大内家の野望   作:一ノ一

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その七十六

 大内軍が島津軍の猛攻に曝されて、四半刻といったところだろうか。状況は大変悪い。先手部隊は、中央と右翼が辛うじて持ち堪えているが、徐々に押されて柵の内部への侵入を許してしまっている。もともと陣形が崩れたところに、攻撃力のある島津軍が殺到したことと、敗残兵が逃げ込んできたことで守りが疎かになってしまった不幸が重なった結果であった。

 幸いなことに軍の柱となる中央の高橋紹運と立花道雪が全体を抑えてくれているが、左右のどちらかが崩れれば、そうも言っていられなくなる。

 島津軍と白兵戦となった部隊は猛烈な乱戦を強いられた。こうなると兵一人一人の質に左右されることになる。飛び掛ってくる島津兵に臆することなく立ち向かい、撃退できる者がどれだけその部隊にいるか。

 まずいことに、耳川の戦いで痛い目を見た大友軍の一部には、島津軍に対する苦手意識を持つ者がいる。

 紹運が押されているのは、そうした及び腰になっている者たちから統率が乱れているからであった。

 むしろ、崩れそうになる部隊をよく鼓舞している。恐怖に駆られて踏みとどまれない兵の背中を支え、前に足を踏み出させるカリスマ性。それが、優秀な将に求められる資質なのかもしれない。

 これだけ、各方面から攻撃を受けていると晴持が出せる指示というものがなくなる。それぞれの部隊で、適切に対応してもらうしかない。

「正面と右翼が島津に食いつかれる形になったか」

 正面からくる島津軍は、釣り出された国人たちの敗走に乗じて、嵩にかかって攻め込んできている。

 一方の右翼から襲ってくる島津軍は、島津家中で最強とも名高い島津義弘が率いているようだが、隆房が上手く凌いでくれているようだ。

 島津義弘が動いたと聞いたときにはどうしたものかと思ったが、隆房の奮戦で何とか体勢を整えられそうではある。 

 後ろを固めてしまえば、島津軍がどれだけ精強だったとしても、跳ね返せる。

「ご注進! 若様、ご注進にございます!」

 飛び込んできた伝令兵が、顔を青くして跪く。

「どうした? 何かあったか?」

「左翼より敵襲! 吉川隊が押し込まれております!」

「何だと!?」

 晴持は報告を受けるや否や、陣幕の外に出る。

 戦況の悪化がここにまで伝わっているということは、外は本陣以上の混乱状態にあるということでもある。少なくとも、うまく対応して敵を撃退したという報告は一つも入っていない。

 事ここに至っては、左翼に攻め込む大将が誰かなどということは重要な問題ではなくなった。

「晴持様、撤退も視野に入れるべき事態かと」

 と、光秀が言う。

「馬鹿を言え。ここで撤退すれば、総崩れとなる。容易く動かすことはできない」

「承知しております。しかし、万が一ということもあります。御身を危険が迫れば、すぐに退けるようにしてください」

「それは……分かってる」

 立場上、何としてでも生き残らなければならないし、死んで本望などとはこれっぽっちも思わない。

 だからといって、簡単に逃げるわけにもいかない。

 ここで、晴持が退くということは大内家が戦場から消えるということだ。大友家を初めとする九国の諸将を見捨て、自分だけが助かろうとすれば、瞬く間に島津家が九国全体を席巻することになるだろう。

 島津家の勢いはそれだけ凄まじい。大内家が頼れないとなれば、島津家を頼る以外に生き残る術はないのだから、国人衆は挙って島津家に臣従を誓うだろう。

 九国が落ちれば、山口は目と鼻の先だ。それだけは、何としてでも防がなければならない。

「吉川隊、崩れますッ!」

 悲鳴のような声が上がった。

「晴持様!!」

「外に出る」

 結局のところ、陣幕の中にいたのでは状況が掴めない。元春の部隊が崩れたというのならば、この時点で島津軍は本陣を捕捉できてもおかしくない距離まで詰めている。

 晴持は、陣幕の外に飛び出した。

 望遠鏡を片手に、繋いでいた馬に跨り、左を見る。

「よかった、まだ元春は無事みたいだな」

 確かに吉川隊は崩れつつある。

 どうやら、側面から突入した島津軍と正面から柵内に踏み込んだ島津軍、そして敗残兵が飛び込んできたために、部隊としての機能が著しく低下したのだ。

 元春でなければ、すでに壊乱していただろう。

 島津軍の将はそうとう戦運びが上手い。

 前に集中せざるを得ない吉川隊の後尾を抉るように突入したらしい。一撃を貰った吉川隊は、前後に敵を抱えることになった。

「真っ直ぐこっちに来るか!」

 吉川隊と左翼後備の間を切り裂くように、島津軍は大内軍の中に飛び込んでいる。確実に数を減らしながらも、味方の屍を乗り越えて、一直線に大内軍の本陣――――晴持を目掛けて突っ込んでくるのだ。

