大内家の野望 作:一ノ一
思わぬ形で山科言継の信頼を得てしまった晴持であるが、此度の上洛は決して山科家に取り入るのが目的ではない。
言ってみれば、ここまでの幕府や山科家への挨拶は通過点に過ぎない。
本命はここからである。
晴持は山科邸を笑顔で辞した後、すでに夜の帳が降りていた事もあって、その日は宿に泊まり、翌日の昼過ぎに目的地へと急いだ。
聊か以上に緊張してしまうのは、彼の身体に流れる血が反応しているからであろうか。
一条家。
藤原北家九条流に当たり、五摂家一つ。序列は近衛家に次ぎ、九条家と同格、そして二条家、鷹司家の上位にある。
言うまでもなく、今現在大内家が関わる問題の中核に位置している土佐一条家の本家であり、晴持から見れば実家の実家と言ったところであろう。
公家としての格もこれまで接してきた氏族とは別格。関白を輩出する事ができる家柄であり。
現当主は、早世した兼冬に代わって当主となった弟の一条内基である。
しかし、内基はまだ幼く、当主として家を差配する事はできない。そのため、隠居していた父親の一条房通が代行している状態である。
「よう来た。晴持殿。ずいぶんと、大きくなったの」
白髪混じりの一条房通が鷹揚に笑って晴持を迎え入れた。
晴持は房通の前に座り、背筋を伸ばす。
「は、……関白殿下」
投げかけられた言葉に、晴持は困惑しつつも頭を下げる。
「わしの事は覚えておらぬようじゃな。まあ、それも仕方ないことじゃ。お主に会ったのは、未だお主が乳飲み子じゃった頃ゆえな」
それはつまり、晴持が大内家に引き取られるよりも前という事である。覚えていないのは当たり前だ。何せ、死した兄の顔すら覚えていないのだから。
「申し訳ありませぬ」
「いやいや、構わぬ事よ。亡き房基殿といい、晴持殿といい。兄者の胤からはずいぶんな逸物が生まれるものじゃ」
何かを懐かしむように、房通は目を細めた。
「そのように緊張せんでくれ。晴持殿とわしは叔父と甥の関係。わしも土佐一条家を離れてずいぶんと経つが、家の違いも血の繋がりを薄めはせぬと信じておる」
「はい、では叔父上と」
「おう、それがいいの」
房通の言葉から分かるように、彼は血筋としては一条家の本筋ではなく、土佐一条家である。房通の父は土佐一条家二代当主の一条房家。彼は房家の次男であり、子宝に恵まれなかった一条家当主の一条冬良の婿養子となる事で一条家の命脈を継いだのである。そして、房通の実兄こそが晴持や自害した房基の父親なのである。
よって晴持は、時の関白を叔父に持つ事になるのであった。
それから、晴持と房通は和やかに談笑した。関白と大内家の使者の関係ではなく、叔父と甥の関係で会話を進めた事で、打ち解ける事ができた。二〇年近い隔絶など、関わりのない事であった。
「山科様は禁裏にとっても重要なお方じゃ。まだまだ壮健でいてもらわねばな」
「はい。まだ、お倒れになるにはお早い。無事、意識を取り戻されてほっとしました」
「山科邸での事は、すでにわしらの間では持ち切りじゃ。わしの甥じゃと、自慢できるわ」
「そのような。某はただ当然の事をしたまでです」
謙遜する晴持であったが、晴持が山科邸で行った『停止した心臓を動かす施術』は瞬く間に京の町衆の間で語り草にされていた。言継もまた、その日のうちに日記に書き写し、後世晴持を紹介する際に取り上げられる事跡の一つに数えられる事になるのだが、それはまた別の話だ。
「さて、積もる話もまだまだあるが、時間も気になるところじゃ。本題に入ろうかの」
「は……」
晴持は再び居住まいを正す。
向かい合う老関白は晴持が何をするためにこの屋敷を訪れたのか予想を付けているに違いない。
彼もまた土佐一条家の人間だ。今、かの地で何が起こっているのか、知らないわけではあるまい。
「某、そして叔父上の実家である土佐の一条家の危難を救うべく、お力添えを戴きたいと思い参上仕りました」
「ふむ……」
