ヒロアカ二次は初投稿です。単行本勢です。
見切り発車なので不定期更新です。たまに更新します。
耳が割れんばかりの大合唱に夏の熱せられた大気が揺さぶられ、境内はさながら音の坩堝のようだった。それでも、外よりは幾分涼しく、そして夏休みの喧騒からも一歩隔てられていた。
足を引きずって歩く。
石畳の隙間、苔と砂を縫うようにして顔を出した名もなき草花。息遣いが聞こえそうなほどにたくましいその青が、この神社に出入りする人間の少なさを物語っている。
この神社は緑谷出久にとって特別な場所だった。
幼馴染の爆豪勝己は昔、この神社に伝わる逸話を怖がってトイレに行けなくなり、寝小便をしてから近寄ろうとしない。だから、どうしても彼を許せない、ひどく気持ちが傷つけられたような日には、出久は決まってここで泣いた。
「――おや、来たね少年」
参道から外れた左手にある、小さなあずま屋。
苔むした慰霊碑への参拝客が足を休めるために作られたらしいそこに、いつもその人はいた。
白いワンピースに長い黒髪。夏の暑さをものともせずに涼しげな顔で、古ぼけた文庫本を片手に鼻歌など奏でていることもある。出久が知る限り最も文化的で、そしてそのステータスに見合った静かな美しさを秘めている女性だ。
「お姉さん」
涙をこらえながら出久は彼女を呼んだ。
名前は知らない。彼女は出久を少年と呼ぶし、出久も彼女をお姉さんとだけ呼んだ。そういう付き合いは出久がこの神社に迷い込んだ小学2年生から生じ、かれこれ4年は続いていた。
「これはまた、こっぴどくやられたものだ。痛いだろう?」
「痛くない、です」
「男の子だねえ、少年は。お堂のほうにまだ使える救急セットがあっただろう、去年君が福引で当てたやつ。どれ、お姉さんが手当てをしてあげよう」
よいせ、と立ち上がった彼女の手はうっすらと透けていた。
幽霊だ。
初めてあずま屋でうたた寝する彼女を目にした時のことを出久は鮮明に覚えている。混乱で固まった。そして、その硬直を金縛りと勘違いして心底震え、泡を吹いて倒れた。
意識が戻った時、出久は幽霊の彼女に膝枕されていた。冷たく、しかし柔らかいその感触を出久は初めて知った。
「よくないぞー、まったく。死人に手当てされるヒーローなんて、印象わるわるじゃないか」
「ごめん、なさい」
「精進したまえよ、少年。ま、今の君は小学6年生の男の子でしかないけれど」
そんなことを言ってけらけらと笑うお姉さんは、ずっと昔に亡くなっている。
彼女の個性は、死霊。ずっと昔、個性犯罪者が起こした大火事から避難するためにこの神社までやってきて、そのまま亡くなったそうだ。それまでは自分を無個性だと思っていたらしい。
死んで、肉体を失ってただの「意思のある個性」になった彼女は、特に目的もなく神社に居座っているのだと言っていた。
出久には訊ねる勇気がなかった。慰霊碑に刻まれている名前のどれがあなたなのか、と。
「個性がなくとも喧嘩には勝てる。お姉さんだってやんちゃな弟たちによくげんこつを落としていたものだよ。今はうまくやらないとすり抜けちゃうけれど」
「……でも、かっちゃんは強くて」
「おや、あのツンツン坊やがそんなに強いとはね。しかし、自分より強い悪党とだってヒーローは戦うんだろう?」
お姉さんは甘やかしてくれるわけではない。むしろ、いつも突き放すようなことを言う。それもかなりの本気で。
しかし、出久にはそれが心地よかった。
出久は無個性だ。それなのに、世界総人口の約八割が個性を持つ超人社会で平和のために戦うこと――ヒーローになることを望んでいる。
大半が無謀な夢と笑った。ごく少数が無理とわかりながらも応援の言葉を贈ってくれた。それが普通で、当たり前ということは出久自身が一番よく理解していた。
馬鹿にするでも憐れむでもなく、「ではどうするべきか」を一緒に考えてくれるのは、いま小さなお堂の裏手にある倉庫へ身体を突っ込んでいる幽霊の彼女だけだった。
趣味の延長線上でしかなかったヒーロー分析ノートに本気で取り組んだ。
身体を鍛え、持久力をつけるために運動と食事の正しいサイクルを学んだ。
ヒーローとして緊張せずファンと接する練習と称して、お姉さんを相手にファンサービスもさせられた。これはきっと、お姉さんの趣味でしかないのだが。
「あったあった。さて、消毒からだ。しみるぞー」
「ッ……」
「泣かなかったねえ、偉い偉い」
片手で器用に絆創膏を貼りながら、お姉さんは出久の頭に反対の手を伸ばした。
お姉さんは辛辣だ。しかし、同時に出久の努力を決して無視しない。