 じわりと、脂汗が滲む。

 久方ぶりの不味い展開だ。これだけ敵と接近したのは、道雪と対峙したときと信常エリの奇襲に曝されたときくらいのものだろう。

 鎧兜に身を包み、槍と刀と鉄砲で武装した数千からなる軍勢が大地を踏み鳴らし、喊声を上げて、自分一人を殺しに向かってくる。悪意とか狂気とかそういったものではなく、理性的に晴持を殺すことで活路を開こうとしているのだ。

「まいった、マジでこれは怖い」

 これまで生きてきた中で、こんな状況に曝されたことはない。

 よくよく考えてみれば、ここまで多くの人間に死を望まれることもないだろう。戦場に立つ将というのは、得てして多くの人々に死を望まれる立場になる。今は、その視線、その考えが晴持に集中しているのだ。

 島津家にしてみれば、晴持を討ち取らなければ先がない。逆に討ち取ってしまえば、大内軍は瓦解する。

 所詮は連合軍だ。

 彼女たちの策に乗せられ、晴持からの指示を守れずに突出する者が続発するような軍である。頭を失えば、山口から来た大内軍以外は逃げ散ってしまうだろう。

 さらに言えば、状況的には晴持が死なずとも、逃げ出せば同じようにこの軍は維持できない。

 大将の存在はそれだけ重いのだ。

 言ってみれば、大将というのは兵を戦場に縫い止める楔である。

「逃げるか……」

 とはいえ、逃げ場がない。ここは平原だ。前も右も後ろも味方の大軍で塞がっている。敵は左から攻めてきているが、晴持が逃げて軍が瓦解すれば、前と右からも敵が来る可能性は否定できない。もっとも、それは味方を捨石にすれば、解決する。島津家の得意技の捨て奸を真似てしまえばいい。できるかどうかは別にしても、最低限の時間稼ぎはできるだろう。

 僅かな思案が永遠とも思える時間に感じた。

 吉川隊を抜けた島津軍の先鋒に続き、その後ろから続々と敵が走ってくるのが見える。よく見れば、島津軍は、追撃を阻むためにすでに捨て奸に近いことをしているようだ。晴持の首を狙う者たちは全員が決死隊ということだ。

 それを見て、晴持は自然と腹を括った。

 これは、逃げても追いつかれるなと。理屈ではなく、天啓に近い発想だった。確かに島津軍は疲れ、気力も体力も搾り出して駆けている。それでも、不思議と逃げ切れる気がしない。そんな簡単に逃げられれば、耳川の戦いの折に無数の屍の山が築かれることもなかっただろう。

「晴持様、何か考えでも?」

 静かに様子を見守っていた元親に話しかけられた。

「いや……ああ、敵が一直線に向かってきてくれるのなら、迎撃もしやすいだろうなと」

「撤退はないってことね?」

「あの勢いだと、ちょっと逃げられそうにないしな。ああ、面と向かってぶつかる以外になさそうだ」

 腹を括ると、不思議と視野が広がるものだ。

 島津軍に攻められて、計略に嵌り、万事休すかとも思ったが、実のところ五分五分ではないかと思えてくる。

 確かに、不利な状況に変わりはないが、本陣が崩されたわけではない。

 賭けにはなるが、左翼を切り崩した島津軍を本陣で受け止めれば、自然と突出した島津軍を包囲することになる。

 結局、ここに至っても時間の問題は付き纏ってくるわけだ。突撃してきた島津軍は大内軍が体勢を立て直す前に勝負を決しなければならない。

「島津ってだけで、臆していた……策に嵌って、もうダメだとも思ったが、冷静になれば、挽回の目は残っている。逃げるのは、まだ早い」

 すでに、味方も動き出している。

 近付いてくる島津軍に対して、銃と弓矢を構え、槍の穂先を揃えている。

「元親の隊か。行動が早い」

「もともと、わたしの部隊が本陣の左端だっただけ。晴持様が撤退するのなら、殿くらいはするつもりだったけど、退かないっていうのなら、一番槍を長宗我部が貰っていいってことかな?」

