君と逃げよう、どこまでも   作:足洗

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設定の粗、抜け、キャラ崩壊等々多分にあるかと思われます。
叶いますならご容赦を。

某反応集まとめ動画にひどく影響されております。



上 貴方はゆく

 

 

 

「トレーナー、私は大丈夫だよ、大丈夫だから……」

 

 彼女は弱々しく笑み、囁く。

 けれど細い少女の指は、俺の背広の袖口をきつく握ったまま放さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうすべきだろうか。

 なにができるというのだろうか。

 

 彼女の為に。

 

 最近、考えることはそればかり。

 長らく答えを見出だせないのだから自身の優柔不断には嫌気が差すが、だからといって軽々に下した結論が良い結果に繋がるとも思えない。踏み切ってしまえないのは紛れもなく自身の不徳で、なによりこの不甲斐なさの所為なのだが。

 それにしても、どうしたものか。

 愚劣に思考は堂々巡り。解を得られないままただリフレインした。

 想うのは常に一人。一人の少女。

 

 メジロパーマー。

 

 やや赤みを帯びた滑らかな鹿毛、前髪に一筋走る白色の流星。

 癖毛というと女の子には失礼だろう。緩くウェーブがかった長い髪を後頭に纏めている。

 モデルのようにすらりと伸びた手足、それこそモデル体型と言って差し支えない肢体と美貌、それは同年代の少女達と比べても大人びて見える。

 けれど、その甘い垂れ目は。あのくりくりとして丸い瞳に見詰められると、俺は未だにほんの僅か、動揺した。特に、前髪に隠れていた左目と目が合う時、表現し難い感情が胸奥にもたげてくる。あれは、庇護欲に近い何かだった。幼く、脆く、儚いそれを慮らずにいられない。庇護欲に近いだけの、もっと救い難いもの。

 

『あははっ、どうしたの?』

 

 ほんの数秒、忘我した俺をいつも彼女は可笑しそうに笑うのだ。どうしてか嬉しそうに。

 まるで、俺の視線が自身を射すことが、嬉しいとでもいうように……妄言だった。

 手前に都合の良い妄想だ。

 まったく、呆れる。俺はひどく、ひどく彼女の好意に飢えている。餓鬼の如くに、醜悪なまでに。

 俺が教導と支援の担当に与った最初のウマ娘。

 彼女に(こんな言い方が許されるかはわからないが)見初められて、こんな立場になって随分と経つ。改めて思い返しても感慨は変わらない。

 あれは望外の出会いだった。

 彼女に巡り会えたことを、かの三柱の祖に心から感謝したい。

 彼女を見付けられたこと、彼女に見付けてもらえたこと。

 だからこそ、悩みは尽きないのだ。

 

『……新しい娘?』

 

 実績には報酬が、実力には課題が。

 URA直轄トレーニングセンター学園に畏こくも席を置くことを許された身。そんな己の義務を忘れる筈がない。

 ファイナルズの覇者メジロパーマー。

 彼女の不動なる栄冠は、ただの一助に過ぎない俺にさえ身に過ぎた褒賞を与えようとしている。

 次なる名バを、次なる栄華を、次世代を翔けるウマ娘の育成を。

 待ち望まれている。

 理事長直々の指名、世間から否応なく注がれる期待、夢を抱いて中央に挑むウマ娘達の懇願。一度ならず、何人ものウマ娘達に囲まれて直談判を受けた。

 次は私を。

 自分にチャンスを。

 どうか。

 どうか。

 

 ────本当に私とでいいの?

 

 あの日、選抜レースに賑わうコースを望む学園の屋上で。

 努めて朗らかに、精一杯おどけて、君は笑い話のように尋ねた。

 ほんの僅かでもこちらが拒めば、半歩の後込みでもすぐに君は気取り、引き下がったんだろう。今なら、それがわかる。

 気後れを柔らかな笑顔の仮面で覆い、こちらを気遣いながら、自分自身の硝子細工より脆い心を守ろうとしていた。

 あの時は考えもしなかった。

 ただ、ただ、君の笑顔のその美しさばかり記憶に残っている。

 俺のスカウトを君が受けてくれた。その事実を莫迦みたいに喜んだ。何も知らず、何も気付かず。

 明るく振る舞うその裏側で、拒絶と失望に怯える君を、俺は。

 俺は知った。

 知ることを許された。

 だのに、俺は今彼女の隣にいない。次の挑戦に進んですらいない。宙ぶらりんだ。

 

