大内家の野望   作:一ノ一

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その二十

 非常にまずい展開になった、というのが大内家中の総意である。

 土佐国に覇を示していた一条房基の突然の自殺は、一条家が敷いた戒厳令にも拘らず瞬く間に広がってしまった。

 それに反応したのは、一条家の侵略によって所領を脅かされていた土佐国人達である。

 房基の子がまだ分別も分からぬ幼さという事を逆手に取り、誰がこの幼君を擁立するか、という点でもめ始めたのである。

 土佐一条家の中でも、派閥争いが起こっている中で、その外周を囲む国人達の動きは活発化した。指示系統も確立していない一条家は、この国人達の動きに適切に対応する事ができない。内部からの離反も相次いだ。

 この時、一条家を二分していたのは、どこを頼るのかという問題である。

 候補に挙がっているのは、大友家と大内家。主流となっているのは晴持との繋がりから大内家を頼るという意見だが、異を唱える者は、房基が大内家によって暗殺されたのではないかという言説を吹聴して回り、少しずつ勢力を広げている。

 大内家が伊予国を制圧した事が彼らの危機感を煽っているのは明白だ。

 ここで大内家を頼れば、河野家のように膝下に従う羽目になるのではないか。

 その際に、自分達の居場所は確保できるのか。

 そういった不安が、彼らに大内家への敵愾心を抱かせた。

 その背後にいるのは、例の如く大友家だ。

 つくづく、大内家の邪魔をしてくれる。

「土佐の内情はまったくよくありませんね」

 晴持は鬱々とした表情で義隆を見る。

「ええ、この状況ではわたし達がなんの策もなく介入するのは無益な反発を誘発するだけでしょう」

 すでに動きが確認された国人は、本山家、長曾我部家、安芸家などがある。安芸家はまだ一条家を見限っているわけではないようだが、本山家と長曾我部家は、一条家という楔が外れたために旧来の反目が明確化してしまった。

 一条家とは関係なしにこの二家は対立し、やがて独立を画策するであろう。

 さらに不幸なのは、河野家の傘下に治まっていた西園寺家が軍を発して一条家の所領に攻め込んだ事である。ただでさえ一条家は混乱の極みにあるというのに、そこに一応は味方だったはずの西園寺家が攻め込んだ事で不意を打たれた形になった。

 西園寺家は河野家の下にあり、河野家は大内家の傘下である。通直が晴持と関係を結んだ事は周知の事実なので、この西園寺家の軍事行動が大内家の判断だと受け取られてもおかしくはない。

 土佐一条家における大内家の評判を貶めた要因の一つであった。

「西園寺は先の戦に於いて一条家を引き入れて大友と相対した家。まさか、こうもあっさりと手の平を翻すとは……」

「よくよく考えれば、もとは敵方にいたのが伊予での主導権争いに介入するために一条家を引き入れたわけだしね。その時点で返り忠をしているといえばしているのよね……」

 無論、西園寺家としてはその当時はどこに属しているという意識もなかったであろう。

 ただ、自分達に都合のいい勢力と結びついて自家の存続を図っただけである。

 しかし、今回ばかりは大局を見ていないとしか言いようがなかった。

 河野家の傘下に収まったという自覚がなく、未だに独立した国人気分だったのであろう。すでに伊予国の主導権はほぼ河野家にあるとはいえ、伊予国のすべてがこれに服したわけではない。

 通直は分家筋の敵対勢力を駆逐して、長年の敵手であった宇都宮家を亡ぼし、西園寺家を事実上の服属状態に置いた。それによって伊予国の中央部から西部にかけてを手中に収めたわけだが、残念ながら東予地方には手が回っていない。そういった事情も加味して西園寺家は独自に兵を挙げるに至ったのであろう。土佐一条家と西園寺家は、領地を接している事から度々衝突があった事もあり、隙を見せた敵に攻撃を仕掛けるのは、戦国の倣いでもある。大内家と河野家にとってはなんて事をしてくれたんだと言わざるを得ない事態であるが、西園寺家にとっては当たり前の事をしているに過ぎないのであろう。

「わたし達が動かない理由がなくなりつつあるのよね」

「権益を守るのであれば、兵を出さねばならないでしょう。放って置けば、またしても大友が出てきます。一条家は一応こちら側ですから、対抗するには、大友を頼るのが近道です」

「だけど、大友は島津の北上を警戒し、さらに少弐のほうもきな臭いとなれば、迂闊に四国に兵を出せない状況にある」

「そうは言いましても、俺達が兵を出せば一条家を陥れた事を証明するようなもの」

 そして、それは河野家も同じ。

 大内家に組する勢力が一条家の混乱に乗じて兵を進めるのは、西園寺家が仕出かした事を大きな規模で行うのと変わらない。

「で、あれば得意分野で攻めるしかないわよね」

 そう言って、義隆は意味ありげに笑うのだった。

 

