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「オイ。このカーテン、いつから壊れてる?」
シリウスシンボリは、呆れ気味に問うた。
既に身支度を済ませている彼女は窓辺に立ち、千九百九十円のカーテンを摘んで、クイクイと引っ張っては怪訝そうな顔で首を傾げる。カーテンレールと、その子供にあたるプラスチックのアジャスターフックが擦れ合って、カシャカシャと不和の音を訴えている。どうにもこうにも引っ掛かりがあるようで、頑固なカーテンの隙間は約十センチから広がりもしないし、かといって狭まりもしない。
ただいま、午前七時五十分。
本日は晴天なり。六畳一間に朝日が差し込んでいる。
部屋の主、ナカヤマフェスタは頭からスウェットをかぶり、シリウスシンボリの問いかけに呼応してスポンと顔を出した。ウマ耳がピルピルと震え、シャキシャキと目が覚める……現実はそう都合の良いものでもなくて、彼女は強烈な眠気と倦怠感にグラグラする首をやっとのことで座らせる。欠伸を噛み殺して、手持ち無沙汰にスウェットの袖を掴んで伸ばす。
「いい加減に起きろ、ナカヤマ」
シリウスシンボリの声。ウマ耳がピルピルと震える。
むやみやたらに〝カーテン〟という言葉が、無意味に耳に残っていた。とうとう堪え切れなくなって「ふあ、」と大きな欠伸を零したナカヤマフェスタは、きちんと思考を整理することもないまま、欠伸の延長線上で口を開く。脆弱な意識は簡単に弾かれ、彼方に逸れて、気合いの抜けた首がガクリ、と前に倒れた。
「うん。…………ん"ん、あーちがった、起きた。カーテンがなんだって?」
ねじ切れた首を揉み解しながら、会話の軌道を修正していく。
窓辺から振り返ったシリウスシンボリが、さきよりもさらに呆れた顔で溜息を吐いた。そして唇の端を震わせたかと思えば、何故か、顔を逸らして「しまった」という表情。ナカヤマフェスタの意識が未だ鮮明でないことが幸いした。ナーバスになりがちな午前だが、彼女はさほど動じていない。マイペースに、会話の軌道を修正し続けている。
シリウスシンボリの左手首、腕時計がチッチッチ、とかすかに時間を刻んでいる。もともとの六畳一間に置時計は無い。迷惑な涙の
二人の会話は続く。
「カーテン。いつから壊れてる?」
「……あー、知らねぇ。気がついたときにはこの有様だった」
ナカヤマフェスタがありのままを答えると、シリウスシンボリはお手上げだと言わんばかりに目を閉じて、再び窓辺を振り返る。ナカヤマフェスタに背中を向ける。二人向き合って彼女が目を閉じた一瞬、強調された睫毛は昨晩よりも細く、短く、か弱かった。「ったく、そんなことだろうと思ったよ。化粧道具もまともに揃ってねぇしな」「……それで十分なんだよ」。
そんな気がしただけなのかもしれない。シリウスシンボリは汚れた窓ガラスを覗き込み、顔の仕上がりをチェックしている。比較的薄化粧な彼女は、ナカヤマフェスタの記憶の中に棲みつく過去の彼女に似ている。
シリウスシンボリは指輪が輝く手を伸ばし、渦中のカーテンレールに触れた。背の高い彼女にとっては容易いもので(ナカヤマフェスタは届かない)、埃がこびりついたそれをツツ、と端から指でなぞっていく。おちるほこりが肩を汚すが、彼女は気に留めないでいてくれた。タンスから引っ張り出した適当な靴下を履きながら、ナカヤマフェスタは長く温かい息を吐く。
「いくつかランナーが壊れてるな」
「ランナー?」
「カーテンレールを走って、カーテンを開け閉めするための部品」
「ふうん」
靴下を履き終え、乗り気のしない身体でもようやく立ち上がる。とろりとろりと眠りに落ちるように両目を瞑り、後頭部に回した黒マスクの紐同士をクリップで留めて、面倒だからと化粧をしていない顔の半分を隠して、
パチン。
草臥れたニット帽も既にかぶって、こちらは寝癖を隠してくれている。
乗り気はしない。だるい身体で支度が済んでも相変わらず乗り気はしてこないし、できることなら、やはり、元トレーナーには二度と会わずに生きていきたい。凱旋門賞を勝ったナカヤマフェスタなら、一人でもきちんと生きられるはずだから。しかし、窓辺に佇むシリウスシンボリをこれ以上待たせてしまうと、なにか碌でもないことになりそうだった。小綺麗な彼女はそんなふうに、昔と変わらぬ危険な雰囲気を醸し出している。
