◆◇◆
赤子の泣き声がする。
おぎゃあ、おぎゃあと、細く、頼りなく、けれど確かに生きている音が、ぼろ屋の中に響いていた。
ソルはしばらく、それが何の音なのか理解できなかった。
耳に残っているのは、岩の崩れる音だった。
肉の裂ける音だった。
喉が潰れるほど叫んだ、自分の声だった。
頬に残っているのは、母の血の感触だった。
瞼の裏に焼き付いているのは、妹が斬り刻まれる光景だった。
なのに、今、目の前には血がない。
崩落した天井もない。
穴の開いた空もない。
血の瞳をした理不尽もいない。
そこにいるのは、疲れ切った顔で笑う母と、酒臭い息を吐きながらもどこか落ち着かない父と、そして生まれたばかりの赤子だった。
「ソル、ほら、抱っこしてみて」
母が言った。
その声が、生きていた。
木柱に貫かれていない。
謝っていない。
血を吐いていない。
ただ、柔らかく笑っている。
「……」
ソルは、震える手で赤子を受け取った。
小さい。
あまりにも小さい。
壊れそうで、落としそうで、抱いているだけで怖くなるほど軽い。
けれど、温かい。
確かに、生きている。
「……ルナ」
名前が、喉からこぼれた。
母が目を丸くする。
「あらっ、すごいわぁ。お母さんも同じ名前を考えてたの。やっぱり私の子ね……ふふ、この子の名前はルナで決まりね」
夢ではない。
夢なら、こんなに喉が苦しいはずがない。
夢なら、こんなに心臓がうるさいはずがない。
夢なら、この腕の中の温もりに、ここまで怯えるはずがない。
ソルは戻ってきたのだ。
あの終わりから。
ルナが生まれた日に。
「……俺が守る」
誰に聞かせるでもなく、ソルは呟いた。
「え?」
「俺が守る。こいつを。お袋を。親父を。全部」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
誓いとは、呪いだ。
守れなかったとき、その言葉は刃になって自分を刺す。
それでも、言わなければならなかった。
言わなければ、また奪われる気がした。
腕の中でルナが泣いている。
泣いて、泣いて、泣いている。
生きている証みたいに。
だからソルは、もう一度言った。
「絶対に、守る」
◆◇◆
――最初のやり直しは、すぐに失敗した。
ソルは家から離れなかった。
母を見張り、父に酒を飲ませず、ルナの傍にいた。
未来を知っている。
何が起きるか知っている。
どこで母が死に、どこへルナが連れ去られ、どこで天井が崩れるか知っている。
知っているのだから、変えられる。
そう思った。
――愚かだった。
理不尽は、道順を変えただけだった。
家にいれば家が燃えた。
逃げれば逃げ道が塞がれた。
父を動かせば父が先に死んだ。
母を連れて走れば母が足手まといになり、ルナを抱けば両手が塞がった。
そして最後には、必ずルナが死んだ。
――死んだ。
――死んだ。
――また死んだ。
ソルは何度も、妹の名前を叫んだ。
何度も、血の中で目を覚ました。
何度も、赤子の泣き声を聞いた。
何度も、母の笑顔を見た。
何度も、父の酒臭い声に舌打ちした。
何度も、何度も、何度も。
そのたびに、ソルは理解していった。
自分一人では、足りない。
知っているだけでは足りない。
走れるだけでは足りない。
殴れるだけでは足りない。
盗めるだけでは足りない。
未来を知っているだけのガキが一匹、いくら足掻いたところで、世界の終わりには届かない。
――力がいる。
――知識がいる。
――仲間がいる。
だからソルは、ロストブルーを歩いた。
空無き大地の底を。
酒と薬と血の匂いが染み付いた路地を。
盗人と物乞いと殺し屋が同じ壁にもたれて眠る、腐った通りを。
そこで、ある名に辿り着く。
――正確には、辿り着かされた。
「最近、変な動きしてるね、ソル」
声をかけてきたのは、古いスリ仲間の女だった。
イーリス。
そう名乗っているが、古株の何人かは彼女をズィーヴァと呼ぶ。
ロストブルーの路地裏では、そちらの名の方が通りがいい。