 

 

 □

 

 

 

「ああ、もう、なんて事してくれたのよ西園寺のドアホッ」

 四国は伊予国湯築城。

 全国有数の温泉地として古の書物にも顔を出すその地にあって、守護代河野通直は苛立ち紛れに髪を掻き毟る。

 伊予国は土佐国の動乱さえなければ上手く纏っていたのだ。大内家の威がそれほどまでに強烈だったという事も手伝っているし、河野家始まって以来初めて宇都宮家が治めていた領土よりも先に進出した事で河野家そのものに勢いが生まれたという事もある。

 しかしながら、それが今回の西園寺家の独断専行で急ブレーキを掛けられた形になり、河野家の中にも困惑と苛立ちが蔓延し始めていた。

「こんな様じゃ義隆様にお叱りを受けちゃうわ……」

 伊予国を任されているからには、その統治をきっちり行わねばならない。今の河野家はもはや独立した大名ではなく大内家の属する一勢力である。それでも、大内家中に於いて最大級の版図を有しているのは事実だが、大内家の底力に比べれば微々たる物だ。

 恥ずかしながらも婚姻関係まで結んで河野家の立場を安定させたのに、これではすぐに関係がぐらついてしまう。

 通直は、現在自分の立場を確立するために、四国で起こった様々の事件の情報を掻き集めて、山口に送るなど献身的に大内家に尽くしている。それもすべては河野家のため。大内家からよりよい扱いを受けるためだ。

「で、結局どうすんだ?」

 筋骨隆々な筆頭家老、村上通康が通直に尋ねた。

「当然、討つ。勝手な事されて黙ってたらそれこそ問題を大きくするわ。それに、西園寺を討つのはわたし達にとっても都合がいい」

「まあ、確かにそうだわな」

 西園寺家の所領を正式に河野家の勢力下に置けるならそれに越した事はない。もっとも、それは義隆の顔色を伺ってから決める事ではあるが、西園寺家を討伐すれば大内家が西園寺家の行動に関わっていないと示す事もできる。

 勝手な事をした西園寺家には、これを機会に潰れてもらう。

 背後の東予地方に不安があるが、そちらにも兵を割いて牽制すれば問題なかろう。先の河野家の内紛に漬け込まなかった連中が、今更進んで河野家や大内家に牙を剥くはずもない。

「土佐がこのまま荒れれば、大内本家も兵を挙げるだろうな。また、大内の若旦那が渡って来るかもしれねえぜ?」

「そ、そそその時はその時。ちゃんと大内家の支援に徹するわよ」

 一気に顔を赤くした通直は早口で取り繕うように言う。

 誤魔化すように髪を弄り始めるのは、戦場を駆ける姫武将というよりも想い人に恋焦がれる町娘のようであった。

 幼少から知る主君のそのような様子に通康は失笑しつつ、咎めるような通直の視線から逃れるようにその場を後にしたのであった。

 この二日後、通康を中心とする河野勢が湯築城を発して西園寺家の討伐に動き出した。

 

 

 

 □

 

 

 

 土佐国の中で、昨今急速に存在感を示している勢力がある。

 土佐国長岡郡に根を張る国人、長曾我部家である。

 その当主である長曾我部元親は腰の辺りまで伸びた艶やかな黒髪が美しい姫武将であった。元服の際に、土佐国の守護である管領細川晴元から一字を賜り元親とした。白を基調とした衣を纏い、自らが指揮を取って戦う姿に、多くの将兵が心を動かされ敬服している。

 かつては、武家の跡取りでありながら柔弱な性格だった事から姫和子などと陰口を叩かれもしたのだが、武芸にも領国統治に於いても先代である母親を凌ぐ才を見せている。

 土佐国の多くの国人にとってそうであるように、一条房基の突然死は家の今後を左右する重大事であった。

 つまり、一条家にこのまま従い、無難な道を行くのか、それとも独立して土佐に新たな秩序を設ける道を探るのかという選択を迫られているのである。

 そして、元親は迷わず後者を選択した。

 長曾我部家はもとより小身。土佐七雄の中でも最弱の勢力だった。しかし、それでも最弱が真っ先に倒れるとは限らない。

 一条家に飲み込まれた勢力もいる中で、長曾我部家は未だに独自路線を取る事ができるだけの力を維持していた。

 それが、この動乱に付け入る大きな力となる。

 そうして発った長曾我部勢は、瞬く間にその勢力を拡大する事に成功する。

(そろそろ本山と決着を付けなくてはいけないね……)

