緑谷出久のことを少年と呼ぶ個性のお姉さん   作:海野波香

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三十一回忌 僕とともにコードネームを考えるお姉さん

 朝。通勤ラッシュの混雑とそれを上回る声援にもみくちゃにされて、出久は予鈴5分前に校門を潜った。朝からほんのりと気疲れしているが、雨は遠慮してくれない。

 傘のどこかが破れていたのか、柄を冷たい雫が伝う。

 

――今度おっきい傘買おう、ふたりで入れるやつ。普段はお姉さんがしまっておくからさ。

「確かに。というか、レスキュー用具一式持っておいてもらったほうがいいかもしれませんね、折りたたみの担架とか」

――先生に聞いてみよっか。買うってなったらたぶん学校で補助つくだろうし。

 

 そんなやり取りをする出久の隣に、勢いよく水しぶきを上げて人影が近づいてきた。

 雨合羽に長靴の完全防備。撥水加工の眼鏡が今日も輝いている。

 飯田のその姿を目にした時、出久は一瞬なにを言えばいいか躊躇ってしまった。彼の兄、インゲニウムがヒーロー殺しに敗北し、復帰が危ぶまれるほどの重傷を負ったことはすでに全国でニュースになっている。

 

「遅刻だぞ! おはよう緑谷くん、美珠くん!」

「遅刻って、まだ予鈴5分前だよ?」

「雄英生たるもの、10分前行動が基本だろう!」

 

 その声に曇りはない。

 出久が小走りで彼に並ぶと、飯田は一段声を柔らかくした。

 

「兄の件なら心配ご無用だ。要らぬ心労をかけてすまなかったな」

「……あの、さ」

「さあ、今日も一日頑張ろうじゃないか!」

 

 下駄箱の前で雨合羽の水滴を払うその姿に、結局出久は何も言えなかった。

 肉親をヴィランに傷つけられた苦しみ。それは出久にはわからないものだ。幸いにしてと言うべきか、出久はずっとその苦しみとは無縁だった。

 しかし、今はわかりたい。わからねばならない。

 蓮華は家族をヴィランに殺されている。そのヴィランが引き起こしたのは凄惨な火災だったという。喉を絞める煙、肌を焦がす熱、こみあげる絶望。出久はそれらを知らない。

 知らないまま、ありきたりな慰めを口にすることは侮辱なのではないか。

 遺された者の実例が身近にいるからこそ、言葉のひとつひとつに躊躇いが生じる。踏み出してはならない一線。そんなありもしない距離を勝手に感じてしまう。

 ただ、心配だった。

 

 出久の胸中とは裏腹に、飯田はいつもどおり教室の喧騒に溶け込んでいた。

 いつもどおりの十二分に生真面目な委員長。その振る舞いにクラスメイトたちもそれぞれの安堵を示し、日常が戻っていく。

 予鈴とともに入ってきた相澤も特にインゲニウムのことや飯田の家庭のことに触れることはなかった。あるいは、彼なりの気遣いなのかもしれない。

 

「相澤先生、包帯取れたのね。よかったわ」

「婆さんの処置が大袈裟なんだよ……んなもんより、今日の ”ヒーロー情報学” ちょっと特別だぞ」

 

 すわ小テストかと広がるざわめきを意にも介さず、相澤は淡々と今日の授業内容を告げた。

 

「『コードネーム』、ヒーロー名の考案だ」

「胸ふくらむヤツきたああああ!」

 

 歓声があがった。

 ヒーローはみな、本名ではなくコードネームで活動する。ヒーローに憧れる者なら誰しもが一度は自分のコードネームというものを妄想したことがあることだろう。

 ごっこ遊びではない、本物のコードネーム。それも、自分が決め、自分で名乗る、自分だけのもの。

 出久の手のひらにも自然と汗がにじむ。

 相澤が個性を発動させる予兆とともに睨みをきかせるまで、教室は興奮に包まれていた。

 