房通は天井を仰いだ。
「危難、確かにそうじゃ。父上が死して二年で兄者も世を去った。傑物たる房基殿も志半ばにして自ら命を絶ってしもうた。遺されたのは、未だ元服にも届かぬ童が一人か……」
「これを好機とし、土佐の国人達の反抗が相次いでおります。とりわけ長曾我部家の勢いは甚だしく、このままでは安芸家もそれほど長く抗しきれませぬ。安芸の次は、間違いなく一条を狙ってくる事でしょう」
「左様か。して、お主はわしに何を望む。わしに何ができるというのじゃ?」
「此度の騒乱に於いて、大内家が兄上を暗殺した下手人であると噂する者が土佐におります。その者らの讒言により、あちらは混乱の極みであると聞きます」
「確かに、お主を頼ろうにも大内家が一条家を狙っているとなれば頼れなくなるのは道理じゃな」
「讒言の出所は大友と判明しておりますが、土佐一条家の中にも信奉者がいるようで……諸国人もこれを貴貨として勢力争いを始める始末。このまま某達が兵を差し向けても、一条家の方々は信頼してはくださらぬでしょう」
「ふぅむ。なるほど、それでわしか」
晴持はただ頷いた。
視線を逸らさず、身体を前に乗り出す。
「このまま土佐一条家を捨て置けば、遠からず血の海を作りましょう。某はすでに武門の家に入り、この手を血で汚しておりますが、兄上の子はまだ戦場を知らぬ幼童です。本道に立ち返るのは今を置いて他にありませぬ」
公家が武家と同じように血を流すのは、決して好ましい事ではない。戦乱の世にあっても、公家達にはそれなりの矜持がある。武家化していく土佐一条家から真っ当な公家社会に飛び込んだ房通は、武家と公家の価値観の違いを正しく認識できる人間だった。
そして、関白という立場もあり、彼は同じ一条家が武家らしく戦場で血を流すのを認めたくはない。それが、たとえ実家であっても、この身はすでに本家である一条家を切り盛りする立場にあるからだ。
「兄が遺した者に振り回されるのは、弟の宿縁であろうかの」
房通がため息混じりに呟いた。
房通の兄が遺した晴持。そして、晴持の兄が遺した土佐の動乱。弟という立場に生まれたが故に他家に入り、そして家を変えても実家の動揺に関わらずにはいられない。
血脈に宿る宿縁のような何かを感じずにいられなかったのだ。
「それこそ、血の繋がりは家名の違いで薄まらぬ、ではありませぬか」
「フハハ。そうか、そうじゃの。これは一本取られたわい」
房通はからからと笑った。
「相分かった。久方ぶりに実家に書状でも認めるとするわ。領内経営は大内家と取り計らえとな」
「しばらく」
と、房通の言葉を晴持は遮った。
「願わくば土佐の領内経営及び新当主の後見人は叔父上にお願いしとうございます」
「ほう、わしにか。何故じゃ」
「大内家が内政にまで干渉すれば、如何に叔父上からの口添えを戴いても内部の反発は必至。某と義姉上が望むのはあくまでも土佐の安寧でございます」
「それでは、大内家にうま味がなかろう。如何するつもりじゃ?」
「土佐に当方の兵を進めるのを認めてくだされば結構にございます」
「ふむ、そういう事か」
要するに、晴持の要求は以下の二点である。
一、土佐一条家の武家化阻止。
二、大内家による土佐一条家の領地以外の領土獲得。
これらを満たすためには、土佐一条家が武家以外の勢力によって管理されるのが相応しい。そうなれば、関白という地位にいて、しかも土佐一条家の血を引く房通が代理当主をすれば万事解決である。その上で、失った軍事力を補い、領地を保護するために大内家の兵が土佐国に乗り込んでいく。
晴持からすれば、実家を潰さずに戦闘力を取り除き、土佐国内に新たな大内家の支配地を手に入れる事もできるのだからこれほど都合のいい展開はない。
「さればそれでよかろう。代理当主を先方が受け容れるかは分からぬが、いずれにしても若い当主の世話を分裂した臣下に任せるわけにもいかぬ」
「かたじけのう存じます」
