3
ナカヤマフェスタは、小さな花屋で働いている。
彼女はレースを引退した。
あれはおよそ一年半前の、ロマン溢れる異国。秋の出来事だった。
『爽やかなパリの青空の下、間も無く十九人のウマ娘のゲートインが————』
『ナカヤマフェスタ先頭に替わるか! ナカヤマフェスタ先頭に替わった!』
『英国ダービーウマ娘、ステイフォースが内から伸びてくる! さらにデザイントゥルー、大外からナラフィナ、しかし先頭は依然としてナカヤマフェスタ!』
『さあ、残り二百メートル、これは勝てるか!』
『残り百メートル! クビ差、クビ差でナカヤマフェスタか!』
『ナカヤマフェスタ! ナカヤマフェスタ!』
『史上初、そして悲願、日本のウマ娘が凱旋門賞を制しました!』
『ナカヤマフェスタ! ナカヤマフェスタが今、高らかに嗤っています!』
私だって夢を見ていただけじゃない。現実、記録、歴史、そして過去。でも、ピンクゴールドのMacBook Airは、お前に似合っていないぞとよく言われるんだ。
五月、土曜日の午前七時半。昨晩の天気予報が語るところによると、前提としてアルコールに漬けられた記憶が確かであるならば、本日午前の降水確率は九十パーセント。万年床の煎餅布団からおそるおそる腕を伸ばし、未だ歓声が鳴り止まないMacBook Airを閉じる。一瞬の無音が六畳一間を包み込み、聞こえてくるのは遠慮がちに窓ガラスを叩く音。ウマ耳がピクリ、ピクリと可愛らしく反応する。寝起きの身体を猫のように丸めて、猫のように伸ばして、
「……ん」
千九百九十円で購入したカーテン越しに、初めて、今日の世界を透かし見る。
「雨。チッ、またかよ」
乾いた唇が吐き捨てたのは、ひとりぼっちの賭け事の結末。
十センチほどの、布切れ同士の隙間。汚れた窓ガラスを睨みつける彼女は、負けた。
パラパラ、パラパラ。
雨粒が窓を叩く。雨の雫が窓を伝う。
雨の行方を眺める赤みの強いすみれ色の瞳には、早朝(午前七時半を〝早朝〟と見做すかどうかは、さておき)特有の気怠さが宿っていた。宿り過ぎていた。重苦しい霞のようなものが立ち込めて、あの、かつての狂気さえ孕んだ眩い煌めきは姿を消し、どこか白く濁っていた。過去に想いを馳せ、感傷に浸っているのではない。濁り過ぎてしまっている、それだけ。
やがて布団の擦れる音がかすかな雨音を掻き消して、部屋の
ピンクゴールドのMacBook Airは沈黙している。
ピンクゴールドのMacBook Airは栄光を映していない。
とうに忘れてしまった心臓の鼓動と、恐怖、熱狂。静かな朝に取り残されているのは、雨音と雨の雫。そして彼女が舞上げて消えた、古い畳の香りだけだった。
逃げ込んだ先は、夜。布団一枚で外界から隔絶した空間に、湿った空気が滞留している。息が詰まって息苦しいが、呼吸することを許されたい。夜の続きを望んだ彼女の指は、矛盾に矛盾を重ねた末にスマートフォンのガラスを叩き、朝日にも似た光を自ら灯す。
パッ、と。矛盾が灯った。
不自然なまでに、明るく照らし出される空間。でも、そこはどこまでも夜だったから、スマートフォンに搭載された顔認証は機能しなかった。失敗、失敗。いつものことだった。毎朝のことだった。こんな真夜中に、顔の作りで個人を特定しようと試みること自体、最初から間違っているのだ。と、たったの二回で仕事を放棄した顔認証機能が九つの数字を表示するや否や、四桁の数字を迷いなくタップしていく指。ロックが解除され、退屈で死んでしまいそうなほど見慣れたスクリーンが現れる。そこで、彼女はやっと、浅く溜息を吐いた。最近はもっぱらブルーライトの光で生きているものだから、すみれの花は安堵していた。しかし、
「……ッ」
瞬きを数える間も無く、彼女は息を呑んで息を止めてしまう。
スマートフォンを握る手のひらにある汗腺という汗腺から、ドッと汗が吹き出す。ぬるつくそれが心底、ただ、気持ちわりぃ。サイアクで……、ああ、本当に、最低の気分だ。
【 07:39 】
