ナカヤマフェスタは、六畳一間の和室に転がっている。
彼女は仕事に行けなかった。
あれはおよそ十五時間と二十七分前の、湿った煎餅布団。今朝の出来事だった。
静寂に包まれている。未明から降り続いていた小雨は、さて
変わっていないのは不恰好に中途半端なカーテンの隙間で、ずっと変えられないのも不恰好に中途半端なカーテンの隙間で。
寝返りを打つ。
ポリエステル約七十六パーセント、綿約二十六パーセントのテラテラした薄い生地が、素肌を撫でるようにするりと滑っていった。何時間、何日、彼女は着替えていないのだろうか。彼女は着替えられていないのだろうか。そのまま肌に溶け込んでしまいそうなくらいに、ぬらぬらと流れていった。——既に、真夜中。掛け布団などとうに蹴り飛ばしていたから、身体を包んでいるのはそんなパジャマだけ。
真夜中になると、何故だか、いつも決まって少しマシな気分になれる。布団で拵えた防空壕が必要なくなる。麻痺して、いや、狂ってしまった臭覚では、パジャマに染みついた体臭も大して気にならなくなる。真夜中だけは、真夜中だけは、そんな不思議な感覚。何度も同じ感覚を覚えてきたことも忘れて、明日の朝こそ、太陽が昇ったら風呂にでも入ろうか。明日の私は一味違うぞって、彼女は笑う。「明日は仕事に行けるさ。私は私にbetしようかね、ハハッ」。
寝返りを打つ。
独り笑う声は空に響かず、溶けて消えた。
不自然に、神経質に、一日中ずっとこわばっていた手足の力がようやく抜けたから、思い煩うことなく仰向けになって終わりの見えない天井を遠く眺める。シミを数えている間にあれこれ終わるとよく言うが、黒が滲んでいくそこらには永遠に「……」焦点が合わなかった。彼女は目を細める。眼下の窪みに皺が寄り、影が落ちる。星の光が影を作る。彼女の目には確かな闇が映っていて、彼女の目には空っぽな闇しか映っていなかった。
初夏の夜。口元に浮かべる笑みはかすかに、線香花火のよう。愛おしい畳に投げ出していた右手の関節を軽く鳴らし、凹んだ腹の上で柔らかく拳を握って、そして口を開く。乾燥した上唇と下唇が擦れて引っかかって、ヒリつく痛みを感じて、それでも口を開く。が、
「……やめた。さすがに格好つけすぎじゃねぇか?」
じりじりおちる。
線香花火はじりじり堕ちる、必ず。
線香花火はじりじり落ちる、いつか。
「おまけに燃料切れ、か。そうだろうよ、まともに食ってもねぇんだから」
彼女から笑みは消えていた。真っ暗な仮の星空に手を伸ばそうとして、
和室の天井のゆくすえは、行き止まり。ただぼんやりと眺める目元には酷い隈があって、赤みの強いすみれ色の瞳は濁って、澱んでいる。「明日の青空は、綺麗なのかねぇ」。少しだけ、不安に声が震えた。答えてくれる物好きは、やっぱり隣にいなかった。
ゆっくりと、寝返りを打つ。
彼女の身体は、視線は、部屋に唯一の窓を向く。
今夜は特別、星が綺麗に見えた。今夜が偶然、牡牛座の新月だからだろう。
月の光とは似て非なる、青白くて鋭く尖った光。冷たく刺してくるような、高温の光。——シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星。今の季節に一等星シリウスは見えないし、ティコの星は遠い大昔に超新星爆発を起こして、肉眼ではもはや観測できなくなった。しかし、彼女の脳味噌にはロマンティックで気障ったらしくて、小気味良いフレーズが焼き付いている。——シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星。一体全体、
「シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星」
掠れた声で口ずさむ。
星巡りのうたを口ずさむ。
「シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星」
