大内家の野望   作:一ノ一

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その九十三

 宗運が福崎を見て回った日の夜は、宴が催されて多いに盛り上がった。

 近くの山で獲れたという山菜と猪肉、鹿肉、また珍しいことに鯨肉も用意されていた。豆腐とワカメの味噌汁と白米、鮎の塩焼きは、普段からよく見る食べ物だ。庶民でも手に入る食材を使ったのは、気がねなく逗留できるようにという義陽の配慮であろう。

 供される料理に舌鼓を打ち、酒を口に運ぶ。相良家と甲斐家は共に手を携えて島津家という脅威に立ち向かった戦友である。家の垣根を越えた「連帯感」を共有する珍しい家臣団である。

 共に島津家によって駆逐されたものの、大内家の庇護を受けて、同じ屋根の下に集えたというのは幸運なことであった。

 甲斐親房もまた、相良家の残党軍と共に島津家と戦った。相良家は相良家で、甲斐家の奮闘によって貴重な人材を失わずに済んだので、両者共に相手を尊敬しているのである。 

 まるで同族であるかのように、各々が語らい酒を飲んでいる。

「では、ここで某が一指し舞って進ぜよう」

 と、徐に扇を取り出した相良家の武者が、おどけた様子で幸若舞を舞い始める。それを皆が面白がって囃し立てた。

 義陽は困ったような苦笑いだ。しかし、楽しんでいないというわけでもなく、止めることはなかった。

 武士は普段は基本的に質素な生活をしている。大名であっても、豪奢な食事を日常的に獲ることは、皆無ではないにしても一般的とは言えない。まして、旧知の客人を迎えて、何人も一箇所に集まり、酒を飲んで騒げる機会は珍しいと言えた。

 それで、皆気分をよくしたのだ。ほどほどに酒が入って、全員顔が紅い。この場に酒に飲まれて粗相をするような下戸はおらず、宴は最後まで大いに盛り上がった。

 次の日、空は黒々とした雲に覆われた。

 朝日は差さず、異様に冷たい風が屋内に吹き込んでくる。

「ちょっと、天気が悪くなりそうね」

「うん」

 宗運は心配そうに空を見上げる。

 雲はその厚みを徐々に増しているようだ。昨夜から強くなってきた風は、遠くから甲高い音を発して吹きつけてくるようになって、薄い戸板を激しく叩いた。

「宗運、戸を閉めるわ。この分だと、すぐに雨になるから」

「分かった」

 びゅおう、と突風が吹く。緑豊かな庭木ががさがさと揺れ、池の水面にポツポツと波紋が広がる。本格的に雨が降ってきたのだ。

 ゴロゴロと雷が鳴り、あっという間に猛烈な雷雨となった。

「……この感じ、野分か」

「そうかも。まあ、しばらくは外に出られないわね」

 ものすごい音を立てて、戸板が震える。

 家が吹き飛ばされるのではないかと思えるくらいに激しい風である。

 野分――――即ち台風である。強い風と雨による自然災害で、毎年やってくる大変迷惑な恒例行事だ。火山や地震のように突然、大災害となるものとは違い、やってくる時期が決まっている分だけマシではあるが、それでも河川の氾濫や家屋の倒壊など被害数え上げればキリがない。風に弱い品種の稲は、一度の野分で根こそぎなぎ倒されることもありえるので、飢饉の原因の一つになることも珍しくない。

 せめて事前に野分が来ることが分かれば、何かしらの対策を取れるのかもしれないが、強烈な風と雨の接近を予知することなど不可能だ。精々が雲の動きから、雷雨を予想するという程度でそれも、屋内に避難するくらいにしか使えない。災害は基本的に不意打ちでやってくる。この時代では野分ですら、その例に漏れない。

「もうちょっと、ここにいなくちゃいけなくなったわね」

 と、義陽は楽しそうに話しかけてくる。

「うん、ごめんね」

「なんで謝るのよ」

「いや、正直、そこまで長逗留する気はなかったし、迷惑じゃない?」

「まさか、そんなことないわ。むしろ、嬉しいの。ほら、わたしたちって何だかんだでこうしてお泊り会することってなかったでしょう」

「そう? 何度かあったと思うけど……」

「そのときはいつも、島津をどうするとか大内家とどう付き合っていくかとか、そういう話ばかりだったじゃないの」

「それは、確かにそうだね」

 もともと大名とも言うべき勢力を築いていた義陽と古から続く阿蘇家の重臣であった宗運は、互いの立場もあって「友人」として互いの家を行き来するようなことはできなかった。

