出久の母、緑谷引子はまだ起きて待っていた。
出久はただ「合格の報告に行く」とだけ言い残していた。日付が変わっても帰ってこない息子を心配して待っていたのだろう。悪いことをした。
まだ中学生の我が子が深夜に女連れで、しかも同世代ではなく大人の女性を伴って帰ってきた引子の驚愕は想像に難くない。出久は申し訳なさを誤魔化すように笑って、詫びるように小さく頭を下げた。
「い、い、出久? そちらの方は……」
「お母さん、ただいま。遅くなってごめん。その……説明が難しいんだけど……」
玄関口で出久がもだもだと言葉を探しているうちに、すっと前に出る影があった。さらりと揺れた長い黒髪から蓮の蜜が香る。
今日から出久の個性になった幽霊――美珠蓮華。彼女は今日を境に神社の地縛霊を引退し、緑谷家の居候となる。これは彼女がワン・フォー・オールを介して出久に根を張ってしまった以上避けられないことだ。
しかし、そのためには事実上の家長である引子を説得する必要がある。
「はじめまして、お義母さん。美珠蓮華と申します。出久くんの終生のパートナーになった者です。今日からお世話になります」
「へぁっ!? あ、わわ、私は出久の母で、緑谷引子と……い、い、出久!?」
「お姉さん、全部が紛らわしいよ全部が!」
「はえ、えっ、それって……」
「ごめんお母さん一旦やり直させて!」
出久の心臓は爆発しそうだった。もしかするとこれがワン・フォー・オールの反動なのかもしれない。
おそらく出久以上に混乱しているであろう引子は、それでも来客用のスリッパを用意してくれた。パジャマにブランケットを羽織っているだけの格好をしきりに恥ずかしがりながら、なぜか恐縮した様子で。
「えっと……美珠さんは」
「蓮華で大丈夫ですよ、お義母さん」
「あら、そう? じゃあ、蓮華さんは、その……出久のいい人なんですか?」
「違います。そういうのでも別にいいんですけどね。ちょっと長い話になるので、遅くで恐縮ですが……ここ少年の部屋? オールマイトだらけだねえ」
部屋を見られてしまった。片付いていない、オールマイトグッズ一色の部屋を。
家を出る時に部屋の扉を開けっ放しにしていた己の迂闊さを心底恨みながら、出久は蓮華をリビングルームへと通した。
幸いにして椅子の数は足りている。単身赴任でずっと不在の父がいつ帰ってきてもいいように、この家にはふたりで住むには広すぎるくらいのゆとりが設けられていた。
テーブルを挟んで出久と引子が向かい合うように座り、蓮華は出久の隣の椅子に。この家でふたり以外がテーブルを囲むのは本当に久しぶりだった。
「お茶っ葉切らしてて……ティーバッグの紅茶でよければ」
「ああいえ、本当にお気遣いなく。飲めない身体なんです」
「何かご病気を……?」
「お母さん、落ち着いて聞いてほしいんだけど……お姉さんは、その、僕の個性なんだ」
僕の個性。
そう口にした時、出久のなかで途轍もないためらいと羞恥心が生じた。蓮華のことが恥ずかしいわけではない。むしろ、こんな素敵な人と親しくさせてもらっていることを誇りにすら思う。しかし、これではまるで彼女を所有しているようではないか。
テーブルの上に落ちていたおかきの欠片を払っていた引子は、突然明かされた事実に言葉を失った様子で出久に顔を向けた。
「……こ、ここ、個性って」
「少年、私から説明してもいいかい?」
「はい、お願いします」
これは打ち合わせにあったことだ。
オールマイトを交えて話し合ったうえで、出久は個性を「死霊憑き」とすることになった。霊に憑依されることで力を得る、というものだ。
この嘘のいいところは、出久がこれまで無個性だったことを説明しやすいところにある。つまり、蓮華という「霊になる個性を持った死者」と出会うまで個性が効果を発揮しなかったのだと言うことができる。
事実、出久は無個性だったし、蓮華に憑かれている。そこまで嘘というわけでもなかった。
「実は、息子さんは無個性ではなかったんです」
「そ、そうなんですか!? でも、出久はずっと……」
「失礼ですが、ご両親の個性をお伺いしても?」
「私たちのですか? 私はものを引き寄せるくらいのことしか。今はいないんですが、夫は火を吹きます」
「ああ、やっぱり。出久くんはご両親の個性をしっかり受け継いでたんですよ」
「と、おっしゃると……?」
蓮華は微笑んで、引子に手を差し伸べた。
怪訝そうにしながらも引子が手を握ろうとする。しかし、その手はすり抜けてしまう。それどころか、蓮華の手はまるで幻のように透けていく。
蛍光灯の無機質な明かりが蓮華の手を抜け、その向こう側に北欧風のテーブルクロスのシンプルな柄が見えるようになると、引子は感心したように息を吐いた。
「すごい個性ですね……?」
「ええ、ありがとうございます。私、個性のせいで成仏できなかった幽霊なんです」
「ゆ、ゆ、幽霊って、そんなご冗談を……冗談よね、出久?」
「……幽霊を引き寄せて、その力を借りる。それが僕の個性だったみたいなんだ」
母親に嘘をつくというのは、出久にとってひどく苦しい行為だった。
