◆◇◆
何処でもない、この世の何処かで、人非ざる者が生まれようとしていた。
どくん、どくんと脈打つそれは魂の鼓動。
世界の胎動。
それは遥か遠く、ゲートの内側。
最遠の深奥に、深く、大きく、響き渡る異変。
凶報の予兆。
「──っ‼」
誰もが気づけぬその異変に、ただ一人気づいた青年がいた。
天涯孤独の生涯無敵。
それと同じく、世界に変革を齎すもの。
神に魅入られし特異点。
彼は目を見開き、バッと振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
赤いカーペットの敷き詰められた豪奢な廊下が、ただ静かに続いているだけだ。
「? どうかしたのかい?」
傍らにいた友人が、彼へと声をかける。
「……いいや、すまない。何でもないんだ」
「そうか。しかし、何かあれば言ってくれ。私に可能な限り力になろう」
「ああ、ありがとう。──ユリウス」
「ふむ。それにしても珍しいこともあるものだね。──君が咄嗟に剣に手を掛けるだなんて」
整えられた薄紫色の髪に手をかけ、そう嘯く友人の声に、彼は言葉を返すことができなかった。
何故なら、彼は今も、喜々として荒ぶる『龍剣』を抑えるので精一杯だったからだ。
「一体、何が……」
友人に心配はかけまいと、小声で呟いた青年。
――否。
『若き剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアは、いずれ来る運命を憂い、しかしそれを粛々と受け入れ、前へと歩を進めた。
◆◇◆
美しい街並み。
なだらかに流れる水。
雲一つない晴天に響き渡る、明るい喧騒。
それも陽が沈み、暗闇に包まれれば、騎竜が鳴くくらいで静かなものだ。
その静けさや静寂も、人工的な川のせせらぎを嗜めば、趣深いと言える。
今日は風がなく、空気も閑散としている。
暑くも寒くもない、なんとも居心地のいい夜だった。
そんな美しい都市プリステラでも、某所では闇に紛れて不穏な無音が支配している。
そこに散乱するは──雑多な死体。
血みどろの壁床。
絶叫犇めく、お偉いさんの別荘宅。
その断末魔が外に漏れ出ることはない。
すべては秘匿された出来事であり、明るみに出ることのない闇夜の夢である。
「おらどうした。抵抗しろよ。抗えよ。懸命に、必死に、目一杯気張ってみせろ」
気品と臓物に溢れる廊下を、一人の青年が歩いていた。
男は突然この場に現れ、並み居る護衛の騎士らに宣戦布告し、そうして蹂躙した。
その男には魔法が通じない。
その男に触れてはならない。
その男は不可視の妖術を操り、瞬きの間に背後に現れる。
誰もそいつを止められない。
選ばれし騎士が。
近衛が。
魔法騎士が。
精霊騎士が。
力自慢が、腕自慢が、洗練された技術を持つ数多の騎士が。
虫ケラのように轢き潰されていく。
「ば、化け物か」
「よくも先輩を──ッ‼ がはっ」
「このッ、何故剣が当たらないッ!」
「な、なんなんだよお前はァ──! おぶっ」
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んでいく。
光を失い。
生気を失い。
希望を失い。
救いを失い。
幸福を得られず。
天寿を全うできず。
無念の末に命を落とす。
それを怠惰と罵るか?
否だ。
彼らの無念も悔恨も、すべてを抱えて進むのだ。
「──もう終わりか。足りないな」
この場にいた最後の一人の首を掴み、持ち上げた状態の青年は呟く。
持ち上げられた男に外傷はない。
されど、まるで生きている様子がない。
完全に死んでいる。
まるで魂が抜き取られたかのように。
「あいつは……まだやってるみたいだな」
遊んでいるのだろう。
邸宅の反対側から、こちらまで泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
それを確認して、青年は死体となったそれを投げ捨て、最奥へと足を踏み入れた。
「──〝バン〟」
小さく呟けば、厳重に鍵のかかった扉が役目を失い、開帳する。
その先にいたのは、腹の膨れた、立派な髭を蓄えた壮年の男。
そして、その背後で剣を構える体格のいい男だった。
「礼儀のなってない無頼漢め。……ザックよ、どうだ。そなたならば勝てそうか」
「……申し訳ありませぬ、閣下。この者が強いようには、私にはどうにも思えない」
「ならばっ──」
「しかしッ! ──私の直感が、戦ってはいけないと……戦えば死ぬと、そう訴えかけている」
騎士の親玉らしき男は、その額に冷や汗を流しながら、一生懸命にこちらの一挙手一投足を警戒している。
ご苦労なことだ。
「話は終わったか? アンタがバルバトス・レーゼンベルクだな」
それは、今回の標的の名だ。
「……如何にも。儂がレーゼンベルク家当主、バルバトス・レーゼンベルクだ。貴様は何者だ」
「肝が据わってるなぁ、おっさん。別に、俺は何者でもないさ。俺はただ、アンタの暗殺依頼を手伝いに来ただけだ」
「依頼だと? 何処の差し金だッ!」
「時間稼ぎがしたいんだろうがなぁ……おっさん、これから死ぬ人間がそんなこと知って、何になるってんだ?」
「──ッ、ザック‼」
「ハァァ──‼」
ソルが男へ指先を向けた直後、大男が一踏みで間合いを消して肉薄する。
「勤勉だな。だが、それ故に、お前は死ぬ」
「ぬっ‼」
こちらへと突貫した男の身体が、急に鈍く地に縫い付けられる。
直後。
ドカン‼ と勢いよく、その身が地面へ叩き伏せられた。
「がはっ、ぐ、が……き、さま、何をッ」
──ソルは男に触れてもいない。
それなのに、男は独りで地にひれ伏した。
「お前がすべきだったことは唯一つ、そいつを見捨てて逃げることだった。お前はそれをしなかった。お前は怠惰だが、クズじゃない。誇りを抱えて盛大に死にな」
「────」
ひれ伏す男に、ソルは静かに触れる。
それっきり、男が呻くことはなくなった。
触れただけで、命を吸い尽くされたかの如く、男は絶命した。
「なんということだ……」
信頼を置いていた護衛が一瞬にして亡き者となり、バルバトスは思わず驚愕を口にした。
「後はアンタだけだな」
「……儂もこれまでか。貴様、名は何という」
「暗殺者が名乗るとでも?」
「そうであろうな。これだから影の者は好きになれん。神龍王国ルグニカに生きる人間としての矜持がまるでなっていない。儂を殺すのが貴様のような人でなしとは、それもまた龍の導きか」
その男は、覚悟を決めたのだろう。
床に胡坐で座り込み、そのまま腕を組んで目を閉じた。
「──殺せ」
もはやこちらを見向きもせず、それ以上の言葉を発することはなかった。
これが、殺したいほど恨まれている人間か。
なるほど、納得だ。
こんな覚悟の決まった奴、殺す以外に排除する方法がない。
我を通し、意志を貫いた人間の末路。
「ああ──」
「──お爺様っ!」
「なっ、何故お前がここにッ!」
…………。
これは、一体、何の冗談だ。
振り返れば、扉にいるのは共犯者。
見知らぬ少女が扉を抜けて、死にぞこないの老人へと駆け寄った。
ソルは殺意の滾る眼光で睨みつける。
それを、エルザは笑って受け流した。
「──おい。何のつもりだ、エルザ」
「──あら、殺さないのかしら」
女は、何を考えているのか分からない笑みを浮かべていた。
◆◇◆
お孫さんの名前はアンナ・レーゼンベルクさんです。オリキャラです。
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