仕方無い。ナカヤマフェスタは回りくどく声をかける。さあ覚悟はできたぞ、と。
「帰りにその、なんだ、ランナー? どこかで買ってくわ」
袋小路になったこの部屋の出口に向かって、シリウスシンボリがゆらりと歩き出す。スマートフォンと財布と鍵がスキニーデニムのポケットに入っていることを確認して、ナカヤマフェスタが素直にあとを追う。
「ああ。おひさまってヤツは退屈だが、生命には欠かせない。覚えておけよ」
シリウスシンボリは玄関で腰を屈める。ナカヤマフェスタは背後に立ち止まって、他にやるべきことがあるわけでもなく、彼女の所作を眺めることにした。「靴べら」「無い」。ピカピカに磨き上げられたダブルモンクストラップシューズのつま先に、星明かりのもとでは見えなかった無数の小傷が走っている。おひさまの光がたった一筋差し込む部屋で、それらはキラキラと、まるで流星群のように見えた。
玄関の扉が押し開けられる。おひさまの光が雪崩れ込んでくる。目の前に立ち上がったシリウスシンボリの影が濃くなってゆく。致死量のひかり、致死量のやみ。ナカヤマフェスタは反射的に目を瞑って、顔を伏せた。
「しかし、だ。ナカヤマ」
「ん……」
「ランナーを買う必要はない。私はそう考えている」
カッ、カッ、カッ。かつてのルームメイトを救ったその靴を丁寧に履いて、シリウスシンボリは悠然と歩き始める。少しだけ黄色みを帯びた、暖かくて優しい、けれども眩しすぎる光の中へ溶けていく。アパート共用の廊下に躍り出て、赤褐色に錆びた手すりを鷲掴みし、惜しげなく光に身を晒す。勿体ぶった声で、意味深な言葉をあとに残して。
思えば、それは餌だったのだ。
腹を空かした哀れな魚は一目散に飛びついてしまって、針が肉に刺さったことにも気づかずにむしゃぶりつく。『ランナーを買う必要はない』。停滞している現状を、肯定してくれる言葉だと思った。ナカヤマフェスタはまだ大丈夫なのだと、昔を知る仲間が励ましてくれる言葉だと勘違いをした。昨晩に〝元トレーナー〟という言葉が出たのだって、ただのケツ叩き、起爆剤代わりのフェイクだったに違いない。
ナカヤマフェスタは顔を上げた。
枯れ木みたいに漫然と突っ立って、シリウスシンボリという先輩の背中を眺めている。感謝を秘めて、彼女を見送るつもりでいる。「あの、ありが」「なにしてる、早く靴を履けよ」。肯定でも叱咤でも、挑発でもないどこまでも冷静な声に、ナカヤマフェスタの足元がふらついた。視界がぶれる。シリウスシンボリの口角がゆっくりと上がってゆく光景を、脳味噌に直接叩きつけられている。既に、針は肉の奥深くまで食い込んでいた。
「物欲しそうな顔。ご褒美はこれから、だろう。く、アハハ……ッ!」
高笑いが響いた。
現実はコマ送り。光の中から舞い戻ったシリウスシンボリが、暗い玄関で小さな白い靴箱に手を突っ込んで、ナカヤマフェスタの靴を漁っている。「くっせぇ」「だせぇ」。彼女はそんなふうに失礼極まりないことを言いながらも、どこか楽しそうに、高揚した表情で、あれでもないこれでもないと地獄へ向かうナカヤマフェスタに履かせる靴を選ぶ。家主の権利を奪われた(或いは既に奪われていた)娘は、枯れ木みたいに漫然と突っ立っている。
七秒、八秒、九秒。
いや、十秒くらい経っていたかもしれない。
ザラ、ザラザラ。年季の入った土埃が舞う。シリウスシンボリは「ごほ、ごほっ」と盛大に咳き込みながら、おそらく、いちばんマシだと判断した靴を手に入れたようで、土埃と湿気と憂鬱に満ちた靴箱から顔を引っこ抜いた。
そして目に入ったのは、赤いスニーカー、真っ赤なスニーカー。
ナカヤマフェスタは息を呑んだ。記憶が確かならば……蕾がほころぶような気持ちで初任給を握り締めて購入した、ブランドも、機能性も、なかなかに悪くない品だ。さすがはシンボリ家のご令嬢、お目が高い。しかし、ナカヤマフェスタはそのスニーカーを一度、二度くらいしか履かないままに、ずっと靴箱に押し込めていた。いつからだったろうか、自分にはそれを履く資格が無いような思いに囚われているから。
