大内家の野望   作:一ノ一

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その七十

 島津軍の北上の報に接し、晴持たち大内軍も急ぎ軍勢を召集した。

 島津家はこの機会に一気に肥後国を攻め取ろうと考えているだろう。

 阿蘇家が陥落した今、大内家を除いて島津軍の北上を阻む勢力はなく、そして肥後国に対する大内家の支配は限定的だ。

 島津家に対する反感から大内家と結んだ国人はいても、明確に大内家に仕える者が所領を持っているというわけではないのだ。

 そのため、可能な限り早く兵を整えて戦地に送り込む必要があった。

 もともと備えとして高森城を守らせていた長宗我部元親に、大友家からの援軍として派遣した立花道雪という二人の名将が南郷谷に入っている。

 だが、それだけでは戦力不足である。

 島津軍の全力を受け止め、跳ね返さなければならないのだ。

 兵力は敵よりも多く用意しなければならないし、率いる将も歴戦の猛者を掻き集めるべきだ。

 幸いにして筑後国の鎮圧を終えた陶隆房がいるし、島津家のやり方をよく知る相良義陽と甲斐宗運も味方になってくれている。

 すでに相良家縁故の者も続々と集まっており、旧領奪還の意欲は高い。

 義陽と宗運は、肥後国内における反島津の旗頭的な存在でもあるのだ。

 雪の舞う季節を終えたはずだが、まだ風は冷たい。

 晴持は庭に植えられた桜の木に目を向けた。

 まだ蕾もできていない。固い幹と枝だけの冬の姿のままである。

「若様、準備ができた模様です」

 駆けて来た隆豊が声をかけてくる。

「若様、如何されましたか?」

「いや、戻ってくる頃には花が咲いているかもしれないと思っただけだ」

 長陣になれば、春だけでなく夏まで戦が続くかもしれない。

 そうなれば、桜どころではない。

「島津家の問題を解決すれば、やっと落ち着いて花見ができますね」

「ああ、そうだな」

 ここ数年は、大内家が急速に拡大した成長期であり、その分だけ忙しかった。晴持も転戦に転戦を重ねているので、もう長らく山口に戻っていない。義隆と顔を合わせたのも、最後はいつになるだろうか。

「皆、もう向かったか」

「紹運殿が先ほど出立されました。黒木殿ら筑後衆も、後を追って続々と南郷谷に向かっております。三、四日以内には、長宗我部殿との合流が叶うものと思われます」

「そうか。まあ、それくらい掛かってしまうよな」

 小さく晴持は言葉を零した。

 戦国時代は何かと不便だ。衣食住に於いてこの時代の基準で何不自由ない生活を保障されている晴持ではあるが、平成の世と比較すればやはり不自由を感じることは多々ある。その代表例が移送であった。あらゆるものが機械化されていた時代を知るものとしては、豊後府内から南郷谷までに、数日をかける必要があるというのがじれったい。しかし、この時代はすべて徒歩が基本だ。数千からなる人の流れを、統率しながら目的地まで連れ立つというのは、とても苦労するもので、さらに小荷駄といった物資の輸送もしなければならない。

 軍道を整備しても、短縮できる時間は高が知れている。まして、今回の戦場は南郷谷だ。山の向こうとなれば、移動するだけでも一苦労である。

「そういえば、宗運はどうした?」

「先ほど、明智殿をお迎えに行かれました。そろそろ戻ってくるかと思います」

「やっと着いたか、光秀」

 新たな領地を宛がったために、傍を離れていた光秀もこの戦いには当然、参加する。

 明智家は、もともとは美濃国の国人だったという。明智城に居を構え、領地を持っていたというのだから、それなりの身分であっただろう。光秀は、「過去の栄光」については多くを語らない。美濃国を覆った戦乱の気運の中で、明智城は落城し、光秀は領地を失い京に流れ着いた。

 光秀にとって大内家での日々は、明智家再興のためのものだ。功を立てて領地を与えられたことで、その第一歩がようやく踏み出せたのである。

 

 