 そもそも、距離がありすぎたし、顔を合わせて話をするとしても、政治と軍事の話ばかりである。これが同じ家に仕える、同じ立場の友人であれば別だっただろうが、状況はそれを許さなかった。

 気心の知れた、一番の友人にはなれても、友人付き合いはなかなかできなかったのである。

「ともかく、お茶にしましょう。野分となると、しばらくは何もできないわけだしね」

 外の様子が気にならないわけではないが、かといって何ができるというわけでもない。害獣駆除や野党退治ならばまだしも、自然現象には太刀打ちできない。

「それにしても不味いことになったなあ」

 と、宗運は義陽の囲碁の相手をしながら、呟く。

 屋外はかなりの荒れ具合のようで、風雨で屋敷が悲鳴を挙げている。

「帰りが心配?」

「そうね。だって、かなりの雨風だから、途中で橋が壊れてたりしたら、時間がかかっちゃう」

「風があると、海を越えられないしね」

「それもあるのよね」

 野分が過ぎ去った後、帰路を倒木が塞げば馬が通れない。川が氾濫し、橋が落ちていれば当然ながら足止めを食う。まして、途中には関門海峡という難関が控えている。風と波が収まらなければ、山口への帰還は絶望的なものとなる。

「……じゃあ、これで」

「う……ぅむ」

 宗運の一手で戦局は決した。義陽は唇を尖らせて、険しい表情を浮かべて思案する。どうあがいても現状をひっくり返すことは不可能だ。

「参りました」

 義陽はぐうの音もでないとばかりにがっくりと項垂れた。

「これで、二戦二勝だね」

「こういうのだと、宗運には勝てないわ」

 官兵衛だといけるだろうかと思ったが、呼ぼうとは思わなかった。今のところ、官兵衛と宗運を引き合わせるつもりはない。官兵衛も宗運に必要以上の興味は抱いていないようではあって、今も新設の書庫の整理に当たっている。

 外国から輸入される貴重な書物を収蔵している。目ぼしいものは、ここで筆写して山口に原本を送る。晴持が重視しているのは、特に農業や飢饉対策に使えそうな書物だが、そういった代物はあまり入ってこない。多くは仏教の経典であったり、儒学や易学の書物であった。それも貴重であることには変わりなく、義隆は喜んでくれているようだった。

 とはいえ、大内家の現当主と次期当主とで、こうも趣味嗜好が異なると贈り物をする側としては困ることもある。

 大抵は事前に何を送ったら喜ぶか調べてから贈り物を用意するのが常ではあるが、やはり世代交代で趣味嗜好が変われば、それは関係者にとっては困ったこととなるだろう。

 例えば、猿楽を愛好し、保護してきた当主から刀剣を愛好する当主に交代した際に、保護されてきた猿楽が突然梯子を外されることもありえなくはない。

 贈り物も相手に合わせる以上、それまで用意してきた物は通用しなくなる。

 義隆は伝統芸能や経典、歌道の教本などを好む。晴持は、どちらかといえば実学を重んじているようだ。芸能もそれなりにこなしているが、それはあくまでも仕事の範疇に留めているようであった。

「そういえば、宗運。晴持様は、何か趣味をお持ちなの? あまり、そういった話は聞かないのだけど」

「……最近は鷹狩りの話をよく聞くけど」

「鷹狩り、そうなのね。ふぅん」

「何?」

「ふふ、何でも」

「えー、ちょっと何? 何なの?」

「鷹狩りがご趣味なら、それに合わせて贈り物を用意しなくちゃって思っただけ。何せ、これからご当主になられる方なんだからね」

 羽の綺麗な鷹でも見繕ってみようかと、義陽は思う。

 この日は、とても静かに時間が流れていった。

 雷が上空で鳴り響き、風雨が戸板を震わせてはいたが、それは自然の物音だ。声を挙げる者もなければ、何か騒ぎが起こることもない。

 義陽も宗運も、この日のうちに片付けなければならないものがあるわけでもなく、将棋や囲碁で時間を潰していた。

 一日が過ぎるのが、こうもゆったりしているのはいつ以来だろうか。不意に宗運は山口の様子が気になった。野分の被害は大丈夫だろうか。自分が残してきた仕事は、いまどこまで進んでいるのだろうか。そういったことが気になってしまう。