「言ったはずだ。これは私の賭け、向かうは馴染みの賭場」
ひとつ咳払いをして、シリウスシンボリは声色を変えた。のらりくらりと悪戯に
片足ずつ、片足ずつ。立ち尽くすナカヤマフェスタの足元に、彼女には勿体無い(と、彼女自身が思い込んでいる)真っ赤な色のスニーカーが置かれていく。既に喉はカラカラ、水分を求めて一滴の唾を飲み込む。ヒリヒリと眼球が乾いてゆくが、瞬きの仕方を忘れている。この上なく不景気な土埃で汚してしまった12.5ozワイドデニムの両膝を軽く
「私は、そうだな……ナカヤマフェスタがランナーを買わない、ナカヤマフェスタがランナーをもう必要としない未来に賭けたのさ」
真っ赤な瞳の彼女は、ナカヤマフェスタのすみれ色を真っ直ぐに捉え、そう言った。賭け事の話をしているのに、射倖心を煽る声色は変わらないのに、言葉は真摯だ。親切だ。すっかりほだされたナカヤマフェスタは震える右足を持ち上げ、真っ赤なスニーカーにbetする。シリウスシンボリは笑った。
「さあ、尻尾振ってついて来な。失くしたものは私が与えてやろう。——クソみてぇな死に体の現実をどうするか、テメーで選びやがれ」
◇
東日本旅客鉄道総武線、中野行、各駅停車。
八号車。かつて凱旋門賞を駆けた、二人のウマ娘が乗車している。
男性は、乗り合わせていた。
市川駅から新宿駅まで。日曜日だというのに、彼は休日出勤を命じられている。六連勤が待ち受けていることを思うたび、草臥れたビジネスリュックの肩紐が沈んだ。深く食い込んだ。重くのし掛かった。一等お気に入りのスーツだって、贔屓のクリーニング屋に持ち込むタイミングを完全に見失った。
ガタン、ゴトン。彼は、とても憂鬱な気持ち。
しかし、視線まで落ち込んでいるとは情けない。と、彼は鬱蒼と青い隈が刻まれている目元を擦って、ふと顔を上げる。知らないひとが映り込む車窓を流れていくのは、代わり映えのしない毎日とは少しだけ違う、休日の景色。まだ、朝が早いからだろうか。いつもひとでごった返している赤信号の歩道は、黄色の点字ブロックが剥き出しになって見える。まばらに歩いているひとは思い思いの服装をして、それぞれ別々の方角へ向かっている。彼らのように、彼は自由ではなかった。瞳の焦点距離を弄って、車内に視線を引き戻す——、と。
車窓の中。
二人のウマ娘が目に留まる。
彼女らは吊り革を二つ隔てた左隣、彼と同じ車窓を二人並んで眺めていた。一人は白が眩しいシャツにワイドパンツ、吊り革を握る手には指輪が輝き、真っ赤な瞳に自信が宿っている。もう一人は優しい白のスウェットにスキニーパンツ、こっくりこっくりと眠りに落ちてしまいそうな表情は黒いマスクに覆われ、時折覗く紫の瞳にはまるで生気が宿っていない。
ここで、彼は気づく。
凱旋門賞を走ったウマ娘だ、と。
一人は日本から初めて凱旋門賞に挑戦したウマ娘で、一人は日本のウマ娘でただひとり凱旋門賞を勝ったウマ娘。休日出勤の彼は、トゥインクル・シリーズの熱心なファンであった。当然のことながら、呼吸を忘れるほどに驚く。サインが欲しいと、呼び起こされた子供心が駄々を捏ねる。同時に、大人になった疑問符が脳裏を駆け巡った。
何故、彼女は煌めきを見失っているのだろうか。
日本中を、世界中を、彼を、吠える熱狂の渦に叩き込んだ彼女は何故、今を生きていないのだろうか。休日出勤に向かう彼の目に、こんなにも眩しい煌めきを見せつけているのに。彼女の目には、何故、己の煌めきが映っていないのだろうか。「あなたのファンです!」。人目も憚らずに名乗りを上げたい気持ちを堪え、彼は考えた。考えて、ある考えに至った。
希望である彼女たちにだって、きっと、休息が必要なのだ。
休日出勤の冴えない彼に、休息が必要であるように。
トゥインクル・シリーズの大変熱心なファンである彼は、彼女らに声をかけなかった。ともに新宿駅で下車するまで、ずっと。喉から手が出るほどサインは欲しかったし、引退した彼女たちの人生を応援してあげたかった。否、応援させてほしかったが。今はそのときではないのだろうと思ったのだ。彼にとって、千載一遇のこのチャンス。すくいあげないことこそが、煌めく希望をくれた彼女たちへの恩返しだった。
