大内家の野望 作:一ノ一
銀山城を攻囲してから二十日余りが過ぎ、戦線は依然として膠着状態にあった。
大内勢は、朝昼晩と攻め手を逐次投入して山を登るも、城兵の抵抗にあって敢えなく撤退するというのを繰り返していた。
敵よりも圧倒的に数が多いということは、こちらは余裕を持って敵に当たれるということ。余裕とは体力的なものもあるし、精神的なものもある。
攻め手をその都度交代して体力の温存に努めつつ、攻撃する気のない攻撃を幾度も繰り返していた。それは半ば義務的、作業的なものを周囲に感じさせていた。
ここまでで、死者は十人と少し。敵からは大内弱兵と謗る声も聞こえてくる。
「だが、それでいい」
と晴持は断言する。
「敵の首を真綿で絞めるようなものだ。こちらを弱兵と侮る気持ちが出てきただけ、敵は緩んでいる」
晴持はそのように判断していた。
定期的な城攻めは、ほとんど効果は発揮せず城門付近で矢合戦となった後、大内方が撤退するという状況である。それが一日に最低でも三回。二十日続けば、武田方の将兵は、常に戦を意識しなければならない。晴持が攻め手を入れ替えながら、単調な攻撃を仕掛けている理由の一つであった。
それはやがてルーティンワークとなり、思考停止を生み出す。そして、ストレスとなって彼らの心身に蓄積していくのだ。
そうして、銀山城と向き合っているところに、毛利家から書状が届いた。晴持はざっと目を通し、思わず頬が綻んでしまった。
「若様?」
不審に思った隆豊が、晴持に話しかける。
「元就殿が尼子に手痛い打撃を与えたようだ」
「真ですか!?」
天幕の中がどよめきに包まれた。
「ああ。さすがは知将と名高い元就殿だ。尼子の兵糧を焼き討ちにしたようだ」
尼子詮久は毛利攻めの当初風越山に陣取っていた。その後、大内勢が安芸国内に進軍するに及んで陣払いをし、青山三塚山に陣を構えた。これは、郡山城を見下ろしつつ、郡山城と鈴尾城の連絡を断ち、その上で大内勢と事を構えることのできる地理的優位性があった。これによって、大内晴持から先行させられていた杉隆相や小早川興景は元就と合流できず坂村に留まらざるを得なくなった。
ところが、詮久は失敗も犯していた。
その一つが、風越山に兵糧を置いていたことである。風越山を、石見国や出雲国との中継地として利用する算段だったのである。そこを、元就は強襲した。選ばれた精鋭によって、手薄になった守りを密かに突破され、三〇〇〇〇人を養う兵糧が炭の塊と化したのだ。さらに、隆相と興景らを少勢と侮った尼子勢は、湯原宗綱にこれを攻撃させた。それに対して、隆相達は元就と連携してこれを挟み、散々にやっつけて撃退してしまった。
尼子勢の大敗北であった。
晴持は、書状を諸将に回し読みさせた。
毛利元就の勝利は、こちらの士気を大いに上げるのに役立つ。無論、彼女の智謀の恐ろしさには舌を巻く以外にない。
「これで、尼子は不利になった。大軍を維持するには食い扶持がいる。だが、その食い扶持の大半が焼かれた今、そう長く戦を続けることはできないだろう」
「若様。この件、銀山城にも流しましょう。城兵の士気を挫くこともできるかもしれません」
「よし、隆豊。すぐに教えてやってくれ。懇切丁寧にな」
「はい」
「少し早いが、元就殿の戦勝祝いでも開こうか」
晴持はそう言って、意味深長な笑いを浮かべたのだった。
□
銀山城に篭っているのは、武田家当主武田信実を筆頭に、前当主の甥である武田信重、尼子家から援軍に来た牛尾幸清らが精鋭三〇〇〇人余りとともに頑強に抵抗している。