「ああ、頼まれてくれるか?」

「晴持様。そこは、もっと強く命じないと。大将なんだからさ」

 若干、呆れたように元親が言う。

「……そうか」

「そうだよ」

「分かった。……島津軍の抑えのため、最前線を任せる」

「承知しました」

 端的に答えた元親は、可之助等側近を連れて自軍の下に向かった。

 こんな時でもしっかりと展開を見ていた元親は、あるいは晴持ほど島津軍の動きに過度な反応はしていなかったのかもしれない。撤退と抗戦のどちらでも最善を尽くせるように、事前に動いていたのだろう。

「光秀、宗運。本陣で島津を受ける。道雪殿と隆豊なら、すぐに兵を動かしてくれるはずだから、それまでの短時間を持たせるように、陣を固めさせろ」

「はい」

「了解しました」

 『計略に嵌った』という事実のみが過度に受け止められて、大内軍全体の士気も大分低下しているように見える。

 きっと、皆晴持と同じような心理状況だったのだ。

 島津軍はこれまでの戦でも寡兵で大兵を打ち負かしてきた策謀の家だ。大友家の衰退を目の当たりにし、耳川の戦いで如何に島津軍が驚異的な立ち回りを見せたのかを大内軍の将兵も知っている。

 それが、島津軍の策に嵌ったら終わりだという極端な受け止め方になってしまってはいなかったか。

 その時点で、心理戦で圧倒されてしまっていたのではないか。

 一度崩れてしまえば、一溜まりもない。

「光秀」

「はい」

「ここまで崩されて、本陣と敵が直接ぶつかるような戦ってのは、他にあったかな?」

「どうでしょう。大内の戦以外ですと、伝え聞くところで川中島での上杉と武田の一戦が思い当たりますが」

「ああ、あの……そうか、そりゃよかった」

 あまりにも有名な、戦国時代で最も多くの戦死者を出したという大決戦のことがすっぽりと晴持の脳から抜け落ちていた。

 確かに、第四次川中島の戦いでは、上杉軍が武田軍に切り込んでいる。乱戦の中で、武田信玄を上杉謙信が斬りつけ、信玄は謙信の太刀を軍配で受け止めたという逸話がある。

 真偽は不明だが、この世界でも数年前に上杉家と武田家が同様の激突をしたのだと風の噂で聞いた。

「よかった、とは?」

「切り込まれた武田信玄は、少なくとも死ななかっただろ。いい前例だ。まだまだやれる」

 強がりとも取れる晴持の言葉に、光秀は顔を引き締める。

「……島津軍がここまで攻め入れたのは、お味方の陣形が崩れていたからです。陣を固めれば、島津軍を跳ね返すことは可能です。ご安心ください」

「もう心配はしていない。なるようにしかならないからな」

「はい」

 頷いた光秀は、自分の手勢にも指示を素早く飛ばした。明智秀満や斉藤利三といった面々が光秀の意を受けて晴持の護衛のために周囲を固めた。

 宗運ら甲斐家も光秀と共に本陣の中枢に手勢を配して来襲する島津軍を待ち構える。

 

 

 ■

 

 

 

 現状、最も混乱を来たしているのは、大内軍の左翼――――島津軍から見て右翼側である。義弘は部隊を迂回させて、素早く吉川元春が指揮する部隊とその後続部隊の間を狙って横槍を突くことに成功した。

 最前線を守るべき右翼前段が壊滅状態にあり、島津軍に対応するため元春が前に進まざるを得なかった。縦に伸びて防御力が下がった一点が、弱所となり、猛烈な島津軍の一撃に吉川隊は押し込まれる形になったのだ。

「ちょっと! 後ろ、取られてるじゃん!」

「前後を挟まれております。味方の支援どころではありませんぞ!」

 この瞬間、元春の部隊は島津軍に対して数的不利に陥っている。前から来る島津軍と横槍を突いた島津軍。この二つに同時に攻撃をされたことに加えて、逃げてくる国人たちという最悪の条件が重なっているのだ。

「何て速さ」

 元春が美しいとすら感じた島津の用兵。迂回した後の迷いのない突撃は、並大抵の軍では不可能であろう。

 注目すべきはその速度だ。

 元春の指示が味方に行き渡り、対応のために陣形を変えようとしたときには、島津軍は眼前に迫っていた。

 吉川隊は大前提として元春を守らなければならない。前と後ろに敵を抱えた場合、その陣形は自然と元春を中心とした方陣に近いものとなる。

 それもまた、義弘の狙いであった。

 元春が守りに入れば、中段と後段の間の道が広がる。元春隊に一部をぶつければ、元春を守るために密集せざるを得ないので、道はさらに広がる。

「元春様、彼奴ら本陣を狙っているようです!」

「分かってる! 何とか、押し戻してッ!」

「元春様ッ、前方の敵、勢い甚だ強し! 堪えてはおりますが、背後までは手が回りませぬ!」

「ああ、もうッ!」

 吉川隊だけならば、まだ対処のしようもあった。決して愚鈍な兵ではないのだ。だが、今の吉川隊は味方の敗残兵を一部に収容しているために軍としての能力にばらつきが出ていた。守る者や気にかけなければならないことが普段よりも多いという状況での、奇襲めいた島津軍の強襲だ。