午前七時三十九分。
現実逃避のための道具、スマートフォンは現実を提示している。たったそれだけだ。たったそれだけだが、今の彼女にとっては致命的だった。
心臓は、うるさいほどに脈を打ち始める。頼りない鼓膜を、内側から打ち鳴らす。体温が急上昇する。焦り、戸惑い、迷う。路地裏で、ターフの上で、かつて彼女を生かしてくれた感覚に似ているようで、全く違うそれは、現在の彼女に対して恐怖のみをもたらす。
補足。現在の彼女とは、レースを引退したナカヤマフェスタ。少しだけ変わってしまった、現在の彼女とは、トレセン学園を卒業したナカヤマフェスタ。ほんのわずかに年齢を重ね、紛いなりにも成長という変化を経て、小さな花屋で働くナカヤマフェスタ。
ナカヤマフェスタという、ひとりのウマ娘だ。
勝負師として己の全てを賭け、パリ、ロンシャンのターフを二度も駆け抜けた。一度目の挑戦では泥にまみれた敗北を味わったが、彼女は〝希望〟であり続けることを諦めなかった。敬愛する先生が病に打ち勝つため、先生が生きるための〝希望〟であり続けることに酷く執着した。そしてなにより、自分自身を生かすために、自分自身を生きるために、生き続けるために、勝負から降りるなんていう選択肢は彼女の中にハナから存在しなかった。
二度目の挑戦。彼女は勝った。凱旋門賞を、勝った。
あのレースは煩わしいと感じるほどに彼女の心臓を脈打たせ、薄い鼓膜を破らんばかりに震わせ、意識を朦朧とさせるくらいに灼熱を帯びていた。最高にヒリついて、ヒリついて、どうにも堪らなかった。楽しかった。人生の最高潮だった。生きていた、誰よりも。そのように記憶している。ゴール板を一番に駆け抜けた彼女は永遠の〝希望〟となって、勤勉な彼女は認めてしまったのだ。貪欲な彼女は満足してしまったのだ。当時、現地まで駆けつけてくれていた先生の病状も、帰国ののちに快方へ向かっていった。奇跡だ。それが、最後の決め手。
ナカヤマフェスタは、私は、引退を決めた。
ナカヤマフェスタは、私は、先生を生かした。
ナカヤマフェスタは、私は、私を生かした。
これからもずっと、生き続けられると信じて疑わなかった。
【 07:44 】
午前七時四十四分。
現実逃避のための道具、スマートフォンは現実を提示している。たったそれだけだ。たったそれだけだが、今の彼女にとっては致命的だった。
あと、六分。
あと六分で布団から抜け出して、一人暮らしの家を出発しなければ、小さな花屋の始業時間に間に合わなくなる。ターフを駆けたウマ娘としての彼女は、生き生きとしてバ群から抜け出す娘だった。だのに、今朝の彼女は原因不明の苛烈な恐怖のみに支配され、身体がうまく動かせないでいる。ああ、いや、正しくは今朝『も』、だ。
布団の中でスマートフォンを握り締めるだけの彼女は、彼女自身に言わせてやると、勝負をする前から情けなく震えてなにもできない腰抜けの根性無しだ。……根性無しでも、私はもう社会人だ。乾いた唇を噛む。そういう自覚とか、責任感だけは一丁前に持ち合わせていたから。根性無しは根性無しなりに、最低限、当欠する旨を職場に伝えなければ。と、震える親指に無駄な力をこめて、通話アプリのアイコンをタップする。暗がりに浮かび上がる、十個の数字と*(アスタリスク)、#(シャープ)の並び、そして緑の通話開始ボタン。
カヒュッ——、喉が鳴った。
間抜けな親指はそれ以上、一ミリだって「……」動かなかった。
通い慣れた勤務先に電話をかける。「今日は休みます」と伝える。優しい店長は、きっと怒ったりしない。理解しているはずなのに、何故、そんな簡単で当たり前のことができないのか。あの凱旋門賞を獲ったのに、何故、普通に生きることすらままならなくなったのか。私は私を生かしたはずなのに、何故、生きた心地がしないのか。彩度も明度も高い緑が、すみれの色を侵食していく。スマートフォンはバーベルより重くなっている。
時間切れだ。今朝もまた、彼女の心は現実を生き直すことができなかった。