細い指先で銅貨を弄び、笑っているのか探っているのかわからない目で、人の懐より先に本音を盗む女。
「……なんのようだ、こちとら今忙しいんだが」
「家を見張って、薬売りを追って、崩落しそうな通路を調べて、今度は古い噂を漁ってる。スリにしちゃ、ずいぶん大きいもの盗もうとしてるじゃない」
「……お前には関係ねぇ」
「あるよ。これでも昔馴染みなんだから、ほらお姉さんに教えてみ? いったい何を盗もうとしてるわけ?」
イーリスは肩を竦めた。
「……物じゃねぇ」
「じゃあ、何?」
「知恵だ」
「知恵?」
「ロストブルーで、一番物を知ってる奴の知恵がいる」
「なんだ、それなら簡単だ。アインツだよ」
即答だった。
ソルは目を細める。
「知ってるのか」
「名前だけならね。場所も、たぶん。会えるかどうかは別だけど」
「教えろ」
「貸し一つ」
「足元見るな」
「いいでしょ、腐れ縁なんだから」
イーリスは、どこか楽しそうに笑った。
「忠告しておくけど、アインツに会いに行くなら嘘は少なめにしな。あの人、どういうわけか嘘が通じないから」
◆◇◆
「アインツ」
薄暗い部屋で、ソルはその名を呼んだ。
地下のさらに奥。
地上から流れ込んだ廃材と、どこかから盗み出された古書と、用途のわからない器具が積み上げられた奇妙な空間。
その中央に、男はいた。
煤けた外套。
乾いた指先。
年齢の読めない顔。
濁っているようで、何一つ見逃さない目。
アインツは椅子に腰掛け、一冊の古びた本を閉じた。
「俺の名を知っているのか、小僧」
「知ってる」
「悪いが、俺はお前を知らん」
「だろうな」
ソルとアインツは、これが初対面だ。
顔を合わせたこともなければ、言葉を交わしたこともない。
アインツにとってソルは、どこにでもいるロストブルーの小僧の一人に過ぎない。
だが、ソルは違う。
噂を拾い、名前を辿り、ようやくここまで来た。
この掃き溜めで、未来を語れる人間がいるとすれば、この男しかいない。
「アンタに力を貸してほしい」
ソルは単刀直入に言った。
遠回しに交渉する時間が惜しい。
腹の探り合いに付き合う余裕もない。
未来は、いつも同じ速さで崩れてくるのだから。
「貸してどうする」
「ロストブルーを救う」
嘘ではない。
ただ、一番ではないだけだ。
ソルが救いたいのは、ロストブルーではない。
ルナだ。
けれど、ルナを救うためには、この地下ごと終わる未来を変える必要があるのも事実だった。
終焉を迎える未来を覆すために、この男の力が欲しい。
アインツは瞬きもしなかった。
「救えん」
「救う」
「無理だ」
「無理でもやる」
「――何度死んでもか」
その言葉に、ソルの眉がぴくりと動いた。
心臓の奥を、細い針で突かれたような感覚があった。
アインツはただ、静かにソルを見ている。
驚きもない。
嘲りもない。
ただ、試す様な色だけがあった。
ただ、見ていた。
まるで、ソルが言葉にしていないものまで、すでに読み終えているかのように。
――馬鹿げてる。
巻き戻った時を、他人が認識できるはずがない。
あの死を、あの終わりを、あの暗転の先を、知っているはずがない。
なのに。
なぜ、その言葉が出る。
問い詰めたくなる衝動を、ソルは奥歯で噛み潰した。
「何度死んでもだ」
ソルは答えた。
アインツの目が、わずかに細まる。
「なら、試してやる」
「あ?」
「お前が本当にこの場所の未来を変えるつもりなら、俺に言葉をぶつける前に証明しろ」
「証明?」
「ああ」
アインツは机の上に指を置いた。
こつん、と乾いた音が鳴る。
「――ノインを連れてこい」
その名を聞いた瞬間、部屋の空気が少し重くなった気がした。
ノイン。
それはロストブルー最強の男。
暴力が支配するこの地下で、暴力そのものとして君臨する角の生えた獣人だ。
群れない。媚びない。従わない。
ただ強い。
その一点だけで、誰もが道を開ける怪物。
「……簡単に言いやがる」
