大内家の野望 作:一ノ一
新宿のアサシンの腰を捻った回し蹴りのシーンスゲーカッコイイ。
濛々と立ち上る湯気が白く美しい。
別府湾をなぞるように走る小倉街道を南に進むと、現れる光景である。海に面した桃源郷か。どこか温かな風に流れる湯気は大地から立ち上っている。
そう、ここは温泉地。遥か未来に於いても有名な別府温泉。その内の一つであり、原型ともいえる浜脇温泉であった。
浜の脇から湧く温泉の名の通り、別府湾を臨む海沿いに現れた温泉郷である。
と言っても、この時代にはまだ庶民の温泉利用は限られており、温泉街もきちんと形成されているわけではない。少しばかり寂しい感じは否めないが、それはそれ。ここは大友家が代々直轄地として管理してきた湯治場で、元寇では傷ついた兵士が傷を癒しに訪れたとかいう由緒ある温泉なのだ。
戦の最中。果たしてこのような場所に来ていいのだろうかとも思ったが、これはあくまでも「湯治」である。娯楽ではない。疲れた身体を癒し、次の戦いに備えて活力を蓄えるための訪問である。
「温泉は、久しぶりな感じだな」
前回、温泉に浸かったのは伊予国での事だ。道後温泉という後世に残る温泉を堪能したのはいい思い出だ。
道後温泉も別府温泉も名前は聞いた事はあったがまったく縁のない観光地だったのに、生まれ変わってからどちらも経験できるとは。
西国生まれの特権というヤツだろうか。
西の尼子家と南の島津家。どちらも強敵には違いなく、対応するための軍備を急がなければならない時節だが、同時に晴持の軍は休まなければならない状況だ。長期に渡って続いた龍造寺家との睨み合いは、さすがに兵士達の心身に疲労を蓄積させていた。そのため、前線を離れての小休止を余儀なくされていたのだ。
さて、晴持に宛がわれたのは大友家所有の屋敷の一つ、浜脇館であった。
何でも、二階崩れの変で大友宗麟の父が殺害された時に、宗麟が滞在していた館なのだとか。いわば大友家の別荘といったところであろうか。
大友家が管理し、整備を進めた事でそれなりの街として成り立っている。小倉街道沿いにあるために、宿場として相応の立ち位置を確執しているらしいのだ。
そこで、晴持は温泉を堪能する前に街を歩いて回る事にした。館を一巡りした後で、晴持が玄関にやって来ると、光秀と隆豊が立ち話をしていた。
「晴持様。どちらかに行かれるのですか?」
玄関先にいた光秀が晴持に尋ねた。
「せっかくだから、その辺を散策しようかと」
「お一人で?」
「……光秀と隆豊も来るか? いや、来るよな」
「はい。晴持様お一人で外に出るなど、危険です。必ず護衛を連れていただきませんと」
厳しい口調で光秀が言った。
至極当然の物言いに、晴持は返す言葉がない。いや、もともと誰か連れて行く予定ではあったのだ。誰を連れて行くかはこれから考えるつもりだっただけである。
護衛もなく外を出歩くと、後で何を言われるか分かったものではない。特に真面目な光秀は、こういった事には厳しいのだ。
「若様。お出かけになるのでしたら、馬か輿を用意させます」
「隆豊。必要ない」
「しかし……」
「一々馬に乗っていたら、店に入れないだろう」
外を歩いて回るだけ。いっそ目立たないようにしているほうが安全でもあった。それに、すでに慣れたとはいえ、如何にも貴人といった扱われ方は、苦手な部類であった。輿も馬も時と場合を考えて使う。今は、その必要性を感じなかった。
「隆房はどこにいる? さっきまでいたような気がしたが?」
「陶さんなら、先ほど郎党を連れて外出されました。街の作りを見て回るのだと仰っておいででした」
晴持の問いに隆豊が答えた。
「そうか。アイツも仕事熱心だ」
街の構造を把握するのは有事の際の避難経路を確保するなど重要な意味を持つ。本来は下の者に任せてもいい仕事だが、隆房は自ら検分するつもりだったようだ。
「どうせ出かけるなら一緒に出て街を検分すればよかったが……ま、仕方ないか」
晴持のこれは百パーセント思いつきでの行動だったのだ。隆房が合わせられなくても仕方がない。