兵数は攻め寄せる大内勢の三分の一程度ではあるが、それでも篭城戦をするのであれば十分な数である。
それに、武田家には勝機もある。
なんといっても、武田家の後ろには三〇〇〇〇人の尼子勢がいる。毛利家の郡山城を陥れれば、すぐにでも駆けつけてくれるだろう。そうなれば、人数の差は一気に覆る。憎き大内家に大打撃を与え、安芸国守護の実力を国中に見せ付ける好機となるだろう。
しかし、それは結局のところ今の武田家が尼子家の傘の下にいなければ独立した勢力として立てないということでもある。それは、信実にとって苦渋以外の何物でもないのだが、そうはいっても大内家を相手にするには尼子家を味方につける他に選択肢がない。何よりも、信実には後がない。
信実は、安芸武田家の生まれではない。先代光和の代で直系の血筋が絶えたため、縁のある若狭武田家から養子として入っただけの新参者でしかない。
そのため、家臣団の統率が上手くいかず、大内家との関係で割れた家中を立て直すことができず、城を追い出されて若狭国に逃れた。
それでも、こうして安芸国に戻ってきたのは、武門の意地があったからだ。
このままでは済まさぬと、煮えたぎる溶岩のような心が訴えていたのだ。
「よもや、毛利程度に尼子がしてやられるとは……!」
尼子詮久の大敗は、隆豊の手配によってあっという間に城内に知れ渡った。
こうなってくると、城兵の士気がガクンと下がってしまう。篭城というのはそもそもが援軍を当てにした戦略である。必死になって命を繋ぎ、援軍の到来を待って敵を撃退するのが常識的な戦い方である。元就のように、篭城しつつも攻め手に打撃を与えるにはよほどの運と策略が必要だ。
そして、武田家には尼子家以外に救いの手を差し伸べる者はいない。
そもそも、信実に従う者自体が少ないという問題を抱えている。安芸武田家の譜代の臣は信実が追い出された一件で分裂し、有力な者も毛利家に走ってしまっていた。
それでも、篭城戦ができたのは、尼子家という後ろ盾への信頼があったからだ。
だが、毛利家一つに手間取っているという現実が、三〇〇〇〇人という膨大な兵を率いる詮久への不信感となって信実の胸に押し寄せてくる。
――――それだけの大兵力を指揮しておきながら城一つ潰せんのか。
悪い噂は広まるのが早い。
流行病が駆け巡るように、城内は尼子敗走の話で持ちきりだった。中にはすでに尼子家は毛利討伐を諦めて本拠に戻った、などという妄言も出始めている。
戒厳令を敷こうにも、もはや遅い。先行きに不安が現れたことで、城兵の士気は低下する一方であった。
そして、大内勢の陣からは太鼓や笛の音が聞こえてくる。兵の一部には酒も振舞われているようだ。毛利家の勝利に浮かれ騒いでいるのであろう。
「敵の大将は大内晴持。ふん、所詮は若造か」
「御屋形様。決して、油断されませぬよう。大内晴持と言えば、大内義隆の養嗣子にして、文武に長じるとして大内家中に於いても人心を集める仁。陣中には陶興房の子陶隆房も居ります。若造とはいえ、迂闊は禁物にございます」
「分かっておる。だが、あれを見てみろ。村の家を取り壊したかと思えば、その木材で能舞台を作っているではないか。わしらを甘く見ておる。いつでも倒せると高を括っておるのだ」
通常ならば、村を焼き討ちにして城兵の士気を下げようとする。挑発行為ともなるし、家を用いた伏兵戦術が使われないようにするためでもある。だが、ここにきて晴持は、山麓の村の家々を取り壊し、木材を能舞台などに流用した。戦場でありながら、武田の将兵に見せ付けるように村の木材を使ってバカらしい加工品に変えていくのだ。これを憤らずしてどうするというのだ。舐めるのもいい加減にしろと言いたい。