「簡単ではない。だから言っている」
アインツは淡々と続ける。
「知恵だけでは足りん。盗みだけでも足りん。情だけでも、覚悟だけでも、死ぬ勇気だけでも足りん」
「……」
「この地下は暴力でできている。ならばまず、地下で最も強い暴力を味方につけろ」
「できなきゃ?」
「俺はお前に賭けない」
「性格悪ぃな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
アインツは本を抱え直し、そこで話は終わりだとばかりに目を伏せる。
「ロストブルー最強を手懐けてみせろ、ソル。話はそれからだ」
ソルはしばらく、アインツを睨んだ。
――まだ、名乗っていない。
自分はこの男に、名前を告げていない。
だが、アインツは当然のようにその名を呼んだ。
この男は、何かを知っている。
けれど、今は何をしても語らないだろう。
なら、語らせるしかない。
そのために、試練を越える。
「……いいぜ」
ソルは踵を返した。
「連れてきてやるよ。地下最強の化け物でもなんでもな」
◆◇◆
「ノイン?」
アインツの部屋を出たあと、ソルがその名を口にすると、イーリスは露骨に嫌そうな顔をした。
「やめときな」
「知ってるのか」
「ロストブルーでノインを知らない奴は、死ぬのが早い奴だけだよ。わかってるでしょ」
イーリスは壁にもたれ、指先で盗んだ銅貨を弾いた。
「あれは無理。盗めない。騙せない。近づいたら終わり。強いとか怖いとか、そういう段階じゃない。あの男の縄張りじゃ、空気までノインに怯えてる」
「居場所は知ってるのか」
「ねぇ、話聞いてた?」
「聞いてた。で、居場所は」
「……ほんと、嫌なところだけ肝が据わってるね。あの無気力で死んだ目をしてたソルは、どこにいっちゃったの?」
イーリスはため息を吐いた。
「北の崩れ通り。昔、地上から落ちてきた建材が山みたいに積もってる区画。その奥に、獣人たちが勝手に住み着いてる場所がある」
「そこにノインがいるのか」
「いる。というより、ノインがいるから、そこが縄張りになってる」
「配下は」
「配下っていうより、群れだね。命令されてるわけじゃない。ただ、強い獣の近くに弱い獣が集まってるだけ」
「数は」
「数えたいなら自分で数えな。あたしは命が惜しいから」
イーリスは銅貨を握り込み、ソルを見た。
「……ほんとに行くの?」
「ああ」
「忠告はしたよ。ノインに会うなら、盗もうとしない。騙そうとしない。背中を見せない」
「全部苦手分野だな」
「知ってる。だから死ぬって言ってるの」
「なら、死ぬ前に場所を教えろ」
「……貸し、二つ目ね」
◆◇◆
――ノインに会うまでに、ソルは二回死んだ。
一度目は、縄張りに入る前に殺された。
ノインの縄張りは、ロストブルーの中でも特に治安の悪い区画にあった。
治安が悪い、などという言葉が冗談に聞こえるほどの無法地帯だ。
奪うために殴る。
殴るために近づく。
近づいたから殺す。
そんな連中が、路地の影にいくらでも転がっている。
ソルはノインに会う前に、背後から頭を割られて死んだ。
二度目は、ノインの配下らしき獣人に喉を裂かれた。
配下、というより、縄張りに住みついている獣たちだ。
彼らはノインに命令されているわけではない。
ただ、ノインがいるから集まっている。
強い獣の周りに、弱い獣が寄る。
それだけのことだ。
三度目で、ようやくノインに会えた。
大きな男だった。
獣人、なのだろう。
だが、何の獣かは一目ではわからない。
獅子を思わせる、金に近い褐色の鬣めいた髪。
岩を砕くために生まれてきたような分厚い腕。
傷だらけの肉体に、牙と爪。
そのくせ、額からは獅子には似つかわしくない角が伸びている。
猛獣のようで、鬼のようで、あるいはそのどちらでもない。
ただ、その体躯だけは間違いなく獣のそれだった。
勝てない。
こいつには勝てない。
「お前がノインか」
ソルが言うと、ノインは片目だけを開いた。
「誰だ、テメェ」