「あ、王手」

「え? あッ!」

 宗運が将棋盤を確かめると、確かに詰んでいた。どこにも王の逃げ場がない。

「今回はわたしの勝ちね」

「そうだね」

「宗運が油断するからよ」

「油断なんてしてないよ」

「そんなことないわ。だって、別のことを考えていたでしょう。分かるわよ、それくらい」

「それは……」

 図星を突かれて宗運は口篭った。

「さしずめ、山口でのお仕事が気になったんでしょう。最近のあなたは、どうも働きすぎているようだから」

「どうして……」

 と、宗運が尋ねかけたところで、はたと気が付いた。

 宗運の現状を知るには山口から報せがなければならない。晴持が宗運に持たせた手紙は、それだったのではないか。

「……もしかして、最初から?」

「だって、あなた強情なんですもの。そこが宗運のいいところといえば、そうなんだけど。悩んでることがあるんでしょ?」

「それは……ぅ」

 いつになく真剣な眼差しの義陽に見据えられて、宗運は言葉に詰まった。

 政治が絡めば別だが、日常会話で義陽には勝てない。彼女の押しの強さや、本質を突く能力は宗運の虚勢を詳らかにするだろう。

「まあ、書状がなくても、何となく分かったけどね。あなた、酷い顔してたわ。それに今もね」

「そんなことないよ」

「本人は気付かないものなんだけどね、目の下、隈ができてる。きちんと寝ていないんでしょ。そんな顔、阿蘇家に仕えていたときにはしてなかったわ」

「……そんなことは」

 宗運は酷く喉が渇いたような気がした。

 阿蘇家に仕えていたころの自分の顔と今の自分の顔がどう違うのか分からない。

「わたしは、別に何も変わってないよ」

「そうね。でも、環境は変わったでしょ? 立場もそう。阿蘇家の筆頭家老から、晴持様の祐筆」

「でも、それは悪いことじゃない。わたしは、もう阿蘇家の人間じゃない。晴持様に拾ってもらったんだから、わたしはもう大内家の人間よ。晴持様には、返しきれない恩があるわ。だから、しっかりそれを……義陽?」

 義陽はこれ見よがしにため息をついた。

「宗運、あのね。そうやって、自分を追い込んでるから、晴持様が心配なさるのよ」

「晴持様が、心配?」

「何がそんなに怖いの?」

「何がって」

「今のあなたは、何かに怯えているみたい。らしくないわ」

「……ッ」

 言葉が出ない。

 諭すような義陽の声が、酷く胸に突き刺さる。

 それは、自覚があるからだ。

 義陽の言うとおり、宗運は恐怖している。そこから逃れるために、我が身を削って働いている。何かしていないと気持ちが落ち着かないのだ。

「……らしくないって何? 義陽にわたしの何が分かるの」

 ギリギリと胸を締め付けるような痛みが走った。口走ってしまったときにはもう手遅れだった。気付いたが止められない。

「分からないわよ。何も言ってくれないんだから。でも、想像はできる。……そうね、あなたが怖がっているのは、晴持様に見限られること。それこそ、阿蘇家にいたときみたいに」

