激動の入学初日だった。
荷物を片付け、制服をハンガーにかけ、部屋着に着替えたのもつかの間、出久はノートを取り出して食らいつくように筆を走らせていた。幸いにして、リカバリーガールのお陰で指は違和感なく治っている。
「あれじゃ駄目だ、力のロスが多すぎる……!」
本日最大の反省点。それは個性把握テストで記録を伸ばせなかったことだ。
身体能力で他の生徒に劣っていたとは思わない。確かにオールマイトと出会うまでの自主トレーニングは児戯でしかなかったかもしれないが、しかし真面目に鍛え続けてきたという自負があった。それでも記録は伸び悩んだ。
蓮華が持久走に出てくれていなければ、最下位は出久だっただろう。自爆した指の痛みをこらえながら走ったところでよい結果が出せたとは思えない。
「一点に集中させる……確かにそれで行動不能にはならない。でももっと、もっと何かあるはずなんだ……」
止まない独り言に割り込むように、出久の部屋のドアがノックされた。
「しょうねーん、お茶にしようよー」
「もう少し片付いたら行きます!」
蓮華が緑谷家にやってきてから、この家の雰囲気は少しだけ変わった。
まず、家事を担う人が一人増えたおかげで引子の負担が大きく減った。しかも蓮華は食事をしないから家計を圧迫しない。海外で働く父からの仕送りがあるとはいえ、常に余裕のある家というわけではなかった。
そして、余裕のできた引子が蓮華と出久のやり取りから影響を受けたのか、フィットネスジムに通うようになった。健康的な体つきになりはじめ自信がついたのだろう、以前よりも快活になったような気すらする。
そうなると引子がいない間は出久と蓮華のふたりきりになる。出久は蓮華の趣味に付き合う時間が特別なものに思えて好きだった。
「もっと負荷を最小限に、たとえば爪だけとか……駄目だ、それじゃボールにいく力がもっとロスする……」
「しょうねーん? 反省会ならお姉さんも付き合うから、とりあえず出ておいでよー」
「……はい!」
一瞬だけ躊躇ったが、出久は承諾の返事をして席を立った。ノートをペンごと畳んで小脇に抱える。確かに、蓮華の意見も聞いたほうがいいだろう。
部屋の扉を開くと、ふわりと甘い焼き菓子の香りが出久の鼻をくすぐった。
「レモンタルト焼いたんだ。お姉さんの特製、食べたい?」
「食べます! 食べたいです!」
幽霊の身体にかけられたエプロンは、帆布の白地に深い藍色の糸で小さな燕の刺繍が入ったシンプルなもの。あまり買い物をしない蓮華が雑貨屋で一目惚れをして購入した。
火傷はしないはずだが、気分的な問題だろうか、ミトンを嵌めた手をふわふわと揺らして蓮華は笑っていた。
蓮華は料理がうまい。引子は「せっかくダイエット始めたのに、これじゃ痩せようがないわね」と嬉しい半分苦しい半分といった様子だった。もちろん、出久からすれば引子の優しい料理も引けを取らないのだが。
オーブンから取り出されたタルトには輪切りのレモンがつやつやと輝いている。爽やかな甘酸っぱさが香りだけでもわかるようだ。
思わず出久のお腹が鳴ると、蓮華は笑いながらタルトを切り分けた。
「お義母さんの分も残しとかなきゃね。はい、召し上がれ。お茶のおかわりはセルフサービスね」
「わあ……いただきます!」
がっつくのは下品だとわかっていても、フォークでタルトを一口分に切り分ける手が「大きく切れ」という脳の命令に逆らえない。
すくい上げて口に運ぶと、柔らかなレモンクリームのうまみが出久を揺さぶった。コクがあるのに、レモンの爽やかさがそうと感じさせない。これは手が止まらなくなりそうだ。
「おいっしい……! こういうのって、時間がかかるんじゃないんですか?」
「ふっふっふ、だろう? レモンクリームとタルト台は昨日仕込んでおいたんだよ。あとは常備してるレモンの蜂蜜漬けを使ってちょちょい、さ」
「昨日から!? 全然気づかなかった……ありがとうございます」
「お姉さんからの入学祝いかな。きっと疲れて帰ってくることになるだろうって思ってたからね」
「本当にくたくたで……でも、本当においしいです。お菓子作りも得意なんですね」
「自分で自分にご褒美を作ることを覚えるとね、どこまでも凝るようになっちゃうんだよ。さて、それで? 反省会、やるんだろ?」
