◆◇◆
ロストブルーにおいて、強いということは、それだけで正義だった。
もちろん、そんなものは綺麗な意味ではない。
誰もが納得する大義でもなければ、胸を張って掲げる理念でもない。
ただ、強ければ奪われない。
強ければ殺されない。
強ければ道を開けられる。
そういう、獣じみた単純な理屈だった。
故に、ロストブルー最強の男、ノインを連れてアインツの元へ戻ったとき、ソルは内心で少しだけ思っていた。
これで話が進む、と。
アインツは、ノインを連れてこいと言った。
最強を手懐けろと言った。
この地下で最も強い暴力を味方にしろと言った。
だから、その試練を越えたのなら、次はアインツが力を貸す番だ。
そうでなければ筋が通らない。
そう思っていた。
甘かった。
「次は、呪いを学べ」
アインツは当然のように言った。
その言葉を聞いた瞬間、ソルは本気でこの男の顔面を殴ろうかと思った。
「……あ?」
「聞こえなかったか。呪いを学べと言った」
「いや、聞こえたよ。だから聞き返したんだよ。お前、今なんつった?」
「呪いを学べ」
「その前に言うことがあるんじゃねぇのか」
「よくやった」
「雑だな」
「おめでとう」
「そういうことじゃねぇよ」
薄暗い部屋に、ソルの苛立った声が響く。
壁際では、ノインが腕を組んで面白そうにそのやり取りを見ていた。
ツヴァイはノインの隣で、どこか眠たそうにしながらも、時折ソルとアインツを見比べている。
アインツはいつもの椅子に腰掛け、古びた本を膝に置いていた。
その本の正体を、ソルはまだ知らない。
ただ、それが普通の本ではないことだけはわかっていた。
ロストブルーの湿気にも、埃にも、血にも、時間にも侵されないような、不気味な存在感がある。
アインツはその表紙を指先で撫でながら、視線だけをソルに向ける。
「ノインを連れてきた。それは評価しよう」
「だったら――」
「だが、暴力だけでは救えん」
遮るように、アインツは言った。
その声は静かだった。
静かで、冷たくて、反論の余地を最初から潰すような声音だった。
「この地下は暴力でできている。だから、まず暴力を味方につける必要があった。だが、それだけでは足りない」
「……」
「お前が相手にするのは、路地裏の喧嘩自慢ではない。酔っ払いでも、盗賊でも、縄張り争いでもない」
アインツの目が、わずかに細くなる。
「ロストブルーそのものを潰す災厄だ」
ソルの眉が、わずかに動いた。
まるで、見てきたような口ぶりだった。
その未来を知っているのは、自分だけのはずだ。
なのにアインツは、驚くほど迷いなく言い切った。
なぜ、そこまで知っている。
問い質したい衝動を、ソルは奥歯で噛み潰した。
今はまだ、この男に答えさせるだけの手札がない。
だが、ノインを仲間にしただけで届くのなら、ここまで来る必要などなかった。
「ただ殴れば勝てる相手ではない」
「……で、その呪いってのはなんだ」
「フューリーに学べ」
「誰だよ」
「呪術師だ」
「ロストブルーに、そんなまともな術師がいるのか」
「まともではない。だが、優秀だ」
アインツは短く言った。
「そして、お前に必要なものを教えられる」
「何を」
「力の扱い方だ」
ソルの眉が動く。
「力ならある」
そう言って、ソルはノインを見る。
「あるだけでは意味がない」
アインツの返答は鋭かった。
「お前は今、盗みで培った悪知恵と、多少の度胸で無理やり未来に食らいついているに過ぎない。ノインを動かしたことで暴力は得た。だが、お前自身はまだ弱い」
「……随分はっきり言いやがる」
「事実だからな」
アインツは淡々と続ける。
「お前は、敵が見えれば戦える。殴られれば避けようとする。奪われれば取り返そうとする。だが、それでは遅い」
「遅い?」
「失ってから学ぶ者は、失う前に救うことができない」
ソルは黙った。
その言葉は、不快なほど正しかった。
ソルは失敗して学ぶ。
どこで崩れるか。
誰が死ぬか。
何が間違いだったのか。
どうすれば、一秒だけ先へ進めるのか。
失って、戻って、積み上げる。
だがそれは、失わなければ学べないということだ。
誰かが死んでからでなければ、正解を知れないということだ。
「呪いは、予測を補う。力を補う。手数を補う。お前が見えないものに触れ、届かないものへ干渉するための技だ」
「……」
「学べ、ソル」
アインツは、初めてソルの名を強く呼んだ。
「お前が本当に未来を変えるつもりなら、暴力を味方につけるだけでは足りん。呪いを学び、力を制御しろ」
沈黙。
ソルはノインを見る。
ノインは何も言わない。
好きにしろと言わんばかりに、壁へ背を預けている。
ツヴァイは首を傾げた。
「呪いって、こわい?」
「怖いに決まってるだろ」
ソルが答えると、ツヴァイは「そっか」と呟いた。
「でもソル、怖くてもやるんでしょ?」
迷いのない言葉だった。
ソルは少しだけ黙り、それから息を吐く。
「……ああ」
