とはいえ、一応作者として全文査読して、おかしなところは修正しているし、プロットに変更はありません。というか、個人的には作者が描くよりよほど読みやすくなってると思います。ので、よければこれから先も楽しんでください。作者より
◆◇◆
『──まずは己の過去と向き合え』
◆◇◆
──【救済の魔女】が現れて、三十年が経った。
世界は着実に、そして確実に、崩壊の一途を辿っていた。
最初にカララギが沈み、
次にグステコが堕ち、
そして最近になって、ヴォラキアが滅びた。
残された国は、親竜王国ルグニカただ一つだった。
滅びた国々から流れ込む難民たちによって、ルグニカの治安は日に日に悪化していった。王族を失った王国は求心力を欠き、この非常事態に際して統率を取れずにいる。
そうして、事態が急変すれば、人は弱いところから壊れていく。
かつて押し込められていた差別と偏見が、再び火を噴いたのだ。
獣人、蟲人、鬼人、エルフ。そして、それらのハーフ。
人と違う耳を持つ者。人と違う肌を持つ者。人と違う血を持つ者。
そうした者たちは、ある日を境に、当たり前のように追い出された。
国を失い、家を失い、名前を失い、居場所を失った者たち。
そんな行き場のない者たちが最後に辿り着いた場所こそが、【地下】だった。
広大な大地の下。
空から見捨てられ、陽の光からも見放された、地の底の街。
そこでは盗みも喧嘩も日常だった。
酒と薬に酔っている間だけ人は笑い、酔いが醒めれば殴り合う。
ヤニが切れれば怒鳴り、腹が減れば奪い、寂しくなれば誰かを傷つける。
――控えめに言って、クソッたれだ。
ここは世界の掃き溜め。
地上に居場所を失った者たちが、空の名残すら知らずに息をする場所。
人々はこの場所を、こう呼ぶ。
──【
これは、そんなロストブルーに生まれ、スラム街で育った少年の物語。
「どいつもこいつも、目が腐ってやがる。……ま、見てねぇなら見られねぇってことだ。好都合だな。──さて、今日はどいつから頂くか」
ボロ布同然の服を身にまとい、それに不釣り合いな黒いマフラーを首に巻いた少年が、退屈そうに街を見渡す。
目つきは悪く、口も悪い。
痩せた体には年相応の幼さが残っているが、その瞳だけは子供のものではなかった。
諦めと、不信と、どうしようもない退屈。
──彼の名は、ソル。
それが、この物語の主人公の名である。
◆◇◆
盗みを終えた頃、ソルは一軒のぼろ屋の前に立っていた。
時間にすれば、陽日の終わる頃。
地上で言うなら、夕方と呼ばれる時間帯だろう。
だが、ここはロストブルーだ。
上を見上げても、そこに夕焼けなどありはしない。
あるのは、地下の天井に埋め込まれた巨大な【陽光結晶】だけだった。
広大な地下空間を照らすその結晶は、朝も夜も変わらず、無機質な光を放ち続けている。
地下に暮らす人々から少しずつマナを徴収し、その対価として偽物の昼を与える、ロストブルーの命綱。
空のない大地における、まがいものの太陽。
「……ただいま」
戸口をくぐり、ソルは短く帰還を告げた。
「あらぁ、ソル……おかえりぃ……」
返ってきたのは、まったりとした女の声。
ソルの母親だ。
酒と薬でいつも意識の輪郭を溶かしている女。
けれど、機嫌がいい時だけは、まだ母親らしい声を出す。
「──ソル! テメェ、帰ったのか!」
同時に、奥から野太い男の声が響いた。
ソルの父親だった。
そう、このぼろ屋こそがソルの家だったのだ。
「たらたらしてんじゃねぇ、早く来いよ! こっちで一緒に酒飲もうぜ!」
「いや、ガキに酒飲ませようとすんじゃねぇよ」
「ああ!? 俺の酒が飲めねぇってのか!?」
