大内家の野望 作:一ノ一
いつの間にか燃えるような紅葉が消え、木々の多くは葉を散らして寂しい景色が見えるようになった。
東国の凄まじい降雪量に比べれば、九国の雪は生活に直撃するほどではない。はらはらと降った雪の多くが、地面に触れて消えていく。
本格的に真冬になれば、少しは雪が積もる日もあるだろうが、それそのものが命や生活を危うくするということはまずないと言っていいだろう。
日本列島という一つの枠組みではあるが、豊後府内と越後あたりだと気候がまったく違っている。
雪で道が閉ざされる東国では、真冬の戦はあまり行われない。雪国に迂闊に攻め入れば、一軍が丸ごと雪に埋もれて身動きが取れなくなり全滅する可能性も出てくるからであり、越後国などは冬場は大自然の力で守られることになる。
その一方で、大して雪の降らない九国は冬場でも軍道が塞がることはない。収穫の秋を終えた直後ということもあり、むしろ兵糧が潤沢で農民の徴用もしやすいという利点があり、大軍を動かしやすい季節であった。
これから、島津家の大攻勢に備えなければならない。そのような状況下にあって、甲斐宗運と相良義陽という稀有な将の安全を確保できたというのは大きな成果であろう。
宗運一行を元親が保護してから半月。やっと、彼女たちは豊後府内に到着した。
「宗運殿は?」
「まだ、具合が優れないようです」
「そうか」
義陽と面談した隆豊が晴持に報告にやってきたのだ。
「阿蘇の御山を農夫に扮して彷徨っておられたのです。気力も体力も尽き果てられるのも無理はないかと。特に宗運さんは、阿蘇家からむごい仕打ちを受けられたのです」
「分かってるよ」
阿蘇家が島津家を選んだのは腹立たしい限りだが、それ以上に宗運に対する扱いの酷さには閉口する。義陽も腹に据えかねているようで、宗運の手前悪くは言わなかったものの、阿蘇家で起こった一連の政変については立腹している様子だったと隆豊は報告してくれた。
「誠心誠意尽くしてくれた忠臣への報いがあれでは、阿蘇家の進退も決まったようなもんだ」
宗運の忠義は九国ではよく知られたものだ。
彼女ほど己を殺し、大義のために戦った武将はいないのだ。その忠義の行き着いた先が、主家からの裏切りとなれば、その失意はどれほどのものだろう。
宗運にとって、阿蘇家の維持、発展は至上命題であり、そのためだけに今まで生きてきた。彼女にしてみれば人生の否定に等しい。努力ばかりしてきた人間が、その努力を否定されたとき、精神的な打撃は非常に大きなものになる。
しばらく現場を離れるのも、やむを得ない。宗運の武将としての能力は高くとも、引き連れる兵もほとんどいないのが現状だ。余裕ができたら知恵者として働いてもらえばいい。
「とりあえず、落ち着いたら顔を見に行く」
「はい」
「それと、義陽殿は大丈夫だな?」
「はい。すぐに謁見の手はずを整えます」
「よろしく頼む」
一通り言葉を交わした後で、晴持は隆豊を下がらせた。
宗運と義陽の件は朗報だった。さらに加えて、隆房が担当する筑後国内の平定の調子も悪くない。
筑後国の国人一揆は、大内家が優勢で進んでいる。隆房の軍は、久留米城下で討って出てきた西牟田家和を撃退し、篭城に追い込んでいる。閉じ篭った久留米城が、どれほど堅牢であろうとも、突発的な挙兵で兵糧の備蓄も少ないはずなので陥落は時間の問題との見方が強い。
西牟田兄弟さえ叩けば、筑後国はすぐに治まる。彼等が一揆勢の精神的支柱である。筑後国を無事に治めれば、その分の兵力を肥後国に割ける。
義陽とは知らない中ではない。これまでに何度か島津家との防衛線の構築する上で、阿蘇家からの連絡役として骨を折っていたので、顔見知りであった。
よって、重苦しく権威的な場を設ける必要性はない。
最低限の重臣を左右に置いて、後は自由にすればいいという姿勢で義陽を迎えた。
「何はともあれ、無事でよかった」
相良義陽は、一見すれば公家の姫のような柔らかい雰囲気の姫武将だ。色素の薄い長い髪と慈愛を感じさせる朗らかな表情は武士という言葉から連想されるイメージとはかけ離れている。
