あるところに男がいた。一人の男だ。この男は幸運だが不運な星に生まれた。誰よりも運命に恵まれる運命を持ちながら、その宿命として安息は与えられないという星の下に生まれた。誰知らぬ時と場所で生まれた男は、何の因果か最初に訪れた場所を故郷だと思い込んだ。誰が訂正するものでも無し、男の故郷は日本になった。さて、異界生まれ日本育ちの男の旅は断続的で、かつ常にイレギュラーだった。神か、或いは無か渾沌か、何れかが愛し子たる彼に与えた、『困難は分割せよ』の効能によって、男には時空を飛び越えて他人の運命に干渉してまで自らの運命を選り好いものへと変質させる特権が、言い換えれば呪いが付与された。この呪いを解く術はなく、可能性があるとするならば伝説に聞く聖杯くらいのものだろう。
…まぁ、それも当人に自覚があってのことである。その前提すら覚束ない、運命に翻弄されるばかりの男と彼に本来の運命を捻じ曲げられた者たちの愛執によって、水の惑星が血反吐を吐く未来はそう遠くないであろう。
◇◇◇
昔話をしよう。あるところに吾輩が居た。吾輩は名も無く、家も無く、親も無かった。しかし、天性のもののお陰で飢えることを知らずに育ち、二十歳の時に旅に出た。己が何者なのか、それを知るための旅である。初めはこの日の本全土を制覇して…と考えた所で、便所に吸い込まれた。より正確に言えば、未使用の便座の暗闇に生まれた極小のブラックホールに呑まれたのである。最寄り駅のトイレでの出来事であった。
トイレを抜けた先は、異国情緒溢れる…異国に行った試しは無かったが…としか言いようがない光景が広がっていた。随分と忙しなく動く人群れ、手には剣と盾、身を包むのは金属と革の鎧、燃え上がる血潮と猛りの声が木霊し、悲鳴と喘鳴が蔓延していた。そこは戦場だった。
吾輩は焦ったが、間もなく切り捨てられかけたところを救われて保護された。一人の女性が吾輩の叙事詩的旅行譚の最初の一頁を飾ったのだ。吾輩を救ってくれた彼女は、どうやら虚空から吾輩が"生えて"くる様子を見ていたらしい。吾輩が最初に出逢った彼女の名前はハンニバル・バルカ。最初の生での妻でもある。吾輩は後に語られる、ザマの決戦の最中に"生えて"来てしまったようである。
ともかく、ポエニ戦争に巻き込まれて彼女の世話になった。
…以上である。世話になっただけで、本当に何もできなかったのだ。だってそうだろう?考えてもみろ、戦場に身包み一つでほっぽり出されたペーペーに何が出来ると言うのだ。手元にあったのは笹に包んだ握り飯と手拭い、それから竹の水筒だけである。そんな具合だから、吾輩は彼女に大いに笑われた。それから世話を焼かれ、その後で頼みに頼み込んで剣を持つに至ったのである。箸より重い物を持ったのはこの時が初めてだった。これが人の命を刈り取る道具の放つ重みなのかと、しみじみと感じ入ったものだ。
さて話が逸れたが、彼女に甘やかされつつ、将軍であり政治家でもあった彼女が公務に励む傍らで…励む雑務の更に傍ら、片手間も片手間で吾輩は剣を学んだ。なんとなく、否、ここは直感と言っておこう。これから必要になると言う直感があったのである。戦う術を学ぶことは決して無駄にならない。寧ろこれから大いに必要だろうと、そう思って吾輩は剣に打ち込んだ。
するとどうだろう、吾輩には才能があったらしくめきめきと腕を上げていった。短絡的で都合の良い話に聞こえるが、事実として戦争にも出ずに剣を振っていただけの身分では説明がつかない程に、吾輩は剣を理解できたのである。