「これまでは幽霊との出会いがなかったから、無個性だと思われていた。前例が少ない個性ですから、病院でもわからなかったんでしょう。でも、私という幽霊を息子さんが見つけてくれたんです。ね、少年?」
「……うん、そう。そういうことなんだ、お母さん」
出久と蓮華の間で何度も視線をさまよわせた引子は、まだ現実を受け止めきれないようだった。
無個性だと診断を受け、帰宅したあとのことを出久はまだ鮮明に覚えている。半ば放心状態でオールマイトの映像を見て「僕もヒーローになれるか」と口にした出久を抱きしめ、引子は何度も謝罪の言葉を口にしていた。
母親には感謝してもしきれないほどに感謝している。だからこそ、出久は彼女に本当のことを話せないことが申し訳なくてならなかった。
「じゃ、じゃあ……本当に、出久に個性が?」
がたり、と音を立てて引子が立ち上がった。
肩に羽織っていたブランケットが落ちるのも気にせず出久のそばへと小走りで歩み寄った引子が、出久の手を強い力で掴む。その手はひどく震えていた。
「本当なの、本当なのね、出久?」
「……うん。心配かけてごめん、お母さん」
「心配なんて……当たり前でしょ、お母さんなんだから。よかったねえ、よかったねえ、出久……!」
半ば嗚咽で言葉にならないまま、引子は何度も「よかった」と喜びながら出久を抱きしめた。おずおずと腕を伸ばして抱き返すうちに、出久はいつの間にかもらい泣きしてしまっていた。
温かい。母親とこうして抱き合うのはいつぶりだろうか。
父親がいない緑谷家で、引子は出久にとって唯一の家族だった。単身赴任で仕事に励む父親を尊敬してはいるが、寂しさを感じなかったわけではない。そんな出久をめいっぱいに可愛がってくれたのが引子だった。
「よかったね、少年」
「……はい、よかったです」
たとえ嘘が含まれていても、引子を安心させることができた。それは本当に喜ばしいことだった。
引子の涙が落ち着くまで、15分ほどかかっただろうか。
恥ずかしそうにハンカチで目元を拭いながら、引子は改めて蓮華と向かい合っていた。まだ少し目元が赤い。それでも肩の荷が降りたようにリラックスしていて、初対面の蓮華と談笑する余裕も出たようだった。
出久は自分と母のために紅茶を淹れるお湯を沸かしながら、二人の話に耳をそばだてていた。
「それじゃあ、出久が昔からよくあそこの神社を遊び場にしてたのは蓮華さんがいたからだったのね。てっきりこの子がそういう古いものが好きなのかとばっかり」
「出久くんは昔からよく遊びに来てくれて。おかげでお供物が傷まずに済みました」
「あら、じゃあおやつにお供物を? まあでも、ご本人がいいと言ってるんだしいいのかしら」
わかっていたことだが、蓮華はしっかりしている大人の女性だ。最初にぶちかましたことを除けば礼儀正しく、丁寧な口調で引子に接してくれている。
だからこそ、出久は蓮華の口から自分の名前が出るたびに肩が跳ねそうになるのを必死で抑えていた。彼女に名前を呼ばれるのはどうしても慣れない。バレれば後で散々からかわれる。
電気ケトルから湯をカップに注ぎ、戸棚の乾物入れを開けて紅茶を取り出す。
無意識に来客用のカップを取り出そうとして、その必要がないことを思い出した出久は小さく頭を振った。どうにも冷静さが取り戻せない。
「もう20年以上あの神社にいたんです。個性のせいか、地縛霊みたいに神社から出られなくて。ずっとこのままなのかなーって思ってたんですけどね。そこに出久くんが来てくれて」
「なるほど……不思議なご縁ってあるのねえ。私、てっきり出久が年上の恋人を連れてきたものだとばっかり」
「優しくて一途な子ですから、大人になるにつれて人気が出ますよ。いずれそういうこともあるかもしれませんね。ね、少年?」
「何が!?」
慌てた出久は危うく熱湯をこぼして火傷しそうになった。
この調子ではずっとからかわれて生活することになる。それは心臓によろしくない。出久は「もう動じないぞ、絶対に動じない」と自分に言い聞かせながら紅茶の封を切った。
考えてみれば、蓮華は出久から見てはるかに年上だ。享年がいくつだったのかはまだ訊けていないが、火事が20年以上前だったことを考えると――
「おや、少年が失礼なことを考えている気配がするな」
「こ、個性ってそこまでわかっちゃうんですか!?」
「乙女の勘ってやつさ。一体何を考えていたのかねー、まったく」
どうやら出久に勝ち目はないようだった。
「そういうわけで、色々とご迷惑をおかけしちゃうと思うんですが、物置にでも間借りさせていただければ大丈夫なので」
「とんでもない! 夫の部屋が空いてるから、我が家だと思って好きに使ってちょうだい。これからも出久をよろしくね、蓮華さん?」
「ありがとうございます、お義母さん」
今度はすり抜けることなくしっかりと握手を交わして、蓮華と引子は微笑んでいた。
一見すると親子ほどに年が離れている。引子が「出久の彼女」と誤解したのも頷けないではない。もちろん、出久からしてみれば釣り合わないにもほどがある高嶺の花なのだが。
ティーバッグを入れただけの紅茶をテーブルに運びながら、出久はこれから続くであろう波乱万丈な日々に思いを馳せた。