大内家の野望 作:一ノ一
夜空に三日月が輝いている。
冬の空気は澄み渡り、星と月の光は何物にも遮られることなく地上に届いている。
空から降る星の光が、遥か彼方、気が遠くなるほどに長い時間をかけてやって来ていることを歳久は知らないが、ただその儚さと尊さは感じている。
彼女の人となりを知らない者は、彼女の表情や言動から冷たい、恐ろしいなどという感想を抱くが、実際の歳久は情に篤く、義を守り、筋を通すことを誉れとしている。自然の機微を楽しみ、四季の移ろいに思いを馳せることもある。その一方で、やはり冷徹に判断を下す覚悟も姉妹では随一だった。
作戦立案に関わることが多いのは、歳久がそういった仕事を得意としているからなのは当然であるが、やはり性格というのは大きな影響を与えているのであろう。
床机に腰掛ける歳久は、冷たい夜気を肺腑に吸い込んで頭を冷やした。
戦が始まって、早一月余り。
もとより想定していたものではあるが、果々しい戦果がないどころか死傷者が増える一方である。
上層部にとっては予定通り。しかし、使い潰される形になっている者たちの間では不満も溜まっている。戦い方を変えるように進言してきた者もあったし、そうまでしなくとも、今のままの戦では事態を打開できないと思っている者は大勢いるだろう。
戦意は決して挫けていないが、大計の準備段階で内部分裂することが最も歳久にとって恐れる事態であった。
そう大計だ。
この戦で大内晴持を討ち、九国を一統するために仕掛けた計略は着々と進んでいる――――はずである。
決して表には出さないものの、成功するかどうかは運任せの面もある。今、どうなっているのか、万全に把握できるものでもない以上毎日毎日吐きそうで逃げ出したくなるほどの緊張感に苛まれている。
大将はどっしりと腰を据えて、事態が動くのを待つのが仕事だ。それを理解しているが、やはり辛いものは辛いのだ。
陣幕の中には歳久だけでなく、数名の武将が待機している。
空気が張り詰めている。普段余裕を崩さない彼等だが、夜で人目に付かないからこそ、疲労や不安を滲み出させることになる。
そんな折に歳久の下に客がやって来たと取次役の家臣が声をかけてきた。
「歩き巫女が歳久様にお目通りしたいと申しております」
歩き巫女は特定の神社に仕えるのではなく、各地を放浪し、祈祷や託宣を行うことで生計を立てている者のことだ。
信濃国ではノノウなどとも呼ばれるが、この形態の巫女そのものは各地に存在している。
「歩き巫女?」
陣幕内の武将たちは不思議そうな視線を歳久に向ける。
「違いますよ」
と、歳久は武将たちの視線を一蹴する。
歩き巫女は、時代の変化と共に商売をしたり遊女として戦場を渡る者も現れた。
夜間にわざわざ商売をしようという者もいない。人目を忍ぶとなれば、あるいは……という下衆の勘繰りを歳久は否定したのである。
「その者が、わたしの客なのは確かです。通してください」
「御意」
取次が出て行ってから、しばらくして陣幕にやって来たのは美しい巫女であった。目立つ服装ではあるが、遊女として度々戦場に現れる彼女たちは咎められることが少ないのである。
彼女たちは山伏や商人と同じく各地を放浪する性質上、情報通でもあった。
「お初にお目にかかります。出雲より参りました、松とお呼びください」
歩き巫女は一挙手一投足が艶めかしい。篝火に照らされた横顔に、見とれる武将も少なくないようだ。
同性に惹かれる性質ではない歳久も、この歩き巫女の妖艶な美しさは認めるしかない。
「お松殿、要件を」
あまり彼女を長居させるのは、士気に障ると思ったのか歳久は単刀直入に尋ねた。
松は、歳久の反応に気を悪くすることもなく懐から一通の書状を取り出した。
歳久は直接それを受け取ると、手早く中を確認した。
「間違いありませんね」
「先日、ご本人の手から預かったものです。大内の目もあるので、時間がかかってしまい、申し訳ありません」
