大内家の野望   作:一ノ一

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その八十八

 近江国。

 日本列島の中心に位置し、さらにその中央には日本最大の淡水湖である琵琶湖が鎮座している。古来、実り豊かな国であり、交通の要衝でもあったため、数多の勢力が虎視眈々と狙ってきた歴史がある。また近江国は、琵琶湖を挟んで北と南に別れ、それぞれ京極家と六角家が反目してきたが、それを除けば大きな騒乱なくここまでやってきた。

 京極家は、下克上の荒波に流されて浅井家に乗っ取られてしまったが、南近江国の六角家は幕府の重鎮としての役割も得て、中央政権に強い影響力を与え、政争に敗れた将軍を匿うなど日本全国を見渡しても知らぬ者のいない大大名として君臨してきた。

 とりわけ、六角家の最盛期を築いた六角定頼は、名君として名を馳せていた。

 日本で初めて家臣団を観音寺城下に集め、楽市楽座を実施し、類希な商業都市を生み出した。

 その六角家が、没落した。

 尾張国から勢力を拡大してきた織田信長率いる織田軍との戦いに敗れ、ついに観音寺城が攻め落とされてしまったのだ。

 最後の当主である六角義賢は行方不明となり、今も織田軍による執拗な捜索が行われている。

 鎌倉時代から続く名門佐々木源氏、その本筋に当たる六角家の没落は、驚愕となって日本全国に伝わった。もともと織田信長は、今川義元を桶狭間で破って名を挙げていた。その後も尾張国を統一し、美濃国を奪って目覚しい成長を遂げていて、そんな中で六角家を滅ぼしたので、信長をぽっと出の大名と侮っていた勢力も、いよいよこれを無視できなくなった。

 とりわけ、織田家と所領を接する武田家や朝倉家、北畠家等は楽観視できなくなっている。今後、織田家とどのように付き合っていくかで、家の未来が左右される。それほどに、織田家とそれを取り纏める織田信長という人物は大きな存在となっていた。

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだ。

 西では大内家が勢力拡大を続けているが、注目度は京の話題は織田家で持ちきりだ。何せ、南近江は京のすぐ近くだ。大内家が上洛するのはまだまだ先だろうが、織田家はその気になれば明日にでも京に兵を進めることができる。

 三好家と同盟しているので、すぐに動くことはないと看做されているが、時代の流れというものはある。十河一存や三好実休がいなくなった三好家と六角家を滅ぼした織田家のパワーバランスが崩れつつある。

 信長が京を抑えようと思えば、長慶とてどうなるか分からない。そして、京が戦場となれば、戦う力を持たない公家は逃げるしかない。すでに荷物を纏めて知己を頼って疎開している者もいるという。

 そんな時代に愛された大名は、自らが築き上げた岐阜の街並を城から眺めながら、満足げな表情を浮かべていた。

 風にそよぐ燃えるような赤い髪は、腰に届く程度の長さだ。顔立ちは美しく、出るところは出て、引き締まるところは引き締まっている身体は実に女性的だが、如何せん眼光が鋭い。頭脳明晰で、はっきりと物を言う性格だ。そして何より、彼女の全身から発せられる覇気を浴びせかけられれば、大抵の男は劣情を抱くことは疎か彼女を女性として認識することすらできなくなるだろう。

 信長が見下ろす「岐阜」の街並。かつて、ここは稲葉山城の城下町であった。斎藤義龍を追い落とし、美濃一国を瞬く間に飲み込んだ彼女が本拠地に選んだのがここだ。井ノ口を岐阜に改名し、町割りを実施、まったく別の街づくりを行って斎藤色を一掃した。

 武士の本懐は一所懸命。自分に与えられた土地を生涯守りぬくのが大原則の時代で、信長は本拠地を尾張国から美濃国にあっさりと移していた。

 すでに信長は、織田家を完全に掌握していた。本拠地の移転という大事業すら、主要な家臣からの反対がないほどだった。

 楽市楽座で商人を呼び寄せて、一気に商業都市として繁栄した岐阜の街並を見ていると、いよいよ斎藤義龍を下したという実感が湧いてくるのだ。

 さらに、彼女は南近江まで手に入れた。これで尾張国、美濃国、南近江国三カ国を治めるに至ったことになる。尾張織田氏の傍系出身で、もともと彼女個人の地盤すら危うい状況から始まったことを考えると、その成長速度は異常と言ってもいいだろう。

