
つい今さっきまで自分が立っていた場所で大量の水が蠢いているのを見て、アルスは心臓が掴まれたような錯覚を覚えた。
「さあお前達、仕事の時間だ」
医者がそう言うと、それまで静かに医者の後ろに控えていたヴォジャノーイ達が一斉に動き出した。その数は十匹以上。各々がそれぞれ手に短い槍のような武器を携えている。
二人が身構えると医者はビュンと手に持った杯を振った。
また水の叩きつけかと二人は横に飛ぼうとしたが、そうではなかった。ザアッと音を立てる水の塊は杯に繋がったまま、その振るわれる動きに合わせて長い形にグニャリと歪む。それは長さが十メートル、幅が大人一人分はありそうなとても太い水の鞭だった。
太すぎて普通の大きさの杯が不似合いに見える水の鞭を医者は軽々と振るう。その腕に操られる水の鞭はのたうつ大蛇のように二人に襲いかかった。
「くっ!」
またもや二人は横に飛んで上から叩きつけられたそれを躱す。水の鞭はあまりに大質量なためか、そこまで動きは動きは早くない。アルス程度の身体能力でもなんとか避けられるぐらいだ。エクスならばもっと容易いだろう。
これならばなんとかなるかもしれないと思ったアルスの考えは次の瞬間に打ち砕かれた。
「うわっ、こいつら!?」
突然ヴォジャノーイ達が目の前に現れ、その手に持った短槍を振りかざす。なんとか身をよじってぎりぎり避ける。その切っ先にアルスの美しい銀髪が数本ばかり宙に舞う。それを横目で見ながらアルスは全力で距離をとった。ちらりと目を向ければエクスも似たような状況のようだ。
「こいつら、いったいどこから……」
後ろから回り込まれたわけではないし、そもそもそんな至近距離まで近づかれたならいくらなんでも気づくはずだ。
二人のそんな疑問はゴボゴボという音が解決してくれた。
発生源は水の鞭。宙をうねるそれの中をヴォジャノーイ達が泳いでいる。
「っ!?」
予想外の水の鞭の使い方に二人は目を見張る。だがそうしてる間にも鞭は振るわれる。またもや二人がなんとかそれを避けると、避けた直後を狙って水の鞭の中からヴォジャノーイが短槍を構えて飛び出してきた。それを地面に転がるようにしてぎりぎりで避ける。
「くそっ!」
思わずエクスが毒づく。アルスも同じ気持ちで医者を見るとニヤニヤと愉しそうに笑っていた。まるで獲物をいたぶって楽しんでいるようだ。
(……いや、『まるで』じゃない。実際にボク達をいたぶって遊んでやがる)
水の鞭とその中から飛び出してくるヴォジャノーイ達の攻撃。おまけに水の鞭が振るわれてからヴォジャノーイが飛び出してくるまでの時間が一定であればタイミングがつかみやすいが当然そんなわけはない。つまり奴の攻撃は二段階の時間差攻撃だ。むしろ本命はヴォジャノーイの攻撃の方で、水の鞭はヴォジャノーイを相手のもとに勢いを保ったまま送ることと、相手にわざと避けさせて本命の方を避けにくくするためのものに見える。
ジャボンという音に焦って目を向けると飛び出してきたのではなく、短槍を外したヴォジャノーイ達が次々に水の鞭の中に飛び込んでいくところだった。
「せめて同時ならまだ避けやすいのに……!」
アルスは思わずそう呟くが医者がわざわざ手を抜く理由もない。
「どうしましたぁ!?ただただ避けてばかりじゃジリ貧ですよぉ!?」
その医者は実に楽しげに手に持った杯を振り回す。それに合わせて水の鞭が振るわれヴォジャノーイが飛び出してくる。よく見れば水の鞭の中にも流れがあり、ヴォジャノーイ達はそれに乗って勢いを増しているようだ。
(クソ!まるで空中の川だな!)