真夜中、ナカヤマフェスタはやっと立ち上がることにした。
手を伸ばすことすら叶わなかったというのに、綺麗な星に惑わされていた。
馴染みの布団から身体を無理矢理剥がそうとすれば、脳内にざわざわと鳴り響く雑音。弱った身体が上げる悲鳴。燃料切れの警報。——シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星。ああ、うっせぇ、うっせぇ、うっせぇ。私は腐ってもウマ娘なんだから、寝転がっているより立っている方が自然の摂理に倣うだろ、って文句を言っている。
シーツをくしゃくしゃに掴んだ指の先で、切り揃えられてはいるものの、白い線が幾重にもはしる不健康な爪が反ってゆく。顔が歪む、ヒリつく痛みを感じる。それでもシーツを離さなかった。パキ、と耳を塞ぎたくなるようなそれも無視して、彼女は堪えて、肘を支えにして片膝を立てる。片方の足裏がペラペラの敷布団に触れる。膝小僧に力を込めて、もう片方の足を引き摺るようにして、ヒトよりずっと強靭な両脚で立ち上がる。
シーツを握り込んだ拳を緩めて、割れた爪先もシーツを離れてゆく。くの字に曲がった背中をゆらりゆらりと伸ばして、六畳一間に幽霊が現れ、
「ん、なッ!?」
否、幽霊など居ない。幽霊は現れなかった。
ぐらり。北極星を頂点に、視界が反転する。空っぽの胃袋が掻き混ぜられる、矛盾。ずっと息をひそめていたアルコールの空き缶が羽目を外して、一瞬で収拾がつかなくなる。シーツを踏み締めた足の裏が滑り、縮み上がって跳ねた心臓は生きた心地がしないままで、立ちあがろうとしていたナカヤマフェスタは見事に、無様に転倒したのだ。
彼女は畳の上に転がっていた。ダンゴムシみたいに身体を丸めて「いッ、てぇ」気の済むまで呻き、ぴたりと静止する。それから、全身を揺らして笑い始める。
「ハッ、バカみてぇに腑抜けてやがる。……『ナカヤマフェスタ』さんよぉ、っと」
風に吹かれた赤みの強いすみれの花は、未だ、ギラギラと星を見上げていた。
なあ。さっき
ギラギラと星を見上げる赤みの強いすみれの花は——、夜盲症。
「あァ、悪かねぇ。悪かねぇぞ」
彼女は至極愉快そうに笑い続けている。ケタケタケタと笑いながら、もう一度、全く同じ仕草で立ち上がってゆく。
畳を引っ掻いて突き立てた爪を割って、痛みを感じて、肘を支えにして片膝を立てる。彼女はまだ笑っている。片方の足裏が畳に触れる。彼女はまだ笑っている。膝小僧に力を込めて、もう片方の足を引き摺るようにして、両脚で立ち上がる。彼女はまだ笑っている。畳に突き立てたネコの、失礼。ウマ娘の手を緩めて、割れた爪先も畳を離れてゆく。彼女はまだ笑っている。「シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星」。くの字に曲がった背中をゆらりゆらりと伸ばして、彼女は二度とは転ばなかった。真っ暗な六畳一間に現れたのは、決して幽霊などではなく、
「夜鷹」
星を目指す。
星を目指す。
星を目指す。
「私は、夜鷹だったんだ」
星を目指す。
星を目指す。
星を目指す。
「わたしを してみろよ、おほしさま」
思えば、彼女の在り方は、矛盾に満ちていたのかもしれない。
かつては生きるために危ない遊びに身を投じ、命を危険に晒すこともあった。見るに見かねた先生に手を引かれるがまま、遊びをきっぱり辞めて飛び込んだ中央のレースの世界だって、引退した今になって考えてみれば同じだったと言えなくもない。安全が確保されているとはいえ、命を削るような高負荷トレーニング。レース前、極限まで追い詰められる精神状態。最高にヒリつくレース、破裂して壊れてしまいそうになる心臓。そして、全身全霊を賭けて走るウマ娘が接触すれば、当然〝死〟も有り得た。健全か不健全かで判断するなら、健全なだけマシだが、今の彼女にとって両者はどう違うというのだろうか?
