職場体験二日目の夜。
グラントリノとの組み手でさんざん扱かれた出久は、事務所の薄汚れた壁に背を預けて大きく息を吐いた。
出会ったときには不安になるほど老人らしい老人だったグラントリノは、しかし、オールマイトの師という肩書きが単なる肩書きではないと出久に実力で叩き込んできた。
卓越した経験の伴った卓越した実力。その強さが出久の前に立ちはだかっている。疾く、そして巧い。
「たい焼きができましたよー、先生」
「お! んじゃあ今日はここまでだな」
エプロンを着た蓮華が皿に焼き立てのたい焼きを積み上げてひょっこりとキッチンから顔を覗かせた。冷凍食品ではなく、縁日用の金型で生地から焼いたいわば天然物だ。
職場体験初日に長らく使われていなかったキッチンを蓮華が手入れし、そのおかげで出久はこの古ぼけたグラントリノ事務所でも温かな食事を取ることができている。たい焼きの金型はその片付けの副産物だった。
手作りのたい焼きはおいしそうではあるが、ボコボコにされた直後で喉を通るかは疑わしい。ホットケーキミックスのねっとりとした甘い香りも今は重たく感じる。
「俊典のやつが自分で教えたというから、ちいと心配しとったが……戦闘技術に関しちゃなかなか筋がいい。いや、目がいいのかね」
「あ、ありがとうございます……」
「あとはとにかく反復だ、反復。敵は発動を待っちゃくれんぞ」
「そうですよね、頑張ります……」
ワン・フォー・オールの全身発動、つまりフルカウル。これを素早く発動できるようにすることが今の課題だった。
出久という器に力をまんべんなく満たすため、これまでは蓮華の冷気という補助輪に頼っていた。蓮華の冷気によって露わになった自らの輪郭、それに沿って力を流し込んでいたのだ。
しかし、この手法が使えるのはあくまで蓮華に憑依されているときのみ。
死ぬことがなく、壁をすり抜け、味方にだけ見える光源を用意できるという蓮華の斥候役としての強みを発動のためだけに潰すのはあまりに惜しい。グラントリノにそう指摘され、出久は単独でのフルカウルを安定させる練習を始めた。
「それで、何かわかりました?」
「んが?
テーブルについてたい焼きを頬張るグラントリノを前に、蓮華はトレイを抱いたまま困ったように眉を曲げた。
「ワン・フォー・オールと私についてですよ、先生。お願いしたじゃないですか」
「んぐ……うまい」
「先生?」
「そう責めんでもわかっとる。小僧、お前もはよ食わんかい」
促されてふらふらの足取りでなんとか席につくと、蓮華が清潔なグラスに冷たい牛乳を注いでくれた。
グラントリノの指名に応えた最大の理由。それは、ワン・フォー・オールが蓮華を吸収した原因を知ることだ。
牛乳を飲み、口内の傷に沁みて軽く顔をしかめ、それからたい焼きをひとつ手に取る。まだ焼き立てで熱く、香ばしさを伴った湯気が立ち上っている。半分に割ってみると、中はカスタードクリームだった。
「まあ、なんもわからんかったけども」
「えーっ!」
危うくたい焼きを落とすところだった。
「そりゃそうよ、俺は継承者じゃないからな。俊典がわからなかったなら俺にもわからん」
「そんなあ……」
「ま、今日明日でいなくなるもんじゃないことは確かだ。ワン・フォー・オールは力の器だからな。そいつが何かを取りこぼしたって話はとんと聞かん」
たい焼きの尻尾をぽいと口に放り込んで、どうということもないと言わんばかりに楽観的な口ぶりでグラントリノはそう言った。
思わず、グラスを握ったまま手が止まる。
「なんだ、いっちょ前に不安そうな面しやがって」
「そりゃ……不安ですよ。だって、いつまた不具合が起きるかもわからないわけですし」
「そう起こることじゃねえっつっとろうが」
「でも、わかんないじゃないですか。自分の力なのに、僕はこの個性のことを全然知らなくて」