唸るような声だった。
それだけで、空気が低く震えた。
「ソル」
「あぁ? 知らねぇ名だな」
「だろうな」
「……で?」
ノインの片角が、薄暗がりの中でぎらりと浮いた。
獣のような体躯が、一歩、前に出る。
「名乗りに来ただけなら、帰れ。喧嘩売りに来たんなら、かかってこい」
「用件は一つだ」
「言えよ」
「俺の仲間になれ」
――次の瞬間、ソルの体は壁に叩きつけられていた。
何をされたのか、わからなかった。
ノインが立ち上がったことは見えた。
拳が動いたことも、多分見えた。
だが、それだけだ。
気づいたときには、肺が潰れ、肋骨が折れ、口から血が溢れていた。
「寝言は寝て言え」
その声を最後に、ソルは死んだ。
◆◇◆
――四度目。
ソルは距離を取った。
正面から挑めば死ぬ。
なら、罠を使う。
地面に穴を掘り、路地の上に瓦礫を積み、逃げ道を決め、遠距離から仕掛ける。
結果、死んだ。
ノインは罠を踏まなかった。
踏む必要もなかった。
罠の位置ごと壁を砕き、瓦礫ごとソルを吹き飛ばした。
――五度目。
毒を使った。
死んだ。
――六度目。
情報を集めた。
死んだ。
――七度目。
どれだけ強かろうと、腹が減れば鈍る。
獣人だろうと、怪物だろうと、生き物である以上、食わなければ弱る。
だからソルは、ノインの食事に手を出した。
盗む。
腐らせる。
すり替える。
食わせない。
殺せなくてもいい。
一日でも、半日でも、一瞬でもいい。
あの怪物の動きが鈍れば、それで勝ち筋が生まれる。
そう考えた。
それすらできずに、また殺される。
そう思った、その前に――ツヴァイという女に殴られた。
細い腕だった。
けれど、動きが速い。
猫のようにしなやかで、こちらの懐に滑り込むのが異様に上手い。
ノインではない。
その隣にいた女が、ソルを止めた。
そして、ノインが初めて怒った。
ソルは、ノインの拳で死んだ。
◆◇◆
――八度目。
「ツヴァイ?」
その名を出した途端、イーリスの指先から銅貨が消えた。
「……どこでそれ聞いたの」
「ノインの隣にいた」
「会ったんだ」
「殴られた」
「よく生きてたね」
「そのあとノインに殺された」
「……笑えない冗談」
「冗談じゃねぇからな」
イーリスは少しだけ黙った。
いつもの軽い笑みが、薄くなる。
「で? 何が知りたいの」
「あの女は何だ」
「猫」
「は?」
「猫みたいな子。飼われてるわけじゃない。従ってるわけでもない。でも、ノインの隣にいる」
「
「違う」
「部下か」
「違う」
「家族か」
「それも、ちょっと違う」
「じゃあ何だ」
「泣き所」
イーリスは短く言った。
「いや、逆鱗かな」
「……」
「手、出さないでよね」
「出したら?」
「死ぬ。あたしもアンタも、みぃーんな」
「……もう死んだ」
「なら次はもっとひどく死ぬね」
イーリスは銅貨を握り直し、ソルを見た。
「ノインを動かしたいなら、ツヴァイを利用しようだなんて考えないことだよ」
「ならどうする」
「さぁ、とりあえず観察でもしてみれば?」
「随分適当だな」
「そりゃあ、あたし関係ないし」
「……」
「冗談だよ、冗談。腐れ縁が無駄死にすると、寝覚めが悪いしね」
「嘘つけ」
「うん、嘘」
イーリスは笑った。
けれど、目だけは笑っていなかった。
「でも忠告は本当。あの子を利用したら、ノインは絶対にアンタを許さない」
◆◇◆
ツヴァイを観察した。
イーリスに言われたから、というわけではない。
他に手がなかっただけだ。
だが、見ているうちに、イーリスの言っていた意味が少しずつわかってきた。
恋人ではない。
そういう甘さはなかった。
主従でもない。
ツヴァイはノインに怯えていないし、ノインもツヴァイに命じない。
家族というにも、少し違う。
もっと動物的な関係だった。
ノインは獅子。
ツヴァイは猫。
ノインは守る。
ツヴァイは隣にいる。
ノインの怒りが荒ぶるとき、ツヴァイは近づかない。
ノインが黙っているとき、ツヴァイは隣で丸くなる。