「さて、行くか。隆房には申し訳ないけどな」
もしかしたら、街を歩いている間に隆房に会えるかもしれない。そういった期待も加味して晴持は光秀と隆豊を連れて浜脇の街に繰り出した。
この時代、堺のような正真正銘の大都会か山口や京のような文化都市でもなければ景色など似たり寄ったりなものだが、浜脇はさすがに温泉地なだけあって異国情緒を感じさせる景色が多々あった。
やはり、地面から湧き出る湯気がそう思わせるのだろうか。建物の並びも決して珍しいものではないのだが、湯気がここに加わると一気に観光地に来たような気持ちになれるのだ。
「なかなか、街中は賑わっているな」
率直な感想を晴持は呟いた。
山口や府内ほどではないが、ざっと二〇〇〇人、いやそれ以上の人が浜脇にはいるのだろう。ここは街道沿いにある街なので、商人らの出入りも激しい。それで、実際の人口よりも多くの人の姿があるに違いない。
「きっと、大友家に力があればもっと賑わっていたのでしょうね」
隆豊はかつての大友家の繁栄ぶりを知っているために、街の賑わいがむしろ弱まっているのではないかと思ったのだ。事実、大友家が衰退してからは浜脇にも暗雲が立ち込めた。商人が出入りする街だからこそ、情報の伝達が速い。まして街道沿いにあるのだから、島津軍が押し寄せてくる可能性は大いに存在した。街を捨てて逃げる者も少なくなかったという。
「でしたら晴持様が、この街を救ったとも言えますね」
「おいおい、それは持ち上げすぎだろ」
「いえ、晴持様が島津家の北上を阻止したからこそ、この辺り一帯は焼け野原にならずに済んだのです。戦に巻き込まれれば、この景色もなかったでしょう」
光秀の言葉に若干照れながらも、晴持は頷いた。
晴持が救ったかどうかは別にしても、戦の常套手段は建物への放火だ。敵兵の隠れ場所を潰しつつ、戦意をくじく効果が期待できる。
「まあ、たらればの話をしても仕方がない。結果論でしかないしな」
別府温泉を救おうなんて気は、まったくなかった。それどころか、ここに温泉がある事自体、まったく気付いていなかった。
「それはそれとして」
晴持が感じたのは空腹感。
大通りに漂うのは多種多様な人々の声と足音だけでなく、茶屋や酒屋から溢れる美味そうな匂いもある。
「どこかに入ろう」
茶屋は何件も並んでいるというのに、どこも混雑している。ちょうど昼時と重なったため、店員は大忙しで、飛ぶように店内を走り回っている。
どこに行ってもすぐに食にありつけそうには思えない。
大内晴持の名を出せば、席を用意するくらいは容易いのだろうが、それではいらぬ不興を買う事になる。ここまで来て嫌な思いをする必要などなく、大内家に対しての不満を煽るなどまったくもって意味がない。
よって、晴持はうろうろと街を練り歩いて腰を落ち着けられそうな茶屋を探し、五軒目にしてようやく席に座る事ができたのだった。
ちょうど、昼食時が過ぎたくらいだ。街の活気も多少は落ち着いてきただろうか。晴持が座れたのは、昼を過ぎた時間帯だったという事もあるのだろう。
やや落ち着いた雑踏を店の中から眺めた晴持は、次いで自分の手元に視線を落とす。この店の自慢の一品だという水団汁。ゴロゴロとした里芋と濃い目の味噌で味がついていて、汗水流して働く職人に人気なのだとか。
しかし、こうしたところでも人の性格や育ちは出るものだと晴持は内心で笑ってしまう。
例えば光秀はかつお出汁ベースの湯漬けで、手早く栄養を摂取しようとしているのに対して隆豊はみたらし団子と白玉の蜜漬けだ。この時代に甘味が店に並んでいるのは、街道沿いかつ海に面しているからこそであろうが、値段は隆豊が味わう甘味類が一番高い。
光秀は貧窮時代を経験しているので、こうした庶民の茶屋を利用するのも慣れたものか。隆豊も山口では街に繰り出したりはしていたか。
「そういえば、陶殿はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