自責の念と同時に、倦怠感を伴う安堵を覚える。彼女はまた、浅い溜息を吐く。現実逃避という行為は相応のエネルギーを必要とするが、舌を痺れさせるほどに甘美だ。しかし、たった一瞬の甘美を味わった後は、現実へ引き戻されて最悪な気分になる。ターフを去った彼女は、いつかそれを知って、今も辞められないでいる。
知っているんだ、私は。あらぬ場所へ蹴り飛ばしていた枕を引っ掴んで引き寄せて、手持ち無沙汰な胸に抱きしめて、温かくて寂しい布団の中で丸くなる。
「はァ……クソ、ねみ」
枕に顔を押し付けて、大して意味の無いことを呟いた。敢えて言葉にしたいことは無いが、何か言葉にしなければ、ウマ娘としての形を保っていられそうになかったから。
抱き寄せた枕は、羽根のように軽い。一方、今朝の彼女には重たすぎて手放したスマートフォンといえば、敷布団に顔を埋め、わずかに滲み出した光は真っ暗なかまくらみたいな安全地帯をぼうっと白く染め上げている。光は〝ブルーライト〟という名称でありながら、目に映るその色彩はホワイト、真っ白だ。彼女はそんな矛盾を笑い飛ばしもせず、大前提として矛盾を笑い飛ばせる身分でないことを知っていて、ただ息をひそめて柔らかい枕に爪を立てる。彼女愛用の枕はとても柔らかくて、いとも簡単に変形していく。
いっそこのまま寝逃げをしてしまおうと、そっと彼女は目を閉じた。
ある感覚を閉じてしまうと、たとえウマ娘でなくとも、他の感覚が相対的に研ぎ澄まされるものだ。今朝の彼女の場合、視覚を閉じて、とびきりウマ耳が「……」良くなった。パラパラ、パラパラ。終わらないようにと布団に閉じ込めた夜にまで、朝雨の音が忍び込んでくる。朝雨が布団という防空壕を叩いている。朝雨が真夜中に降りしきるアイロニー。こんな状態では、寝逃げなどできるわけがないだろう、って。
毎日やってくる朝が煩わしくて、次第に朝が嫌いになって、しまいには朝が怖くなっていた弱虫の彼女は次にウマ耳を伏せる。昨晩は風呂に入ることもできなかった、私の体臭。幻覚みたいに鼻をくすぐる、雨と混じった畳の香り。洗顔フォームの香り。湿ったタオルの香り。トーストとコーヒーの香り。シトラス味の歯磨き粉の香り。
そして、
「はッ、はッ、かは——、お"ぇ」
花屋の、すみれの花の香り。
鋭敏になりすぎたのは視覚、聴覚、臭覚、ひょっとすると味覚。昨日はなにも口にしていなかった。午前八時。薄暗い六畳一間、布団の中で始業時間を迎えた彼女は空っぽの胃袋をひっくり返す。枕の詰め物が破裂してしまいそうなほど、爪を立てて、腹に押し当てて、両の手のひらで握り潰す。透明な酸い液体を吐く。閉まらない口の端から、だらしなく涎を垂らす。最近はそんな有様だから、彼女の敷布団は常に湿っぽくて、カビ臭くて、おまけに辛気臭い。
なあ。日本初の凱旋門賞ウマ娘が、どうしてまともに生きられないのか。
彼女の栄光を知る誰もが、不思議に思うのだろう。しかし、ナカヤマフェスタというウマ娘を本当によく知る者に言わせれば、その問いに対する答えは明白だった。
「わ、私は」
ナカヤマフェスタは、レースに生きていた。
「なんでッ」
ナカヤマフェスタは、レースに生かされていた。
「普通のことが、きちんと、できなくなったんだよ」
くしゃり。シーツを握ると、呆気なく皺が寄った。迫り上がってきた胃液とともに稚拙な劣等感を叫んだ彼女は、安全地帯のはずだった布団からよろよろと這い出す。いつ整えることを放棄したのか、もう忘れてしまったカーテンの隙間から、十センチほどの隙間から、差し込む朝日に目が眩んで無性に苦しくなる。ひかりは眩しくなってしまった、直視できないくらいに。彼女が彼女でいられる場所など、本当はどこにもなかった。
それでも彼女は夜から抜け出して、朝を目指そうと懸命に足掻いた。くしゃり、くしゃり。握っては離したシーツの皺が、痕跡を残しながらも元の形へ戻っていく。呆気なく、いとも簡単に形を変えるように見えて、結局のところその変化は残酷なまでに可逆だ。