すでに何度かヴォジャノーイの短槍が体を掠めたせいで体のあちこちから血を流しながらアルスは歯噛みする。なんとか致命傷は避けられているが徐々に狙いの精度が上がってきている。このままではいずれ体を貫かれてしまうだろう。
そう考えたのはエクスも同じようで、飛び出してきたヴォジャノーイの短槍を躱すとそのままアルスの方へ転がってくるようにして走ってくる。
「アルスさん!どうする!?」
アルスと同じように耳や頬、足などに傷を負ったエクスは水の鞭から目を離さないままアルスに声をかける。だがそれに対してアルスは答えられない。どうすればいいのか思いつかないのだ。唯一どうにかできそうなのは例の雷の魔法だが、どう考えても詠唱している暇がない。おまけに射程距離を考えればもっと近づかなければならない。しかし当然だが近づけば近づいた分だけ敵の攻撃は当たりやすくなる。今だってぎりぎりで避けているのにこれ以上近づくのは自殺行為だろう。
(じゃあどうする!?このままだと二人共殺されるだけだ!)
思考が焦りで浅くなりそうになるのを必死に繋ぎ止めながら考える。そうしながらも体の方は水の鞭とヴォジャノーイの二段階攻撃を避けるのに必死だ。やはり敵の狙いの精度は上がっているようで一段、また一段と増える傷が深くなっていく。
「まったく、あれだけ威勢のいいことを言っていたくせにそのザマか。なんなら作戦会議する時間でもあげましょうかぁ?」
まるっきり馬鹿にした様子の医者の言葉にアルスはギリと歯を食いしばる。しかしだからといって何か解決策が閃くこともなく、再び水の鞭が振るわれる。アルスはそれをぎりぎりで避け、その後のヴォジャノーイの攻撃も避けようとするが間に合わず、とうとうその短槍がアルスの頭めがけて勢いよく突き出された。
「しまっ!?」
焦るアルスだったが、フードの頭の両脇につけた金の頭飾りが運良く短槍を防いでくれた。ッキイィィィン!という甲高い音が周囲に響く。
(あ……っぶな!)
バクバクと心臓が暴れ狂うアルスはどっと冷や汗をかく。ちらりと見えたエクスはほっとした顔をしていた。
「アルスさん!」
「平気だから!気ぃ緩めんな!」
さすがに衝撃までは完全に殺せなかったせいで頭が少しクラクラするアルスはそれでも気丈に言い放つ。
とはいえこのままではジリ貧だ。幸いにもヴォジャノーイの突撃は連続してやってこないのが救いか。おそらく連続してやると先に突撃してきたヴォジャノーイに後から突撃してきたヴォジャノーイがぶつかる事故を防ぐためだろう。逆に言えば相手がリスクを厭わずになりふり構わなくなったらいつでもやられてしまうということだ。
(これだけ大量の水を操っているってのに魔力切れどころか疲れる様子すらないし!)
これも邪神の加護によるものか、それとも単純に魔法使いとしての実力差によるものか。いずれにせよ時間をかけたところで不利になる要素しかないようだ。
「ん……大量の?」
そこでアルスは自分の愚痴めいた思考からあることを思いついた。
「つっても結局隙が……!」
避けるのに精一杯で策を思いついても実行できない。どうすればいいとエクスの方に目をやると、ちょうどエクスが狙われたところでぎりぎりでヴォジャノーイの短槍を避けたいた。エクスの後ろの方ではしなった水の鞭が道端の木に当たってミシミシという音を鳴らす。
二人共もう限界が近い。そう判断したアルスは無理にでも思いついた策を実行しようとする。するとそれに気づいたエクスがすぐ近くで小さな声で話しかけてきた。
「アルスさん、もしかしてなんか思いついた!?」
「一つだけ……上手くいくか分からないけど。ただ隙がなくて」
ヒソヒソとした声で不安げに語るアルスを見たエクスは一つ頷くと、
「分かった。じゃあ時間は稼ぐからその間にアルスさんはなんとかして」
「え、ちょっ!?」
言うか早いか、エクスは医者に向かって駆け出した。
驚いたのは医者も同じだ。まさか向かってくると思わなかったのか、一瞬目を見張る。だがすぐに鼻を鳴らして見下すような表情になると、手に持った杯を振るう。ゴボゴボと音を立てながらしなる水の鞭を前に飛んでエクスは避ける。そして間髪入れずに立ち上がると水の中から飛び出してきたヴォジャノーイを横から蹴って叩き落とした。
アルスは僅かに逡巡していたがエクスの覚悟を無駄にできないと『アルスの森』に手を伸ばした。何より早くやればその分エクスの安全性も高まるはずだ。
(近づけないし詠唱の隙がなくて攻撃ができない……なら攻撃じゃなくて、近づかずにあいつの力をパンクさせれば!)