「……というのも、先日話した『プロからのドラフト指名』に関係してくる。指名が本格化するのは経験を積み、即戦力として判断される2、3年から」

 

 いくら雄英生とはいえ、1年生の時点でプロに認められることなどほとんどありはしない。1年生のときに得た指名とは有望株として、つまり将来性を見込んでの興味だ。

 2年生、3年生になり、経験を積んで即戦力として期待されての指名もあるだろう。反対に、1年生のときには指名を得てもそのハードルを越えられず、キャンセルの憂き目に合うこともありうる。プロとは厳しい世界なのだ。

 

「で、その指名の集計結果がこれだ」

 

 相澤が黒板に貼り出した指名件数のグラフに、出久は思わず息を呑んだ。

 

「緑谷すげー! 1位2位逆転してんじゃん」

「やっぱプロってあれだな、人間見る目もあんだな」

「ねえわンなもん! クソが!」

 

 緑谷、3,372件。

 雄英体育祭で直接出久を下し1位に君臨した爆豪の2,756件、有志のWEBアンケートでは対出久戦でベストバウト賞を受賞した轟の2,538件を押さえる形となった。

 思わず熱いものがこみ上げる。

 評価されているのだ。プロに、今も最前線で戦うプロヒーローたちに興味を持たれ、「ぜひうちに」と声をかけられているのだ。

 たとえそれが一過性の興味であったとしても、3372件という数字は出久の涙腺を刺激するのに十分だった。この際、怒り狂う猟犬のような目つきで出久を睨む爆豪のことなど関係なかった。

 

「おい緑谷、5%くらいオイラに分けてくれたって(バチ)は当たんねえよな……チアコスのお姉さんを提供したという恩がオイラにはある……!」

「うん、あのときのお礼がまだだったよね峰田くん」

「みぎゃっ! みどりゃーが反抗期だー!」

 

 制服が皺になるほどしがみつく峰田にデコピンをお見舞いしながら、緩みかけた涙腺を引き締める。泣いている場合ではない。

 

「この結果を踏まえ……指名の有無関係なく、いわゆる職場体験ってのに行ってもらう」

 

 そう、これからだ。

 指名件数など、結局は数字でしかない。次に進まねばならない。

 そのことを察して、教室の熱気はより鋭く、真剣なものへと姿を変えた。コードネームを名乗り、コスチュームを纏ってプロヒーローの下で実戦経験を積む日が来たのだ。

 

「それでヒーロー名か!」

「俄然楽しみになってきた!」

「まあ仮ではあるが、適当なもんは――」

 

 相澤の言葉は、教室の扉を力強く開けたミッドナイトにかき消された。

 18禁ヒーロー・ミッドナイト。高校で教鞭を執ることを誰が認めたのか、出久としては目のやり場に困るセクシーな先生だ。

 

「付けたら地獄を見ちゃうよ! この時の名が世に認知され、そのままプロ名になってる人多いからね!」

「まあ、そういうことだ。そのへんのセンスをミッドナイトさんに査定してもらう」

 

 聞こえるか聞こえないかの声量でぼそりと相澤がこぼした「俺はそう言うのできん」という一言は、妙に説得力があった。

 

「将来自分がどうなるのか……名を付けることでイメージが固まり、そこに近づいていく。それが『名は体を表す』ってことだ。 ”オールマイト” とかな」

 

 名前。

 もちろん、出久も考えたことがないわけではない。劇的でヒロイックな名前から、いぶし銀で頼れそうな名前、はたまた往年の名ヒーローをオマージュしたものまで。もちろん、オールマイトのオマージュは1ダースを優に超える。

 しかし、そのどれもが今の出久には上滑りしていく。

 指名件数が1位だとしても、出久が未熟なことに変わりはない。名前が素晴らしいものであればあるほど、恐れ多く感じてしまう。ましてやオールマイトの名など、今はとても背負える気がしない。

 