「もう~、仲良くしなきゃだめよぉ~」
酒は嫌いだ。
思考が鈍る。舌が回らなくなる。まともな判断ができなくなる。
要するに、馬鹿になる。
だが、歯向かったところで意味はない。
拒めば殴られる。逃げれば捕まる。結局最後には、無理やり飲まされるだけだ。
ソルは小さく息を吐いた。
「……わかった」
「おう、そうだよ! 最初っからそうすりゃいいんだよ! ほれ!」
渡された酒瓶をじっと見つめる。
濁った液体。鼻を刺す臭い。
それをぐいっと
──何回飲んでも慣れねぇな。
「不味い」
こんなものをありがたがって飲む奴の気が知れない。
やはり自分は酒も葉巻もやらない。性に合っていない。
「ガキだなぁ、テメェは」
「ガキだからな」
ガキ扱いする父親の言葉を、そのまま受け入れて返す。
父親はそれを笑って流し、空になった酒瓶を机に叩きつけた。
「おぉ~し、酒は飲んだな? ひっく。──じゃ、今日スってきた分、全部出せ」
「……断──ぐはッ」
言い終える前に、拳が飛んできた。
視界がぶれ、椅子から転げ落ちる。
背中を床に強く打ちつけ、頬が熱を持った。
「俺の言うことが聞けねぇってのか!? ぶっ殺すぞ!!」
さっきまで笑っていた男が、次の瞬間には獣のような目で腕を振り上げている。
「ちょっとあなたぁ~。──お薬が切れちゃったのだけれどぉ~」
「知るか! これは俺の金だ!」
「…………」
仕方ない。
ここにいる奴らは、明日なんか求めちゃいないのだから。
今さえあればいい。
今だけ見ていればいい。
今の酒、今の薬、今だけの快楽。
そうしていれば、過去の絶望も、未来の憂鬱も、直視せずに済むのだから。
──どいつもこいつも、壊れている。
仕方ない。
仕方ないのだ。
俺だってそうだ。
俺はこうやって生きて、暮らして、死んでいく。
何物にもならず、何者にもなれず、ただ消耗されるだけの一つの命として。
この地下で生まれ、この地下で育ち、この地下で腐っていく。
──空を見ることもなく。
そのはず、だった。
◆◇◆
――生まれた。
その日、それは生まれた。
俺には、似ても似つかない命だった。
白っぽい髪。
汚れを知らない白い肌。
家の乏しい光を映した深緑の瞳は、まるでこの世界が、明るく優しいものだと信じているかのようだった。
こんな場所に生まれてきたことさえ、まだ知らない。
空のない大地に落とされたことも、明日を望むことがどれだけ馬鹿げているのかも、何一つ知らない。
だからこそ、綺麗だった。
馬鹿みたいに、腹が立つくらいに。
――ルナ。
それが、俺の妹の名前だった。
◆◇◆
妹が生まれた。
たったそれだけで、すべてが少しずつ変わっていった。
酒瓶ばかり握っていた父親の手が、不器用に赤子を抱くようになった。
薬で濁っていた母親の目が、少しだけ澄んで笑うようになった。
そして、何よりソル自身が変わった。
――あいつに、未来を与えたい。
馬鹿げている。
このロストブルーで未来なんて言葉を使うこと自体、笑い話にもならない。
それでも、そう思ってしまった。
文字も読めないくせに、本を拾い集めた。
埃まみれの紙束を盗み、破れた書物を漁り、知識というものを欲した。
地上へ出る方法を探し、
陽光結晶の仕組みを調べ、
ロストブルーの成り立ちを調べた。
魔法、呪術、歴史、地理、地上の国々、滅びた世界の残滓。
何も知らなかった少年は、何かを知ろうとし始めていた。
ルナに本を読んでやるようになった。
自分でも意味のわからない文字を、意味のわかるものへと変えていった。
それだけのことが、それだけの日々が、
この地獄の底にも、ほんの少しだけ先があるように思わせた。