「そう、お前の力だ」
マグカップの牛乳を飲み干して、グラントリノがテーブルを叩いた。
その表情はもう、つい先程までのようなおちゃらけた老人の顔ではなかった。それは確かに、徹底的なスパルタ教育でオールマイトというヒーローを育て上げたプロの、徹底した鋼のような顔だった。
彼の眼光に射抜かれて、出久は結露した冷たいグラスを握りしめた。
「俺でもねえ、俊典でもねえ、お前がその個性の主だ。ワン・フォー・オールはお前だろがよ、小僧。手前の個性がわかりませんってべそをかくのは、中学生の寝小便みたいなもんだ」
「ッ……だから、知ろうとしてるんじゃないですか!」
「いいや、してねえ。事実、お前は
グラントリノの視線を辿るまでもなく、彼が言いたいことはわかっていた。
職場体験はヒーローを目指すものとしての成長を期待して招かれるものだ。しかし、出久は今、ヒーローの卵として自分の個性を心配しているのではない。
「――先生、それ以上は。ヒーローが身内の心配をしちゃいけないなんて法もないでしょう?」
「……言い過ぎた。年を取るとどうも説教くさくなっていかんわ! おかわり!」
握りすぎて割れそうになっていたグラスを、蓮華がするりとその冷気のうちに回収した。
「……走ってきます」
返事を待たず、出久は椅子から立ち上がってテーブルに背を向けた。
「あ、ちょっと、少年!」
手つかずのたい焼きを残していくのは心苦しかったが、今は夜風にあたりたかった。
見慣れない街並みの中、暗がりの冷たさを感じながら走る。脚から伝わる振動が、煮えかけていた脳を揺らしていく。
自分が冷静さを欠いていることなど、百も承知だった。
職場体験はヒーローとしてのキャリアを積み上げる第一歩だ。名の売れた、実力の知られたヒーローの世話になるのが一番いい。出久にはそのチャンスがあった。
オールマイトによる誘いは、出久に言い訳を与えた。
「……わかんないよ」
どれくらい走っただろうか。
切れかけた街灯の下、息を整えながら思わず吐き出した言葉が、出久のすべてだった。
わからない。
プロヒーローとして活躍することを目指すなら、蓮華を己の個性として活用するべきだ。蓮華を
しかし、体育祭の日、蓮華が出久の内側で流した涙がずっと忘れられないでいる。
個性婚というタブーを犯し、ねじ曲がった正義を貫いて、それでもエンデヴァーはナンバー2のヒーローだ。蓮華を泣かせた外道は、偉大な、はるか高みの存在なのだ。
蓮華を
「――風邪引くぞ、少年」
ふわりと現れた蓮華からは、まだホットケーキミックスのにおいがした。
「……ごめんなさい、急に飛び出しちゃって」
「先生びっくりしてたよ。私も距離限界で戻されちゃったし、今頃ひとりで寂しく冷めたたい焼き食べてるだろうなー」
嘘だ。
オールマイトの師匠だったグラントリノがこの程度で動揺するはずがないし、蓮華と離れられる距離の限界まで来ていないことは出久も肌でわかっている。
また蓮華に気を遣わせてしまった。
「ちょっと、座ろうか」
促されるまま、出久は自動販売機の隣に置かれたベンチに腰掛けた。隣に座った蓮華から伝わる冷気は、夜風に揉まれてより濃くなっているような気すらする。
汗が冷えると、次第に昼間の組み手で食らった痛みの余韻が際立ってくる。グラントリノの機敏な動きに翻弄され、出久は何度も痛烈な一撃を食らった。
彼の指導は本物だ。そしてきっと、彼の継承者を評価する眼も。
「ひどい目だ。爆豪某に自殺教唆されたいつぞやよりももっとひどい」
「……時々、思うんです。いっそ、かっちゃんが継承者ならよかったんじゃないかって」
言葉にして、ようやく考えがまとまった。
出久は自分に失望しているのだ。継承者として、オールマイトに誓った夢をねじ曲げてまで、自分の欲を満たそうとしている。そのことがひどく汚らわしいものに思えて、それなのに言い訳はいくらでも浮かんでくる。
