大内家の野望 作:一ノ一
長曾我部元親は、思案のしどころに直面していた。
辺境の土佐国のさらに辺境の地で生まれ育ち、滅亡の一歩手前まで追い込まれていた長曾我部家を、一条家の混乱に付け込む形で過去最大の版図にまで成長させた巧みな戦と外交手腕は、歴代最高の将器であるといえるだろう。
しかし、そんな長曾我部元親の前に横たわっている問題は、かつてないほど大きい。
覚悟はしていた。
土佐国の統一を目指すのであれば、どうあっても一条家と繋がりの深い大内家と争う事になるというのは。
そのために、大友家と好を通じ、大内家の介入を少しでも遅らせて一条家を傘下に収め、大内家が介入する大義名分そのものを失わせたり、あるいは介入してきても戦えるだけの戦力を整えたりしようとしていたのだ。
ところが、九国の変事は、長曾我部家にとって最悪の事態を招いた。
まさか、大友家が四国に感けていられないような強敵が現れるとは。
そのため、早々に大内家の介入を招き、刻一刻と大内家の圧迫が強まる事となってしまった。
「選択肢は二つある。大内家に降伏するか、それとも一戦して土佐人の意地を示すかだ」
軍議の場で、有力諸将を集めた元親は、家臣を前にして話しかけた。
彼女は、極力下々の声を聞くように努力している。権力の集権化を図りつつも、各々独立心の強い土壌に生まれ育った土佐国人達を纏めるには、そうするのが最もよい手法だったからだ。
「その前に戦力を確認しなければなりません。大内家の兵はいったいどれほどのものなのでしょう?」
可之助に尋ねられた元親は、およそ一〇〇〇〇余騎だ、と答えた。
「一〇〇〇〇ですか」
「さすがは大内家。ずいぶんと羽振りがよろしいですな」
諸将にざわめきが起こる。大内家が大軍だというのは、河野家の内訌を見ても分かる。戦の前に敵よりも多くの兵を集めるというのは、長曾我部家の国力では不可能だ。
「だが、元親。我らは安芸攻めの際には七〇〇〇を動員した。決して届かぬ兵力ではないぞ」
長曾我部家の宿老にして、第一の武辺者である久武親信が声を上げた。
「一〇〇〇〇という兵力は、おそらく大内家にとっては寡兵なのだろう。が、それはつまり長曾我部を倒す事など片手間でできると言っているようなものだ。そんな相手に戦わずして降伏などしたくはない」
諸将は息を呑み、そして膝を叩いて追随する。
軍議の場に広がった動揺を、親信の剛毅な言葉が打ち消したのだ。
「親信殿、よく申された! 京かぶれの大内に、我らの意地を見せてやりましょうぞ!」
「そうじゃ! 地の利は我らにある! 動員兵力も、大きく変わらないとすれば、降伏などという軟弱な姿勢では軽んじられまするぞ!」
「一戦に及ぶべし!」
大内家という強敵を前にして、臆するような肝っ玉の小さな者はいなかったようだ。
元親は頼れる家臣と共に、軍備を整え、攻め寄せてくる大内勢を迎え撃つべく出陣するのであった。
□
現在、一条家に属しているのは、土佐国の中でも本拠としている幡多郡のみである。長曾我部家が台頭するまでは、隣の高岡郡にまで勢力を張っていたというのに、この零落振りはあまりにも惨憺たるものだ。
しかし、関白が中村御所(土佐一条家の居館)に入り、そして大内晴持が大軍を発して海岸線を北上するに及んで勢力図はまたしても塗り替えられようとしていた。
まず、一条家を離反し、長曾我部家に就いていた
次いで、久礼城を拠点として調略の手を伸ばした晴持は、高岡郡に点在する旧一条家の国人達から寝返りの確約を取り付ける事に成功した。
腐っても鯛。
一条家は、力さえ取り戻せば絶大な影響力を有している。
まして、今回は大内家という大大名が直々に兵を送り出しているのだ。家名の存続を図るのならどちらに就くべきか。合理的に考えれば、結論は一つしかない。
「少なくとも、高岡郡の大半は戦わずして取り戻せそうだな」
