「何ができるのか、って?」
出久が蓮華にそんな疑問を投げかけたのは、彼女が緑谷家に越してきて数日経ってからのことだった。
最初は困惑していた引子も馴染んでくるにつれて「娘ができたみたいで嬉しい、女の子もほしかったから」と喜び、今までよりもさらに緑谷家には賑わいのぬくもりが生まれた。それを生じさせたのが幽霊だというのだから不思議な話だ。
楽しい日常はさておいて、出久には急務があった。迫る雄英高校入学に向けて、個性についてのすり合わせをしておかねばならない。
「はい。その……お姉さんは僕の個性なので、把握しておかなきゃなって思って」
「恥ずかしがるなよ少年」
「恥ずかしがってないです!」
「ふーん、へー」
愉快極まりないと物語る蓮華の視線を避けるように身をかがめながら、出久は最後の段ボールを折り畳んだ。
この部屋は父親が帰ってきたときのために用意されたものだ。ただ、出久が知る限りではずっと物置として使われていたし、ベッドのマットレスも長いこと荷物の下敷きにされてへたっていた。
窓にオリーブ色のカーテンが張られ、小さな白いテーブルにはサボテンの鉢植えがひとつ。棚には商店街の古本屋から仕入れてきた文庫本がいくらか並ぶ。
シンプルで、ともすれば殺風景と言われそうな部屋だ。
当座の生活資金として蓮華はオールマイトからいくらかお金を受け取っていた。戸籍のない死人である彼女にはお金を稼ぐ手段がないし、あったところで銀行口座が作れない。
そのお金を受け取って真っ先に買ったのがサボテンと本。出久はなんとなく蓮華の人間性がわかりはじめたような気がした。
「むー……なんだか失礼なことを考えている顔だな? うりうり」
「ちょ、やめてください」
脇腹を突こうとする指から逃れて出久が立ち上がると、蓮華は不満そうに頬を膨らませた。
「あーあ、もう少年がお姉さんに慣れてきちゃったなあ。小さい頃はあんなに純粋でからかいがいがあったのに」
「いつまでもやられっぱなしじゃ毎日が大変すぎですよ……」
「初めて会った時なんか、気絶しちゃったから膝枕してあげたのになあ。あのころの少年は息がかかるだけで耳まで真っ赤になって可愛かったなあ」
「いつの話をしてるんですか! そうじゃなくて、個性の話です!」
段ボールを放り出して出久は叫んだ。
これから個性として共に過ごす蓮華のことをもっと知りたい。ヒーローを目指す出久にとって、個性とは戦い、護るための武器そのものだ。
蓮華は降参を示すように両手を上げて、それからテーブルと対になった小さな白い木の椅子に腰掛けた。
「ごめんごめん、からかいすぎた。それで、何ができるかだっけ?」
「まったくもう……」
舌をちろりと出してダメ押しのように「ごめんね」と言われてしまうと、出久はもう許すしかなかった。どうにもこの人には強く出れない。
出久が分析ノートを取り出してメモを取る姿勢になると、蓮華は考えるように頬に手を当てた。
「そうだねえ……まずわかりやすいのは不死かな。もう死んでるからね、攻撃されても死なない。消えちゃうようなダメージを受けても、少年のところに戻るだけだと思う」
「不死……これだけでももうすごく強力だ、お姉さんのすり抜ける身体と合わせれば絶対に情報を持ち帰ることができる斥候役になる! 立てこもったヴィランを刺激せずに内部の情報を集めたり、事故現場を突入前に調査したり、発想次第で幅は無限大だ……!」
「お、スイッチ入ったね」
「……はっ! ごめんなさい……」
「いいよいいよ、むしろその調子で続けて。注意点として、お姉さんが攻撃することはできないってことは忘れないでね。鍛えてなかったし、幽霊の身体って鍛えられないから」
幽霊の身体は鍛えられない。これは出久もよく知っている。
中学1年生の夏、蓮華は出久とラジオ体操をしていた。普通は毎朝同じ運動をすれば筋が伸びて動きがよくなったり、全身が柔らかくなったりするものだ。しかし、夏休みの間蓮華の動きには一切の変化がなかった。
それを加味しても、蓮華は個性としてとても優秀だ。きっとこれから何度も出久は彼女に感謝することになるだろう。
