首を絞めて男を一人殺した。一宿の恩を仇で返してしまった。残念でならない。だが、後悔はしていない。
「あの、なんで?」
男には娘がいた。一人娘らしい。はだけた服。饐えた臭いがする。埃と汗と、それから体液の匂いだ。
「あの、ねぇ、どうして?」
彼女が話しかけていた。気づかなかったよ。ごめん。ところで、ここって水は通っているのかな?
「う、うん…。」
それは大変結構。お湯は出るの?
「お湯は出ない。」
…全然結構じゃないね。いいだろう…じやぁ、ここにあるもので要るもの要らないものを分けてくれるかな?少し、疲れてるかもしれないけど僕だと勝手がわからなくてね。
「要るもの?」
うん。要るもの。替えの利かないもの。大切なもの。そういうものだよ。
「じゃぁ、ソレ。」
お財布?…の中身か。なるほど。よろしい。マネージメント能力の高い子は好きだよ。成金のガキよりウンとお利口だし、概ね面倒臭くないからね。さて、それ以外は?手放したくないもの、とか。もう二度と手に入らないかもしれない、そういうもの。
「うぅ…。」
難しいかな。指をさしてくれるだけでもいいよ。あとは僕が勝手に用意するから。離れ難いもの…ない?素敵な思い出とかとか。
「なんでもいい…いいんですか?」
なんでもいいよ。あ、そこの死体はノーカンね。
「じゃぁ…。」
…僕?まぁ、なんでもいいって言ったし、生きてるから適当っちゃ適当か…。よろしい。一宿の恩は二人分君に返すことにしよう。そうしよう。よっし、なら少し待っててね。ここにある可燃物でちゃちゃっとお湯を用意するから。
…ところで君、名前は?
「レベッカ…。」
レベッカね、よろしい。僕のことは…好きに呼んでおくれ。人に名乗れるものは全部向こうにおいて来ちゃったからさ。
「向こうって?」
日本。英語だとJAPANね。僕にも色々あってね。それで、呼び名は決まった?
「…クリスさん…って呼んでもいいですか?」
強そうな名前だね。名前負けしそうだよ。でも、どうぞ。今日から僕はクリスだ。よろしくレベッカ。
「レヴィって呼んで、ください。」
OK。承知した。改めてよろしくねレヴィ。
「はい。よろしく、です、クリスさん。」
◇◇◇
レベッカ・リーの人生はお世辞にも健全なものではなかった。碌な人間じゃない父親に育てられた、と言葉で言うことは容易い。だが、実体験として過酷な幼少時代を過ごした彼女の心身には取り返しのつかない欠陥があり、そこに至るまでに積層した苦痛は過去のものと留まらずに彼女を苛み続ける。
その欠陥により彼女は、その本来ならば満たされていて然るべき虚空に詰め込まずにはいられない、特有の渇きに苦しみ続けることを強いられている。
如何なる正義による爽快を以てしても、一度深く傷つけられた心と体は元の通りに治ることなどない。如何なる過去を持つ者にも、現実は未来に向かって進むほかない不都合な代物である。
しかし、であるからこそ彼女の傷を癒すために必要な条件には何らの理性的、論理的善悪も働かないのだ。
必要なのは救いの実感ただ一つ。肉体的で主観的で観想的なそこにあるはずの、そこにあって然るべきソレのみ。
レベッカ・リーの人生はお世辞にも健全なものではなかった。だが、少なくとも救いは舞い降りたのだ。如何なる姿形を持ち、如何なる過去を持ち合わせていたにせよ。彼女は生まれて初めて救いを実感した。
その日は他の日と何ら変わらぬ日であった。虐待と言う他ない養育環境下で腐っていく自己を哀れみ、ほかならぬ世の理を憤怒とともに憎む何変哲のない日常だった。
あの男が現れるまでは。
一目で余所者とわかる男だった。掏摸を働くために何食わぬ顔で様子を伺いつつ、困っている様子なら助ける素振りをして近づき金を巻き上げるつもりだった。
だが、レベッカが近づくより早く、気が付けば男が目の前に立っていた。街灯二本分の間隔を一瞬で詰めた男は、極めて柔和に整った顔立ちとは裏腹に、低く沈み込むような声で言った。
「20ドルで一晩泊めていただきたい。」
男から請われて、それからどうしたのかは、レベッカにも記憶が無かった。だが、恐らく首を縦に振ったのだろう。激昂した父親から投げつけられた罵声で我に返った。気が付けば家に帰ってきていた。そして、我を取り戻してとっさに頭を守るように抱いた。いつも通りなら拳が飛んでくるはずだ。
だが一向に拳は飛んでこなかった。亀のように固く閉じていた腕の隙間から後ろを振り返ると、男がじっと父親を見つめていた。冷たい目だった。男を見て、それから父親を見た。すると、父親は初めて見る表情を浮かべていた。レベッカには見覚えのある顔だった。あれは怯えの表情だ。いつも自分が浮かべるばかりだった表情。
なんとなく身に覚えのない寒気が駆け上った気がして、背筋がくすぐったかった。それが何なのか理解するには早すぎた。だが、ともかくその日レベッカは生まれて初めて怯えずに家の中を歩いたのだ。
事件が起きたのは深夜だった。ギャングでもないのにその矮小な面子とプライドを保つためだけに、レベッカの父親は事に及ぼうとした。腹立たしい招かれざる客人の目の前で、である。
全身に纏わりつくむっとした熱気と臭気、口にねじ込まれた酒精の滴る分厚く苦い舌、未成熟の軟肉の上を不快害虫のように忙しなく這いまわる肉親の手指。
慣れたものなどありはしないが、そのまま嘔吐したのはこの時が初めてだった。何が引き金になったのか…思い当たるものは、いつの間にか仁王立ち、えずく父親を見下ろす男のことしかなかった。
レベッカははだけた衣服を直すことも忘れて、男に魅入ってしまった。男は怒っていたから。不愉快を顔に張り付け怒気は父親だけに注ぎ込みつつ、一方で気遣わしげにレベッカに視線を送っていたから。
男は言った。
「責任は取ろうと思う。だから、死んでもらう。」
レベッカは父親が絞殺される様子を、その一部始終を見届けた。瞬きすら忘れて、レベッカはただただ魅入っていた。笑いもせず、悲しみもせず、かといって楽しみもせずに淡々と男が人を殺す光景に。彼女は自分の父親を殺してくれる光景から目が離せなかった。
美しささえ覚える手際の良さだった。男の仕事はほんの一瞬で、だがその一瞬で頸椎を肉を裂かずに引っこ抜いたのだ。首が二倍近く長くなった遺体だけが残った。
名残惜しさすら覚えた。それほどまでにレベッカは、この時生まれて初めて明確な『救い』を感じた。鮮烈な刺激は彼女にエクスタシーにも似た興奮と、貞淑かつ敬虔で静穏な心地を同時に与えた。それは麻薬にも似て、たった一度きりで、されど一度きりで彼女は男に与えられた『救い』の、或いは男という『救い』の信奉者となったのだ。
信奉者になった夜、彼女は男にクリスという名前を捧げた。自分にとって神にも救世主にも勝る何者かに相応しい名前を。