大内家の野望   作:一ノ一

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その六十一

「まったく、このような火急の折に」

 と、呆れたように呟いたのは毛利元就であった。安芸国が誇る知将。敵は彼女を恐れて謀将などとも呼ぶ妙齢の姫武将である。

 年頃の娘がいるという割りには、非常に若く見えるので、元就は鬼道か何かをやっているのではないか、などと言う腹立たしい噂が立っているくらいである。

 元就がいるのは、とある重臣の屋敷であった。夜の帳が下りた頃、急使が元就の下に飛び込んできたのである。

 室内にいるのは、元就ともう一人、幼少期より彼女を支えてきた忠臣志道広良である。蝋燭の明かりだけがぼんやりと室内を照らしている。浮かび上がる元就の影が大きく壁に投げかけられ、儚く揺れる。

 座り込む元就と、布団に寝そべる広良。常であれば、広良が元就の前でこのような姿を曝すことなどありえない。

 広良は元就が幼い頃から一端の武将になるべく彼女を養育してきた功臣で、毛利家を支え続けてきた大黒柱である。その大黒柱が、倒れた。冬の寒さが近付いてきた時期である。老臣の身体には、大変に堪えたのであろうか。数日の間、高熱と咳に苦しみ続けてきた。

「元就様がおいでになるまで、息をするのも困難なご様子でしたのに」

 このように、傍で見守る志道家の家臣たちは口々に訝しがった。元就にとってみれば、何も不思議なことはないのだが。ただ、この老臣は元就の前で不甲斐ない自分を見せまいと振る舞っているのだ。

「知ってのとおり、わたしは忙しい身上なのですよ、分かっているのでしょう広爺」

 と、人払いをしてから、元就は語りかけた。

「無論、承知しておりますが、ならば何ゆえに、ここにいらしたのですかな?」

 と、病床の広良は目を開けた。

 すっかり衰えた身体は棒のように細く、目元も落ち込んでいる。少し前まで、元気に歩き回り、一々昔のことを語っては元就をからかっていたというのに、この変わりようには元就も息を呑んだ。

「あら、わたしがここに来るのは嫌だったかしら」

「叶うことならば、この老いぼれた姿をお見せしたくはありませんでしたな」

「そう」

 元就も、同じ気持ちではあった。

 元就には、父の記憶がさほどない。元就の父弘元は、大内家と幕府の板ばさみとなり、酒に溺れて死んだ。元就が十歳にも満たない頃のことだ。跡目を継いだ兄も二十五歳を迎えるころに酒毒に中ってこの世を去った。人生を賭けて元就を養育してくれた養母のおかげで、真っ当に成長することができたが、元就には大きな父の背中というものが分からなかった。

 そんな元就にとって、人生の師とも言うべき存在が広良であった。

「困りますな、そのように涙されては」

 黙った元就に広良が薄く笑って言った。

「やはり、目も悪くなりましたか。夜とはいえ汗と涙を見間違うとは」

「左様ですか。ならば、爺も一安心。毛利の当主を継がれた頃と同じ顔をされていたように見え申した。このままでは、心配でうっかり黄泉路に迷ってしまうかと……」

「馬鹿を言うものではありません。まだまだ、広爺には働いてもらわないと困ります」

「この老いぼれをまだ働かせると仰る。人使いの荒さはいつになっても変わりませぬな」

「毛利の現状をよく知っているでしょう。人手はいくらあっても足りないくらいです。まして、あなたのような名軍師、ほかにおりません」

 元就は広良の手を取った。固く筋張った手は、まだ熱を持っている。

「元就様……元就様の判断に、誤りはありませぬ」

「爺……」

 元就は、目を見開いた。

「病床にあって、ずっと考えておりました。大内と尼子、どちらに未来を託すべきか。これまでと同じく、危急にあって強きに靡く。戦国の世を生き抜くために、渡り鳥の如く大家の下を渡り続けてよいものか……」

 大国が手を出せば、いつでも消え去る程度の小国人、それが広良が仕えた毛利家であった。いつ滅びるとも分からない主家を守り立て、生き永らえさせるために常に最善を選択し続けなければならなかった。今でこそ名宰相、名軍師などと呼ばれる彼も、ここに至るまでに幾度もの挫折を経験していたのだ。そんな環境が、広良をここまで押し上げたとも言えた。