実際、彼女の評判を調べるとかなり「女性的」な性格だというのが分かる。
その一方で、芯の通った強い女性で肉体的にも強靭だったようだ。阿蘇山中を敵に襲われる恐怖と戦いながら彷徨い続けていたのだ。保護された当初から、精神的に追い詰められていた宗運の分もと元親への情報提供や離れ離れになった家臣や、相良家所縁の家臣が篭る砦などに書状を出すなど精力的に働いていた。
「本来ならば、真っ先にご挨拶せねばならないところ、格別の配慮をいただきましてありがとうございます」
義陽は楚々とした動作で頭を下げた。
「気にしないでくれ。こちらこそ、疲れているだろうに働かせてしまって申し訳ない」
「このようなときだからこそ、身体を動かせるのはありがたいのです。わたし、こう見えて何かしていないと落ち着かない性質でして」
と、義陽は小さく笑みを浮かべた。
「能力も意欲もあるのは、頼りがいがあっていい。まあ、働かせている者が言うのもお門違いだが、仕事は身体を壊さない程度にして欲しい」
「この戦が落ち着いたら、目一杯休ませていただきます」
「だったら、早く終わらせないといけないな」
「はい。微力ながら、最善を尽くします」
義陽の微力は、晴持にとって大変に大きな力である。
「晴持様、一つ提案があります」
少し声を落として義陽はそう言った。
「なんだ?」
「宗運のことです」
「ああ」
宗運は今、宛がわれた部屋で伏せっている。数日続く高熱に魘されている状況である。
「宗運の体調が戻ったら、あの娘に仕事を与えてください」
「仕事を?」
「はい。仕事を与えれば、きちんと結果を出しますし、宗運にとっても今は働いていたほうがいいと思うのです。宗運には、目的が必要です」
「そういうこと……分かった。何かしら仕事を手伝ってもらうことにする。どの道、人手不足なのだから、個々の能力は最大限活かしてもらわないといけないからな」
辛いことがあったとき、どのように自分の気持ちに対処するのかということは人によって異なる。
睡眠に逃避する者もいれば食事に逃避する者もいる。趣味にのめりこむこともあるだろう。
宗運や義陽は、仕事に打ち込むことで落ち込んだ気持ちに対処する性格のようだ。
宗運にとっては阿蘇家の存続というお題目が失われたために、新しい目的を設定させるのが一番の薬となるのだ。
宗運の熱が下がったのは、その翌日のことであった。病み上がりに配慮して一日置いてから、出仕してもらうことにした。
そういった諸々の話は、義陽から宗運にすべて伝えられていた。宗運自身もいつまでも眠っているわけにはいかないという思いが強く、出仕することに否やはなかった。
とりあえず、宗運の立場や肩書きをどうするのかという点が問題であった。特に宗運の主家である阿蘇家は、大内家から離反して島津家に就いた。大内家の武将からすれば裏切り者である。その阿蘇家から追放され、追われる身となったとはいえ、牢人となった宗運の立場は中々難しいものがあった。
これまでは阿蘇家の重臣として彼女は振る舞っていたし、大内家としてもそのように扱ってきた。
しかし、今は阿蘇家が敵になり彼女は所領を持たない一介の牢人である。その立場を宗運自身がどう思っているのか、ということもあるし、今後どういった立場で大内家と関わっていくのかということもある。
「まずは、無事に回復してくれたことを嬉しく思う。体調はもう問題ないのか?」
晴持の前に宗運がいる。
以前に比べると少し痩せたように見えた。
心身の不調が、彼女から肉と体力を削いだのだろう。それでも目に力が戻っている。少しずつでも体力と気力が戻ってきているのだ。
「長らく調子が優れず、ご心配をおかけしました」
本調子ではないだろうに、宗運は気丈に振る舞ってみせる。
もともと責任感の強い性格だ。義陽が言ったとおり、伏せっているだけでは落ち着かないのだろう。
「義陽から聞いている通り、今後はこの屋敷に出仕してもらうことになる」