『いいよ』

 

 半端者に、美しい君は微笑む。なんでもないと、愛嬌一杯に顔を綻ばせて、俺の実質的昇進を祝った。

 

『トレーナーならきっとその娘を正しく導いてあげられる。なんたって、私みたいな面倒な奴をこんな場所まで連れてきてくれたんだもん。おめでとっ! あはは、なんだか私も嬉しい。私の……トレーナーが、これからたくさんのウマ娘を夢の舞台に送り出すんだ。うん、テンアゲの最高の……最高の』

 

 その日はパーマーと食事に出掛けた。お祝いだと彼女は無邪気に言った。ヘリオスも呼ぼうか、それはある種のお約束というかいつも通り当然の提案だったが。

 パーマーは、やんわりとそれを拒んだ。初めてだった。無二の親友であるヘリオスを食事に誘わないことも。こんな、ほんの些細な我が儘さえ。彼女は今まで一度も口にしたことはなかった。

 言葉少なに、それでもはっきりと、彼女は二人きりを望んだ。

 気取らない洋食店。過去にも幾度かパーマーやヘリオスと訪れたことがあった。

 

『美味しいね』

 

 窓辺のテーブル。交わされるのは他愛もない、どこか白々しい会話。

 あまり味のしない子羊の赤ワイン煮。付け合わせのニンジンはシェフが気を利かせてくれたのか、飾り切りでロケットの形に成形されている。パーマーのゲン担ぎ。それが無闇に懐かしい。

 

『トレーナー』

 

 窓の外を満たす夜景には現実感がなく、まるで夢でも見ているようだった。

 対面にはこの夜景と同じほど、幻のように朧で儚い笑顔。

 

『私は大丈夫だよ。もぉ、そんな心配そうな顔しないでよ。大丈夫! それにいつまでもトレーナーにおんぶにだっこじゃ不味いでしょ? 私は平気っ……応援、してるから』

 

 パーマーは慈母のような、あるいは迷い子のような顔で、じっと俺を見詰めていた。

 いつまでも、いつまでも、見詰めていた。

 

『また、ね』

 

 

 

 自分がお世辞にも機微に聡い人間でないことは然して厚みもないこれまでの生涯で既に知れたことだが。

 俺は満足に……彼女に対する感謝を告げられずにいる。

 いや勿論、礼の言葉を欠かしたことはない。日々のトレーニングの労いにと食事に誘うこともあればささやかだが贈り物をしたこともある。それはトレーナーと担当ウマ娘が良好な関係を築くに当たり至極当然の配慮であり、またコミュニケーションの一環でもある。

 その当然をして感謝の印などと、安上がりに済ませてしまう訳にはいかない。

 納得できる訳がない。

 そんなものが永訣の辞になってしまっていい訳がない。

 

 ────乗り換えるなら

 

 彼女の言葉が甦る。出会って間もなく、取り繕うように彼女が口にした言葉が。

 眼球の奥底で痛みが走った。それはここ数ヶ月の過重労働による疲労の所為ばかりではない。むしろこの痛みを忘れる為にこんなことをしているのだ。通常なら専任の経理・事務が行うような発注や設備・人員管理、ウマ娘ではなく学園への配属が決まった新人トレーナーに対する教育、カリキュラム・マニュアルの作成、時には関係団体への連絡・交渉・折衝まで、必要とあらばなんでもこなした。幸い学園の運営業務は多岐に亘る。

 だからこそ好都合だった。

 本来の、トレーナーとしての職務から逃げるのに、それはそれは都合の良い言い訳になった。

 眼窩の奥、脳髄の芯、あるいはそのさらに奥深くで疼くこの痛みを忘れるには、忙殺こそ望ましい。

 けれどそれでも、決して消えてはくれない。肉や神経ではない場所が、痛む。痛む。彼女を想うほど痛みは増していく。

 なるほど、忘れられる筈がない。

 同僚トレーナー達にこんな迷妄を聞かれた日には、呆れと万感の溜め息を添えて、くだらないの一言で一蹴されるだろうか。

 感謝の伝え方がわからない、など。これ以上ないほど恩知らずで、見下げ果てた卑劣だ。

 彼女と共に苛烈なレースの世界を走り抜いて来た。幾度も、幾度も、彼女の尽力が勝利を掴んだ。

 その栄光のお零れに与っていながら自分は彼女に何を報いた。何を……何も。

 