「元就様……他家を天秤に掛け、渡り歩いて生き残りを図る毛利は、爺と共に終わりとしなされ。かつて申し上げたとおり、大将たるもの腰をどっしり据えて事に、あたるべし」

「あ、待ってください。わたしには、まだ……」

「よき当主になられた。まさしく、我が生涯の珠玉。……よき当主、よき後継者に後を託して逝けることほどの至福はありませぬ」

 元就は、口を開きかけて、それから何一つ彼にかける言葉が見当たらないことに気が付いた。何を言ったらよいのか、まったく分からないのだ。頭が真っ白になってしまう。この喪失感は、養母たる杉大方が死去したときのそれによく似ていた。

「……あなたは、わたしの父でした」

 元就が搾り出せた唯一の言葉である。心の底から、自然と溢れ出た言葉であった。

「この上なきお言葉。……元就様」

「はい」

「それでは、暫しの暇をいただきます。……父なれば、娘を煩わせた小癪な軍師を叱りつけに行かねばなりませぬゆえ……」

 最期に大きく息を吸ってから、広良は静かに眠りに就いた。

「広爺…………長く、お世話になりました」

 涙を拭い元就は深々と頭を下げた。

 この日、毛利家最大の功臣が旅立った。毛利元就という稀代の傑物を育て上げ、毛利家を安芸国内最大勢力にまで成長させた功労者は、九十一年という長い人生を生き抜いたのである。

「逝かれましたか」

 声が聞こえた。広良の孫の志道元保(しじもとやす)である。隆景と同年代の姫武将で、祖父に似ず愛らしい顔立ちだ。

「ええ。苦しまれることもなく、静かに、逝かれました」

「左様ですか。何よりにございます」

「これより、志道の家督はあなたが継ぎなさい。祖父同様の変わらぬ忠節を期待します」

「はッ。私もまた祖父の背を見て育った身。元就様のご期待に沿う働きを全うする所存」

「頼もしい限りです」

 本当に頼もしい。広良が後を託す喜びを語ったが、嫡男を早くに亡くした彼にとって、元保の存在が如何に大切で愛おしかったことだろう。

 なるほど、確かに元保が正しく後を継ぐのは、広良にとって無上の喜びであったのだろう。

「後は任せます」

 そう言って、元就は部屋を辞した。

 もう涙は流さないと決めた。せっかく安堵して逝った広良を、迷わせるわけにはいかないからだ。

 屋敷を出ると、ちょうど東に太陽が昇った。朝の光に元就は手を合わせる。

「決めました。備後の騒乱。座して見ているだけではダメですね」

 大内家にあっても微妙な立場に置かれている毛利家の体制を磐石のものとするために、大内家そのものに揺らがれては困る。

 広良が託したモノを後に残すために、毛利家は毛利家で新たな戦いを始めなければならないのだ。

「隆元が大内の血を残す立場になるのが手っ取り早いのだけど」

 そうすれば、一足飛びに一門衆の仲間入りだ。外様だからと一々気を使う必要もなくなり、余計な仕事が激減するというものだ。

「……うちの娘はやっぱりまだ頼りないわ」

 

 

 

 ■

 

 

 

 キンと冷え込む朝の空気が、骨の芯に染み渡る。そんな日に、隆房と五〇〇〇余の兵は筑紫平野を進んでいた。

 半月ほど前に飛び込んできた急報――――筑後国内で発生した反乱を鎮圧するためである。筑後国はすでに大内家の所領である。旧来の筑後国人で、大内家に協力した者や大内家で功のあった家臣に所領を割り当てていたのだが、やはり治めたばかりの土地で、不満の爆発は避けられなかったか。

 隆房の手勢の中にも筑後国人は少なからず存在する。大内家内部での戦ではあるが、事実上筑後国の内乱であった。

 首謀者は龍造寺家に味方して没落した西牟田家。その呼びかけに応じた草野家と田尻家の面々に加えて、大内家の支配に反発したその他国人達がこの国人一揆の構成員である。彼等は久留米城の丹波家を強襲して当主を殺害、城を乗っ取り、大内家に叛旗を翻したのだ。