新宿駅のホームを歩いていく彼女らの背中を、声も届かない場所から見送る。寄り添う彼女らが雑踏に紛れて見えなくなるまで、彼は無言で見送った。
職場へと足を向ける。六連勤が待ち受けていることを思い出しても、不思議と気持ちは沈まなくなっていた。肩の荷を下ろそう。凝り固まったビジネスリュックの荷物を整理しよう。次の休日には、一等お気に入りのスーツを、贔屓のクリーニング屋に持って行こう。今を生きていこうじゃないか、彼女らにもらった希望を胸に。彼の足取りは軽い。
◇
京王電鉄京王線、高尾山口行、特急。
十号車。かつて凱旋門賞を駆けた、二人のウマ娘が乗車している。
女性は、乗り合わせていた。
新宿駅から、京王八王子駅まで。親友の結婚式から披露宴、二次会、三次会……と、最後まで参加した彼女は、日曜日の朝、歳に見合わぬ朝帰りを敢行中。この曜日、この時間帯、都心から郊外へ向かう電車は閑散としている。おかげさまで一番端の席に陣取ることができたが、兎にも角にも頭が痛いし、吐き気だって収まる気配がない。
ガタン、ゴトン。彼女は、とても憂鬱な気持ち。
しかし、俯いたままでいると、本当に吐き出してしまいそうだ。美味しかった食事も、自分の気持ちも。と、彼女は黄土色の隈で雪空のように陰っている目元を擦って、顔を上げる。乗客が転々と座る車内は、代わり映えのしない毎日とは少しだけ違う、休日の景色。早朝の下り列車だからだろうか。いつもひとで埋め尽くされている座席は、渡りに舟とばかりにリニューアルした煉瓦色の背もたれを自慢している。まばらに席を埋めるひとは思い思いの服装をして、それぞれ別々の街へ向かっている。彼らのように、彼女は自由ではなかった。しわくちゃになった窮屈なドレスに溜息を吐いて、足元のピンヒールに視線を引き戻す——、と。
目の前の座席。
二人のウマ娘が目に留まる。
女性の真向かいの席、彼女らは肩を寄せ合って浅い
ここで、彼女は気づく。
凱旋門賞を走ったウマ娘だ、と。
一人は日本から初めて凱旋門賞に挑戦したウマ娘で、一人は日本のウマ娘でただひとり凱旋門賞を勝ったウマ娘。朝帰りの彼女は、トゥインクル・シリーズの熱心なファンであった。当然のことながら、呼吸を忘れるほどに驚く。サインが欲しいと、呼び起こされた子供心が駄々を捏ねる。同時に、大人になった疑問符が脳裏を駆け巡った。
何故、彼女は煌めきを見失っているのだろうか。
日本中を、世界中を、彼女を、狂気の沙汰とも言い換えられる最高の夢へと誘ってくれた彼女は何故、今を生きていないのだろうか。未練がましく、おめおめと朝帰りをすることになった彼女の目に、こんなにも眩しい煌めきを見せつけているのに。彼女の目には、何故、己の煌めきが映っていないのだろうか。「あなたの走りが好きでした、今も」。こっそりと伝えたくなった衝動を堪え、彼女は考えた。考えて、ある考えに至った。
希望である彼女たちにだって、きっと、休息が必要なのだ。
朝帰りの哀れな彼女に、休息が必要であるように。
トゥインクル・シリーズの熱心なファンである彼女は、彼女らに声をかけなかった。彼女らが府中駅で下車していくまで、ずっと。大枚を叩いたドレスの背中に描いてほしいくらいにサインは欲しかったし、引退した彼女たちの人生を一言、応援してあげたかった。否、応援させてほしかったが。今はそのときではない気がしたのだ。彼女にとって、千載一遇のこのチャンス。すくいあげないことこそが、煌めく希望をくれた彼女たちへの恩返しだった。
府中駅のホームを歩いていく彼女らの背中を、嫌いなピンヒールで立ち上がって見送る。彼女らがエスカレーターに吸い込まれて消えるまで、彼女は無言で見送った。
新宿駅で勝ち取った席に座る。大好きな親友が結婚していったことを思い出しても、自暴自棄になってはいけない。肩の荷を下ろそう。家に帰ったらドレスを脱ぎ捨てて、パジャマ代わりのスウェットで眠ろう。次の休日には、奇抜だと指を差される大好きなお洒落をして、これまでと変わらぬ調子で愛する親友をお茶に誘おう。祝福のメッセージを重ねよう。今を生きていこうじゃないか、彼女らにもらった希望を胸に。彼女は鼻歌をうたう。
