“魔法少女“のバイト事情、ワケアリにつき。 作:流星の民(恒南茜)
3ヶ月ほど空いてしまいましたが引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
「……ルールはシンプルに。先にゴールに入れた方の勝ち。それでいい?」
掲げられたゴールの網目から射し込んだ夕日。
橙色に染め上げられたバスケットコートの真ん中で、ボールを片手に紫菜はそう言い切った。
「えっと……怪我は大丈夫なの?」
「……やらせて。前よりはずっとマシだから──全力で来て」
真っ直ぐに向けられた眼差しを前にして、それ以上紫菜を心配するのはむしろ彼女に対して失礼に思えたから。
頷くと、紗は視線をボールに移す。
「じゃあ、ゲーム──」
ぐっと引き伸ばされた時間の中で、ボールの像がブレる。
打ち上げられて数瞬。
「──スタートっ!」
──風が吹き抜けた。
一バウンド、紗が跳ねるよりも早くボールを掻っ攫うと紫菜の影が真隣を駆け抜けていく。
怪我したんじゃなかったのか──以前口にしていたこととは裏腹、追いつけない一瞬。
「このまま──っ!」
紗を躱し、弾む、弾む。
前へ前へ打ち付けられたボールはすぐさま手元へと戻り、進む足は遠くへ。
紗が身を翻し、紫菜を追い始めた時には既に彼女は数歩先にいた。
「はあっ──!」
せめてボールを奪うことさえできれば──伸ばした手は届かず空を掻くばかり。
弾み、躱し、前へ──器用にボールを捌いては、進んでいく紫菜。僅か一瞬、かち合った瞳は爛々としていて、火花でも散っているかのようだった。
「ゼェッ……!」
──届かない。
咄嗟にそう思えてしまうほどに、紫菜は本気だ。
ちっとも加減を感じない眼が前を──ゴールを向く。
──ダンッ!
響き渡る跳音。
紗の追随を許さないまま弾ませたボールを抱え込み、強く、強く、紫菜は踏み込む。
地を──その瞬間だった。
「──っ!」
ガクン、と。その体が深く沈んだ。
ボールを投げ入れるための予備動作だ、すぐにその体は高く跳ぶはず……と。そう思っていたのだけれど。幾ばくか経っても彼女は動かない──どころか。
コロン、と。落ちたボールは力なく跳ねると、転がっていって。
「なっ……!」
ぐらり、前へ。直後に紫菜の体は倒れ込んだ。
あの日、紫菜が右腕代わりになってくれた日とはわけが違う。互いの間にあった距離は、咄嗟に駆け出しても到底埋まらないもので。
今回ばかりは、間に合わなかった。
「──紫菜さんっ!」
どさりと、そのまま地に伏せた紫菜の下へ駆け寄る。
紗にしてみれば、どうにも生きた心地がしなくて。
「……大丈夫っ!?」
「……別に。蒼井は大げさなの」
仰向けになった紫菜は薄く微笑んでいた。
膝を擦りむいている、汚れてしまった額を擦り擦り、痛かろうに、そんな様子をちっともおくびに出すことなく、むしろ気味が悪いぐらいに穏やかな表情を湛えていた。
「……あのさ。アタシ、全力だった。バスケ強かった、でしょ?」
「……ええ。強かったわよ。勝てる気なんて全然しなかったもの」
「ほんと。愚直に、本気でボール追っかけてさ。足はついてきた、蒼井より速かった。行けるって思った。あの時みたいにゴールに入るって思って。強く前に出た、のにっ……」
せき止めていればせき止めているだけ、溢れ出てしまうもの。
堪えていれば堪えているほど、もうどうしようもなくなってしまうもの。
くしゃりと、表情が歪む。
その瞳が、ぎゅっと閉じられた。強がるように引き結ばれた口元から漏れたのは──嗚咽だった。
「……足に、力が入らなくて。……痛くて、たまんなくなっちゃって……やっぱり、だったんだ」
幾度も、幾度も。
痙攣するかのように、声を途切れさせながらも継がれていく。
そうやって吐き出されていった紫菜の言葉は。
「アタシの”好き”はさ……もう、無いや」
──達してしまったのだ。
彼女にとっては残酷すぎる答えに。今度こそ、本当の意味で。
「そんな、こと……」
「……ある。あるんだ。だって、蒼井も見てたでしょ……? アタシが失敗したところ。……跳べなかった、ところ」
わかりきったことだっただろう。