 書状では何度もやり取りを重ねていたが、実際に晴持に会うのは久しぶりのことだ。

 与えられた領地の代官を定め、村々を巡り、領民に新たな領主として名と顔を覚えてもらう地道な活動を終えて、やっと光秀は府内に戻ってきた。

 ここを離れたのは秋口であったから、考えてみればそれほど長い時間離れていたわけではないが、冬を迎えて空気感が変わったからか、まったく新しい街に来たように思えた。

「はあー、立派な街ですねー」

 と、面白みのない感想を漏らしたのは秀満であった。

 各地を放浪した秀満にしてみれば、豊後府内の発展振りは驚くべきものであった。もちろん、ここに来る前に立ち寄った山口は、京が戦火に巻き込まれずに発展していたらこうなっていただろう、というほどの見事さで、それに対して戦が近付いている府内は多少山口に比べれば活気は劣るが、それでも大友家累代の都なのは変わらない。

 宗麟が推奨した南蛮神教は、宗麟の出家と共に力を失ってしまったが領内の信者も少なくないので禁教まではされていない。

 そのため、街中には南蛮寺が今も信者たちに教えを説いている。

「へえ、ちょっと後で寄ってみようかな」

「止めておきなさい。無用のいざこざは避けるべきです」

 宗教間の対立が、国家を弱体化させるのは大友家を見ていれば分かる。神道と仏教のように、見事なまでの共存を図れればいいが、そうはならないだろう。

 もしかしたら、この先南蛮神教の神が神道や仏教の神仏と習合して新たな渡来神となるかもしれないが、それは宣教師が許さないはずだ。

 光秀の周囲でも、宗旨替えをした者はいる。光秀自身は熱心な仏教徒なので、この動きには眉を顰める立場を取っていた。

 久しぶりの府内を散策する前に、まずは主人に挨拶を、と光秀は晴持が滞在する館にやって来た。晴持の下で政務に当たっていた頃には、毎日出入りしていた門である。

「明智様、お戻りになられたのですね」

「お久しぶりです。火急の折り、急ぎ手勢と共に参上しました。晴持様にお取次ぎを願いたいのですが」

 今日の門番とはこの地に来たときからの顔見知りだ。

 光秀ならば、問題ない。しかし、そう簡単には行かないのが世の常である。確認してきますと言い残して門番が門の中に入ってからしばらく光秀は落ち着かない思いでそわそわとしてしまった。

「姉さん、後ろ寝癖」

「え? うそ!」

 狼狽した光秀はさっと自分の髪を撫で付ける。

 自分の髪に自信があるわけではないが、かといって整っていない状態で晴持の前に出るわけにもいかない。

 女としても将としても、そして当然ながら大人としてもやってはいけないことである。生真面目な光秀ならば、身だしなみは人一倍気を使う。

 光秀は寝癖があると指差された箇所の髪を押さえたが、これといって問題があるようにも思えなかった。

「秀満?」

 じろり、と睨み付けると秀満は視線を反らして口笛を吹いた。あからさまな態度に光秀は秀満の脛を蹴った。

「痛った!? ちょ、何も蹴ることないじゃないですか!?」

「この程度で済んだことを、むしろありがたいと思ってください」

 冗談通じないなぁ、と秀満はぶつくさと文句を言う。

 光秀は取り乱した自分を恥じて、深呼吸をした。

「お待たせしました、明智殿」

 そこにやって来たのは、目の覚めるような美しい赤毛の姫武将だった。

「甲斐殿、お久しぶりです」

 甲斐宗運。

 かつては阿蘇家に仕えていた九国に轟く名将である。晴持の下で取次をしていた光秀は、阿蘇家の使者として赴いてきた彼女を接待したことがある。また、晴持の使者として阿蘇家を訪れた際に光秀を出迎えたのは宗運であった。

「奇妙な感覚ですね。甲斐殿がそちらにおられるのは」

「わたしも、最近やっと慣れてきた頃合でして……どうぞ、中へ」

 晴持を尋ねた光秀を宗運が出迎える。

 以前とは正反対だ。

 光秀が晴持の傍にいて、宗運が阿蘇家にいた頃では考えられないことだ。まさか、宗運が晴持に仕えることになるとは、思いもよらなかっただろう。

「一先ずはお部屋でお待ちください」

 宗運に通された客間で光秀は静かに円座に座った。

 秀満が声を小さくして、光秀に話しかける。

「あれが、甲斐宗運殿ですか」

「はい。以前より面識はありましたが、まさかこのような形で再会するとは思ってもいませんでしたよ」

 宗運が阿蘇家を追われたとの報は九国中を駆け巡った。あの時は光秀も驚愕したものだ。何らかの形で大内家を頼るだろうということは想像していたが、そのまま晴持の傍仕えになってしまうとは誰が想像できただろうか。