 父祖以来の宿敵である本山家。

 かつての長曾我部家であれば、決して敵わない強敵であったが、今では元親の進撃を食い止めるのが精一杯と言った有様だ。

 他の勢力が口を出す前に潰せるだけ潰さねば。特にこの宿敵だけは始末しておかなければ後で憂いを遺す事となろう。

 決意した元親は、配下に命じて兵を集めさせ、木枯らしが吹く頃に遂に本山家を討伐すべく兵を興した。

 本山家の当主である本山貞茂は、元親の姉の子、つまり甥に当たる。攻めるのは忍びなかったが、これも戦国ゆえに仕方がないと元親は辛さを表情に出さずに兵に告げる。

「この戦で本山を降す。成功するまで、ここには帰らないから、覚悟しておくように」

 己の覚悟を告げると兵達は喊声を上げる。

 目的地は本山家が領有する最後の砦、瓜生野城。

 山間に建つ瓜生野城は、平地に比べて気温が低く、思わず身震いしてしまいそうになる。あるいは、この地に近付く死神の手であろうか。

 否だ。

 元親は脳裏を掠めた詩的表現を打ち消す。

 元親と貞茂とではすでに兵力が違いすぎる。長曾我部勢三〇〇〇に対して城に篭る本山勢はその十分の一程度でしかない。まっとうに城攻めをしても容易に陥落させる事ができるだろう。

 しかし、元親は城を囲むだけ囲んで強襲はしなかった。

 力によって攻め落とせば、後々怨恨が尾を引く事になろう。

 さらには領民に不安を与えるかもしれない。代々の仇敵を亡ぼすのであれば、それでも構わないが、この戦は長曾我部家の勢いをさらに上昇させるための試金石ともなる戦だ。

 不必要な殺生は控えねばならない。

「真綿で占めるように攻め、敵の戦意を挫く」

 それが、この戦に於ける元親の方針であった。 

 じわりじわりと包囲網を絞りつつある長曾我部家の軍勢に対して、貞茂は歯噛みしながら見ているしかないのだろう。

 打って出るわけにもいかず、かといって援軍があるわけでもない。

 まさに俎板の上の鯉といった有様である。

「そろそろ、開城勧告をしよう」

 城を囲んで三日目にして、元親は決断した。

「条件はどうしますか、元親ちゃん」

 中島可之助(べくのすけ)が尋ねた。

「本山の存続と城主以下全員の助命。逃げたいものは逃げてよし。それ以外は皆長曾我部家の家臣となる事」

「え、そんな寛大な……」

 父祖以来の宿敵を相手に、すべてを許すというのはなかなか取れない選択肢だ。それは心情的な問題以上に、反逆の危険を内包するという点で危険だからだ。

「今後を思えば、ここで寛大な対応を見せる必要がある。本山を落とした後は安芸もあるし、その先には一条もいる」

「そうですね。わかりました」

 元親はそれだけ先の事を思って戦を進めているのだと思うと、力強い。

 可之助は、笑って元親の言葉を認めた書状を書いて、使者を遣わせたのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 

 四国の情勢が激しく移り変わっていく中で、義隆が下した決断は、晴持を京に送る事であった。

 京への道は、軍を進めるのでなければ開かれている。まして、瀬戸内の海を掌握した大内家にとって、京までの道のりは海路を取ればよく、非常に安価で安全な道程を確保できる。

 もっとも、瀬戸内の海を渡るのも通常の船ではそこそこの金を必要とする。

 この時代、水軍、海賊、水運は不可分の存在であった。

 多くの商船が海賊行為という脅威に曝されて海に出る。海運は利益が大きいだけに、海賊行為を放置しては多大な損害を被る事になる。

 それを憂えた幕府が村上海軍に命じたのが、商船の護衛任務であった。

 海では通行料を礼銭といい警護料を駄別役銭などと呼ぶ。堺に入る船はこれを支払う事で、安全を確保するのであり、支払いは責務と言ってもよいものであった。

 しかし、村上海軍を押さえた大内家は、当然ながら銭を支払う必要はない。主家の次期当主を護衛するのは当たり前の行為であり、そこで金を取るなどあってはならない。

 晴持一行の前を遮るものは何もなく、天気にすら後押しされて堺の湊にやってきた。

「でっかい湊だ」

 とにかく、そのような感想しか出て来ない。

 初めて訪れる堺は、さすが日本のみならず世界的にも優れた貿易都市だ。常時二十隻近い商船が停泊している湊を有する交易都市は、周囲を水堀りで囲み、塀を高くし、櫓を置いて城塞都市と化している。

 視界いっぱいに人が溢れ、活気付いており、碁盤状に区画整理された街並みは山口を思わせる。

「若様、お気をつけください」

 隣の隆豊が声を小さくして呟く。

「ああ、これだけ人が多ければ好からぬ事を考える者もいるだろうしな」

 富が集まる場所には、それを狙う輩も集まる。

 大名ですら手が出せない日本で最も安全な自治都市とはいえ、その内部に巣食う悪党を完全に排除できているわけではなかろう。

「それもそうですが、堺は細川家と近しい間柄です。当家はその細川家とは明との貿易権を巡って争った歴史がありますので」

「うちは博多の発展にも力を入れているしな」

 交易都市は、堺だけではない。有名所では大内家が押さえる九州の博多や門司があり、間接統治下にある平戸といった海外と繋がる良港がある。そういった湊は、商売敵となるはずだ。