 信長は名門の出ではない。織田氏は尾張国の守護代の家であるが、信長の家はその庶流だ。さらに、幼少期から母に疎まれ、主要家臣の多くが妹を戴いて信長に反抗するという事件すら起きた。それを乗り越えて今に至ったのだ。

 信長の側近ですら、彼女がここまで成り上がるとは思っていなかっただろう。

 さて、信長という武将は合理性を貴ぶ。悪しき伝統を思い切り蹴飛ばして、新しい風を取り入れることにかけてはずば抜けた才覚があるし、そういう意味では怖いもの知らずである。

 その一方で、怖いと思った相手には、恥を忍んで頭を下げるくらいに形振り構わない対応ができる人物でもある。

 先見の明に優れているとも言えるだろう。

「信長様、ここにおられましたか」

「おお、米五郎左。どうかしたか?」

「お部屋にいらっしゃらないので、また出歩かれているのかと心配しましたぞ」

 やってきたのは、信長が心から信頼する腹心の家臣である丹羽長秀だ。やせぎすの男で、最近髪が薄くなってきたのが悩みだという。

 文武両道の武将だが、特に内政に力を発揮し、縁の下の力持ちとして信長の戦を支えている。

 信長が彼を米五郎左と呼ぶのは、米のようになくてはならない大切なものだということを示しているのだとか。

 家臣に独特な渾名をつけるのは、信長の癖の一つだ。

「城下に出ても、いいかとは思っていたぞ」

「ははは、いえ、城下を見回るのがダメとは言いませんが、お一人での外出はそろそろ控えていただきませんと。すでに御身は三国の主。まして、関所を取り払ったために、何者が城下に潜んでいるか分からないのですから」

「分かっている。――――まあ、わたしはそういう不意打ちには強いぞ。心配するな」

「心配しますし、何かあってからでは遅いのです。せめて、供回りを付けていただかなければ。何であれば、拙者でも」

「よせよせ、お前の渋い顔を連れて城下を歩いていられるか。心配しなくとも、小姓あたりをつける。先日、森家の長女が出仕するようになったところだ」

「ほう、森家の……それはまた将来有望そうですな」

「ああ、あれはよい武将になるぞ……と、来たか」

 信長の目が細まった。

 彼女の視線の先は、城下町の大通りであった。

 馬に乗った姫武将とその護衛の一団がやってくる。

「あれは、信行殿では?」

 長秀が驚いた表情を見せた。

 信長によく似た、幼さを残した姫武将だ。

 織田信行――――信長の実の妹で、かつて家督を巡って争った相手だった。

 信長に敗れた後、助命され、これまでずっと蟄居していた。

「信行がここに来るのが不思議か?」

「え、ええ。何も聞いておりませんでしたので」

「ふふふ、そうだろう。誰にも言ってないからな」

「何ゆえに? せめて、一言言ってくだされば」

「信行がわたしの前に出てくるくらいで、いちいち誰かしらに許可を取る必要などないだろう。あれに蟄居を命じたのはわたしだ。それを解くのもわたしの一存で決まることだ」

「それは、確かに……そうですが。わざわざ岐阜まで呼び出して、如何なさるおつもりですか?」

「まあ、そう困った顔をするな。悪いようにはしない。働かざるもの食うべからず、だ。いつまでも部屋住みというわけにはいかんだろう」

 その答えを聞いて、長秀はほっとした。

 あるいは、信長がいよいよ妹を手打ちにするのではないかと危惧したからだ。

 信長の足元は安定しつつある。そのような状況下で、対抗馬かつかつて実際に敵対した信行は扱いが難しいのだ。

 信長の急進的な政策についていけないと感じる者もいる。勢力拡大により、彼女に恨みを抱く者も増えた。信行を担ぎ、信長に反抗する者が現れる可能性は皆無ではないのだ。

 信長をよく知る長秀は、この烈女にも人の情があることを知っている。本心では妹と争いたいとは思っていない。

 妹を手に掛けることがあれば、信長の心に暗い影を落とすだろう。

 そうでなかっただけよかったと思えたのだ。

 

 

 

 尾張国で蟄居生活を送っていた織田信行の下に、突然信長からの使者が来た。それは、一大事件だった。ただの近況報告ならばまだしも、今すぐに岐阜に来いというただそれだけの文面だったのだ。