 パーマー。

 何万と心中に唱え、何万とこの声で呼ばわった。

 晴れやかに笑う、いや笑おうと()()()()少女を労しく思う。

 愛おしく、想う────莫迦な。何を烏滸がましいことを。

 身の程を忘れたか。近頃はよくよく、忘れてしまうのだ。

 快活に振る舞う彼女の隣にいると、どうしてもこの分相応というやつを忘れてしまう。

 それほどまでに俺にとって、パーマー、貴女は。

 君は。

 

 

 ……重症だな。

 ノートPCのエンターキーを押し込む指がやや力む。作成書類のバックアップと共に諸々データを保存し終えて、思い出したように時刻表示に目を這わせる。

 直近の記憶から約三時間が経過していた。作業に集中していた時間より、きっと意識が浮遊していた時間の方が長いだろう。

 しっかり、しなくては。

 締め切っていたカーテンを捲る。とうの昔に日は没し、窓の外は字義に相応の宵闇。

 晩夏の某日。トレーニングセンター学園より宛がわれた執務室で、本日も各種業務を遂行している。

 その時、デスクでスマホが鳴った。

 着信を確認して僅かに緊張が走る。秋川理事長からの、おそらくは催促だ。

 

『明察! 要件は二つ。そろそろ回答を聞かせてもらいたい。いや何分にも難題ッ! 急かすようで申し訳なく思うがお互いにとっての大事である。そしてここからは追伸ッ! 今から時間を作れるだろうか? 退勤記録はこちらではまだ確認されていない。君は今も学園内にて残務処理中と思しい。好機ッ! “彼女”と面と向かって話をしてくれ』

 

 秋川理事長の言動がエキセントリックに聞こえるのは、工程と心情的納得を省いて迅速に本題へ移る果断さが常人にはなかなか理解できないからだ。

 アポイントを求めているようで、その実これは事後報告なのだ。

 お前のところに(ナシ)を付けに行くから首洗って待ってろ、と。意訳すればこんなもの。

 了承の意を伝え、面談の場には教職員棟の一階応接室を指定した。そちらの方が表玄関や理事長室からも程近い。

 俺は執務室を後にする。

 迷いを絶たなくては。俺には職責がある。俺に、なによりもメジロパーマーというウマ娘の成長の為に、これまで手助けしてくれた多くの人々に対する責任がある。応える義務が、ある。

 俺は、トレーナーなんだから。

 

 ────私の

 

 …………誰の。

 俺は誰の為に、何の為にここにいる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何の為に。

 

 それは私にとって生まれながらの命題だった。

 速く、強く、そして美しい名バを数多輩出する大家メジロ。自分はそこで生まれた。育てられてきた。

 しかし、その輝かしい血統に連なりながら、私に与えられたのは“異端児”という忌み名だった。

 才覚と力を惜しみなく揮い、時代のウマ娘として先端を翔ける義姉妹達のそれとはまるで違う。

 いつからだろう。

 家名に恥じるところなく、矜持を以てメジロを背負う彼女らが、ひどく遠いと感じるようになったのは。

 あの家に自分の居場所がないと気付いたのは。

 いつからだったろう。

 いや、ないと決め付けて、思い込んで、勝手な疎外感と劣等感に焦っていただけだ。今ならそれがわかる。それだけのことに気付くのに二年近く掛かったが、ようやくわかるようになれた。

 ズッ友、ヘリオスとあの人が……トレーナーが、私に教えてくれたのだ。

 重かった。メジロが。

 次々に頭角を現していく姉妹達の背中が、遠く、遠ざかっていく。

 当時、周囲の重すぎる期待がそっくり同じ質量分の失望に変わり、無数の氷柱のようになって心を刺した。実際に陰口を耳にしたことも一度や二度じゃない。いちいち反応するのも疲れるくらい。慣れ切り飽き切るくらい。

