君と逃げよう、どこまでも   作:足洗

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中 君がいない

 

 

 着いてみればなんてことはない。この程度の距離。見知った道程。

 それこそあっという間。息も心も整える暇はなかった。

 職員棟は裏門から入れば本当に目と鼻の先だ。

 

「……」

 

 表玄関を潜り、靴を脱いで来賓用のスリッパを拝借した。

 警備の人や事務員の人はたまたま席を外しているらしかった。ウマ娘用の校舎や寮であれば考えられないような杜撰さだったが、今はそれが有り難い。

 何度も出入りしたことのある廊下を、私は殊更におそるおそる進んだ。トレーナーの執務室はもう少し奥まったところにあるB棟の二階。

 慣れた道順を辿ろうとした、その時に。

 ぴん、と両耳が立つ。耳孔に響いたそれを私が聞き間違える筈がなかった。

 

「……トレーナーの、声?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 先方の希望は有体に言えば専属契約だった。

 地方トレセン学園から中央に一時転入学するそのウマ娘を是非に育成して欲しい、と。

 URAに属する各ウマ娘養成機関の内、己が末席を汚すここ日本ウマ娘トレーニングセンター学園を俗に中央と称し、その他国の内外を問わず点在するものを地方と呼ぶ。

 中央と地方には当然ながら校風、教育要項、設備・組織規模、資本等様々な差異がある。世間一般の認識では、中央こそがウマ娘育成の本場であり実力実績在籍ウマ娘の能力いずれも国内トップレベルとされるが。

 確かに、間違ってはいない。

 過去この学園より輩出された多くの名バが偉業を成し遂げてきた。速く、強く、美しく、競走という言い訳の余地もない勝負の世界で少女達はその壮烈な生き様を人々に見せ付け、また魅せ付けてきた。それは歴史の証明するところ。

 しかし、現実というやつはどうしたって史実より生臭い。

 組織であるなら目的達成の為の適切な運営を要し、人が営みを送るには糧が不可欠だ。金が、断じて不可欠だ。

 トレセン学園とて組織。経営し、行った投資分だけ回収が叶わなければ立ち枯れてしまう。

 そして無数の団体によって構成されるURAにおいて学園同士は持ちつ持たれつ。資金を援助し合うこともあれば、業務を提携することとて間々ある。

 今回自分に齎された一件がまさにそれだった。

 西日本で最大規模を誇るそのトレセン学園からデュアルスクール制度の申し出があったのだ。

 生徒として本学園を訪れたウマ娘には中央が施行するカリキュラムと技能的指導を、その見返り……もとい同時並行して、先方には本学園から一般・幹部職員が少人数出向・研修に赴く。

 応接室、対面した黒革のソファー。そこに腰掛けた人物の、その小さな手の中で乾いた音を立てて扇子が開く。

 扇の地紙には達筆な字で『練磨』と書かれていた。

 

「商才ッ! と言ってしまえば身も蓋もないがしかし、関西トレセン学園学長は経営戦略手腕の点において人後に落ちぬ傑物。いわんやその部下として選ばれ鍛えられた職員のノウハウ。実学ッ! これを以て我が校にもそれを取り入れたい! 育成機関の先クたる中央を盤石とすることで、延いては生徒らが────ウマ娘達が、一片の憂いなく、思う様走ることのできる世界を創る為に、私はあらゆる手を尽くす所存である」

 

 純白のワンピースにパフスリーブのジャケットを纏う姿はまるきり深窓の令嬢のそれ。幼さすら残す面差しに少女然とした細い体躯、秋川やよい理事長の年齢不詳具合は今に始まったものでもないが。

 舌足らずな声音に似合わぬ威厳に満ちた言動。

 題目はとても立派であった。勿論、皮肉ではない。理事長の言は正しい。そして崇高だ。

 生徒達の為に長として彼女は尽力しようとしている。自分が今更顧慮するまでもなく、それはずっと以前から知っていた。この学園に初めて訪れ、一新人トレーナーに過ぎない自分に目を掛けてくれた彼女の思想、至上命題はただ一つ。

 ひとえに、それはウマ娘達の未来である。

 自分とて、一度ならずそれに共感を覚えた。今もそれは変わらない。変わらない、筈だ。

 

「抜擢ッ! 君にその手助けをしてもらいたい。新進にして気鋭、かのメジロパーマーを育て上げた若きトレーナー。他の誰でもない君に、だ」

 

 世辞も含めず力強く理事長は言った。それが最大限選んだ上での言葉であることも、容易に察せられた。

 異端。大家メジロの不肖の娘。変わり種であることを評したそれらはまだ可愛い方で。

 出戻り、などという心無い揶揄を耳にすることも一度や二度ではなかった。

 今でも、血が沸騰する。今、相応の地位職責を負った今ですら、それを口にした者を目の前にしたなら、俺は自分の暴力衝動を抑える自信がない。

 だが、そんな真似を働いた時、悲しみに暮れ罪悪感に圧し潰されてしまうのはやはり……彼女なのだろう。彼女は泣いてしまう。きっと、ごめんなさいと謝罪を繰り返しながら。

 ……愚にもつかない妄想だ。現実に意識を引き戻す。

 曰く付きのウマ娘すら勝利させたトレーナー。俺に対する世評とは、つまるところそれだ。

 業腹で、心外極まるが。

 