死に近づいて、生きる。
死に近づくことでしか、生きることができない。
煌めく希望——ナカヤマフェスタが走るもうひとつの理由だった——に成り果てた彼女は、自分を認め、煌めきに満たされ尽くして終わった。希望に成り果ててしまった彼女は、しかし、いつか忘れてしまった。忘れたくなかったのに、忘れないと信じていたのに、呆気なく忘れてしまった。ナカヤマフェスタを死ぬまで生かし続けるはずだった、
「死ぬことでしか、生きられないんだ。やっと思い出せたよ、私は」
立ち止まる。乱暴な言葉を丁寧に選んで、彼女は呟いた。
拳を握って、開く。覗き込んだそこになにもないことを確かめて、顔を上げて、真っ直ぐに前を向く。前を向いたら、カーテンの隙間から星空が見えた。綺麗な星々が見えた。シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星。きっと、あれは煌めく希望の色をしている。
「矛盾してるだろ? いいぜ、笑いたきゃ笑い飛ばせ」
彼女は再び歩き出す。生死に関する(少なくとも彼女にとって)サイアクで最低な矛盾は、その認識は、自身の〝存在〟への罪悪感さえ生み出そうとしていた。
しかし、彼女はどこまでも快活に「ハハッ」笑い飛ばして見せる。大袈裟に肩を揺らして、嘲笑って魅せる。素足でかわるがわる畳を踏み締めて、舞い上がる今はもう懐かしくなった(気がする)
今もまだ痛みを幻視する左肩を揉みながら、彼女は一歩、一歩、歩いていく。歩いていく。歩いていく。絆創膏が剥がれる。汚れたガラス越しに煌めく星々に優しく手を引かれ、小羊のように、小さな窓辺まで真摯にエスコートされてゆく。そうして近づいて、さいごまで近づいて触れたガラスの向こう側には、鳥の糞が掠めている。ガラガラ、窓を開ける。
星を目指す。
星を目指す。
星を目指す。
「うわ、我ながら汚ねぇなァ。……ああ、いや、ハハッ、そうじゃなくってさ」
彼女の手には、なにもなかった。
なにもなくって、暗闇だけがあった。
シリウス、ベガ、アルタイル、ティコの星。
きっと、それは渦巻く絶望の色をしていた。
「その、アンタの煌めく希望で、わたしを してくれないか?」
星を目指す。
星を目指す。
星を目指す。
星を掴まんと両手を伸ばして、彼女は言った。
木造アパートの三階。飄々とした夜風に、千九百九十円のカーテンが掬われていく。彼女はお気に入りのニット帽を脱ぎ捨て、傷んだ鹿毛を靡かせる。髪を掬わせる。酷くロマンチックに陶酔してもっと、もっと、両手を伸ばす。が、地球から何億光年も離れたところで煌々と燃えている恒星には、たとえ凱旋門賞を獲ったウマ娘であろうとも、窓辺から精一杯手を伸ばしてみたところで届くはずもない。それでもなお、彼女は星を目指し続ける。
背伸びをしてみる。届かないから、窓枠に片足を掛ける。迷わずに両足を掛ける。素足の肉をアルミのサッシが挟んでいる。その痛みで目が覚めてしまうのが怖くなって、ふと目が留まった室外機にひょいと飛び移ってみた。「よっ、と」。室外機は稼働していない。
世界は、既に眠っていた。
痛んだ栗毛が夜風にすくわれ、夜風にさらわれる。
東京、とある下町。シンと静まり返った真夜中にネコがひとこえニャーンと鳴いて、ウマ娘がひとりアパート三階の室外機に立ち尽くす。ブゥーン、ブゥーンと古い室外機が稼働する、あの眠たい音は、彼女の足元のそれから聞こえてこない。代わりにギッ、ギッ、と足場が助けを求めて絶え間なく声を上げている。明らかに耐荷重オーバー、オーバー。応答せよ。やがてネコは路地裏に消え、ウマ娘はとびきり穏やかな表情で溜息を吐いた。世界は眠っていて、あの野良ネコはいなくなって、ウマ娘だけがここで呼吸をしている。
痛んだ栗毛が夜風にすくわれ、夜風にさらわれる。前髪をまとめて掻き上げ、ウマ娘は自身が息づく下町よりずっと広い星空を見上げた。あれが欲しい、あれになりたい、私こそがあれだったはずだ。左肩の痛みも忘れて、手を伸ばす。ちぐはぐに穏やかな仮面の下で、ドッドッド、と胸が鳴り始める。手を伸ばす、足が震える。手汗は夜に冷えていく。焦り、戸惑い、迷い。「忘れちまって、思い出しちまったんだ。でも——
『そらが、きれいだ』
オーバー、オーバー。応答は、なくなった。