 むしろ、一息に崩されなかったことが奇跡に近い。

 元春の指揮と元春を守ろうという家臣の献身により、吉川隊は瓦解することを免れたのだ。

 だが、守りに入った吉川隊に背後を通過する島津隊の勢いを殺すことはできない。命懸けで吉川隊の追撃を封殺するために、残った島津軍の猛将の存在が、さらに追撃を困難なものとした。

 

 

 

 義弘の指揮する部隊は決死隊と言うべき過酷な役目を与えられている。

 敵中に突撃して本陣を強襲し、大内晴持の首を獲る。当然、その後に敵の反撃を受けるだろうし、敵の真っ只中に突撃するのだから、生きて戻れるかどうかは分からない。

「晴持の首を挙げられたのならば末代までの誉れ。力及ばず討ち死にしても、それもまた薩摩隼人の誉れ」

 と、自分を鼓舞して各々武器を構えて南郷谷の大地を駆けている。

 目的意識が完全に共有され、それぞれの役目を理解している統率された集団は、有象無象の集団よりもずっと強力だ。

 吉川元春の部隊は、大内軍の中でも統率力に優れた部隊ではあるが、前段部隊の崩壊とそこに付け込む鎌田政広の部隊を相手にしながら義弘の強襲部隊にまで対応するのは困難を極める。

 義弘の一撃で敵兵の身体が吹き飛ぶ。

 彼女が振り回す大身の槍が、空気を引き裂くごとに相対した敵の命が儚く消える。

 敵にとって止めようのない自然災害にも等しい怪物。それが、鬼島津と呼ばれる由縁でもある。

「義弘様、敵本陣へこのまま!」

「分かってる! 一気に穿ち抜くよ!」

 もとより、義弘に対応する余裕のない吉川隊の背後を掠めて、大内軍中段と後段の間を抜ける。

 左翼後段が慌てて動いているが反応が鈍い。対応のお粗末さは、危機的状況に慣れていないことを意味しているのか。

 突発的な事態に、それぞれの部隊の対応が分かれてしまっている。一丸になっていない。義弘はそう感じた。

 とにかく、大内軍に横槍を入れた義弘の部隊は縦列を成して大内軍の守りを穿ち抜く。

 本陣の位置は、山の上から捉えていた。晴持の居場所は知れている。

 吉川隊を抜いた義弘の視界には、島津軍を待ち受ける敵本陣の姿が映っている。

 大内軍の本陣は崩れていない。隊伍を整えて、義弘を迎撃する構えだ。ここで退いてくれれば、さらに混乱が全体に及んでいただろうにと、義弘は舌打ちする。

 しかし、今更後には退けない。行けるところまで行き着くしかない。結果は、後で知れるだろう。

「義弘様! 立花隊に動きが!」

「義虎! 足止め、よろしく!」

「御意!」

 命を受けた島津義虎が、立花隊の後方に向けて一部の兵と共に向かっていく。

「義虎殿……」

 義虎は、義弘たち伊作家と長年島津宗家を巡って争ってきた薩州家の六代目である。父や祖父が、伊作家との対立路線を深める一方で、義虎は早い段階から伊作家と好を通じていた。

 島津貴久の時代に、島津家の多くの分家が姓を島津から各々が治める所領の地名に改名させられた時にも、例外扱いとされ、島津姓を許されている重臣中の重臣である。

 そういった事情から義虎の立場は極めて不安定であった。命を惜しめば、瞬く間に足元が揺らぐ。ここぞという時に、前面に立って戦う姿勢は、生来の性格のほか、自らが置かれる立場に従ったものでもあったのだ。