それは、良い変化だったのだと思う。
少なくともソルは、そう信じたかった。
未来への歯車が、ようやく回り出した。
──その頃だった。
時の止まったこの地下世界に、理不尽が現れたのは。
◆◇◆
理不尽は只人を待ってはくれない。
ソルは走っていた。
息が切れている。
胸が焼ける。
足がもつれる。
だが、それでも走った。
走って、走って、走って、
いつもの角を曲がる。
そこには帰る家があるはずだから。
ルナ。
ルナ。
ルナ。
「……無事でいてくれッ」
そう口に出し、願いながら、家へ向かった。
辿り着いたぼろ屋は――半分崩れていた。
中に入る。
鼻を突いたのは、鉄錆びた血の臭いだ。
「……お袋?」
母はいた。
腹を木柱に貫かれ、壁に縫い留められるようにして、そこにいた。
「あ……あぁ……」
「ッ!」
――まだ生きている。
視線は虚ろで、零れる声にも力はない。
だが、胸がわずかに上下している。
なら、まだ助かる。助けられる。助けなければならない。
「しっかりしろ。まだ助かる。今、俺が──」
「そ、る……?」
薄く開いた目が、ソルを捉える。
「そる……ソルが、いる……」
「喋るな。今、抜いて──」
「ごめんね……」
母は謝った。
「だめな、おかあさんで……ごめんなさ──」
最後まで言葉にならなかった。
力を失った手が、ソルの頬を撫でるように滑り落ちる。
その手についた血が、べったりと頬に残った。
「…………」
息が止まった。
何かを叫ぼうとした。
けれど、喉が詰まって声にならない。
血の臭いに満ちたぼろ屋の中で、ソルは母の亡骸から視線を引き剥がす。
すると、奥の暗がりで、何かが動いた。
「…………」
そこにいたのは、父親だった。
壁にもたれ、腰を抜かしたように座り込んでいる。
酒と薬で濁っていた目は、今だけは妙に正気じみていて、だからこそ余計に醜かった。
「……お袋を、見捨てたのか」
「ち、違う……俺は……俺は悪くねぇ……」
「見捨てたのかって聞いてんだ」
「助けられなかったんだよ! あんなの、どうしろってんだ! 俺だって、俺だって助けてやりたかったさ!」
「助けたかった?」
ソルの声が、低く沈む。
怒鳴り声ではなかった。
涙声でもなかった。
ただ、凍りついた刃のように冷たい声だった。
「お、俺は悪くねぇ……俺は……あんな奴さえ来なければっ、俺だって……!」
「ルナはどこだ」
「ッ……!」
「どっちだ」
「あ、あっちだ……中央区の方に……」
ソルは走り出した。
「おい、馬鹿! 行くつもりか!? 死ぬぞ!」
制止の言葉など、聞こえなかった。
中央へ向かう。
足を止めるな。
息をするな。
考えるな。
ただ、あいつを見つけろ。
『──ミツケタ。』
その声が聞こえた瞬間、──天井が崩落した。
轟音。
粉塵。
悲鳴。
砕ける石。
潰れる肉。
消える命。
――ロストブルーの天に、穴が開いた。
そこから差し込んだのは、初めて見る本物の光。
ロストブルーに生きる者たちが、焦がれて、憎んで、諦めて、それでも知らずにいたもの。
青い空。
だが、その空は救いではなかった。
美しく、荘厳で、あまりにも眩い。
地下に生きる者たちが初めて仰いだそれは、空無き大地に終わりを齎す、破滅の光だった。
「っ、ぐ……!」
避けようと足掻いたソルの後頭部を、落石が打った。
鈍い衝撃が頭蓋の奥で弾け、視界が白く潰れる。
次の瞬間、意識は絶たれた。
◆◇◆
次に目を開いた時、世界は半分潰れていた。
いや、潰れていたのは世界ではない。
自分の体だ。
肩から先がない。
左足も砕けている。
片目が開かない。
耳鳴りが酷い。
口の中が血でいっぱいだ。
死ぬのか。