 信長らしいといえばらしいが、呼び出しの理由はまったく書かれていなかったのだ。

 側近や侍女は、大いに心配した。

 信行は、外に出ることも外部の者と直接顔を合わせることも許されていなかった。そんな生活に押し込められていたところで急な呼び出しだ。

 もしかしたら、信長は信行を討つのではないかという不安が出てくるのは当然だった。

「それならそれで仕方ないわ」

 と、信行は言った。

 姉のことは大好きだった。

 信行は幼少期から聡明だった。その聡明さを彼女の母は深く愛した。彼女の周りにいる者たちも、「うつけ」の信長よりも物分りのよい信行を次期当主にと囁くようになった。

 しかし、信行は、その聡明さが故に自分の限界を知るのが早かった。そして、同時に信長の才覚を悟っていた。織田家の当主となるべきは信長であると、信行は確信していた。

 しかし、父の葬儀の場で信長が起こした不始末が、信行を擁立しようとしていた者たちに火をつけた。

 信長の家督相続を認めず、信行を次期当主に立てるため、母を巻き込んで彼等は決起した。

 彼等は信行を主人と仰ぎながら、信行の話に耳を傾けようともしなかった。

 柴田勝家などは数少ない例外ではあったが、彼女は信行をどうこうするのではなく、信長を倒すという一点だけを見ていた。

 いずれにしても、このままでは織田家はダメになる。他国ではなく、身内に滅ぼされてしまう。仮に信行が信長に勝てたとしても、傀儡にされるのが目に見えていた。

 反信長の激動を信行は止められなかった。だから、身を任せた。信長に、織田家の膿を自分ごと取り除いてもらうために、彼等の話に乗ることにしたのだ。

 結果は、考え得る限り最良のものとなった。

 信行は負けた。織田家の中でも、突出した強さを持つ勝家ですら、信長に敗れた。そして、信長は降服した者たち全員を――――信行も含めて許した。

 以降、信長をうつけと侮る者は、織田家中にはいなくなった。

 信行は、謀反人の汚名を一身に引き受けたまま、蟄居生活を命じられ、今に至る。

 そのため、信行は岐阜に向かう途上で寸鉄も帯びなかった。

 もしも、信長が信行を手打ちにするというのなら、一切の抵抗もなく斬り捨てられるつもりだったのだ。

 それが、信行なりの誠意だった。

 歯向かった自分を許した信長の優しさに報いるため、そして、最期は信長の従順な妹でありたいという願いからの行動だった。

「こ、これが岐阜……」

 そんな悲壮な覚悟を抱いてやって来た信行は、岐阜の繁栄具合に絶句していた。

 人々がこんなにも集まっている街を信行は知らない。

 どこもかしこも人で溢れていた。

 商人たちの客引きの声が、あちらこちらから聞こえてくる。

「すごい、話には聞いてたけど……まるでお祭みたい!」

 ちょうど、市が開かれる日に当たったらしいが、出店している店の数も信行の知る市とは比較にならない。

 尾張国ならば津島あたりならば張り合えるだろうか。内陸部の岐阜で、良港を抱える津島に匹敵する市が開かれているというのが、信じ難い光景ではあった。

 やはり、信長が織田家の当主になったのは正しかったのだ。

 信行ではこうはいかなかっただろう。それどころか、今頃は今川家に飲み込まれて、織田家そのものが消えていただろう。

 信長が当主となってから、彼女の行動を信行はずっと追いかけていた。今川家を撃退し、斎藤家を滅ぼし、六角家を粉砕し、三国の主となった。さらに、軍事面のみならず、内政面でも突出している。織田家が抱える人材の中で、これほどの結果を出せる者が他にいるだろうか。

 間違いなく、織田家は信長の才覚一つで成り上がった。

 信長が当主でなければ、織田家は滅んでいた。

 信長が築き上げた岐阜を、この目で見ることができたというだけで、信行は満足だった。

「来たな、信行。遅かったな」

「申し訳ありません、姉様……」

 岐阜城に到着するや否や、信行は城の軍議の間まで連れて行かれた。

 周囲に居並ぶのは、信長をここまで支えてきた重臣たちである。さすがに全員ではないが、名だたる武将が雁首をそろえていた。

 中には、信行の謀反に加担した柴田勝家もいる。

 信行が謀反を起こしてから数年が経過している。ずっと屋敷から出られなかった信行にとっては、多くが初対面なので、誰が誰だか分からないという面々が多い。

「さて、改めて……初めての者も多いだろうから紹介しておく。我が妹の信行だ。以前、わたしと家督を争った後、蟄居させていたのは皆の知るところだが、今日限りでその蟄居を解くことにした」