パラパラ、パラパラ。朝雨が優しく降り続けている。非情にも、止まらない胃液と涎が敷布団に落ちていく。ほとんどうめきながら、彼女は苦しみながら敷布団の上を這った。灰色のシミを作ったのは、雨と、胃液と涎だけじゃない。
「が、凱旋門賞……」
譫言のように掠れた声で呟いて、ピンクゴールドのMacBook Airに手を伸ばす。人差し指が触れて、中指が、親指が触れる。長さを整えておくルーチンを未だ忘れられない爪先は、再生アルミニウムのボディを傷つけない。ついさきほどまでワアワアと喚いていたくせに、ナカヤマフェスタの走りに夢中になって興奮しきっていたくせに、愛用のMacBook Airは既にヒヤリと冷えて余所余所しい顔をしていた。
どうにもイライラした彼女は指先が白くなるほど力を込め、ガリ、と再生アルミニウムをわざと引っ掻きながらMacBook Airを開ける。やっぱり再生アルミニウムは傷つかなかった。脆くなった彼女の白い爪だけが、パキ、と音を立てて少し剥がれていく。
「私は、生きてるよな?」
縋るような彼女の問いに、MacBook Airは答えない。代わりにパスワードを入力しろと命令され、黒く小さなボタンに右手の中指を添えてやる。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒。……自慢の指紋認証は何故か、上手く機能しやがらなかった。行き場の無いイライラに加わる、寂しさや悔しさ、無力感。目を瞑っていてもタイピングできるようになったパスワードを、彼女はてずからカタカタと入力していく。「私はまだ、私だろうが。違うのか?」。
デスクトップには、目が覚めてすぐに眺めていた〝ナカヤマフェスタの凱旋門賞〟の動画ファイルが再生を停止して、開かれたままだ。
「先生、私はわからなくなったんだ」
再生ボタンを、押した。
動画はループ、ループして、最初のシーンから再生が始まる。
画面はパリ、ロンシャンのターフを映し出し、スピーカーからまだレースの行方を知らない観客たちの騒めきを掻き鳴らしている。その喧騒に覚えのあるウマ耳が、勝手に反応しやがる。敷布団に這いつくばっていた身体を起こし、できる限り姿勢を正して、彼女はMacBook Airの前で胡座を掻いた。上下左右に激しく手ブレしている、素人丸出しの動画。当然、画面酔いだってしてしまう。気持ち悪くなってまた吐きそうになる口を覆って、必死に堪えて、彼女は画面を見つめ続けた。『フェスタ。ここから、ちゃんと見ているからね』。
「今の私を見ても、そう言ってくれるのか?」
相変わらず、答えは無かった。
ナカヤマフェスタの凱旋門賞が始まる。
彼女の先生を生かして、彼女が誰よりも生きて、これから先もずっと生きていけると確信した大レースが始まる。たとえ走ることがなくなっても、私はきちんと生きていけると盲信するきっかけになった大レースが始まる。
過ぎ去った日のレース、単なるその記録だというのにソワソワしてきた彼女は、自分でも気づかないうちに両膝を握りしめて、前後に貧乏ゆすりをしていた。わずかな隙間から差し込んでくる真っ白な朝日が画面に反射して、ターフの上で悠々とルーチンをこなしているかつてのライバルたちの姿がはっきりと見えなくなる。イライラする。日本の〝ナカヤマフェスタ〟も、そこに居る。画面の角度を調整していると、MacBook Airの後ろに並ぶアルコールの空き缶がガラガラと倒れていった。彼女はその騒音を気にも掛けなかった。
彼女は瞬きもせず、息をひそめて、画面を見つめる。
広大なロンシャンの競技場に、大切な忘れ物がまだ落っこちているのだと信じて、充血した目で画面を食い入るように見つめる。血走った目で見つめている。日本の〝ナカヤマフェスタ〟が首を回しながら、堂々とゲートインのときを待っている。虎視眈々と、ギラギラと生意気に輝く目で、凱旋門賞のゴールだけを見据えている。——あれは、本当に私なのか?
