本章には、性的暴行を示唆する表現が含まれています。
そういった表現に対して不快感や不安を感じる方は、ご自身と相談の上読むかどうかご判断ください。
交流会1日目、祈本里香の完全顕現事件の当日夜。
真依が目覚めたとき、辺りは暗闇に包まれていた。
感じるのは消毒液の匂いと、腹部に残る皮膚が引っ張られるような違和感。
(そうだ、私)
違和感の場所を撫でた指先に伝わる僅かな凹凸は、最後に見た光景が現実だったということを真依に伝えていた。
(特級怨霊、葛陰、領域……無下限呪術)
目を閉じて真依はひとつひとつ記憶を辿る。
最後の記憶は、葛陰開己が無下限呪術を使用して特級怨霊を倒した瞬間。
「何なのよ……あいつ」
ひとりきりの部屋にその声は小さく響いた。
◇
それから数日後、真依は呼び出しを受け
高専に通ってからというもの、基本的に家とは連絡を取っておらず、呼び出しがあったとしても歌姫の配慮により任務などを入れてもらう等をして避け続けていたため、禪院家の敷居を跨ぐのは入学以来初めてだった。
(相変わらず嫌な家)
案内を申し出た女中の誘導に従い、真依は埃一つない静まり返った廊下を音を立てずに歩く。
骨の髄にまで染み込んだ処世術が無意識に体を動かしていた。
「真依です。只今戻りました」
案内された部屋の前で、大きくもなく小さくもない細心の注意をはらって発されたそんな声は、襖の向こう側へ溶けていく。
1秒、2秒と心のなかで時間を数え只々黙って真依は反応を待った。
この場所で自由が許されるのは心の内だけだからだ。
「入れ」
襖の向こうから帰ってきたのは、酒と歳月に削られた厳かな短い声だった。
「失礼します」
女中が襖を滑らかに開け、真依はその部屋に足を踏み入れる。
酒と、男と、陰謀を煮詰めたような
(
すぐさま襖によって閉め切られた部屋の中に居るのは真依を除いて4名、扇を除けば、いずれも今の禪院家を仕切る立場にいる人間たちだった。
直毘人の名での呼び出しだったため、心構えをしていた真依だったが、事態は想定よりも面倒なようだ。
「真依、数日前に高専から公表された
直毘人が指さしたのは盆の上に置かれた小さな袋、致命傷の真依を救った転術糸、その正規品であった。
担任である歌姫からも聞き及んでおり、自身の傷を癒やしたものがそれであることも知っている。
「はい、先日高専の教師から聞きました」
「なら話は早い、出処は判るか?」
「いえ、五条家が関わっていることくらいしか存じていません」
思い当たる節はあったが、あくまでも憶測。
それを声高に触れ回るようなまねが自分の首を絞めることに繋がることを真依はよく知っている。
「アホちゃう、なんのために高専通ってんねん」
この場で最も真依に歳が近い男が不躾な言葉を漏らす。それを咎めるものはこの場にはいない。
「当然知ってると思うが、半年ほど前に内紛で崩壊した葛陰が五条の持ち物になった。間違いなく
直毘人が口にした名前が予想通りであり、特に驚きもせず、真依は静かに相槌を打つ。
「当主である葛陰
「はい」
口答えはしない。
東京校なら自分ではなくもっと都合の良い
「え、あの芋虫ども、名前まで芋虫なん? キッショイなぁ」
再び戯言が部屋を通過する。直毘人がそれを鼻で笑い、言葉もなく同調していた。
僅かな沈黙のあと、次に臭い口を開いたのは真依の血縁上の父に当たる生物、禪院扇であった。
「真依、
(それが実の娘に言うセリフか)
「ご忠告ありがとうございます、
自分に向けて言葉を放つ扇を初めて見たような感覚に襲われつつも、真依はいつもの仮面を被って答えた。
ずっとヘラヘラしてる男が横で「扇の叔父さん親みたいなこと言えるんやね、意外や」と反応のない甚壱に話している。
「先日交流会があったのだろう? そこで会う機会はなかったのか?」
「挨拶程度です。あちらは私のことを認識しているかどうか……」
「何をやっているのだ、お前は。交流会の意義も考えられんのか、出来損ないめ」
「私の不徳の致すところです。申し訳ありません」
(……黙っていられないのかしら、このゴミは)
直毘人からの問いかけへの答えを聞いて横槍を入れてきた扇。それに対して真依は、少しでもいいから甚壱を見習えと内心で罵倒していた。
それくらいしか出来ることはなかった。
「せや、ええこと思いついたわ」
先程から横で喧しくするだけだった男がその軽い頭で何やらろくでもないことを思いついたようで、手を叩きながらそう口にした。
部屋の注目がその男――――禪院直哉に集まった。
「ダッサイ眼鏡かけてその芋虫に会いに行ったらええねん。真希ですーって寄ってけば誰も気付かんよ」
「直哉……」
「何やパパ、他に案でもあるん?」
得意げにくだらないことを話す直哉に対し、直毘人と甚壱は呆れた様子だった。真依はただ黙ってそれを眺める。
唯一、この場で好意的な反応を示したのは最悪なことに、扇であった。
「悪くない案だな、同じ顔と躰、その上呪力も2人揃って有ってないようなもの。実の父である私でも不意に見間違うくらいだ、可能であろう」
「ほら、決まりやね」
(ふざけてるの?)
