二十九回忌 僕の準優勝祝いに東京デートを楽しむお姉さん
提灯がどこか誘うように揺れている。
その暗がりに不気味さを感じないのは、きっと櫓を囲むようにして踊る人々の活気があるからだ。色とりどりの浴衣や法被を身に纏い、少し罅割れた盆踊りの音色に乗る人々が夜を楽しんでいるからだ。
そして、その納涼祭の隅、パイプ椅子の置かれた休憩スペースにその人はいた。
「姉貴、買ってきたよ」
「うむうむ、大義であった」
「ったく、顎で使いやがって……小遣い弾めよな」
弟の
蓮華が着ているのは浴衣ではない。夏物の簡素な白いワンピースに、ヒールの低いサンダル。
傍らに置かれた旅行鞄が、もうすぐ蓮華がここを発つことを示していた。
「最終日がお祭りと重なってラッキーだったよ。ここ数年来れてなかったし」
「前来た時と違ってカレシいねーけど」
「炎司とはそういうのじゃないって言ってるでしょうが。子どもも生まれて大変な時期なんだし、余計なこと言わないの。これで好きなもん買ってきな」
差し出した千円札をかっさらって、鞍人は屋台通りへと駆けていった。生意気の盛りだ。少し前までべそをかいて後ろをついて回っていたというのに、姉の恋愛事情をからかうようになるとは。
お祭りの喧騒に揺られながら、蓮華はかき氷のシンプルな甘さを楽しんだ。
薄っぺらな紙カップ、ストローを切っただけの扱いづらいスプーン。不便さすらも魅力に変える祭りの魔法にかけられて、最後の夜が過ぎていく。
蓮華の持つカップの底に砂糖水と化したかき氷が溜まりはじめ、「そろそろ塩気のあるものも食べたいな、たこ焼きとかいいな」と考えはじめたころ、近くのパイプ椅子に腰掛ける影があった。
「……あの、大丈夫ですか?」
思わず蓮華は声をかけた。それだけその人の顔色が悪かったからだ。
年上の男性だった。祭りに似合わないよれたスーツを着ていて、それなのに靴はスニーカー。ちぐはぐな格好の中で、顔だけが青ざめていた。
一瞬、見回りに来た教師かとも考えた。納涼祭で羽目を外す学生は存外多い。型抜きでムキになって小遣いを溶かす程度の可愛いものならいいが、一生をふいにするような過ちを犯す者もいるだろう。
しかし、蓮華はその考えをすぐに捨て去った。彼の胸ポケットに煙草のソフトケースが見えたからだ。
「……最後だから、お祭りを楽しみたいと言ったのは僕だ。でも、まさかこんなに混んでいるとは思わなかった」
「あー……そうですね、今日はいつもより混んでるかも。何か飲み物でも買ってきましょうか?」
「僕は……僕はただ……許してくれ、どうか僕を許して……」
背を丸めて震える男。嗚咽交じりのその声に蓮華はどうすることもできず、ただ様子を見守った。
奇妙な男だった。上等なスーツには皺が寄っていて、ところどころに火の粉が飛んだような焦げ跡がある。質のいい紺のストライプは煤まみれで、まるで
屋台から漂う香ばしさとは違う、嫌な焦げ臭さ。
「あなたは、一体」
男は顔を上げ、そして――
「――ねん。少年、おーい」
そこで、出久の目は覚めた。
新幹線の車内放送が東京駅への到着予定時刻を告げている。気づけば車窓はすっかり静岡から離れていた。
「わ……ごめんなさい、寝ちゃってました」
「ぐっすりだったねえ。流石に疲れが出たかな。このへんがむにゃむにゃ言ってたぞ、このへんが」
「ちょ、ちょっと、お姉さん」
蓮華の冷たい手に頬を揉みしだかれて、出久の眠気はすっぱりと消え去った。
不思議な夢だった。
あれはきっと、蓮華が死んだという火事の日の記憶だ。ただの夢で片付けるにはあまりにも鮮明で、現実的すぎた。
あの男は誰だったのだろうか。ヴィランには見えなかった。彼からは微塵も悪意を感じなかった。むしろその声は、出久には救けを求めているようにすら聞こえた。