ツヴァイは弱い。
少なくとも、ノインと比べれば。
けれど、ノインの隣にいることだけは許されている。
それが不思議だった。
◆◇◆
「お前、なんであいつの隣にいられるんだ」
九度目の回帰で、ソルはツヴァイにそう尋ねた。
場所はノインの縄張りの端。
崩れた壁の上に腰掛け、ツヴァイは干し肉を小さく齧っていた。
猫のような耳がぴくりと動く。
「ノインのこと?」
「ああ」
「なんでって?」
「怖くねぇのか」
「ノインは、こわくない」
ツヴァイは即答した。
ソルは鼻で笑う。
「怖くない? あの化け物が?」
「うん。こわいのは、ノインが怒ることをするやつ」
「同じだろ」
「違うよ」
ツヴァイは干し肉をもう一口齧る。
それから、遠くにいるノインを見た。
ノインは路地の中央に座っていた。
誰も近づかない。
誰も話しかけない。
ただそこにいるだけで、周囲の暴力が沈黙している。
「ノインはね、守るものを間違えないもん」
「……守る?」
「うん」
「壊す、の間違いじゃねぇのか」
「壊すよ」
ツヴァイはあっさり頷いた。
「ノインは強いから。怒ったら、なんでも壊す。でも、壊していいものしか壊さない」
「誰が決めるんだよ、それ」
「ノイン」
「暴君じゃねぇか」
「そうだよ」
ツヴァイは小さく笑った。
「でも、ノインの縄張りで、ノインが守るって決めたものは守られる」
「……」
「だから、みんなここにいるんだよ。怖いから。守ってほしいから。ノインが怖いんじゃなくて、ノインがいない場所の方が怖いから」
ソルは黙った。
ロストブルーでは、強さは災害だ。
強い奴が奪う。
強い奴が殺す。
強い奴が笑う。
だが、ノインは違うのか。
いや、違わない。
ノインも奪うし、殺すし、壊す。
だが、その暴力には線がある。
縄張り。
群れ。
守るもの。
それを理解しない限り、ノインには届かない。
「……あいつは、何を守ってる」
ソルが問う。
ツヴァイは首を傾げた。
「ここ」
「この腐った場所を?」
「うん」
「なんで」
「ノインがいるから」
「答えになってねぇ」
「なってるよ」
ツヴァイは笑った。
「ノインは、ノインがいる場所を守るの」
その答えは、単純すぎて、ひどく獣じみていた。
けれど、だからこそ本質だった。
◆◇◆
――十度目。
ソルはノインを倒すことをやめた。
罠も毒も奇襲も、すべて捨てた。
代わりに、ノインの縄張りを歩いた。
誰が何を恐れているのか。
誰がノインの名を使って好き勝手しているのか。
誰がツヴァイに手を出そうとしているのか。
誰が縄張りの外から獣を連れ込んでいるのか。
見た。
聞いた。
盗んだ。
殺した。
そして、ノインの前に死体を投げた。
「こいつら、お前の名前で女を攫ってたぞ」
ノインは死体を見下ろした。
「……」
「お前の縄張りで、お前の名を使って、お前の知らねぇところで好き勝手してた。守るものを間違えないんじゃなかったのか?」
空気が凍った。
次の瞬間、ノインが動いた。
ソルは死ぬと思った。
だが、拳はソルではなく、死体の頭を叩き潰した。
「誰だ」
ノインの声は低かった。
「他に関わった奴は」
「知りたいなら教える」
「吐け」
「条件がある」
「あぁ?」
ノインはソルを睨んだ。
長い沈黙。
それから、獅子は笑った。
「テメェ、死にてぇのか?」
「俺の話を聞け。簡単だろ」
「はっ」
ノインは牙を覗かせるように口角を上げた。
「いいぜ。聞くだけ聞いてやる」
初めてだった。
ノインが、ソルの言葉を聞いたのは。
◆◇◆
――十一度目。
交渉は失敗した。
ノインは話を聞いた。
だが、仲間にはならなかった。
「ロストブルーを救う? 笑わせんな」
「笑い話じゃねぇからな」
「なら尚更だ」
ノインは鼻で笑った。
「救うってのは、何をだ。ここにいる奴らをか? 酒に溺れて、薬に沈んで、弱い奴から奪って、それでも自分は被害者だって顔してる連中をか?」
「全部だ」
「無茶言いやがる」