魔法というのは万能でなければ無限でもない。アルスの雷魔法が何回でも使えるわけでもなければ、山を吹っ飛ばすようなありえないレベルの雷を撃てるわけでもないように限界があるのだ。
(だからあいつだって操れる水の量には限界があるはず)
おそらく邪神の力で底上げされているだろうが別に限界がなくなったわけではないだろう。いくら邪神の力でもそんなことができるとは思わないし、もし仮にそんなことができるんだったら敵の攻撃はこんなものではないだろう。向こうが手を抜く理由がないのだからこれが奴の全力のはずだ。
そして杯というものは水の属性を司る魔法の道具だ。医者のあれは水の魔法が込められているのではなく、あれ自体が水の象徴なのだ。水を操るにはもってこいだろうが同時に周囲の水の影響も受けてしまうはずだ。
そしてあの水の鞭は医者の魔力によって生み出されたもの。ならば医者が生み出した以上の水を与えればどうなるか。
つまり、
(周囲の水をとにかく増やすことであいつの魔法の許容量をパンクさせる!)
素早く深呼吸を一つ。頭に思い描くのは自分の魔法による天候操作だ。
幸いにも医者はまだエクスの方に意識を向けている。エクスは自分への攻撃にアルスが巻き込まれないようにするためかアルスと直線上に並ばないように角度をずらしてくれている。これなら医者の意識がアルスに向かない限りは大丈夫そうだ。やるなら今のうちだ。アルスは本を構え、急いで精神を集中させる。
「我が手には森。それは蛇を伴った彼の者、花冠の君の恵みによるものなり。この豊かな木々をもって彼の恵みをここに示せ!」
その口が紡ぐのは魔法そのもの。それはアルスが早口で唱えると同時に不可思議な力と共に周囲に広がっていく。
変化はすぐに訪れた。ポツポツと、鞭による水しぶきとは違う水滴が降ってきたかと思うとそのままザアッと一気に大雨になった。
「!?」
突然の大雨に医者が驚いた顔で振り回していた杯を止める。その隙にここぞとばかりに殴りかかろうとしたエクスに慌ててヴォジャノーイを前に出しながら距離を取る。
エクスはヴォジャノーイと間合いを計りながら空中で蛇のようにうねるだけとなった水の鞭と振り続ける雨を見て、一瞬だけアルスの方を見てにやりと笑いかけた。具体的な説明をしている暇はなかったがこれがアルスの策であることは伝わったのだろう。
(あとはあいつが魔法を止めるのを待つだけだ)
己の限界を超える量の水を強制的に押し付けられた医者は魔法の暴走を恐れてあの水の鞭を解除するだろう。もしそうしなければ距離をとって暴走に巻き込まれないようにしながら医者が自滅するのを待てばいい。まあ医者も馬鹿ではないのだから魔法を解除してヴォジャノーイに頼り出すはずだ。けれどそうなれば今度こそ雷を撃ち込める。数が数なのでこちらの魔力がもたないかもしれないが、所詮は陸の上の蛙。いざとなれば走って逃げられる。
(あいつも他に何か魔法が使えるかもしれないけど……そうしたらその時またその魔法に対して対処するしかない。まずはあの水の鞭をなんとかしないと!)