「……ちょっと、少年? 隣にお姉さんという美人を侍らせておいて上の空というのは、ちょーっと生意気が過ぎるんじゃあないのかな?」
「え、いや、違くて……いや、そうなんですけど……」
「しっかりしてくれたまえ。今日はデートなんだから」
「で、で、デートって、そんな、からかわないでくださいよ」
返事の代わりに出久の指を絡め取った柔らかい手と甘く爽やかな香りに、出久はこれ以上考えるのをやめた。
デートかどうかはともかく、今日は体育祭のご褒美に来たのだ。
今日は忙しい一日になる。目的の店に行くためには東京駅から地下鉄に乗り換えて、さらに少し歩く。そこから出久はオールマイトグッズを漁りに行きたいし、蓮華の買い物にも付き合う予定だ。
気になるのは確かだが、夢の正体を明らかにするのが今でなくてはならない理由もない。出久は一旦夢のことを保留して、今日この日と向き合うことに決めた。
この綺麗で朗らかで少しだけ意地悪なお姉さんと過ごすためには、夢のことにかまけてなどいられない。
***
東京は神田の片隅、甘いもの好きなら知らない人はいないとまで言われる老舗洋菓子店の片隅に用意された喫茶室で、出久と蓮華は丸テーブルに置かれたそのモンブランに目を輝かせていた。
モンブランとは、ただ栗のクリームを網掛けにしたケーキというだけではない。
台座となる生地とのバランスは総合的な満足感を左右してくるし、上に乗せるのがマロングラッセか甘露煮かでも印象は大きく変わってくる。ましてや栗のクリームにどの程度栗を使うかは言うまでもなく最重要と言ってもいい。
「普段は季節になるまで出さねえんだが、ジジイからの労いってことで」
「わあ……! ありがとうございます!」
淡い黄金色のクリームは渦を描いて山を形成し、その頂点を粉砂糖と甘露煮が飾る。さながら雪化粧の霊峰に昇る太陽といったところか。
「しょ、少年、先食べていいよ」
「いやいや、お姉さんが先に」
「ぐっ……私はほら、昔食べたことあるから。一口目の衝撃は少年が自分で受けるべきだよ」
「だ、だって23年ぶりなんですよね? 絶対お姉さんから食べたほうがいいですって」
お互いケーキから目を離せないまま、譲りあいの結果出久が一口目をいただくことになった。砂藤の祖父はカウンターの向こうからその様子を微笑ましそうに見ている。
「い……いただきます」
フォークを握る手がこころなしか震える。こんな贅沢があっていいのか。
クリームからタルト生地までをすっと切り分け、掬い上げて口へと運ぶ。近づくだけで香る濃厚な栗の香りは、ここだけ秋が到来したかと錯覚させるほどだ。
そして、出久はそれを口に含んだ。
甘い。決して暴力的な甘さではない。しっとりとしていて、それでいて素材の主張が活きている。香ばしいビスケットのタルト生地がそれをしっかりと支えている。舌の上でほろりとほどけ、全てが合わさっていく。
官能的とは、こういうことを言うのだろう。
「……すごい」
「ね、すごいよね」
出久が蓮華に身体を委ねると、凄まじい速度で彼女は出久の身体を乗っ取った。我慢した分の思いがはち切れそうになっている。
元々このケーキは蓮華へのご褒美のつもりで用意してもらったものだ。全部蓮華が食べても構わないと言ったのだが、「一緒に食べたいから」とそれは断られてしまった。
しかし、今夢中になってフォークを動かしている蓮華は昔寝言でこのモンブランを1ダース頼んでいる。本当にひとつで足りるのだろうか。
「うまそうに食うねえ。嬉しいよ、最近はそういう具合に素直に喜んで食う客もめっきり減ったもんだ」
「だって、本当においしいんですもん! ありがとうございます、オーナー」
「孫によくしてくれてるそうだからな、その礼だよ。それに、この歳になると常連客がぽっくり逝ったなんて話もたまにはあるがね、洋菓子ってのはお供えもんには向かねえんだ」