「距離の限界も確認しておいたほうがいいのかな? お姉さんは今少年に取り憑いてるようなものだから、一定以上は離れられないと思うよ」
「それは大事だ……あとで確認しましょう!」
「おっけー。あとできることって言ったら……あ、これがあるか」
蓮華の立てた指先に青白い炎が灯った。
これは出久もよく知っている。蓮華が明かり代わりによく使っていた幽霊火だ。熱はなく、攻撃には適さないが、見える者を制限することができるという利点がある。
部屋の中をふわふわと漂う幽霊火はまるで新しい住処を確認しているようだった。
「幽霊火っていくつまで出せるんですか?」
「ひとつだけ。これは鍛えれば増えそうな気もするね。増やして意味があるのかはわかんないけど」
「意味はありますよ! たとえば夜間の活動でヴィランには見えない光源を出すことができるし、その時に複数出せればその分だけ別行動を取る選択が生まれますから! 絶対、絶対特訓しましょう!」
「そうだねー。幽霊ってのびしろあるのかなあ」
蓮華が手を小さく振って幽霊火を消した。
間取りの都合上、この部屋は陽の光があまり差し込まず日中でも少し薄暗い。指先に幽霊火を灯したり消したりする蓮華は、部屋の薄暗さも相まっていつもよりさらに儚い存在に見える。
すでに死んでいるから死なない、そんな理不尽に不滅な存在であることを忘れてしまいそうになる。本当は全てが夢で、今この瞬間にもかき消えてしまうのではないか。
出久にとってそれはきっと悪夢だった。
「何を見惚れてるのさ、少年」
「ヘ? あ、いや」
「よいよい、少年はもうお姉さんの主だからね。好きなだけ見ていいんだぞ? お姉さんには逆らう権利がないんだから」
ふわりと宙に舞い上がった蓮華が、まるで水面を漂う花弁のように自然な動きで出久のそばへとやってくる。
伸ばされた手がそっと出久の頬に添えられた。
自然と見つめ合う形になってしまう。迂闊にも見惚れていたのがバレてしまったせいで、出久は今自分の耳が真っ赤になっているのを感じていた。
まだ慣れない。この不思議で素敵な人が自分の一部になったということを受け入れきれないのは、やはり巻き込んでしまったという申し訳なさに由来するのだろうか。
「……お姉さん」
「なんだい、少年」
「その、なんていうか……巻き込んじゃって、ごめんなさい」
返事の代わりに、蓮華は出久の広い額を指先で叩いた。
「生意気だぞ、少年」
「でも……」
蓮華は望んで出久の個性になったわけではない。ワン・フォー・オールの誤作動で巻き込まれてしまった居候。それを忘れてはならない。
どこまで頼っていいのか。それをまだ出久は掴みかねていた。
言ってみれば、蓮華は出久のせいで住処を失った被害者なのだ。その彼女に個性としてヒーロー活動を手伝ってくれ、とすぐに言えるほど、出久は図太くなかった。
「まだ納得できない?」
「……はい」
「真面目だなあ、少年は。こんなちゃらんぽらんのお姉さんが居候に転がり込んだんだ、家賃代わりに扱き使ったっていいもんじゃない?」
呆れたように笑って、蓮華はもう一度出久の額を叩いた。
蓮華はいい人だ。一度たりとも出久の夢を否定しなかったばかりか、惜しむことなく協力してくれた。それは幽霊の暇つぶしだったかもしれないが、少なくとも出久はそれに救われた。
越してきてから程度が増したからかいも、あるいは出久の罪悪感を軽くするための演技なのかもしれない。そう思える程度には、美珠蓮華という女性は優しい。
「お姉さんにはさ、少年の夢を応援した責任ってやつがあると思うんだよ」
「そう、でしょうか」
「お姉さんがそうって言ったらそうなの。少年、おいで」
頭を掻き抱くようにして包まれた出久は、一拍置いて自分が蓮華に抱きしめられていることに気がついた。
布越しにもわかる柔らかな肌の感触と、それに対比するような冷たく湿った体温。そして、それを覆うようにして香る蓮の蜜。
鼓動の聞こえない胸に抱かれて、出久は全身を硬直させた。
