伝う雫の一滴一滴が心地いい。
自主練を終え帰宅した出久は、火照りと疲れを洗い流すためにシャワーを浴びていた。最近の日課だ。
元々清潔にしてはいたが、蓮華という同居人が現れてからは汗のにおいを残したままうろつくことなど絶対にしなくなった。
一足早い初夏の気配に熱された筋繊維が冷水を浴びて落ち着いていくと、自然と思考もまとまっていく。
「職場体験、か」
蛇口に引っ掛けていた洗顔ネットを取り上げ、そっとゆすぐ。
職場体験が明日に迫っている。
オールマイトの強い薦めがあり、出久は職場体験先をグラントリノというヒーローの事務所に決めた。自他ともに認めるヒーローオタクの出久ですら知らない名前だった。
聞けば、オールマイトが雄英生だったころの師匠だったとのことで、ワン・フォー・オールのことについては出久の先代であるオールマイトよりも詳しいという。
「本当に、いいのかな……」
ノブを絞める。水の流れが絶えると、静けさの向こうにキッチンで引子と楽しげに夕飯の準備をする蓮華の声が聞こえる。
たくさんの指名をもらった中で、そのすべてを蹴って実績の不確かなグラントリノを頼る。そのことに出久は今も躊躇いを感じていた。
もっと有名なヒーローの事務所に行ったってよかったのだ。
たとえば、機動力に長けたヒーローの下で市街地でのヒーロー活動を学んでもいい。
もしくは、自我のある個性を有するヒーローの下でより効率的な連携について学んでもいい。
いくつもの可能性を出久は切り捨てた。
「……ワン・フォー・オール」
掌に走る、薄緑の雷光。
出久は継承したこの個性のことをまだほとんど知らない。どのような来歴があり、どのように使われてきたのかを知らずに、オールマイトの背だけを追ってきた。
しかし、このままではよくないという焦りが、時折出久の胸をひどく締め付ける。
蓮華はこの個性の縁に腰掛けているだけの居候だ。幽霊である彼女は、ワン・フォー・オールの意図しない誤作動で居場所を神社から出久へと移し替えた。
その「意図しない誤作動」が次に起きてしまったら、蓮華は一体どうなる?
「……違う」
どうなる、などと利他的を装ったエゴを振り払って、出久はバスタブに蓋をした。
杞憂しているのだ。蓮華を失いたくないという利己的な欲のもとに、出久はワン・フォー・オールがいつまでも彼女の
個性として頼ることに躊躇しておきながら、手放したくないなどと所有物のように思ってしまう、己の気持ちがわからない。
自分は一体、蓮華の何なのか。
未練。蓮華のコードネームが出久の脳裏にこだましている。
「――しょうねーん、大丈夫? のぼせてない?」
「は、はい! 今あがります!」
「んー! ご飯、よそっとくからねー」
薄い扉越しにかけられた優しい声に、出久は返事が上ずりそうになるのをぐっとこらえた。
くだらないことを考えてしまった。
出久には立ち止まって悶々としている暇などありはしない。ワン・フォー・オールの継承者として前進し続けねばならないのだから。
言うことを聞かない髪をドライヤーでなんとか躾けながら、出久は鏡に写った自分を心のなかで叱咤した。
豚肩ロースの味噌漬け焼きでたっぷりの白米を食べ、わかめと豆腐の味噌汁でほっと一息ついたあとのこと。
出久は蓮華の部屋にお呼ばれしていた。
ここは自宅だというのに、いまだに異性の部屋というのは落ち着かない。調度品の雰囲気からまず違うということを強く感じるし、甘く爽やかないい香りもする。
「はい、お待たせ」
「どうもです」
差し出されたマグカップは東京で買ったお土産のひとつだ。今、緑谷家には三人分のマグカップがある。出久の分、引子の分、そして蓮華の分。
蓮華は出久の身体を使わなければ飲み食いはできない。それでも香りは楽しめるからと、時たま蓮華のマグカップにもお茶が注がれる。
よく冷えた香ばしい玄米茶を一口飲んで、出久はちらりと机に目をやった。
「手紙、書いてるんですね」
書きかけの手紙。送り先は轟の母親だ。
どんな関係なのか、出久はまだ聞けていない。ただ、体育祭のときの様子と親しげに「冷ちゃん」と呼ぶところから察するに、生前はそれなりに交流があったのだろう。
体育祭で聞いた事情が事情だから、出久も母親のことを轟に聞こうという気にはなれない。ただ、気にならないと言えば嘘になる。
「うん。でも、久しぶりすぎてなかなかまとまらない。時って残酷だね」
「時は残酷、ですか……?」
「お姉さんは永遠の22歳だけどさ、それから23年も経ってるわけだよ。23年、想像できる?」
出久が頭を振ると、蓮華は「だよねえ」と笑った。
蓮華が死んだ23年前の火災は、出久にとって生まれる前のことだ。それからずっと俗世を知らずに生きてきた彼女にとって、世界は変わりすぎているのかもしれない。
「そういえば、『ファウスト』にも時間の話がありましたよね。メフィストとファウスト博士の約束に」
「お、ちゃんと読んでるね? 感心感心。そう、ファウストは悪魔メフィストと契約した。メフィストはファウストにこの世で享楽の限りをもたらす。その代わり、死後はファウストの魂がメフィストに仕える」