「ま、大丈夫だろう」

 瀬戸内を押さえた大内家を敵に回すとは考えられない。

 大内家は石高の少なさを補うために重商主義に走っている家であるし、瀬戸内の水運は堺にとっても生命線である。大内家と事を荒立てるはずもない。

 晴持は、堺で待っていた博多商人神屋寿禎(かみやじゅてい)の家中の者に伴われて堺を遊覧した後、神屋家の堺屋敷に一泊してから京に向かったのであった。

「これが日本の中心か」

 山城国の中央に位置する京。およそすべての大名の関心を集める政治の頂点。西暦七九四年に桓武天皇が遷都して以来、まるで世界の中心であるかの如く存在してきた権威の象徴である。

 この京の街づくりは、唐の長安を範とした碁盤の目状になっている事は有名であろう。街並みは北と南に区切られており、天皇や公家、裕福な商人が居住する北――――上京と貧困層が集う南――――下京に分かれていた。

 晴持が向かうのは、もちろん上京である。

「応仁以来の戦の影響か……」

 華やかな京は確かに人通りも多く活気がある。しかし、よく見れば朽ちた空家も目立ち、風には腐臭が混じる。天文年間に生じた複数の合戦は、京を焦土に変え、その都度復興を進めるといういたちごっこが続いていた。幕府は独自の軍事力を持てず、管領である細川晴元が幕政を仕切って統治に当たっているものの、畿内一円に平穏が戻るかどうか先行きが見えない日々が続いている。

「話には聞いておりましたが、まさかここまでとは」

 隆豊も失意を禁じえない様子である。

 家を挙げて京文化の吸収に精力を注いでいるだけに、京の荒廃は空恐ろしいものを感じさせた。雅やかな京は、この時代には存在しない。華やかさの影に付きまとうどんよりとした重々しい空気を感じるのは気のせいではあるまい。

「はあ、気が滅入るな」

 どう考えても、堺のほうが活気があったし、山口のほうが落ち着いている。

「そう仰らず。わたし達も目的はしっかりと果たさなければなりませんし、気をしっかりお持ちください」

「ああ、分かっている。暗い顔をして田舎者と思われても癪だ」

 気持ちを切り替えて、晴持はまず将軍が座す室町殿を目指して歩を進めたのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 伊達に公家文化に傾倒していない。

 晴持を中心とする大内家の臣達の挙措は、京人の目から見ても礼に適ったものであったようで非常に好意的に受け容れられた。

 義隆が京の公家や僧、文化人らを手厚く保護しているという点もそうだが、父祖以来幕府への忠勤が篤いという点も覚えがよかった要因だろう。

 とはいえ、実際に将軍と見えた時、この人だけは他と違うと肌で感じた。

 十三代将軍足利義輝。 

 剣豪将軍と名高い、武の人である。晴持の知る正史では、松永久秀らによる謀反にあって討ち死にを遂げるが、その際に畳に突き刺した無数の刀剣で押し寄せる敵兵を切り捲ったという伝説を残していた。

 実際、伝え聞くところでは塚原卜伝などから剣を学んでいるようであったが、実物を目の前にすると格の違いを思い知らされるようであった。

 王冠の如き金色の髪は、ともすれば獅子の鬣のようにも見える。燃えるような赤い瞳に射抜かれた瞬間に、動けば死ぬと本能が告げた。なるほど、部屋に入った時点で彼女の間合いの中にいるということか。

 この人と相対すれば、隆房ですら数合と持たずに斬り伏せられる。剣と槍の間合いすらも、おそらくは慰めにもならない。

 この衝撃、あるいは感動は、口にできるものではなかった。 

 世の中にこれほどまでに突き抜けた人間がいるとは思わなかった。

「お主が大内家の若殿か。噂は聞いているぞ。ずいぶんな活躍だそうだな」

 声をかけられて、晴持はさらに深く平伏する。

「多々良晴持にございます。この度はご尊顔を拝謁し、誠に恭悦至極に存じます」

 『多々良』は、大内氏の本姓である。

 公家の中に家格があるように、武家の中にも家格はある。とりわけ名門とされるのは『源平藤橘』を本姓とする家で、特に『清和源氏』は将軍家である足利家や鎌倉幕府を打ち立てた本流たる源家の存在もあり非常に家としての格が高い。

 しかし大内家の『多々良』姓は、そもそも武家に縁を持つものではない。

 伝承によれば、大内家の祖は百済の聖明王の第三王子琳聖太子(りんしょうたいし)で推古十九年に周防国多々良浜に上陸、聖徳太子から多々良姓と共に大内県(おおうちあがた)を領地として賜った事に発するという。

