鈍として青く   作:ヤン・デ・レェ

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遅かったではないか。だが、大儀である。

昔々あるところに、ネロ・クラウディウスと言う少女がいた。

 

彼女は父アヘノバルブス、母小アグリッピナとの間に生まれた。

 

ネロが幼いころ、彼女はローマの母なる川であるテベレ川に赴いた。カリガという革のサンダルを履いたまま、やんちゃに川遊びに興じていた。

 

彼女には無論、他の高貴な子息と同じようにお目付け役が用意されていたが、この時ばかりは誰も、川で遊んでいる間ネロを見守っていなかった。

 

ネロは川遊びが余りにも楽しかったために、どんどんと川の深い所まで入って行ってしまった。

 

「誰か!誰かある!」

 

足がようやく川底に着くころになって、ネロは声を上げた。

 

だが、子供の小さな声を聞き届ける者はいなかった。

 

ついに、流れが強い所まで来てしまったネロには、川底にサンダルを食い込ませて流されないようにするのが精いっぱいだった。

 

あぁ、もうおしまいだとネロが思った矢先、視界の隅の方に水しぶきが上がったのが見えた。

 

ザッパザッパと水をかき分けながら、余りにも美しい黒髪の男が、バタフライでネロの方へと近づいてきた。

 

男に誰何する頃には、ネロは男の腕の中にいた。

 

逞しい肉体と、余りにも美しい黒髪黒目の男に、ネロはすっかり虜になってしまっていた。

 

無事に川から上がってから、帰ろうとする男をネロが呼び止めた。

 

「貴方さえよければ、余の親衛隊長になっていただきたい」

 

「吾輩は食うに困らない限り、貴女に忠誠を誓いましょう」

 

こうして、ネロは男を誰よりも自分の傍に置くようになった。

 

 

 

 

 

 

ネロと男の関係性は、主従のものではなかった。

 

友人や家族とのそれだった。

 

ネロが釣りに行きたいと言えばともに釣りに行き、帰り際に眠たいと言えば着くまで負ぶさって寝かせてやる関係だった。

 

庶民が何を口にしているのかを知りたくなれば、男だけを供にして実際に見に行った。

 

実際に庶民と同じものを食べ飲み、そして同じように部屋を借りて数週間二人で暮らしさえした。

 

「ローマは不滅である!!!」というのがネロの口癖だったが、それは決して何もせずとも残り続けるという意味ではなかった。

 

数多の生命。数多の犠牲。数多の労力の上で成り立つものだと、彼女は理解していた。

 

芸術と祭りをこよなく愛したネロは、事あるごとに催し物を開き、自ら進んで競技に参加し、時には勝利することもあった。

 

皇帝がいる場では心の底から楽しめない、などと言われぬように、ネロは自分の親衛隊長である男…サトゥルヌス…を祭りや競技に参加させた。

 

サトゥルヌスは容赦と言う言葉を知らないかのように、ネロを詩でも、剣技でも、戦車競走でも打ち破って見せた。

 

人々は口々に、サトゥルヌスが皇帝の逆鱗に触れて殺されはしないかと、あるものは心配し、あるものは期待した。

 

結果は、ご覧の通り。サトゥルヌスは毎年のようにネロと共に出場しては、本気でネロと取っ組み合った。

 

サトゥルヌスの首が飛ばなかったことに、あるものは安堵して、あるものは期待外れだと機嫌を悪くした。

 

サトゥルヌスは、ネロの言うがままに、本気でネロと競い合った。

 

二人はなんとも丁度いい好敵手を演じ、ローマ中を熱狂させた。

 

運動競技ではサトゥルヌスが圧倒し、詩や芸術に関してはネロが圧倒した。

 

競技の後で、二人は万雷の拍手と共に退場し、衆人の眼が無くなれば、その場で抱き合った。喜びを分かち合ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネロとの蜜月が終わったのは唐突であった。

 

ネロは余りにも奔放であり、何よりも民を愛する統治者だった。

 

統治する者にとって、真に民の為だけを思って行動する者は不愉快な、不都合な存在であった。

 

利害関係を飛び越えて、ローマの民の生活の安定と、時に民の清涼剤となるような享楽を多用したネロを、快く思わない特権階級が増えるのは時間の問題であった。

 

そしてついに、彼女は元老院の逆鱗に触れ、また策謀の結果、残忍無能な君主としての汚名を着せられて、『国家の敵』としてローマを追放された。

 

ローマに居られずして、どうしてローマの第一人者と言えようか。

 

ローマに居られずして、どうしてローマ皇帝を詠えようか。

 

ネロの陥った落胆と失意と絶望の穴は余りにも深く、極めて残忍に彼女の身と心を引き裂いた。

 

葡萄酒と果物以外の全てを忘れた様な生活を送るネロの元からは、次第に一人また一人と人がいなくなっていった。

 

変わり果てたネロの体は尚細く、尚儚かった。

 

誰にも顧みられることなく死んでいくかと思われた時、元老院はネロの捕縛命令に印を押した。

 

唯一隣に残ったサトゥルヌスも、離れ離れに拘束されてしまっていた。

 

騎馬隊の立てる砂埃が見えた。馬のいななきが聞こえた。馬蹄が大地を削る音が聞こえた。

 

最期の時が来たのだ。

 

ネロは言った。

 

「あぁ、せめてサトゥルヌス…そなたがここに居れば…サトゥルヌス、余のサトゥルヌス…貴方にこの命を捧げたかった。貴方に、この命を奪って欲しかった…」

 