「ぁ……く」

「そうでしょう」

 義陽は断言した。宗運の急所を抉るような言葉で、宗運の虚勢を崩した。あまりにも無慈悲に突き付けられた事実に宗運はたじろぐ。

「何で、そう思うの?」

「晴持様のために頑張るって、さっきからそればかりなんだもの。晴持様から評価されたいって気持ちが溢れてて、ちょっと眩しいくらいよ」

「べ、別にそんな」

「それが行き過ぎて、こんなことになっているのだから、宗運の体調不良は完全に自滅よ」

「手厳しい……」

「宗運は晴持様が信用ならないの?」

「そんなことない! 変な事を言わないで!」

「そうよね。あの方が、まさか阿蘇家の面々のようにあなたを放逐するなんて考えられないわ。あなたは信頼されているし、それに見合う力を示してる」

「でも……」

 宗運の目が泳ぐ。

 不意に胸中に去来した不安は、宗運の気持ちを暗澹たるものにする。

「もし、もしも、また、あのときみたいなことになったらと思うと、苦しくなる」

「……わたしも、あなたの気持ちは分かるわ」

「義陽?」

「わたしだって、所領を奪われ、着の身着のまま逃げ出したんですもの。そんなわたしを拾ってくれたのは宗運なのよ。宗運はわたしが使えるから助けてくれたの? それとも、友達だから?」

「……政治的な判断ではあったけど、でも、個人的にも友達だから助けたかったよ」

「そこは、友達だから何としてでもって答えてほしかったな」

「ごめん」

 宗運の搾り出した答えに、義陽は苦笑する。

「いいのよ。あなたってそういう人だし」

 宗運はどこまでも律儀で真面目で自分にはとにかく厳しい。あの当時、義陽を助けることが阿蘇家にとって不利になるのなら、あるいは助けなかったかもしれない。自分の内心では、どれだけ救いたいと思っても、忠義が最優先だからだ。

 そんな宗運だからこそ、阿蘇家から見放されたことで受けた心の傷は浅くない。

「わたしは相良家の当主としての責務を果たせなかった。先祖代々守ってきた土地を他国の者に奪われ、家臣たちを離散させてしまった。それが、悔しい。もっと力があればって思うし、上手くできたんじゃないかって何度も考えた――――あなたはどうなの?」

「……わたしも、そうだよ。もっと、何かできたはずだったと思う。それに……義陽の言うとおり、これからも晴持様の期待に応え続けられるか、不安はあるの。もし、ダメだったらわたしは……」

 宗運は膝を抱えた。

 苦しい胸の内を明かせば、さらに苦しくなる。もともと他人に弱みを見せない宗運は、他者に愚痴を言うことにすら抵抗感がある。まして、自分が将来のことに恐怖しているなど口が裂けても言えることではなかった。

「晴持様は、あの阿蘇の当主とは違うわ」

「もちろん、分かってる」

「晴持様があなたを見限るなんて、ありえないわ」

「どうして、そう言い切れるの? 義陽は、晴持様のお傍にいるわけじゃないでしょ? なのに、どうして?」

 宗運は常に晴持と行動を共にしている。側近中の側近である。光秀と両輪となり、祐筆として政務に励んでいる。晴持とは日常的に会話を交わせる位置にあるのだ。しかし、義陽は違う。彼女は書状のやり取りはあるにしても、遠方にいて、晴持と直接顔を合わせたのも、先の南郷谷の戦いの戦後処理をしていた時が最後となる。

「むしろ、あなたはどうしてそんなに不安になっているのかしらね。こんなに晴持様にご心配をおかけして」

「晴持様にご心配をおかけしているというのは、分かってるよ。本当に申し訳なく思ってるよ」

「本当に分かってる? 書状を届ける役目をどうしてあなたに与えたのか、その辺理解してる?」

「どういうこと?」

「晴持様から頂いた書状はね、あなたが最近疲れているようだから、こっちで息抜きさせて欲しいっていう内容だったのよ。お仕事の話じゃないの。お仕事っていうのは、あなたを休ませるための方便よ」

「え、ええッ いや、どうして、そんな」

「だから、心配してるからだって言ってるの。それだけ、晴持様はあなたを心配してるし評価もしている。関心を持たない人にここまでする? あなたは晴持様に大事にされてる。これからも、それはきっと変わらないわ。だから、断言できるのよ」

「そ、そう……」

 晴持に心配してくれていたのは、理解している。しかし、それはそれとして仕事をしなければという思いに駆られていた。その宗運の姿勢に、業を煮やした晴持が書状を運ぶという名目で無理矢理、山口から宗運を遠ざけて、旧知の義陽の下で養生させようとしたというのが、今回の顛末だ。山口にいては、いつまでも宗運は休めないだろうという晴持の配慮である。