光秀が隆房を探して周囲を見回した。
街を見て回っているのなら、どこかでばったり出くわす事もあるだろうと思ってはいたが、それらしい集団を見かけないのだ。
「この街、意外に広くて入り組んでいるところもあるようですよ。道も広くはないので、視界はよくないですね」
隆豊が最後の団子を飲み込んで答えた。人を隠すなら人の中とはよく言ったものだ。隆房の身長はさほど高くはないので、人込みに飲まれればまったく見えなくなる。街の視察と言えば聞こえはいいが、ここは一応大友領なので政治的な意味合いはそれほど強くはない。当然、連れ歩いている配下も人込みに紛れる程度のものだろう。
大内筆頭家老の家柄を誇る陶家の令嬢は、家中の発言力は晴持に次ぐ。それだけの力がありながら、彼女は政治的な発言はあまりしない。戦場での指揮官としての職務に忠実に邁進しているのが現状である。
「失礼、こちらの席はどなたかお座りになっておられるか?」
晴持に声をかけてきたのは、晴持よりも少し背が高いくらいの青年だった。
「いや、特に誰も座っていない」
晴持の隣の席がちょうど開いている。それを目ざとく見つけたのだろう。
「では失礼ながら相席させていただきたい」
「どうぞ」
「忝い」
人の入れ替わりが頻繁に行われる店内は、今再び盛況さを取り戻しつつあった。昼を過ぎて落ち着いたかと思いきや、昼に食にありつけなかった人達が大挙して押し寄せてきた感じだ。
この別府も商業都市の形を取り始めている。となれば、多種多様な人々が集まる職業の坩堝となっているといってもいいのだろう。
隣に座った青年は果たして何者だろうか。見たところ、商人ではあるまい。誰もが武器を手にできる戦国時代なので、腰に差した刀だけでは武士と明言できないものだが、彼のような筋肉質な身体付きと頬や額の傷跡を見ればそれなりの戦場を経験してきた武士だと言えるのではないか。
大友領とはいえ、これだけ多くの人が行き交っているのだ。いったい、どこの武士なのか気になる。
そんな事を考えていると、青年は酒と奈良漬を注文していた。
昼間から酒を飲み、漬物をもりもり食べているのは不健康極まりないといわざるを得ない。かといって、晴持がそれを指摘する立場にあるわけでもなく、ダメなヤツがいるなというくらいでしかなかった。
「ところで」
と、青年が晴持に不意に話しかけてきた。
「腰に差した刀は大層な業物と見受けるが、あなたは剣術を嗜まれるのか?」
「剣術と言えるほどのものは修めていない。生憎と、武芸もかじりはしたが人並みでね」
「左様か。では、そちらのお二方は如何に?」
「彼女達はなかなかの手練だが、人前で見せるようなものでもない」
「ふむ、なるほど。それは残念」
酒でほんのりと紅くなった青年の顔付きが一瞬、鋭く変わるのを晴持は見逃さなかった。それは、まるで猛禽のような目であった。
「もしも、人前で見せられると答えていたら、あなたはどうしていたのだ?」
晴持は青年に尋ねた。すると、青年は人好きのする笑みを浮かべて答えた。
「無論、一勝負挑ませていただいた」
と、自分の刀の柄を叩く。
「兵法家の類ですか。大層な自信ですね」
光秀が口を開いた。あからさまに青年を警戒している風である。
「まだまだ未熟ゆえに数多の兵法家と鎬を削りたいのだ。剣の道は一朝一夕に極められるものではないという事くらいは分かっているのでな」
青年は謙遜したように言った。しかし、自分の技術に自信がないというわけでもなさそうだ。相応の実力を身につけた上でさらに上を目指したいというところだろう。
「そういえば、あなた方の名前を聞いていなかった。身なりからして、この辺りの者ではなさそうだが」
「俺か? 天城颯馬。この二人は珠と五郎だ」
さらっと嘘をつく。前々からお忍びで外を出歩く時にちょこちょこと使っていた偽名である。光秀を珠としたのは適当、五郎は隆豊の幼名である。
唐突な偽名に光秀と隆豊は驚いただろうが、さすがに顔には出さなかった。
「それで、兵法家のお兄さんの名は?」
