時は幕末。舞台は土佐。此処にも一人、悲惨の末路を運命星として背負う男がいた。
名前を岡田以蔵。人斬り…要人の暗殺から、要人の警護までお手の物の剣術の名手であった。
幕末の動乱の中で、土佐勤皇党の一員としても名をはせた以蔵だったが、彼の栄華は既に去って久しかった。
浮浪者となり、ただ己の剣のみを抱えて路傍で銭や食を乞う惨めな日々を暮らしていた。
酒に溺れ、俗世に溺れ、尊い志を持ち続けられなかった者の末路としては妥当だったかもしれない。
龍馬にも見捨てられ、最早彼の腕を、名を求める者は誰一人としていないようにさえ思われた。
後は河原に首が並ぶのみ…といった具合。
しかし、世には捨てる神あれば、拾う神ありの言葉通り。
以蔵を求める奇特の人が、ここには一人いたのであった。
◇
わしが職を失って、浮浪者として城下の御目汚しになって暫くの時、あの方がわしの前に現れた。
「もし、君、少し道案内をお願いできないだろうか?この城下を観光したくてね」
美しい人じゃった。これまでの人生でこれほど美しい人を見た覚えが無かったわしは、訳もよく聞かずに頷いておった。
「是非に!わ、わしなんぞでよければ!」
この時のことを思い出すたびに、わしは赤面してしまう。
わしは余りにも美しいその人に夢中で、自分が不潔極まる状態だったことさえ頭の中から抜け落ちていたのじゃから。
何日も風呂に入っていなかった上に、飲まず食わずだったせいで刀を杖にするようにしてようやく立ち上がる事が出来た。
すると、わしを見かねたその人が、手を差し伸べてくれた。
「まずは身綺麗にして、それから腹ごしらえにしよう。衣も新調せんといかんな。」
「ほら、ゆっくりでいいからまずは風呂屋にでも案内してくれ」
今思えば端からオカシな話じゃった。この物騒な土佐で観光なんぞ、到底凡人には思いつかない選択じゃ。
わしは珍妙な鎧を身にまとい、紫のマントを翻すその人に見守られながら、まずは銭湯に案内した。
「金は全部吾輩が払っておくから、安心して入ってくると好い」
その人はそう言って、わしが上がるまで待っていてくれた。…志も何も忘れてしまった自分を、ここまで遇する理由は思いつかなかったが、今はその人の言うとおりにするのが一番だと、訳知らずとも納得できた。
久しぶりに浴びた温かい湯の心地は、言葉には言い表せなんだ。
少し長風呂を頂戴し、それから湯屋から着るようにと差し出された新品の褌と浴衣を着て、外に出ると、その人はまだそこにいた。
安堵と混乱がないまぜになっていると、その人は言った。
「終わったなら飯だ。さぁ、次は飯屋へ案内しておくれ」
有無を言わさぬ迫力に負けて、わしは名前も聞いとらんことすら頭にないまま、龍馬たちとも何時ぞや行った、行きつけの飯屋へ案内させられた。
飯屋に着くなり、その人は「好きなものを食え。金は払っておいた」といった。
もう何日もまともなものを食っていなかったせいで、行儀も忘れて、わしは飢えた獣の如く、飯をかっ食らった。
久方ぶりの食事は何とも言えぬ美味だった。食は命じゃ。そう思わずにはおれなんだ。甘い米粒をかみしめるたびに、これまでの惨めさがこみあげてきて、わしはさめざめと泣いてしもうた。惨めじゃった…本に、惨めじゃったァ……。
泣きながら飯を食らうわしを、あの人は静かに見守っていてくれた。
もう、この段階で、わしには剣の腕しかこの方にお返しできるものはないと、そう確信めいた思いを抱いて居った。
誰もが見捨て、忘れたわしを、最早世に売る名もなきただの以蔵にできるご恩返しは、それしかないと思っておった。
「茶も飲んで、腹も膨れたか?どうだ?」
ひと心地つき、食後の茶までしばいてから、その人はわしに問いかけて下さった。
わしはこのままずるずるとこの方について行き、衣まで新調されてしまう前にと、言わねばならないことを、正直に告白した。
「ご恩返しできることならなんでも致します。元はこう見えても名の売れた『人斬り』でした…この身一つで足りるかは存じ上げませんが、どうかわしにご恩返しの機会をお与えください!」
果たして、この御方は哄笑して、それからわしの頭を、ちょうど犬にするようにぽんぽんと、撫でてくださった。
「そうかそうか、確かにここまでして何もない方がオカシイのやもしれぬな…申し遅れた、吾輩はサイトウ…京都の方からこっちへ越してきたばかりの身分よ」
「京都から!ですか?」
「あぁ、大切な人の為に腹を切ったかと思えば、気が付いたらここにいてね、真っ先に出会ったのが君だったのだよ」