怖いかどうかで選べるほど、もう身軽ではない。
「連れてけ、アインツ」
「場所は教える」
「案内しねぇのかよ」
「フューリーは人見知りだ。俺がついていくと、余計に怯える」
「面倒くせぇ女だな」
「お前ほどではない」
「言ってろ」
ソルは黒いマフラーを巻き直す。
「学んでやるよ。呪いでもなんでもな」
アインツは頷いた。
それが、第二の試練の始まりだった。
◆◇◆
フューリーの住処は、ロストブルーの中でも特に日当たりの悪い場所にあった。
日当たり、と言っても本物の太陽などない。
地下の天井に埋め込まれた陽光結晶が、無機質な光をまばらに降らせているだけだ。
その光すら届かないような路地の奥。
崩れかけた石壁と、錆びた鉄骨と、誰かが捨てた布切れの山の向こう。
そこに、フューリーはいた。
最初、ソルはそこが住処だと気付かなかった。
小屋というにはあまりにも小さい。
倉庫というにはあまりにも汚い。
人が住むには、あまりにも湿っている。
入り口には、無数の紐が垂れていた。
骨片。小瓶。石。乾いた草。
それらが紐に結ばれ、風もないのに微かに揺れている。
「趣味が悪ぃな」
ソルが呟くと、隣にいたツヴァイが鼻をひくつかせた。
「へんな匂い」
「毒か?」
「ううん。薬草と、血と、古い石」
「十分嫌だな」
ノインはついてきていない。
曰く、呪いは嫌いだ、とのことだった。
ツヴァイは勝手についてきた。
ノインが止めなかったので、ソルも止めなかった。
入り口の前で、ソルは扉を叩く。
返事はない。
もう一度叩く。
返事はない。
「おい、開けるぞ」
そう言って扉に手をかけた瞬間、内側から小さな悲鳴が聞こえた。
「ひゃっ……!? ま、待って、待ってください! 今、今片付けますからっ……!」
ばたばたと物音がした。
何かが落ちる。
何かが割れる。
小さく「ひぅ」と情けない声が漏れる。
ソルは半眼になる。
「……本当に優秀なのか?」
「かわいい声」
「聞いてねぇよ」
しばらくして、扉がほんの少しだけ開いた。
隙間から覗いたのは、灰色がかった髪の女だった。
年齢はソルより上だろう。
大人の女ではある。
だが、その雰囲気は妙に頼りない。
長い前髪の隙間から、怯えたような目がこちらを見ている。
肩をすぼめ、扉の陰に半分身を隠し、今にも「やっぱり帰ってください」と言いそうな顔をしていた。
「あ、あの……どちら様、でしょうか……?」
「ソル」
「そ、ソルさん……?」
「アインツから来た」
その名を出した瞬間、フューリーの表情が変わった。
怯えが完全に消えたわけではない。
だが、何かを察したように、彼女は扉を少しだけ大きく開く。
「アインツさんから……ということは、もしかして」
「そうだ」
「……そう、ですか」
フューリーは目を伏せた。
その顔に浮かんだのは、困惑でも拒絶でもない。
悲しみだった。
ソルは眉をひそめる。
「なんだその顔」
「いえ……」
「言えよ」
「……アインツさんは、いつもそうです。必要なことだからって、人に辛いことをさせます」
「アンタも被害者か」
「いえ。私は協力者です」
フューリーは、小さな声でそう言った。
「協力者だからこそ、止められないんです」
扉が開く。
中は、外から見たより広かった。
壁一面に紙が貼られ、床には魔法陣とも呪印ともつかない図形が刻まれている。
棚には小瓶、骨、魔瘴石らしき黒い欠片、乾燥した草、古い布、錆びた針。
そして、部屋の中央には机があった。
散らかっている。
だが、乱雑ではない。
無数の資料と道具が、彼女だけにわかる秩序で積み上がっている。
ここは、研究室だ。
そうソルは理解した。
「入ってください。狭いですけど……あっ、でもそこの紐には触らないでください。呪い返し用なので、触ると三日くらい悪夢を見ます」
「物騒だな」
「あと、そこの黒い石は素手で触らないでください。瘴気に慣れてないと吐きます」
「そんなもん、放っといていいのかよ」
「はい、私は慣れてますから」
「……意外と図太いな、アンタ」
フューリーは困ったように笑った。
「そう見えないようにしているだけです」
その言葉に、ソルは少しだけ目を細めた。
この女は弱そうに見える。
声も小さい。
態度も控えめ。
人と争うことに向いていない。
だが、ここはロストブルーだ。
弱いだけの人間が、こんな場所で呪術師として生き残れるはずがない。
ソルは席につき、単刀直入に言う。
「呪術を教えろ」
フューリーは、予想していたように頷いた。
「はい。ただし、一つだけ約束してください」
「内容による」
「人を殺すためだけには使わないでください」
「……」
ソルは黙った。
フューリーは怯えながらも、目を逸らさなかった。
「呪術は人を傷つけられます。殺せます。苦しめられます。普通の魔法よりも、もっと陰湿に、もっと深く。でも、それだけじゃないんです」
「何ができる」