数秒前。
引退してからずっと立ち止まっていた彼女は、やっと歩き出した。
アパート三階の小さな室外機から一歩、踏み出していたのだ。
『さあ、ヒリつく賭けを始めようぜ』
おちる、おちる、おちる。
アパート三階の室外機を踏み外して、ナカヤマフェスタの身体はおちていく。
あの星々の煌めきが手に入るのなら、生きる希望が取り戻せるのなら、命を賭けたっていいと願った。それに、アパートの三階から身を投げたところで、丈夫なウマ娘ならかすり傷程度で済むかもしれないし、打ちどころが悪ければ後遺症が残るかもしれないし。サイアク、死ぬかもしれないし。落下する彼女の心臓は、ドッドッド、うるさいほどに脈を打っている。
星は見えない。ナカヤマフェスタは今夜、やっと
星は見えない。ナカヤマフェスタは今夜、やっと
これは走馬灯。きっとスローモーション。アパートの全貌を見渡す。彼女の部屋以外のカーテンは皆、不思議に思えるほど、きっちりと閉じられている。きっちりと閉じられているにも関わらず、暖かい色をした生活の光が漏れている。地球に逆立ちしている彼女は、不意に、そういう現実に気がついた。ドッドッド、昂る、高鳴っているのに。
「…………ぁ」
星は見えなかった。
星は掴めなかった。
「…………あ、」
ペトリコール。
雨の匂い。湿ったアスファルトの匂いが濃くなってくる。
アパート三階の室外機から飛び降りたウマ娘は、気味が悪いほど落ち着いていて、自分が傍観者でいるようで、その感覚が酷くもどかしかった。私はあの星を、もう一度、あの煌めく希望を取り戻すために、命を賭けた勝負に挑んだはずだ。ドッドッド、昂る、高鳴っているのに。上手にヒリつけない、脳が酔えない。これではアルコールの方が遥かにマシだ。
「……ハ」
腹の中で内臓が暴れている。髄液の中で脳味噌が規則的に揺れている。ペトリコールの匂いが頭上に迫る、ぐんぐんと爆発的な末脚で迫り来ている。
ぽつぽつ灯る、死ぬほど退屈で、愛すべき、眠気を誘う生活の光など、とっくのとうに彼女の視界から過ぎ去ってしまった。見えなくなってしまった。彼女はさいごまで、これからも、あの優しい色をした光を灯す気になれなかった、生粋の勝負師。湿ったアスファルトはアタマ差まで迫っている。スタミナは切れて根性らしい根性も残っていないが、さいごまで、これからも、本当は、大博打を心から楽しむ勝負師のウマ娘であり続けたかった。ぐわんぐわんと揺れるくせに酔えなくなった脳味噌で、彼女はまた自分を笑う。
決着の瞬間は、平等におとずれる。
ナカヤマフェスタは、死ぬまで、既に仮初であっても、勝負師であろうとした。
勝負から降りるわけにはいかない、そもそも、今更降りられるはずもない。
咄嗟に目を瞑ってしまう。さあ——、いまだ。
◇
「こんばんは、流れ星かと思ったぜ。ウマ娘のお嬢さん?」
耳がバカになったと思った。
或いは、迎えに来た天使であって欲しくないと思った。
懐かしい、その、高慢ちきで勿体ぶった声。
三階の室外機から飛び降りたウマ娘がアスファルトと正面衝突して、果たして死ぬのか(彼女はここが安牌だと思い込んでいた)(何故?)、大怪我を負うのか、かすり傷で済むのか。ナカヤマフェスタは賭けの内容を鑑みて、その三択だと考えていた。
では、この状況はどう説明してくれる?
賭け事の結末は、引っ掻き回されてしまったのか?
ナカヤマフェスタは、無傷のナカヤマフェスタは抱かれていた。おっかなびっくり、大人のあれやそれではない。無傷のナカヤマフェスタは優しく抱かれていた。ハイウエストの12.5ozデニムに長い脚を収め、夜目にも白く見える五部袖Tシャツをトップスインし、アンティークゴールドのフープピアスが耳に揺れる。マスキュリンなウッディノートに、ワイルドナルキッソスのエレガントな表情が見え隠れする香りをチョイス。
たとえ(恐怖に)目を瞑ったままでも、彼女にはわかっただろう。アンタはこれから都会へ夜遊びに、煌びやかな夜を駆けにゆくヤツだ。では、何故、こんな真夜中に。アンタみたいなヤツが飾り気のない下町の住宅街にいて、私を抱いているのか。星を求めて室外機から足を踏み外す直前まで、空気を読んで立ち去ったネコ以外、アパート周辺に生き物の気配はなかった。それなのに、何故、三階から落ちてくる私に気づいて、追いついて、追い込んで、追い上げて、私がアスファルトに激突する前に優しくすくいあげることができたのか。