 もちろん、そんな王子は歴史上には存在しない。架空である。

 義隆から数えて五代前の当主である大内義弘が朝鮮との外交を円滑にするために名乗り始めたというのが有力な説だ。

 義弘は、あまりにも功を立てすぎ、強大化しすぎたために幕府から睨まれていた。その上、朝鮮との外交を成功させた事が決定打となり、幕府による貿易独占を画策していた三代将軍足利義満に追い込まれて乱を起こすも敗れて死ぬという壮絶な最期を遂げた人物である。

「先の安芸国での騒乱に於いては、我が義母義隆を安芸守護に任じてくださいましたありがとう存じます。殿下のご期待に沿えるよう、今後とも忠勤に励む所存にございます」

 失礼のないように晴持は慇懃に以前に受けた助力の礼をする。

 しかし、義輝は眉根を寄せて不機嫌そうな表情を浮かべる。何か、拙い事でもしただろうかと冷や汗を流していると、 

「堅い」

「は……?」

「堅苦しいと申したのだ。大内殿」

 義輝は、困った事に晴持も前で姿勢を崩していた。こちらを侮っているわけではない。これは、あくまでも晴持の緊張を解くための所作であった。

「そう気を張る必要はなかろう。取って食ったりはせぬよ。大内殿にはわらわも世話になっておるゆえな」

「は、はあ……」

「そなたの父君は、京で大手柄を立てられたと聞くが、そなたは京に上るのは初めてであろう。山口に比べれば、幾分か見劣りするかもしれぬが、ゆるりと楽しまれるがよい」

 鷹揚に構えた義輝は、蠱惑的な口振りで晴持にそう言った。

 それから二言三言と話をした上で、義輝は下座にいた一人の武将に視線を向ける。

「藤孝」

 呼ばれたのは、野干玉(ぬばたま)の髪を腰まで伸ばした姫武将であった。歳の頃は晴持と同じくらいで、いかにも教養人といった風の落ち着いた和装に身を包む京美人であった。

「そなたらが滞在中、何かと入用もあろう。我が股肱の臣である藤孝を就けるゆえ、何かあればこの者を頼るといい」

「は、重ね重ねありがたきご厚情。誠に感謝のしようもございませぬ」

 深く、晴持は頭を下げる。

 だから堅い、とそんな晴持に義輝は苦笑し、その場はお開きとなった。

 

 

 

 □

 

 

 

 細川藤孝は、幕府奉公衆三淵晴員の次女としてこの世に生を受け、後に叔父である和泉半国守護細川元常の養子となるに及んで細川家の一員となった。

 細川家は幕府を支える有力守護の中でも図抜けて高い格式を有する家柄である。

 それは、いわゆる幕府政権のナンバー2にして実質的に政治を差配する管領職を独占しているからであるが、この管領を代々世襲する事ができるのは、細川家の本家筋に当たる『京兆家』であって、藤孝が継いだ『刑部家』ではない。藤孝が養父から受け継ぐ事ができるのは、管領ではなく和泉上半国守護の役職である。

「改めまして大内晴持と申します。お初にお目にかかります」

「細川藤孝です。長旅お疲れ様でございました」

 大内家が宿とする寺院の一室で、晴持と藤孝は改めて軽い挨拶をする。

「こちらは、私の護衛を努めてくれている冷泉隆豊です」

「冷泉隆豊です。以後、お見知りおきくださいませ」

 隆豊もまた挨拶をする。楚々とした動作の中に京仕込の礼儀作法が込められている。遠国周防の人間が、正しい作法を心得ている事に、藤孝はいたく感心したようであった。

「わたしとしても、大内様方をさらに歓待したいところではありますが、あなた様方のお時間が許されないというのが残念です」

「土佐の動きが不透明な状況で、京を訪れねばならなかったというのが口惜しい事です。叶うならば、もっと長く時間を戴いて逗留したいところです」

 藤孝がくすりと笑う。

「どうかしましたか?」

「いいえ。しかし、ここはすでに殿下のお屋敷でもありませんし、互いに肩の力を抜いてもいいのではないかと思いまして」

「これは失礼しました」

 気を遣わせてしまったかと、晴持は内心で舌打ちをする。

 細川藤孝、正史に於いても様々な分野で活躍する偉人の一人である。有名なエピソードでは、関ヶ原の戦いの直前に丹後田辺城に篭った藤孝を石田三成が囲んだ時のものがある。

 この時、藤孝は五〇〇に満たない兵力での篭城戦となったが、寄せ手の将兵にも藤孝から歌道を学んでいた者が多数いて戦闘意欲が乏しく、長期戦となり、最終的には当時の天皇が勅使を下して藤孝を助命するという前代未聞の珍事を引き起こした。