◇
京王線府中駅。
二人のウマ娘は下車した。
モバイルSuicaをタッチして、ピピッ、スマートに改札をくぐる。六百六十四円也。ふと誰かに見られているような、呼ばれているような気がして、ナカヤマフェスタは振り返る。先を行くシリウスシンボリは「なぁにしてんだ」と呆れながらも、さりげなく足を止めてくれる。二人を乗せてきた電車はきっと、もう、次の駅へ。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン——振り返った先には、誰もいなかった。
妥当だ。ナカヤマフェスタは鼻で笑う。希望で在れなくなった〝ナカヤマフェスタ〟に気づく者など、一部の親しい人々を除いて存在するわけがなかった。「すまん」。気づいてくれた先輩に謝りながら、彼女は京王線府中駅を去る。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン——彼女が気づかなかった人々を乗せて、電車は高尾山口駅へと走る。
「久しぶりに走ってみるか? ここからそう遠くはないはずだぜ」
タクシー乗り場を示す看板に寄り掛かって、ご機嫌なシリウスシンボリはなんとも矛盾している誘い文句を述べた。約一時間。電車に揺られている間、彼女はうとうとしていたから、やっと眠気も吹き飛んで気分は絶好調。そういうことなのかもしれない。ブロロ……と、図ったように滑り込んでくるタクシーが一台、二台。
平日朝の駅前、黄色い点字ブロックが曲がり角まで続いていることを確認できるくらいに、人の影はまばらだ。軽快なエンジン音とシリウスシンボリが「オイ!」呼ぶ声をBGMに、ナカヤマフェスタは財政状況にじっくりと思いを巡らせる。ここ三ヶ月ほどは勤務態度がよろしくなかった自覚もあって、財布も、預金も、寂しいはずだ。恥ずかしながら、タクシーに乗れるほどの身分ではない。シリウスシンボリにそう伝えようとして顔を上げると、既に彼女は気前良く、格好良く、勝手に右手を高く上げていた。
ナカヤマフェスタは苦笑する。
ブロロ……。タクシーが一台、二人の前にぴたりと停車した。
「おはようございます、ウマ娘のお嬢さんがた。今朝はどこまで?」
「どうも。っと、住所で伝えるぜ」
ロマンスグレー、上品に微笑む高齢の男性ドライバーだ。
「府中市——……の、——……」
慣れた様子でタクシーに乗り込みながら、シリウスシンボリは住所を
ドアに手を掛け、車内に半分ほど首を突っ込んだナカヤマフェスタは、無意識にウマ耳を絞っていた。聞いてはいけない。覚えてはいけない、覚えたくない。それでも聞いたなら、覚えてしまうのだろう。ドッドッド、心臓がやけにうるさい。ブロロ……、エンジン音が耳に障る。確かに気が散っているのに、壊れた脳味噌のどこかが集中を諦めてくれない。ああ、煩わしい。ウマ耳を絞ったまま、彼女は眉間に皺を寄せて俯いている。
シリウスシンボリが座席に着いて「ふう」と息を吐く。悠々とふんぞり返って、偉そうに脚を組もうとして小さな尻を動かす彼女は、ドアに手を掛けたまま動かなくなったナカヤマフェスタを見つけて、長い睫毛でバチバチと瞬きを繰り返した。首を傾げる。可愛らしい尻の動きは中途半端に一時停止して、眉は顰められ、口は間抜けにポカンと開いて、
「……ナカヤマ、お前。まさか、本当に走るつもりか?」
普段より半オクターブ高い引き攣った声で、問いただした。
真っ赤な瞳の彼女は、至って真面目だ。たとえるならば、へらへらと不真面目に仕掛けた罠に獲物がかかり、大真面目に驚いてしまった、というところか。
「いや、乗る。バカ言え、乗るさ」
そうやって返事をするには、腹の底からくつくつと込み上げてくる笑い声を堪えなければならなかった。変なところでバカ真面目な狩人の表情と声と言葉に宥められ、ナカヤマフェスタの眉間の皺は解されていく。「その住所を口に出すな」「私に教えてくれるな」。一分前の彼女が言いたかったことは、なにもかも、言い出せないままに終わった。時間は常に一方通行。刻々と過ぎ去っていく概念であって、遡ることはできない。やり直すことはできない。……——■丁目■番地■■、■■■■■マンション■■■号室。案の定、まるっと覚えてしまったが、どうせ、そのうち忘れられるだろう。忘れてしまうのだろう。いつまでも覚えていたって、生きていく上で重荷にしかならないのだから。