部屋で絵図を眺めていた晴持が言うと、隆豊が大きく頷いた。
「もとより、一条家に属していた方々ですから。帰参を許して差し上げればその多くがこちらに心を寄せるのは道理です」
「力によって屈服させられたも同然だからな。まだ、日も浅いし、返り忠を促すにはいい機会だったか」
これが、後一年遅ければ長曾我部家に完全に取り込まれていたかもしれない。
長曾我部家の膨張速度は確かに速かったが、それによって内側の統制が揺らいでしまったのが弱所だったわけだ。
武や策を以て締め付けを図るしかないが、それでも時間がかかる。
「晴持様。お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
と、そこにやってきた光秀が、晴持に言う。
「どうした?」
「津野家の詳細が掴めましたので報告させていただきたく」
「おお、来たか。それで、どうなっている?」
津野家は高岡郡の盟主的立場にいた国人で、かつて晴持の兄である一条房基によって制圧されてその傘下に降った。その後、重臣達が長曾我部家に通じ、当主を伊予国に追放、代わりに立ったのが津野勝興であった。
津野家にも帰参を促していたのだが、これといった返事がなかったのであった。
「津野家の内部は今は大内家に就くべきと主張する者と長曾我部家に就くべきであると主張する者に二分されている模様です。ご当主は長曾我部家に反意を示しておいでですが、家臣の津野新助殿や山内藤右衛門殿はそれに反発している模様です」
「なるほど……」
それを聞いて、晴持は思案する。
津野家が拠点とする姫野々城は、晴持が戦場になると想定する海近くの平野部から奥まったところにあり、戦略的な価値は高くない。進路上にあるわけでもないので、無視しようと思えば無視できる程度でしかないのだ。
すでに、津野家以外の国人、例えば窪川兵庫介や福良丹後守、片岡光綱などは早くから一条家への帰参を求めて将兵を寄越しているのだ。今になってから帰趨を明らかにしても遅いとしか言いようがない。
「なら、多少えげつないが……津野家の問題は津野家で解決してもらおう。味方になるのなら見捨てる事はないが、いつまでも返事を寄越さないのなら真っ先に攻め寄せると言えば行動には移すだろう」
それでダメなら、津野家は敵に回ったものと判断して押し包むしかない。
戦略的な価値がないのだから、どうしても帰参させねばならない勢力というわけでもない。
「俺達の軍勢は、すでに一〇〇〇〇を越えている。正面から当たって長宗我部家に負けるとは思わないがな」
「数に劣る相手ですが、率いる将はとても優秀です。地の利もあちらにある事を考えれば、慎重に軍を進めるのがよろしいかと」
「ああ。とりあえず、敵勢を内側から切り崩しつつ、長曾我部を討つ」
そのために、地勢を見ながらも粛々を軍を進ませなければならない。
こちらの戦意を見せる事で、帰参を促すのである。
「長曾我部は動くだろうか」
問題はそこにある。
城攻めであれば、話は楽なのだ。元親がどこかの城に篭城してくれれば、これを取り囲んでしまえばいい。しかし、野戦となると決着は付けやすくなるがその反面事故が発生しやすくリスクも大きい。
「わたしは、動くと思います」
答えたのは、光秀であった。
「長曾我部家の置かれた現状では、篭城しても勝ちの目はありません。急速な勢力拡大によって、領内の反対勢力への対応も遅れていますので、軍を編制して行動に移さなければ離反者が後を絶たないという状況だと思います」
晴持は頷いた。同じ意見だったからだ。それに、今の長曾我部家が率いる事のできる兵力は多めに見積もって一〇〇〇〇に届かないくらいだ。兵力はこちらが勝るが、やりようによってはいくらでも勝利を掴める程度の兵力差である。