畢竟、殺人術。されど護身術でもある。何かを救うことなぞ、そんな大それたことは吾輩には出来ないが、それでも彼女の手を借りずとも自分の身一つを戦場で守れる程度には吾輩は剣に通じ、また世の無情をも学んだ。吾輩が剣に没頭し過ぎたせいで臍を曲げたハンニバルの機嫌が直る頃だった。ハンニバルと吾輩の暮らす国であるカルタゴはローマに負けた。戦争に負けたのだ。
争いごとは好くないことだ。戦争の勝敗に本来なら良いも悪いもないが、それでも負けたら終わりなのだと学んだ。吾輩は骨身に染みて、そのことを学んだ。学んだから、吾輩は彼女についていくことにした。商人として、或いは傭兵として東に向かおうという話を彼女にした。少しでも彼女の中で、ローマへの復讐という父ハミルカルから与えられた運命に抗えるだけの価値が、自分に在ればと彼女に祈りながら、吾輩は彼女を誘った。これがダメなら、このまま彼女と共に行くところまで往こうと考えながら。
結果は、是。彼女は、ハンニバルは言った。
「スキピオには戦争で幾度となく勝利した。だが、最後の一戦で奴に勝てなかった。なぜだろう?理由は悩むべくもない。私が視ていたのはローマ全てで、奴が視ていたのは私独りだ。奴は唯その一点の為に、親族を私の手により喪い、幾度となく敗北した。対して私は幾度となく勝利を重ねた。ローマの剣を砕き、ローマの盾を破り、そしてローマの門を…いや、違うな。私は私に問いかけても尚、あの時の自分の判断を否定も肯定もすることが出来ないのだよ。私はあの時…マハルバルに何と答えたのか…。私はローマに勝っていた。だが、であるが故に私はローマに負けていた。慢心か?違う。では…満足か?あぁ、そうかもしれない。だが、それも全てが正しい訳ではないだろう。…奴は、スキピオは私に最終的に勝利を収めた。私だけを、ただ一点を視ていたがために、な。その為に全てを失い、全てを得た。なるほど…私に足りなかったものが何かようやく理解したぞ。」
「これからは君のことだけを視るとしよう。君、ただ一点を。スキピオのように、そうやって勝利を今度こそ掴んで見せよう。本当に本当の最終的勝利を。人生の勝利を掴んで見せよう。」
「父には、今晩謝っておくよ…すまないと、復讐は終わりにすると。そのかわり、私は生き続けることでローマを脅かし続けよう。その権威最大の敵として史に名を刻もう。生きているのか死んでいるのかも分からない私の影に怯え続ければいいさッ!私は怯えるローマを笑いながら、人生を楽しむとしよう。ハッハッハッハッハッ!」
「これまで、復讐に費やした分も、君との時間に使うよ。もう十二分に戦ったさ。今度戦う時は、その時敵はもうローマじゃない。」
吾輩とハンニバルはカルタゴを後にした。遠からず亡命せざるを得なくなるのなら、一足先にお暇しようという寸法だった。騎馬に二人分の荷物を満載してカルタゴを出たが、ヌミディア辺りで追手が掛けられた。
吾輩とハンニバルにとって、追手の存在は想定済みの問題であった。私は剣に秀でていたし、ハンニバルなど私の師である。頭脳明晰の上に勇気と技量を備える彼女こそ、恐らく史上最強の将帥の一人で間違いないだろう。話が逸れたが、そんな彼女と私は苦も無く追手を振り切り、振り切れなければ撃退しつつ進んだ。
結局海路を断念した私とハンニバルは一度大きく引き返したうえで迂回して、陸路でアレクサンドリアを目指した。誰も陸路でアレクサンドリアへと向かうとは考えていなかったのか、道中はヌミディア迄のものとは異なり静かで比較的快適な旅になった。