晴持は深々と頭を下げて礼を言った。
それから細々とした世間話をしてから、晴持は一条邸を後にする事となった。
□
「お疲れ様でした、若様」
上洛の目的を果たし、脱力した晴持に隆豊が声をかけた。
「ああ、いや、何とかなるものだな。関白殿下を相手にするというのは、緊張して仕方がないよまったく。叔父上だったからよかったものの」
本当にそれに尽きる。
自分の叔父が関白だというのは、非常に都合がよかった。発言力が桁違いだ。とりわけ、土佐国は国司である一条家の影響を受けてきた土地だ。本家本元かつ関白という強烈な肩書きの一条房通の言葉は、非常に重たい意味を持つ事であろう。
「ともあれ、これで大内家が土佐に兵を進める口実ができた。早いうちに土佐の騒乱を鎮めないとな」
「はい、若様」
ふわり、と笑う隆豊。
残る問題は東予の独立勢力か。
攻め込む口実がないわけではないが、細川家の動向が気になるところだ。
東予地方の二郡は、現在も河野家の力が及んでいない独立地域だ。そこを治めているのは石川家であり、その上には細川家の支流である細川野州家がいる。管領を狙える地位にあり、今の管領である細川晴元と敵対関係にある細川氏綱と縁が深い家柄だ。
それならば、上手くすれば東予地方に軍を進めても問題ないかもしれない。
「土佐を押さえたら伊予の完全支配だな」
伊予国に関しては、河野家に任せればいい。
後顧の憂いを取り去ってから西に行くか東に行くかを考えればいいだろう。
後、この京でできることは何か。
やはり、人材確保であろう。ここは日本の中心地という事で、全国から多くの牢人が新たな仕官先を求めてやってきている。大内家が今後領土を拡大していくためには、それに見合った新たな逸材の発掘が急務である。
とりわけ、晴持が独自に編制していた鉄砲足軽部隊である烏は戸次道雪との壮絶な近接戦闘によって多大な被害を受けていた。晴持としても、鉄砲を専門的に扱える特殊部隊は今後の戦で大きな役割を果たしてくれるのではないかと期待しているし、鉄砲自体が普及すればそれを運用する知識を持つ者の絶対数が不足するのは目に見えているので、今の内に育てておきたい。
鉄砲はすでに堺にも伝わっている。現状は、山口が日本最大の生産国であるが、それはすべて内需に費やされている。堺のような外交都市が鉄砲の製造を本格的に始めればあっという間に全国規模に広がるであろう。
そこで藤孝に頼んで京の街に滞在中の牢人を紹介してもらおうと思い立ったのである。もちろん、名のある武士かその家系に連なる者である必要がある。
頼まれて、悩んだのは藤孝である。
大内家に紹介するとなれば、一定水準以上の学を修めているべきであるし、ただ頭がいいだけでもいけない。そう考えると、非常に難しい注文である。
第一、そのような者がいるのなら早々に自分が迎え入れている。
と、思ったのは最初だけで、藤孝はその条件に見合う人物を知っている事に気が付いた。
晴持は隆豊と藤孝と共に京の街を歩く。藤孝に先導されて、案内されたのは粗末な長屋の一室であった。
「藤孝殿。ここに?」
「はい。こちらにいらっしゃいます」
見ればそこは板壁のところどころに穴が開いた、朽ちかけの長屋であった。晴持は良家に生まれ良家に育ったので、このようなボロボロの長屋で過ごした事はない。かつて、鷹狩りに際して道に迷い、廃寺で寝起きした事があるくらいである。
しかし、生活保護があるわけでもないこの時代。職のない牢人は貯蓄を崩せば日雇いで食いつなぐしかなく、生活苦から夜盗崩れに身を窶す者も少なくない。
ここにいるのは、家も城も失いながらも誇りを失わず、再起を期してやってきた源氏の末裔であるという。
藤孝が戸板を叩き、声をかける。
「明智殿。いらっしゃいますか?」
ガタガタと今にも壊れそうな戸板の奥から、人が動く気配がした。
「藤孝殿? どうかされましたか?」