そして、出久がワン・フォー・オールの継承者でなければ、蓮華が出久に縛られることなどなかった。
「僕……思い上がってたのかなって。お姉さんを、自由にしてあげられるって思ってたんです。でも、本当は違った。僕はお姉さんを……使っている」
「ま、そうだね。思い上がってる」
突き放したような返事に顔を上げると、出久の脳天に衝撃が走った。
少しして、それが彼女の落とした拳骨であることがわかると、じわりと痛みが広がった。熱のような、鈍い痛みだった。
蓮華は出久の両頬を掴んで、静かな眼で出久の顔を覗き込んだ。
「約束したよね。個性としての私の、主に相応しい男になってくれるって。使う? 馬鹿言うな、お姉さんはもう君の一部なんだ、緑谷出久」
「それで、納得しろって言うんですか」
「そうだよ。納得しろ、君のためなら何度でも死んであげる。勘違いするな、私が……ミレンが、そうしたいんだ」
はぐらかすことも言いくるめることも得意な蓮華の、まっすぐな言葉とまっすぐな眼から逃れたかった。それでも、出久の両頬を押さえた手を振り払うことはできなかった。
安っぽい白色灯の街灯に羽虫が飛び込んで焦げるかすかな音すら、今は鬱陶しい。
「僕は……僕は、あなたを泣かせたエンデヴァーみたいになりたくないんです」
「君はあいつじゃないよ、少年」
「でも、そうなるかもしれない!」
出久が立ち上がると、蓮華は両手を引っ込めて出久を見上げた。
腹立たしいくらい美しい人だ。ずっとこの人に励まされて、出久はヒーローを目指してきた。それなのに、出久はこの人のためだと言って、夢を捻じ曲げようとした。
今ならはっきりわかる。出久は蓮華を失うのが怖くて、ワン・フォー・オールのことを知るためにグラントリノを頼るつもりでここに来た。ヒーローとしてではなく、彼女に少年と呼ばれるひとりの人間として。
「……怖いんです。間違っている気がするのに、止まれない」
「止まれるよ。少年、君はそういうやつだ」
「もし止まれなかったら?」
「……あの、さ。お姉さんに殴られて、どうだった?」
まだ鈍く痛みの残る頭を、ぬるい夜風に混じった冷気が撫でていく。
じんわりと熱を帯びた、響く痛み。
「痛かった、です。じんとして、熱くて」
「うん。お姉さんはさ、冷たいんだ。幽霊だからね。だから、少年を温めてはあげられない」
立ち上がった蓮華が、わざとらしく拳を振りかぶった。
こつん、と軽く拳が振り下ろされる。
その手は冷たいのに、触れられた傷口は痛みで自然と温かい。
「間違ったらさ。本当に間違って、言葉ではどうしようもないなってなったら、またこうやってあげる。お姉さんがあげられる温かさって、きっとそれだけだから」
「……そんなこと、ないです」
止まれると言ってくれる、信じてくれる蓮華のどこが冷たいのか。
出久にとってはもうとっくに、蓮華の冷気は温かいものだ。欠かせない、己の体温と同じようなものなのだ。
そう思った瞬間、出久の中で凝り固まっていた何かがほぐれはじめた。
「ごめんね。他のヒーロー事務所にも行けたのに、お姉さんのせいで選択肢を捨てさせちゃったね」
「そんなこと、ないんですってば」
「泣き止んだら、グラントリノのところ帰ろうか。一緒に謝るからさ」
「泣いて、ないです」
夜風のぬるさよりも、月の明かりよりも、抱きしめてくれる幽霊の冷気のほうがずっと温かい。そう感じてしまう出久は、きっともう取り返しのつかないところまで取り憑かれていた。
使うだの、自由にできないだの、そんな悩みはもう無駄なところまで来ていたのだ。間違えたとしたら、それは出久がいつまでも手遅れな悩みを引きずっていたことだった。
出久はもう、蓮華を失うことなど考えられないのだから。