 粉骨砕身働き忠義を示すというのも、美学ではある。しかし、美学で身体を損なっては元も子もない。そういう働き方は、足軽以下立身出世を夢見る者が戦働きですることであって、宗運に求められる働きではないのだ。

「自分自身を見誤ってはダメよ。あなただって、何れは人を使う立場に戻るんでしょ? 甲斐家の惣領として、ね」

「うん……」

 宗運は途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 晴持と義陽の間で交わされたやり取りはすべて、宗運を思ってのものだったのだ。

 義陽の言うとおり、ここまでしてくれる主人はそうはいない。

 宗運も領主であったから、家臣の大切さやその心情を鑑みることの大切さは身に染みて分かっている。

「ここまでしていただいて、さらに評価が欲しいなんて、それこそ強欲というものだわ」

「わたしは、強欲か」

「そうよ」

「そうか」

 自分に置き換えて見ても、晴持が宗運にした配慮は家臣に向けるものとしては最大の配慮であろう。宗運を休ませるためだけに、一芝居打ったのだ。ここまで家臣に心を砕くというのは、珍しいを通り越して珍妙ですらある。

「もしも、宗運がこれ以上を求めるというのなら、それこそ明智さんを見習わないと」

「明智殿を? それって、どういうこと?」

「そりゃあ、晴持様に閨でご奉仕するってことよ」

「ちょ、ちょっと、それは、さすがに」

 宗運は急に話の方向性が変わって困惑する。

「おかしな話ではないでしょう。閨は政治闘争の場でもあるんだから。晴持様のような権威ある方のお相手を勤めるからには、一族の未来を背負うことになるわけだし」

「……確かに、それはそうだけど」

 為政者のお相手とその一族がそれだけ強い発言力を得ることができるのは昔から変わらない。

 自分の子が後継者となれば、その力は他者を圧倒するだろう。そうして無位無官から成り上がった者の例は、道鏡を挙げるまでもなく古今東西枚挙に暇がない。

 後宮が戦場とは別の形でドロドロとした政治闘争の場になるというのは、決して珍しいことではないのだ。

 そして、晴持もまた胤を狙われる立場にはある。

 未だに正室を定めていないということもあって、彼の隣を狙う者は少なくない。

「まあ、それはそれとして、あなたは晴持様の心配りをありがたく受け取って、きっちり休んで山口に帰ること。帰った後も、晴持様にご心配おかけしないようにする。約束できないのなら、外に出さないからね」

「わ、分かったよ。約束する。晴持様にも義陽にも、もう迷惑かけないから」

 気圧されるままに宗運は義陽に誓った。

 先々の不安がないわけではないが、胸のつかえは取れたような気がした。 

 心の内に秘めた感情を吐き出したからであろうか。親友であり、苦楽を共にした義陽が相手だからこそ、話すことができた。何も聞かず、義陽にこの件を投げてくれた晴持には頭が上がらないし、自分の仕事もあるだろうに宗運に付き合ってくれた義陽には感謝してもしきれない。

 後で晴持にもきちんとお礼をしよう。心配と迷惑をたくさんかけたのだから、今度は晴持が安心して自分を使ってもらえるようになりたいと、強く思った。

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 福崎を巻き込んだ野分は、ほぼ時を同じくして山口にも暴風雨をもたらしていた。

 黒々とした雲がにわかに湧き立ち、空気が冷え、瞬く間に雷雨となる。降り注ぐ雨は川の水かさを増し、人々を不安に陥れた。

 一度洪水となれば、復旧には相当の時間がかかる。農地がやられれば収穫も期待できなくなり、飢饉の原因となる。今後の生活がかかっているだけに、野分は一年を通して最も警戒しなければならない災害と言えるだろう。