 これは、藤孝が身につけた様々な芸能の知識が失われる事を恐れたためとも言われる。

 芸は身を助ける、を実践した人物であり、後々総理大臣を輩出する家系の祖となった人物だけに晴持も必要以上に緊張してしまったのである。

「どうぞお気を楽にしてください。堅苦しい言葉遣いは、これまでです」

「承知し、た。……今後は、このような口調で」

「はい、それがいいと思います」

「藤孝殿は、口調はそのままなのか?」

 晴持の問いに、藤孝は再び微笑んだ。

「習い性なもので」

「ああ、そう……」

 なにやら妙な迫力があった事は間違いない。晴持はそれ以降、藤孝の口調に関する諸々の質問はしなくなった。

 

 

 在京できる時間は限られている。

 藤孝に言ったとおり、晴持が京を訪れている間にも四国の情勢は移り変わっている。土佐一条家の混乱に乗じて独立せんとする勢力は枚挙に暇がなく、それらを切り従える長曾我部元親の軍略は輝きを増すばかりだ。

 それに対して対策を執るために、晴持は京を訪れた。

 幕府に顔を出したのは、口には出さないがついででしかなく、本命は別にある。

 晴持は大内家の当主名代として京での活動を支援してくれている公家にも挨拶をして回らなければならない。

 今、晴持は、その内の一つである、一条烏丸の山科邸を訪れていた。

「大内家の若君と顔を合わせられるとは、まろも運がいい」

 上座に座るのは家主である山科言継(やましなときつぐ)である。

 山科家は、藤原北家四条流の庶流に当たり、羽林家の家格を有する公家だ。

 『羽林家』というのは、公家の家格の一つで最高では大納言にまで昇進する事ができる。『羽林』とは「羽の如く速く、林の如く多い」という意味で、中国に於いては北斗星を守護する星を指し、転じて皇帝を守る宮中の宿衛の官名となった。日本では、近衛府の別称となり、後に近衛の長を任ずる家――――羽林家となった。

 つまり、羽林家というのは本来武官の家柄なのである。

「某も、山科卿のお人柄を伝え聞き、一日でも早くお会いしたいと思っておりましたので、念願が叶いまして感極まっております」

「そう持ち上げるな。照れるではないか」

 言継は気さくに笑う。

 公家でありながら庶民とも交流を深めている事で有名な山科言継がどのような人物かと興味があったのは事実だ。

 言継は、非常に学問に秀でた人物で、有職故実や(しょう)、薬などに造詣が深く、また三条西公条の門下生として和歌を習い、蹴鞠や漢方医学にまで精通し、公家のみならず庶民にまで無償で治療を施している事で名が知られている。

 また言継は、全国各地に人脈を持ち、幅広いネットワークを構築している。

 彼は現在朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭に任官しており、それゆえに諸大名の下に下向しては公家文化の伝承を行い、各地から朝廷への献金を募る事に腐心しているのである。

 そんな言継にとって全国有数の資金力を持つ大内家は繋がりを深めたい大名の最上位であり、朝廷の金を扱うという立場にいる彼は大内家が得意とする献金政策の窓口になるので大内家も関係を崩したくない。そんな両者の思惑が、この会談の中にはあった。

 といっても、することと言えばただの世間話である。

 幸いにして話の種はいくらでもあり、京を追われて山口に在住する公家の近況などは言継の歓心をいたく買った。

「では、左大臣様はご壮健であらせられるのだな?」

「はい。何不自由なく、暮らしていただけております。もっとも、山口は辺境の地ゆえ、口になさらない不備があるかも分かりませぬが」

「何を仰る。そのようなものがあれば、京の公家がその方らを頼りはすまい」

「ありがたきお言葉でございます。願わくば、山科卿にも一度山口にお出でいただきとう存じます」

「うむ、まろも義隆様にご挨拶したいところだ。京がこのような有様でなければ、すぐにでも出立できたものを、口惜しや」

 本当に無念そうに顔を歪める言継。それがリップサービスなのか、それとも本心なのか、晴持にはその胸の内を推察する事はできない。

「ところで、そちらの方は?」

 言継の視線の先には隆豊がいる。晴持の後ろに控えているのだ。

「当家に仕える冷泉隆豊でございます。大内水軍を束ねる役職にあり、この度の上京では我が身の護衛も任せております」

 隆豊が静々と礼をする。その所作を見つつ、言継は引っ掛かりを覚えたように、

「ほう、冷泉、とな」

 と呟いた。

「わたしの祖母が、京の冷泉家から輿入りしておりまして、父の代より冷泉家に肖りまして姓を改めました」

「なるほど。そうであったか。すると、姓を改める前は大内姓であったか?」

「はい。左様です」

 うむ、と得心がいったように言継は頷く。

 京の冷泉家は、和歌を家業とする羽林家の一つ。歌人で名高い藤原定家の孫である冷泉為相を祖とする家系だ。その家の中から大内家の庶流に嫁いだ姫がいるというのは言継も聞き及んでいた。