「はい、承知しております」
「だが、その前に、確認しておかないといけないことがある」
「それは――――」
宗運の目の色が変わった。
聡明な女性なのだ。今の会話だけで、晴持が何を尋ねようとしているのか理解したのだ。
「宗運殿。今後、あなたが大内家に出仕するに当たり、どのような心持でいるのか。それは、はっきり聞いておきたい。未だ、阿蘇家の家臣なのか、大内家の家臣となるのか。今後、島津家との戦いが激化して、阿蘇家の軍勢と対峙することになったとき、戦えるのか。宗運殿にとっては、辛い問いだと思うが、どうか答えてほしい」
宗運の表情に変化はなかった。
晴持が言ったとおり、この問いは阿蘇家と大内家を天秤にかけさせるものだ。阿蘇家と敵対する大内家に出仕するには、阿蘇家との繋がりにきっちりとケジメをつけなければならない。
「正直、覚悟はしておりました」
「そうか」
「はい。阿蘇家を追われ、大内家に救われたときから、わたしが今後どうすればいいのか、と。晴持様から、何れはその問いを投げかけられるだろうと、思っておりました」
当事者である宗運が、そのことを考えなかったはずはないのだ。阿蘇家を追われたそのときから、今に至るまでいつも頭の中は自分の進退のことで一杯だった。
「わたしは……」
宗運は、すぐに言葉を発することができなかった。
とても重要な話である。晴持は、宗運が口を開くまでじっと言葉を待ち続けた。彼女の中にある葛藤は、口で覚悟をしていたと言ってもそう易々とは払拭できない。だが、結論を晴持が強要することはできないし、してはならないのだ。
宗運は、二度、三度と深呼吸をしてから言葉を続けた。
「わたしは、もう阿蘇家には戻れません。口惜しいことですが、わたしは主家に必要とされなかった……」
唇を震わせて、宗運は呟いた。目尻には涙が浮かんでいる。悔しいのか悲しいのか、それとも怒っているのか分からない。ありとあらゆる気持ちが綯い交ぜになった宗運は、感情を昂ぶらせてしまったのだ。
「もはやこの身はただの牢人。晴持様が拾ってくださるのであれば、誠心誠意お仕えします」
「いいんだな? 以後、大内家の臣という立場になるということで」
「はい」
宗運は頷いた。
その上で、
「ただ、一つお願いがあります」
「願い?」
「差し出がましいことだと分かっておりますが、どうか――――阿蘇の家名は、残していただけませんか? 今後、阿蘇家の軍と矛を交えることも厭いません。ですが、どうか……」
大内家の臣となり、阿蘇家と戦うことになっても構わない。しかし、阿蘇家そのものは存続させて欲しい。
虫のいい話――――とは思わない。彼女なりのケジメなのだ。阿蘇家と敵対してもいいと口にするだけでも、宗運にとっては相当大きなストレスだったはずだ。それを、乗り越えて言葉にしたのだから、宗運の誓いには嘘はない。その上で、阿蘇家への思いも捨てきれないために、家名を残して欲しいという最大限の譲歩を願い出てきたのだ。
「分かった。宗運殿がそうまで言うのならば、阿蘇家の家名存続について義姉上に言上しておく」
「あ――――は、ありがとうございます」
張り詰めていた空気が弛緩したような気がした。
「義姉上も阿蘇家の事情は分かってくださるはずだ。何より、我が大内家は神仏と伝統には五月蝿い……阿蘇家の歴史は紐解けば神代から続くという。これを絶やすのは惜しいと、義姉上ならば思うだろう。もっとも、阿蘇家の出方にもよるし、断言はできないけどな」
「はい。よろしく、お願いします」
阿蘇家の価値は、晴持にも分かっている。肥後国内に於いて古代から続いてきた名家であり、神官だ。取り扱いには注意が必要だし、土佐一条家をそうしたように武家から遠ざけて無力化してもいい。
ともかく、滅ぼすよりも生かしておくほうが何かと便利なのが、歴史と権威ある家なのだ。何よりも、ここで突っぱねて宗運の心象を悪くする理由がなかった。
「では、宗運殿にはしばらくは祐筆ということで働いてもらおうと思っているが、構わないか?」