 先の戦で兵力を大きく損なった国人衆の脅威はさほど大きくはない。隆房はすでに草野家の手勢を追い散らし、武威のみで寝返った国人を屈服させている。

 だが、命など惜しくはないという気骨のある者達は頑強な抵抗を続けている。

「この戦、西牟田兄弟を滅ぼさないと、いつまでも終わらないな」

 西牟田家が築いた城島城を目指して隆房は兵を進める。

 城主西牟田家親は、龍造寺家の敗北に際して大内家に降服するのを受け入れず、落ち延びていった武将である。それもすべて、大内家に降服するくらいならば死に花を咲かせてみせるという覚悟の表れであったらしい。

 曰く――――、

「昨日までの味方が大内や大友に媚びてその手先となるのは口惜しきことなり。この期に及んでは、不義の賊どもを滅ぼし、それが敵わなければ一戦して忠義の重さを天下に示さん!」

 と檄を飛ばしたという。

 また弟の家和は、兄の言葉に、

「仰せの通り。この一戦、武門の冥利に尽きます」

 と返答し、最期の最期まで龍造寺家のために戦うことを決意したという。

 西牟田兄弟が、これほどの忠義を龍造寺家に誓うのは、大内家が西牟田家の名を騙り、離間の計を仕掛けたことも根底にあるのだろうし、それに対して龍造寺隆信は一笑に付し、取り合わなかったという事実もあるだろう。

 隆信から信頼されていたということが、生粋の真面目人である兄弟に火をつけた。この上は、西牟田家の名誉を貶めようとした大内家に一矢報い、以て亡き隆信の信頼に応えんと決死の兵を挙げたのだ。

 そんな勇士であったから、味方からの信頼も厚い。もともとは同じ国人衆の一員である草野鎮永や早期に龍造寺家と好を通じていた田尻鑑種も、総大将を西牟田家とすることに異論はなかったのだ。

 このようにして始まった筑後国人一揆は、火の手ほど大きくは燃え上がらなかったものの、中々消し止められないでいた。

 一揆勢の士気は高く、多くが玉砕を覚悟していた。さらに、どうやら島津家が後援しているらしい。

 島津家は肥前国の半数を味方につけているに等しい状況である。となれば、筑後国人と連絡を取るのも、難しくないのだろう。肥後国内の影響力も日増しに増大している。

 恐らく、この期に乗じて島津家は肥後国を北上するに違いない。阿蘇家が倒れれば、いよいと大内家は島津家と領地を接することになる。そのとき、筑後国に島津家に内通する者がいれば、さらに状況を悪くする。

 可能な限り阿蘇家に援軍を送りたいところだが、こうも広範囲に戦線が散ってしまえば、「御家の外」にまで兵を送る余裕がなくなってしまう。

 阿蘇家を見殺しにしてよいなどということは、誰も思っていない。だが、現実的に今の救援は困難を極めるであろう。

 隆房にできることは、できる限り迅速に筑後国内を平定し、大内一色に染め上げることである。

 

 

 そして、筑後国人一揆と時を同じくして、島津家の北上は現実のものとなった。

 島津義弘を総大将とした二五〇〇〇を号す大軍は、疑う余地なく肥後国の完全攻略を企図したものであった。

 日向国の伊東家にも、兵を割き横槍を妨げている。結果、憂いなく掻き集めた大軍は、阿蘇家を叩きのめすには十分すぎるほどの戦力となった。

 もはや、獅子と猫ほどの戦力差だ。

 進路上の国人達が、戦うことを諦めて開城降服を選択し、命を賭して戦った者は尽く玉砕の憂き目となった。

 大内家の苦境や度重なる調略も手伝って、島津軍が瞬く間に肥後国を蹂躙し、出兵から僅か五日のうちに阿蘇家の喉下に刃を突きつけるところまで兵を進めた。

 兼ねてから島津家の北上が予想されていたとはいえ、この大攻勢と進軍速度は想定外であった。

 次々と支城が陥落していく中で、阿蘇家譜代の重臣からも逃亡者が発生した。

「使えるのは、僅か一五〇〇にも満たぬ数か」

 慌しく行き交う人の流れを眺め、宗運は嘆息した。

 岩尾城は阿蘇家の本城。危急の際に、篭る最後の防波堤ではあったが、如何な堅城も十倍以上の敵を相手に果たして何日持ち堪えられるだろうか。

 大内家に救援を求める早馬を出したが、あちらはあちらで島津家が煽動したと思しい国人一揆の対応に追われている。

 とはいえ、国人一揆は陶隆房が鎮圧に乗り出している。士気が高く手を拱いているとは聞いているが、それでもそう時間をかけることなく一揆そのものは鎮圧できるはずだ。――――そう思いたい。