「物見によれば、浮かれ女も多数出入りしている模様です。大将も毛利の勝利に浮かれたのか、女将を侍らせて酒を飲み喰らっているとか」
「自分は単調な攻め方しかできん癖に、調子付きおって。大方、毛利の勝利を己の勝利と錯覚しておるのだろう」
大内家の態度に対して、憤懣やるかたないといった将達が、苛立ちの色を濃くする。
「信実殿。御心を御鎮めくださいませ。毛利が勝利したとはいえ、それは小競り合いの一つに過ぎませぬ」
尼子からの援軍である幸清は、自身の主君が敗れたなどとは到底信じられなかったし、それが大内家によって大きく虚飾されたものだとも思っていた。
「仮に本当に毛利に兵糧米を焼かれていたとしても、我らにとっては大きな痛手ではありませぬ。失ったものは他所から持ってくればよいのです。兵糧米が焼かれたこと自体が、全軍に与える影響など僅かでしかありませぬ」
「それは真か?」
「無論にございます。三〇〇〇〇の兵を半年は養えるだけの予備の兵糧が備後の三吉に用意してございまする。これを運び込めば、すべては元通り」
「ハハハ、そうかそうか。であれば、彼奴らの余裕もそう長くは続かぬわけか」
「御意」
幸清は平伏して自分が知る尼子家の準備の周到さを語る。
兵糧の焼失はあってはならない事態ではあるが、想定し得るものでもある。兵糧がなければ軍を維持することができないのだから、古来より、兵糧の焼き討ちは基本的な戦術として使われてきた。それこそ、この国が国としての形を整える以前の時代、中国での戦でも多用されている。それくらい、狙われて当然の兵糧なのだから、予備を用意するのは当たり前なのだ。
尼子家は大内家に次いで高い財力を有する大家である。
十分な量の兵糧の予備には余念がなかった。
「大内晴持。政治では頭が回っても、戦ではまだまだ小僧だったということか」
能舞台の周囲でこれ見よがしに遊び惚ける大内の将兵。その中心には晴持がいる。
「夜討ちを仕掛けるぞ。連中が勝った気でいる今が好機。単調な迎撃戦でこちらの兵も気を緩めておるからな。ここいらで引き締める」
信実は敵の様子を仔細に観察しつつ、侮蔑したような視線を大内勢に投げかけるのであった。
□
毛利元就がそうであったように、数の差というのは状況次第によっては覆されることもある。もちろん、それは局地戦に限った話であって、いくら相手が油断していようとも大将首を獲るまでには至らないだろう。だが、一度でも打って出ることは城兵に溜まった鬱憤を晴らすよい機会であり、また、士気を高揚させる効果もある。とにかく、篭城戦を持たせるために、適度な城外戦闘はあったほうがいいのだ。
そこで敗北すれば、厭戦気分が蔓延するだろうが、作戦が成功すれば大内弱しと喧伝し、より頑強な抵抗ができるようになる。
毛利家の勝利に浮かれている大内勢に戦の厳しさを教えるのであれば、今が最大の好機である。
武田家の内情を考えると、信実は分かりやすい戦果を欲するはずだ。それは、彼が家臣団をきちんと統率できていない、新参の将だからだ。いかに跡取りと雖も、素直に号令に従ってやるほど、この地の者は甘くない。お家騒動の際に武田家を見限って、毛利家や大内家に鞍替えした者も少なくない中で信実が戦力を維持するには大内勢に対して、どうあっても一撃を入れる必要があるのだ。
「あの、若様……本当に、大丈夫なのでしょうか」
「どうした、隆豊」
篝火の灯りが、布越しに天幕を柔らかい光で包む。今、この天幕の中にいるのは晴持と隆豊だけだ。他の将は皆、それぞれの持ち場に戻っている。