『爽やかなパリの青空の下、間も無く十九人のウマ娘のゲートインが————』
『ナカヤマフェスタ先頭に替わるか! ナカヤマフェスタ先頭に替わった!』
『英国ダービーウマ娘、ステイフォースが内から伸びてくる! さらにデザイントゥルー、大外からナラフィナ、しかし先頭は依然としてナカヤマフェスタ!』
『さあ、残り二百メートル、これは勝てるか!』
『残り百メートル! クビ差、クビ差でナカヤマフェスタか!』
『ナカヤマフェスタ! ナカヤマフェスタ!』
『史上初、そして悲願、日本のウマ娘が凱旋門賞を制しました!』
『ナカヤマフェスタ! ナカヤマフェスタが今、高らかに嗤っています!』
先生は静かに泣いていた。『フェスタ、ありがとう』。
凱旋門賞の〝ナカヤマフェスタ〟は誰より生き生きと走って、赤みの強いすみれ色の閃光を散らして、鮮烈すぎて痛々しいほどの生を謳歌していた。「——あれは、本当に私なのか?」。私は私という存在の連続性を疑う。ゆめゆめしく現実味が無いほどに、偽物みたいな迫真の生を謳歌していた。「——あれは、本当に私なのか?」。私は私という存在の連続性を疑う。動画は先生の言葉で締め括られ、ループして、最初のシーンから再生が始まる。「——あれは、今の私と同じウマ娘なのか?」。
「こんな大博打に勝った私なら、普通以上に生きられるはずだろう?」
純真無垢な、年相応にあどけない疑問だった。今日も花屋の仕事に行けなかった彼女は、普通に生きられなかった彼女は、過去の自分に答えを探し続けた。もし媒体がビデオテープであったならば、擦り切れて二度と再生できなくなっていたことだろう。それほどまでに何度も繰り返して、ナカヤマフェスタはその目で現実、記録、歴史を丁寧に確かめていった。
空き缶を蹴り飛ばしてMacBook Airを抱え、文字通り画面に張り付いて目を凝らした。私は私という存在の連続性を疑ってやまない。体臭。雨と混じった古い畳の香り。下品で愚かなアルコールの香り。『フェスタ。ここから、ちゃんと見ているからね』。恩師である先生を疑いたくはないが、本当に? 六畳一間は少しずつ、退廃的な雰囲気に侵されていく。
◇
チクタク、チクタク。彼女の部屋に時計はないが、生産性などなくとも、平等に日は昇る。そして、必ず堕ちる。太陽は空の一番高いところまで昇りつめて、今は西の方角から彼女の部屋を覗こうとしているが、西側には窓が無いから彼女を明るく照らすことはできなかった。暦はもう五月だというのに、質素な部屋は暗く冷たい温度をしている。
鹿毛の彼女は、湿った煎餅布団に転がっている。まるで死体みたいに。大切な忘れ物を見つけ直すことは、ついぞ叶わなかった。まだそこに在るのかさえ、なにもわからなかった。「そもそも見つけ出したところで、今の私はまた生き直せるのだろうか?」。
ピンクゴールドのMacBook Airのバッテリー残量は、ゼロ。
真っ暗なスクリーンには、うつろな目をしたウマ娘の表情が映っている。
「なあ。私はなんのために走ったんだ?」
鹿毛のウマ娘はしおらしく眉を下げる。
一時停止。
鹿毛のウマ娘はきょとんとして顔を顰める。
「いや、違うな。お前は——、誰だ?」
ナカヤマフェスタは、小さな花屋で働いている。
ナカヤマフェスタは、小さな花屋ですみれの花を枯らしてしまったことがある。