「え?」

 信行は予想外のことを言われて、頭が真っ白になった。目をまん丸に見開いて、信長を見る。

 重臣たちもざわついている。

「疑問があれば、すぐに発言せよ」

 信長はじろりと周囲を見渡す。

 それだけで、多くの者が萎縮する。

 信長が決めたことに疑問を差し挟む余地はないのだ。命を受けた者は、それに粛々と従うのが織田家の家風である。

 加えて、蟄居を解くのも不可解とまではいえない。

 勝家がそうであるように、信行と共に謀反を企てた者たちは、信長に許されて、新たな働き口を与えられている。

 信行に利用価値があると認めれば、信長は躊躇なくこれを用いるだろう。

 これは、単純にただそれだけの判断なのだ。

「さて、皆の働きにより、南近江の『老害』を追いやることができたわけだが、それで足を止めるわけにもいかん。皆も承知しての通り、次なる戦がすでに差し迫っている」

 織田家の拡大を恐れる勢力との争いが待っているのは想像に難くない。

 加えて、より大きな発展を望むのならば、こちらからも戦を仕掛けていく必要がある。

 織田家は戦で領土を勝ち取り、人を集めて成り上がってきた。その流れを断ち切るわけにはいかない。常に次の獲物を求めていた。

「六角を下した我等が、次に相手をするべきは誰か……信行、誰だと思う?」

 信長は信行をじっと見つめる。

 試されていると直感した信行は、急に眩暈を覚えた。極度の緊張で、発汗機能に異常を来たしたようであった。唾を飲んでいるのに、喉がからからになる。途方もない圧迫感であった。

 信行は酸欠になりそうになりながら、必死に頭を働かせた。

 不思議なことに、緊張状態を極限まで高まると、人の視線まで感じられるようになる。武勇の人ではない信行は、普段はそういった視線には疎いのだが、今は自分に突き刺さる視線の数をしっかりと数えられそうな気すらした。

 信長だけでなく、織田家の重臣一同が信行の回答を待っている。

 それは、ある意味で拷問のような時間だった。

「姉様の次の相手は……」

 くらくらとする。

 謀反に負けて、信長の前に頭を垂れたときですら、こんな気分にはならなかった。

「次の相手は……」

 落ち着けと自分に言い聞かせる。

 何も漫然と蟄居生活を送っていたわけではない。

 近臣に頼み、信長の近況をそれとなく聞かせてもらっていた。

 情報が皆無というわけではないのだ。今ある情報から、信長が最も目を付けそうな相手を選び出す。

「次の相手は……い、伊勢」

 搾り出すように、信行は答える。

「伊勢の北畠、だと思います」

「ほう……」

 ごくり、と生唾を飲む信行。信長の次の発言が気になって仕方がない。

「甲斐の武田でもなく、京を治める三好でもない、その理由を説明してみろ」

「は、はい……ッ!」

 信行は、大きく深呼吸をする。落ち着けと自分に何度も言い聞かせた。

「……武田は、今川家が弱体化した隙を突いて、今川領へ侵攻した結果、北条家を敵に回しました。越後の上杉とも関係がこじれていますので、武田から姉様に戦を仕掛ける余裕はない、と思いますし、こちらから手を出す必要もないと思います。いざとなれば、北条、上杉との連携も模索できる相手ですので……。三好は、将軍殿下と帝を手中に収めているので、戦うのなら、政治的な下準備が必要な相手です。それに、京を維持するには体力が必要です。将軍様の扱いなど、戦以外にも問題があり、手を出すのは時期尚早です。伊勢は尾張と国境を接しており、一向一揆も活発です。いつ背後を突いてくるか分からない相手ですので、今のうちに倒しておくべきだと考えます」

