君と逃げよう、どこまでも   作:足洗

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下 貴方と、君と

 

 

 

 

 それなりに努力したとは思う。

 中央トレセン学園は狭き門だ。学力は当然としても、デリケートな存在であるウマ娘を教育し指導するに足る人間か、あらゆる分野の能力を要求される。

 役に立ちそうな知識や技能は片端から吸収し、レースやウマに対する理解と熱意を自己分析を重ね練り上げ、試験に当たってはありったけ面接官にぶつけた。

 ほんの二年か三年前。だというのに、随分昔の出来事のように思える。

 そうそれこそ、先刻対面したウマ娘の少女と同じことを俺もやってきた。

 

 晴れて学園付きトレーナーとなって数日。

 あの日は新入生と在校生混合の選抜レース期間にも関わらず、俺は一人腐っていた。

 ウマ娘もトレーナーも互いにスカウトの為に前のめり。だが実績はなく実力も定かではない新米トレーナーにはなかなか有望なウマ娘をスカウトする機会は巡って来なかった。

 今にして思えばなにを惰弱な。同期や先輩に見付かっていれば甘えたこと抜かすなと叱られていたろう。

 しかしその迷いが結果として彼女との縁を繋いだのだから、人生はわからない。

 よかった、と。心から言える。

 君でよかった。君に出会えて本当によかった。

 

 ────よろしくね、私のトレーナーっ!

 

 感謝は、次々に溢れてくるのに。

 俺はなにをしているのだろう。

 立ち止まったまま、進みもせず、しかし逃げてもいない。

 半端だ。とんだ半端野郎だ。

 踏み出す決心も、引き返す決断も、一人では儘ならない。

 

 だからここに来た。

 思い出に縋りに来た。

 職員棟の屋上は、いつも通り茫漠と無機質で、静謐である。整然と並ぶ室外機が轟々と唸るばかり。

 校庭を大型の投光器が眩く照らした。コースでは今も幾人かのウマ娘が走り、トレーナーらがそれを監督している。

 これもまたひたむきな、あるべき光景だった。

 自分が戻らねばならない姿だった。

 戻らなければ。

 義務を履行し、職責を遂げ、使命を果たすんだ。

 夢を……叶える。

 夢。

 トレーナーとして、ウマ娘達の夢を。

 

 君の夢の手伝いを。

 

 夜風が吹き抜ける。

 夏も暮れとはいえ、少し冷える。

 体に穴の空いたようだ。冷えたそれが自問自答に嵌った俺を嘲笑う。

 

 俺が、願うのは。

 数年前トレーナーを志した自分と、今ここに立つ自分は。

 今の俺が願うのは。

 

「トレーナー……?」

 

 !

 答えは身の内より出でず突然に降って来た。

 頭上からの声に振り返る。出入口建屋の屋根の上、給水塔の傍らにあるその姿。よろよろと彼女は立ち上がる。

 深緑のブラウス、胸元には同色のシルクのリボンタイ、チェックのタイトパンツ、そして手には黒のヒール────屋上、脱いだ靴。その組み合わせの不吉さに全身の皮膚が粟立った。

 壁から出た鉄梯子を二息ほどで昇り、彼女に、パーマーに詰め寄る。

 

「ト、トレーナー……!? どうしたの? 恐い顔、してるよ……?」

 

 戸惑ったようにたじろぐ少女の様子に……すぐに自分の馬鹿げた勘違いを知る。

 安堵の息を吐いて、俺はその場に座り込んだ。

 

「だ、大丈夫? ホントにどうしちゃったのさ」

 

 心配そうにこちらを覗き込む彼女の甘い垂れ目が、なんだか無性に懐かしい。久しぶりに、こんな近くで。

 俺は無意識に微笑んでいた。

 パーマーは、けれど不安げなままだ。

 君が飛び降りるんじゃないかと慌てただけだ、なんて自分の間抜けを白状してもよかったが。

 俺は咄嗟に口を利けなかった。片膝を立てて座ったまま動けなかった。

 パーマーが傍にいる、この安堵に心身はすっかり弛緩する。

 ネクタイを緩め、ボタンを一つ外す。呼吸の仕方をようやく思い出せたような心地だ。

 ただ一言、すまないとだけ口にするのがやっとで。

 

「…………」

 

 校庭からウマ娘やトレーナー達の威勢の良い声が、風に乗ってここまで響いてくる。

 見上げても夜空は見えない。分厚い黒雲が垂れ込めて。

 

「……どうして、ここに来たの。ダメじゃん。待ってるんでしょ」

 

 ?