「いいえ。僅か、一両日中に届けてもらったことに感謝こそすれ、責めることはありません」
そう言って、歳久はすぐ近くの武将に手紙を回した。
「これは……?」
「一つ前に進みました。いよいよ、ということです」
「おお……!」
陣幕がざわついた。
雌伏してきた時間が遂に、実を結んだのである。
「お松殿。当家のための多大な骨折り、感謝します」
「いいえ。わたくしは、自分の仕事をしたまでです。懇意にしていた殿方から、使いを頼まれたというだけの、他愛のない仕事でございます」
「あなたにとっては他愛のない仕事であっても、我々にとっては重大事。ですので、まずは感謝を。あなたの忠勤に、報いたいところです。しばらく、当家に逗留されるのは如何です? これから戦は激しくなります。帰路の安全を保障するのも難しくなります」
「……多大なご配慮、ありがとう存じます。そこまで仰るのでしたら、しまし骨休めをさせていただきたく存じます」
「ええ。ゆるりとお寛ぎください」
松が出て行った陣幕の中で、歳久は小さく苦笑する。
「少し露骨過ぎましたか」
「あの手の者は、こうした事態に慣れております。下手を打つことはありますまい」
「そうでしょうね。ですが、少なくとも次の攻勢までは大人しくしてもらいます」
歳久が目配せすると、武将たちも意図を読み取って頷いた。
「念には念を。相手にするのは姫武将に限る事としましょう。戦場から遠ざかっていただくため、朝一番に下山していただくのはどうでしょうか」
「そうですね。役に立ったのは事実です。うっかり問題を起こさないうちに、陣を離れてもらうのが得策ですね」
彼女が運んできたのは機密文書というに値する重要な書状である。その内容を、彼女が知っているのかどうかは知らないが、確認する術がないので知っていることを前提に動くべきだ。
作戦開始前に、彼女が陣を抜け出し大内家の手に落ちればすべてが水の泡だ。
とりあえずは身柄を確保し、いざとなれば闇に消えてもらう必要もあるだろう。松もそれを察したからこそ、下手に抗うことなく歳久の要求に従ったのだ。
「日の出と共に、軍議を開き、最後の確認を行います。その旨を、各々に伝達するようにしてください」
「御意」
張り巡らせていた計略の一つが大きく前進した。
それは歳久に大きな安心感を与えた。策士策に溺れることがないように、万全を期して進めるべきだが、そう上手くことが運ばない場合もある。
そうなれば後は地力と勢いだ。
歳久は、その後久しぶりに深い眠りに就いた。
落ち着いたということもあるが、決戦を前にして今はきちんと頭を休ませるべき頃合であると判断したからだった。
■
その日、明け方には靄がかかるような氷雨が降って、冬枯れの田をしっとりと濡らしたが、そう雨は長くは続かず、気付けばからりとした晴天が広がっていた。
いよいよ春の気配を感じる陽気である。風にも冬の寒さではなく春の暖かさが混じっているように思えた。
晴持は陣幕から外に出て、島津軍が陣を敷く外輪山の稜線を眺めた。東から昇る太陽を背にした山並みは気高く眩しい。
晴持の傍らに侍る光秀と宗運も、視線を鋭くして島津軍の陣を見つめている。
「今日も変化がないようだな」
「このまま長陣になれば、間違いなく当家の優勢に進みます。それを座して待つ島津とも思えませんが」
と、宗運は不審げなことを言う。
「わたしも、そのように思います。やはり、何か企んでいるとしか」
光秀もその不安は長々と抱えていた。しかし、かといって何をしてくるのかというところまでは想像ができない。
度重なる島津軍の攻撃を跳ね返していることから、軍の内部に楽観的な考えが蔓延しつつあることも不安を煽る。
島津軍がここまで手の足も出ないというのに、大内軍は攻撃命令を出さないということが、特に前線の兵の間で不満になっているという話も上がってくる。