 隆豊はその孫に当たるのだと聞いて、不思議な感慨を感じていたのである。

 それからいくらか話をして、互いに気心も知れてきたところで、唐突に言継はこのような事を言った。

「ところで、晴持殿。どうであろうか、一つ、蹴鞠などしてみぬか?」

 

 

 蹴鞠は、皮製の鞠を落とさないように蹴り続け、その回数を競う競技である。飛鳥時代以前に、中国から日本に伝来し、この戦国の世では武家の嗜みとまでされるようになっていた。

 言継は、蹴鞠を外交手段の一つと位置付け、尾張の織田家や駿河の今川家を訪れた時には蹴鞠の技法を伝授して献金の下地を作った。

 対する晴持も、蹴鞠は得意であった。 

 頭を使う和歌や漢詩などと異なり、純然たる身体能力が試される競技だ。これは、晴持の気質に実によく合っていた。

(サッカーのリフティングみたいなものだ。俺にとっては朝飯前だ) 

 生前、身体に覚えこませた動きは、この身体になっても残っていたらしく、鞠を蹴る競技は晴持の最も得意とするものとなった。

「それでは準備はよいか?」

「いつでも」

 言継のほか隆豊や藤孝、それから事前に呼び寄せていたらしい他の公家ら計八人がこの場にいる。

 蹴鞠は懸と呼ばれる四角く区切られた競技場の中で行う。競技場の東南には柳、東北に桜、西北に松、西南に楓を植え、その高さを一尺五寸(約4.5メートル)までとし、これを基準に据える。

「では、ゆくぞ」

 それを合図に、蹴鞠が始まった。

 靴を履いているというのが、少々やりにくいのであるが、それもこれまでの練習によって克服済みである。鈍い音を響かせて、鞠が青空を舞う。

 童心に返る心地で晴持は鞠を蹴り上げるが、同時にこれは政治的なパフォーマンスでもあるという点は忘れない。

 蹴鞠の大家を相手にして勝利してしまうのはまずい。そういった気持ちが晴持の中に鎌首を擡げた。

 しかし、それは杞憂であった。

 言継は、晴持よりもずっと年上で、もう最盛期は過ぎたはずなのに、その機敏さといったら唖然とするくらいであった。

 絶対に取れないはずのところに飛んだ鞠を難なく掬い上げ、安定させる妙技を幾度も見せ付けられては、とても勝てるとは思えない。

「いやはや驚きました。山科卿の技の冴えは左大臣様から伺っておりましたが、実際に目の当たりにしますと、話以上のものがございますね」

「ホホ。まだまだ若者には負けぬよ」

「ならば、もう一勝負」

 晴持も負けず嫌いなので、今度は完全なチャレンジャーとして言継に挑む。言継も笑って勝負を受けると、周囲の公家達も第二戦に我も我もと参加する。

 そうして、賑やかに蹴鞠は続けられた。

 そのまま、終わっていれば何の問題もなかったのであるが、事件はあまりにも唐突に起きた。

 ある者が体勢を崩したまま蹴った鞠が、勢いよく言継の胸に当たったのである。

 鈍い音と共に鞠は弾み、砂利の上に落ちる。

 皮製の鞠は、強く当たってもそれほど痛くはない。いつもならば、このまま笑って競技を再開するところであるが、この日は毛色が違った。

 言継は顔に苦悶を浮かべたかと思うと、その場に膝をつき、そしてそのまま崩れ落ちたのである。

 あまりにも突然の事に、誰もが唖然として動き出しが遅れた。

「山科卿!」

 まっ先に駆け寄ったのは隣にいた晴持であった。うつ伏せになった言継を仰向けにする。

「山科様!」

「言継殿!」

 そして、言継を囲むようにその場のいた全員が集まる。

 その中で、晴持は即座に首筋に指を宛がい脈を取る。

「脈がない……!」

「なんと、山科様……!」

 晴持は歯軋りして、冷や汗をかく。言継に鞠を当てた公卿も顔面が蒼白だ。事故とはいえ、実力者である言継の命を奪ったのは彼が蹴った鞠と見られる。

 晴持は即座に言継の衣服を裁つ。

「わ、若様!? 何を!?」

「後で弁償はする!」

 隆豊が悲鳴に近い声を出すが、一言だけ言って晴持は思考の渦に意識を沈める。

「まず、呼吸確認」

 晴持は、努めて冷静に、言継の口元に耳を近づけ、露になった言継の胸が上下しているかを確認する。

 かつて、学んだ知識で、完全とはいかないが、こういう場面で使わなければ何の意味もない。

 言継の身に起こったのは、おそらくは心室細動の類だ。滅多に起こるものではないが、胸にボールが当たるといった程度の軽い衝撃でも心臓の動きが損なわれて心停止に陥る例があるという。

