遠く、校庭であるターフからウマ娘達の声が聞こえる。法定休日の今日、学園を訪れているのは自主練習するウマ娘とそれに付き合うトレーナーくらいだろう。
学園所属トレーナー共用の執務室には現在自分一人。
落ち着いた環境で一意専心仕事が出来るのは有り難いことだ。特に俺のような公私や趣味実益の線引きというか、区別の付かない輩には、休日出勤はむしろいろいろな意味で捗る。捗っていると思い込める。
思い込みでも仕事に対するモチベーションになるならなんでもいい。いやモチベーションなど今更気にするまでもないのだが。
パーマーが自由にターフを、レースを、あるいは野山でもいい。思う様走り続けられるようあらゆる手を尽くす。身体的、精神的コンディションを整えその走行能力を最適化し強化する。
彼女がせめて、幸せになってくれる道を、探したい。
俺の存在理由など今はこれだけでいい。これだけで十二分だ。
資料作成に一段落つけ、引き出しを開く。中には買い置きの栄養補助食品が各種取り揃っている。
栄養ドリンクも良いがゼリー飲料は半固形物で食事に近い感覚を得られてなお良い。腹持ちは悪いが。
PCで作業しながら口にするとなると、菓子パンやシリアルバーよりこちらの方が楽なのだ。
そのまま蓋を開こうとして……脳裏にパーマーの顔が過った。そうして響く少女の呆れた溜息。それは想像上の光景と音声だったが、つい最近現実に相対した記憶でもある。
今のこの様を彼女に見られたら、怒られる。
「…………」
俺はゼリー飲料をコンビニ袋に戻した。
パーマーに怒られることが恐いのではない。ただ彼女の信頼を裏切るような真似をしたくはなかった。決してヘリオスやイクノディスタスを引き連れ特異な語彙力と理詰めの説教を援護射撃にパーマーに責め立てられることを恐れた訳ではない。本当に。
しかし、ならばどうしようか。
散々苦言を呈されていた不摂生に今思い至った間抜けは、無論のこと自炊弁当など持参していない。ならばと代わりにコンビニ弁当を買ってもそれは本末転倒であろうし。
やはり、今日のところは外食か。
壁に掛かった振り子時計を見る。昼飯時には少し早い。しかし、休日ともなると飲食店は混むだろう。丁度いい。
俺はデスクを立ち、出入り口の扉に近寄る。
逡巡する理由もなし、そのまま開け放つ。すると。
「ひゃっ」
「!」
小さな悲鳴が上がる。まず、その鮮やかな緑の帽子が目に飛び込んで来た。
とはいえそれが誰かを確認するより先に、咄嗟に口からは謝罪が零れた。
「すみません」
「いえ、こちらこそ……あら?」
半歩よろめいた彼女の背中で、長い栗毛が二房揺れる。まるでウマの尾のような。
俺の顔を見上げ、その表情がやや明るくなった。美麗な微笑み。
「貴方でしたか」
「お疲れ様です、駿川先ぱ……駿川さん」
「ふふふっ、先輩でいいよ。あ、じゃあいっそたづなって呼び捨てちゃう?」
どういった文脈から「じゃあ」に繋がるのか、一向によくわからない。面倒見の良い善良な笑顔に悪戯っぽい風合いが混じる。
懐かしさと、同量の気不味さを誤魔化して俺は首を斜めに振った。
彼女と俺は所謂同窓。濁さず言ってしまえば、同じ大学の出身だった。二年先輩の彼女と関わった年月はそう長くもないが、なにかと世話になり、なにくれとなく
茶目っ気の多い人だった。
トレセン学園の狭き門の向こう側でこうして再会を果たせたのは、良かったのか悪かったのか。
「……駿川さんでお願いします」
「いくじなし」
「勘弁してください……」
「……ふ、ふふふ、しょーがないなぁ。じゃあ今回はそれで許したげる」
彼女は、駿川たづなは益々嬉しそうに笑みを深くした。
そっと背伸びして乗り出し、駿川さんは俺の肩越しに執務室を覗き込む。
「今日デスクを使われてるのは、貴方だけ?」
「ええ、登校してるトレーナーのほとんどは自主練の監督の為に校庭に出てるようです。さっきから何人かの声が」
「ん……そうみたいですね。午後も戻って作業を?」
「そのつもりです。出る時は自分が施錠して行きますか?」
「大丈夫です。たぶん私の方も夜まで掛かりそうですから」
「相変わらず、お忙しいんですね」
「お互いに」
駿川さんは軽く肩を竦めて見せた。
繁忙はなにもトレーナーに限ったことではない。理事長秘書として学園の種々数多の管理運営に携わって辣腕を振るう彼女こそ、最も多忙な人と言って差し支えあるまい。
「これからお昼ですか?」
「混雑しない内に済ませようかと」
「お休みですもんね。なら少し足を延ばして駅前のアーケードまで行こっか」
「……駿川さんも行くんですか」
「ダメ?」
「いえ、ダメというわけじゃ」
「むー、そういう言い方イヤだなー。渋々付き合ってやるかって感じ出ちゃってますよー」
「ランチをご一緒出来て嬉しくて涙が出そうです。ああすみません目薬を忘れました」
「こらっ、一言余計。可愛くなーい。昔はもっと素直だったのに」
廊下を並んで歩きながら、駿川さんは俺の肩に軽く頭突きした。
ずれた帽子の位置を直す彼女を見下ろす。鏡など拝まずとも自分が今ひどく困ったような顔をしているのだろうことがわかる。
これ以上ないほど上機嫌に綻ぶ彼女の顔を見るに、それはどうやら確実だ。
「仕事熱心なトレーナーさんに私からささやかなご褒美です。何が食べたいですか?」
「希望、というほどでもないんですが……できれば一汁一菜のメニューを」
「あら渋い。健康志向に目覚めたの?」
「担当のウマ娘に注意されまして。不摂生もいい加減にしろと」
「あはは、言われちゃいましたか。しっかりした良い子なんですね」
「ええ、俺には勿体ないくらい、良い子です。将来が楽しみだ」
「……ふーん」
輪を掛けて静かな職員棟を二人分の足音が響く。正面玄関の外、陽光が嫌に白んで眩しい。
ガラス戸を開き、駿川さんと共に建物を出る。
すると不意に、彼女は振り返った。
「学園近くの良いお店なら私結構詳しいんですよ? だらしない貴方の為に紹介してあげます」
「そりゃ有り難い」
「存分に有り難がってください。将来有望なトレーナーさんの健康管理も秘書の務めですから」
「……貴女理事長の秘書でしょう」
「細かいことは気にしない。さ、付き合ってくださいな……昔みたいに」
柔らかに笑んで、彼女は俺の腕を抱き寄せた。
相変わらず見た目によらない力強さと強引さ。
生憎と逆らう術も逆らえるだけの力もこの身にはない。ないので、精々大人しく俺は彼女の嫋やかな引手に従った。
パーマーからのLANEに気付いたのは店から戻った後だった。