彼等にしてみれば、武功を挙げて生活を向上させなければならないのに、この戦術では評価が上がらない。出世欲や命を惜しまず槍働きをしたいという面々には、面白くない戦い方なのだ。
優勢でありながらも、士気が下がっている。
今の大内軍はそのような状態だった。
「迂闊に攻めかかって島津にしてやられた者も多いだろうに」
「分かってはいても、今は大丈夫だと思ってしまうのが人の性ではあるのでしょう。もっとも、全軍の気をもう一度引き締めるようにしなければなりません」
「流言飛語は厳に慎むよう、触れを出します。いつ島津が攻めてくるのか分からない状態で、浮ついた流言が飛び交うのは避けたいものです」
「頼む、光秀」
「はい」
光秀はすぐに動いてくれた。
その場を離れた彼女は、各部隊に規律の遵守を徹底するように通達を出したのである。
長引く戦で気持ちが離れている者に、目の前の戦に集中するように促したのだ。
戦は本来、命懸けだ。敵を殺すし、味方も殺される。死者の中にいつ自分が混ざることになるかも分からない先行きの見えないものだ。通常ならば、そうした不安を常に抱いて戦場に出なければならないが、大内家の戦は安全を突き詰めようとするものだ。将士に不安を抱かせないように守りを固め、陣を定め、向かってくる敵に城攻めにも似た過酷な戦いを要求する。
常に、優位に立てる環境を整えるのが晴持の戦い方だが、長陣が続けば緊張感を欠きやすい構造になっているとも言えた。
「晴持様、あれを……!」
宗運が慌てた様子で島津軍を指差した。
島津軍に動きがあったのだ。旗が動き、黒々とした鎧の集団が山麓からこちらに向けて進軍してくる。
「いつもよりも、少し数が多いな」
「いよいよ大攻勢というところでしょうか」
「かもしれん」
島津軍の散発的な攻撃は度々あったが、今回はいつもよりも参加する部隊の数が多い。いよいよ、こちらの陣の内部に攻め入ろうという意思の現れであろうか。
最前線を任される大内軍にも緊張が走った。
兵たちは一斉に鉄砲を手に取り、弓に矢を番える。
「今日は敵の数が多いが、問題ない。よく狙って撃つ。これだけだ。この一月で慣れたものだろう。島津の者どもを存分に打ちのめすがいい!」
黒木家永が声を張り上げる。左翼の国人混成軍を束ねる家永は、筑後国の国人だ。龍造寺家と対峙するために大内家との繋がりを深め、筑後国での影響力を強めることに成功した。その縁もあって、この戦に参戦することとなった。
激しい銃声が鳴り響く。飛び交う鉛弾が、木楯を貫通してその後ろにいる兵を貫く。お返しとばかりに放たれる銃弾は、島津軍の前列をばたばたと倒していく。
「怯むな進めッ!」
島津軍の将兵が銃火を恐れず白川を渡河する。
「近づけるな! 槍持て! 断じて柵を越えさせてはならんぞ!」
家永自らも槍を持って兵を鼓舞した。
銃弾が家永の眼前を掠め、側近に当たった。
「無事か!?」
「何とか……」
衝撃で倒れた側近を助け起こすと、鎧の右脇が凹んでいるのが見て取れた。
「上手く逸れたみたいで、命拾いを」
「そうか。運のいいヤツめ」
ほっと家永は笑った。
戦場での幸運は、縁起がいい。
島津軍の先鋒の一部が、柵に取り付けるところまで接近した。凄まじい形相で、押し入ろうとしている。
その兵を数人かかりで槍で突き殺す。
「……島津の兵は、当家の数人力にもなるか」
まさしく死力を尽くした戦いであった。
島津家も家の発展のために戦う理由がある。しかし、こうまで将士を死に駆り立てられるとは、よほどの人望があるか厳しい軍律があるか。
家永は胸に穴が開いてもなお、絶命の瞬間まで柵にしがみ付く名もなき島津兵に戦慄する。
「こやつらを中に入れるな。追い返せ!」
至近距離からの銃撃と矢、そして長槍が島津兵を近付けない。
柵を乗り越えなければならない島津兵は如何に強靭であっても動きを止める一瞬がある。そこを、狙って槍が襲い掛かる。易々と鎧を貫通する鉄砲の至近弾も、島津兵には脅威だった。直撃すれば即死は免れない。状況によっては、数人を丸ごと貫通することもある。