目前に迫る葛藤には蓋をして、ナカヤマフェスタもタクシーに乗り込む。煉瓦色の、手入れがよく行き届いた快適なシートに背中を預けて、シートベルトを締める。目を閉じる。「ドア、閉めます。ご注意ください」という丁寧な声かけのあと、控えめな音が左隣から聞こえた。夏の滲む春風がふわりと頬を撫でた。護送車の中は、意外と過ごしやすいのかもしれない。
「では、出発しますね」
◇
(チャイム音)
そこは、なんの変哲もない居所だった。
ナカヤマフェスタの卒業後、トレーナー寮からは退去したらしい。
学園まで自転車で通える距離に立地している、東京のど真ん中にあったらば街に紛れて消えてしまいそうな、なんの変哲もない五階建てマンションの二階。二〇九号室。女性の一人暮らしだというのに、オートロック付きの物件は選ばなかったようだ。なんて不用心な。肝が据わっているとも言える。……——カン、カン、カン、カン。金属音が空気を震わせる。目的の部屋が二階にあるなら、エレベーターを使うよりずっと面倒が無い。螺旋階段を登りながら、ナカヤマフェスタは他愛の無いことを考えていた。
【二〇九号室】
共用の廊下には、タイヤの小さなミニベロタイプの自転車が停められている。こいつが相棒となって、彼女は毎日通勤しているのだろう。お洒落な赤い車体に、荷台は存在しなかった。申し訳程度のチェーンロックが適当に巻かれているのを見て、ナカヤマフェスタは思う。なんて不用心な。肝が据わっているとも言える。目の前でチェーンを引き千切って、車体を階下に放り投げてやったなら、あれはどんな顔をするのだろうか。(チャイム音)シリウスシンボリが勝手に押したチャイムの音は、頭の中でぐわんぐわんと反響し続けている。
「『……どちら様ですか』」
インターフォン。その向こう側の世界、まだ耳に馴染みが残っている女性の声。
「私だ、シリウスシンボリ」
「『あら』」
ブツリ、有線通信が途切れた。
間を置かずに、二〇九号室の中からパタパタパタ……と、床を跳ねるスリッパの音が聞こえてくる。近づいてくる。近づいてくる。ガチャリ、鍵を回す音。凱旋門賞ウマ娘が本気で蹴っ飛ばせばぶち破れそうなドアとはいえ、スチール板で(まだ)確実に隔たれているのに、今は知らない彼女の生活を、気配を、息遣いを、嫌でも感じ取ってしまう。
冷や汗が流れて、とんでもなく喉が渇いて、心臓がうるせぇ脈を打って、無意識のうちに身体が動いてしまう。右足があとずさる。小石を巻き込んで、それは自転車に当たってカン、と虚しい音を立てた。左足が、右足が、左足が、彼女から無限遠の距離を置きたがっている。
「お前なあ」
低い声。今なお輝く一等星シリウスの引力に抗う根性など、生憎持ち合わせていない。
ナカヤマフェスタは縮こまって、シリウスシンボリの背後に隠れる。思い返せば、これは賭けなのだと彼女は言っていた。ならば、決着の瞬間は平等におとずれる。勝負から降りるわけにはいかない、そもそも、今更降ろしてくれるようなウマ娘じゃない。板チョコレートみたいな模様の古びたドアが、ギイ、と重苦しく鳴きながら開いていく。息をひそめている——
「珍しいね。今日はどうしたの、シリウス」
殴り飛ばしてやりたいと思った。
ああ。殴り飛ばしてやりたいと思った。
唐突に、衝動的に、動物的に、殴り飛ばしてやりたいと思った。理由はわからなかったが、後からついてくるものだと思った。こんなに強烈な感覚は初めてで、いや二回目で、もしかしたら三回目か四回目か五回目で、実のところ六回目なのかもしれない。殴り飛ばしてやりたい欲求はバカみたいに肥大化していったが、シリウスシンボリに足を踏んづけられていて、彼女の背後に隠されたまま縫い止められていて、今のところは実行に移さずに済んでいる。殴り飛ばしてやりたいと思った。