 けれど私に、毅然としてそれを受け止めるだけの強さはなかった。斜に構えて反発する気力も、冷徹に無感動を貫く胆力も。

 私にはなにもなかった。

 あの家の中で、私に誇れるものはなにも。

 もしかしたらあったのかもしれない。もっとよく探して、もっと努力して、もっと出来ることを、もっと自分らしく、頑張って頑張って頑張り抜いていたら、見付かったのかも。

 今更だ。そのあったかもしれない居場所を鎖したのは、誰でもない私自身なんだ。

 だから、愛想笑いを覚えた。理解者という名の仮面を作った。

 重圧に晒されていたのは自分だけじゃない。マックイーン、ライアン、いやウマ娘と呼ばれる少女達その全てがほぼ同質の重みと痛みに日々耐えている。

 苦悩を。

 だから、私はその捌け口になろうと思った。それが常日頃()()()()()ことを知っていたから。

 私自身が、求めて止まないものだったから。

 相談に乗り、打ち明けられる悩みに耳を傾けるだけで、みんな感謝してくれた。大したアドバイスが出来る訳でもないけれど、頼ってくれるようになった。必要としてくれるようになった。

 私を認めてくれた。私はここにいてもいいんだって、思えた。

 私にも居場所がある。

 そう思い込めた。

 卑屈に安堵を噛む。都合の良いポジションに納まっていれば少しだけ、ほんの少しだけこの焦燥を忘れられた。両肩に掛かる重みを忘れられた。

 忘れた気になってただけだ。

 本当に忘れられたなら、私はここにはいなかったろう。メジロ家、トレセン学園、土地すら移って逃げていたろう。

 異端と蔑まれた自分の走りと同じように。

 ありとあらゆる全てから逃げる。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて……何処の誰でもない、ただの一人のウマ娘に。

 けれどそうはならなかった。そう、ならなかったのは。

 あの日、校庭で開かれた選抜レース、そこから半ば逃げ込んだ屋上で────貴方を見付けたから。

 

「トレーナー」

 

 カフェテリアの二階、窓辺のカウンター席。スツールに腰掛けて私は知らず知らず、呟く。

 まるですぐ隣に話し掛けるみたいに。

 隣には、誰もいない。店内は閑散としていて客も自分を含めて三、四人ちらほらと見える程度。

 窓の向こうを見るともなしに眺めた。鏡のようなビルのガラスに茜色の空が映っている。太陽は見えない。ただ残照が未練たらしく建物に縋り付いて、ずるずると落ちていく。地平線、乱立するビル群、そしてその上から夜の闇が塊となって夕焼けさえ覆い隠していく。

 電灯、街灯が点り始める狭間の時間。都会の光が暗闇を消し去る直前、ほんの刹那の、無明の時間。

 お似合いだと思った。居場所って言うなら、そんな場所こそ自分には。

 そして実際には、街が本当の意味で光を失う瞬間など訪れない。

 灯りはそこに、あそこに、どこもかしこも照らして広がってる。

 お前の居場所なんてどこにもない。

 夜景が瞬く。まるでそう、笑ってるみたい。独り闇を恋しがる私を、無数の光が嘲笑っていた。

 

「……」

 

 トレーナーにその話が持ち上がったのは、私が高等部三年に進級してすぐのことだった。

 新しいウマ娘の教導。延いては、新チームの設立。

 URAファイナルズ優勝バを育て上げた若き敏腕トレーナーの次なる挑戦。

 遅すぎたくらいだ。自分のようなピーキーなウマを、それでも重賞で立て続けに勝たせてしまうような型破りな育成能力。その力量はずっと以前から評価されていた筈だ。

 彼は待ち望まれている。

 そして今、案の定保留されていた多くの仕事が彼を取り巻いている。

 名誉なことだ。素晴らしいことだ。喜んで、あげないと。

 誰よりも、彼の下で走り続けた私がそれを祝福しないでどうする────

 

「……あぁ」

 

 バ脚を現す、なんて諺を思い出した。もしくはこういうのを語るに落ちる、というのかな。

 自分で白状してしまった。私の願望。私の、醜い本音がここにある。

 彼の下に新しいウマ娘が来る。彼はきっとその子を立派に育て上げるだろう。あるいは能力的に偏向した面倒な自分などより余程スマートに名バとして躍進を果たすかもしれない。

 そうなる。彼の才能は私が一番知ってる。私が一番、彼のことをわかってるんだから。

 だから。

 だから。

 私の中に淀み、渦を巻く黒いこの泥は。

 こんなにも、こんなにも!