怒号と悲鳴の入り乱れた前線を支えるのは、黒木家だけではない。左翼前段の中では、最も多くの兵を抱える伊東家が、この戦の中心にいると言ってもいい。
「殿、殿。本日は真に吉日にございますなぁ」
と、兼朝が祐兵に呟く。
「何ぞ卜占でもしたか?」
「左様で。厳しい戦とはありますが、ご家運の開けたまう日にございます」
「ほう」
「当家が最も命を賭して戦い、最も華々しく戦果を挙げるには、厳しい程度の戦でなければなりませぬ」
「確かに、それもそうだ」
楽な戦で勝ったとしても評価はされない。勝利が約束されている戦いでの武功がどれほどの自慢になるだろうか。
島津軍という脅威が最も激しい段階での活躍にこそ、家運が開ける道がある。
度重なる島津軍の襲来に対応する兵も慣れてきているのか、伊東家の陣中には余裕の表情を浮かべる者もいる。
そこで、祐兵は自分の存念を明かすことにした。
「みな、聞いてくれ。此度の島津の攻勢は甚だ強い。だが、これまで通り無事に守り通すことはできるだろう。しかし、それだけではならぬと思う」
「それだけ、とは?」
「この一月、敵は士気が高いままで斯様な攻撃を繰り返している。守ってばかりでは、いつまでも戦が終わらぬ。そこで、当家が率先して島津軍に大打撃を与えて見せようと思う次第だ」
「それは……」
重臣たちの間にも緊張が走った。
というのも、この時点ではどれだけ優勢になろうとも決して柵の外に出てはならないと大内家から厳命されていたからである。
祐兵の策は明確な軍令違反である。
「迂闊なことを仰っては後の災いとなりましょう。昨今の島津は確かに柔弱に見えますが、それが罠ということもあるでしょう。むしろ、総大将はそれを懸念しているのではないですか?」
慎重論を唱えたのは、川崎祐長であった。
大内家に目を付けられれば、厳しい状況に置かれるのは目に見えている。おまけに、伊東家はかつて島津家に十倍の戦力差を覆されて大敗するという苦い経験がある。
島津家に対する憎さは人一倍だが、それを戦場でどのように活かすのかは人それぞれであった。
島津家は油断ならないと慎重にことを運ぼうとするのか、それとも恨みを力に変えて積極的な攻撃を行おうとするのか。
祐長は前者であり、祐兵は後者に近かった。
「さりとて、このまま戦局が変わらなければ当家は兵力を損耗するだけでしょう。大内、大友は損害なく、事を終えられるにしても我等は使い潰されるだけで恩賞に与る余地もない」
口を挟んだのは兼朝であった。
密かに祐兵の考え方を攻撃方面に誘導していた者である。
「それは分かるが、耐え忍べばこちらの優位のまま戦は進むのです。伊東家だけが突出すれば、同士に多大な迷惑をかけることになる」
「祐長殿は、伊東家の家臣かそれとも大内家の家臣か。先ほどから聞いていれば、まるで晴持殿こそが主君であるかのような物の言い様」
「何をッ! 軍にあって伊東家が法を無視するはお家の先を細らせる一方ではないかッ! この戦は伊東家のみの戦にあらずッ! 大内家の叱責を受ければ、背後の軍勢がそのまま敵になりかねんのだぞッ!?」
「島津との国境を守る伊東家を大内家が無碍にすることはできませぬよ。我等は同士たちを出し抜き、功を挙げる好機を目の当たりにしているのです」
淡々とした兼朝の言葉に、確かにと頷く者が現れる。
このままだらだらと戦いが続けば、真っ先に磨り潰されるのは伊東家等の前線の軍である。勝勢に乗って島津軍を撤退に追い込まなければ、結局同じ事を繰り返す。
「今日、島津軍を追い払っても、明日、同じように攻めてきますぞ。我等が先んずれば、流れが変わり、敵を一息に瓦解させることにもなりましょう。伊東家で、この戦の勝敗を決するには、多少の危険は覚悟すべきです」
兼朝は、祐長だけでなく同席する同輩にも語りかけた。