そう考えていたアルスだったが、
「……え?」
驚きの声を漏らした。
何故なら医者は僅かに水の鞭を振るうことを止めていたものの、すぐにまたその凶器を振り回し始めたのだ。自分の魔法にとって致命傷になるはずの雨を気にせずに。
もしや暴走覚悟で無茶をしているのかと思ったが、医者の表情にそんな気配は微塵も感じられない。そしてその医者の顔がアルスへ向けられた。ドッと振るわれた水の鞭を慌てて前に飛んで避ける。続くヴォジャノーイの追撃を横にゴロゴロと転がって躱し、急いで立ち上がる。荒い息を吐く、すっかり泥まみれになってしまったアルスに医者は呆れた目を向けた。
「何をしたのかと思えば……まさかのただの雨乞いとは。たかだか雨を降らせたくらいでなんだというんです?」
医者は杯を掲げるようにして水の鞭を再び自分のもとに戻した。水の鞭をとぐろを巻く大蛇のように頭上でうねらせながら医者は小さく溜息をつく。
「そりゃあ属性を司る魔法の品は逆に周囲の同属性のものの影響も受けたりしますがね、だからといってこんなことで私の魔法を破れると本気で思っていたのですか?」
その言葉にアルスは思考が白く染まっていく感じがした。せっかくエクスが体を張って隙を作ってくれたのに、そもそもが見当違いの作戦だった。そのことがアルスの頭を蝕んでいく。
(なんで?間違ってた?いったいどこが?じゃあどうすりゃいいんだよ?え、待ってよ。何を、だってセンパイがあんなに……邪神の力のせいで?それって何をどうしたら……それでセンパイが怪我して、あ、まずはあの水の鞭を……)
「アルスさん!」
アルスが動きを止めてしまったのを見たエクスが鋭く叫ぶ。その声にハッと我に帰ったアルスは慌てていつのまにか再び迫っていた水の鞭を転ぶように避けようとするが間に合わない。
水の鞭がドッと勢いよくアルスに向かい、アルスが思わずぎゅっと目を閉じる。
「く、そっ!」
直後、ドンッとアルスは横から突き飛ばされた。
「え?」
アルスが瞑った目を開けてみれば、そこにはアルスを庇うように突き飛ばしたエクスがいた。咄嗟に突き飛ばしたせいだろう、半ば倒れこむような体勢のエクスに水の鞭が迫る。それでもエクスは体を無理に捻るようにしながら倒れこみ、どうにかそれをぎりぎりで避けた。そしてすぐに来るだろうヴォジャノーイの追撃に急いで体を起こすも、あの化け蛙は飛び出してこない。
「……?」
不審に思いながらも僅かに気が緩んだその時、
「こ、いつっ!?」
タイミングをずらしたヴォジャノーイがエクスに襲いかかった。意表を突かれた上にまだ立ち上がれずにいたエクスはそれを避けきれず、
「ぐぅっ!?」
その短槍を腹部に受けてしまう。ドスっと思ったよりも鈍い音を立てて勢いよく突き出されたその一撃は、どう見ても致命傷を与えるに充分なものだった。
エクスの体から力が抜け、その手足が投げ出される。
「え……?」
アルスの口から呆けた声が漏れる。
「エ、ビ……センパイ……?」
それは意識して声を掛けるというよりも半ば無意識の内にポロリと口から溢れたような呼びかけだった。
「センパイ?ねえ、ちょっと……?おい……おいって!エビオセンパイ!?」
その呼びかけは次第に悲鳴のようになっていくがエクスはなんの反応も返さない。
「クッ、ハハ……ヒャハハッハハハ!ざまぁみろ!ざまぁみやがれ!!
