セーヌ河に落ちてしまった男は、流されに流された。流されに流されて、辿り着いた先は古代のローマだった。
小集落に過ぎなかったローマの母なる川である、テベレ川に男は流れ着いたのだった。
「ここはどこだ。吾輩は誰だ…」
余りにも急激な流れにやられて記憶を失ったサイトウを拾ったのは、ある羊飼いだった。
「おやおや、可哀そうに…自分の記憶もなくなっているとは、さぞかし苦労なさったのでしょう。さぁ、気が済むまで私の家に泊まると好い」
「かたじけない」
こうして、サイトウは羊飼いの世話になった。
羊飼いは滅法親切だったが、もう年であったため、男が一年も厄介になる頃にはポックリ逝ってしまった。
さて、残されたのは男と大量の羊の群れ。こうなれば、遺産を食いつぶすのも気が進まないからと、男は羊飼いになった。
そして、羊飼いになって数年後、可愛い赤ん坊を二人も河から拾い育てることにしたのである。
子供たちは羊飼いに拾われるまで、オオカミのお乳を飲んで育ったらしく、人間の文明に慣れるのに時間がかかった。
育児は大変だったが、しかし、時には将軍、時には宰相にもなった男に育児が出来ないわけがなかった。苦戦しながらもおしめを替えたり、離乳食を作ったりと一生懸命働いた。
男の努力が実ったのか、二人が最初に覚えた言葉はパパとローマだった。
子供たちが大きくなり、それはもう大きくなって、父親である男の背丈を越した頃、遂に運命の瞬間がやってきた。
男が言った。
「この子たちに名前を付けよう!」
「父上はドジっ子さんだなぁ!ローマ!!」
「兄者の言うとおりだぜ!ローマ!!」
そうだった。男は自分の名前も、無いばかりに、父親と呼んでくれる子供たちの名前を名付け忘れていたのだ。
「そうだなぁ…その、ローマ、ローマって言ってる不思議な言葉から名前をとるとするか」
「おお、それは名案だぞ父上!」
「兄者に同じだ!」
「ようし、ならば兄がロムルス!弟がレムスってことで!明日からはそう呼び合うように」
「おぉぉ!父上!流石は父上!なんと好い響き…よし、俺は今日からロムルスと名乗ろう!」
「俺も、レムスと名乗ろう!」
こうして、後にローマを建国する兄弟に名前が授けられたのだった。
◇
男が羊飼いを始めてから十年がたつ頃、ロムルスとレムスが独り立ちすると言い出した。
なんでも、彼らは実は正当な王位をアルバ・ロンガ王から貰えるはずが、悪臣アムリウスによって赤子の時に捨てられた身分なのだという。
この話に、男は憤慨した。
「アムリウス!吾輩の息子を殺そうとしたとは、未遂であっても許せん!ドブに沈めて虫の餌にしてやる!」
これに対してロムルスとレムスは「いや、ちょっと、そこまでしなくていいのではないかな?」などと宣った。
怒りに火が付いた男は、ロムルスとレムスの為に、飼っていた羊を全て売り払い、その金で武具を買いそろえると、息子二人と共に武装した。
「アムリウス倒せばいいんだよな!」
「はい父上!」
「あ、兄者に同じく!」
そして早速、その日の内に、三人はアムリウスの元に向かった。
◇
アムリウスの城にて。
「貴様ら何者だ!?」
「問答無用!悪は死ねぃ!」
「ぐわぁあああああ!?」
こうしてアムリウスは男の手によって三枚におろされてしまい、父親の強さに「ヒェッ」と感じながらも、ロムルスとレムス兄弟は自分たちの都市ローマを建設することが出来たのだった。
◇
アムリウスの死後、男はローマの父としてロムルスとレムスを中心とした男衆から絶大な支持を集めた。
ならず者や放浪者を搔き集めて肥大化していくローマだったが、ある日、問題に直面した。
ロムルスが言った。
「父よ、ローマには女がいない」
レムスも言った。
「兄者の言うとおりだ。いないなら、奪うしかない」
続けてロムルスが言った。
「奪うなら、一番近くて大きいサビニがいいだろう」
レムスが言った。
「父上、我らはどうすればいいのだろうか?」
この問いに対して、父上こと、男は言った。
「三日待て。三日間で、両手に抱えきれないほどの女を呼んでこよう」
「本当か!?ッ父上を疑うわけではないが…そんなことが可能なのか?」
ロムルスの質問に男は答えなかった。代わりに、旅支度をしてさっさと供も付けずにサビニへと旅立ってしまったのだ。
◇
そして三日後、男が帰ってきた。