「ああ、失礼した。私は丸目長恵。かつては相良家に奉公していたが、わけあって流浪の身となったあぶれ者。今は上泉様より新陰流の理を学び、剣の道を志している」
「上泉というと、上泉信綱殿か」
「ほう、我が師をご存知で?」
「名前だけは。京では大層なご評判だとか」
「如何にも。理に適ったすばらしき剣の冴えであった。我が剣、未だ師の域には至らず、果たしてどれほどの修練に打ち込めば、あの域に手が届くのか……」
「是非一度お会いしたいものだ」
「私も今一度お会いしたいと思い京に上ったものの、上泉様とはお会いできず無念であった」
自棄気味に長恵は酒を煽った。かなり強い酒のようだが、彼は酒に強い体質であるらしい。まったく酔ったそぶりを見せない。
「颯馬殿は何ゆえに別府に?」
「商談だ」
「ほう、商談。颯馬殿は武士ではないのか?」
長恵の視線が晴持の刀に向かう。
「如何にも武士だが、武士とて商人の真似事くらいはするだろう。俺はもともと山口でご恩をいただく身でな」
「山口、すると大内家か?」
「ああ。豊田幾之進という酒屋の護衛を兼ねてここに来たのだ。まあ、商談といっても豊田殿が進める話であって、我々は蚊帳の外。時間が空いたのでこうして街に繰り出している」
「左様か。大内家といえば、今や跳ぶ鳥を落とす勢いで成長している大家ではないか。しかし、大丈夫か?」
「大丈夫かというと?」
「東の尼子が大挙して押し寄せていると聞いているぞ。すぐに山口を侵される事もあるまいが、心配ではないのか?」
その通り。死ぬほど心配である。尼子家は大内家の終生の天敵であり、いずれは滅ぼさねばならぬ相手とはいえ、九州で島津家と睨み合っている時に尼子家が来襲するというのは、考え得る限り最悪の展開であった。せめて、島津家を屈服させてから尼子家に腰をすえて当たりたかったところである。
「心配か否かで言えば、もちろん心配だが、俺が心配したところでどうにかなる話でもない。それに、尼子家が挙兵をする事くらいは誰もが予期している事だった」
「そうなのか?」
「そうなのだ。当然の展開だ。だから、準備だってしているさ。剣の道は一朝一夕に成らずとさっき言っていたが、尼子家がどれだけの軍装を整えようと大内家を攻略する事もまた一朝一夕には成らぬ事だ」
「ふむ、なるほど。確かに、そうかもしれん」
ぐい、と長恵は酒を飲む。いつの間にか、三合ほども酒を飲み干している。
「ところで、丸目殿は京には詳しいのか?」
「諸国行脚の最中に立ち寄った事もある。こう見えて将軍殿下の前で剣を披露した事もあるのだ」
「本当か?」
「嘘をついてどうなる」
にやりと長恵は得意げな笑みを浮かべた。なるほど、この表情は嘘ではない。
「殿下は剣術に夢中になっておいでと聞いた事があるが……」
「ああ、そのおかげで目通りが叶ったのだ。もっとも、私は師の付き添いでしかなかったが、それでもお褒めの言葉を賜った……ああ、殿下も別格だったな。将軍職にありながらあれほどの剣才をお持ちとは。少しばかり常軌を逸している」
将軍に目通りしたという時点で、長恵の剣には箔が付く。
彼が会ったのは将軍義輝だろう。彼女もまた剣の道を志す者であり、優れた兵法家を招いては剣の仕合をさせているという。
晴持も、以前に一度だけ会った事がある。
「丸目殿、もしよければ大内家に出仕しないか? この時分だ。どこもかしこも人手不足。大内家であっても実力があれば仕官を許されるぞ。こう見えて上にも知り合いはいる。話を通す事くらいできるぞ」
「興味深い、が。しばらく保留とさせてもらおう。今更戻るに戻れぬが、相良家に厄介になっていた事もあるのでな」
その相良家も、今や風前の灯。甲斐家に拾われて辛うじて命脈を保っているに過ぎない状況だ。島津家がこれ以上北上してしまえば、その甲斐家すらも潰える可能性は否定できない。
