部屋のベッドに寝転がって天井を眺めながら、出久は今日あった事件について考えていた。
ヴィランによる大規模な雄英高校襲撃。その目的はオールマイトの殺害という、極めて大それたものだった。しかし、それを実現するだけの準備はしていたようだ。
悪意を挫くため、オールマイトは全力で力を振るった。
違う。出久たちが振るわせてしまったのだ。
「――少年、入るよ」
ノックの後、少し間を置いてから蓮華が出久の部屋の扉を開いた。
その気になれば幽霊の身体を使って壁を抜けることもできるのに、蓮華は律儀に扉をノックしてくれる。一度たりとも出久が望まない形でプライベートを侵してきたことはない。
だからこそ、返事する前に扉を開けるという珍しい振る舞いに出久は驚いて体を起こした。
「お姉さん?」
「ごめん、邪魔しちゃったかな」
「いえ、そんな。でも、えっと、椅子がないから……」
オールマイトのグッズとトレーニング用品だらけで、人をもてなすことなど微塵も考えていない部屋。それを気にもとめず、蓮華は小さく笑って出久のベッドに腰掛けた。
存在しない体重がわずかにマットレスをたわませる。
部屋に広がる蓮の香り。遠くを思わせる霞がかった甘さと、それでいて透き通った爽やかさが、消臭ビーズを置いただけの味気ない出久の部屋に少しずつゆき渡っていく。
思わず硬直する出久に触れるか触れないかの距離で寄り添う蓮華は、しばらく何も言わずに出久のコレクション棚を眺めていた。
10分ほどそうしていただろうか。
次第に出久も緊張が解け、「クッションでも用意すればよかった」と考える余裕ができたころになって、蓮華はぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「……少年の憧れをさ、お姉さんはあんまりわかってなかった気がするんだ」
「憧れ、ですか」
「オールマイト。好きなんだよね」
頷く。
オールマイトは出久の原点だ。彼は笑顔を絶やさず、どんな苦難もはねのけ、当たり前のような顔をして人々をあっという間に救けてしまう。そんなヒーローになりたい、そう思ってここまで来た。
だからこそ、オールマイトの足を引っ張るなどあってはならないことなのだ。
「お姉さんが中学生のときだったかな、オールマイトがデビューしたのは。衝撃だったよ、クラスのみんなが彼の話ばかりしてた」
「えっと、オールマイトがアメリカでの活動を終えて帰国したときですよね。あの大災害から10分で100人を救けた伝説の」
出久はそのシーンをレコーダーのBDが擦り切れるくらいに何度も見たものだ。
絶望的とまで言われた災害現場から笑顔のまま現れ、要救助者たちを抱えて放った「もう大丈夫、私が来た」は今やオールマイトの代名詞となった。幼少期の出久にとってその姿は最も鮮烈な「ヒーロー」だった。
「そうそう。ヒーロー志望の子も同級生にいたけど、少年みたいに憧れてたり、反対に絶対超えてやるんだーって気合い入れてたり。みんな彼を意識してた」
「お姉さんは、どうだったんですか?」
「私か。んー……すごいな、とは思ってたよ。でも、それ以上に怖いなって」
「怖い?」
「なんていうかさー」
腰掛けたベッドの上で足を伸ばして、ぱたぱたと揺らしながら蓮華は口を曲げた。
どこか幼い空気を纏った蓮華は、きっと当時のことを鮮明に思い出しているのだろう。彼女がまだ、ただの「無個性の中学生」だったころのことを。
「みんな、オールマイトがいれば大丈夫って思いはじめてた。少しずつだけど、彼がいて当たり前の存在になりはじめてたんだよ」
「……でも、実際この20年以上はオールマイトのおかげで」
「そう、オールマイトが象徴を張ってたから平和な時代だった。でも、少年は今日自分の目で確かめたし、なんなら思ったはずだ。救けたい、救けなきゃいけないって」