医者が狂ったように上げた哄笑をアルスは無視してエクスに駆け寄ろうとしたが、そこにヴォジャノーイが立ち塞がった。
「どけよ、おい!」
思わずアルスは怒鳴りつけるが、目の前の化け蛙は笑い声のような鳴き声を漏らしながら槍を向けてくるだけだ。その向こうに見えるエクスはやはり倒れたままピクリとも動かない。
何故、とアルスは歯噛みする。だって本来あそこに倒れているはずなのはアルスなのだ。間抜けにも敵の魔法を勘違いして、見当はずれの作戦でただ体力と魔力を無駄にしただけで。その結果が何故自分ではなくエクスに行くのだ。
「……ボクが間違ったから」
また自分のせいだ。メクイグモの時と同じ。しかもとばっちりを受けたのはまたもエクスだ。アルスの胸中に否が応にも苦いものが満ちていく。
だから関わらないようにと考えてたのに。そんな益体もない言葉が頭の中で浮かんで弾けた。
魔法使いに憧れた。物語に出てくるような、かっこよくてすごい魔法使いに。
けれど、叶わなかった。何もかもが手のひらから零れていく。
(だけど……)
だけどそんな自分をあいつは信じてくれた。こんな情けなくて、調子に乗って知識をひけらかして、そのうえ一方的に縁を切ろうとする自分なんかを、それでもまだ師匠と呼んでくれたのだ。
「どけよ……」
アルスは歯を食いしばって目の前のヴォジャノーイを睨みつける。
憧れは遠い。自分なんか魔法使いとしてはまだまだ駆け出しで、とても弟子なんか持てるような実力じゃないけど。
それでも、分不相応でも、自分が魔法使いとして立つ理由がこの化け蛙の向こうに倒れているのだ。
「そこをどけえええぇぇ!!」
駆け出したアルスに驚いたヴォジャノーイはその気迫に気圧されたようにビクンとその身をすくませた。そしてアルスから逃げるようにぴょこぴょこと後退すると、先にエクスに止めを刺そうとわたわたと振り返って倒れたエクスを貫くためにその槍を高く掲げた。
「こ、のっ!」
魔法はエクスを巻き込みかねない。そもそも間に合わない。ならばどうする?簡単だ。
今まさにエクスを貫かんとしているヴォジャノーイに爆発したアルスは強く拳を握り締めた。そして、
「人の弟子に……何しようとしてしてやがんだテメエェェ!」
背後からヴォジャノーイに殴りかかった。それと同時に、
「ぅおらっ!」
意識を失っていたはずのエクスが僅かに体を起こして、倒れたままヴォジャノーイの腹を強く蹴りつけた。
「グウェエエ!?」
前後から押し潰されるように打撃を食らったヴォジャノーイはまさしく潰れた蛙の鳴き声を上げてどさりと倒れた。
「え、セ……センパイ?」
先程まで何の反応も示さなかったエクスが急に意識を取り戻すどころか、いきなりヴォジャノーイを蹴りつけたことに驚いたアルスが目を白黒させる。
驚いたのはアルスだけではない。それまでニヤニヤしながら眺めていた医者のいやらしい笑みが驚きの表情へと変わった。
「あー、いてて……」
よく見れば腹部に刺さったはずの短槍には血がまったくついていない。ヴォジャノーイも困惑したように自身の握った短槍とエクスを交互に見比べている。
「な……何故、なんであの勢いで刺されたのに無事なんだ!?いったいお前、何をした!?」
医者がそう叫ぶがエクスはわざとらしく鼻をフンと鳴らすと、
「ま、これでも英雄なんで」
にやりと不敵に笑ったエクスはついでとばかりに立ち上がろうとしていたヴォジャノーイを蹴り飛ばす。ドゴッという鈍い音と共に地面に転がったヴォジャノーイはよろよろとした足取りで医者のもとへ戻っていく。アルスが周囲を見回すと他に二体のヴォジャノーイが頭を抑えてフラフラしていた。どうやらエクスは避けながらもなんとか反撃していたようだ。
「大丈夫なの?センパイ」
医者を警戒しながら駆け寄ったアルスにエクスはちらりと服をめくってみせた。
「それ……」
その内側に着込まれていた白いシャツにアルスは見覚えがあった。思わず目を丸くしたアルスにエクスはこんな状況だというのに悪戯っ子のようににやりと笑ってみせる。
「自分でも忘れてたんだけどね。まあ、師匠のおかげってことで」
「……はは」
ほんの数秒の間、呆気に取られていたアルスだったが、いつのまにか自然と笑みを返していた。きちんと医者に注意は向けているものの、それとは別に二人は子供のように笑みを交わす。自分でもなぜかは分からないが、重く張り詰めいていたものが少しだけ軽くなった気がした。
「でも、それならなんでやられた振りなんかしてたんだよ」
やはりどこか怪我をしたのではないか。そうエクスに心配の目を向けるが、
「いやワンチャン不意打ちであいつぶっ飛ばせないかなって。まあ無理だったけど」
だが返ってきたのはあっけらかんとした返事だった。そしてそんなことより、とエクスは切り替えるように、
「さて師匠、次はどうすんの?」
警戒してるのか、エクスに視線を向けたまま仕掛けてこない医者に二人は身構える。
「……」
アルスは真剣な顔で黙り込むと少し待てというように片手をエクスに向けた。
作戦は失敗した。何故?邪神の力によるものか、もしくは単純に何かを見誤ったか。だとしたらなんだ?何を見落とした?