ノインの目が、冷たく細まる。
「テメェのそれは、薬で頭やられた奴が見る夢と大差ねぇ。不可能だ」
「無理でもやる」
「なら、勝手にやれ」
ノインはそう言った。
「俺は俺の縄張りを守る。それ以上は知らねぇ」
「……それじゃ足りねぇんだよ」
「あ?」
「それじゃあ――何も変わらねぇ」
ソルは食い下がった。
――殴られた。
立ち上がった。
――また殴られた。
また立った。
最終的に、ノインは言った。
「しつけぇ」
「よく言われる」
「次来たら殺す」
「……もう、何度も殺されてるんだがな」
「あ?」
「なんでもねぇよ」
結果、次に殺された。
◆◇◆
――十二度目。
ソルはツヴァイを救った。
それは偶然ではない。
何度も繰り返したから、起きることを知っていた。
ノインの縄張りに流れてきた外の獣人たち。
彼らはノインを恐れ、同時に妬んでいた。
狙うならノイン本人ではない。
ツヴァイだ。
彼女を攫えば、ノインは怒る。
怒れば動きが荒くなる。
荒くなれば、罠にかかる。
そういう浅い策だった。
だが、浅くてもツヴァイには届く。
だからソルは先回りした。
暗い路地の中、ツヴァイの背後に伸びた手を、ソルは短刀で裂いた。
「――っぎゃああ!」
「手癖が悪いな。スリならもっと静かにやれよ」
「テメェ、誰だ!」
「通りすがりのスリだよ」
数は多かった。
正面からやれば勝てない。
だから逃げた。
ツヴァイの手を引いて、細い路地を駆けた。
猫のような女は、意外にも足が速かった。
「こっち!」
「お前が案内するのかよ」
「ここ、わたしの道だもん」
「なら最初から逃げろ!」
「逃げる前に捕まりそうだったんだもん!」
二人は走った。
追手が迫る。
ツヴァイが壁を蹴る。
ソルが瓦礫を落とす。
路地を曲がり、下水に潜り、崩れた階段を抜ける。
そして最後に、ノインの前へ飛び出した。
追手たちはそこで止まった。
止まるのが遅すぎた。
ノインが立っていた。
獅子が、牙を剥いていた。
その後のことは、ソルですら思い出したくなかった。
ただ一つわかったのは、ノインが守ると決めたものに手を出した者は、ロストブルーでは生きていられないということだった。
◆◇◆
「余計な真似しやがって」
騒ぎが終わった後、ノインはソルに言った。
ツヴァイはノインの後ろで、膝を抱えて丸くなっている。
「礼くらい言えねぇのか」
「頼んでねぇ」
「そうかよ」
「……何が目的だ、テメェ」
「お前が必要なんだ」
「またそれかよ。いい加減、しつけぇぞ」
「ああ、よく言われる」
ソルは、血のついた手を布で拭う。
「――ロストブルーが終わる」
ノインの目が細まった。
ソルは続ける。
「いつか、じゃねぇ。もうすぐだ。天井が崩れる。空が落ちる。ここにいる奴らはみんな死ぬ」
「テメェ、占い師にでもなったのか」
「似たようなもんだ」
「はっ。笑えねぇ冗談だな。俺が信じると思ってんのか」
「思ってねぇ」
「あぁ? ならなんで言う」
「言わなきゃ始まらねぇからだ」
ノインはソルを見ていた。
獣の目。
だが、その奥にあるのはただの獣性ではない。
守るものを持つ者の目だ。
「お前は、この縄張りを守るんだろ」
「……」
「なら、縄張りごと潰れる未来を黙って見てろってのか」
ノインは答えなかった。
ソルは続ける。
「俺一人じゃ足りねぇ。アインツがいても足りねぇ。知恵だけじゃ無理だ。暴力がいる」
「俺を暴力扱いか」
「違うのか?」
ノインは鼻を鳴らした。
「違わねぇな」
「なら来い」
「テメェ、俺に命令してんのか」
「頼んでる」
「頼む態度じゃねぇだろ」
「苦手なんだよ」
沈黙。
やがて、ツヴァイが顔を上げた。
「ノイン」
その声は小さかった。
けれど、ノインには届いた。
「この人、変だよ」
「見りゃわかる」
「でも、嘘は言ってない気がする」
「お前の勘は当てにならねぇ」
「ノインの勘よりは当たるよ」
「言うようになったじゃねぇか」
ツヴァイは少し笑った。