「陣中で能や舞を催すなど。皆、気が抜けてしまうのではないでしょうか?」
「戦の最中とはいえ、気を紛らわせるのは必要だろう」
「しかし……」
「大丈夫だ。隆房が警戒に当たっている。夜襲もあるものとして注意している」
晴持は、天幕の外に出る。
目の醒めるような大きな月の天蓋だ。月光は明るく地を照らしている。篝火など、不要と言えるほどの光が、天から注がれている。
銀山城はその中で漆黒に浮かび上がる切り絵のように建っている。
その時、夜の静寂を突き崩す鐘の音が、響き渡った。
「わ、若様。これは……!?」
飛び出てきた隆豊は、すでに武将の顔つきとなっていた。
「ああ、来たようだ」
この鐘の音は、銀山城のある武田山の麓になる長楽寺からの報せだ。長楽寺は、銀山城の搦め手側に建つ寺で、武田家との繋がりも深いのだが、落ち目となった武田家よりも圧倒的に優位に立つ大内家と組することを選んだ。
事前に調略した甲斐があり、武田家が搦め手から夜襲に出た場合、音で報せてくれるようにしていたのだ。
もちろん、それは武田方が大分通り過ぎてからしなければ反転されて押し潰される。だから、武田家の兵は、銀山城を密かに出て、それなりに時が経っているのだろう。
「戦だッ。寝てる者も鐘の音で起きただろう! これは、敵襲の報せ! 山麓の寺が危険を承知で、我らに武田の夜襲を報せてくれているのだッ! 無駄にしてはならんぞ! 者共、武具を持て、寺を武田が押し包む前に、こちらが武田を叩くぞ!」
昼間に英気を養った将兵は、顔色もいい。彼らは、すぐに体勢を整えた。
そこに、馬に乗った隆房がやってきた。
「若! 急ぎだから、馬上で失礼! 裏手から敵襲。目視で確認! 数はおよそ一五〇〇! 距離は、一〇町くらい!」
「よし、隆房。お前は夜襲組を率いて正面から突き崩せ」
「承知!」
隆房は、馬首を巡らせて夜襲組――――晴持が昼間に寝て、夜に夜襲警戒に当たるように指示した一隊と共に颯爽と戦場に向かう。
「隆豊は右翼から隆房を援護だ。上流から川を渡って、伏せ兵を指揮しろ。頼むぞ」
「はい!」
それから、毛利隆元や家臣の山崎興盛らに出陣の準備をさせる。
目を凝らすと、晴持のいるところからでも敵影が分かるくらいになってきた。梵鐘がかなり有効的に作用したらしく、動揺の色が窺える。
その敵影に、景気よく隆房の部隊が突撃した。
□
夜襲を指揮するのは、安芸武田家の血を引く武田信重。前当主である光和の甥に当たる彼は、現当主の武田信実を心から信じているわけではなかった。
彼自身は、安芸武田家の血脈ではあるが当主になろうとは思わず、粛々と若狭武田家からの養子を受け入れた。だが、入ってきた信実は大内家との和平を主張する香川家と依然として尼子家に合力せんとする品川家の対立を解消することができなかった。
その時点で自分が責任を持って当主の地位を強引にでも引き継いでいればとも考えたのだが、それは混乱に混乱を重ねるだけで終わるのは目に見えていた。
仕方がないと、割り切ろう。
安芸武田家が尼子家の支援を受ける以上は、大内家に狙われるのは承知していた。尼子家が毛利家に梃子摺っているのだから、これ以上の援軍を望むのは難しいということもだ。
そうした中で、大内家の総大将が若く、経験の浅い者でよかったと思う。毛利家の一時の勝利で浮かれている今の大内勢に切れ込めば、敵陣を壊滅させることはできずとも、それなりの戦果を上げることはできる。城兵の士気を高める好機を逃したくないというのは、信実でなくとも希うものだ。