 だからこそ、義虎は重大局面で最大の力を発揮できる。

「義虎の相手は?」

「立花三河守かと!」

「……いや、義虎なら大丈夫!」

 義虎が食い止めるのは、立花隊の中でも有名所の薦野増時であった。文武両道で冷静沈着。そして、勇猛果断と優秀な武将で仕えて早々に立花家の家老にまで取り立てられた。

 「立花三河守」の名乗りを許されて以降は、大々的にその名を喧伝している。

 総力戦らしくなってきた。

 島津軍も大内軍も、持ち得る手札のすべてを使って勝敗を争っている。

 義弘は、乾いた唇を舐めた。最早、意識するべきは大内軍の本陣一つだけだ。

「あれは……」

「長宗我部です!」

「分かってる! 鉄砲、あるね!? 撃ったらすぐに走る! ここが正念場だッ!」

 長宗我部元親。

 土佐国でその猛勇を響かせた姫武将とその家臣たちだ。

 島津家とは貿易で結びついていたこともあるだけに、そこそこ情報は入ってきていた。そのため、彼女たちを義弘は決して侮らない。

 侮らないが、止まりもしない。

 ここまで深入りししたからには、最後まで駆け抜ける以外に選択肢がないのだ。馬も人も疲労しているが、誰もそれを苦には思っていなかった。

 フローやゾーン、あるいは無我の境地とも呼ばれる精神状態に入っていた。時間の流れは遅くなり、戦場の熱狂は遠のき、どのような困難であっても踏破できる自信に満ちていた。

「突っ込め!」

 義弘の指示一つで鉄砲を撃ち放ち、敵の前列が倒れるや怒涛の勢いで敵陣に殺到する。猛烈な銃火を浴びて尚、味方を盾にして飛び掛った。

 島津家のお家芸は、釣り野伏せだけではない。義弘が用いるのは、穿ち抜け。鉄砲で敵の前線を挫き、縦列に槍を押したて敵の中央を突破する猛烈果敢な進軍術であった。

 とどのつまりは長宗我部隊すらも眼中にはないのである。とにかく、目的を邪魔するのならば蹴散らすだけだとばかりに、義弘隊は元親たちに牙を剥いた。

 

 

「凄まじい、ですね。これは……」

 前線に食いついた島津軍の勢いに、可之助が唖然とする。

 ここまで走ってきた疲労を感じさせない戦いぶりは、この世のものとは思えないものだった。

「生きながらにして死んでいるかのようだ。これが、島津か。確かに、警戒するに値する相手だったね……」

 晴持が島津家を早期に警戒していたのは、彼に近しい立場にいる者ならば誰でも知っていることではあった。その理由までは当初は分からなかったが、勢いよく勢力を拡大する軍事力を見れば、自ずと知れることでもあった。

 しかし、それが自分たちに向けられるととてつもない脅威となった。

「格好つけて先鋒を任されてみたけれど、数が違いすぎるな」

 長宗我部隊だけでは、攻め込んできた島津軍を抑えられない。それは、単純な数の暴力である。よって、長宗我部隊を先鋒としつつ、その背後を大内家の武将たちが支えている。 

 下手な姿を曝して家中の評価を下げるわけにもいかない。

「敵味方入り混じった、乱戦に持ち込むほうが、むしろいいかもしれないな!」

 飛んできた矢を元親は頭を伏せて交わした。

 強引に前を切り開こうとする島津兵に、元親自身が槍を撃ち込み、死を与える。

 敵の強みは統率の取れた「軍」であるということだ。それが、足並みを乱した大内軍を斬り裂いてここまでやってきた。ならば、敵もまた軍としての体裁を取れないように、乱してしまえば、少なくともこれまでのような苛烈な突破力は期待できなくなる。

「だあああああ!」

 元親が側近衆と共に敵に槍を付ける。

 久武親信や可之助も頭から血の雨を浴びながら、刃を振るった。

 一人斬り伏せる。その屍の後ろから三人が現れる。全体としての兵力差はさほど大きくはない。長宗我部隊だけでは抑えられずとも、ほかの部隊の助けを借りれば数的不利には陥らない。むしろ、島津軍のほうが少しずつ押されていくのが常道だというのに、可之助の眼前に迫る島津軍は異常なまでにしぶとく、数が多いように感じてしまう。