それから、ソルを見る。
「ソルは、何を守りたいの?」
「妹」
即答だった。
「それだけ?」
「それだけだ」
ルナを救う。
それが始まりで、今も一番だ。
ロストブルーを救いたいなんて、綺麗事を本気で言っているわけじゃない。
だが、ルナを守るために必要なものがある。
ノイン。
ツヴァイ。
アインツ。
イーリス。
「……それだけだが、妹を救うために、必要なもんが増えた」
「必要なもの?」
「妹だけ抱えて逃げりゃ終わるほど、もう単純じゃねぇ」
ノインが、初めて笑った。
嘲笑ではなかった。
「馬鹿だな、お前」
「あぁ」
「守るもんを増やす奴は、死ぬぞ」
「知ってる」
「知らねぇよ。お前は」
ノインは立ち上がる。
その巨体が影を落とした。
「守るってのはな、壊すことだ。近づく奴を壊す。奪う奴を壊す。傷つける奴を壊す。そうやって初めて守れる」
「なら壊せばいい」
「いつか、自分が守ってるもんまで壊す」
「……」
「俺はそれを知ってる」
ノインの声には、奇妙な重みがあった。
ロストブルー最強。
その名の下に、どれだけのものを砕いてきたのか。
ソルにはわからない。
だが、ツヴァイがノインの袖を握った。
ノインはそれ以上言わなかった。
「だから俺は、俺の縄張りだけでいい」
「違うな」
「あ?」
「お前は怖いだけだ」
空気が凍る。
ツヴァイが息を呑む。
ノインの目が、獣そのものになる。
「もう一度言ってみろ」
「お前は、自分の暴力が怖いんだ。守るものを増やせば、壊すものも増える。いつか守るものまで壊すかもしれない。だから縄張りの中だけで満足してる」
「黙れ」
「失うのが怖いんだろ」
ソルは笑った。
「最強が聞いて呆れるぜ」
次の瞬間、ソルは殴られた。
骨が折れる音がした。
地面を転がり、壁に激突し、肺から空気が抜ける。
それでも、意識は残っていた。
ノインが近づいてくる。
「死にたいのか」
「違う」
「なら黙れ」
「黙らねぇ」
ソルは血を吐きながら笑った。
「俺には、お前が必要だ」
「俺は必要としてねぇ」
「嘘つけ」
「何?」
「お前は、守る場所が欲しいんだろ」
ノインの足が止まった。
「縄張りじゃない。ツヴァイだけでもない。もっとでかい、守るに値する何かが欲しいんだろ。だから怒ってんだ。だから壊してんだ。だから、ここにいる」
ソルは立ち上がろうとする。
足が震える。
視界が赤い。
頭がぐらつく。
だが、倒れない。
「俺が作る」
「……」
「お前が守るに値するロストブルーを、俺が作る」
ノインは黙っている。
「だから来い、ノイン」
ソルは手を伸ばした。
震える手だった。
血に濡れた、頼りない手だった。
「俺の理想に足りねぇ力を、お前が担え」
沈黙が落ちた。
長く、重い沈黙だった。
やがてノインは、ゆっくりと息を吐く。
「……小僧」
「あ?」
「お前、何回死んだ」
ソルは目を細めた。
「どういう意味だ」
「その目だ。生きてる奴の目じゃねぇ。何度も折れて、何度も潰れて、それでもまだ立ってる奴の目だ」
「……さあな、数えるのは途中でやめた」
「そうか」
ノインは笑った。
今度は、確かに笑った。
「なら、これからは俺が数えてやる」
「……それは仲間になるって意味か」
「勘違いすんな」
ノインはソルの手を取らなかった。
代わりに、その横を通り過ぎた。
「俺はお前に従うんじゃねぇ。お前を王とも呼ばねぇ、だが」
ノインは振り返る。
獅子の目が、ソルを射抜いた。
「テメェがどこまで行けるのか、俺が見届けてやる」
ソルは笑った。
血まみれで、傷だらけで、立っているのもやっとで。
それでも、笑った。
「十分だ」
ツヴァイがぱっと顔を上げる。
「じゃあ、ソルもノインの群れ?」
「群れじゃねぇ」
ノインが即座に言う。
「えー」
「群れじゃねぇ」
「でも一緒に行くんでしょ?」
「一時的にだ」
「じゃあ群れだよ」
「違う」
ツヴァイは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ソルは少しだけ目を伏せる。