と澄んだ鈴のような声色の女性の声が返ってきた。
「突然すみません。本日はあなたに紹介したい方がおりまして、お連れしたのですが、今、よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です。少々、お待ちください」
と、そう言った声の主は歪んだ戸を無理矢理引いて開け放った。
露になるのは埃っぽく薄暗い室内。ところどころ割れた板壁から日の光が漏れていて、木漏れ日のような模様を地面に描いている。
そして、その自然の絵画を隠すようにして立つのは、晴持と同じくらいの歳の少女だった。
色素の薄い髪を短く切り揃え、白魚のように白い肌はあばら家で生活しているとは思えないほどに木目細かい。凛とした立姿に、確かな教養が見て取れる。
晴持が抱いた第一印象はすごく可愛いけれども、とても生真面目そうだ、というものだった。
藤孝が晴持に改めて少女を紹介する。
「晴持殿。こちらが、美濃からお越しの明智光秀殿です」
「とりあえずすぐに約束できる五〇〇石で召抱えたいのですが」
隆豊が珍しく物理的ツッコミを入れた。
「あのね、隆豊。まあ、君が仕えているのは厳密には義姉上であって俺ではないかもしれんが、俺も一応、曲がりなりにも主家筋なわけよ」
「も、申し訳ございません。申し訳ございません」
ぺこぺこと頭を下げる隆豊。己の右手に恨み骨髄、目には涙が浮かんでいる。自分でも本当に思わず手が出たというところであろう。
「お二人とも、夫婦漫才はその辺りで。明智殿が困惑しておいでです」
め、夫婦……!? と隆豊は頭から湯気でも出しそうなくらいに顔を紅くする。その一方で、晴持は再び光秀と向かい合った。
「お初にお目にかかります。私は大内晴持と申します。まずは突然の訪問の非礼をお詫びさせてください」
と、晴持は光秀に頭を下げた。
これには、頭を下げられた光秀や斡旋した藤孝も驚いて目を丸くする。
「え、あ、お、大内……!? あ、と、とにかく頭をお上げください!」
慌てたのは光秀である。訪問客が名乗った名前もそうだが、そのような人物が――――藤孝が連れてきたのだから本物であろうし、そのような大物に頭を下げさせるなどありえない。
「と、とりあえずお上がりください。ご覧の通りのあばら家で、お恥ずかしい限りですが……」
光秀が起居するあばら家は、畳四畳もない狭い空間である。そこに茣蓙を敷いて生活しているのだから、ここはもう雨風が凌げるだけましという程度でしかない。
「申し訳ありません。何もお出しできるものがなく」
四人で茣蓙の上に座る。それから光秀が頭を下げて挨拶をした。
「明智光秀と申します。大内晴持様のご尊名は、以前から伺っておりました」
「こちらこそ、明智殿は文武に優れたお方と聞き及んでおります。何れは長じて大名ともなられる器ともお見受けします」
晴持の言葉に、光秀は頬を緩ませた。
「お上手ですね。そのように煽てられても、何もできませんよ」
それから光秀の隣に座った藤孝が口を開いた。
「明智殿の家は奉公衆にも名を連ねる名家でして、美濃を根拠地にされていました。ですが、動乱の中で親族と土地を失い、新たな活路を求めて京にいらしたのです。近くの神社で出会いまして、度々話をする仲となりました」
そして流浪の旅の中でも誇りと意地を忘れず、みすぼらしい長屋に寝起きしても必ずや再び明智家を再興しようという高い志を持っているのだとか。
「それで、明智殿。こちらのいらっしゃる晴持殿が是非明智殿を召抱えたいと仰っておりまして、お連れした次第です」
「わたしを……?」
怪訝そうな顔で晴持を見る光秀。それも無理からぬ事で、名を知られていない、ただ家柄がいいというだけの貧乏牢人を、破竹の勢いで勢力を拡大する大内家の若殿が直々に尋ねてきて仕官の誘いをするなど、普通に考えてありえない。
しかし、晴持は藤孝の言葉を否定しなかった。
「何故、わたしなのでしょうか?」