「ああ、それから――美珠」

「はぁい」

 

 寝袋に収まった相澤の呼びかけに応じて、蓮華がふわりと空中に姿を現した。

 少し暑くなった教室に彼女の纏う冷気が広がり、体感温度がわずかに下がる。いつの間に知り合ったのか、ひらひらと手を振ってミッドナイトとも親しげな様子だ。

 

「お前もコードネーム考えるように」

「……ええっ?」

「緑谷がコードネームなのにお前だけ本名ってわけにはいかないだろ。それとも、チームアップしたプロヒーロー全員にお姉さんって呼ばせる気か?」

「まあ……確かに。いいですけど、そういうののセンス20年以上前で止まってるからなあ。少年、いいの思いついたら言ってね?」

「せ、責任重大ですね?」

 

 蓮華は教室の天井付近でくるりと身を返して、漂ったまま少し困ったように眉を曲げて笑った。

 それから、コードネーム決めが始まった。

 はじめは大喜利のような空気感になってしまったりもしたが、蛙吹の「FROPPY」と切島の「烈怒頼雄斗(レッドライオット)」を口切りに真面目な流れが生まれる。

 いつの間にか発表は進み、まだひとつも案を出していないのは飯田と出久、そしてエアコンのそばを漂いながらフリップを弄ぶ蓮華だけになった。

 少し間を空けて飯田が前に立ち、フリップを立てる。

 天哉。彼の名前がただ一言、A4サイズのフリップの中央に所在なさげに書かれていた。名前をコードネームに選んだのは轟と同じだ。

 

「あなたも名前ね。悪くないと思うわ」

 

 一瞬、出久は違和感を覚えた。彼が慎重にペンで刻んだ音は、それではなかったような気がするのだ。

 しかし、その違和感はすぐにどこかへと消えてしまった。生徒たちの頭上を越えて蓮華が教卓へ降り立つと、自然と全員が蓮華に注目を向けた。

 

「ふふん、自信作だよ」

 

 そこに書かれた文字を目にしたとき、出久は呼吸が詰まったかのような錯覚に陥った。

 たった3文字だ。たった3文字、細い線が迷いなく引かれている。曲線はいつもどおり滑らかで、そのカタカナ3文字の儚さをますます強調している。

 ミレン。

 

「姓から1文字、名から1文字。幽霊のお姉さんっぽさも出てていいでしょ」

「ちょっと重い気もするけど……いいわね!」

 

 説明を聞けば理屈はわかる。カタカナで書かれていることも相まって、異国情緒のある可愛らしい名前にも見える。しかし、そこに出久はどうしても意味を感じてしまう。

 未練。

 いつかの夜、蓮華が泣く出久に語った言葉を思い出す。特大の未練になれ、と。

 教卓の向こうから少し照れぎみにはにかむ蓮華。この年になると少し恥ずかしいな、などとこぼすその笑顔が妙に意味深で、出久は思わずペンをぐっと握りしめた。

 

「あと未発表なのは緑谷くんね。決まった?」

「……はい」

 

 フリップを手に立ち上がる。

 いくつか候補はあった。死霊憑きという表向きの個性を押し出してもいいし、文字通り一蓮托生である彼女のことを意識してもいい。

 しかし、蓮華との出会いよりもさらに昔から耳馴染んだあだ名が出久にはある。

 蔑称だ。好きだったわけではない。見下されていることがわかっていてヘラヘラしている自分を思い出すたび、嫌な気持ちになる。

 前に進もう。

 

「これが……これが、僕のヒーロー名です」

 

 少し下手くそな「デク」の2文字。

 美珠蓮華という個性ありきではいけない。出久は出久としてヒーローになるのだ。そうでなければ、彼女に顔向けなどできるはずがない。

 それに、このあだ名はもう嫌なあだ名ではないのだから。

 どちらかといえば否定的な驚きの声で埋め尽くされた教室で、出久と麗日、蓮華だけが笑っていた。

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