ナカヤマフェスタの人生はバッドエンドルートに突入しているのだろう。が、さすがに傷害でお縄にかかるなんてのはごめんこうむる。そのへんの分別は、バカなりにあるつもりだった。地味に落ちぶれてから先生に会わせる顔も無くなったのに、未来永劫その権利を剥奪されることを想像すると、ちゃんと(まだ)身の毛もよだつ思いがするからだ。ナカヤマフェスタは右の拳を固く握って、シリウスシンボリの影にひそんでいる。
澄ました顔で登場した女を、今すぐに、私は殴り飛ばしてやりたいと思っている。シリウスシンボリは私の足を踏みつけている。首を大袈裟に傾げ、両手を肩幅に掲げて、彼女はねっとりと挑発するように話し始めた。まるで道化師、もしくはカジノのディラーか。
「私はな、賭けをしにきたんだ」
「…………賭け。今の、私と?」
「ああ。今の、お前と」
シリウスシンボリは不敵に笑った。
ダボダボのTシャツに草臥れたジャージという姿で玄関先に現れた女は、ずり落ちそうになっている丸眼鏡を顔に押し付けて、疲れたふうにへらへらと笑い返す。お茶を濁している。丸眼鏡の大きなレンズは酷く汚れて、曇っていた。女は大層疲れているのだろうとナカヤマフェスタは察したが、殴り飛ばしてやりたい気持ちは変わらず存在している。
凛と立つシリウスシンボリの背中だけが、微動だにしない。
白いTシャツだけが、春風を抱いてそよぐ。
彼女は彼女の賭けをしにきたわけであって、最初から、ナカヤマフェスタに手出しをさせる気などなかったのだろう。かつて勝負師であった者の端くれとして、シャツの中にぼんやりと浮かび上がる肩甲骨を見ればわかってしまう。彼女は堂々と胸を張って、ヒリつく勝負に挑もうとしている。ナカヤマフェスタの暴行事件によって、台無しにすることは許されない。殴り飛ばしてやりたい気持ちが消えないのに、力は抜けて、握った拳は解けていく。
「……——う、始まっているんだけどな」
数秒間の空白ののち、女がぽつり、呟いた。
シリウスシンボリのウマ耳がピクリ、目敏く反応する。ナカヤマフェスタのウマ耳もいくらか音を拾ってはいたが、収集したそれは言葉の意味を組み立てられるほどではなかった。春の風はいつも大切なものを攫っていく。
「なにか問題でも?」
「ううん、問題ない。問題ないんだよ」
曖昧に答えながら、女はボリボリと頭を掻き毟る。スリッパを行儀悪く脱ぎ捨てて、ジャージの上からふくらはぎを素足で掻く。
ナカヤマフェスタは呆れていた。
シリウスシンボリとこの女では、賭け事で勝負にならないとも判断していた。
さりげなく、背後からそっと手を伸ばして、彼女のシャツをクッと掴む。さっさと勝負をつけちまえよ、という煽り文句を込めて。すると、
「まあ、お前が
ぐら、り。
引き摺り出される。
引き摺り出される、女の前に、腑抜けてしまったトレーナーの前に。
まず始めに、乾いた砂の味がした。吸い込んだ砂は喉に引っ掛かって、ゲホゲホと激しく咳き込んだ。状況が飲み込めないまま、廊下に這いつくばって周囲を見渡す。シリウスシンボリが私を「……」見下ろしていた。元トレーナーが「……」私を見下ろしていた。春のくすんだ青い空が私を見下ろしていたが、誰も私を見限ってはいなかったとも思う。
言葉が伝えてしまうほど、それは乱暴な仕草ではなかった。
単純で、当たり前のことだ。背中へ伸ばした手首をひょいと捕まえられ、それからシリウスシンボリに軽く手を引かれただけで、誰よりも腑抜けていたナカヤマフェスタの身体は呆気なく振り回され、そしていつの間にかここへ投げ出されていただけ。砂を噛むのは、随分と久しぶりだった。ナカヤマフェスタに濃い影を落としていたシリウスシンボリが、ゆらり、動く。長くて綺麗な髪が、ふわり、春風に乗った。
「しばらく預ける。そいつを生かしてみろ。もう一度、昔と同じように」
「いいよ。今日のシリウスはどんな未来に賭けたの?」
「……さあな」
そう言い残して、シリウスシンボリというウマ娘は去っていく。