呂律の回らない舌で離してくれと言おうとしたそのとき、蓮華がそっと出久の髪を撫でながら優しく語りかけた。
「少年が目指してるヒーローって職業は、誰かのためにたくさん傷つくのがお仕事だ。そんな夢、本当なら諦めさせるのが年長者の役目なんだよ。立派な仕事かもしれないけど、傷ついてほしいなんて普通は少しも思わないでしょ?」
「……でも、お姉さんは」
「うん、応援した。正直、自分が死んでるからっていうのもあったよ。関係ないから身勝手な応援ができた。これからは、関係のある話になるね」
勘違いでなければ、出久の髪を梳く蓮華の手はかすかに震えていた。
何を恐れているのだろうか。
その疑問が、出久に彼女の細い腕を振りほどくことを躊躇させていた。今振りほどけば、きっと彼女を傷つけてしまう。そんな予感が出久の激しい鼓動をゆっくりと落ち着かせていた。
「これで少年がひどい目にあったら、ただの死人じゃ責任取れないからさ。せめて、個性として一緒に戦わせてくれないかな」
「お姉さんは……怖いんですか」
「怖いさ。怖いに決まってる。死ぬってことは、君が思っているよりも重いことなんだよ。だから、もう死んでるお姉さんが助けてあげる。少年が死なないようにね」
しばらく、呼吸の音だけが部屋に響いていた。
出久にとって蓮華はずっと「お姉さん」だった。出会った頃から彼女は何一つ変わらない。だから、つい忘れてしまいそうになる。彼女がただの人間なんだということを。
蓮華は死んでいる。それだけではない。彼女の家族もあの神社で他界している。その彼女をヒーローの個性として戦いの場に引っ張り出すのは、間違いなく残酷なことだ。
しかし、出久はヒーローを諦めるつもりなどない。ただでさえ手段を選ばなくてはならないヒーローにとって個性が生命線なことも熟知している。
まだ覚悟はできない。それでも――
「取り憑いてるって言えば、これもできるのかな」
ずぶ、と出久の頭が蓮華の胸に沈んだ。
幽霊の身体を通り抜けたというのとはわけが違う。まるで蓮華という海に溺れるように、出久の存在が絡め取られていく。咄嗟に息を吐こうとして、出久の喉が冷たさで満たされた。
全身が冷たい。冷水の中を漂っているようだ。
わけもわからずもがくと、出久の指先から青白い光が
一体何が起きたのか。
その疑問に答えたのは、出久の内側から響く蓮華の声だった。
「さて、問題です。お姉さんは今どこにいるでしょうか!」
「え、ええっ!? 一体何が……」
「ヒントは、そうだなー……心霊スポットの帰り道とか」
「……もしかして、僕に取り憑いたんですか!?」
あったりー、と笑う顔が目に浮かぶような明るい声がまた内側から響いた。部屋には出久ひとりだけが残されている。
「これなら学校に行っても困らないでしょ? 我ながらすっごく便利だなあ。いい買い物したね、少年」
「な、なん……じゃあ、今お姉さんは僕の、中、に……」
指先から身体の芯に至るまで、全身に感じる柔らかな冷たさが蓮華の体温だと理解した瞬間、出久の脳は思考を停止した。
器用な幽霊だとは思っていた。
しかし、ここまで器用だと困るのは出久のほうだ。確かに学校で蓮華が出久の内側に隠れていてくれるのならとても助かるが、それは同時に学生生活を全て蓮華に目撃されることを意味する。
それに、「身体がひとつに合わさっている」という端的な事実は出久にとってあまりにも刺激が強すぎる。こみ上げる何かをこらえるので精一杯で、言葉が出てこない。
「文字通りの一心同体、なんてね。ところで、さっきの中々様になってたでしょ? カウンセラーとして雄英に雇ってもらうのもありだなー。これもお姉さんの実力としてノートに書いといてね。特に柔らかさとか、いいにおいがしたーとか」
「……もう、なんなんですか、もう!」
もうすぐ春が来る。雄英高校ヒーロー科の新入生として、出久は一歩前に進む。その中でもっと蓮華と触れ合い、そして向き合い方を考えていこう。
見えない内側でけらけらと笑う蓮華への照れとも苛立ちとも取れない感情を段ボールにぶつけながら、出久はそんなことを思った。