 一人一人の姿が、大きく見える。

「らあッ!」

 可之助が喉を突いた敵兵が、鮮血を撒き散らしながら可之助に組み付いた。

「う、あ……きゃあッ」

 血に濡れた地面に足を取られて踏ん張りが利かず、可之助は組み敷かれた。

「姫武将、大将首ぞ!」

「掻き切れ!」

「欲を出すな。殺したら走れ!」

 血走った目をした島津兵が可之助を殺すべく殺到する。

 さながら野犬が弱った鹿を取り囲み、食い殺すが如き光景であった。

「可之助ッ!」

 飛び掛った野犬の群れを打ち払った元親は、さながら熊のようであった。一撃に三人を打ち倒し、後続を転ばせ、蹴り飛ばした。

「怪我は!?」

「掠り傷です!」

 可之助は、自分の上に圧し掛かる島津兵の死体をどけて、立ち上がった。本当に命に別状はないようで、元親は安心した。

「者ども、踏みとどまれッ! 時を置かずして、味方が敵軍を包囲するッ! それまで持ち堪えろ!」

 元親の叱咤に、長宗我部隊が轟然と応えた。

 島津軍も精強だが、長宗我部軍も負けてはいない。鍛え上げた精鋭と編成した一領具足は、こうした野戦での泥臭い戦いにこそ真価を発揮する。

 まさしく血みどろの戦いであった。血なのか泥なのか分からないほどに全身を汚し、それでも島津軍も長宗我部軍も止まらずに武器を振るい続けた。

「敵将がいない……!」

 騎馬武者がいつの間にか姿を消している。

 全員が一人の武者となって戦っているということか。目的意識が完全に共有されているのならば、いちいち指揮をする必要もない。ただ只管に本陣に向かい、晴持を討ち取る。大将も一兵卒も関係ない、全員での武功争いであった。

「可之助、ここは任せる!」

 元親の身体に悪寒が走った。

 乱戦を突破した島津兵が、さらに奥深くに走っていく。

 長宗我部隊は何とか堪えているが、その周囲が少しずつ浮き足立っている。周りが崩れれば、長宗我部隊が島津軍の中に孤立してしまう。

 それに、ここが崩れればそのまま晴持が丸裸にされるも同然だった。

 

 

 いい具合の乱戦だった。

 槍を持って敵中に飛び込み、自ら大内兵を突き殺す。前途多難な道のりを、死に物狂いで切り開いていく感覚が好きだった。

 天運が味方になったと思った。

 大内軍が算を乱している。

 本陣の連中は統率が取れているはずだったが、我武者羅な島津兵の前に大いに乱れてしまったのだ。理屈ばかりで頭のよい連中が多かったのかもしれない、などと埒もないことを考える。 

 槍を振るって敵が倒れ、そうしている間に、隣を走っていた味方が消えている。どこかで戦っているのか、はたまた討ち取られてしまったのかは分からない。

 ともかく、義弘は目に付く敵を討ち取り、跳ね飛ばし、剛勇を大いに振るって味方を鼓舞しつつ、ただ一人の武者として晴持を目掛けて走っていた。

 彼女には独特の嗅覚があった。

 戦功を挙げる嗅覚だ。一番の手柄首がどこにあるのか、何となく分かってしまう。戦場に出て、戦いの昂揚に身体を浸しているうちに、そこへの道筋が見えてくる。

「フッ……!」

 呼気を小さく吐き出して、鋭く突き出す槍が騎兵の一人を貫いた。

「馬、貰うよ」 

 倒れる騎兵と入れ替わり、義弘は馬を奪うと群がる敵兵を槍の一線で蹴散らして、颯爽と馬を走らせる。

「よ、義弘様ッ!?」

「義弘様を追え!! ぐずぐずするなぁ!!」

 慌てて家臣たちが義弘を追いかける。

 死を賭して突撃をした島津軍ではあるが、義弘を死なせるわけにはいかない。彼等は命懸けで晴持を殺すのと同時に、命懸けで義弘を生かすことも使命としているのである。

 風のように戦場を駆け抜ける義弘を、必死になって家臣たちが猛追する。吉川隊に突撃した当初は四〇〇〇ほどはいた味方だったが義弘の傍には一〇〇ほどしかいない。大内軍を穿ち抜く過程で脱落したり、どこかで今も戦っていたりするのだろう。

 銃火の音も遠くに聞こえる。頬や肩を矢弾が掠めるが、気にもならない。

 義弘は、にやりと笑った。

「大内晴持、捉えたぞッ!」

 眼前で、馬に跨る男。間違いなく、大内晴持であった。

 噂に聞く明智光秀、そしてかつての大敵甲斐宗運らが身辺を固めているというが、最早それも思考の埒外だ。

 撃ちかけられる銃撃から、家臣が義弘を庇う。

 向かってくる敵を打ち倒し、引き飛ばし、荒れ狂う嵐のように槍を振り回す。

「晴持様をお守りしろ!」

「島津の大将首だ! 討ち取って手柄にせよ!」

「義弘様の邪魔をさせるな!」

「突き伏せ! 斬り伏せェ!」

 壮絶な戦いが晴持のすぐ目の前で繰り広げられた。

 轟然と振るわれる豪槍が、大内兵を纏めて薙ぎ払う。人間離れした膂力から繰り出される巨大な槍の一撃は、遠心力を最大限に活かして、途方もない破壊力を生み出しているのだ。