「当家が兵を前に進めれば、他の国人たちも我先にと前に出ます。当家が突出し、孤立することはありませんが、功を争うことにはなります」
「何を馬鹿な。島津を徒に追いかけることが、どれほど危険かお忘れか!?」
「もうよい、祐長。お前の言うことも分かるが、今はあの時とは状況が違う。当家の後ろには毛利殿もおられる。かつてのように伊東家のみでの戦ではない。島津の計略など、恐れることがあろうか」
祐兵の中で答えが決まっている。声をかけても結果が変わらないと分かり、祐長は目を伏せた。
「殿、島津軍の退き鐘にございます!」
鐘の音が響き、島津軍が撤退していく。
祐兵は伊東家の陣幕を出て、馬に飛び乗った。
「確かに退いてゆく……」
島津軍が撤退していくのが見て取れる。激しい戦いで敵味方に死傷者が出ている。伊東家からも、相応の怪我人が出ただろう。田畑は再び多くの血と屍で汚れ、白川の底に新たな死体を沈んだ。
ごくり、と祐兵は喉を鳴らした。
今、突撃すれば決定的な何かが起こると確信できた。
島津軍の猛攻を凌ぎきった先にある、勝利が見えた。
「兼朝、行くぞ」
「それでこそ、殿――――者ども、今が攻め時! 島津を叩きのめす大好機に他ならぬ! 進めェ!」
まさかの展開に、軍を纏めていた家永が絶句した。
伊東軍が撤退する島津軍を目掛けて柵を乗り越え、突撃したのである。
この突撃は伊東軍の中でも周知されていなかった。結果、突出した主君を守るために、将兵が慌しく飛び出していくことになった。
だからこそ、状況が掴めないがとりあえず突撃するしかない者たちが続出してしまった。
「ば、馬鹿者、何をしているのだ!?」
家永は、水量が減り、川底も浅くなった白川を楽々と渡って逃げる島津兵を討ち取っていく伊東家に何も声をかける間がなかった。
「何ということだッ。伊東の小僧ッ、わしに腹を切らせる気かッ!?」
「家永様、他の者どもが伊東家を追って陣の外へ!?」
「馬鹿者ども! 引き戻せッ! 軍令に反した武功は武功にならぬぞッ!」
家永の叫びも空しく、国人たちは雪崩を打って陣を出る。
それまで溜まっていた鬱憤を晴らすように島津兵を背後から追い散らし、首を刎ね、突き殺していく。
遠目から見ても分かるほどに熱狂している。
この流れを止めるのは、家永の一〇〇名余りの兵では不可能だった。
突然、左翼が引き摺り出される形になった大内軍。内部では、突然の展開に突撃するか見守るかで意見が分かれた。
この混乱は左翼だけでは留まらなかった。
左翼の国人衆が突出したことで、右翼の国人衆もまた動いた。相良義陽が懸命に制止したものの、彼女に与力していた国人の中には伊東家と同じような考え方の者たちもいた。
島津軍に一矢報いる好機を逃すまいと、前に出てしまった。結果、大内軍はなし崩し的に前衛が柵の外に飛び出してしまうことになった。
先頭を行くのは伊東家の将兵だ。
当初は突然の攻撃命令に困惑していた彼等だが、壊走する島津軍に気をよくしたのか乱捕りでもするかのように次々と島津兵の背中に刃を突き立てる。
反転して殿を買って出た部隊と激突し、勝勢のままにこれを蹴散らすと、さらに追い首を続ける。
伊東家の快進撃は、島津軍を峠道に追いやるほど苛烈であった。
「いけるぞ。山道は細く険しいものだ。大軍で逃げることなどできないッ」
島津軍もまさか反撃があるとは思っていなかったのかもしれない。
二〇〇〇人から三〇〇〇人にはなろうかという島津軍の精鋭が、千々に乱れて逃走している。
「かつてとは立場が逆だな」
祐兵が思うのは、島津義弘に敗れた一戦。
たった三〇〇人程度の島津軍強襲を受けて、伊東軍三〇〇〇人の軍勢は壊滅してしまったのだ。
あの敗戦で伊東家は没落の一途を辿った。だが、今は違う。少数の伊東軍が中心となって、島津軍を叩きのめしている。
「殿、追い首もこの辺りでよろしいでしょう!」
祐長が制止する。