取り込んだ安芸の旧臣に対する押さえにいくらか割かねばならないけれども、それでも十分に戦える。
大内家さえ倒してしまえば、その勢いのまま一条家を降して土佐国を統一する事も夢ではない。大物を倒せばそれだけで箔がつく。大内家というのは、長曾我部家にとって脅威であると同時に名声を高める好機を運んできた家だとも言える。
「長曾我部は追い込まれているな」
「はい。もとより、大義はこちらにあります」
長曾我部家の戦意は高いという。だが、その下の国人まではそうもいかない。全体的に見て、大内家は圧倒的に優位に立っている。
「若! 兵の準備はもういいよ!」
駆け込んできた隆房が、そう言って戦の準備を終えた事を伝えてくれた。
「分かった。隆豊のほうの準備も済んでいる事だし、この勢いで高岡郡を攻略していこうか」
□
戦をするといっても、この戦いで実際に戦うのは晴持ではなく、大内家で最強の呼び声の高い陶隆房である。
総大将である晴持は久礼城に残って全体の指揮を執りつつ、長曾我部家の下に就く国人達への工作を続ける。
そして、右手に海を望みつつ中村街道を東へ進む隆房は、総勢で七〇〇〇人の兵を率いている。山口から一〇〇〇〇人の兵を率いてきたので、晴持の本陣に三〇〇〇人を残している計算になる。
さらに、そこに一条家の家臣や帰参した高岡郡の将兵も合わさるので、隆房が率いる兵数は一〇〇〇〇を上回る事となる。
今回、この一〇〇〇〇の兵をどのように扱うのか、基本戦略に沿う範囲で隆房の自由裁量が認められている。
全力を尽くし、いいところを見せて大内家に隆房有りを知らしめたい。
先陣は、この辺りの地理に明るい在野の国人衆に任せる。隆房本隊は、その後ろから兵を進める。寝返ってきた者を前線に置くのは、戦の倣いだ。晴持ならまた別の扱いをするのかもしれないが、晴持ほど隆房は情け深くない。事戦になれば、苛烈にもなるし非情にもなる。
兵を進めていると、物見の兵が駆けてきた。
「隆房様! 長曾我部元親自ら兵を率い、新荘川の向こう岸に布陣している模様です!」
新荘川は、全長およそ二五キロメートル。鶴松森という山を源流とし、周囲の田畑に大きな実りをもたらしながら須崎湾に注ぐ。
元親の陣の背後には須崎湾近くにある小高い丘のような城山に聳える須崎城やその傍にある山の上にも岡本城があり、それらに兵を配置する事も可能というわけだ。
左手は深い山が続いている。正面の長曾我部家に気を取られて、回り込まれる恐れもある。
「物見を増やす。特に、左手の山中に敵の伏せ兵がいないか念入りに探れ。それから、上流の姫野々城に三〇〇〇の兵を送る」
「三〇〇〇ですか?」
「城一つ落とせる兵力でしょ。これで、帰趨を明らかにしない津野のお尻を叩いてやるのよ」
「承知しました」
隆房は一門の者を選び、これに三〇〇〇の兵を与えて津野家が住する姫野々城に兵を差し向けた。その様子は、川の対岸に陣を敷く長曾我部家にも見えているだろう。
しかし、元親に動く気配は見られなかった。
「敵は、ざっと五〇〇〇ってとこか。まあ、こっちと五分五分ね」
それは、かなり謙遜した表現だろう。三〇〇〇人を割いても大内勢のほうがずっと兵力が勝っているのだ。
おまけに陣を敷くのは平野部だ。山間の地では奇策も使えようが、平野部では数が物を言う。それでも、土佐国の強兵を相手に、しかも希代の猛将である長曾我部元親に対峙するにはそれくらいがちょうどいい、というのが、彼女の上司の言葉だ。
それくらい、相手の事を買っているのであろう。
内側から切り崩され、兵力でも劣る相手に野戦を挑みながら、それでも整然と隊列を整えているのを見れば、晴持の言葉にも頷ける。
「油断するな、が若の口癖だけれど、確かにあの敵を相手に油断は禁物だね……」