ああ、死ぬのだろう。
この地獄も、ようやく終わるのか。
そんなことを、ぼんやりと思った。
「そる……お兄ちゃん……」
――聞こえた。
妹の声が。
「──ルナ」
聞き間違えるはずがない。
どれだけ意識が遠くても、どれだけ体が壊れていても、その声だけはわかる。
「る、な゛ッ……!」
潰れた喉から、掠れた声を絞り出す。
「おに──」
その先は、言葉にならなかった。
一閃。
何かが煌めいた、と思った。
次の瞬間、ルナの小さな体が、──赤い花のように弾けていた。
一瞬、世界から音が消える。
だがそれは、飛び散った血がソルの頬に触れるまでの、ほんの刹那だった。
「あ、あ゛ぁあああああああああああああッ!!」
腕を伸ばす。
もうない腕で。
動かない体で。
潰れた足で。
這ってでも、近づこうとする。
だが、届かない。
ルナだったモノの、その向こう。
――そこに女がいた。
桃色の髪。
桃色の瞳。
血に濡れてなお、息を呑むほど整った顔立ち。
見知らぬ女だった。
なのに、その瞳だけが異様だった。
怒りではない。
憎しみではない。
愉悦でも、殺意でもない。
そこにあったのは、ただ一つ。
胸が腐るほど甘ったるく、吐き気がするほど重たい――【愛】だった。
「──愛してる」
救済の魔女は、そう言った。
まるで、最初からソルだけを見つけていたかのように。
まるで、ようやく会えた誰かへ囁くように。
その桃色の瞳は、血よりもなお深く、狂おしい愛に染まっていた。
……終わりか。
終わりなのか。
これで、終わりなのか。
そんなの、許せるものか。
赦してなるものか。
ユルサナイ。
絶対に。
俺が。
お前を。
──殺してみせる。
次の瞬間、世界が暗転し、
終焉が、彼の目を覆った。
◆◇◆
「………………」
どれくらい、そうしていただろう。
ソルは何も言わず、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
開く。
閉じる。
また開く。
また閉じる。
手がある。
肩もある。
足もある。
目も見える。
息もできる。
「何が起きた」
疑問が頭の中を埋め尽くした。
拾い集めた本の切れ端。
盗み聞きした知識。
無理やり頭に詰め込んできた理屈。
それらが必死に答えを導き出そうとして、脳の中でぐちゃぐちゃに絡まり合う。
自問する。
答えはない。
夢?
あれが夢?
なら、どこからが夢だった。
母が死んだところからか。
ルナが斬られたところからか。
それとも、この地下で生まれたことから、すべてが夢だったのか。
今はいつで、
ここはどこだ。
「おぎゃー、おぎゃー」
赤子の泣き声が聞こえた。
ソルの体が、ぴたりと止まる。
「…………ルナ」
「あらっ、すごいわぁ」
母の声だった。
血に濡れて消えかけた声ではない。
ルナが生まれたばかりの、まだ薬をやめきれていない頃の声。
どこか間延びしていて、のんびりと甘ったるくて、ひどく頼りない。
それでも、確かに生きている声だった。
「お母さんも同じ名前を考えてたの。やっぱり私の子ね……ふふ、この子の名前はルナで決まりね」
予知夢。
正夢。
悪夢。
いいや、違う。
「ソル、ほら。抱っこしてみて」
母が、赤子を差し出してくる。
小さな命。
まだ何も知らない妹。
ついさっき、ソルの目の前で失われた少女。
ソルは震える手を伸ばした。
そして、悟る。
――過去に、戻ってきたのだと。
この日、この瞬間。
ルナが生まれた日に。
空を知らない地下の少年は、死の果てから帰ってきた。
月が生まれた日。
太陽は、再び昇ることを知った。
次回、第二十七.一話『月と太陽の物語:第二昇』