 さすがに、最後の砦は固い。

 晴持の直臣たちだ。彼を守るために命を差し出すのも、望外の喜びとばかりに飛び掛ってくる。島津家にとって最大の敵ではあるが、これだけ家臣から慕われているのであれば、良い将なのだろう。そこだけは、好感が持てる。それだけに、討ち取らなければならないのは残念だ。良い武将とは、どうあっても一期一会は避けられないか。

「その首、貰うわッ。大内晴持!」

 ほんの僅に開いた突破口に、義弘は馬を乗り入れた。

 

 

 人と人の間を縫うように駆ける姿は一陣の風のようで、血の臭いを全身から漂わせた彼女の姿は晴持から見れば、さながら鬼のようであっただろう。

 晴持が反応するよりも速く、彼女の槍が打ち込まれる。

「させるかッ!」

 さっと横槍を入れたのは、宗運だった。真横から槍を義弘の喉を目掛けて突き出した。

「ッ……」

 間一髪、身体を反らした義弘の鼻先を宗運の槍が通過する。

「甲斐宗運!」

「島津義弘!」

 互いに因縁のある相手だ。一目で両者の首の重要性を察する。とはいえ、あくまでも義弘の優先順位は晴持が第一だ。

 馬上の晴持が馬首を巡らす前に、手槍を叩き込めば島津軍の勝利だ。

 義弘は宗運の槍を籠手でいなし、槍を石突のほうから背中越しに回した。想定外の方向からの攻撃に、宗運は米神を打たれて倒れる。

 義弘の視界の隅に、銃口が煌めいた。

 光秀が至近距離から義弘を狙っていたのである。

 さすがに、義弘が如何に人並みはずれた武将でも銃弾を回避するのは困難を極める。

 それでも、相手が並の銃手であれば、義弘は対応しただろう。発砲の瞬間に射線から身体を外していればいいのだ。無茶苦茶な理屈だが、義弘ならば、できないことはない。

「クソッ……」

 義弘の背中に悪寒が巡る。

 直感的に、この銃から逃れることができないと悟った。並の兵が持つ銃ならば、避けることもできたかもしれない。少なくともできないと確信するようなことはなかった。だが、光秀に狙われていると察した瞬間に万事休すを覚悟した。

 晴持までが一歩遠い。

 光秀が引き金を引き、銃口から鉛玉が火花と共に飛び出してくる光景が目に焼き付く。

 その瞬間、唐突に義弘の身体が前に投げ出された。

 跨っていた馬が、義弘の感じている悪寒を同様に感じ取ったのかもしれない。突然に膝を突いて前傾姿勢を取ったのだ。このとき、義弘はあえて姿勢を整えようとせずに、鐙を蹴って、宙に身を投げ出した。光秀の弾丸は、義弘の風に舞う後ろ髪を掠めて陣幕に穴を開けるだけに留まった。

 驚嘆する光秀。食い下がろうとする宗運。晴持を守ろうとする供回りの小姓たち。それらの動きがすべてよく見えていた。

 小姓の頭を跳び越えて、義弘は晴持に槍を振るった。

 

 

 

 

 ガツンと衝撃が全身に走る。

 まるで車に衝突したかのような強い力に曝されて晴持は、肺腑の底から息を吐き出した。

 義弘が空中で振るった横薙ぎの一撃を晴持は、自分の槍の柄で受け止めていた。足場のない空中で、腕と身体の捻りだけで生み出した力とは思えない一撃で、晴持は馬上から投げ出された。

「ぐ、あ……!」

「チィッ」

 舌打ちする義弘が着地と同時に追撃のために晴持に向かって駆け出している。晴持も倒れた勢いを殺さずに地面を転がり、その勢いのまま立ち上がる。

「大内!」

 叩き付ける二撃目を晴持は辛うじて槍で流した。隆房の槍筋と似ていたのが功を奏したか。だが、次はとても凌げそうにない。槍が風を切る音が、爆発物でも扱っているのかというくらいの轟音だ。人間が出せる音なのかと、耳を疑った。