しかしキュレネーを越えてエジプトの情緒が香り始めた頃だった、もうすぐでアレクサンドリアだというのに砂漠の真ん中で砂嵐が吾輩達を襲ったのだ。
一寸先も見えない闇の中で、繋いだ手の温もりだけが頼りだった。瞼を打つ砂塵の凄まじさに呼吸すら忘れながらも、吾輩達は砂嵐を抜ける為に直進した。
「ザートムッ!!私の手を離すなッ!」
ハンニバルの声が聞こえたと思った瞬間、砂嵐の奥から茶けた巨体が雪崩を打って押し寄せた。謎の動く巨体の正体は動物の群れだった。
「尻に火のついたラクダだとッ!?」
何が起きたのかは想像もつかないが、現実は巨大な流れとなって吾輩と彼女を呑み込んだ。混乱しているのか、身体を打ち付け合いながら駆け抜けるラクダの群れには流石に手の付けようがなかった。立ち往生する中、せめて少しでも身を寄せ合おうとも考えたが、体力があり運搬能力の高さで選んだ荷役馬とラクダとでは体格に差があり過ぎた。不用意に固まろうものならまとめて踏み潰されかねない。ここで荷を失えば如何に屈強なものでも干乾びて死ぬしかない。
何もできずにいると、吾輩とハンニバルの手と手の間にも一頭のラクダが突っ込んできた。
「ハンニバルッ!ダメだッ!腕が千切れる!」
吾輩が言うが早いか、吾輩達は手を放しラクダを通した。
「わかった!ザートムッ!あとで必ず落ち合うぞ!お前はそのまま真直ぐアレクサンドリアへ進めッ!」
「ハンニバル!」
一頭目を皮切りに次から次に雪崩こんでくるラクダラクダラクダラクダ…。最早、吾輩とハンニバルの間には回復し難い距離が出来ていた。声を届けるのがやっと、動けばラクダに轢き殺される。
ハンニバルの判断は早かった。
「暫しの別れだが安心しろ!私と君の前には常に二つの道がある!そして、そのどちらもが互いの元へと続いているのだから!ソレは次逢った時に返してくれ!」
「ハンニバルッ!」
掌に感じる硬質な感触に気づくと同時に、ハンニバルの声は完全に聞こえなくなっていた。
吾輩とハンニバルが別れてすぐに、砂嵐も、そしてラクダの群れも蜃気楼のように何処かへと消えてしまった。荒い息遣いや巨体が放つ熱すらも感じたと言うのに、まるで夢か幻の様だった。
砂嵐が去った後は余りにも静かだった。いつもならじりじりと音が聞こえてきそうな太陽も、粛々と吾輩を照り付けるに徹していた。いつもなら噎せ返る熱気にやられて肺を燃やす様に荒い息を吐くものだが、それすらも今は貞淑な様子だった。憎たらしいほどに青い空が広がっていた。世界を真二つに天地で分けてしまえば、なるほど確かに決まりが好い。そう思えるほどに青色と黄金色とで満たされた世界だった。太陽が暈を被って吾輩一人を照り付けていた。
果たして、砂嵐は吾輩を何処へ連れて来たのだろう?
吾輩は目の前に現れた巨大な神殿に首を傾げた。手の平に遺ったものはハンニバルの守り石だったようだ。暗く澄んだ黒い宝玉の頭に着いた金属の輪に、サンダルから抜き取った革紐を通して首から下げた。
「まずはアレクサンドリアまでどれくらいかを尋ねるとしよう。」
砂漠の真ん中で第一の旅は唐突に終わりを迎えた。こうして、吾輩の安息を知らない偶稀の旅が真に幕を上げたのである。
今のところ、アレが彼女と交わした最後の会話になってしまった。だが何時か必ず彼女と再会する日が来ると吾輩は固く信じている。幾星霜経てど、吾輩の首元には彼女から預かった黒石が輝いているのだ。吾輩の旅の終わりは、或いは彼女との再会を果たした時やもしれぬ。