隆房は数回に分けて物見を出している。地の利に疎い隆房は、神経質なまでに山を探らせている。もしも見落としがあって側面から強襲を受けた場合、退路を断たれる形となるので、兵力で上回っていても壊滅してしまう可能性が高まるからだ。
「とはいえ、何事もなく見詰め合っても何の解決にもならないし……」
隆房は思案する。
敵との野戦は予想の範囲内だ。長曾我部家には後がない。守りを固めても援軍はないだろうし、領内の反長曾我部勢力が活発化するかもしれないから、攻撃の姿勢を見せ続ける必要が生じている。
だが、かつて安芸勢との戦では元親は七〇〇〇人以上を動員したという。今回、大内家という大国と戦うのにそれ以下というのは解せない。
何か策でもあるのか。
「ま、いっか。先鋒に一当てさせよう」
隆房は決断して、下知を飛ばす。
先鋒の帰参した部隊に、長曾我部家への攻撃を命じる。
川の浅瀬を押し渡り、弓矢にて矢合戦をさせる。戦の序盤は通常、矢の応酬となるものだ。
被害は、こちらのほうが大きくなるだろう。だが、それで構わない。
矢合戦の後は、川を押し渡った勢力が長曾我部家に突っかかっていく。長曾我部家も槍隊を前面に押し出して、正面からこれに相対する。
長曾我部家の先鋒は、吾川郡
川を押し渡る窪川勢や福良勢に堂々と立ちはだかる波川勢は、士気も高く矢と槍をうまく運用して元親の本陣に近づけない。
なかなかの戦巧者である。
喊声が空に昇り、川が血で紅く染まる。水飛沫が上がっては、人が倒れて流れていく。対岸でも、激しい剣戟が絶え間なく続き、おどろおどろしい死霊の群れが互いに喰らいあっているかのような様相となっていた。
長曾我部家の決死の防戦は、終ぞ本陣に攻め手を寄せ付けず、先鋒の部隊は手痛い反撃を受けて川を逃げ戻ってくる。
攻め崩せず、申し訳ないと謝罪に来る使者に対して、隆房は、
「構わない。あなた達は先鋒の責務を十二分に果たしたわ。次の下知に備えておいて」
撤退した事を責めずにその労を労った。
先鋒の兵は、一条家に帰参したのであって大内家に従っているわけではない。大内家の指図を受けているのも、あくまでも一条家の援軍に来た軍勢という認識でしかないのだ。
そのため、隆房の目にはいくらでも使い潰せる捨て駒にしか映っていない。土佐国人内部で争ってくれれば、後々大内家に実りが多く入る。
だが、それを態度に出せば寝返りを誘発するので、尊重する姿勢は堅持する。
「お家の存続を賭けているだけあって、向こうのほうが士気が高いか。こっちは、大軍だからこそ、勝利を確信して気持ちが入っていない」
隆房は自軍の状態をそう分析する。あまり、いい状態とはいえない。大友家にしてやられた時に、十分に痛い思いをした兵もいるというのに、浮かれ気分なのだ。
こんな時に、奇襲を受ければただでは済まない。そういう空気を、元親も理解しているようだ。大内・一条連合軍の側面を川の上流から長曾我部勢の一隊が強襲してきたのは、連合軍の勝利の確信を突き崩すのに十分な効果を発揮したといえるだろう。
「側面より敵襲にございます!」
「見れば分かる! 槍隊を押し出して防戦に当たらせるの。二〇〇〇程度だし、大した数じゃないでしょ。慌てずに押し返しなさい!」
隆房が慌てる家臣を叱咤する。
隆房は慎重に慎重を重ねて物見を出していたが、彼女の目が届かぬ場所もある。例えば対岸の上流。岡本城が建つ小高い岡山の奥に隠れた伏せ兵は、隆房が序盤に上流に向かわせた三〇〇〇人の兵を無視して機を伺い、そして元親の下知を受けて一斉に渡河、大内・一条連合軍の側面を強襲したのである。
側面を強襲されて浮き足立った連合軍。特に一条家に属する兵は、柔弱だった。押し返すに押し返せず、逃げる兵によってその後ろの兵の動きが阻害されて被害を広げるだけである。
「長曾我部、本陣が来ます!」
「そう来るよね。そう来るしかないんだもんね」
隆房は翻る七つ酢漿草の家紋を見て、乾いた唇を舐める。