「晴持様に近付くな、島津!」

「下がれ、下郎!」

 宗運が槍を手に義弘に突きかかり、光秀が晴持との間に割って入る。

「晴持様、無事ッ!?」

 そしてそこに、危機を直感して蜻蛉帰りしてきた元親が合流し、義弘を視認するや元親が鋭く槍を打ち込んだ。素早い状況判断と明確な殺意を持った一撃であった。

「邪魔をッ……!」

 元親と宗運の槍に阻まれてさすがの義弘も下がらざるを得なかった。

「義弘様ッ!」

「若様ッ!」

 どっと、島津兵と大内兵がなだれ込んでくる。晴持と義弘の交錯はほんの一瞬の出来事で、その僅かな時間で起こったことが両者の運命を大きく変えたと言ってもいいだろう。

 晴持は右腕に激痛を覚えながらも、義弘と視線を交わした。二人の間には、大内兵と島津兵が入り乱れた戦場が横たわっていて、もはや容易には近付けない。

 しかも、状況は島津軍にとって悪くなる一方であった。

「今の一撃で獲れなかったのが、運の尽き、だったな」

「まだまだ……!」

 晴持の首を落とさなければ島津軍に勝利はない。そうと分かっていて、簡単に引き下がるわけにもいかない。しかし、義弘の周囲を固める島津兵に対して、晴持を助けるために駆けつける大内兵のほうが多い。突破するだけの勢いを失った今、この状況で晴持を討ち取るのはまず不可能だった。

 戦は生き物だ。

 勢いがあれば、寡兵で多勢に打ち勝つこともあり得るが、その勢いが死んでしまえば、天秤は多勢のほうに傾いていくのが道理であった。

「義弘様、お退きください。このままでは完全に包囲されます!」

「何を馬鹿な。目の前に晴持がいて、それで逃げるわけにはいかないわ!」

 鉄と鉄がぶつかり合う音が響き渡る。

 血と火花が舞い踊り、狂ったような絶叫と喊声が雨のように降り注いだ。

 晴持と義弘のほんの僅かな距離が数百里も離れているかのような感覚に見舞われる。

「義弘様、ここから先は無駄死にになります。それだけは避けねばなりません!」

「ッ……!」

 義弘は唇を噛み締めた。

 敵に囲まれて四方から縦横無尽に攻撃を受け続ければ、義弘を初めとする決死隊は全滅不可避だ。今のままでは、敵中に飛び込んで全滅しただけの愚者にしかならない。

 義弘が生き延びれば、挽回の機会があるかもしれないのだ。

「ああ、もう! 撤退!」

「包囲だッ。逃がすなッ!」

 晴持が叫ぶ。

 無論、誰もがここで義弘を逃がす愚を犯すまいといきり立った。

「義弘様をお守りしろッ。何としてでも、本陣までお連れするのだッ!」

 と、島津の将兵が口々に叫ぶ。

 義弘は相当慕われているらしい。

 島津兵と大内兵の殴り合いと斬り合いが勃発する。馬を奪い、供回りと駆け出す義弘に矢弾が浴びせかけられる。狙われた義弘の前に飛び出した何人もの島津兵が肉の壁となって義弘を守った。

「捨て奸じゃあ! 義弘様のご恩に報いるは今ぞ!」

 義弘は退路を右翼に求めた。来た道は、すでに大内軍によって狭められている。しかし、右翼は隆房たちが釣り出された影響で隙間がある。そこに活路を求めたのだ。

 島津兵が次第に義弘の周囲に集まり群れとなり、そこから零れ落ちた数名からなる少数精鋭が大内軍の追撃を阻む肉の壁となった。

 広い南郷谷では捨て奸の効果も半減以下だ。しかし、それでも義弘の帰還を信じて島津兵は大内軍中に飛び込み、暴れて斬り死にしていった。

 川上忠堅も、捨て奸を買って出た武将の一人であった。

 義弘一人が生き残ればそれでよい。

 義弘を死なせて自分が生き残るようなことは、願い下げだったし、晴持の首も獲れなかった。ここは、一つ大きな武功を挙げなければ、薩摩隼人の名が廃る。

 歳の離れたはとこの川上久朗(ひさあき)も、かつて大口城での戦いの折、義弘を逃がすために殿を引き受けて壮絶な死を遂げた。

 その武勇譚を聞き知っていながら、義弘の背中を守らずに逃げ帰ることがどうしてできるだろうか。

 突っ込んでくる多くの大内兵の中に見事な兜を被った騎馬武者を見つけた。

「そこの騎馬武者! この川上忠堅の最期を飾る一戦に相応しい、よき武士と見た! 名乗られよ!」

 戦場の騒音を貫く大音声。戦の最中で疲弊しているとは思えない強い言葉に、指名された騎馬武者が刺激を受けたのか、答えた。

「筑紫惟門が一子、筑紫晴門である。川上とやら、望みの通り我が槍を馳走仕る!」

 突撃する騎馬武者の突きを躱し、忠堅は組み討ちの要領で飛び掛る。

 晴門の従者と忠堅の味方がほぼ同時に激突し、戦いは砂埃と喧騒の中に消えていった。

 


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