ずっと体育を見学していた紫菜が、足を怪我した彼女に、もうバスケができないことは紗にだって──わかっていたはずだった。
それなのに、真っ直ぐな眼差しに負けてしまった。頑なに”好き”を押し付けてくる紫菜なら、と。
もしかしたら、本当に彼女は大丈夫なのかもしれないって……そう思ってしまった。
「……言ったじゃない。わたしが、紫菜さんを支えるからって。今回はダメでも、次は……」
「だったら……逃げっこないでしょっ!?」
──次は、大丈夫。
なんの保証もない、気休めにしかならない、遮られた言葉。
それまで押し止められてきた感情。それが決壊したかのように、紫菜の口を衝いて出た言葉は強く紗に突き刺さる。
「バスケできなくなって、復帰しようって思って……でも、無理だってわかってっ……! ”好き”を諦めるのって、こんなに辛いんだって……わかる!? もう一度バスケさせてくださいって、アタシがどれだけ祈ったか……!」
「……それ、は……」
紗は”好き”を諦めずに生きてきた。
『ヴィエルジュ』で受け入れてくれる仲間がいたから、”好きを分かち合う場所”があったから、一度は捨てそうになって、学校から逃げ出して──その先で、居場所を見つけた。
「わかるわけないっ! みんなが……”好き”がある、アンタにはっ!」
きっと紫菜は──あの日、『ヴィエルジュ』と出会わなかった紗自身だったのだ。
「……っ、ゼェッ」
言い切って、漏らした息。荒く、紗を殴りつけた言葉。
はっとしたかのように、紫菜はそれを全て吐き出してしまった口を塞いだ。
「アタ、シ……」
──もう、惨めでしょうがない。
「諦めにきた、つもりで……なのにッ……! ひどい、ことっ……」
諦めようとしたはずなのに、惨めったらしく”好き”に縋り付く自分。
それが無理だったから、他者に八つ当たりした自分。
「ごめん……ごめん、なさいっ……!」
それが堪らなく情けないから。
だから、謝り続ける。子供みたいに泣き腫らして、機械みたいに同じ言葉だけ口にして。
紫菜は自身の惨めさを押し付けてくる──紗が顔を背けても、許しを乞うように。
「別に、わたしは気にしてなんか……」
紗にしてみれば、もう限界だった。
だから、宥めようとしてそう口にした。
一度弱みをそっと押しやって、軌道修正して。そうして落ち着いて欲しいと思っていた。
「……聞いて。紫菜さん、あなたは卑下し過ぎで……」
「……違う。違うんだ。……それだけじゃ、ない」
けれど、紫菜は首を振った。
ただ、だとしても。まだ吐き出しきっていなかったのなら、それすらも聞くつもりでいたから。
「でも……でも、わたしは……そんなあなたを弱いだなんて、思わない」
あなたに弱みがあるのならば、それを抱きしめるんだ──って。紗はそんな気持ちでいたから。
「失望なんて絶対しないから、全部話してくれていい。だって、わたしだって……逃げてきたんだもの」
杏以外の人間にこの話をすることは、思えば初めてだったかもしれない。
それだけ長い間、胸の奥で押し留めて来た紗自身の、何より触れられたくない……弱みだったから。
「……中学の頃、いじめられてた。それが堪えきれなくて、わたしは学校から逃げ出した。高校だってそう簡単じゃなかったわよ。対人関係って、歪で、難しいことばかりで……怖くて……」
それでも、紫菜にならば打ち明けても良いと思った。
むしろこうして弱みを共有することで、互いに歩み寄れるのならば──より分かち合えるのなら──
「それでも、あなたは──紫菜さんは、そんなわたしと一緒にいてくれた。それが堪らなく嬉しかった。『ヴィエルジュ』だけじゃなくて……やっと学校に行くことが楽しいって思えたの」
あの日、学校から逃げ出して『ヴィエルジュ』に駆け込んだ時からずっと、紗の居場所はそこだけだった。唯一の温もり、唯一分かち合えた”好き”、笑い合える相手。
授業の合間に寝ていたら起こしてくれる。
一人で書き殴っていたノートの落書きに興味を持ってくれる。
体育を休んでいる時、話し相手になってくれる。
そうやって積み重ねてきた、些細だけれど誰かと
たとえ『ヴィエルジュ』の外であろうとも、紫菜がそんな時間をくれた。