見限られたわけじゃない。理解していても弱い心が追いつかなくて、ナカヤマフェスタは彼女のダブルモンクストラップシューズに「テメェ!」唾を吐く。振り返った彼女は珍しくまあるい目をして驚いていたが、ひとつ瞬きを終えると、目を細めて微笑んでいた。見限られたわけじゃない。私を生かすためだけに、シリウスシンボリは本気の賭けに出やがった。額をコンクリートに擦り付けて痛みを享受し、ナカヤマフェスタは歯を食いしばる。
カン、カン、カン、カン——……。二人で登ってきた螺旋階段を一人で下って、シリウスシンボリはトレセン学園のある府中市を去っていく。二人同じ部屋で過ごした、この府中市を去っていく。彼女の影はとても濃い黒だったから、きっとお似合いの夜に帰るのだろう。ナカヤマフェスタを眩しい昼に置き去りにして。カン、カン、カン——……。聞こえなくなって、
ふ、と。余韻に浸る暇も与えず、違う影が彼女を染め上げる。
「久しぶりだね、ナカヤマ」
「……おう。あー、久しぶり、です」
「お茶でも淹れようか。温かいのと冷たいの、どっちがいい?」
そう言って無理矢理割り込んできた手を、彼女はつい握り返していた。
ぐ、と背中が反って、人間にしては力強く、強引に助け起こされる。懐かしい丸眼鏡が眼前に迫るが、レンズは酷く汚れて、曇って、奥にひそむあの真っ暗に輝く瞳は見えないまま。色素の薄い唇だけが微笑んで「汚れてるね。取っちゃっていい?」。流れるように近づいていた彼女の指が黒マスクを引っ掛けて、パチン。碌に返事も待たないで、奪っていった。
なんだ、この人は。
「温かいの、いや、火傷するくらいがいいね。まずはナカヤマの話を聞かせてよ」
繋いだ手を引かれ、ナカヤマフェスタは二〇九号室へと連れ込まれる。
青い空の見えない玄関には、白いチューリップが一輪。違和感。ナカヤマフェスタはわけもなく戸惑っていた。が、身体に染み込んだ習慣は赤いスニーカーを勝手に脱がせ、二つの踵を指に引っ掛け、一応はお邪魔をする身なのだからと両足をきっちり揃えている。
「相変わらずお行儀がいいよね、意外と。どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます」
元トレーナーは来客用と思わしきスリッパをナカヤマフェスタに履かせて、部屋の奥へ繋がる通路を彼女に譲る。誘う。促す。流されるがままの身体を避けて、ガチャリ。二度目はより生々しく、鍵が回る音。一人暮らしの女性として、当たり前の行為。至極当たり前で常識ともいえる行為を、何故か、酷く悍ましく感じてしまっている。
なんだ、この人は。
いや——、
ナカヤマフェスタは首を小さく横に振る。
どうしたんだ、私は。
卒業を機に疎遠になっていたとはいえ、あの頃、生きる当てもなくぶらぶらしていた私を見つけて、担当になってくれた人じゃないか。五年もの歳月を費やして、彼女自身の人生の一部をも捧げて、一度は私を生かしてくれた。先生だって彼女を認めていた。輝かしくも泥にまみれたあの五年間だけは、絶対に嘘や幻じゃない。だから、だから。震える拳を握る。押し込まれた廊下から、玄関を振り返る。原因不明の不安が拭いきれなくとも、彼女は覚悟を決めて元トレーナーと正面から向き合う。
「……な、なあ。トレーナーはさ」
「不用心だと思ったでしょう? 普段はね、ドアのチェーンもちゃんと掛けてるんだよ。だからナカヤマは心配しないで、あなたがいないところで死ぬつもりはないからさ」
ドアのチェーンが掛けられ、鈍色の鎖がぶら下がる。
彼女は泣きそうな顔で、笑っていた。
そうか、この人は。
今更殴り飛ばしたいのなら、心ゆくまで、存分に殴り飛ばし合おう。あなたが海に飛び込むのなら、ともにいこう。あなたが星に焦がれて堕ちるのなら、手を繋ごう。あなたと地獄まで一緒に行こう。さいごまであなたといきてみせよう。相変わらず丸眼鏡の奥の瞳は見えないが、呼吸もままならなくなるほどの笑顔を咲かせるナカヤマフェスタの元トレーナーは、きっと、苦しいくせに、そういうくだらないことを伝えようとしている。
そんな気がした。
そして。
それが、たぶん、あの悍ましさの正体。
黒いマスクは、ぐしゃり。
握り潰されて、呆気なくゴミ箱に捨てられる。彼女に奪われたそれはもともと使い捨てだったから、ナカヤマフェスタはなにも感じなかった。