「島津軍が反転し、攻勢をかけてくるやもしれませぬ! 陣形が整っていない今の状況では、不意の攻撃には対応できませぬぞッ!」
「何を言う。島津は皆、背を向けて逃げているではないか」
ごねる祐兵に祐長が馬首を並べた。
「深追いは禁物。兵法の基本です。とりわけ、相手は島津ですぞ」
「祐長は島津を過大に評価しているな。確かに、かつて当家は島津に敗れたが、それは運が味方をしなかっただけで、真っ当に戦えば勝利は確実であったと兼朝も言っていたぞ」
「兼朝殿が?」
祐長が背後を振り返る。兼朝が大声で兵を叱咤し、軍を取り纏めている姿があった。
と、そんな折である。
耳を劈く轟音が戦場に木霊した。
「何……!?」
追撃戦では鉄砲はあまり使われない。基本的に鉄砲は待ち構え、向かってくる敵を撃ちぬく武器だ。走りながらではそもそも狙いを付けられないし、一発撃てば再装填のために立ち止まらなければならない。
よって、この轟音は味方の鉄砲ではなく敵の鉄砲であると考えるべきであった。
祐兵は、信じ難いものを見た。
逃げ散っていたはずの島津軍が、いつの間にか結集して伊東軍の最前列に猛烈な攻撃を加え始めたのである。
「何だ? 何が起こっている?」
動転しているのは祐兵だけではなかった。伊東軍の突撃に引き摺られて出てきた味方の軍も、島津軍の急な反撃に即応できなかったのだ。
飛び道具が満足に用意できない鼻面に、矢弾が浴びせかけられた。
「殿軍が足止めと目隠しの役割を果たしのでしょう! 引き付けられたのは、我々です! すぐに退きましょう、これは、島津の釣り野伏せに他なりません!」
「ま、まさか、そんなッ!?」
島津軍のお家芸とも称される、鮮やかな戦術。味方を囮にして敵軍を引きずり出し、伏兵によって三方から取り囲んで殲滅するというものだ。
伊東軍は、この脅威をその身で体験したことがある。よって、島津軍の術中に嵌ったという考えが頭を過ぎった瞬間に、士気が砕けた。
■
歳久は遠眼鏡を使わずに目視で南郷谷全体の状況を俯瞰した。
上手く引きずり出されてくれた大内軍の前衛部隊が、島津軍の反撃にあって足を止めている。
ここに至るまでに、何人もの勇士を失った。そうしなければ、敵を本気にさせることができなかったからだ。
「上手く釣れましたね」
と安堵で胸を撫で下ろした家臣が話しかけてくる。
「そうですね」
とりあえず三手目までが成功した。
最初の一手は、単調な全力攻撃を繰り返し、島津軍は思いのほか脆弱であると思わせること。
三十六計に言うところの「瞞天過海」。同じ行動を繰り返して相手の油断を誘う偽装作戦である。それを、将士の命を散らせる形で実行した。
次の手は、敵の内部に潜りこませた島津派の将士による誘導作戦。その中心となったのが、伊東家の重臣である落合兼朝であった。
兼朝はもともと伊東義祐の側近だった男だ。古くから伊東家に仕える側近中の側近であり、島津家を相手にした領土争いでも、伊東家優位に戦いを進めたこともある実力者である。
そんな兼朝が島津家と通じ獅子身中の虫を買って出たのは、伊東家への恨みがあったからだ。
兼朝は一人息子を伊東家の重臣である伊東祐松に討たれたのである。理由は同輩の家督相続争いで、祐松は当主である義祐の寵愛を受けた人物であった。祐松の判断が、当時の伊東家の政治判断そのものと言っても過言ではなく、一方的に息子を斬り伏せられた兼朝は、祐松とこれを除かない主家に対して深い恨みを抱いていた。
そこに付け込んだのが歳久だった。
主家への復讐と所領の安堵を確約し、密かに連絡をやり取りしていた。いつか伊東家が大内家の先鋒として島津家と敵対するのは目に見えていたから、その時が来るまで重臣としての顔を維持し続けた。
そして、三手目。
兼朝を通じて伊東祐兵を攻勢に出るように仕向ける。
島津家に勝利することができれば、一躍、日向国の国主にまで返り咲けると吹き込めば、功に逸る祐兵を転ばせることは容易だった。