「私は藤孝殿の誠実さと力量を信頼しておりますので、その藤孝殿が真っ先に名を挙げた人物であれば、信頼に足ると信じております」
晴持はそう言った後で、一旦言葉を切り、
「明智殿には、私が組織した親衛隊の組頭を努めていただきたいのです」
「親衛隊の……?」
「はい。烏と呼んでおりますが、先の戦で大きな打撃を受けてしまいまして、再編が急務となっております」
「先の戦というと、戸次道雪殿と一騎打ちされたという……」
「如何にもその通り」
晴持は頷いた。
「その際、不覚を取りまして、本陣を切り崩されかけるという敗北を喫しました。せっかく組織した親衛隊も、半数以下にまで減ってしまい、何とかしなければならぬという状況なのです」
しかし晴持の親衛隊をどこの馬の骨とも知れぬ輩に任せるわけにもいかず、人選に四苦八苦してしまっているのだ。と、このような状況は、光秀も即座に理解できたであろう。
「ですので五〇〇石をと申し上げました」
それは本気だったのかと、晴持以外の三人はこの時思った。
「申し訳ありませんが、そのお話はお引き受けできかねます」
しかし、光秀は晴持の誘いを断った。
「五〇〇石では足りませんか?」
「いいえ、そうではありません」
光秀は首を振る。
「わたしのような名もなき者に五〇〇石もの禄を与えては、晴持様の評判に傷が付きます。よからぬ者を引き寄せる可能性もあります」
驚くべき事に光秀は、晴持の立場を慮った上で、自分の名声と禄高が不釣合いであると言い出したのである。それも、禄高が高すぎるという進言は、普通しない。純粋に晴持の今後を憂いての指摘であった。
「それに、組頭にしていただけると仰いましたが、生憎とわたしは未だに満足に兵を率いた経験がありません。そのような大役、とてもお引き受けできません」
正直に、自分の経験不足を語った。
牢人してして明日食う米にも事欠くような立場でありながら、仕官の誘いに飛びつかずに自分の実績や力量を加味して辞する判断力と勇気は誰もが持てるものではない。
やはり、明智光秀は藤孝が推薦するだけの事はある。非常に有能で肝の据わった人間だ。
「失礼しました」
だからこそ、晴持は謝罪しなければならない。
「は、あの、何が……?」
「明智殿に無礼を働いてしまったので、謝罪したく思います。私は、当初藤孝殿の紹介だからと、明智殿の名とその事実のみで明智殿を判断しておりましたが、それが誤りであったと気付かされました。明智殿が私を見た上で、私の判断の誤りを指摘してくださったにも拘らず、私はあなたを見てはいなかった。これを謝罪せずして日の下を歩く事はできません」
「そ、そのような大げさな。わたしは当然の事を言ったまでですし、わたしに力がないのは事実ですので……」
「力がないなどと」
晴持は、光秀の言葉を笑い飛ばす。
「それならば、私も同じです。私はご覧の通りの若輩者です。力が及ばぬ事など数え切れないほどありますし、失敗もします。ですが、その時こそ有能な仲間が助けてくれるものです。先ほどの明智殿のように、諫言してくれる方が傍にいてくれれば心強い。そう思っております」
「晴持様……」
さらに、晴持は自分の親衛隊が大打撃を被った戦いを道雪との戦であるとは言っていない点にも注目した。
親衛隊は、基本的に晴持の傍に控えている。それが打撃を被るとなれば、必然的に本陣に切り込まれた時である。そのような戦は、近年では道雪との戦いだけだ。光秀が少ない情報からその事実に思い至ったのであれば、それは並外れた頭脳の回転と、四国の情勢をこのような生活を送りながら仕入れていたという事実の証明になるのである。
五〇〇石をぽんと渡すに足る武将であると、晴持は感じていた。
「明智殿。晴持殿がこのように仰っておりますし、何よりも経験は実際に挑戦しなければ積めないものです。ここでみすみすその機会を逃すのはもったいないのではありませんか?」
と、藤孝が助け舟を出してくれた。