込み上げる憤りを腹の奥に留める真衣。
下らないこの案が決定されないように、直毘人に祈りと視線を注ぐ。
どうやら真依の祈りは届いたようで、ほどなくして直毘人は空になった盃を畳に放り、場を仕切り直した。
「下らん戯言はそこまでにしろ。真依、お前に命じるのは至ってシンプル、
「はい。……善処、します」
「何が善処や、舐めとんのかカス」
「なに、安心しろ、手を回して同じ任務に割当たるようにする」
「ありがとうございます。必ず」
「とはいえ機会は有限。出来て数度だ。ものにしろよ?」
わざわざ面倒な手回しするということは、それだけこれが重要であり、失敗が許されないということだ。
真依の全身にプレッシャーと拒否感がのしかかる。
直毘人は話は終いだと切り上げ酒を煽り始める、それとともに襖が開かれた。
廊下の澄んだ空気が流れ込み、ようやく息を吸えた気がした。
少しでもマシな空気を求め、一礼ののち部屋を後にする真衣。
しかし、そんな真依を引き留める者がいた。
「真依ちゃん、せっかく実家帰ってきたんやし、泊まってかんの?」
禪院家次期当主筆頭候補、直哉である。
悍ましい猫撫で声で鳴きながら、体を左右に揺らして歩き真依へと近づいていた。
「明日も朝から任務なので、すぐに高専に帰ろうかと」
「連絡すればええやろ、家の都合って言えば何も言われんよ」
直哉の腕が肩にかけられ、その手のひらが真依の体を撫で、輪郭を歪ませる。
不快感が真依の全身を駆け巡り、否応なしに過去の出来事が頭を過ぎった。
忘れたいが、忘れられない、心と体に深く刻み込まれた真依にとって最も不快な記憶だ。
「男をものにするなら
耳打ちされたその言葉に、体が言う事を聞かなくなる。
震えを抑えるので精一杯で、真依の気持ちとは裏腹に、これから訪れる
恐怖に目を閉じる真依の手を引いて助けてくれる姉はここにはいない。
「昼間から何しておる、バカ息子が」
「ごめんちゃい☆」
通りがかった直毘人の手刀が直哉の頭を叩くと、真依の体を這い回っていた手が離れていく。
真依は体を縮め、逃げるようにその場を後にした。
そのままそこにいては、喉の奥からせり上がってくる不快感が溢れてしまいそうだったからだ。
(死ね! 死ね! 死んでしまえ!)
廊下を走る真依の体から黒黒とした呪力が零れる。それを吸い取ってくれていたミサンガは今は手首には着いていなかった。
◆
(早すぎる……なんでよ、そんなに大事なことなの?)
真依は想像よりもずっと早い再会を呪っていた。
話を聞いてからたった数日、突然降って湧いた任務にすらねじ込むほどに、この
未だ覚悟は決まっていない。それどころか、受け入れられてすらいない。
同級生とありきたりな任務のために遠出して、運よく人を救うことができて、つい最近掴んだコツも試せて、充実した日だった。
こんな日常を守るために頑張ろう、そう思える程度に素晴らしい時間を過ごしていた。
そこに葛陰開己が現れるまでは。
眼の前にいる葛陰開己は、自分にも劣る呪力を漂わせ、ぎこちなく体を動かし、終始上の空で話もろくに聞いていない。
交流会で見たあの姿は何だったのか、今際の際に見た幻覚だったのかとさえ真依は思っていた。
指先で感じる傷跡の感触も、見様見真似で歪に補修されたミサンガもあの日の現実を伝えている。
特級怨霊の殺意も、見せつけられた
だが、それが今目の前で自分の様子をチラチラと伺いながら愛想笑いを浮かべる男と繋がらない。
あの時確かに感じた暖かさも、安らぎも、今はない。
真依にとって、今の葛陰開己は、禪院家という暗闇へと引きずり込む悪意の糸のように見える。
(何なのよ……こいつは)
葛陰開己のことを禪院真依は何も知らない。
真依はドブカスが『大人』かどうか知っていると思いますか?
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間違いなく知っている。ドブカスなので
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知ってそう。ドブカスならやりかねない
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どちらもありうる……そんだけだ
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知らなそう。ドブカスでも一線は越えない
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知らない。あれは真希への挑発に過ぎない
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原作未読or質問の意味がわからない