「もちろんです」
光秀が領地を管理するために下向したことで、有能な側近が一人減ってしまった。光秀は、特殊部隊の長でもあるので、落ち着いたら代官にでも領土経営を任せて戻ってきてもらわないといけないが、宗運が傍仕えをしてくれるのなら、光秀に勝るとも劣らない働きを期待できる。
彼女の仕事ぶりは、これまでもよくよく見せ付けられているところである。
本人の意欲も高いので、病み上がりではあるが早速文書の発給を始めてもらうことにした。
■
甲斐宗運と相良義陽という心強い味方を引き込んでから、また新たな動きが九国で起こった。
島津軍が阿蘇家の本城に兵を押し入れて、阿蘇惟種を逼塞させ、その息子の惟光を当主に擁立したという。
曰く、惟種が戦を敬遠し、島津家の陣触れをのらりくらりと拒否していたことが原因のようだ。
島津家にとっても大内家にとっても今は時間が惜しいときだ。島津家は少しでも早く軍備を整えて北上し、九国の統一を急ぎたい。大内家はその時間を遅らせて、島津家に対抗できる態勢を整えたい。対立する二者がそれぞれの目的と計算で日々を過ごしている中で、戦嫌いの神官出身という立場の惟種は、危機感や戦略の共有ができなかったようだ。
阿蘇惟種は島津家の足並みを大きく乱した。権威ある家で、しかも降服してきた相手を無碍に扱えば島津家の名折れであり、下手に攻撃を加えれば阿蘇家の所領が荒れる可能性もある。
歳久は次善の策として阿蘇家を取り込みつつ、その頭を切り落とす策に出たのだった。
擁立された阿蘇惟光は僅か二歳の幼君だ。
周囲を固める重臣たちは、島津家の横暴に何の文句も言わずに従った者たち。幼君の父が蟄居に追い込まれたのを眺めているだけだっただけに、事実上阿蘇家は島津家に乗っ取られたも同じという状況に陥ったのであった。
図らずも島津家の進軍を抑えてくれていた阿蘇家が、完全に島津家に従属したことで道が開けた。新年を迎えて一月と経たないうちに、島津軍の北上の動きが見えてきた。
大森銀山、備後国を巡る戦いでも目立った動きはなく、どこも睨み合いや小競り合いが続いている。
もしかしたら、最初に大きな激突があるのは九国かもしれない。そんな危機感が府内に漂う中で、突然の訪問客があった。
「晴持様、如何致しますか?」
取次ぎを担当した宗運が尋ねてくる。
「わざわざ会いに来たのだから、追い返すわけにもいかない」
「お会いになるということですね」
「直接会って、話を聞く。目的は、まあ想像はできるからな」
「そうですね。では、お部屋にてお待ちいただくように伝えてまいります」
退席した宗運を見送って、晴持は深呼吸をした。
いつかはこの時が来るとは思っていた。しかし、時期が悪い。何ともこちらの突かれたくないところに飛び込んできたものだ。
今、下座には一人の女性が座っている。
艶やかな髪を後ろで束ねた、怜悧な瞳が特徴的な美しい女性だ。
名は鍋島直茂。
龍造寺隆信の義理の妹で、隆信に唯一意見することができたとされる重臣中の重臣だ。隆信の死後、分裂した肥前国にあって、大内家との戦に敗れて主君を亡くした責を問われて立場を危うくしたこともあったというが、最近は龍造寺長信の下で復権していると聞いていた。
その直茂が、府内にまで晴信を尋ねてきた。
要件は端的に和睦と同盟。龍造寺長信が大内家の傘下に入り、その先陣を申しつけて欲しいという親書を携えてきたのだ。
大内家と龍造寺家の戦は、特に交渉を進めているわけでもないので継続中であるとも言える。その上での和睦だが、実質的にこれは「全面降服」を宣言したに等しい。
とはいえ、龍造寺家と大内家の確執は非常に大きなものがある。
「鍋島殿、この話、簡単に進められるものではないということはご理解しているかと思うが」
「はい」
言葉少なに、直茂は頷く。
「龍造寺家と我々大内家は、長年の因縁があります。亡き隆信殿は、肥前統一のために我が
「承知しております」