 ならば、篭城して時間を稼ぐ以外に手はない。阿蘇宗家が有事の際を想定して築いた岩尾城は、生半可な攻撃では陥落しない。心許ない兵力ではあるが、それでも城の守りを駆使して戦えば、大内家からの援軍を待つだけの時間は稼げると踏んだ。

「宗運、ここにいたの!」

 声をかけてきたのは、相良義陽であった。ふわりとした優しい雰囲気の彼女は、島津家に所領を奪われ、甲斐家が保護した相良家の当主である。宗運とは昔馴染みで、国人として勢力を保持していた時代には、相互不可侵の盟約を結んでいた。

「探したわよ」

「どうしたの、血相を変えて」

「阿蘇のご当主様が、ご乱心を!」

「何……ッ」

 

 

 

 急報を受けて、宗運は廊下を駆け抜けた。

 途中、何人かの侍女や兵とぶつかりそうになりながら走っていると、義陽が言うとおりに軍議の間で騒ぎが起きている。

 駆けつけた宗運を見て、見物人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

「何事ですか!」

 軍議の間に宗運は駆け込んだ。

 そこには篭城のために集まった阿蘇家の家臣たちと、新当主に擁立された阿蘇惟種がいた。惟種は酒を飲んでいたのか顔が赤い。

「このような大事に酔うほどに酒を煽るとは……!」

 宗運は愕然とした。

 言わずもがな、酒は単なる嗜好品ではない。篭城戦を行う上で重要な兵糧の一つであり、冬を迎えるこの時期には、身体を温め戦意を高める重要物資である。当主が嗜み程度の舐めるのは目を瞑りにしても、このように風紀を乱すのは許されることではない。

「おお、宗運か。よう来た。今、大事な話をしていたところじゃ。主も聞けい」

 絶句する宗運の様子にまったく気付かないのか、惟種は赤い顔で宗運を手招きする始末。周囲には倒れた床机やかわらけの器が転がっており、酔いに任せて宴でもしたのかと思える惨状である。

「何度も申すとおり、わしは決心したぞ。これより、島津に降服するぞ」

「は……!?」

 絶句を通り越したこの感情を、果たしてなんと表現すればよいのか。ガツンと頭を殴られたような気分にすらなった。

「な、何を仰るのですか、惟種様。今になった降服など……!」

「何を? 主こそ何を言っておるのじゃ? 二〇〇〇〇を越える島津の大軍が迫っておるというではないか! それでこの城の兵力は如何ほどじゃ? 島津の十分の一にも満たぬ。このまま戦えば犬死にぞ!」

「そうならぬための篭城です。すでに大内家に早馬を出しております。そう時を置かずに援軍がやってくるはずです!」

「それはいつじゃ? 大内は尼子と筑後で手一杯で、とても島津家と戦う余力はないと専らの噂ではないか」

「噂はあくまでも噂です。大内でも最強と誉れ高い陶殿が、筑後の騒乱を鎮めるために動いております。希望を捨てるには早すぎます。この城とて一朝一夕には落ちるような造りではありません。城兵一丸となって、守りに徹すれば持ち堪えることは可能です。どうか、気を強くお持ちください!」

「黙れぃ! そんな御託はたくさんじゃ! 兄上が死に、なりたくもない当主に担ぎ上げられたかと思えば、島津に降伏したくないから命を賭せと? 馬鹿馬鹿しい。わしは阿蘇神社の大宮司じゃぞ? 戦場で命を賭すのは武士で十分じゃ!」

 阿蘇家は大名であると同時に阿蘇神社を神代から受け継ぐ大宮司を世襲している。大名家として続かなくとも、大宮司家として存続できればそれでよい。むしろ、それこそが本職である。その理屈も、分からなくはない。命脈を死に物狂いで繋ぐのも、当主の役目ではある。