 パーマーの言は不明瞭だった。

 俯いた少女の顔は表情に乏しい。投光器を背にしている所為でその美しいエメラルド色の瞳にも平素の輝彩は見て取れない。いや、前髪に隠れた左目には、微かに。

 微かに灯る、ものが。

 

「行きなよ。行かなきゃダメだよ、トレーナー……こんな、なにもないところに、なにもない……なんでもない場所に、今更……どうしているのさ……なんで来ちゃうの」

 

 苦しげに少女は呟く。滔々と、それは俺を責めるようで、あるいはまるで泣き縋るようでもあった。

 問いを重ねるほど苦しく、辛く、パーマーの顔が翳る。

 だから俺は言い訳のように。

 

 ここは君が……俺を見付けてくれた場所だから

「へ」

 

 自分の情けなさを誤魔化そうとして誤魔化し切れず、俺は苦笑する。

 

 逃げて来たんだ。君に、会えないかって

「────」

 顔を見られてよかった。やっぱり俺は……

 

 もう俺はあるべき理想のトレーナーではないのだろう。ウマ娘達の為のトレーナーではないのだ。

 俺はもうどうしたところで、もう他のどんなウマ娘を受け持ったところで、変わらない。変われない。

 パーマー、君のトレーナーなんだ。

 それでもすべきことはある。

 名バメジロパーマーに恥じないトレーナーで在らねばならない。今はそれだけが甲斐なのだ。

 傲岸不遜を承知しても、それだけが。

 君だけが。

 

「あぁっ、なんで……なんでそんなこと……せっかく、せっかく私、最後に……しようって!」

 

 突如、凄まじい力で体が宙を舞った。

 風に吹かれて飛ぶ木の葉のように、硬いコンクリートに背中をぶつける。

 気付けば夜空を仰いでいた。星も空も見通せない暗い曇天を。

 不意に、それすら鎖される。視界を覆うのは美しい人型。

 パーマーは俺を引き倒し、腹に跨った。

 

 

 

 

 逃げて来たのは私も同じだ。

 思い出に浸ればこの痛みが和らぐなんて思ってない。ただ、未練で。

 捨てられなくて、諦め切れなくて、辛い、嫌だ、痛い、痛い、痛い。

 

『よろしくお願いします!』

 

 ウマ娘に手を取られる貴方。行ってしまう貴方。“私の”トレーナーでなくなる貴方を。

 見てしまった。想像した。

 耐えられなかった。

 だから、最後にここへ逃げ込んだ。

 貴方に見付けられて、私だけのものを、走ることさえ見失っていた私の、初めての“私だけの”トレーナーになってくれた。あの日の暖かさを少しだけ、思い出す為に。

 せめてその残り火を胸に別れを告げようとした。貴方を新しい世界へ送り出したかった。

 なのに。

 

 君が……俺を

 

 そんな寂しそうな顔で、苦しそうな顔で。

 

「どうしてそんなこと言うのっ!!?」

 

 気付けばトレーナーを押し倒していた。覆い被さって、その目を見据える。その、私だけに注がれていた筈の目。

 私を見て、笑って、褒めて、慰めて、そして今は縋るように。

 ()()()くれる貴方の目が、私をおかしくする。

 

「やっと、やっと決心したのに……でもトレーナーとあの子見たら私、私また怖気づいて……ここが私達の……最初の場所だから、ここに来ればきっと、諦めがつくと思ったから……」

 

 目が熱い。涙が溢れる。胸の中にはどす黒い泥が肉を裂いてしまうほどの冷たさで満ちているのに、涙は燃えるように熱いのだ。

 そっとトレーナーが手を伸ばしてくる。

 私の頬を、目尻に指を這わそうと。

 ああ、貴方の手。少し筋張っていて、私のより太くて大きな手、私を導いてくれる────あの子が握った手。

 

「ッ!! がうっ!!」

 

 彼の親指の付け根を噛んだ。何故そうしたのか自分でも分からない。

 ただそうしなければならないと思った。そうしなければ、いなくなってしまうのだ。

 そう、だって、この人の手は私のものじゃないか。私を撫で、私を愛で、私の手を引っ張ってくれる。最初からそうだった。ならこれからもそうに決まってる。

 なんだ。初めからこうすれば。

 こうやってきちんと“証”を刻んでおけばよかった。

 噛み締める。関節の丸みを歯と唇に感じる。程なく、鉄錆の匂いが鼻を抜けた。血が滲んで、トレーナーの味が私に混ざる。

 それが、ひどく、うれしい。

 

「ふっ、ぎゅ、ぅ……は……」

 

 口を開く。唾液が糸を引いた。トレーナーはゆっくりと手を目の前に翳して、そこに深々と出来た傷口と歯形を呆然と見た。

 驚き、戸惑い、そして、そしてその感情はなんだろう。怯えるでもなく、不快や嫌悪とも違う。悲しい? 切ない? 寂しい?