その顔には隠しきれぬ喜悦が浮かんでいた。
兵の多寡を覆す戦術と危機に際して足踏みせず正面から挑みかかる勇気を兼ね備えた智勇兼備の武将が目前に迫っているのだ。
その戦いぶりを賞賛する事はあっても辱める事はなく、隆房自身がこの強敵との戦いに喜びを見出している。
「隆房様」
「分かってる」
かつての隆房であれば、喜び勇んで敵陣に突撃していたかもしれない。それはそれで面白そうだと未だに思うが、深呼吸して思いとどまった。
己は、今大将なのだ。
槍を片手に突撃するのは最後の最後でいい。万の兵を率いる者が、槍働きの功を争そうものではない。
「貝を吹き鳴らせ。敵は見事な用兵を見せ付けた。ならばこちらも相応の返礼をする必要がある!」
隆房は長曾我部の攻撃に押されるようにして前線を引き下げつつも本陣はどっしりと構えて動かさない。この辺りは平地なので田園地帯となっており、迂闊に兵を動かせば足を取られて身動きが取れなくなる。前線の将兵だけを、僅かに後退させたのである。
その上で、ある一定以上の後退は許さず、元親自らが率いる兵との正面切っての戦に臨む。
足場の悪さもあって、中々優位に立てないが、かといって負けているわけでもない。隆房は努めて冷静に戦場を俯瞰するような意識で眺めていた。
□
元親にとってもこの戦は重要極まりないものであった。
敗北すれば土佐国人の心が一気に離れてしまい、さらに自軍に不利な状況となる。
幸いにして敵は大内勢と一条勢の連合軍でありながらも、一条勢の士気が低く、特に寝返りを重ねた敵先鋒はあまりにも弱兵であった。
それがこちらにとって幸いした。
地の利を活かした奇襲攻撃は、大内家の本陣を動揺させる事はできなかったが、外周に配置されていた一条勢には十分に効果があった。
崩れた兵は命を繋ぐために後ろに下がる。それが、そのまま大内勢のほうにまで行ったものだから、混乱が敵全体に波及したのだ。
敵の左翼が崩れたのを見て可之助が声をかけた。
「元親ちゃん」
「ああ、親信がやってくれたな」
奇襲の成功は、敵に大きな隙を生み出した。
「ここを突かない手はない。全軍前へ! 川を渡り、敵勢を追い散らすんだ!」
元親が槍を掲げて号令を発した。
自らの策が奏功しているうちは流れがこちらにあると言える。久武親信が決死の覚悟で敵に切り込んでくれてできたこの僅かな隙を無駄にしてはならない。
元親が直々に指揮する兵は強壮だった。勢いも士気も、他の国人衆を圧倒して余りある。また、非常に錬度が高かった。足軽隊を構成する一領具足による半士半農の者達は、農民主体で構成される一条家の足軽に比べて、自分達は武士であるという気持ちが強い。農業と戦の双方を生業とし、それを誇りとする者も多い。気持ちが数を打ち破る事もある。柔弱な一条兵など、何するものぞと踊りかかって首を落としていく。
前線は瞬く間に崩壊し、側面からも押し込まれた敵兵は一目散に後方の大内勢に助けを求めて散っていく。
「討ち取れているのは返り忠をした者だけか」
元親は崩れる敵勢を見て呟く。
逃げ出している勢力は前線に配置されていた一条家の将兵の中でも最も信頼されていない寝返り組である。長曾我部家が兵を動かした際に真っ先に激突するのだから当たり前と言えば当たり前だが、その奥にある大内家の本陣が動揺しているようには見えない。
「確か、率いているのは陶隆房殿だったね」
「はい。そうだったと思います」
可之助は頷いた。
「さすがだ。この状況の中でも涼しげな顔をしている。その上、とても酷な策を用いているようだ」
「酷?」
「おそらくは、わたし達を使って邪魔者を消そうとしているんだ。大内家にとっては、土佐国人の影響力が小さくなったほうがいいからね」
「なるほど……」
しかも、大内家としては一条家を立てているという名分を立てる事ができる。