「文武に秀でた器用な方です。甲斐殿がお味方くだされば、百人力です」

 大内家の中で阿蘇家に仕えていた当時の宗運を知る者はそう多くない。光秀は度々宗運と交渉の場を設け、共に迫る島津家の脅威について語った経験があるために彼女の能力を高く買っていた。

 九国の名門菊池家の流れを汲み、阿蘇家を支える重臣であった宗運と次期当主に引き上げられただけの光秀では立場が違うと思いつつも、見据える先は一致していた。

 そんな光秀に対して、秀満は小さくため息をついた。

「姉さんはもう少し、危機感を持ってください」

「?」

「あのですね、考えてもみてください。あの高名な甲斐殿が、色々あったにしても晴持様の傍にお仕えしているのですよ。取次に祐筆と、精力的に活動されている様子」

「よいことです。わたしも、同じようにお仕事をさせていただいておりましたが、人手不足を痛感していたところです。有能な人が増えれば、それだけ安定した政務ができるというものです」

「今、甲斐殿がされているのは、以前姉さんが任されていた仕事も多いと聞きます」

「そのようですね」

「当然、その仕事振りは姉さんと比較されるのではないですか?」

「……それは、まあ……そういうことがあるかもしれません」

 秀満が言うとおり、宗運の仕事には光秀が任されていた仕事も一部入っている。立場的にも宗運は光秀の後任のような扱いであった。

「晴持様に、甲斐殿のほうが姉さんよりも仕事を任せられると思われたらどうするのですか?」

「え……いや、それは……」

 あまり、人と自分を比較することのなかった光秀だ。もともと謙虚な性格なので、誰かと競争するという意識自体がそれほど強くない。あくまでも自分の努力は自分に跳ね返ってくるという気持ちで仕事に取り組んでいたのだ。

 だが、明確に有能と分かっている人物が自分の後任としてやって来た。光秀がどういう考え方であろうとも、自然とその仕事振りは比較されることだろう。

 もしも晴持に「宗運がいれば十分」などと言われた日には、

「それは、ちょっと、困ります」

 ちょっとどころではない。

 これからの出世は疎か晴持との関係にすら影響する一大事である。

「明智家の未来が関わっているのですから、姉さんも今後は出世欲なり何なり出していかないと、今までとは状況が違いますよ」

「わ、分かってますよ。そんなことは」

 妹分に諭されて、若干身を引いた光秀。

 所領を与えられたことで、光秀に求められている仕事の幅は広がった。自分の領地をきちんと保持しながら、政務でも軍事でも結果を出さなければならないのだ。

 

 

 光秀を客間に案内した後で、宗運は晴持に声をかけるために廊下を歩いていた。

 戦の用意をするために、慌しく行き交う人を眺めながら歩を進める。

「宗運、宗運」

 と、聞き慣れた声が背後からする。

「義陽、来てたの?」

「今しがたね。数は心許ないけれど、それでも島津家との戦だもの。わたしが出ないわけにはいかないでしょ」

 大内家に腰を据えてからの義陽は、方々に散ってしまった旧臣を探し、もう一度仕えて欲しいと声をかける日々を送っていた。

 傍を離れず義陽を守ってくれている者もいれば、深水長智のように最前線で意地を見せてくれている者もいる。しかし、義陽が領地を追われた後、そのまま散ってしまった者も少なからずいた。阿蘇家に食客として匿われている間も、家臣に十分な禄を与えられていたわけではない。

 相良家の当主として、様々な苦悩を彼女は抱えているのだ。

「上手くいけば、戻れるかも知れないし」

「人吉城に?」

「ええ」

 もちろん、人吉城だけでなく父の代で最盛期を迎えた頃の相良家は、肥後国の南部に広く根を張っていた。大内家と結んで明との貿易までしていたので経済的にも他を圧倒していたのだ。

「でも、欲は言わないわ。せめて、わたしについてきてくれている皆に、きちんと禄を出せるだけの報奨があれば、それでいい。旧領が一番だけどね」

「そう……」

「ところで、あなたはどうなの宗運?」

「もちろん、わたしも出る。義陽がそうであるように、わたしにも因縁のある相手だから」

 少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、宗運は言った。

「お互い頑張りましょうね」

「ああ、もちろん」

 義陽は旧領の奪還を目標にしている。島津家との戦いで先祖伝来の土地を失ったのだ。宗運にしてみれば、旧領とは御船城の一帯になるだろう。とはいえ、御船城は宗運が勝ち取った城ではあるが先祖伝来の土地というわけではない。