 晴持の知識では心停止から三分が勝負の分かれ目だ。

 晴持は言継の胸に両手を組んで乗せ、肘を伸ばして体重を掛ける。

 AEDもないこの時代では、心臓マッサージと人口呼吸以外に心肺蘇生法はない。

「山科卿、お気を確かに!」

 呼吸がない事を確認した晴持は大声で呼びかけながら心臓マッサージを行う。

 周囲の者達は晴持が何をしているのか分からないでいたが、それでも言継を救うための治療法であると解釈した。

「晴持殿。わたしにお手伝いできることはありますか?」

 藤孝が尋ねてくる。

 ありがたい、と晴持は思った。この状況下で取り乱されるのは、非常に厄介だったが、藤孝が率先して動いてくれるのであれば、周りも冷静さを取り戻せる。

「今はとにかく心の臓を動かすのが先決。皆さんはとにかく山科卿に呼びかけてください。それだけでも変わります」

 それから集まった者達総出で言継の名を呼んだ。晴持は気道を確保して人口呼吸も平行して行う。隆豊が悲鳴染みた声を上げたが無視する。

 晴持も、できることならしたくないのだ。

「お戻りください、山科卿!」

 強く、胸を押す。

 やがて、言継の口から咳が飛び出し、止まっていた心臓が動き出した。心肺蘇生に成功したのである。

「戻られた!」

 晴持が言うと、ワッと周囲は沸いた。

 止まっていた心臓を動かした。死すべき定めを覆したと、大きな賞賛を受けたのである。

「う、む……?」

 唸るように言継が呻いて目を空けた。

「いったい、何があったのだ?」

 と本人はどうして自分が仰向けに倒れ、しかも服が裂かれているのか皆目検討が付かない様子であったが、とにかく意識まで戻ったのだからこれほど嬉しい事はない。とにもかくにも身体を休ませねばと、家臣や公卿らに付き添われて訳も分からぬままに寝所に引っ立てられていった。

 

 

 そして、取り残された晴持達はそのまま元いた客殿へと通された。

 とんでもない状況に直面してしまったものの、無事に切り抜ける事ができたのは運がよかったとしか言えない。

「晴持殿。先ほどはお見事でした。止まった心の臓をあのように動かすなど、想像もしていませんでした」

 藤孝が心底感心したというように賞賛の言葉を紡ぐ。

「大した事ではないよ。今回は山科卿が死すべき定めになかったというだけだ」

「それでも、晴持殿は大きな仕事を成し遂げられました。よろしければ、先ほどの所作についてお教えくださいませんか?」

「それくらいなら、構わないよ」

「若様。わたしにもお教えください」

 隆豊が藤孝に対抗するように頼んでくる。一人が二人になっても大して変わらず、すぐに山科邸を去る事ができる様子でもないので、晴持は二人に心肺蘇生法について自分が知っている限りの事を話した。

 どこで知ったのかという点に関しては当然に出てくる疑問であったが、これは旅の僧との話の中で止まった心臓が動かせれば、人命救助に使えるのではないかという発想が最初である、という形で誤魔化した。 

 晴持はそれからしばらくして、言継の枕元に呼ばれた。

 布団に寝そべる言継が起き上がろうとするのを晴持は手で制す。

「まろの身体も、もう問題はないというのに、皆心配性で困る」

 と、拗ねたように言いながらもどことなく嬉しそうにしている。顔色もとてもよくなったので、当面の危機は去ったのだろう。

「晴持殿。感謝する」

 そして、言継は涙を流して晴持の手を取った。

「止まった心の臓を動かしてくれたとの事。晴持殿がおられなければ今頃まろは冥土への旅路に就いておった」

「お身体は問題なく動きますか、山科卿」

「うむ。手足の指先まで、何一つ不自由はない」

「此度はとても運がよろしゅうございました。某の知るあの方法も、あくまでも応急手当にしかなりませぬゆえ、それで大事ないとなれば、それは天命が未だに山科卿にあるという事でございます」

「そなたにはなんと礼を言ったものか分からぬな」

 言継は言葉を切って天井を見上げる。

「知ってのとおり。今やまろにはそなたらに報いてやれるだけの力はない。それが残念で仕方がないが、それでも、そなたらの今後の動きを支える程度はできよう。この恩は忘れぬぞ、晴持殿」

「そのお言葉だけでも、某にとっては感激の至り。今は我らの事はお考えにならず、ただ養生を第一とされますよう」

 そう言って、晴持は頭を下げて言継の面前を辞したのであった。




現実には心室細動などはAEDを使用しなければまず助かりません。
ここでのことはあくまでもフィクションの中の奇跡であるという点をご理解ください。

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