一条家の者だけに戦わせているのは、本心としてはその勢力減衰であろうが、表向きは援軍は口うるさくしないという配慮になっている。表裏卑怯の食わせ者だ。
「このまま攻め込めば、一条家の将兵を壊乱させる事はできるけど……大内家には届かないか」
陶隆房は話に聞く限りでは猪武者だったはずだが、山のように動かずこちらの出方を常に伺うような老練な技を身につけているようだ。
やはり、一筋縄ではいかない相手だ。
「相手が反撃に出る前に、一旦陣を再構築しよう。このまま攻め続けるのは、危険だ」
「分かりました。全軍、攻撃中止。敵の反転に注意して陣を組みなおしてください!」
可之助が馬で方々に飛び回り各部隊の指揮官に元親の言葉を伝える。
不平を言う者や不審に思う者もいくらかいたが、総大将の指示となれば服さねばならない。
「親信の部隊を回収して、魚燐の構えで敵と向かい合う」
背後には川。
まさしく背水の陣である。元親が選んだ魚燐の陣は、兵を三角形の形状に配置したもので、機動力を確保しつつ、部隊の入れ替えも可能な点で消耗戦に強い。その反面側面や背後を取られた際に脆いという問題も抱えているが、背後に川、側面に山があり、平野といっても大して広くないこの地では機動力を活かした戦は難しい。
戦場が入り組んで狭い日本の土地に適した陣形と言えるだろう。
津野家を取り込みに向かった敵軍の動向が心配だが、おそらくしばらくは戻ってこないだろう。
「元親! どうだ、やってやったぞ!」
そこに、奇襲部隊を率いていた親信が戻ってきた。頬を上気させているのは戦の高揚かあるいは元親の用兵に感激したからか。
「親信お疲れ様。おかげで敵をずいぶんと削れたよ」
笑顔を浮かべて元親は親信を迎え入れた。
彼の果たした役割は大きかった。敵勢に与えた損害は、かなりのものだ。士気は大きく下がっているだろう。
ただし、それも大内家と一条家とでは毛色が違う。
「兄者。あまり、興奮すると血管が切れるぞ」
親信の弟の久武親直が浮かれる兄を諌める。それから敵陣に目を向ける。
「一条は脆いが、大内はまったく手の内を見せなかった」
「彼らからすれば、一条家の兵を失っても痛くはないからね。最悪使い潰してもかまわない程度の勢力としか見られていないんだろう」
大内家の動きがいまいち掴めない。
陶隆房自身で攻勢に出る様子はなくその配下の大内勢も動きがない。その動きのなさが不気味に思えた事も、元親が追撃を諦めた理由である。
長曾我部家の兵力は親信の奇襲部隊を吸収したのでざっと七〇〇〇人にまでなった。依然として敵とは兵力差があるが、一部は烏合の衆という事もあり、ひっくり返せない差ではない。
□
総大将である隆房の陣には一条家の一員として長曾我部家と戦い蹴散らされた将兵が集まってきていた。
「何故にあの時、後詰の兵を動かしてくださらなかったのか」
隆房に詰め寄る将は、唾を飛ばして怒鳴った。
「あの時、というのはいつ?」
「久武の部隊が側面から襲って来た時の事です。あの時、陶殿が兵を出してくだされば、戦線を下げる必要もなく、某も多くの兵卒を失う憂き目に会わずに済んだのですぞ!?」
そうだ、そうだ、と追従するのは同じように隆房の行動の遅れが原因で打撃を受けた者達であった。そんな彼らに対して、隆房は、
「あなた達は一条家に帰参したわけでしょ。大内家の家臣というわけでもないし、是非手柄を立てていただこうと思ったまで。特に久武親信と言えば、長曾我部家の三家老の一。その首の価値は元親に次ぐとまでされるわけで、討ち取れば名を上げる事ができたはず。それに、あたしは繰り返し側面に注意しろと言っていたよね。それで側面を突かれましたというのは話にならないんじゃない?」
隆房はこの時、あくまでも大内家は一条家の加勢に来ただけだと主張したのだ。