ひんやりとした手のひらが出久の髪を撫でる。飼い犬を愛でるように少し乱雑な手付き。出久のくせっ毛はますますかき混ぜられてしまうが、その乱雑さが心地良い。
胸の奥でじくじくと痛んでいた傷まで、すっと和らいでいくようだった。
「それで、今日はなんで喧嘩になったんだい」
「……かっちゃんが、公園で先に遊んでた年下の子を追い出そうとして。自分たちが使うから邪魔だ、出てかないとぶっ飛ばすぞって」
「なるほど、それはよくない。公園はあらゆる市民のものだからね」
幼馴染の暴虐に歯止めをかけるため、出久は勝ち目のない戦いに挑んだ。
左膝の擦過傷は彼が宣言通り出久をぶっ飛ばしたことでできたものだ。喧嘩慣れした爆豪が放つ、叩きつけるような右の大振り。身体の小さな出久を吹き飛ばすには十分な攻撃だった。
「受けた腕も見せてごらん」
言われるままに左腕を差し出す。
お姉さんの厳しい言葉に支えられて、出久は少しずつ前に進んでいた。口先だけで夢をぼやくのではなく、這ってでも夢に手を伸ばすための地道な努力を。
半年前より少しだけ堅くなった腕は、爆豪の一撃を受けても折れたり切れたりせず、痛むだけで済んでいた。それでも、彼のパワーに押し負けてしまったのだが。
「こっちは軽い打ち身かな、湿布もいらなそうだ。お姉さんが冷やしてあげよう」
「わっ、だ、大丈夫です!」
「遠慮するな少年、この暑さでくたびれた身体に幽霊のひんやりおてては気持ちがいいぞー?」
ぴとりと添えられた手の冷たさに、かえって顔が熱くなる。
幽霊とは思えない、いや、幽霊だからこそなのか、ささくれひとつない指。ここ最近頬に丸みを帯びてきた母とは違う、すらりと伸びた白い腕。
目に悪かった。心臓にも悪かった。眠れなくなるほどに鮮烈だった。それなのに出久はもう4年もここに通っている。きっと何かが間違っていて、しかし、それだけが正しいようにも思えてしまう。
「少年はあたたかいな」
「……ゆ、幽霊ってやっぱり、その、寒いんですか?」
「寒い、か……そう、寒いのかもしれない。温度がないというのはね、存外に寒いものなんだよ少年。だから、これからもこうしてお姉さんに暖を取らせておくれ?」
どこか遠くを見る彼女に、出久は否と言えない。
その瞳の奥で何を想っているのか知りたい、しかし訊ねたくはない、そんな気持ちに出久はまだ名前をつけられないでいる。もしかしたら、この気持ちに名前などないのかもしれない。
ただ、彼女が寒さに震えない日が来てほしいと、それだけははっきり思っていた。
そんな関係が大きく変わったのは、出久が中学3年生になったころのことだ。
ヘドロヴィラン。後にそう呼ばれることになるそのヴィランとの戦いを経て、出久は憧れのヒーロー、オールマイトの秘密を知った。
この日も出久は無謀な戦いに挑んだ。自分をいじめてくる幼馴染がヘドロに呑まれ、その肉体を奪われようとしていた。そのままにしておけば、彼は死ぬだろう。
恨みはある。つい先ほど自殺教唆もされたばかりだ。ここで足を止めたところで、誰も文句は言わない。
それでも爆豪を助けようと、出久の足は勝手に前へ進んだ。
「かっちゃん!」
「なんで、てめェが!」
「君が、救けを求める顔してた!」
咄嗟に買い物鞄から取り出したのは、学校の帰りにお使いを頼まれていた小麦粉。母の得意料理であるホワイトシチューに使われる予定だった。
流体のヴィランを少しでも鈍らせようと、出久はそれを盛大にぶちまけた。
昔よりも鍛えられた腕で放られた1kgの薄力粉が空中で眩い白となって拡散する。
もし爆豪がまだ個性を使う余裕があるのなら、彼が着火させればヴィランへの有効打になる。爆豪ならきっとそうするという信頼が出久にはあった。
白く染まるヴィラン。固まったどろどろの奥で目を見開く爆豪。そして。
「プロはいつだって命懸け! ――デトロイト・スマッシュ!」
圧倒的な風圧が上空の天気を変えた。
この事件を解決したのはオールマイトだ。彼の一撃がヘドロの肉体をバラバラに飛散させたことで、爆豪は無事に助かった。
出久もそれに異論はない。ヒーローたちから受けた説教も正論だとわかっている。
しかし、オールマイトから与えられたその言葉――
「君はヒーローになれる」
その言葉に泣き崩れながら、出久は頭の片隅で幽霊の彼女を思い出していた。
一度たりとも出久の可能性を疑わず、だからこそ誰よりも厳しく寄り添ってくれた彼女。彼女がいなければ、出久は諦めていたかもしれない。
夢への入り口はまだ遠い。しかし、そこへと目指す道を歩む権利を、出久はとうとう得たのだ。