「それは……そう、ですけど」
「彼もさ、人間なんだよ。歳を取るし、病気になるし、怪我をする」
蓮華が指さした棚には、各時代のオールマイトが鎮座している。出久が小遣いをやりくりして地道に集めてきたコレクションだ。中にはもう出回っていないものだってある。
それらはオールマイトがデビューしてからずっと作られ続けてきた。
アメリカで活動していたころのヤングエイジ、日本でデビューしたばかりのブロンズエイジ、トップヒーローとして輝くシルバーエイジ、そして今もなお日本の平和を守るゴールデンエイジ。
並べれば、言われなくともわかる。オールマイトは歳を取っている。
しかし、彼の実力は衰えないと言われていたし、活動は精力的であり続けている。彼が深い傷を負ってヒーロー活動に支障が出るほど衰えていると言っても誰も信じないだろう。
「人はいつか死ぬ。オールマイトも死ぬ。今日がその日じゃなかったのは、うん、お姉さんも嬉しい。いい人だからね、長生きしてほしいな」
「僕もそう思います。オールマイトには元気であってほしい」
「そうだね。……お姉さんもきっと、いつか本当の意味で死ぬ日が来るんだと思う。つまり、こうやって幽霊生活するのにも終わりが来るんじゃないかなって」
出久が勢いよく隣を向くと、蓮華は困ったような笑みを浮かべていた。
「すぐってわけじゃないよ? どうやったら終わるのかなんてお姉さんにもわからないし」
「よ、よかった……びっくりしました、急に言い出すから」
「ごめんごめん。でも、今日お姉さんは決めたんだ。私はいつか終わる。だから、少年に遺せるものは全部遺してあげたいなって」
遺す。その言葉が、遺産とか遺言とかそんなちっぽけなものを指しているわけではないことは出久にもすぐわかった。蓮華はもっと大きな、押し潰されそうなくらいに大きな話をしている。
いつか蓮華がいなくなるなど、出久は考えたくなかった。
逃げるように立ち上がろうとした出久の手を、蓮華が掴んだ。冷たい、湿った体温が伝わってくる。そして感じるのは、かすかな震えだ。
どちらが震えているのか、出久にはわからなかった。
怖くてしょうがないのだ。誰かを喪いたくない、その気持ちが溢れて、ずっと堪えきれない。ずっと胃の底がひきつるように震えている。
「まだちょっと、自分が死んだときの話はしたくない。でも、少年はもう知ろうと思えば知ることができる。どうせならさ、自分の口で教えたいんだ。わがままかな」
「……わがままです。わがままですよ、それは」
掴まれた手を掴み返して、出久は蓮華を睨んだ。
大切な人なのだ。ずっと見守ってくれた、ずっと支えてくれた、そして今は一緒に戦ってくれる、なにものにも代えがたい人なのだ。その人のことを知りたいと思うのは当たり前ではないか。
蓮華は最初からずっと、ずるい人だった。
「いつかいなくなっちゃうって言っておきながら、調べちゃだめなんて……ずるいです、お姉さんは。本当に、ずるい」
「そうだよ、お姉さんはずるいんだ。だから、少年もずるくならなきゃいけない」
ふいに蓮華が出久の手をぐいと引いた。
急にかけられた力を拒めずにベッドに転げ込んだ出久は、蓮華の柔らかな肉体に包まれた。
慌てる間もなく久しぶりに感じる、髪を撫でる少し雑な手付き。決して温かくないはずなのに、不思議と感じるぬくもり。
手は繋いだまま、しばらく出久はされるがままになっていた。
「ずるくなれ、少年。お姉さんが成仏したくないって強く思うような、とびきりの未練になっておくれ」
「……なります、絶対に」
冷気に全身を抱きしめられながら、出久はぐっと涙をこらえた。