 だからだろうか。宗運は、これといって旧領奪還という響きには、さほど興味が持てないでいた。

「とりあえず、宗運は晴持様の下で結果を出さないとね。明智さんに負けちゃダメよ」

「勝ち負けを競うものでもないと思うけど……」

「そうね。でも、ほら。比べられて、明智さんのほうがいいなんて言われたくないでしょ」

「まあ、それは……」

 宗運はこくんと頷いた。

 せっかく働き甲斐を見出したのだ。あっさりと前任者に仕事を奪われるのは困る。

「うん、そっちも込みで頑張ってね」

 義陽に言われて、改めて宗運は頷いた。

 言われるまでもないことだが、今更ながらに気付かされた。

 今の立場は晴持の恩情によるものだ。結果を出さなければ、いい評価は得られない。光秀が能力のある女性だということを知っているので、義陽の言うとおりうかうかしていられないのだ。

 

 

 ■

 

 

 

 光秀が到着したと宗運から報告を受けた晴持は、光秀を待たせていた客間に足を向ける。客間で待っていたのは光秀だけであった。供回りの者と連れ立ってきたと聞いていたので、晴持は首を傾げた。

「誰かと一緒だったんじゃないのか?」

「秀満でしたら、席を外しました。荷駄の準備をさせております」

 何かあったのだろうか。妙に冷ややかさを感じる。

「ともあれ、よく来てくれた。首を長くして待ってたよ」

「……待っていてくださったのですか?」

「そりゃ、そうだろう。光秀は、今まで俺を支えてくれてたんだ。無事に再会できて嬉しいと思うのは当然じゃないか?」

「あ、ありがとうございます」

 光秀は上ずった声で言った。

「わたしも、お会いしたいと思っておりました」

 言ってから、光秀はかっと頬を赤らめた。内心で口が滑ったと思い、悶絶しつつ可能な限り表情には出さないように冷静を装った。

「領地のほうは問題ないか?」

「はい、おかげさまで恙無く」

「それはよかった。光秀さえよければ、またこっちに出仕してもらいたいと思っていたところなんだが、どうだろうか?」

「はい! もちろん、ご奉公させていただきます!」

 光秀は安堵混じりの笑みを浮かべた。

「そうか。ありがとう。知ってのとおり、人手が足りないからな。今は宗運を中心に何とかやり繰りしているが、光秀が加われば仕事の効率は上がるだろう」

「甲斐殿、ですね」

「光秀は面識があったよな?」

「はい。何度か、交渉の席で」

「彼女も能力のある人だから、光秀にとっても刺激になると思う。ま、言うまでもないか」

「え、ええ。はい……そうですよね」

 宗運を噂だけでなく、実際の仕事振りから知る光秀は、確かに宗運と一緒に仕事ができるというのも自分を高めるよい機会だと思えた。

 それと同時に、薄ら寒い形容し難い感情が湧き上がるのも感じていた。

「ともあれ、光秀が戻ってくれるのなら安心だ。鉄砲のほうでも、かなり骨を折ってもらったから、さらに負担を増やすのは本意じゃないんだけど」

「そのようなことはありません。鉄砲も、晴持様にとって必要なものでしたし、わたしが適任だったと判断していただけたのですから、ありがたいことです」

 光秀には鉄砲の使い方を教授する教官として働いてもらっていたのだ。

 自領での仕事に謀殺されながら、晴持が派遣した将兵に鉄砲の運用を教えるという多忙な日々。鉄砲が大内家の中でそれなりに市民権を得始めた武器ではあるが、まだまだ慣れない者も多く、教えられる者を増やしていく必要に迫られたための措置であった。

「鉄砲で光秀に勝てるのは、大内家にはいないだろうから、光秀にしか頼めなかったんだよな……」

「自分の得意分野を活かせるのは、幸福なことだと思います」

「そう言ってもらえると、こっちも助かる」

 光秀の善意に甘えるところが多々ある。急速に拡大した大内家の所領を監督するために、必要な人材数が跳ね上がったために、色々なところで手が足りていない。その上で、さらに厳しい戦に臨まなくてはならない。