光秀は悩んでいるのか、顔を顰める。
「禄や役職などの待遇面は、後で相談するという事もできる。とりあえず、今日のところは、うちに仕えるか否かという答えだけでも聞かせてはもらえないだろうか?」
藤孝と晴持の最後の一押しが功を奏したのか、光秀は暫し悩んだ後で深呼吸をする。それから、一呼吸ほどの間をおいて、晴持の誘いを受け容れたのであった。
□
無事、勤めを果たした晴持と隆豊は、新たに仕官した光秀を伴って山口に帰還した。
屋敷に戻った晴持を出迎えた義隆は、一行に新たに加わった光秀を見て頬をひくひくとさせながらもその場を取り繕い、晴持に仕える家臣達に山口でのあれこれを世話させるという名目でそうそうに引き離した。
そして、自室に晴持と隆豊を呼びつけた義隆は、
「このデラハルモッチィがッ」
晴持の腹に思い切り頭突きを喰らわせた。
「ぐふぅ」
たまらず崩れ落ちる晴持に、指をバキバキと鳴らした義隆が迫る。
「あなたって義弟はぁ~。京に女捜しに行ってたんかい!?」
「俺が捜していたのは女ではなく、有能な将であって、決して不埒な目的ではないのですが……」
「結果的に可愛い女の子ばっかりが集まってるじゃないの!」
そして、義隆は晴持を背後から羽交い絞めにする。それからクラップラー・クロスフェイスを仕掛けて晴持の顔面を決める。
「ぐぎがががが……」
「義姉ちゃん悲しいわ。晴持がこんなたらしになっちゃって……」
ホロリ、と涙を流すような悲しげな顔をしつつ、腕の力を徐々に強めていく。
「戦場で姫武将を口説いたって聞いた時にはまさかとも思ったのに……」
「あれは挑発……し、かもその後で刺されてます」
「ええ、本当。屋敷の中でも刺されないといいわねぇ」
そう言ってから、隆豊ににやりとした、意味ありげな視線を送る。
「ねえ、隆豊」
「へあ!? あの、わ、わたしに聞かれましても、なんとも……」
顔を紅くして、隆豊は視線を逸らした。
「そ、それに若様は京でのお役目を全うされてます。決して姫武将の勧誘にばかり力を注いでいたわけではありません」
「そうだ、隆豊。もっと言ってくれ」
義姉の拘束からなんとか逃れようともがく晴持が隆豊に救援を求める。
「山科様とお会いした時など、若様は山科様と唇を交わすほど親しく交わられました」
「え、おい……」
隆豊の言葉の趣旨が、どうにも晴持の意図する事と違うような気がして不安に苛まれた。
「山科卿は、確か男性だったはず……隆豊! そこんとこ詳しく説明なさい!」
口を挟もうとする晴持の口を、義隆がロックする。
「はい!」
と言って、隆豊は頬を上気させながら身体をくねらせて語り始めた。
彼女が語るのは山科邸での蹴鞠の一件である。
山科言継が鞠を胸に受けて倒れ、晴持が未来の知識で心臓マッサージと人口呼吸を行い、奇跡的に言継が一命を取り留めた。思うところはあるものの、なんら恥じるところのない。むしろ誇るべき一件である。
「若様は、迸る思いを唇に乗せて山科様と……衆人環視の中で、覆いかぶさるようにです。はい、若様は山科様にいなくなられては困ると、何度もお名前を呼びかけられまして……」
「むーーーー、むーーーー!」
「晴持、暴れるな。隆豊、それで山科卿はなんて言ってた?」
「はい、それはもういたく感動されていたご様子で、涙ながらに若様の手を取り、この事は終生忘れぬと。一回り以上の歳の差など関わりなく、お二人は心を通わされたのです」
晴持は半ば絶望していた。
最悪な事に、隆豊の説明は論点がずれているだけで表面をなぞればすべてが事実なのである。そこに、隆豊の余計な解釈が付随しているせいで、受け取られ方が大幅に変わっている。特に、人命救助に関しては、邪魔とばかりに
「げほ、げほ。隆豊! お前、何てこと言ってくれたんだ!」
「え、そんな。わたしは見たまま感じたままを申し上げただけですのに!」