誰かと一緒にいることで、ようやく学校に行くことが楽しみになった。陽菜とも出会って、新しい居場所だってできた。
「……だから、これは恩返し。誰かと一緒にいることがこんなに楽しいんだって──あなたが前を向かせてくれたから。今度は、わたしが手を差し伸べる番なの」
傷は癒えない、トラウマは無くならない、いじめは──終わらない。
それでも、そっと傷を包み込むことはできる。痛いねって分かち合って、互いに気を紛らわせている内に、気づけば本当に痛みを忘れることだってあるかもしれない。
「紫菜さん。さらけ出して、泣き明かして──それから、帰ろう? また紫菜さんの手料理、食べさせてよ」
「あお、い……」
「絶対に、一緒にいるから。……わたしにも手伝わせてよ」
手を差し伸べた。
まだ怖い気持ちは拭えなくとも、それを紫菜が取ってくれると信じて。
紫菜の手が震える。その指先が触れ合った。帯びた熱がじわりと広がった瞬間に。
「……ごめん」
ぱっと、それは遠ざかった。
「それは、できない」
消え去った温もりの代わりだ。冷水をぶっかけられたかのように一気に頭が覚めていく。
「……どうして」
──だって、わたしたちなら許される。
それぐらい近しい存在になれていたと思っていたのに、紫菜の口から漏れたのは拒絶だ。
嫌に明瞭になった思考の中で、ぐわんとその言葉が反響する。
「……これ以上、蒼井に世話になるわけにはいかない、から」
「……なんで? 別に、わたしは気にしてなんか……」
「もうこれ以上は……ずっと……だんまりでいて、駄目だったんだ。……本当に、ごめん」
「紫菜、さん……?」
半ばうなされているかのように、「ごめんなさい」と。紫菜はただひたすらにそう口にし続ける。
その背をさすっても、どれだけ声をかけても一切届いていないようで、紗を無視したまま紫菜は言葉を継ぐ。
「……この公園さ、お父さんと初めてバスケをした思い出の場所なんだ……。もういなくなっちゃったけど、その前に約束した……陽菜を、絶対に守るって」
紫菜がどれだけ陽菜を大事にしてきていたか。
それは彼女と過ごしていた日々の中で紗だって、間近に感じたものだ。
妹だから、というわけじゃない。それ以上に献身的に、まるで自身の子供にでも接するように。
「……じゃあ、お父さんの分まで……紫菜さんは……」
「……うん。陽菜のために、アタシ自身が……正しくなきゃ、いけない。……だから、言う」
咄嗟に遮ろうとした。
彼女の口から漏れる言葉。それが──良い結果をもたらさないものであることを、紗は直感的に感じ取っていたから。
──言わないで、やめて。
紫菜の覚悟はひしひしと感じているけれど、それよりも紗自身が保身に走るとするのならば、言わなければならない言葉。それが届くよりも先に、紫菜は口を開いた。
「……蒼井のいじめを、アタシは知ってた。ずっと……傍で見てたから」
周囲にはずっと黙ってきていたもの。
いつまでも胸を蝕んで、紗が他所に触れることを妨げていたもの。
「え」
──わたしの、傷。
「……そんな……何で……嘘、よね……?」
「……本当だよ。あのいじめの首謀者──彼女はバスケ部のキャプテンだった。同じバスケ部員だったアタシは止められるぐらい近しい場所にいて……それでも、だんまりだったんだ」
長く伸びた前髪をそっと持ち上げ、顔だけを露わにする仕草──その、紫菜の顔。
──ねぇ、今のキラピュアだってさ。
幾度となく脳裏をよぎった夢に見た、何よりも忘れたかったその日々。
積み上げてきた『ヴィエルジュ』での日々、紫菜と過ごした日々で全て塞ぎきってしまっていたと思っていたけれど、堰を切ったように溢れ出す記憶の中で。
──
「……いた」
いじめの現場、その片隅で彼女の瞳は紗を見つめていた。
何をするでもなく、首謀者の傍らに彼女の姿は──紫菜はいた。
「……うぷっ」
思わず酸っぱいものが込み上げてくる。
今日の今日まで、どうして紫菜があの場にいたことに気づけなかったのか──その理由は簡単だった。
「……や、だ」
──忘れたかったから。
何よりも、その記憶を封じてしまって押し込んでしまって、もうなかったことにしてしまったから。
変わった外見だとか、髪色だとか、そんなものよりもずっと紗自身の問題だったのだ。