オーナーはそう言って笑って髭を撫でたあと、「ごゆっくり」と手を振って奥へ引っ込んでしまった。
もしかすると、オーナーは存命だったころの蓮華のことを覚えていたのかもしれない。当時は彼が鳥取から上京してきてここに店を構えたばかりのことだったそうだ。
出久なら、こんなにおいしそうにケーキを食べる美人のことは忘れられそうにない。
コーヒーを楽しみ、甘露煮を頬張って、蓮華は出久の身体でモンブランを満喫していた。
「たまらーん……」
――よかったですね、お姉さん。
「優勝祝いにはできなかったけど、それでもおいしいものはおいしいね」
しばらくモンブランの余韻に浸ってから、出久と蓮華は改めてオーナーに感謝を伝え、日持ちするお土産をいくらか買って洋菓子店を後にした。
夏が迫る東京の熱気に思わず目を細める。アスファルトの照り返しが焼けるようだ。
あとは何軒か古本屋を覗いて蓮華の蔵書を増やし、雑貨屋で東京限定のオールマイトグッズを買う予定だった。
「どういう本買うんですか?」
「んー、せっかくだからちょっと大きい本買っていこうかな。美術史とかの見て楽しめるやつとか、特設展の図録とか」
出久の隣を滑るように歩く蓮華が口元に手を当てる。
人混みのなかで独り言を喋るのは目立つという理由で蓮華はずっと表に出ている。もしくはせっかくのおしゃれ着を全力で楽しみたいだけかもしれない。
「文庫本も少し見ていい?」
「いいですよ、持ちきれない分はキャリーケースで持って帰れますし」
「たぶん収まると思うけど、そのときはお願いしようかな」
幽霊の身体に収納できるキャパシティは決して多くはないが、体育祭を経て少しだけ拡大したらしい。本人曰く「小さい本棚ひとつ分くらい」とのこと。読書好きから心底妬まれそうな個性だ。
今後のヒーロー活動で蓮華にはますます頼ることになるだろう。
サポートアイテムを見えない形で持ち運べるのは、間違いなく出久たちの強みだ。準備さえしておけばどんな現場にも対応できると言っていい。
しかし、蓮華が買った商品を持たせてもらえないというのは、なぜだか少しだけ寂しかった。
蓮華は買った本を必ず読むタイプだ。だから、本を買えば買うほど彼女は未練を積み上げていることになる。もしかすると出久はその重みを肌で感じたかったのかもしれない。
「――見て見て、少年」
その声に出久は呼び戻されて、蓮華が示す先へと目をやった。
小さな木陰の広場に立つ銅像、のような何か。
「パントマイマーだよ、すごいよね」
「……ええっ、あれ人間なんですか!?」
「うん。地元だとあんまり見ないよね、お姉さんも上京して初めて生で見たし。忍耐力、って感じだなあ。もしくはそういう個性?」
出久には銅像にしか見えないそれを蓮華は何度も頷いて見つめ、それからその前に置かれた缶に500円玉を放り入れた。
途端に銅像はくしゃりと腕を曲げて大仰な会釈をする。直前まで固まっていた硬質なブロンズの表皮が突然動いたことにびっくりして出久は思わず肩を跳ねさせた。
恥ずかしいところを見られてしまった。
クスクスと笑う蓮華に思わず恨めしげな視線を向けると、自然と目が合った。
いつもは出久が少し見上げるような高さを浮遊している蓮華は、今日ばかりは都会に紛れるために自分の足で歩いている風を装っている。
こうして隣を歩くと、背は出久のほうが少し高いのだ。そのことを出久は今日になって初めてはっきりと認識した。
「む、なんだか生意気なことを考えている目だな?」
「そそそ、そんなことないです!」
「じゃあ何考えてたか言ってごらんよ」
「その、こうやって並ぶと僕より背が低くて可愛いなって思って、ほんとそれだけで」
「……少年のくせになかなかやりおる」
顔を背けた蓮華の表情はわからない。