 

「っ……!」

 

 スツールを蹴倒す勢いで席を立つ。

 私は逃げるようにカフェテリアを抜け出した。

 

 

 

 スマホにまた一件通知が入る。ヘリオスからのLANE、ものすごい数になってた。

 既読付けて、早く返事しなくちゃ。ズッ友が心配してる。

 

「……」

 

 アプリの一覧にはヘリオスの他にもいろんな子からメッセージが届いていた。

 トレーナーからも。

 

「…………っ」

 

 指先がスマホの画面に触れることはなく、結局は電源を落としていた。

 ……ヘリオスともここのところ、すっかり付き合い悪くなってたな。

 せっかく遊びに誘ってくれる彼女を何度も何度も袖にして、一体なにをしてるんだろう。

 あの日、行きつけの洋食店で開いたささやかな祝賀会。あれ以来トレーナーとは会っていない。あの日から私は授業が終わると学園を出て、当て所なく彷徨うようになった。街を、時には川原を、ある日は海辺を、林道を、郊外を、隣町へ夜中まで走り込みに出掛けたこともある。

 ただ、放課後の学園にだけは、どうしても留まる気になれなかった。

 あの人のいる執務室、職員棟、敷地にだって暫く近寄ってない。

 ばったりと出くわすのが恐かった。言葉を交わすのが恐かった。彼の顔を見るのが恐かった。

 告げられるのが。

 別れを。

 今の彼を知るのが。彼の、隣に、立つ誰かを。

 私以外の誰か、私より物分かりが良くて面倒がなくて、走ることにひたむきな娘。きっと私よりもずっと、ずっと、綺麗な娘。

 そんな誰かに寄り添われる彼を、見るのが、堪らなく、どうしようもなく。

 

「はぁ……はぁ……はぁっ……!」

 

 気付くと息が上がってる。店を出てから500メートルも走っていない。専用レーンでカケ足した訳でもないのに。

 心臓は無闇矢鱈に鼓動を打った。血がどくどくと耳の尖端にまで奔ってうるさい。

 視界がちかちかする。貧血かと思ったが、現実には体に然したる異常はない。

 わかってる。異常なのは、ここだ。胸の奥、心臓の奥の奥、肉でも神経でもない不定形の部位。

 ああ、また黒いものが湧いて来る。どろどろと粘ついてるくせに嫌に冷たい。暖かみの対極、冷えて凍て付いた感情の塊が、この上ない不快感で胸を満たす。

 高架下の暗がりに入り、コンクリートの柱に手を突いた。傾ぐ体、それをどうにか支えて、呻く。

 

「私……こんなに嫌な女だったんだ……ふ、はは」

 

 嘲るように笑う。自己嫌悪に笑う。

 次第に大きく、その聞くに堪えない笑い声は高まって、通過する電車の風と金属のうねりに呑まれた。

 痛い。

 痛い。

 氷より冷たい非実体の泥が胸を満たす。満ち満ちて溢れ返る。皮膚を凍てつかせ、肉を凝結させる。裂けてしまう。心が裂けて血を流している。

 痛い。胸が痛い。痛いよ、トレーナー。

 トレーナー。

 トレーナー。

 トレーナー。

 

 どれくらい蹲っていたろう。

 高架下の闇がいっそ暖かに思えるほどの間、私はアスファルトに座り込み膝を抱えていた。

 痛みは、変わらない。微かに薄らいだようにも思えるし、単に感覚が麻痺しただけのような気もする。

 重い。手足も、頭も、なにもかも。

 それでも立ち上がる。

 そう、それでも。

 私は告げなきゃいけない。ちゃんと、あの人と話をしなきゃいけない。

 でないと。

 

「言わないと、きちんと……あの人に……」

 

 トレーナーが前に進めないじゃないか。

 私が邪魔になる。重荷になる。彼の道を私のワガママが塞いでしまうなんて、堪えられない。

 

「行かなきゃ」

 

 言葉とは裏腹に体はどこまでも緩慢で、鈍重で、ちっとも上手く動かない。

 

「行くんだ」

 

 行きたくない。

 

「トレーナーに、会わなきゃ」

 

 会いたくない。

 

「会って、ちゃんと伝えよう……」

 

 さよなら、って。

 

「────ぐ、ぅぅうあああっ……!!」

 

 アスファルトを砕く思いで、一歩を踏み出す。宝塚より、有マより、ファイナルズ決勝戦よりも重く、辛く、苦しい一歩。

 過ぎ去る夜景が、猥雑な灯達が、寄って集って私を嗤う。愚かな女の疾走を、闇に隠した醜い想いを、光の下に晒し出す。

 私は走った。学園へ。あの人の許へ。

 

 




明日の夜くらいに完結予定
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