一瞬の間にアルスの思考が凄まじい勢いで回転する。そこでアルスはあることに気がついた。
(あの水の鞭……さっきと何も変わってない……?)
よくよく見てみれば長さや太さ、勢いまでもが最初の頃となにも変わっていないように感じる。
(おかしくない?あの鞭はあの杯によって作られたもの。そして盃は水の属性を象徴するものなんだからあの鞭も周囲の水の属性、つまりこの雨の影響を受けて肥大化するはず。なのに全然変化がない?)
そこで再び医者が動いた。よく分からないエクスは後回しにすることにしたのか、あからさまにアルスを狙って水の鞭を振るう。
「っと!」
思考を一時中断してアルスは横に飛んで避ける。続くヴォジャノーイの追撃に備えてすぐに身構えると、横からエクスがアルスの前に飛び出してきた。
「ちょ、センパイ!?」
ギョッとするアルスだったが当のエクスは飛び込んできたヴォジャノーイの短槍を胴体で受け止めると返す刀でアッパーを叩き込む。
「師匠!俺の方に避けて!なんとか防げるみたいだから!」
そう叫ぶエクスに一度ならず二度までも仕留め損なった医者が忌々しそうに大きな舌打ちをした。
「いったいなんなんだ、たたの凡俗ごときが…魔法を使っているわけでもなければ鎧を着ているわけでもない……だというのに、私の攻撃を防ぐだと!?」
続けてもう一度水の鞭を振るうが結果は同じ。外れた水の鞭はミシミシとぶち当たった木をしならせ、殴り飛ばされたヴォジャノーイが先程アッパーを喰らってふらついていたやつと一緒に逃げ込むように水の鞭の中に飛び込む。
動揺しているのは医者だけではないようで、水の鞭の中でヴォジャノーイ達が医者とアルス達を見比べている。蛙の表情など分からないが、その様子はどことなく不安そうに見えた。
だがアルスは別のことに気を取られていた。
(あれだけの質量の水が叩きつけられたのに折れずに撓むだけ?)
先程何が気になっていたのか自分でも分からなかったことがアルスの中で具体的な形になる。
当たり前のことだが、水は重い。それがそれなりの勢いをもって叩きつけられたのなら簡単にへし折られてもおかしくない。しかし実際にはただ撓ませるだけだ。
「いや……そもそも叩きつけてるのか?」
思い返してみればあの鞭が地面に叩きつけられた時も地面が抉られたりするどころか、土が飛び散ることすらほとんどなかった。実は見た目ほどの勢いはないのだろうか。だとしたら何故なのか。
(叩きつけているわけじゃないとしたら、あれはもしかして質量が大きいから結果的にそう見えているだけで、実際にはうねらせてる……というか軌道を変えているだけ?)