前者の問いに関して、彼女は答えを持ち合わせなかった。しかし後者の問いに関して、赤みの強いすみれ色の目を見開く彼女は。たとえ目を瞑ったままであったとして、たとえ手探りであったとして、答えることができたと思うのだ。
今夜は、牡牛座の新月。
ウマ娘、シリウスシンボリ。
「アンタ、」
彼女だった。
ナカヤマフェスタがシリウスシンボリを見上げて、ぽつり。言い淀むと、一等星の彼女は小粋に首を傾げ、歯を見せずに笑う。相変わらずのヒトたらし、否、ウマたらし具合。
「久しぶりだな、ナカヤマ」
「……あ、あァ」
数年ぶりに再会した元ルームメイトとは思えない——どちらかといえば、今朝ぶりに、学園でルームメイトとすれ違うときのような——さらりとした挨拶のあと、シリウスシンボリはナカヤマフェスタを紳士的にエスコートして降ろしてやる。指先が、指の付け根が、踵が、順に湿ったアスファルトに触れていく。触れて、踏み締めて、素足が冷たい。全身に悪寒が駆け巡って、産毛が逆立ちする。でも、あの頃、パンパンになるまで鍛え上げられていた足底の筋肉はすっかり消え去って、綺麗な土踏まずのアーチだけは冷たさを覚えなかった。
地に両足を着けたナカヤマフェスタは、シリウスシンボリに背中を小突かれ、自分の力で立ち上がろうとする。彼女らしい仕草で背中を押してくれた彼女には、真鍮と、真鍮と、そしてシルバーのデザインリングがキラキラ、もうひとつの手のひらがあった。当たり前。重ねづけされたリングはキラキラ、一等星の煌めきを一身に受けて輝く。気高い輝きを放つ。が、
「ッ、……やめろ」
「アハハッ」
唸り声と、笑い声。
尻を撫でていきやがった。尻を撫でられたナカヤマフェスタの尻尾はピンと立ち、付け根から先端に向かって艶の無い毛並みが波を打つ。波は、不快感は伝播する。まるで、安いコントみたいに。まるで、レースの熱狂が渦巻くあのときの、或いはあのときのウイニングライブの演出みたいに。シリウスシンボリはあの頃と同じように、意気揚々と、居丈高に、腹を抱えて星空に声を響かせ「アハハ……ッ!」笑っている。
深呼吸。
あだしごとはさておき。
鹿毛が落ち着いて尻尾がだらりと垂れ下がる頃、ナカヤマフェスタ自身もまた、落ち着きを取り戻していた。シリウスシンボリに尻を触られた事実、シリウスシンボリが現れた事実、シリウスシンボリに抱き止められた事実。トレセン学園を卒業して数年、にわかには信じがたい事実を受け入れていた。でも、ただ。と、彼女は薄い唇を舐めて視線を落とす。
シリウスシンボリに、飛び降りの現場を見られた事実。
死にたいわけじゃなかった。と、思う。確かに命をbetして室外機から足を踏み外したが、その行為は他ならぬ〝生きたい〟という欲求から自然発生したものだった(はずだ)。転落死の可能性はあったが、ウマ娘なら、私なら死なないだろうと読んで、私は命を賭けた(はずだ)。素足の彼女は、アスファルトをザリザリと弄る。指で小石を掴む。三階から見下ろしていたアスファルトは意外と暖かくて、ゴムみたいだった。ほうら、こんなもので私を殺せるものか。
ナカヤマフェスタは視線を暗い灰色に貼り付けたまま、口を開く。
「……アンタがいなくても、私は死んだりしなかったさ」
「お前は死にたいのか?」
間髪を入れず、シリウスシンボリが問い返す。
言葉に詰まった。
死にたいわけじゃなかった。死にたいわけじゃなかった。死にたいわけじゃなかった。と、思うだけで、なにひとつ言葉にならない。アスファルトを弄り続けている足が忙しなくて、救いようがないほどに幼くて、なにより往生際が悪い。黙秘するナカヤマフェスタ。吟味するシリウスシンボリ。彼女はそれ以上に追求せず、ナカヤマフェスタと同じようにアスファルトへ視線を落とす。赤い、真っ赤な視線。艶々した黒革のダブルモンクストラップシューズがアスファルトを蹴って、おもむろに「ゴムチップだったか」と呟いた。彼女は顔を上げる。
「まあいい。ただ、これは貸しだ、そうだろう?」
ピッ、と。遠慮なく、指を差される。