 わからない。

 ただ静かな眼差しが再び私に向かう。

 

「っ……」

 

 私はそれにどうしてか耐えられなくて、逃げるように視線を泳がせた。怯えた獣同然に。なにか、逃げ道を、縋り付く場所を、探して探して、少し開いたシャツの襟元に、彼の首筋に目が吸い寄せられた。

 指だけじゃダメ。足りない。もっとわかるように。誰もが理解できるように。勘違いの余地もなく。

 この人が私のものだって刻まなきゃ。

 

「か、は、ぁ……!」

 

 そう、獣ならこうする。私は飢えた獣だ。

 この人でしか満ちることができない。だから、こうするしかないんだ。

 食い付いた首の筋肉質な弾力、歯応えに、私は言い知れない興奮を覚えた。

 指よりもずっと生々しい熱。この下に走る命の鼓動。

 犬歯が皮膚を破った。血の味は、私の昂りを助長する。歯止めを取り払う。

 そうして彼は喉の奥で小さく苦悶を呑んだ。痛みに筋肉が引き攣るのがわかる。

 それでも、彼は抵抗する仕草すら見せなかった。

 歯はどんどん肉を裂いて、深く、深く奥へ這入ってく。このままいけば、そこに辿り着くだろう。取り返しのつかない場所、人間の生命線を、いずれ食い破ってしまう。

 ……そうしてしまおうか。

 このまま、いっそ。

 そうした後に、私も逝こう。この人のもとへ。

 ああ、それは素敵だ。もはや誰の手も届かないところへ。

 私が送り、後を追う。自分の脚質とは真逆の最後。洒落が利いてる。

 トレーナー、いいかな?

 私、それでいいかな?

 

 彼は返事をする代わりに、そっと私を抱き寄せた。

 

「…………」

 

 私の頭を撫でながら、傷付いたその右手で私の左手を握った。

 そして、静かな声で。

 

 一緒に逃げようか、パーマー

「……っ、っ……ヴっ……うぅ……!!」

 

 汚らしい声で、トレーナーの血みどろの首に唇を寄せたまま、私は呻き、泣いた。

 背中にぽつぽつと冷たく雨粒が刺さる。

 雨は次第、次第に勢いを増して、しとどに降り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 駆け落ち、らしいよ

 

 中央トレセン学園は近頃その話題で持ち切りだ。

 URA優勝バと若手トレーナーが、ある日突然音信不通になった。失踪したのだ。

 女子寮の居室と職員寮の居室には、それぞれ私物が置き去りにされていたという。

 一方で残務処理だけは完璧であったらしい。失踪したトレーナーの執務室には、整理された各種業務の議事録と、自身の後任人事についての意見書まで添えられていたとか。

 行き当たりばったりなのやら計画的なのやら。

 

 ゴシップに浮つく周囲の様子をヘリオスは他人事のように眺めていた。

 驚きは、正直言って少ない。親友の変調に少女はずっと以前から気付いていた。その原因についても、おそらくは誰よりも正しく理解していた。

 だからこそ、寂しい。

 自分が救いになってあげられなかったことが、自分を頼ってくれなかったことが。

 

 ヘリオスは封筒を開く。

 綺麗な字で近況報告が綴られた便箋をじっと読み耽り、そうして同封されていた写真を手に取った。

 

「…………ぷっ、ふふふ、なにこれエモっ」

 

 紺碧の空と海、真っ白な無人のビーチを見下ろす道に一台の車と寄り添う二人。

 幸せそうに笑うズッ友がそこにいる。

 

「爆逃げ達成! おめッパマちん! えっへへへへ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





一番可哀想なのはメジロでも理事長でもヘリオスでもなく、ぶっちされたモブウマ娘。

大した山もオチもなくて申し訳。

ここまで読んで下さって本当に本当にありがとうございました。
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