「それはまた珍妙な出来事じゃ」
わしはぼんやりと、目の前の人はもしかしなくとも天神の御生まれ変わりなのではないかと思い始めとった。
それからわしらは互いに自己紹介をし、その足でそのまま呉服屋へと案内させられ、儂はそこで一等立派な衣を頂戴した。
返せるものなど、わしには本当に、何もなかった。だが、それでも好いという。
いつのまにか、わしはこの御方を「先生」と呼ぶようになっておった。
しっくりと馴染む、いままでのどの「先生」よりも。そう思った。
◇
「サイトウ先生!戦争じゃ!戦争が始まったぜよ!」
サイトウ先生と一緒に暮らすようになってから数年後、わし等の暮らす日ノ本全体を巻き込んだ戦が始まった。
「サイトウ先生!先生の腕があれば、立身出世も思うがままじゃ!わしは、先生に何処までもついていく所存です!」
わしはあの日からずっと先生の傍に侍ってきた。侍りたくて、侍ってきたわしじゃから分かる。先生は、それは大層な使い手じゃ。
戦争の働き次第では、新しい時代の舵取りの、その一員に加われるかもしれん。
先生は博識であるし、その上腕まで立つ。
わしは興奮した。わしの先生が、だれも見向きもしなかった、誰もが見捨てたわしを拾って下すった唯一の人が、時代に選ばれた時のことを。わしは夢に見ずにいられなんだ。
じゃが、わしの熱狂とは裏腹に、先生はさっぱりとした調子で言った。
「ばったり会うと気まずい人が戦場には沢山いてねぇ…立身出世は責任が面倒だし、吾輩は以蔵と二人でいるのが丁度好いよ」
「そんな、先生!せっかくの機会を!」
「今にわかるよ、吾輩たちは静かに暮らしている方が好い」
「せ、先生がそれでええなら、わしもそれでえぇんです…ですけども」
わしはこの際、ハッキリと白黒つけるために、先生に問うた。
「先生、どうしてあの日、わしを拾ってくれたんですか?」
「みすぼらしくて、情けない、なまくらを、どうして拾って下すったんですか?」
「どうして今も、こうして飼っていて下さるんですか?」
「わしは剣の腕を求められなければ、本当に何も残らない男なんです」
「なのに、貴方は剣を振るえとも言わず、剣を捨てろとも言わない」
「どうして、こうも、可愛がってくれるんですか?」
わしはいつの間にか、涙を流していた。ポロポロと、涙の粒が転がり落ちて、畳に染み込んだ。
わしと先生が二人で暮らす長屋の一室は、何時になく静かじゃった。
先生は言った。
「何故と問われると困ってしまうが、強いて言えば、以蔵、君の顔が吾輩のタイプだったからだ」
「たいぷ?とはなんですか、先生」
「タイプというのはな、好ましいという意味だよ」
「あんなにみすぼらしい、不潔なわしが、そのタイプだったとでも?」
「だから綺麗に磨いただろう?飯も食わせて、服も一丁前に着れば…そうら、思った通りの好い男が完成だ」
「そ、そんな、たったそれだけの理由で?わしの剣の腕を買ってでもなくですかい?」
「そもそも、君が以蔵だと知ったのは後の後だからね」
「そ、そうですか…は、ははは…」
「不満か?以蔵」
先生は覗き込むようにわしの顔を見つめた。柔らかい表情だった。
「まさか…ここまで自分を、剣の腕ではのうて、自分だけを見てくださったのは、貴方が初めてです」
「嬉しいもんかい?」
「嬉しいぜよ!!」
わしは、この日生まれ変わった気がした。
勤皇とか、剣術とか、そう言った特別に大きな外側の何かではなくて、自分の中に光るものを見つけられた気がした。
わしは、改めて先生に惚れ直した。
願わくば、死のその時まで、お傍にお仕えしたい。
わしの願いは届いたのか届かなかったのか、ただ星降る夜に、わしは生まれて初めて先生と契った。
◇
人斬り以蔵は、ただの以蔵として後半生を生きた。
彼の隣には常に一人の美丈夫が居、以蔵は彼を「先生」と呼び慕った。
以蔵の想いは最早恋とも、愛ともいえるものだったが、終生二人が婚約することはなかった。
戊辰戦争後、以蔵は「先生」と共に土佐を離れ、京都で暮らし、この地で亡くなった。
「先生」の探し人をどれだけ探しても見つけられなかったことだけが心残りだと、彼は語った。
以蔵の亡骸は、老いを知らず、燃えず、腐らず、虚空に溶けるように消えて無くなった。
以蔵を看取ってから、サイトウは徐に引き抜いた剣を一閃し、次なる時空へと足を踏み入れた。
影は飛翔した。
男が去った後、そこには以蔵の何もかも、男のなにもかもが遺されていなかった。
初めからそこには誰もいなかったかのように。