「この戦を終えたら、光秀にはますます負担を強いることになりそうだ。すまないな」

「そのようなことはありません。頼っていただけること。それだけで、わたしは嬉しく思います」

 光秀の言葉に嘘はなかった。

 自分を重用してもらえるのは、それだけ自信に繋がった。ただ働かされるだけでなく、きちんと見返りまで与えてくれるのだから努力のし甲斐もあるというものだ。

 晴持にしても、光秀のような有能な家臣が自発的に成果を出してくれるのは望外の喜びである。

 初めは名前に魅せられて雇い入れたが、今では彼女個人を高く評価していたのだ。

 久しぶりの再会に、仕事の話ばかりというのも味気ないが、晴持と光秀の会話というのは、仕事関連に始まり、仕事関連に終わることが多い。この会話も最早懐かしいと思いながら、時間が来るまで会話に花を咲かせるのだった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 慈水城の陥落は、駒返城の陥落以上に重大な問題を南郷谷にもたらしていた。

 というのも、駒返城が落ちても、その背後に南郷城があるため、敵の盆地への侵入を妨げることはまだ可能だったが、慈水城はここが陥落すればまっすぐに南郷谷に入れてしまう。山道に関を設けているのは、駒返峠と変わらないが、焼け石に水であろう

 島津軍が駒返峠を無視して南郷谷に押し入る道が確保されてしまったことで、戦況が動いた。

 南郷谷は、阿蘇五岳と外輪山の間に位置する盆地である。外輪山は、固有の名称ではなく火山の火口を有する丘を取り巻くように形成される蹄形の山の連なりを言うもので、火山活動により生じた窪地――――カルデラの縁に当たる部分である。

 阿蘇山は日本有数のカルデラ火山で、巨大な窪地の中央に鎮座する阿蘇五岳が南北にこれを分断している。

 今、戦場になろうとしている南郷谷は、分断された窪地の南部に当たる。

 南郷谷を東西に流れる白川を初めとする良質な水資源に支えられ、また平坦な土地のため古くから人が定住し、生活してきた。

 平時であれば、東西南北を山に囲まれ、半ば外界から切り離されたような南郷谷は、まるで時間が止まったかのような日常の光景が広がっていたであろう。

 しかし、それも戦時となれば一変する。

 平地であるということは、軍勢の展開が容易であるということでもある。

 南郷谷に築かれた下田城や吉田城は、大軍を留め置けるような広さはない。戦のための城ではなく、村の政庁としての機能が重視された構造である。

 仮に攻め込まれた場合、何日も篭城できるものではないだろう。

 必然、野戦に備えた陣を設ける必要があった。

 島津軍が南郷谷に押し入ってくるのは時間の問題である。

 そこで、長宗我部元親等大内家に属する諸将は、島津軍を待ち構えるべく白川を天然の堀に見立てた砦を新たに築いていた。

 もちろん、一箇所ではない。複数個所に設けた砦に兵を滞在させ、敵の襲来に備えていたのである。

 さらに白川の底には杭を打ち、敵の渡河を阻む。

「駒返城が燃え、慈水城も陥落しましたね」

 車椅子の姫武将が緊張感のある面差しで山を見上げる。東西に長い外輪山の稜線から立ち上る黒い煙は、開戦の狼煙でもあるのだ。

 島津家が山を越えてやって来る。

 それは、南郷谷に集う将兵にとって強い緊張を強いる事実であった。

 道雪が話しかけたのは、元親だ。

「まさか、道雪殿と共闘することになるとは思っていませんでした」

「そうですね。以前は敵対していましたからね。これも戦国の倣いというものでしょうか。奇縁ではありますね」

 心底不思議そうにしながら、道雪は目元を笑わせる。

 元親と道雪は過去に交戦経験があった。

 大内家の伊予国介入とほぼ同時期に土佐国の一条家が北上を開始した。それを阻止するために動いた道雪と一条家に味方をしていた元親との対決であった。

 といってもあの当時は元親も一条家に従う国人の一人でしかなかった。

 過去に敵対した二人が、共に大内家に取り込まれた形で味方として再会するというのも奇妙な話である。

「大友の皆さんは大丈夫ですか?」

「ええ、ご心配には及びません」

 短く、道雪は答えた。

 島津家は大友家にとっては鬼門となる相手だ。

 大友家が坂道を転げ落ちるきっかけとなった敵であり、苦手意識を抱いている者やここぞとばかりに気炎を上げている者がちらほらといる。彼等彼女等にとっては、友や主人、家族の仇でもあるのだ。命のやり取りは戦国の倣いと一口に言うが、戦っているのは人なのだ。水に流せないものもあるし、妥協するべきこともある。