助けを求めてくれば基本的に受け入れる。そのほうが、大内家の利益に結び付くからだ。西国の盟主である大内家はそうやって自家の影響力を増してきた。軍事力だけでなく、経済力も加えた総合的な政治力が大内家の強みだ。
それを都合よく利用したのが龍造寺隆信だった。当主に擁立された直後は政治基盤が脆弱で、内外に敵を抱えていた隆信は、義隆から「隆」の一字を貰いうけ、さらに義隆の斡旋を受けて官位を得た。大内家の力を背景に家臣を押さえ込んだ隆信は、十分に力を蓄えた後に独自路線を突き進んだ。
大内家には、龍造寺家に対する根本的な不信感が漂っている。
おまけに――――、
「我々大内家とそちらは、過日戦でぶつかったばかり。ご当主を討ち取った我々の膝下に入るという選択は大変な判断だと推察しますが、家中は本当にそれで纏っているのですか?」
他の勢力と異なり、彼等は直近まで明確に大内家の敵だった。龍造寺家に攻撃されて領地を追われた者が救援を要請してきたという大義のもとに晴持は出馬したのだ。
大内家に心を寄せた者の中には、龍造寺家を恨む者も少なくはない。何より、大内家は龍造寺家にとっては仇敵ではないのか。
「先代の死は、戦国に生きる将の倣い。過去に囚われて戦国の荒波を乗り越えられるほど、今の龍造寺家に力はありません」
僅かも動じず、直茂は言い切った。
「肥前はご存知の通り二分されております。敵方には島津が就きその背後固めている状況。島津家が肥後の攻略に力を注いでいるからこそ、龍造寺の内紛の枠を出ませんが、島津が積極的に兵を肥前に入れてくれば、わたしたちに抗する術はありません」
辛うじて拮抗している程度の戦力差だ。島津家の援軍が本格的に動き出せば、直茂が属する龍造寺長信派に勝機はない。
「生き残りを図るために、大内家に下るか……」
「それもまた戦国の世の倣い……家を守り、後世に伝えるのは、生き残った者の責務です」
「長信殿だけでなく、他の者たちも納得の上での交渉と見てよろしいのですか?」
「家老一同、及び長信様を交えた上での決定です。異を唱える者がいれば、わたしがその者を斬ります」
内心で晴持は嘆息する。
いつもいつも、斬るだの殺すだのと殺伐としすぎている。晴持自身もまた命を奪い、そして家臣に奪わせる立場にいる。生き残るために、仇敵にすら頭を下げる悲壮な覚悟の表れか。
長信派の劣勢は伝え聞くところではある。龍造寺家の家督相続だけでなく、家臣たちの対立関係や利害が絡み合った複雑な様相を呈しているというが、長信に従うのは旧来の重臣格が多く、新たな当主の下で出世しようという新興勢力が敵対する信周の支援に回っている。
厄介なのは、重臣格は大内家との戦で討ち死にしている者が少なくないということであって、長信は支持基盤を大内家に奪われた形になっているのだ。
それでも大内家と結ぼうとしているのは、九国の勢力図を見るにそれ以外に助かる道がないからだろう。
現状、長信が味方にできるのは島津家に敵対する勢力のみであり、それは大内家以外にありはしない。
苦渋の決断だっただろう。仇敵と結ぶことにより、仇討ちを叫ぶ者たちの離反を呼ぶ可能性も捨てられない。
これは恐らく、長信派にとっての一世一代の大博打だ。
「これだけの大きな話、俺だけで決めることはできません。山口の義姉と相談して、決定したいと思います」
「是非ご検討をいただきますよう、お願いいたします」
直茂は続けて、
「もしも、大内様のご助力を賜りましたら、我が殿長信自ら、肥前に押し入る島津の者どもを押し返してご覧に入れます」
と言った。
晴持は、頼もしい限りですと言いつつ、内心では何とも言い難い思いに駆られていた。
■
直茂を城下の屋敷に逗留させ、さて、この問題をどうしたものかと思案する。
「龍造寺、ですからね……」
と、隆豊が複雑そうな顔をする。
「昨日の敵は今日の友とも言いますが、よくあちらも舵取りしたものですね」
「それだけ内情が厳しいということだ。そして、それはこちらも同じ……」