夜陰に紛れて一五〇〇の兵と共に銀山城の裏手から出馬した信重は、密かに山を下るとそのまま大内勢の右翼側を目指して兵を進めた。大内家の陣は、篝火が焚かれているが、静かなもので、夜襲に対する警戒心がないようにも思えた。
それは、自分の心がそうなのだと思いたいだけなのかもしれない。
「……何をバカな」
それでは、まるでこの策に自信がないようではないか。
一度戦場に出たならば、策に疑問を差し挟んではならない。それは、心と身体を重くし、判断を鈍らせ、命を落とす要因ともなる。信重は弱気な己を戒めて馬を静々と進ませる。
大内勢に切り込むには、佐東川を渡らねばならない。夏の気配を残す秋の世に、川の水は心地よく感じられた。
特に問題が生じることもなく、信重は川を渡りきった。
長楽寺の鐘が鳴り響いたのは、その時であった。
「な、に……?」
重厚な梵鐘の音。
この地に来て以来、毎日のように聞いてきた鐘の音である。だが、月が出ている真夜中に鐘を突くことなど、今まで一度もなかった。
なぜ、このような大事な時に、と信重は歯噛みして、それからはたと気が付いた。それは、決して想像したくない最悪の事態であり、そして最も高い可能性――――即ち、長楽寺が大内勢に味方し、武田家の動きを鐘で報せているという可能性である。
「いかん、我らの動きを読まれておるッ」
信重が叫んだときには、兵の間に動揺が広がっていた。夜襲とは、直前までそれと悟られず、敵の不意を突くからこそ少人数でも勝利を収めることができる戦術だ。敵がこちらの動きに気付き、対処するとなれば、奇襲は失敗だ。反撃を受けて蹴散らされてしまう。
「おのれ、小癪な坊主めがッ」
怒気を露にしても、もはや遅い。策は失敗した。それを認めて、次に対処しなければならない。
「信重様! 大内勢に動きが……大内菱の旗印。率いているのは、陶隆房と目されます!」
「陶の娘かッ。槍隊を前に出せ! 押し返すのだ!」
「槍隊、前へーーーーッ!!」
侍大将が号令を掛ける。夜襲が失敗した直後に大内家でも指折りの実力を持つ陶家の一軍に襲い掛かられるという最悪の展開に、武田勢の動きは鈍かった。
槍衾を展開したときには、すでに隆房の軍勢は目と鼻の先にいた。
「この程度の槍衾で、あたしを止められると思うなよ!」
片手で繰り出す槍が、武田方の槍衾を切り開き、先頭の兵を蹄にかけた。隆房は自身を先頭にして偃月の陣で切り込んだ。大将を先頭にして敵陣を切り開くこの陣形は、味方の士気を大いに盛り上げる一方で、大将の討ち死にの危険性を高める非常に危険な陣形でもある。
隆房がこの陣形を選んだのは、自分の父親が攻略できなかった銀山城に攻めかかることに対する高揚感もあるし、性格もある。が、それ以上に戦術的に適していたと判断したからであった。
敵は渡河したばかり、且つ、奇襲の失敗で動転している。人数も多くない。防御力は脆弱。これだけ揃っていれば、一息に突き崩すのが手っ取り早い。
「やっぱり野戦が一番だ! しゃー、暴れまわるぞー!」
変幻自在、細身の身体から繰り出される槍撃は、鎧を着込んだ大の男の骨を砕き、首を跳ね飛ばすほどに強力だった。血飛沫が舞い、可愛らしい顔を汚していく。月光に照らされた隆房の顔は、武田兵にとっては鬼のそれにも見えただろう。
「おのれ、小娘ッ!」
「え、じゃま」
雑兵の突き出した槍を、隆房はひょいと避けて、籠手で殴り倒した。顔面から血を吹いて倒れた男は、それっきり動かなくなった。
「ば、化けもんだ」
「殺されるッ」
「お嬢に続けッ!」
「隆房様に遅れを取るな!」
武田勢は隆房の戦いぶりに恐れ戦き、陶勢は士気を高揚させた。