誰よりもまず、彼女に報告したかった。
ところが。
「まーたそうやって無茶をする。よくないぞー、少年」
お姉さんはおかんむりだった。
ぷんすか、と口に出してわざとらしく怒る彼女はどこか幼く、可愛らしい。半透明の手が何度も出久の頭を叩くことから察するに、それなりにお怒りではあるらしかった。
理由はもちろん、出久が無茶をしたからだ。
「二次災害を自分から生みにいくやつをヒーローとは呼ばないだろう? 爆豪
「……はい、ごめんなさい」
「まったくもう。お姉さんは君をそんな考えなしに育てた覚えはないからな!」
「でも、その、お節介はヒーローの特権で」
「生意気を言う口はこれかねー? ヒーローになってから言いなさい、お調子乗りのお馬鹿さんめ」
冷たい指に頬を引っ張られながら、出久はようやく彼女の意図を汲み取った。
「心配かけて、ごめんなさい」
「……よろしい。ここで許さなきゃお姉さんが心狭い人になっちゃうからね、許してあげよう。お団子食べるかい? お供物だけど、まあ実質私のものみたいなもんだ」
無神経だったかもしれない。
少しだけひりひりする頬が、彼女の気持ちを訴えているようだった。
お姉さんが亡くなったという火災のことを、出久は学校の地域学習で少しだけ知ってしまった。ヴィランが引き起こした災害で、記録的な大火事だったらしい。
つまり、彼女はヴィランに殺されている。
出久がヴィランを相手に無謀なことをしたと聞かされれば、いい気分にはならないだろう。彼女と違って、出久は幽霊になって残ることなどできないのだから。
それに、彼女が時折口にする「弟たち」も――
「生意気なことを考えている顔だな、こやつめ」
ぺち、と形だけのデコピンが出久の額を叩いた。
お姉さんの手には透明なパックに収まった三本のみたらし団子。スーパーやコンビニでよく見かけるそれは、ごくたまに現れる参拝客が置いていったお供物だ。
時々、出久は彼女が世間的には死人であることを忘れてしまう。それどころか、肉体的にも死人なのだが。
「死人の心配をする暇があったら自分の心配をしなさい、甘いもの食べて栄養補給だよ」
「……うん」
お姉さんは食事をしない。
だから、お供物は大抵出久の胃に収まる。おはぎ、桜餅、あられせんべい。さすがにワンカップ焼酎はお姉さんが処理したらしいが。
差し出された串を受け取って、一番上に刺さったひとつを頬張る。
「おいしいかい?」
「すごく甘くて、こう……甘いです!」
「食レポ、下手だねえ」
けらけらと笑って、彼女は出久の頬についたタレをハンカチで拭った。
「お姉さん」
「なんだい、少年」
「僕は……ヒーローになります」
人気のない境内を春の風が吹き抜けていく。木立に遮られてなお、草葉を揺らす力強い風。春の風は新しい時代を運んでくる。
あずま屋の古びた屋根の下で、出久は昔よりも近い高さになった彼女の目をまっすぐに見つめた。
「知ってるよ、ずっと見てきた」
「勇気がなきゃ、僕が目指すヒーローにはなれない。だから……教えてください。あなたの名前を。あの慰霊碑に刻まれてる、名前を」
「……子どもの成長ってあっという間だなあ。男の子なんだから、まったく」
透き通った頬。長いまつげ。なびく黒髪。
ずっと変わらない、生きた魔法のようなその人のことを、出久は今日までお姉さんとだけ呼んでいた。
「生意気だぞー、少年のくせに」
「お姉さんを……あなたを寒いままで、放っておきたくないんです!」
「ふーん。本当に、生意気」
いつもとは違う、少しだけ苦しそうな笑顔。
お姉さんがあずま屋から出て、境内の隅にある慰霊碑へと向かった。幽霊に足音はない。滑るように、しかしゆっくりと進む。
「お姉さん?」
「名前なんて、なくしても構わないって思ってたんだけどなあ」
膝を折って屈み、小さな慰霊碑を指でなぞる。きっと彼女の名が刻まれているであろうそれを。
そして、不思議なことが起きた。
慰霊碑が光っている。小さな石に彫られた、火事の犠牲になった無数の人々の名前。そのうちのひとつがまるで呼びかけるようにふわりと光っているのだ。
その名前を、彼女の細い指先がつついた。
「
「蓮華、さん……」
ふわりと、どこかから蓮の花の香りがした気がした。
蓮華。華やかだが品のある彼女に相応しい名前だと、出久は素直にそう思った。
胸中でその名前を刻み込むように何度も繰り返す。
「これからもよろしくね、出久」
「いずっ……!」
「はは、やっぱり少年は少年か」
からかいの風に揉まれて、春。
出久の物語が始まった。