 激しい風雨が屋敷を叩く。ビリビリと身体にまで響いてきそうな轟音を立てて雷が鳴る。

「どこかに雷でも落ちましたか」

 声を発したのは女性だ。

 明るい髪を腰まで伸ばした嫣然とした姫である。貴族然とした佇まいは、蝋燭の火に照らされた薄暗い室内で妖しい気品を醸し出していた。

「外はとても出歩けぬほど荒れているようです。何でも、目の前が真っ白になるほどの豪雨だとか」

「まあ、それは恐ろしい」

 薄らと笑みを浮かべる姫――――大宮姫。その傍らにいるのは大宮姫の夫である吉見正頼である。

「先ほど、小耳に挟んだのですが」

「はい」

「妹が、晴持様に小林を下賜したそうですね」

 と、大宮姫は正頼に言った。

「小林は大内累代の家宝。それを下賜するということがどういうことか……」

「御屋形様は、いよいよ若様に跡を継がせるおつもりでしょう」

「その通りです。ああ、ついに、その時が差し迫っているのです、旦那様」

 妹の義隆が父から受け継いだ大内家当主の座を晴持に明け渡そうとしている。自身は隠居して、自由気侭な趣味の世界に生きるか、それとも裏で引き続き権力を握り続けるかは分からないが、ともかく晴持が当主になるという路線が確定しつつある。

「妹が父の跡を継いだのは、弟が流行病で逝去したからです。その時に偶々、うちに残っていたのが義隆だったから、これを継いだのです」

 ドロドロとしたどす黒い感情は、まるで蛇が這い回っているかのように正頼に絡みつく。

 大宮姫は、義隆が当主となったことに納得していないのだ。大内家の版図を最大に広げ、最盛期を築き上げた名君と外の者たちは口々に話をしている。それを聞くたびに、何とも言えない暗い思いが牙となった胸を抉る。

 父は、男系を欲していた。

 生まれた姫は、幼少期から政略結婚のための道具として様々な技術を叩き込まれて、それぞれの嫁ぎ先に下っていった。

 阿波足利家、阿波細川家、大友家、石見吉見家、そして、土佐一条家。そうそうたる顔ぶれだ。そして、最後に家に残ったのが偶々義隆だった。跡継ぎの弟が死んで、晴持と結ばれるはずだった義隆がそのまま玉突き事故のような形で当主に担ぎ上げられただけのことだ。

 本当に偶然、運命のいたずらで義隆は当主となった。

 姉である大宮姫は、それ以来鬱屈とした思いを抱えていた。

 女でも当主になれるのならば、自分にだって可能性はあった。先に嫁いで家を出たために、吉見家の奥という立場に甘んじることになっただけだ。

「期待しておりますよ、旦那様」

 服を肌蹴て、正頼に枝垂れかかる大宮姫は、彼の耳元で囁く。

 美しい顔を淫蕩に歪ませて、毒蛇のように男の首に歯を立てる。

「姫が獣のようですね」

「ふふ、獣はそちらも同じこと。わたくしは、あなたの獣に期待しているのですよ」

 ――――夫からわたくしを奪ったときのように。

 と、言葉を添える。

 それは、正頼の心胆を凍えさせるものではあったが、今となっては過去の話だ。

 大宮姫が嫁いだのは、正頼の兄、隆頼だ。隆頼は、名の知れた文化人で義興からの信頼も厚かったが、山口に滞在中に山賊に殺害された。その後、僧籍に入っていた正頼が還俗し、大宮姫と吉見家を引き継いだのだ。

 証拠は何も残っていない。

 だが、夫婦となって床を同じくしているうちに、大宮姫は事件の裏に正頼の手引きがあったものだと確信した。僧籍にあった者とは思えない獣性をその瞳に見たのだ。

 大宮姫は、それをおぞましいとは露ほども思わなかった。

 武将ではなく姫として育てられた大宮姫には、力ある者に逆らっては生きられないということが分かっていたし、兄を弑してまで自分を奪った正頼の行動は、彼女の暗い自尊心を満足させるものでもあった。

 そして、大宮姫は男子を授かった。

 幼名は亀王丸。吉見家の将来を担う男子だ。大内家当主の幼名、亀童丸に似せて、童に替えて王の字をつけた。

 義隆の姉の子という立ち位置で言うのなら、亀王丸は晴持と同じだ。

 晴持の対抗馬となり得る男子だ。

 そう思うと、抑え切れない感情が噴き出してくる。

 吉見家に嫁いだからと堪えてきた深い思いは、正頼の強い獣性に惹かれて表に出てしまう。

 いずれにしても時間の問題なのだ。戦国の世にあって、対抗馬は早々に粛清される危険性を帯びている。時代の荒波に飲まれて消えるくらいなら、一思いに行動してしまったほうがいい。

 


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