そこでアルスはさっき自分で本命はヴォジャノーイの方で水の鞭はその本命を当てるためのものではないか、と考えたことを思い出す。つまり、
「あの水って本当は鞭じゃない……?」
だがそこまで考えたところで、
「この!」
突然聞こえてきた医者の声にアルスは思考を一旦中断して、またもや振るわれた水の鞭を言われたとおりエクスの方へ避ける。それだけで続くヴォジャノーイの短槍はエクスに阻まれてアルスに届かなくなる。
短槍を防がれたヴォジャノーイはエクスの顔に向かってもう一度短槍を突き出そうとするが、泳ぎの勢いが乗っていないそれはあっさりと簡単によけられる。そしてそのままその頭を鈍い音を立てて蹴り飛ばされる。避けるのではなく受け止めることで確実に反撃ができるようになったようだ。
(けど、これで安全になったとは言えないし)
エクスの身を守っているのはシャツ一枚。つまり防げるのは上半身、それも胴体だけだ。ほかの部分を狙われたらひとたまりもないだろう。
「そうなる前になんとか突破口を見つけないと……」
そう呟いて一度中断した思考を素早く再開させる。
(あの形とか振り回してるとことかそれだけ見て水でできた超でっかい鞭だと思ってたけど、それならよくよく考えてみれば威力が足りなさすぎる。あれだけの質量で木の一本も折れないんじゃいくらなんでも弱すぎる)
見た目のインパクトに騙されがちだがあくまで医者の攻撃の本命はヴォジャノーイの方だ。あの鞭のような何かはそのための下準備のようなものでしかない。
(そしてあれは水の属性を司る杯による魔法なのに何故か雨の影響を受けない)
どこかズレている。何かがちぐはぐなのだ。ただその『何か』が具体的になんなのか分からない。
(邪神の加護のおかげ?それとも何か別の何かがある?)
邪神の力によるものである可能性はおそらく低いだろう。なぜなら邪神の加護といっても雨が降り始めた途端にいきなり加護が与えられたとは考えにくいからだ。なので邪神の加護によるものだとしたら、始めからもっと大量の水を操ってたのではないだろうか。
そして邪神の力によるものでないなら何が理由なのか。
加速された思考は僅かな時間の間に目まぐるしく回転していく。
(まず最初から考え直してみよう)
何故自分は雨を降らせれば突破口になると考えたのか、
(そうすればあいつの扱える魔法の許容量を超えてパンクさせられるから)
何故雨が降れば医者の魔法が許容量を超えると考えたのか。
(あいつの使っている魔法はあの杯によって生み出されたもので、その杯は水の属性を司る魔道具だから逆に周りの水の影響を受ける。だから雨を降らせればそれで生み出している……あれ、も……)
ある閃きがアルスの頭を駆け巡ったのはその時だった。答えのその一歩手前にいきなりたどり着いたかのような感覚が満ち満ちて、痺れるようにアルスを急かす。
しかしその感覚が消え去る前に思いついた閃きもすぐに疑問で否定されそうになる。
「いや、でも……なら、あれはどうやって……いや!」
だがその否定と疑問をぶっ飛ばすように思考に雷が走った。その雷は今さっき自分で考えていた言葉だった。
「そう、そうだ!逆に周りの影響を受けるんじゃん!ならつまり……いや、そもそもが……!」
自分の一番得意な魔法を思い出す。あれはどんな理屈で作り上げた魔法だった?