ネロは短剣を取り出すと、自身の喉元に添えた。

 

後はうつぶせに倒れてしまえば、それだけで全てが終わる。命を絶ってしまえるのだ。

 

だが、躊躇してしまう。

 

「あぁ、さぞ痛かろう…苦しかろう…サトゥルヌス…余のサトゥルヌス…この際において尚、余はそなたのことが恋しいぞ」

 

そう言って、ネロが足から力を抜く寸前。別荘の外が騒めいた。

 

ネロの世話をしてくれた奴隷の一人が、窓の外を指差して言った。

 

「陛下!陛下!ご覧ください!親衛隊の旗でございます!サトゥルヌス閣下の旗でございます!」

 

金色に輝く鷲章旗が近づいて来るや、外の騎馬兵との戦闘が始まった。

 

ネロはその様を、軍団が親衛隊に圧倒されて撤退を強いられる様をただ茫然と見つめるしか出来なかった。

 

勝敗は直に着いた。親衛隊の圧勝であった。

 

誰よりも勇敢に戦い、誰よりも多くの敵を屠る。そんな男に率いられて、親衛隊は成り立っていた。

 

最高潮の士気のまま、一人の男が颯爽と馬から降りたった。腰には、正式採用されていない、一品物のファルカタを佩いていた。そんな男はローマ広しと言えど、一人しかネロは知らなかった。

 

「サトゥルヌス!おぉ、よくぞ来てくれた!あぁ!そんな!こんなことがあってよいのだろうか!」

 

絶望の淵で一睡もできなかったネロは、その晩、サトゥルヌスと彼に忠誠を誓う親衛隊に守られて、ようやく眠ることが出来た。

 

サトゥルヌスの腕に抱かれて、ぐっすりと眠ったネロは、起き際に冴えた頭でサトゥルヌスに問うた。

 

「余は嬉しくも悲しい。サトゥルヌスよ、なぜそなたはここにいる。そなたならば、余の後を継いだ皇帝にもそれは大変に可愛がられたであろうに…口惜しい、余は最早褒美の一つもやれぬ」

 

これに対してサトゥルヌスは筋肉鎧の胸板をゴンと拳で叩いて言った。

 

「無論、ネロとの約束を守るために」

 

「約束?」

 

「ずっとそばで守り続けると誓っただろう?」

 

「馬鹿な男よな」

 

「馬鹿とはなんだ!」

 

「大馬鹿よ!ひぐ…うぅ、サトゥルヌス、許せ…余と共に在れと、余が命じたのであったな…そうか、そうか、許せよサトゥルヌス」

 

ネロは大いに泣いた。嬉しくて泣き、悲しくて泣き、悔しくて泣き、温かくて泣いた。

 

川で溺れかけたところを助けて貰ってからずっと…気が付けばずっと隣に居てくれたのはこの男だった。サトゥルヌスを置いて他に居なかった。

 

ネロはサトゥルヌスのお陰で色々なことを我慢できた。母である小アグリッピナとの関係を改善してくれたのもサトゥルヌスである。セネカとの険悪を仲裁してくれたのもサトゥルヌスである。

 

サトゥルヌスを抜けば、ネロには余りにも残るものが少なかった。

 

逆を言えば、サトゥルヌスが隣で見守ってくれている限り、サトゥルヌスの隣で笑えている限り、ネロは誰よりも満ち満ちて、気高く生きていられた。

 

遅くとも、そのことを理解して、ネロはサトゥルヌスに言った。

 

「サトゥルヌス、余が死ぬとき、どうか一人にしないで欲しい」

 

「サトゥルヌス、貴方が死ぬとき、余は貴方を一人にさせはしない」

 

「だからどうか、これからも共に」

 

ネロはそう言うや、サトゥルヌスの唇を奪い、それから跪いて叩頭し、今度はサトゥルヌスの足の指先に口付けた。

 

サトゥルヌスは驚きつつも、ネロの成すがままにさせた。

 

それから立ちあがらせ、綺麗な濡れ布で唇を浄めると、今度はサトゥルヌスの方からネロの唇を奪った。

 

 

 

 

 

 

サトゥルヌスとネロに率いられた親衛隊は、その後、破竹の勢いでローマへと進軍、向かい来る対ゲルマン人の精鋭軍団を瞬く間に壊滅させて、見事に凱旋した。

 

元老院議員の逃亡すら許さずに、二人はローマを再び手中に収めた。

 

凱旋式では、凱旋将軍の紫と金のマントを、ネロとサトゥルヌスは二人して身にまとい、その頭には金の冠を共に飾った。

 

元老院の王ではなく、民の王の凱旋に、ローマの民は沸きに沸いた。

 

そして口々に叫んだ。

 

「ネロ陛下に永遠の栄光あれ!」と。

 

「サトゥルヌス将軍に永遠の名誉あれ!」と。

 

 

 

 

 

ネロの凱旋に伴い、ユリウス・クラウディウス朝は存続するかに思えた矢先、ネロとサトゥルヌスは忽然と姿を隠してしまった。

 

玉座の不在により、ローマは新しい皇帝を求めて、然るべき者がそれに応えた。

 

ネロは何処へ行ったのか。サトゥルヌスは何処へ行ったのか。

 

そのことは誰も知らない。真相は誰も知らず、誰もが知るものである。

 

いずれにせよ、一つだけ確かなことがある。

 

確かなことは、男はネロへの愛を尽くし、ネロも己の愛を尽くしたということである。

 

そしてネロの死と同時に、男はその剣で時空を切り裂き、再び新たなる時代への門出を飾ったということだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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