「感じたままが悪いんだろうが! それに、大事な部分がごっそり抜けてる事に気付け!」
「大事!?」
義隆が黄色い悲鳴を上げた。
「まだ何かあるのね? 大事なナニカが!?」
「義姉上。いい加減、その腐った脳みそを何とかしてください!」
大内義隆はやはり大内義隆なのであった。
「何を馬鹿な事を言ってるの。衆道は公家の嗜みでしょ。あなたってば女の子ばかりで全然男の影がないものだからとってもつまらな……心配していたのよ」
「言い直すなら内容をよい方向に修正してください!」
晴持は噛み付くように言った。
「照れるな照れるな。別に悪い事じゃないのよ。むしろ、女に手を出されるより、そっちに目を向けてもらったほうが義姉ちゃんが楽し……安心できるしね。そっか、ついに晴持がねえ~。いや~たまげたなあ。ほんとに、これは……大内版が捗るわ~。えへえへ」
恍惚の笑みを浮かべる義隆に晴持はゾッとする。大内版とは、山口を中心に稼動している出版事業である。文化を守り広める意味でも、出版事業は非常に重要だったから、義隆はこれを統制下に置きつつも奨励している。何が捗るのか。尋ねたいが尋ねたら最期な気がしてしまう。
「義姉上。一度、真面目に話をしましょう。今回の京での話も真実を語りますから。それと、隆豊! お前も覚悟決めとけよ!」
晴持は、汚名を雪ぐために死力を尽くす事を決めた。
放置するわけにもいかないからだ。公家文化に侵食されているこの大内家の中で、そのような噂が立つのは、本当に厄介なのだから。もちろん、大内家に限らずどこにいっても同じくらいに嫌な思いをするのは確実であろうが、愛好者が多いという点で、大内家は他家以上に噂の浸透速度が速いのである。
~中世日本に於ける印刷技術の爆発的な普及に関して~
戦国時代のある時期に、全国各地に爆発的に印刷技術が普及したというのは、興味深い事である。
戦国武将が、政治に用いるために多くの書物を欲したという意見もあるだろが、ここで筆者はもう一つの可能性について言及したい。
それは、即ち文学の普及である。
文学と言えば、『源氏物語』や『枕草子』などが有名だが、中世の山口で出版された『西国光源氏』もラインナップに加えておくべきであろう。
この『西国光源氏』シリーズは、大内版にて出版され、後に公家や大名の間で話題を呼んで全国的な広がりを見せた中世最大のベストセラー小説だ。その特徴は、『男性同士の情愛』の一言に尽きるだろう。
現在、一部の女性の間で人気を博す『BL小説』というジャンルの先駆けにして完成形とも称され、五〇〇年経った現在でもこれを原作としたアニメや漫画が製作されるなどその人気は衰える事を知らない。
中世日本で印刷技術が普及した背景に、この『西国光源氏』があるというのは隠し様のない事実である。
原本を取り扱う座である『貴腐人座』が多くの公家や大名から保護された事で書物が流通し、庶民にも広まる中で過度な需要に供給を追いつかせる必要が生じ、四書五経といった学問書を安価に手に入れるというメリットもあって印刷技術を取り入れる大名が増加したというのが、事の背景にありそうだ。
『西国光源氏』は伊達氏や朝倉氏も全巻所蔵していた事が分かっており、特に伊達文庫には同じ本が三冊ずつ所蔵されているなど収集に力を入れていた事が分かる。こうした事からも、その人気は全国的であったのは間違いない。
しかし、こうした人気作の裏に犠牲になった者がいる事も忘れてはいけない。
『西国光源氏』の主人公『若君』のモデルとされる大内晴持である。
歴史上の大内晴持が男性と愛を語らったという記録はない。むしろ、彼は姫武将と多くの交際関係にあった。そんな大内晴持をモデルとした小説が、何故『BL』というジャンルになったのかはその作者と共に現在も残る謎となっている。
しかし、衆道を嗜んでいたわけではないにも拘らず、現代の大衆にそういったイメージが定着してしまった事に関しては、筆者も同情を禁じえない。