出久は慌てて頷くと、口の中いっぱいに広がっていた甘みを紅茶で流し去って食卓にノートを広げた。
今の出久はまだワン・フォー・オールを使いこなすだけの土壌を築けていない。超パワーに見合う頑丈な肉体がないせいで、力を使おうと集中させると爆発してしまうのだ。
本来であれば出久のように0か100かの状態ではなく、出力を絞ることでこの問題は解決されるのだが、この点も目下修行中だった。
「今日の個性把握テストなんですけど……思ったより上手くいかなかったなって」
「まあ、そうだね。爆豪
「い、痛くないです。行動不能にもならなかったですし!」
「ふふ、そこは変わらないねえ本当に」
蓮華に手を絡め取られて、出久は持ち上げようとしていたペンを取り落とした。
ミトンを外した冷たい指先がそっと出久の指を撫でていく。まるでなぞるように、触れるか触れないかのすれすれをなめらかに走る指が妙に艶めかしくて、出久は思わず目をそらした。
しかし、目をそらすとかえって指の感覚が際立ってしまう。蓮華のしなやかな指が踊るのを感じるたびに出久の背筋が粟立った。
まるで鳥の羽根に撫でられているようなくすぐったさ。
触れていなくとも感じる、蓮華の冷たく湿った体温。
「ッ……」
「指に限らずさ、身体は大事にしてほしいなってお姉さんは思うんだ。早く見つかるといいね、自爆しないで使う方法」
「そう、ですね……ッ!」
「こそばいだろう。タルトは飴、こっちは鞭ってことで。少年と遊ぶ指がなくなっちゃったら、お姉さんはとーっても悲しむぞ?」
少年で遊ぶ、の間違いではないのか。
そう思いながらも出久は嫌だとは言えず、しばらく蓮華に指を弄ばれていた。
蓮華が満足するまで、時計では5分ほどだっただろうか。出久の体感時間では30分、いや、1時間にも及ぶ拷問を終えて、蓮華はテーブルの向かいから出久のペンを拾い上げた。
「内側から見てて思ったのは、いくら部位を限定しても自爆しちゃう以上出力の限界があるってことかな。それどころか、超パワーが集中しちゃってダメージが深刻化しそうな気もする。それを無意識に回避したから記録は伸びなかったんじゃないかな」
「はい……」
「元気ないね。お姉さんがなでなでしてあげよっか?」
「だ、大丈夫です! でも、部位を限定しないってなると自爆で動けなくなっちゃうので……」
「うーん……なんか、根本的に違う気がするんだよな」
ペンを手にさらさらとノートへ書き込んでいく蓮華。出久の字とは違う、細く雅な曲線を伴った筆跡で書かれていくのは、超パワーの発生機序だ。
「ワン・フォー・オールの超パワーは個性が発動することで発生するエネルギー、つまりストックの燃焼だ。発動した時点で力はもうそこにあるんだよね」
「はい。それを放出しようとして、反動で自爆しちゃってるんです」
「だとすると、一点に集めるってむしろ高リスクじゃない? 今日は運良く大丈夫だったけど、下手したら指ごと飛んでいったかもしれない」
「ゆ、指ごとって……」
「あ、ごめん、グロかったね。お姉さんが言いたいのは、一点に力を集中させるんじゃなくて分散させたほうがいいんじゃないかってこと。オールマイトが全身力んで見せ筋作ってるみたいにさ」
蓮華の握ったペンが簡単な物理法則をノートに記した。負荷をかける体積が広がれば広がるほど、エネルギーは分散して一点の負荷が下がる。
全く考えていなかった可能性に、出久ははっと目を見開いた。
どこを自爆させるかではなく、そもそも自爆させないための運用。一度も自爆せずに成功したことがなかったせいで、その発想に意識が向かなかった。
「まあ、鍛えないと全身爆発しちゃうかもだけど」
「ええっ!?」
「そりゃそうだよ。入試ではパンチ一発で腕一本駄目にしてるでしょ、少年は。全身に分散させたから安全、なんて保証はない。でも、分散するって考え方は意識したほうがいいかもね。今はロスが大きいせいで反動が出てるんだからさ」
「力を、分散する……そうか、確かに! オーバーパワーなパンチを撃つより、全身を安定させた上で必要な分をパンチに回したほうが絶対にいい!」