男の後ろには列をなして女たちが付いてきており、皆、男が振り返るたびに、何かを言うたびに嬌声を上げて狂喜乱舞していた。
「ちちうえ!!この女達は一体!?」
ロムルスが聞くと、男は中でも飛び切りの美女を両脇に侍らせ、しかし、威風堂々と言い放った。
「全員と、仲良くなっただけだとも。そうしてから聞いたんだ。俺んとこ来ないか?とな」
男は振り返ると、手を上げて女たちの方に叫んだ。
「おーい!もうすぐローマだ!着いたら順番に滅茶苦茶にしてやるから覚悟しておけ!ブスも美女も平等に抱きつぶしてやる!」
「キャァ嗚呼唖嗚呼嗚呼阿!!!」
阿鼻叫喚の如き歓声が上がった。
こうして、ローマには女が溢れるようになった。
サビニが衰退し、間もなくローマに呑み込まれたのは言うまでもなかった。
◇
いよいよ、ロムルスとレムスの兄弟王の下でローマは繁栄の時を迎えていた。
エトルリア人やガリア人といった、異民族との争いも増えてきていたが、しかしローマの敵ではなかった。
何故ならローマには、ローマの父と呼ばれ崇拝される男がいたからだ。この男の前には如何なる敵も弱卒と化し、また如何なる名将も策を抜かれる間抜けに落ちた。圧倒的に男は強かった。男の強さを理由で図ることは出来ない。そう言わしめるほどに、男は強すぎた。
男の強さはしいて言えば、双肩に聳える歴史の重みそのものかもしれない。
ともかく、男の存在が好い感じに重石となって、ローマを盤石なものに育てて行った。
しかし、ある日のこと、偉大なる建国者である兄弟の喧嘩が始まったのである。
兄弟喧嘩の発端は、「どちらがより父上に愛されているか」だった。
これだけなら男の介入で全て丸く収まるはずだったが、しかし、喧嘩の理由は次第に多岐にわたり始め、収拾がつかなくなっていった。
国を二分するかもしれない戦いの予感に、人々は戦々恐々とした。
そして、ついに長城での問答に至ったのだ。
ロムルスが築いた壁を跨ぐのか、否か。それで、ロムルスにレムスが服従するか否かを決定づけようというのだ。
レムスの出した答えは否。ロムルスの壁を堂々と乗り越えてしまった。
ロムルスは激怒した。
「レムス!貴様は兄弟だと思っていたが、越えてはならぬ一線を越えたな!ならば決闘あるのみだ!」
ロムルスは剣を抜くと、レムスに向かって突き出した。突き刺して、殺してしまおうという意志の表れだった。
しかし、ロムルスの剣はレムスには届かなかった。
「うぐ」
「父上!あぁ、そんな、なんてことだ!!」
レムスに突き刺さるはずだった剣を受けたのは、父親である男だった。
ロムルスは混乱し、レムスは激昂した。
「ロムルス!貴様よくも!私との、このレムスとの決闘であろうが!」
今にも剣をロムルスに振り下ろそうとするレムスを、腹を剣で抉られたままの男が抱き留めた。
男は叫んだ。
「ロムルス!レムス!双方剣を収めろ!そして、今一度兄弟に戻り、ローマをより好き方へと導くのだ!クレメンティアの名のもとに!」
「「父上!!」」
剣を収めた兄弟が、父親の元に駆けつけようとした時だった。大きな揺れと共に、火山が噴火したのだ。
ドカーン!と言う音と共に、大小の石礫や溶岩が流れてきた。
「逃げろ!ロムルス!レムス!」
「ちちうえ!ちちうえーーーー!」
溶岩流に焼かれ呑まれ、流されていく姿。それが、ロムルスとレムスが見た父の最後の姿だった。
◇
火山の噴火は間もなく止んだ。一人の男を除いて、奇跡的にローマの民に被災者はいなかった。
ロムルスとレムスは父親を神格化すると、ローマの政治と軍事を司る神として盛大に祭った。また、五穀豊穣と子孫繁栄の神として、ユピテルやプリアーポスを凌いで、序列第一位に列せられた。
神となった父の像を、兄弟は何千と作らせては、その為の神殿を造営し、しばしば国力を損じた。
一方で、死の時まで兄弟は仲良く、また寛容の精神の名のもとにローマの強国化と拡大を推進し続けた。
そして紀元前8世紀頃のある雷雨の日に、兄弟は仲良く昇天した。
以後、ローマは王政ローマから、共和制ローマへと、そしてローマ帝国へと発展を続ける。
発展を続け何もかもが移ろい行く中でも、唯一変わらないものがある。建国神話に刻まれた一人の男と、ロムルスとレムス兄弟の物語は、人々の崇拝を集めて止まないのである。
一説によれば、溶岩流に呑まれたローマの父は、ローマが混乱と絶望の中に陥った時に目覚めローマを救うのだという。