ただ、パントマイマーのからかうような咳払いがなんとなく答えを教えてくれたように思えて、出久も缶に500円玉を投げ込んだ。
それからふたりは雑貨屋や文房具屋を覗いた。何度か出久がオールマイト愛を爆発させたり、そのせいで注目を集めて素性がバレそうになったりした。
大きな文房具屋で、蓮華はレターセットを手にとっていた。
名画をプリントしたシンプルで大人なレターセットは、蓮華の雰囲気によく似合う。誰に送るのかと尋ねた出久に、レジへ向かう列に並んだ蓮華は少し躊躇ったようにこう答えた。
「えっとね……冷ちゃん。焦凍くんのお母さんだよ」
「知り合いだったんですか!?」
「まあ、うん、ちょこっとね」
思っていたよりもエンデヴァーとの関係は深いようだ。
元々、エンデヴァーの私生活について情報はあまり出回らない。彼はファンサービスをしないし、オフショットをSNSに公開することもないからだ。
具体的なイメージを抱いて憧れていたわけではないが、体育祭を経て出久の中でエンデヴァーの印象は大きく変化してしまった。
思い出してしまったあれこれを振り払うように、出久は蓮華が手に持ったレターセットに意識を向けた。
「それ、なんて絵なんですか?」
「アルフォンス・ミュシャの『黄道十二宮』だよ。今日買った図録にも載ってるんじゃないかな」
「へえ……」
自然界の様々な意匠で構成された装飾品に身を包むスラヴ系の女性の涼やかな横顔と、それを取り囲む十二星座の紋章。朝の占いで盛り上がっているクラスメイトの女子たちが好きそうなデザインだ。
存在自体がオカルトの蓮華にこんなことを言うのも妙な話だが、出久の中で蓮華にオカルトの印象はなかった。
「そういう絵が好きなんですか?」
「ミュシャの絵がというより、ミュシャのモチーフの使い方が好きなんだ。ミュシャのデザインは近代的な造形でトラディショナルなモチーフを扱ってて、アール・ヌーヴォーの中でも特にわかりやすい。でもチープじゃない」
「……な、なるほど?」
「あれ、言ってなかったっけ。大学でそういうのやってたんだよ。象徴とか、比喩とか。文学と美術史の中間くらいかな。あんまし真面目な学生じゃなかったけど」
初めて聞いた。
全く未知の分野だ。出久の反応から困惑を読み取ったのか、蓮華は財布を取り出しながら笑った。
「お姉さんのころは今よりもっと個性で仕事が決まる時代だったからね。親不孝なことに学ぶ目標を趣味で選んだのさ。少年は興味ないかもしれないけど」
「きょ、興味ないってわけじゃ……」
「そうだよね、少年はそれ以上にオールマイトに夢中なだけだもんね。あーあ、趣味を共有できる人がいなくて寂しいなー」
「よ、読みます! お姉さんが持ってる本全部!」
「ごめんごめん、冗談だよ。そこまでしなくてもいいって」
ちょうどその時に会計待ちの列が進んだので、ふたりは店の外で合流することにした。
店先で陽の光の眩しさに目を細め、スマートフォンの画面輝度を上げてチャットアプリを立ち上げる。引子に帰りの連絡を入れなくては。今日の夕飯は準優勝のお祝いで寿司の出前を取ることになっている。
画面をスワイプしながら、出久は先程のやり取りに思いを馳せていた。
蓮華の趣味に興味がないわけではない。絵を見れば美しいなと思うし、小説のあらすじを聞かされれば結末が気になるくらいのことはある。
これまで出久はヒーローになるためにがむしゃらで、脇目も振らずにやってきた。
「……プロヒーローには教養も必要、だよね」
これは世に出て恥ずかしい思いをしないための、謂わばトレーニングの一環なのだ。決して、そう、決して蓮華の趣味をもっと理解したい、彼女の楽しそうに喋る姿が見たいという気持ちから来るものではないのだ。
そんな言い訳をひとり呟きながら、出久はこの後本屋に向かうことを決めた。とりあえず、蓮華のおすすめを何冊か買って帰るために。