ずっと泣きたかった。オールマイトに苦痛を強いてしまったことへの後悔、自分の無力さへの絶望に、思いきり泣きわめいてしまいたかった。
それでも泣かなかったのは、蓮華がいるからだ。泣き虫なところを見せたくない、その矜持だけで出久はみっともなく食いしばっていた。
そんな出久の背を、優しい手が撫でる。
「泣いていいんだ、少年。君は泣いていい」
「泣かない、です」
「それは私がいるから?」
「……絶対に、泣かないですから」
こらえきれなかった涙が、ぼろぼろと溢れ出てくる。もう拒むのが無駄だとわかっていて、それでも出久は涙を止めようとした。
「お姉さんもさ、昔、絶対に見られたくないやつの前で大泣きしたことがあるんだよ。悔しかったなあ」
「泣いて、ないです」
「もう、息ができないってくらいに泣いて、怒鳴って。後になってすっごく恥ずかしくなっちゃってさ。今でも覚えてるのかな、あいつ」
泣きたかった。しかし、泣きたくなかった。
やりきれない悔しさと、八つ当たりでしかない怒りがどろどろになっている。
わけもわからず、出久は蓮華にしがみついて泣いた。声を上げて泣く出久の背を、蓮華はただ優しくさすって、当たり前のように話を続けてくれた。
「中学でさ、いじめがあったんだよ。気に入らなくて、殴り込みにいったんだけど返り討ちにあって。なんてったってお姉さん、そのころは無個性の女子中学生だからね。個性の対人使用が違法どうこうなんてお構いなしだった」
「……はい」
「で、ボコボコにされて、ああ、次にいじめられるのは私なんだろうなって思ってたところでそいつが来たんだ。世の中の全部に興味ないみたいな顔した生意気なやつでさ。でも、個性を使わなくてもすごく強かった」
「……はい」
「いじめの主犯格を叩きのめして、一喝してさ。ああ、どうして私にはできなかったんだろうってすごく悔しくて。むしろそいつに負けた気分になっちゃって、もう大泣きだよ」
馬鹿みたいだよね、と笑う蓮華の気持ちが出久には痛いほどよくわかった。
無力感。
誰かの力になれない、なれなかったというその感覚は、ヒーローを目指す出久にとってなによりも辛いものだった。ましてや、憧れのオールマイトを救けるには力が足りないという事実は、よりいっそう出久を打ちのめしたのだ。
悔しさで、出久はどうにかなってしまいそうだった。その淀んだ苦しみが涙とともに抜けていく。
「散々大泣きしたあと、そいつと約束したんだ。無個性だろうとなんだろうと、自分の正義を貫ける人間であろうって」
「……自分の、正義」
「うん。さすがに少年みたいな無個性でヒーロー目指す度胸の持ち主ではなかったけど、それでも正しいやり方で正しいことをする人間でいようって決めたんだ」
見上げると、そこには涙で滲んだ蓮華の顔があった。
蓮華はいつも出久の背を押してくれた。それはきっと、無個性でヒーローを目指した出久のためでもあり、正義を貫くという未練を残した蓮華のためでもあったのだろう。
気づかないうちに、出久は言葉を発していた。
「じゃあ、もう僕はお姉さんの未練じゃないですか」
「……ふふ。いいぞ、その調子でどんどんずるいやつになっていけ。その通り、少年がヒーローとして正義を貫くところをお姉さんは見たいんだ」
「絶対、絶対になってみせますから」
「うん。……ごめんね、まだ少し他人事のつもりで応援してたかもしれない。これからはもっと、少年の個性として本気で頑張るからさ。二人でなろうよ、最高のヒーローってやつ」
いつしか出久の胸中につかえていたもやは晴れ、涙のかわりに決意がこみ上げていた。蓮華とともに、最高のヒーローになってみせる。オールマイトすら当たり前のように笑顔で救けてしまう、最高のヒーローに。
明日からまた頑張らなくてはならない。
いや、違う。頑張りたいから頑張る。