大内家に仕えれば、間接的にでも相良家を救う事もできるかもしれない。だが、できれば相良家に直接奉公したいという思いも捨てきれないというところだろうか。それとも、また別の気持ちがあるのか。読心術でも使えない限り、長恵の気持ちを完全に読み解くのは不可能だ。
「無理強いはできないが、頭の片隅にでも入れておいて欲しい。優秀な人材を紹介すれば、俺も引き立ててもらえるかもしれんしな」
等という事を言い添えて、長恵と別れた。
相良家に思いがあるのなら、島津家に流れる事もないだろうと楽観的に考えて、やっぱり本名を名乗っておくべきだったかなと少しばかり後悔した。
■
温泉に来たからには温泉に入らなければならない。湯治は地位のある武士にとっては馴染みのもので、もともとそのためにここまでやって来たのだ。
そもそも湯浴み自体がまだ高級だった時代。地下から湯が出るというだけで珍重され、領主の管理下に置かれるのは当然なのだ。
歴代の大友家が守り、整備してきた浜脇温泉。晴英肝いりの夕食に舌鼓を打った後、いよいよ湯に浸かる時が来たのである。
隆豊、隆房、光秀の姫武将三人組にとっても、この温泉は楽しみにしていたものの一つ。むしろ、このために浜脇温泉までやって来たといっても過言ではない。
戦場では鎧兜に身を固める彼女達も、浴場にあっては生まれたままの姿である。唯一の装備は手ぬぐいくらいのものである。
「ちょうどいいお湯加減。すぐに入れそう、きゃっ」
手を湯につけて温度を確かめていた隆豊が小さく悲鳴を上げる。隆房が勢いよく飛び込んで、水飛沫が顔にかかったからだった。
「陶さん、いきなり飛び込むのは危険ですよ」
「あはは、ごめーん。広い温泉とか飛び込まざるを得ないかなって」
「ダメですよ。きちんと慣らさないと身体にもよくありません」
急な温度変化は心臓や血管に負担をかけるという。高齢者が時たま浴室、あるいは脱衣場で倒れる要因の一つだ。至って健康体の隆房がそこまで細かく気にする必要はないのだが、それを差し引いて礼に反するという事はある。
隆豊は隆房を注意した後で、ゆっくりと湯に浸かった。じわりと熱が体内に染み込んでくる感覚に酔い痴れつつ、ほう、と息を吐く。
「明智殿もお早く。そこにいては身体が冷えますよ」
「あ、はい……」
促された光秀は、おずおずと湯に入る。
光秀にとっては上役と一緒に密室に閉じ込められるようなものだ。冷静に考えてみると、かなり異常な事ではあった。
清和源氏に名を連ねるとはいえ没落した地方の氏族の一員に過ぎない光秀が、西国の大大名の直臣、それも最高峰の家格の二人と一緒に湯浴みだ。
晴持が関わる時ならば、光秀も晴持という傘の下で落ち着いていられるが、その外でとなるとどう接したらいいものか未だに分からない時がある。
光秀からしても隆豊と隆房は可愛らしく、そして綺麗な身体をしている。隆豊に至ってはすでに晴持に抱かれているらしい。確かに、光秀よりも小柄な隆豊ではあったが意外にも凹凸ははっきりとしていた。胸は大きすぎず、かといって小さいとはいえないくらいあるというのはちょっとした驚きだった。普段の服からは、想像もできなかった。
「明智殿、どうかされました?」
「あ、いえ、なんでもありません」
どうも不躾な視線を送ってしまった事に気付かれたらしい。光秀は慌てて首を振った。
「よし、これ行ってみない?」
隆房がどこから取り出したのか酒瓶を持ち出した。ご丁寧にお猪口まで用意しているではないか。
「え、ここでですか?」
温泉の中で酒を飲むなど聞いた事がない。そもそも、そこまでして酒を飲む必要性も感じない。
「あ、いいですね」
ところが、隆房の提案に隆豊は乗り気だった。
「冷泉殿……?」
「いいじゃないですか。せっかくの湯治なんですから。それに、浜脇の湯でお酒というのも一度やってみたかったんですよね」
妙にうきうきして隆房からお猪口を受け取った隆豊。すでに透明な酒の精が並々と注がれている。
それを一気に飲み干す。
「おう、イイ飲みっぷりだね」
「ふふ、陶さんもどうぞ」
「いただきまーす」
隆房のお猪口に酒を注いだ隆豊に促され、隆房はお猪口を空にする。