全権を預かっているものの、おいそれとそれを行使するわけではなく、指示を飛ばしはするものの、一条家の家臣達の顔は立てる。そういう用兵をしていたわけだ。
ならば、徒に助けに向かうよりも、その後ろの安全を確保した上で全力で戦えるような土壌を養うべきである。
高々二〇〇〇人ほどの兵に奇襲され、浮き足立って崩れたのは隆房の責任ではない。その後に、きちんと彼らを収容しているのだから責められる言われはない。
まして、側面から敵襲がある可能性を事前に通告していたのだから、叱責の対象にはなっても隆房を責める道理はない。
「これから先、一条ではなく大内が主体になって戦を運んでもいいのだけど、それでもいいの?」
隆房は言葉だけでなく視線や口調も絡めてこの場を制す。
伊達に大内家の筆頭家老を務めていない。
戦だけでなく、政治的な駆け引きにも長ずる隆房は発揮する機会こそ少ないものの弁舌にもそれなりに秀でたものを持っているのだ。
結局、詰め寄った将兵は隆房に言い包められる形で身を引いた。
大内家の責任を問おうにも、立場の低い彼らにはどうにもならない。一条家からも裏切り者のレッテルを貼られているのだ。さらに大内家に突っかかったところで己の立場を危うくするだけだ。
それに今回の戦で一条家の顔も立てた。
一条家からすれば、とにかく長曾我部家を討ち果たしてくれればそれでいいという高みの見物状態なのだろうが、大内家がそれを許すはずもない。
帰参してきた者達を長曾我部家との間ですり潰しながら、それを一条家内部での事として大内家への飛び火を避け、その上で戦の主導権を大内家が握る。
「さて、そろそろだね」
開戦からすでに半日。
大規模な激突は長曾我部家の最初の突撃のみで、それからは互いに待ちの姿勢に入ってしまった。
津野家のほうは家臣団と当主の反発が強まり、ついには当主が追い落とされて篭城戦に突入しているという。
あちらに割いた兵が戻ってくるのはしばらく先になりそうだ。
隆房から見て、右手には大海原が広がっている。この時代、太平洋は海の裏であり、日本海に比べればまだまだ交易面では劣るところがあった。
戦場となっている須崎は、深い良港を有しており、長曾我部家に臣従していた津野家が有する水軍も、須崎湾を拠点として活動していた。その須崎湾に、突如として大内家の家紋を掲げた大型船が入港したのだから長曾我部家は大混乱だ。
「若が来たみたいだね」
長曾我部家が野戦を選択したら、即座に報せるようにと隆房は晴持に言われていた。
晴持が本陣を置いていた久礼城もまた領内に良港を有している。そこに、船を停泊させて準備をして、長曾我部家の背後に兵を送り込む策だったのである。
そのためには、長曾我部家を戦場に釘付けにしなければならない。
今回の戦では野戦に強く、かつ敵の攻撃にも耐えられるだけの統率力を有する者が総大将を努める必要があった。
隆房が選ばれたのは必然と言えるだろう。
「さあ、みんな奮い立て! 若が来たぞ! 一条家への義理立てももう終わりだ! これからは、大内の戦を見せ付ける時だ!」
「おおおおおおおおおおおおおおおお!」
大内勢本隊七〇〇〇が雄叫びを上げて進軍する。それに巻き込まれる形で、前線の一条勢が前に押し出される。
前方の長曾我部勢は、これでも統率を崩してはいないが、撤退の構えを見せており防御力は極めて低くなっている。
その背後に、海から上陸した晴持と隆豊率いる二〇〇〇人の兵が迫る。
□
これは負け戦か。
元親は声を張り上げて撤退の指示を出しながら退路を伺う。
後方の海側から押し寄せてくる敵の数は多くない。そちらに足止めの兵を割く事ができれば、まだまだ戦える。だが、そのような余裕はない。正面から攻め寄せてくる敵勢は、ここで雌雄を決する腹積もりのようで、全軍に突撃命令を下している。
「元親ちゃん。急いで!」
