「……すごい」
思わず声が出てしまう。暗い空間に浮かぶようにそびえ立つ大水槽。数センチメートルのアクリル板の向こうには泳ぐ数千匹の魚たち。いや正確な数は知らないけど。実はもっといてもおかしくはない。
「よかった」
そう言うのは行き先も知らせず私を朝から連れ出した真山くん。別に目隠しとかされなかったけど、純粋にこういう場所を選ぶってことは考えてなかった。
「とはいっても私は海洋生物学方面の知識が皆無だからな……」
「僕もだけど」
「やっぱりこういうところはそういった知識があったほうがもっと楽しめるのかな」
もっと、って言った意味を理解してくれただろうか。いやとても楽しいですよ?信頼できる相手とわいわい言いながら色々と見て回ったり、シールを貼られて更新されている解説文の下になにがあったのか見ようとしたり。
「……嫌だった?」
「私は楽しめてるよ。ただ、別に私を楽しませるためにループを使う必要はないからね」
この楽しさを覚えている私はどうせ今日の夜にはいなくなる。知らせずにいてくれ、って考えることもできるけどまあ知らせてくれたほうが私は好きかな。そっちのほうが選択の余地が生まれるし。
「……これは、僕が結衣さんが楽しんでいるところを見たいからしているところだから」
「正直なのはいいことだけど、私以外にはもう少し嘘つきでいたほうがいいよ」
照れ隠しか、あまり見つめたくない本心をちゃんと見つめてしまって言っているのかは知らない。後者なら程々にした方がいいと思うけど、悩むのもまた大切なことだ。そんな偉そうに言えるほど経験があるわけでもないけどさ、真山くんよりはたぶんあるよ。
「……こういうところ、カップルが多いね」
私は黙ってしまった真山くんに言う。手を繋いだことってあるのかな。腕を組んだことはなさそう。いや今そういうことしてもいいですけどね、なんていうか、こう、照れる。恥ずかしい。
「……うん」
「そういう場所を選んだ?」
「……うん」
水族館はデートスポットとしてよく選ばれるやつだからね。夏休みというのもあって、結構若い層が来ている。
「ありがとうね」
だれかをもてなすというか、楽しい時間を過ごす時にそういう例を参考にするっていうのは実に正しい。むしろ私のほうがループを活用すること前提で無茶苦茶な行動計画を練ったりしたのだ。
一応同意は得ていただろう。今回の私が水族館に連れてこられたことのほうが、説明のなさという点で考えれば誠実ではないはずだ。
「……読んでいるの?」
「いや説明があるんだから読まないと……」
そう言って、私はかなりの活字中毒だったのを思い出す。両親がそうだったから家族旅行ではあまり気にしなかったが、中学の頃に授業で博物館行った時に集合時間を忘れてちょっとした騒ぎを起こしてしまった。
「わかった。ちょっとずれてもらっていい?」
「読むの?」
「和乃さんが読むなら」
あ、結衣って言わなくなってる。そっちのほうが慣れてしまったのかな。あるいは言うと恥ずかしくなるので回数制限があるとか。実際どうなんだろう。私だってたぶん真山くんって呼ぶのは結構変な気分になってしまうし、
「そう。でも、私に合わせなくてもいいし、必要なら先に行こうって言ったり、ちょっと待ってって伝えて」
そりゃまあ私だって合わせようと努力はしますけどね?たとえ今日世界が終わったって文字を読むのはやめられない。でもいいな、水族館という場所は。
考えてみれば、あまり来た記憶がない。もしかしたら初めてというぐらいかもしれない。話し声が聞こえる。なにか機械が動いているような低い音が聞こえる。
暗い足元。光が入ってくる水槽。シンプルな規則で一体のように動く魚の群れ。中の人の好奇心が見えるような解説文。
「……今回はさ、ほとんどお金を使ってないよね」
入館料は真山くんが払ってくれた。事前に言われたので学生証を持ってきてよかった。私だけだったら十中八九忘れていたので。
「……そうだね」
「帰りにさ、なにかおいしいものでも食べる?奢るよ?」
一泊か二泊するぐらいのお金があれば、お腹いっぱいいいものを食べることができる。いや具体的に何かってアイデアはないけど。
「……お願いできる?」
「わかった」
「……楽しそうでよかった」
「なに、今までの私はそこまで楽しそうじゃなかった?」
「かなり動いて疲れているって方が強かった」
「……まあ、楽しんでいなきゃ私はそこまで動かないけどさ。あとここはまた来たいな。一人でもいいけど」
今の私はたぶん二度と来れないので、ループが一通り終わった後に説明をお願いしよう。ここなら夏休みの残りの期間で来ることもできるだろうし。
「伝えておく?」
「覚えていたらでいいよ、それよりももっと重要なものがあるでしょ?」
私の言葉に真山くんは一瞬だけ思い出そうとして、それが何かを理解したらしく黙って頷いた。