本当に、狙い済ましたような時節に飛び込んできたものだ。
大内家には長信派を支援する余裕はない。それと同じように島津家も肥後国に兵を集中動員するのに肥前国に目を向ける余裕はない。
よって、今の肥前国は大国の影響を極力排除した状態で内輪揉めができるのだ。
大内家に従っても、大内家からの干渉が少なくてすむ上、もしも長信派が敗れれば島津家の脅威が肥前国からも忍び寄ることになる、と暗に脅しをかけていった。全面降伏と言いつつも、受け入れてくれなければ牙を剥く用意があると示唆するのは、さすがの外交術だ。
「しかし、龍造寺と和睦したところで援軍を送る余裕はありません。必要なのは大内家の後ろ盾だけで、後は独力で対抗勢力を押し切る算段なのでしょうか?」
「かもしれない。俺たちが島津家に勝てばその時点で肥前の勝敗も決する。防戦のまま、俺たちの戦の経過を見るという手もある」
「大内家からの干渉を最小限にするには、大内家が勝利する前に失った領土を取り戻す必要はあると思いますから、座して見守ることはしないはずですが……」
「味方になってくれたから万々歳というには、少しばかり不気味なのは否めないな」
大内家に助けを請う理屈は分かる。
同じ立場ならば、きっと晴持も同じような選択をしただろう。
相当に苦痛を伴う選択だが、長信、あるいはこの献策をした誰かは辛い決断を押し通して大内家に直茂を遣わせた。それは事実なのだ。
万全の状態ならば、龍造寺家の家督争いに乗じて肥前国に兵を押し入れていた。直茂はそれを分かっていた。だからこそ、大内家が万全ではない今を狙って交渉してきたに違いない。今ならば、直茂たちの要求を通しやすく、大内家が長信派を支援する明快な理由を用意できるし、味方である以上は攻撃できない。
「時間もない。すぐに義姉上に書状を送る必要が……いや、もう使者を向かわせてしまうべきだな。宗運、頼めるか?」
「はい」
控えていた宗運に義隆への使者を頼むことにした。
龍造寺家の取り扱い。下手を打てば爆弾と変わるだろう。長信と結ぶ利はある。確かに、島津家への防波堤は一つでも多く作っておきたい。
「主君の仇に頭を下げるか。何とも……」
「直茂殿が仰るとおり、生き残りを図るのはどこの家も変わりません。大きく力ある勢力を頼みとする以外に道はなく、龍造寺家は目先の感情を擲って賭けに出たのです」
小勢力の中でもがいてきた宗運には、直茂の気持ちが理解できるのかもしれない。どことなく二人は似ているようにも見える。重責を担い、主君のためにと死力を尽くして奉仕しながら、不利になった途端に周囲に責任を押し付けられる不遇さ。能力があるだけに、そういった面も目立ってしまう。容貌のよさもやっかみに繋がるのかもしれない。
「男児当に死中に生を求むべし、ですね。まあ、わたしも直茂殿も女ですが」
冗談めかしてそう言った、宗運は笑みを浮かべた。
「それ、有名だけど出典は何だったかな。前に、見た覚えはあるんだが……」
「『後漢書』の「隗囂公孫述列伝」にある
「そうだった、そうだった。しばらく見てなかったから、頭から抜けてた」
延岑は後漢の光武帝と天下を争った公孫述の家臣だ。宗運が引用した部分は、光武帝を相手に劣勢に立たされた公孫述が、延岑に相談を持ちかけた場面だった。
「続いて、坐して窮さんや。財物は
「溜め込んでいた金を放出して兵士を雇い、反撃に転じたんだったか……」
結局、その後公孫述は光武帝との戦いに敗れて屍を曝すことになるのだが、この時の戦いでは無事に勝利を収めていたのではなかったか。
「目先のことに縛られていたのは、こちらも同じだったのかもな」
「晴持様……?」
「阿蘇も龍造寺もそれぞれが博打を打っている中で、俺たちばかり安穏としているわけにもいかないなと。……考えがある。俺は府内を離れられないから、義姉上には宗運から伝えて欲しいんだが、その前にいけるかどうかを相談したい。隆豊、人払いをしてくれ」
相談するのは信頼の置ける隆豊と名将の宗運のみとした。
頭に浮かんだのは杉