「それができるようになるためにも基礎をしっかり固めなよ。クラスにも同じ全身発動型の子いたでしょ、硬くなってた男の子とか。分散のコツに限らず色々話聞いてごらん?」
「はい!」
出久の脳裏にはもういくつもの可能性が浮かんでいた。
たとえばパンチを撃つにしても腕にだけ力を集中させるのではなく、肩、体幹、腰、膝、足の裏と分散させてブレを抑えた打撃を放つことができるだろう。
足腰を意識すれば機動力の向上にもなるかもしれない。攻撃を受けるのに合わせて体幹を強化すれば衝撃からの復帰を早めることもきっとできる。
「これが個性の使い方を考える、ってことじゃないかな。……ああ、そういう意味ではちゃんと個性把握テストなのか。むかつくー」
「はは……でも、目から鱗でした」
「目から鱗、ね。お姉さんが学生だったころは異形型への差別につながるって理由でそういう言葉使えなかったんだよなあ。時代、変わったねえ」
「あ、時代って言えばお姉さんが生きてた頃のこと……」
「そーれーよーりー! 少年はどうしてあのときお姉さんに頼ろうとしなかったの? もう自分の個性なんだから、ちゃんと使わないとだめだぞ?」
脱線しそうになった出久を大きな声で遮って、蓮華は頬を膨らませた。
確かに蓮華は出久の個性になった。個性届も出してあるし、学校でもお披露目したばかりだ。
しかし、ワン・フォー・オールというもらいものの個性に、事故で巻き込んだ他人。どちらも自分のものと言い張れるほど出久は図太くない。
どこかで割り切らねばならないのだろう。そこを甘えたまま目指せるほどプロヒーローへの道のりが優しいものではないことは、出久も十分に承知していた。
「今すぐ覚悟しろなんてことは言わないけどさ」
「……珍しいですね。そういうところでお姉さんが厳しくないの」
「幽霊になりたての頃はさ、お姉さんも随分戸惑ったもんだよ。そういう意味ではもう20年以上ずっと個性使いっぱなしなんだから、もっと成長しててもいいのにねえ」
蓮華もある意味では元無個性だ。死んだら幽霊になるなんて外れも外れの個性は出久も聞いたことがない。
小学2年生の夏に出会って以来、出久にとって蓮華はずっと「幽霊のお姉さん」だった。しかし、彼女にも生きていた頃があって、そして個性が目覚めたてのころだってあったのだ。
「……心細かったですか?」
「そりゃあ、ねえ。最初の一年は漂ってることしかできなくてさ、自分の死体を泣きながら抱き上げるプロヒーローに声をかけたくても声の出し方がわからなかったし」
「そんな……そんなことがあったんですね」
「実感が湧いたのは慰霊碑が建てられた後だね。自分の名前見つけて、うわー本当に死んだんだーって思ってさ。でも成仏の仕方もわからないし、かといって神社からも出られないし」
「苦しかった、ですか」
「いや、暇だった」
「暇!?」
しんみりした空気のはずが、蓮華はあっけらかんとした表情で「うん、暇」と言い放った。
「だって、あんな小さくてなんもない神社だよ? ちょうど実家に帰ってきたタイミングだったから鞄に本が入ってたけど、そうじゃなかったらもう……あれだ、悪霊になるやつの気持ちがわかりそうだった」
「ええ……」
「だから、連れ出してくれた少年には本当に感謝してるんだよ? おかげで新しい本も買えたし、サボテン育てたりお菓子作ったりできるし」
「そ、それくらいは巻き込んじゃったんだから当たり前というか、そもそも僕がお金出してるわけじゃないですし……」
「オールマイトがお金出してくれてるのだってある意味少年のおかげだよ。少年は自由をくれた。だからお姉さんは君を助ける。それじゃ不満?」
まだ覚悟は定まりきらない。
それでも、心の底から嬉しそうに微笑む蓮華を前にすれば、彼女がお世辞や励ましで言っているわけではないことは手に取るようにわかる。
頼ってもいいのだろうか。ヒーローになるために、自分自身の力として蓮華とともに戦ってもいいのだろうか。
「――出久ー、蓮華さーん、ただいま! わ、いいにおい!」
「おかえりなさい、お義母さん。……忘れないでね少年、君はもうお姉さんのヒーローなんだってこと」
レモンタルトの香りに包まれた我が家で、蓮華の微笑みに出久は小さく頷いた。これ以上否定の言葉を重ねるのは、失礼な気がしたから。