「明智殿は?」
隆房が光秀に酒が入ったお猪口を渡す。
「う、いや、わたしは」
「まあまあ、一杯だけ一杯だけ。もったいないって」
「は、はあ……」
困惑しながら光秀は酒を飲んでしまう。
もったいないとまで言われてしまえば、断わる理由が見つからない。そこまで強い酒ではないのか、喉越しはさわやかで喉を上ってくるようなアルコールの香も少ない。
「はい、じゃあ次ー」
隆房が光秀のお猪口に酒を注ぐ。
「え、あの、一杯だけって」
「そう一杯だけ。でも、もう一杯いけそうじゃん。わたしも行く」
にこやかに隆房がお猪口を空ける。
「陶さん、あまり明智殿に無理を押し付けるのはよくないですよ」
「んん、隆豊いつのまにか一人で盛り上がってんじゃないわよ」
隆豊の顔が紅いのは、温泉の熱気に当てられたからではないのだろう。光秀が隆房と飲む飲まないのやり取りをしている間に、一人でかなり飲み進めたらしいのだ。
「お二人とも、お酒はお好きなのですか?」
光秀は二人の意外な一面に目を剥いた。
「ん? まあ、好きか嫌いかで言えば好きだけど。隆豊は?」
「わたしですか? 好きですよ、お酒。まあ、日常的に飲むわけではないですが」
酒を飲むのは武士の基本。名のある武将の中には大酒飲みで有名な人物が多々いる。
歴史に名を残すほどの大酒飲みではないが、隆房も隆豊も酒を嗜むくらいはするのだ。
「あ゛ー、なんで、ここ混浴じゃないのかなー」
「陶さん、突然何を仰っているのですか!?」
あまりにも唐突の発言に光秀は湯を飲みそうになってしまった。
「いや、だって、男女で分かれてなかったら若と入れたのになーって。今からでも護衛名目で男湯行こうかな」
「晴持様と入るって、そんな、その破廉恥な」
「え、光秀だって興味あるでしょ、そういうの」
「あ、いや、興味というか、別に……」
核心を突く事をさらっと問われて光秀はごにょごにょと言葉を濁した。
「そ、それに、男女別になっているのはきっと破廉恥に及ぶのを防ぐ目的があるとかそういうのではないかと考えるのですけど」
大友家が管理する温泉なのだ。男女が同じ温泉に浸かっていれば性の乱れもあるだろう。ただの武士ならばまだしも大友家の当主がそのような事をしては場合によっては跡目争いの種となるだろう。
恐らく、そのような理由で男女を分けたのだ。
「それは違いますよ、明智殿。ここが男女別になっているのは男女が一緒だと問題が起こるからではありません。男性だけの湯というものに意味があるからなのです」
と、光秀に反論したのは隆豊だった。
「男性だけの湯に意味があるとは?」
「そりゃあ、薔薇園に女は不要に決まっているじゃないですか」
「はあ、薔薇園?」
光秀は頭に「?」を浮かべる。隆豊は自身の言葉に酔っているのか恥じ入っているのか頬に手を当てて身を捩っている。
「光秀ー、隆豊のそれに付き合うと長いよ」
「名前……」
隆房がいつの間にか光秀を名前で呼んできた。驚いたが悪い気はしなかった。
「あの、ところで薔薇園とは」
「ご存じないのですか!?」
隆豊が身を乗り出して驚愕する。
「は、はあ」
「薔薇園っていうのは、隆豊が嵌ってる『西国光源氏』って本の巻名。何帖だっけ? 十?」
「十三です。そして、巻名にもなっている薔薇園の舞台となっているのがこの温泉なのです」
「そうなのですか?」
『西国光源氏』の名くらいは光秀も聞いた事がある。ここ数年の間に出回り始めた娯楽専用の本だ。光秀は読書家ではあったが、目を通すのは学術的な本ばかりだったので娯楽目的で書物を手に取る事はなく、当然『西国光源氏』も読んでいない。
「そうなのです。まあ、実際は豊後国の海に面した湯の町といった風に暈しておりますけどね。豊後の大名大智某が、誰にも邪魔されずに衆道に励むため男女の別を設けた温泉を若君が訪れるところから十三帖は始まるのです」
「え、へ、衆道、ですか。それは、あの、男性同士のいかがわしい、あれですよね」