アルスの中で急速にパズルのピースが組みあがっていく。思考が輝くほど高速に回転する感覚の中でアルスはようやく全てが見えたような気がした。
「この……たかが凡俗の分際で!」
引き伸ばされたアルスの思考を現実に戻したのは苛立った医者の声だった。
「お前達も一匹一匹チマチマやってないで一斉にかかれ!」
苛立ちの矛先はヴォジャノーイ達にも向かった。突然怒鳴られたヴォジャノーイ達はどこか不満げにしながらも一斉に宙をうねる水中に飛び込んだ。
「これはまずいかな……」
今までアルス達が避けられたりエクスが捌けたりしたのは、向こうが同士打ちを避けるために一匹ずつ襲いかかってきたからだ。だがあちらがそれを止めて何匹も同時に襲いかかってきたらおそらく避けきれなくなる。エクスもそれを分かっているようで焦ったように舌打ちを漏らした。
何か、なんとかできるものはないか。無駄と分かっていてもアルスはそう考えて辺りを素早く見渡す。だがやはり開けた周囲には役に立ちそうなものは何もなかった。
(あれ……でも、ここって……)
何度も避けて転がってを繰り返しているうちに襲われた場所からだいぶ離れた場所まで移動していたようで、いつのまにか見覚えのある場所に来ていた。
「待って、たしかここって近くにアレがあったはず……」
「ちょっ、師匠!」
エクスの鋭い叫びにアルスはハッと意識を思考から引き離す。その時にはすでに大量の水が迫るとともに三匹のヴォジャノーイが水中から飛び出していた。
「クソっ!」
吐き捨てるように叫んだエクスはタックルをするようにアルスに飛びついた。次の瞬間、アルスが立っていた場所には二本の短槍が刺さっていた。
「グルルルゥゥプウウゥゥ!?」
気味の悪い悲鳴に目を向ければなんと三匹のうちの一匹、その腕に短槍が突き刺さっていた。残る二匹は片方が申し訳なさそうに、もう一匹が慌てたようにオタオタとしている。
「チッ、役立たず共が!」
舌打ちとともにそう吐き捨てた医者は三匹をちらりと一瞥したものの、すぐに役に立たないなら興味はないとばかりにアルス達に向き直った。だが、
「おい、何をやっている?」
仲間が刺されてしまったことに怖気づいたのかヴォジャノーイ達はジャボンと水の中から出てしまった。そして不満げな、どこか怒ったような視線を医者に向ける。
「何してるこの馬鹿共!とっとと戻れ!」
怒鳴り散らす医者にヴォジャノーイ達は顔を見合わせるばかりだ。
なにやら揉め始めた今のうちにと二人は急いで体制を立て直す。
「それで師匠、なんか考え込んでたけど何か思いついた?」
先に立ち上がったエクスはアルスに手を貸しながら尋ねる。
「うん……けど、この考えが当たってるかどうか……」
助け起こされながら立ち上がったアルスは不安そうに答える。また上手くいかなかったらどうしよう。ただでさえ向こうはなりふり構わなくなってきているのだ。そうなれば今度こそ殺されてしまうだろう。
だがエクスはあっさりと、
「じゃ、とっととやりましょうよ。さすがにもう色々限界だし」
そのあっさりした感じが逆にアルスの不安を刺激する。
「いやでも上手くいく保証もないし、そしたら今度こそ……」
「そうは言っても他に手はないでしょ。俺は魔法なんてよく分からないんだから、俺にとっちゃ師匠だけが頼りなんだし」
「そうかも、だけど……」
なおも不安げなアルスに、んー、とエクスは少しだけ考え込むと、
「ま、なんとかなるでしょ。師匠なんだし」
いっそムカつくくらいあっけらかんと言い放った。
「お前、そんな……っていうかいつの間にかまた師匠呼びだし……」
あの喧嘩の日以降、気を使っていたのかずっと名前で呼んでいたはずの呼び方が元に戻っている。だが、そう言われたエクスはきょとんとした顔で、
「え、でも師匠が弟子だって言ったんじゃん。人の弟子に何しやがるだかなんだかって」
「……へ?」
言われてみればそんなことを叫んだ気がする。
無意識のうちに叫んでいた言葉にアルスは咄嗟に言い訳をしようと口を開くが、なんと言えばいいのか分からずに中途半端に口を開いたままパクパクと動かすしかできない。
ややあって、
「……まったく、世話が焼けるよ。ホントに」
そう言ってアルスは何かを諦めるように深々と溜息をついた。けれども反対にその顔には憑き物が落ちたようにすっきりしたような笑みを浮かんでいた。
そして目の前の青年を正面から真っ直ぐに見据えると、
「うし、いくぞバカ弟子!」
「はい!」
二人共何度も攻撃を避けるために地面を転がったせいで体中泥だらけで、何度も攻撃が掠めていたせいであちこちに血が滲んでいる。思いついた策はやはり通用するかは分からずにどちらも体力は疲労困憊だ。
けれども、それがなんだというのだ。
目の前にいるのは自分の弟子で、自分こそはその師なのだ。
それ以上の理由は必要ない。
つまりは、
「さあ反撃開始だ!」