かくして、歳久が描いた絵図は形を得た。
伊東家の背後で、ついに兼朝が叛旗を翻して一瞬前まで味方だった将兵に手勢を向かわせた。重臣の裏切りと前後に現れた敵兵で、伊東家は大混乱。当然、伊東家に釣られて飛び出してきた諸将も逃げ散っている。
「さて、家久は上手く纏めてますね」
殿を装い始めから前を向いていた部隊を指揮しているのは、肥前国からやって来た家久だ。彼女は持ち前の統率力を駆使して、逃げてくる味方を収容しつつ、殿軍を瞬く間に釣り野伏せの正面軍に編成し直した。
「では、四手目。義弘様のご出馬を」
「はっ」
指示を受けた家臣が法螺貝を吹き鳴らした。
法螺貝の音は銃声よりも遠くまで届く。
重厚な響きは三度続いた。申し合わせていた通りの響きに、慈水城からすでに下山を終えていた島津軍はざわついた。
麓の茂みに潜ませていた将兵と次々に合流しつつ、駆け足で南郷谷の平野部に押し入った。「準備はよろしいですか、義弘様?」
馬を揃えて進軍する新納忠元が尋ねてくる。
すでに中央を纏める家久は自らの部隊を先頭にして、逆襲に転じている。包囲するにしろ中入りするにしろ、急がなければ敵の多くを取り逃がし、再び戦局が膠着してしまう。
「分かって、る。うん」
義弘はこくこくと頷く。大身の槍を握り締めて、深呼吸をした。暫し眼を閉じ、開いたときには我の強い鬼島津の視線が敵陣を見据えていた。
「行くよッ。島津の命運はこの一戦にかかってる。全員、総攻撃! 一気に突撃! 大内晴持の首を挙げろッ!」
穂先を敵の本陣があるであろう場所に向ける。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
地響きにも似た喊声を上げて、島津軍の左翼が一直線に大内軍の右側を目掛けて突撃を敢行した。
その数は先陣だけでも四〇〇〇人に達する。その背後からも軍勢が駆けているので、総数はさらに跳ね上がるであろう。
家久により伊東軍を初めとする先走った大内軍が壊滅状態にあり、敗残兵が必死になって敵陣に逃げ込んでいる。そして、味方を救うために出てきた大内軍と命令を遵守するために陣の中に残った大内軍とで大きな対応の差が出てしまった。その結果、前衛は纏めることもできず、場所によってはその後ろまで引きずり出されてガタガタになっている。
大内軍が全体的に前のめりになった。その一方で命令が徹底されている後方は、守りの姿勢を堅持する。するとどうなるか。前衛は孤立し、中段は前に引き摺られる部隊と残ろうとする部隊に分かれて密度が下がるという状態に陥った。
歳久が突いた、大内軍最大の弱点。
連合軍であるが故の統率力の弱さである。
義弘が引き連れるのは、島津軍の最精鋭を中核とする軍団だ。進軍速度の速さは随一と言ってもいい。それが、大内軍の前を迂回するように軍を進めた。
全体で見れば、家久の中央軍は伊東軍を蹴散らしつつ軍を斜め左方向に進めている。つまり、狙いを定めたのは崩壊した右翼ではなく、辛うじて形を保っている左翼である。家久の用兵により、右翼から突出した者たちは、自分たちが出てきた穴に飛び込むように逃げ込んでいく。
逃げる自軍を収容するために、大内軍の前線は機能不全を起こしている。家久が上手くその隙を突く。大内軍を追い立てるように左翼を目掛けて斜めに戦場を突っ切り、その家久の軍の進路を遮らないように義弘もまた兵を左側に寄せる。白川を渡り、密度の下がった敵の左翼中軍を狙う中入りを敢行するのだ。
その義弘の動きを察した大内軍の一角が、兵を引き連れて対応に動いた。
大内菱の旗である。大内家の一門衆の誰かであろう。弱卒な伊東家とは相手が違う。
「鉄砲来るよッ!」
「承知ッ」
大内軍からの銃火を浴びせかけられても、今度の島津軍は怯まないし止まらない。倒れた仲間の屍を背負って、さらに前に進む。
恐るべき気迫を背負って、遂に義弘の軍は大内軍と干戈を交えた。