 以前から、伊勢国の国人衆や一向一揆、そして北畠具教は信長に敵対的であった。尾張国と伊勢国が近いということもあり、領土を争うことも度々だ。

 今川義元の侵攻時にも、信長の背後を脅かそうと一向一揆衆が蠢いていたという。

 その一方で、伊勢国は織田家から見れば孤立状態にある。

 隣接する大和国は三好家、南近江国は織田家の手にある。紀伊国に根を張る根来衆などは、どこまで味方になるか分からない手合いであり、織田家と明確に敵対していない。伊勢国を織田家が落とせば、信長は背後の心配が一気に減る。東から武田家が迫ってきても、兵力を投入しやすくなる。

 そう考えると、武田家が北条家と上杉家を相手にしている今が、伊勢国攻略の好機であった。

 それだけの意見を、信行は一気に吐き出した。

 こんなに自分の意見を人に語ったことはない。

 信長の反応を窺う信行。

 信長と視線が交錯する。数拍置いてから、信長が相好を崩した。

「確かに、信行の言うとおりだ。わたしも、次は北畠めが相手だと睨んでいた」

 と、信長は言った。

 それは同時に、信長自らが伊勢国へ侵攻するつもりだと宣言したのと同じであった。

「そして、信行は知らなかったのだろうが、伊勢にはどうも義龍が逃げ込んでいるようだ。いずれにしても早急に退治しなければならん。北畠がこれを援助する動きもあるからな」

「そ、そうなんですか?」

「ああ」

 信長は頷いた。

 そうすると、北畠具教は、斎藤義龍を旗頭に据えて信長に戦を仕掛けるつもりだろう。尾張国から美濃国まで攻め取ろうとでも言うのだろうか。

「所詮は伊勢一国も維持できない公家崩れだ。当人は剣術にかぶれているようだが、剣が鉄砲に勝るものか。何から何までかび臭い、井の中の蛙に現実を教えてやらねばならん。せっかく信行を娶わせてやろうとしたというのにな」

「は?」

 信行は頭の上に「?」を浮かべた。

 理解できない言葉が信長の発言に含まれていたからだ。

「あの、娶わせるとはいったい?」

「北畠の跡取りとお前の縁談だ。まあ、足蹴にされたがな」

「き、聞いていませんが……ッ」

「言ってないからな」

 信長は何の悪気もなく言い切った。

「北畠がお前を娶った後、当主の座を禅譲してくれれば楽だったのだがな。そうすれば、伊勢一国まるまる手に入る。ただ、そういう条件をつけたら拒否してきたから、この話はもう過去のものだ」

「は、はあ……?」

 信長が何を考えているのか、まったく分からなかった。

 信行を娶った北畠の次期当主が、北畠家の当主の座を信行に譲る。そんな条件で婚姻するような大名が、この世にいるだろうか。

 初めから、縁談を破綻させるために条件をつけているとしか思えなかった。

 相手からすれば馬鹿にしているも同然だ。

 北畠家は、土佐一条家と同じ武士化した国司の家柄だ。当主の具教は朝廷から中納言に叙任されるほどの高官で、さらに一流の剣術家でもある。武将としての能力も高いと聞く。そんな北畠家の中には、低位の織田家を軽んじ、勢力拡大を妬む声が大きいという。そんな状況下で、不利な婚姻政策に同意するはずがない。

「まあ、仕方がない。わたしも、北畠とは仲良くしたかったが、こうもこじれては戦で解決するより他にない――――ということだ。あ奴等は公家どもと親しいというが、その公家どもは三好とわたしの御機嫌伺いで忙しい。然したる障害にはならない」

「では、本当に北畠と雌雄を決するんですか?」

「ああ、そうだ。そして、北畠討伐の後、お前が北畠の名跡を継ぎ、伊勢を纏めよ」

「わ、わたしが北畠を?」

「そうだ。そのためにお前を呼び出した」

 今日は本当に予想外のことがよく起きる。

 あまりのことに、今度こそ失神してしまいそうだった。

「どうした信行。返事が聞こえないが?」

「あ、ぁ、ん……し、承知しました。姉様のお力になれるよう、全力を尽くします」

 信行は深々と頭を下げる。

 非現実的なほどの大役を仰せつかったと、困惑と同時に嬉しさで泣きそうだった。

 信長の期待を裏切るわけにはいかない。これは、信長が信行を信頼してくれているからこその大役なのだから。

 信行は感激に瞳を潤ませながら、与えられた使命を胸に刻み込んだのだった。

 




カッツは生きてました。戦極姫なので。

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