爪には丁寧なセルフネイルが施されている。黒い背景に一粒、輝くクリスタルストーン。ナカヤマフェスタは自分の爪に目をやる。切り揃えられてはいるものの、白い線が幾重にもはしった不健康な爪はそこかしこが剥がれ、割れている。現役時代は旧友に手を引かれ、競技用だのお洒落だの、無理矢理ネイルを施されることもあった。が、卒業後の彼女自身は、怪我をしないように切り揃えるだけで精一杯でいる。シリウスシンボリの爪は、綺麗だった。ナカヤマフェスタは観念したように頷き、息を吐く。
「あァ、異論はねぇよ。……うん、その、どうも、ありがとう」
「どういたしまして」
シリウスシンボリはバカ丁寧に、くだくだしく貸し借りに念を押すように、しかし尾は引かないよう絶妙な手加減でナカヤマフェスタの感謝を打ち消した。『どういたしまして』。ああそういえば、コイツはこう見えていいとこのお嬢さんだったか。と、ナカヤマフェスタはわずかに眉を曇らせる。穏便、丁重、強引、確実。そうやって上手く立ち回り、交渉を成立させる術は、幼少の頃から仕込まれてきたものだろう。
勝負を楽しむことしか知らないナカヤマフェスタが、最初から、どうこうできるような相手ではなかったのだ。さてさて、どれほどの暴利を吹っ掛けられるのか。かつての彼女であれば、圧倒的不利なこの状況さえ楽しんでいたかもしれない。しかし、アスファルトに星が落っこちているはずがないのだから。勝負を楽しむことすらできなくなったナカヤマフェスタは、今、シリウスシンボリからただ逃れられない。彼女は頭を掻きながら深く、深く「……」俯く。シリウスシンボリが「オイ、お前。頭洗ってんのか?」と言った。
しばし沈黙。二人はかつてのルームメイトだが、ナカヤマフェスタは裸足、シリウスシンボリはピカピカのダブルモンクストラップシューズを履きこなしている。
沈黙を破ったのはもちろん、シリウスシンボリ。
「ククッ、そう苦い顔をするな。借りはすぐに返させてやるよ」
彼女は笑った、至極愉快そうに。
カッ、カッ、とダブルモンクストラップシューズが距離を詰める。そいつの右足は、無防備な裸足の間に堂々と居座る。これは至近距離。もしも(考えたくもないが)恋人同士なら、キスのひとつでもしなければ二度と離れられない距離。恋をしたことのないナカヤマフェスタは、無意識に拳を握る。シリウスシンボリは喉の奥で笑うだけで、キスをしなかった。
ナカヤマフェスタは見上げる。
シリウスシンボリは真っ赤な目を細め、顎を高く上げた。
「終電が無くなった。だから、お前の家に私を泊めろ。そして——」
ナカヤマフェスタは見下ろされている。
シリウスシンボリはもう、既に、愉快そうな笑みを浮かべてはいなかった。
「明日だ。明日、お前の元トレーナーに会いに行くぞ」
「ッ!? ……んで、なんで今更になって、あの人に会わなきゃいけないんだよ……」
離れて久しい〝トレーナー〟という言葉。
衝撃、青天の霹靂、星空。
彼女の終わった競技人生で、唯一だったトレーナー。「……トレーナー」「トレーナー」「トレーナー」「トレーナー?」。ぶつくさと呟くナカヤマフェスタはわけもわからないまま、我を忘れてパニックに陥っていく。まるで〝トレーナー〟という言葉が、彼女にとっての禁句であるかのように。「私、私は……ッ!」。頭を抱える。死んだ目のウマ娘が暴れる、真夜中の下町。ウマ娘が死んだ目で眺める、真夜中の下町。「私はなあ……ッ!」。
足元のダブルモンクストラップシューズを裸足で蹴り飛ばして、弱い拳を振り回して、強いままでいるシリウスシンボリを遠ざける。唾を散らして、喚き散らす。
「意味わかんねぇだろうが! 私はもう、あの人の担当じゃない。私はもう、アンタのルームメイトじゃない。私はもう、子供なんかじゃない。私は一人で生きられる。わた、」
「うるせぇな」
いや、シリウスシンボリは一歩も退いていなかった。
一瞬だった。彼女は暴れ出したナカヤマフェスタの襟をいとも簡単に掴み上げ、月の見えない新月の夜だというのに真っ赤な瞳孔を縮めて、低く唸る。ナカヤマフェスタの身体は、両足は宙に浮いて、地に着いていない。冬の星、
「キャンキャン騒ぐんじゃねぇ、近所迷惑だろ。私の賭けに付き合うか、今ここで、私に殺されるか。選ばせてやるよ、お嬢さん。……いや、ナカヤマフェスタ?」