「そうです。そして、十三帖の特徴は主人公が若君ではなく、明智殿のような衆道をいかがわしいと表現する潔癖な姫武将なのです。姫武将は若君に好意を寄せ、共にこの温泉を訪ねます。一時の休息。羽を伸ばして湯に浸かっていると、隣の男湯から若君のお声が……そっと耳を澄ませていると、何と別の男と愛を語らっているではありませんか。しかもその相手は身分の低い図体が大きい事だけがとりえの農民出身足軽。驚いた姫武将は、男女を別つ竹壁の隙間からこっそりと様子を窺うのです。そして、そこに広がっていたのは一面の薔薇の花! あの若君が己を差し置いてあのような男とッ! 姫武将は嫉妬の妄念に駆られつつ、何もできない。何故ならばそこは女人禁制の男湯だから。指を咥えて若君と足軽の情愛を眺めている事しかできないのです。そこで、傍と姫武将は気付いてしまう。く、くやしい、でも目を背けられない、この不思議な胸の高鳴りは何? と。これがこの作品の大きな罠。『西国光源氏』最大の魅力。姫武将に感情移入していた読者は、姫武将と一緒に薔薇の魅力にどっぷり嵌って抜け出せなくなるのです。以降、姫武将は度々物語の語り手となって、若君の愛を女性目線で描写する役回りとなるのです」
じゃぶじゃぶと水面を叩き、高説を続け、喉が渇けば酒を煽る。隆豊は興奮気味に『西国光源氏』の何たるかを語った。語ったが、光秀は情報の大半が頭に入ってこなかった。
はあ、そうですか、とだけ答え、隆房に視線を向ける。
「あ、まあ、がんばって」
と隆房は光秀に助け舟を出そうとはしない。助けようとしても無駄だと分かっているのだ。それに隆房も『西国光源氏』の読者でもある。隆豊ほどではないにしても、隆豊の主張に理解は示しているのだ。
隆豊は大分酒が回っているらしく酒臭い息で饒舌に語っている。光秀はこんな隆豊を見た事がない。
「冷泉殿、その辺りで。そろそろ、のぼせてしまいそうですし」
「まだ行けます」
「あの、わたしがもうダメなのですが」
隆豊の目が座っている。これはダメなヤツだと光秀は生唾を飲む。
「お、広い温泉だなー」
と、聞こえてきたのは晴持の声だった。竹壁の向こう、男湯の方からだ。隣に晴持が来ては姦しく騒ぐ事はできず、隆豊も押し黙った。
シンと女湯が静まる。男湯から聞こえてくる水音は晴持が湯に入った音だろう。
「『西国光源氏』では、竹壁の穴から向こうが覗けたはず」
隆房が言った。湯を蹴り、隆房は竹壁をぺたぺたと触りだす。
「ちょっと、陶殿!? 何を、それは本当にダメなヤツではッ!?」
「え、いや、ほら、若に何かあったら大変じゃん? 湯浴みは一番無防備になるところなんだし、襲われる例がないとも言えないし」
「つまり、わたし達には若様を影ながらお見守りし、若君のような事態が発生したら義隆様に報告する義務があるという事れすね」
そう、ここは男女で別たれた温泉。命に別状がなければ、何があろうと見守る事しかできない。その無力感もまた『西国光源氏』の魅力の一つ。
「冷泉殿、呂律が……」
「だいじょぶです。最初に若様にお情けをいただいたときも、こんな調子ですた」
「え、ええ……」
聞きたくなかった、と光秀は頭を抱える。
しかし、すでに隆豊はふらついていて本当に危険だ。今にも睡魔に負けそうな様子で、湯殿から連れ出したほうがいい状態だ。
光秀が隆豊の手を掴んで湯に沈まないように支えていた時、隆房が、
「光秀、光秀、ここ、あった。見える見える、薔薇園が」
声を殺した隆房が興奮気味に言ってきた。隆房が指差す竹壁には、確かに小さな亀裂が入っていて向こう側が見えそうだった。
「え、いや、わたしは……」
「いいの? こんな機会、もう二度とないのに」
「う、いや、その…………えと、ちょっとだけなら」
晴持が温泉から上がってくると、お付の姫武将三人がダウンしているとの話が聞こえてきたので見舞いに行った。
出迎えたのは光秀だったが、妙に視線を逸らそうとしており、隆豊は轟沈、隆房も布団の上に転がっていた。
「長湯をしすぎまして……」
と、光秀は上気した顔で言った。