ただの一度の突撃を受けて、武田勢は一挙に瓦解した。
そして、武田勢を斬り裂いた隆房が遂に信重を視界に捉えた。
「そこにいるのは、武田の将だな! 名乗れ!」
隆房は止まらない。兵の壁を物ともせずに、突き進んでくる。
「うぬ、陶の娘がこれほどとはッ」
父が父ならば、娘も娘。いや、あるいは既に父親を超えているかもしれない。そう思わされるほどの武勇を示している。
「信重様。ここはお退きくだされ!」
「あの娘は我らでお引き受けしますゆえ!」
「あ、ちょっと、逃げる気!? 待てって、もう、あんたらじゃま!」
「すまぬッ」
信重は命を賭して身を守ってくれる家臣に涙ながらに礼を言って、馬首を川に向ける。すでに戦列は瓦解し、戦おうとする者は、信重を逃がそうとする心ある家臣だけであった。そうではない兵達は、皆川に逃れていく。追い散らされた状態で、川に飛び込んだことで、溺れる者が続出した。信重が川を渡り終えたときには、一五〇〇人いた兵は、半分以下にまで減っていた。
すべてが討たれたわけではあるまい。おそらくは、夜陰に紛れて逃げ散ってしまったのだろう。
追撃が来ることは確実と言ってもいい。川を渡って一息つくこともなく、信重は馬に鞭を入れて銀山城を目指した。
全力での敗走。その側面に、襲い掛かったのが隆豊の部隊だった。武田勢が隆房に蹴散らされている間に、上流から川を渡り、退路に伏せていたのだ。
「弓隊、てーッ」
空気を切る乾いた音。
百を超える矢が、信重達に降り注いだ。
「ぎゃあ」
「痛てえ」
「ひぃいい」
軽装の者から脱落していく。信重は味方に守られてほとんど怪我はないものの、その味方が次々と倒れていく。
「形振り構わず駆け抜けろ!」
そう叫ぶのが精一杯だった。
弓の雨の後は、冷泉勢の突撃がある。武田勢は壊走して、隆豊達に面白いように討たれていく。もはや戦場は武田勢の首を狩る、狩場となったのだ。
□
「お味方勝利! 武田勢、壊乱にございます!」
伝令兵が、天幕に入ってくるなりそう叫ぶと、陣中はどっと空気が弛緩した。
「ご苦労。敵は、城に逃げ戻っているな?」
「ハッ」
「ならば、そのまま城に追いたて、攻城に移れと隆房と隆豊に伝えてくれ」
「承知しました」
伝令兵は、一礼して天幕から飛び出ていった。
「晴持様」
「ああ、隆元と興盛は、大手門から銀山城を攻めろ。この一戦で雌雄を決するぞ」
「はい!」
「お任せあれ」
隆元と興盛は、それぞれ鎧を鳴らして自軍の元へ急ぐ。
追い散らされた武田勢が山を駆け上がるのにくっ付いていけば、搦め手から銀山城を襲撃できるのだが、そう上手くもいかないだろう。だが、この一戦で銀山城の兵力を大きく削ぐことはできた。今、城内にいる兵の数は半分ほどだ。敗報で消沈したところに一気呵成に攻撃を仕掛けられれば、さすがの銀山城も落城を免れまい。
以前と違って、今回は明確な尼子家からの支援がないのだ。
尼子家が毛利攻めに手間取っていることは周知の事実。その不安を払拭し、士気を向上させる必要性から、敵は夜襲に踏み切らざるを得なかった。かつて、大内義隆が銀山城に出陣した際には、毛利元就の夜襲によって、大内勢は撤退に追い込まれた。敵には、そうした過去の栄光が植えつけられていることもある。
夜襲の効果を知り、敵の明確な隙を見て、自分達は追い込まれている。打って出たくなるのが人の性だ。
銀山城は、予想に反して頑強に抵抗したものの、一刻と持たずに落城した。
武田信実、牛尾幸清は夜陰に紛れて逃亡、武田信重は意地を張って抵抗し、隆房の槍で討ち果たされた。