 まして、惟種は先代当主であった兄の急死によって突如当主に就任したばかりである。武士として活躍してきたわけでもなく、どちらかといえば神官としての立場が強い。

「島津家も神仏を大切にしておると聞いている。阿蘇神社の大宮司たるわしを粗末に扱うはずもない。のう、宗運」

「ッ……それは、それはあまりにも希望的観測が過ぎます。阿蘇家の影響力は神社に限らずとも非常に強いのです。阿蘇神社の力を利用する際に、惟種殿の自由が保障されるかどうかは分かりません」

 惟種の言葉も一理あるが、同時に惟種を幽閉して強制的に隠居させてしまうということも考えられる。粗末に扱われないというのは、虫がいいとしか思えない。阿蘇家の影響力を考えれば、排除、あるいは完全な傀儡とされる可能性のほうが高い。いいように使われ、疲弊するのが関の山だ。

「とはいえ、それは大内家も似たようなものでありましょう」

 ここで、発言したのは初老を迎えたくらいの男であった。

「井芹殿。似たようなものとは」

「言葉の通りですよ。ご当主も仰ったでしょう。島津も大内も傘下に入るのならば変わりないと」

「それはあくまでも阿蘇家が滅ぼされない限りに於いてです。その保障がない以上、軽々に態度を変えては面目に関わります。何より、大内家の兵力を考えれば島津家よりも頼りになるのは間違いありません」

「その大内家が我等に兵を差し向ける余力がないというのが問題なのです。現実の島津という脅威に対して、戦わずとも生き残れる手があるのならばそれに越したことはない。何、大内家が攻めてくれば、再びそちらに旗色を変えればよいだけのこと。何せ、我等が奉じるのは阿蘇に連綿と続く阿蘇神社の大宮司家なのですからね」

「馬鹿な! 信義も何もあったものではない!」

「主家を滅ぼすような選択は我が身をも滅ぼすものでしょう。もとより、この状況を作り出したのは、甲斐殿でしょう」

「何ですって……」

「島津に追われた相良家の当主を匿い、大内家と結んだ。その結果が、この島津家の大攻勢です。惟将様は心労が祟り逝去され、惟種様は実質的に初めての戦がこれです。主家を惑わせた甲斐殿が責を取るべきです」

「な……ッ」

 あまりに言い草に、宗運は言葉をなくした。

 確かに大内家と結ぶのも島津家と対立する道も、宗運が主導したものではある。だが、それはすべて阿蘇家を後世に残すための決断だった。本音を言えば、どこの影響も受けずに完全に独立した勢力として安定させたかったが、時代がそれを許さなかったのだ。

「何とご無体を仰るのですか。宗運がこれまで阿蘇家にどれほどの忠節を尽くしてきたか、知らないはずはないでしょうに」

 宗運に代わり怒気を挙げたのは、近くで様子を見守ってきた義陽であった。

「相良殿は黙っていていただきたい。これは、あくまでも阿蘇家の行く末を決める話。あなたはすでに領地を持たぬ客将の身、この場にいること自体が分不相応です」

「いいえ、黙りません。わたしは阿蘇家にも甲斐家にも恩義があります。それに、島津家と直接相対したことがありますから、島津家のやり方も窮状も知っています。薩摩の土地柄や大内家との戦いを見据えるのならば、肥沃な肥後は島津家の兵站を支える役割を担うでしょう。当然、阿蘇家の権益は徹底的に利用され、収奪されてしまうのは間違いありません。島津の将兵を養うために、阿蘇家は極限まで切り刻まれることになります」

「多少の困難はあるでしょう。ですが、厳しい戦いに賭ける必要はないのです。先ほど、甲斐殿は阿蘇家を島津家が滅ぼす可能性を憂慮しておいででしたが、それはすでに問題にはなりません」