蓮華に貸し出された『ファウスト』という戯曲は、出久にとってかなり難解だった。
なにせ超常社会以前に書かれた古典だ。言い回しも古いし、大仰で芝居がかっている。そもそも戯曲自体あまり読み慣れていない。
それでも不思議と出久はこの物語に惹き寄せられていた。
「時よ止まれ、お前は美しい……」
「この瞬間が永遠に続けと、そう願いたくなるような最高の瞬間にメフィストはファウストの魂を持っていく。少年なら、そんな契約したいと思う?」
「ぼ、僕がですか?」
考えたこともなかった。
今のところ、出久は少しもファウスト博士に共感できていなかった。出久は未熟で、発展途上で、夢のためひたすらに努力するべき身だからだ。
この世に倦み、半ば絶望し、享楽のために悪魔の手すら取る。そんな生き方は少しも理解できない。ありえないとすら思う。
「……しません。悪魔に求めなきゃ手に入らないものもあるのかもしれないけど……それは僕のものじゃないから」
出久は無個性でもヒーローになるつもりでいた。もし個性を与えてくれる悪魔がいたとしたら、悩みに悩んで、それでもその手を取らなかっただろう。
その答えに満足げに頷いて、蓮華は膝の上に抱えたクッションを撫でながら微笑んだ。
「うん、少年らしくていい答えだと思う。じゃあ、そうだな……手を伸ばせば届くところにあって、でも悪魔に勇気づけてもらわなきゃ手に取れないようなものはどう?」
手を伸ばせば届くもの。
果たしてそんなものがあるだろうか。悪魔に唆されて初めて手を伸ばすようなものを、自分が求めることがあるとは思えない。
そう思いながら視線を落とした時、半透明なまま揺れる蓮華の素足が目に入って出久は慌てて目を逸らした。
形のいいつま先。目立たないくるぶし。すらりとした足首。薄っすらと透き通る、幽霊の足。
小さい頃からずっと支えてくれたお姉さんのことを、そういう目で見たことがないはずがない。ただ、あまりにも不毛なその煩悩はヒーローを目指すために邪魔だと封じただけで。
沈黙の中で、ふわりと蓮の香りが漂った。
「ごめん、意地悪しちゃったね」
「……別に、なんでもないです」
伸びてきた指先が出久の頬を撫でる。
まるで全てお見通しのように、わかっているかのように笑うこの人が、出久は時折たまらなく憎たらしかった。それでも怒る気になれない。
「職場体験先、オールマイトの師匠のとこにしたんだよね」
「個性のこと……もっと知らなきゃですし」
「そうだね。ありがとう、少年」
何をとは言わなかった。しかし、それだけで出久には十分すぎるくらいに気持ちが伝わる。
ずるい人だ。今や、出久の夢――オールマイトのようなトップヒーローになるという夢は、出久だけのものではなくなってしまった。
それなのに、時折蓮華はあまりにも儚い。
「……み、ミレンにも頑張ってもらいますから。職場体験」
「ふふ、そうだね、デク。……お姉さん、このあだ名あんまり好きじゃないんだけどなあ」
「僕もそうでしたけど、麗日さんのおかげで」
「うわ、こういうときに他の女の子の話するー? お姉さんでも流石に傷ついちゃうなー」
言葉とは裏腹にからかうような表情で、蓮華は指先で出久の首元をくすぐった。
冷たさともどかしさ、相反するような触感が出久の背筋をぞわぞわさせる。思わず喉から情けない悲鳴が漏れた。
「ひゃわ、ちょ、ごめんなさい!」
「デリカシーのない少年なんかこうだ、うりうり」
「ひー、も、もう無理、勘弁してください……!」
結局、解放されるころには出久の胸を締め付けていたセンチメンタルな感情もどこかへ隠れてしまっていた。
息を切らした出久に勝ち誇ったような顔で胸を張って、蓮華はようやく指を怪しげに踊らせるのをやめた。しかし、まだ瞳は悪戯な光を宿したままだ。
「寝る前に疲れさせちゃったかな? お詫びに耳かきしてあげよっか」
「え……い、いいです」
「遠慮しなくていいんだぞー少年。昔は弟たちにやってたからそんなに下手じゃないと思うし、なんと今ならお姉さんの膝枕付き」
「ひざまっ……だから断ってるんですよ!」
とんでもない誘惑だ。もしかしたら蓮華の個性は死霊ではなく悪霊とか悪魔とかそういった類のものなのではないか。
「そう? やってほしくなったらいつでも言いなよ。……もうこんな時間か。明日は駅に直行なんだっけ」
「はい、集合してから新幹線で甲府まで」
「そっか。それならもう寝たほうがいいね。おやすみ、少年」
「おやすみなさい」
挨拶を交わして、蓮華の部屋を後にする。
リビングでは引子が頬杖をついてテレビのサスペンスドラマを眺めていたが、出てきた出久に気がつくと、にやりとわざとらしい笑みを浮かべた。
「楽しそうだったわね、出久」
「別に、いつもどおりからかわれただけだよ」
「そう? その割には幸せーって空気だけどなあ」
「もう……洗い物したら僕寝るから」
引子の視線から逃れるように流し台に立って、出久はふと自分の頬がそんなに緩んでいるだろうかと手をやった。
まだ少し、あの冷たい指の感触が残っているような気がする。