何度も死んだ。
何度も折られた。
何度も、無理だと思った。
けれど、ようやく手に入れた。
地下最強の暴力。
守るものを間違えない獣。
ノイン。
これで、アインツの試練を越えた。
――だが、ソルはまだ知らない。
これは始まりでしかないのだということを。
暴力を手に入れても、世界は救えない。
最強を味方にしても、理不尽には届かない。
仲間が増えれば増えるほど、失うものも増えていく。
それでも、この瞬間だけは。
空無き大地の底で、確かに一つ、未来が変わった。
◆◇◆
アインツの部屋へ戻ると、男は待っていた。
まるで、最初から結果を知っていたように。
ソルの後ろにはノインがいる。
さらにその後ろには、当然のような顔でツヴァイもいる。
アインツは三人を見て、薄く目を細めた。
「連れてきたか」
「見りゃわかるだろ」
「ノイン」
アインツが名を呼ぶ。
ノインは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「テメェの差し金か」
「小僧がこの場所を救うと言った。なら、まずはお前を動かしてみせろと言ったまでだ」
「気に食わねぇな」
「そうか、俺もお前に好かれたいとは思っていない」
「殺すぞ」
「やめとけ。手間が増える」
静かな会話だった。
だが、そこには互いを知る者の距離感があった。
この二人は初対面ではない。
ソルはそう直感した。
アインツは視線をソルへ戻す。
「よくやった」
「褒められても嬉しくねぇよ」
「なら次だ」
「……――は?」
ソルの顔が歪む。
アインツは、当然のように言った。
「暴力だけでは救えん。次は、呪いを学べ」
ノインが喉を鳴らして笑う。
ツヴァイが首を傾げる。
ソルは、心底うんざりした顔でアインツを睨んだ。
「アンタ、ほんと性格悪いな」
「ああ」
アインツは否定しなかった。
「次の試練だ。フューリーから呪術を学べ」
その名を聞いた瞬間、ソルは知らないはずの未来を、また一つ背負わされたような気がした。
フューリー。
聞いたことのない名だった。
だが、アインツがその名を口にした以上、ただの相手ではないのだろう。
彼女に会うことになる。
そしてまた、ソルは時間を繰り返すことになるのだろう。
知恵だけでは足りない。
盗みだけでも足りない。
暴力だけでも、まだ足りない。
この地下の終わりを変えるには、まだ届かない。
だから、学ぶ。
死ぬためではない。
諦めるためでもない。
学ぶために。
未来を盗むために。
空無き大地の太陽になるために。
「……いいぜ」
ソルは黒いマフラーを握り締めた。
「やってやるよ。何度でもな」
アインツは何も言わなかった。
ただ、その古びた本の表紙を、静かに撫でた。
まるで、そこに記された未来が、ほんの少しだけ書き換わったことを確かめるように。
◆◇◆
ノイン
ロストブルー最強の男。獅子を思わせる鬣と体躯、牙や爪を持ちながら、額には角があり、何の獣人なのかは判然としない。荒く、短気で、喧嘩っ早いが、身内への情は深い。
ツヴァイのことを特別に気にかけており、彼女に手を出す者には容赦しない。
ソルのことは、気に入らないが目を離せない男だと思っている。死に急ぐような目も、何度倒れても諦めないしつこさも癪に障る。だが、ただの馬鹿ではないと認めている。従う相手ではないが、隣でどこまで行けるか見届けるつもりでいる。
ツヴァイ
ロストブルーに生きる女。身軽で警戒心が強く、誰かに縛られることを嫌う。一度懐に入れた相手には静かに寄り添う情の深さもある。
ノインのことは特別に信頼しており、彼のそばにいることで生き延びてきた。
ソルのことは、最初は危うくて信用しきれない男だと思っていたが、諦めずに何度も立ち上がる姿と、ロストブルーを救おうとする無茶な願いを見て、少しずつ目を離せなくなる。彼が諦めない限り、自分も彼の手伝いをするつもりでいる。