「黙っててごめん……思い出させてごめん……あの日、何もできなくて、ごめん……」
あの日、大好きだった髪留めを引っ張られた。
首謀者は笑っていた、どうみてもあっちが悪かった。
それなのに──誰も、手を貸してはくれなかった。
「全部っ、ぜんぶ、ごめん、なさい……っ」
周りが全部、全部、嫌いだった。自分をここまで惨めにする周囲が憎くて憎くて仕方がなかった。
皆が皆、紗を苛んでくるような気がしていたから、だから、あの日に逃げ出したんだ。
「……そんな、謝られたって……わたし、にはっ」
逃げ出したわたし。それを紗が肯定できるようになったのは紫菜がいたから。
彼女が手を取ってくれて、少しずつ歩かせてくれたから。行き先を教えてくれたから。
「あなたが……紫菜さんが……っ」
だけれど、それは信頼ゆえだった。
「……間違ってたの……?」
紫菜が正しいのだと、彼女にならば自分自身の──それこそ秘密ですら──預けていいってそう思える相手だったから。
「……うん。アタシも、蒼井も……お互いに、ね」
だとしたら、今まで積み重ねてきたものは何だったというのだろう。
互いにさらけ出した弱み、好き──近しくなれたと思った。とびっきりの”いま”だった。
そんな紫菜との関係性は、どうして……。
「なんで、じゃあ……なんで、わたしと一緒にいてくれたの……?」
背けられた紫菜の瞳。瞬いたそれは一度だけ紗を映した。
どこか逡巡しているようなそんな刹那は、しかして一瞬で過ぎ去って。
再び視線は逸らされる。
「それは……言えない、や……」
そして、それをきっかけとして。
傾いていく日の中で紫菜は背を向けた。その表情が捉えられなくなる。
「……あのね。きっと、許されないんだろうけど……わがまま、だけど……」
言葉が出ない。ないまぜになった思考の中で選び取るべき言葉が──紫菜に向けるべき言葉が。
紗にとってこれほどまでに自身の対人経験の浅さを呪ったのは初めてだった。
「落とし前だけは、付けさせて。アタシさ、自分のこと……許したい、んだ」
一歩歩みだす、紫菜の背が遠ざかっていく。
言葉をかけられない分だけ、立ち止まった紗との間に距離が開いていく。
だけれど、止めるべきかどうか──そもそも……紗にはもうわからなかった。
紫菜と一緒にいていいのか、なんて。あまりにも、お互いにとって虫の良すぎる話だから。
正解を託せる相手は──信じられる相手は──もう、いないのだから。
「紫菜、さん……っ」
辛うじて振り絞った声は、到底届くようなものじゃなかったと思う。
あまりにも無力で、だからこそ、あの瞬間を想起させた。
「……ごめんなさい、蒼井」
プツリと切れた髪飾り、ひび割れた装飾。
届かなかった、取り返せなかった。むしろ──この手で引き裂いてしまった。
大事なものを失ったとて、誰一人味方してくれない。
──あなたは手を出した。違う?
「そして、さようなら──どうか、幸せに」
ひとりぼっち。
大事なものだったはずなのに──それすら、守れなかった。
──このケガ、蒼井がやったんです。
ぽつりと一雫、落ちた水滴が紗の頬を伝った。
一滴、そしてまた一滴、やがては数え切れないほど──街中を覆い尽くすほどの、雨が降りしきった。
ザァザァと、あんなに濡れてた体だったはずだ。
紫菜と一緒に海で遊んでいたときはあそこまで、冷たいのすら──刺激的だったはずだ。
「……寒い、じゃない」
言葉を漏らした途端に、追いかけるようにして怖気が走った。
薄暗くなった視界で、もう立ち去った人影を捉えることはできなかった。
蹲ったコートの上、体を濡らす雨、凍えさせる雨。芯まで凍りつきそうなのに。
「……うぁっ」
目元だけはジンジンと、熱を帯びていた。
「わた、しは……」
あの日、大事なものを失って、それから紗はどうしたか。
謝った。よりによって、そのきっかけになった張本人に──いじめの首謀者に。
あの日から、少しは前進したと思っていて。だけれど、それは勘違いだったのだろうか。
──ごめん、なさい。
……そうだ。勘違いだった。
でなければ、こうして失うわけがない。
声は漏れ出ず、よぎるのはあの日口にした言葉。
蒼井紗は、変わらないままだ。