「……君の憤りは、わかるつもりだ」

 

 幼気な少女は努めて厳かに、やや朴訥とそう言った。同情というよりただ相手を労るような声音。彼女の子供らしさ、のようなものをようやく垣間見た気がした。

 無言の俺を理事長はどう捉えたか。暫時の沈黙。その後不意に、彼女は扇子をぱちりと閉じた。

 

「招来ッ! 入ってきたまえ」

 

 隣室の扉に向かって呼び掛ける。程なく、控えめにノブが回り扉は開いた。

 戸口には一人のウマ娘が立っている。ひどく緊張した面持ちで、少女がおずおずと口を開いた。

 

「は、はじめまして、私────」

 

 

 

 

 

 ひたむきだった。

 簡単な自己紹介、今回のデュアルスクール制度に対する意気込みや自己アピール。そういった入試面談的遣り取りの中に、控えめに、それでも確実な熱量で感じ取れるもの。

 レースへ懸ける想い、母校に対する愛着、家族のこと、友人のこと、自分の夢のこと。

 中央トレセンでの学びを、心から望んでこのウマ娘はここにいる。

 学園間の技術交換の機会。前例はあるのだろうがそれをチャンスとして活かすことのできる者が果たして世の中にどれほどいるものか。

 彼女はそれだ。夢を叶える為に。齎された奇貨を無駄にしない為に。単身ここへ来た。

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

 不安を押し殺して努力しようとする姿を健気に思う。ただただ人として尊敬に値する。

 俺は、それに応えねばならない。

 純粋に報われて欲しいと思える。こうして短く言葉を交わしただけの印象であっても、彼女のようなウマ娘こそ次世代を担うべきだと、偉そうに期待など抱いている。

 俺はトレーナーだ。ウマ娘を育成し、より速く、強くしてやることが仕事だ。使命だ。

 俺は、そういう青臭い夢を抱えてこの中央の門を叩いた筈だろう。

 応えるべきだ。応えてあげたい。

 君がそうであったように。

 君に、俺がしてあげられた僅かな尽力をこの子にも。

 

 パーマー、君はどう思う

 

 この期に及んで俺は自己一身によって決断することができなかった。

 俺の意志、俺の心。そこには常に君がいる。

 理由も、言い訳さえも、心の内に留め置いた君に縋らなければ出来ない。

 なんて無様だ。愚劣で、醜悪だ。

 情けない男だ俺は。

 笑ってくれ。パーマー。せめて君が笑ってくれれば俺は。

 俺は。

 

 ────お受けします

 

 

 

 

 

 応接室を出てすぐ、その少女は自分に続き廊下に出るや、こちらの手を取った。感極まった様子で。

 小さな両手がひしと、俺の右手を包み込む。

 彼女の意気込みは並ならぬものがある。地方で、悪く言えば燻り、実力を発揮する機会に恵まれないウマ娘は多い。その才能の多寡に関わらずだ。

 幾度も感謝を繰り返す少女に、俺は曖昧な笑みを返した。愛想笑いと呼べぬこともない。

 パーマーは、作り笑いさえ美しかった。

 俺はまた一つ、愚昧なことを思い返す。

 

 不意に。

 何を感じた訳でもない。耳孔に音を拾った訳でも、視界に影が過った訳でもなく、強いて言えば気配を覚えた。

 非科学的な、極めて感覚的な、馴れ親しんだ感触。

 いつも。

 いつも感じた。彼女の訪れ。

 

 振り向いた廊下の先。

 裏庭を望む窓の外。

 

 彼女はいなかった。愛バの美しい姿はどこにもなかった。

 電灯も点けない暗闇を孕んだ廊下に立ち尽くす俺を、ウマ娘の少女と理事長が怪訝な顔で見詰めている。

 取り繕う為に事務的なことを二、三適当に口にした。俺はなにをしてるんだ。自己嫌悪などは、心身にもはや常態化して久しい。

 重い体と心を無視して執務室へ取って返す。また仕事に埋没しなければ、新たな仕事を始めなければ。

 

 …………

 

 気の所為なのか。それとも気が違ってしまうほど、俺は君に飢えているのか。

 なあパーマー。俺は頭がおかしくなったらしい。

 君の影を幻覚に見るほど、俺は参ってしまっている。

 

 休息が必要だった。

 自分が望む望まぬに関わりなく、この身体コンディションでは業務に差し障る。

 どこか、落ち着ける場所に。

 この学園のどこに。

 ここは俺にとって今やただ義務を履行する為だけの場所だ。彼女が訪れなくなった執務室も、彼女に気安く会いに行くことが出来ないこの状態も。

 安息には程遠い。

 安らげるところなんて……ああ、けれど一つ、あった。

 

 俺の足は自然と階段を昇っていた。

 職員棟の果て。校庭を望む屋上へ。

 

 君と出会ったあの場所へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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