 余裕の表情で、井芹は言い切った。

「……井芹殿。まさか、あなたは……」

「様々な可能性を考慮するのは当然のこと。島津家も阿蘇家を力任せに屈服させるよりも懐柔するほうが得であると判断したようです」

「馬鹿な。あなたは……」

 裏切るのか、と宗運が言い放つことができなかった。

 当主である惟種が、明らかに井芹の肩を持っているからだ。政策路線の変更を惟種が追認したに等しい。

「降服すれば、阿蘇家の命脈は保たれます。これがすべてです。この戦国の世を生き抜くために、強きに靡くは道理でしょう」

 宗運は目の前が真っ暗になったような気がした。これまで自分が積み上げてきたものがすべて為す術なく瓦解したようなものだ。

「島津に就く以上は島津の勘気を被る輩の扱いを決めねばなりませんね。ご当主」

「お、う、うむ。宗運と相良の一派をただちに捕縛せい。島津殿への土産となろうぞ」

 惟種が自ら命じた。おっかなびっくりといった風であって、場の状況に流されたようでもあったが、当主の命である。

 状況の変化についていけない者も多かったが、そうと決まれば各々が刀を抜いて宗運と義陽を取り込んだ。

「宗運殿。申し訳ござらぬ」

 誰もが、宗運の活躍を知っている。宗運がどれだけ阿蘇家のために粉骨砕身の努力を続けてきたのかを理解しているのだ。

 だが、当主がこれでは篭城にはならない。島津軍の猛威が迫る中で生き残りを図るという決定を悪いものとは思えないのだ。

「あぅ……そ、そんな……わたしは、阿蘇家のために……これまで……」

「知らぬ知らぬ。わしは島津と争うつもりなど毛頭ないのじゃ。すべて兄と宗運が仕組んだことぞ。早よう、捕らえよ! 何をしておるのじゃ! 都合が悪ければ親族すら手に掛けたとも聞く将ぞ、捕らえられねば討ち取れぃ!」

「あなた達、恥を知りなさい! この、無礼者!」

 戦意を喪失した宗運を庇うように義陽が刀を抜いた。義陽の家臣と宗運の家臣も彼女達を守るために刀を構えた。

「宗運様、ここはお逃げを。今ならば、まだ落ち延びられます。宗運様ッ!」

 ついに、軍議の間で刃傷が起きた。切り込んできた阿蘇家の兵を、宗運の部下が斬った。つい先ほどまで共に城を守ろうとしていた仲間だった者である。流れた血が呼び水となって、喊声が上がり、火花と血が舞う乱戦となる。

「宗運、しっかりして! あの子たちの言うとおり、こんなとこで討ち死になんて絶対だめだから!」

「だ、ダメだ。だって、皆、阿蘇家の兵だ。こんなことをしている場合じゃないんだ」

「分かってる。けど、もうダメよ。わたし達の居場所は、ここにはないわ。とにかく、あなたに死なれたら、わたしが困るの」

 背中で宗運を庇う義陽は自ら刀を振るった。品のいい着物が、同朋の血を浴びて紅く染まる。

「助けてもらっておいて、恩人を見殺しになんてできないものね。赤池さん、犬童さん。こんなことになって、ごめんなさい」

「何を仰いますか、義陽様。あなたのためならいつでもどこでも、死ぬ覚悟はできております」

「血路は某らで切り開きます。その隙にお逃げを。この騒ぎ、下まで波及していないはず」

 流れからして突発的な事態ではある。井芹はこうなるように仕組んでいたようだが、宗運を慕う家臣も少なくない。完全に退路を絶たれたわけではないはずだ。

「ああ、そのとおり。けっこう逃げ道はあるぜ」

 白刃が舞い、義陽に踊りかかってきた敵兵が薙ぎ払われた。

 まるで空から降ってきたように、突然現れたのは場違いな軽装としばらく整えていないであろう無精髭の若い男であった。

「あ、長恵!? どうしてあなたが!?」

「ただの通りがかりですよっと」

 刀を軽々と振るう男は一度に三人の兵を打ち倒した。大胆な太刀筋ではあったが、正確無比に相手を打ち払っていく。倒れた敵兵は血を流していない。全員、峰打ちで昏倒させているのだ

 丸目長恵。

 かつて、相良義陽に仕えていた男である。

「長恵、助けてくれるのですか?」

「ええ、もちろん。昔みたいなやらかしはしませんよ。お二方、血路ならば俺が開きますので、どうかご安心を」

 

 

 

 

 


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