 少なくとも指揮を取る立場にある道雪は、私怨で兵を動かしたりはしない。

 もちろん、思うところがないわけではない。

 当時の大友家と今の大友家の違いはあまりにも大きい。今が悪いとは言わないし、大内家の傘下に入ったおかげで持ち直したという面は大きく評価されるべきだ。今の大友家では単体で存続することはまず不可能なのは、道雪自身も実感しているところである。

「耳川での敗戦の際、島津軍に立ちはだかってくださったのは元親殿と聞いています。おかげで、宗麟様は命を長らえました。感謝します」

「わたしは晴持様の命に従って、横槍を入れただけです。正直に言いまして、宗麟殿をお助けしたという意識はありませんし、感謝される必要はないと思います」

「そうですか。分かりました」

 余計なことは道雪は言わなかった。彼女の気持ちは伝えたのだからそれをどう受け止めるかは元親が決めればいい。そういう一方通行な言い回しも、いっそ潔くて気持ちがいい。 

「耳川での戦いのことをお伺いしてもいいですか?」

「わたしは参陣していなかったので、答えられることがあるか分かりませんが?」

「戦場で何があったのかは、生き残った方々から聴き取っています。わたしがお尋ねしたいのは、道雪殿があの場にいたら、敗北はなかったとお思いかどうかです。どのようにお考えでしょうか?」

 そう問われて、道雪は口を噤んだ。

 かなり率直な問いだ。  

 大友家の運命を変えた耳川の戦いに道雪は関われなかった。それを口惜しいと思ったことは一度や二度ではない。

 もしも、自分があの場にいたら敗戦はなかっただろうか。それを考えたことも、もちろんある。

 結論は――――、

「そうですね」

 黙考した道雪は、車椅子の背凭れに体重を預けて遠い目をした。山の向こうからやってくる島津軍に思いを馳せているのか。やがて、道雪は力なく首を振る。

「あの場にわたしがいても、結果は大きくは変わらなかったでしょう」

「あなたでも、ですか?」

「なるようにしてなった結果です。何より、あの敗戦の原因は島津の策略のみならず、身から出た錆でもありました。わたしでは、止められなかったでしょう」

 道雪に絶対的な強権があれば、話は変わってきたかもしれないが、彼女は宗麟の信頼厚い重臣の一人ではあっても、すべての意思決定に自分の意見を優先させられるほどの権力があるわけではない。

 耳川の戦いを実質的に取り仕切った重臣たちが相互不信に陥り、連携を欠いた結果があの敗戦でもあった。

 立花道雪が如何に戦上手でも万能の神ではない。怒涛の如き戦の流れを単身で捻じ曲げるのは、到底不可能なことだ。

 優秀な武将が、敗北すると知っていながら戦場に出なければならなかった事例など、いくらでもある、

 道雪がこの場で息をすることができるのは、あの戦いに参加しなかったから――――つまりは、運がよかったという一点に尽きる。

「わたしがあの場にいてできたことは、恐らくあの方々の後を追うことくらいでしょう。内部崩壊した軍が如何に脆弱であるかを、大友家は思い知らされたのです」

 だからこそ、家中の意思統一が必要だった。

 宗麟の出家を強い、晴英を当主に担ぎ上げたのも、それまでの大友家の体制を一新する捨て身の策であった。

 晴英を当主にしたのは、何も大内家の関心を買うためだけではないのだ。

 すべてを新しくした大友家の再出発の象徴として、晴英が必要だったのだ。

 宗麟を廃してまで大友家の存続を図るその欺瞞を、道雪は否定しない。

「鬼道雪なんて呼ばれていても、実際はこんなものです。どうですか?」

「いえ、答え難いことを聞いてしまって申し訳ありませんでした。少し、安心しました」

「安心とは?」

「道雪殿は、しっかりと物を見ておられる」

 道雪の意見が正しいかどうかは、仮定の話になるので分からない。しかし、根拠もなく自分がいれば勝てたと言うような返事よりは信用ができる。道雪は悲観的になるわけでもなく、淡々と、当時の状況と自分の力量や立場を推し量った上で答えを出した。彼女なりの根拠を下に、戦果を推測したのである。それは、とても冷静な物の見方であって、将として信頼するに足るものだった。

「ご無礼を」

 試すような真似をしたことを元親は謝罪する。道雪は微笑みで、元親の謝罪に応えた。

「島津と対峙する上で、自分の立ち位置を省みることができました。こちらこそ、感謝します」

 冬は過ぎつつあるが春には遠い。

 迫る戦の気配をひしひしと感じながら、二人は身を切る風に黒髪を靡かせるのだった。




宗運「ぐぬぬ」

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