可之助が悲鳴染みた声で元親の撤退を促す。
「元親様。お逃げください!」
「岡本城なら、ここからでも間に合います!」
傍に侍る老臣達が口々に言い募る。
「あ、あなた達は!?」
「誰かが殿を務めねばなりますまい。ならば、老い先短い我らが最適でしょうな」
「左様。若い者達には長曾我部家をますます盛り立てていただかねばなりませんからな」
元親が幼少期から知る者達である。祖父の代からずっと、長曾我部家を守ってきた筋金入りの忠臣であった。
殿は敵を足止めするためにその場に踏み留まる決死隊の事だ。当然、自らの生死は度外視する。
「元親様。善き夢が見れましたわい。一足も二足も速く暇をいただく事になりまして申し訳ありませぬ」
「くれぐれも早まる事のなきように」
そう言い残して、宿老の二人は自らの隊を率いて大軍の前に立ちはだかった。鬼気迫る面持ちで、敵勢を防ぐ肉壁となる。
「ぐ……」
全軍が混乱の極みにあり、指揮系統が目茶苦茶に崩れている。このままでは元親の命も危うい。
元親は岡本城を目指して撤退を始めた。側面を襲う敵勢に対して、さらに殿を名乗り出た者達が立ちはだかり、絶叫を上げて突撃する。
目的地となる岡本城は戦場からさほど距離が離れているわけではなく、僅かでも敵軍を足止めすれば十分に逃げ帰る事ができる場所にあった。
元親は近臣を引き連れて岡本城に戻り、逃れてきた兵を収容して城門を固く閉じた。
城を守るのに必要な兵を各郭に配置して、残った兵力を確認する作業に当たらせた。負傷兵や逃亡兵などが出て、当初の兵数を大きく下回るはずだからだ。
殿の部隊を蹴散らした大内・一条連合軍が、城を取り囲み始めた。
一息つく間もなく、元親は決断を強いられる事となった。
「元親ちゃん……」
「分かってる。わたしの責任だ……!」
「ち、ちがッ。元親ちゃん!」
可之助は打ちひしがれる元親に寄り添い、手を取った。
「元親ちゃんのせいじゃないです。みんなで頑張って、それでも相手が強すぎた。それだけじゃないですか」
「そうだぞ、元親。戦は戦術戦略も大切だが、時の運もある。元親だけが負い目を感じる必要はないぞ」
親信も笑って元親を元気付けようとする。とはいえ、もとより責任感の強い元親は、近臣二人の言葉をそのまま鵜呑みにして前向きになる事はできない。
今回の戦は、兵数に隔絶した差はなかった。そのために用兵次第では、十分に敵を蹴散らせる可能性があったのだ。だからこそ、長曾我部家は決戦を決意した。しかし、蓋を開けてみればこの様だ。敵が海から回りこんでくる事を想定していなかった。
相手が悪かった、などというのはいいわけだ。海を想定していれば、それに合わせた陣形を模索できたはずだからだ。
まして、海から敵を攻める戦術は、以前に元親自身が使っていた。故に、それに思い至らなかった事は最大の過ちであった。
「報告いたします! 城内の兵はおよそ四〇〇〇。しかし、負傷した兵も多く、戦に動員できるのは、これを下回るかと思われます」
「無理をさせて、どれくらいになる?」
「三五〇〇ほどでしょうか」
「三五〇〇、か。半数近くが脱落したわけか」
殿に残ってくれた者がおよそ一五〇〇人。二方面に割かねばならなかったから、これだけでも多くの兵を失った事になる。さらに、ここに逃げ戻るまでに辿り着けなかったり、逃げ散った者もいるだろうから、妥当な数か。
「この数で、大内の包囲網を突破する事はできないだろうな」
決死の覚悟で突撃しても、長曾我部家の全滅という最期しか見えない。敵勢は援軍を加えており数は数倍、士気は勝利の勢いに乗って非常に高い。
「仕方ない、か」
己の命を引き換えにしてでも城兵の命は救ってもらう。
長曾我部家の夢はここで潰えたが、その先に夢を継いでくれる者もいると信じる。
元親は唇を噛み締めて、決断を下したのだった。