「守ることもできます。隠すことも、癒すことも、追跡することも、壊れたものの原因を探ることも。呪いは、誰かの悪意や苦しみを形にしたものです。だから、正しく扱えば、その苦しみを解くこともできます」
「綺麗事だな」
「はい」
フューリーはあっさり認めた。
「でも、綺麗事を捨てた呪術師は、ただの人殺しです」
その言葉は、細い声なのに妙に重かった。
ソルは少し笑う。
「俺がそのただの人殺しだったらどうする」
「……教えません」
「アインツの紹介でも?」
「教えません」
「脅したら?」
「抵抗します」
「勝てるのか」
「勝てません」
「なら意味ねぇだろ」
「それでも、嫌なものは嫌です」
フューリーの指は震えていた。
けれど、声は震えなかった。
「私は、人殺しが好きじゃありません」
ロストブルーで、その言葉を聞くとは思わなかった。
人殺しが好きじゃない。
そんな当たり前のことが、この地下では奇跡みたいに聞こえる。
ソルは深く息を吐いた。
「俺は人を殺す」
「……」
「必要なら殺す。邪魔なら殺す。ルナを守るためなら、たぶん何人だって殺す」
「そう、ですか」
「でも」
ソルはフューリーを見る。
「殺すためだけに学ぶわけじゃねぇ」
フューリーの目がわずかに揺れた。
「守るためだ。妹を。家族を。ロストブルーを。……たぶん、そういうことになった」
「たぶん?」
「まだ慣れてねぇんだよ。守りるものが増えるのに」
フューリーはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「わかりました」
「いいのか」
「はい」
彼女は机の上から黒い石を一つ取り上げる。
――魔瘴石。
ソルはその名を知らなかったが、見ただけで理解した。
普通の石ではない。
その中に、淀んだ力が沈んでいる。
「では、最初の授業です」
フューリーは言った。
「呪術とは、瘴気に意図を与える技術です」
◆◇◆
授業は、思っていたより地味だった。
最初から不可思議な力が使えるわけではない。
まずは座る。
呼吸を整える。
魔瘴石に触れる。
吐く。
吐く。
また吐く。
「……気持ち悪ぃ」
「最初はそうなります。瘴気はマナと違って、人の体に優しくありません」
「優しい力なんかロストブルーにあるかよ」
「ありますよ」
「どこに」
「人の手とか」
「……」
「冗談です」
フューリーは真面目な顔で、時々よくわからないことを言う。
それが天然なのか、緊張をごまかしているのか、ソルには判断できなかった。
授業は基礎から始まった。
瘴気とマナの違い。
ゲートを通す魔法と、外部の力を流用する呪術の差。
魔瘴石に残る負の残滓。
感情と呪いの結びつき。
術式に意図を固定する方法。
ソルは覚えた。
覚えようとした。
だが、足りない。
フューリーの説明は丁寧だった。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
それでも、呪術は一朝一夕で身につくものではない。
一つの印を覚えるのに一日。
一つの術式を理解するのに三日。
瘴気を体に通して吐かないようになるのに五日。
ロストブルーの崩壊まで、時間はない。
あまりにもない。
ソルは焦った。
焦れば、フューリーは止めた。
「急がないでください」
「急がなきゃ間に合わねぇ」
「急げば壊れます」
「壊れたら戻せばいい」
「戻らないものもあります」
「それでもだ」
ソルは何度も無理をした。
魔瘴石を握りすぎて指先が黒ずんだ。
瘴気を吸い込みすぎて、半日吐き続けた。
術式を間違えて、左腕の感覚を失ったこともある。
フューリーはそのたびに怒った。
怒る、と言っても声を荒げるわけではない。
ただ、眉を下げて、泣きそうな顔で言うのだ。
「ソルさん。自分の体を道具みたいに扱わないでください」
「道具だろ」
「違います」
「目的のために使うもんだ」
「違います」
「じゃあなんだよ」
「あなたです」
ソルは言葉に詰まった。
「あなたの体は、あなたです。壊したら痛いんです。痛くなくても、壊れているんです」
「……痛みなら慣れてる」
「慣れないでください」
フューリーは、そう言った。
「お願いですから、慣れないでください」
ソルは、返事をしなかった。
そんな願いを聞けるほど、彼には余裕がなかった。
◆◇◆
十日が経った。
ソルは基礎術式を三つ覚えた。
瘴気の抽出。
瘴気の固定。
簡易結界。
上出来だとフューリーは言った。
だが、ソルは知っていた。
足りない。
これでは足りない。
救済の魔女には到底届かない。
崩落は止められない。
ルナを救えない。
その日の授業が終わった後、ソルは一人で路地に出た。
空のない天井を見上げる。
陽光結晶が、今日も無機質に輝いている。
朝も夜もない光。
生きている者のマナを吸い上げて、偽物の昼を作り続ける結晶。
時間は流れている。
ソルが一つ術式を覚える間にも、未来は破滅へ近づいている。
これでは間に合わない。
なら、どうする。
簡単だ。
――時間を増やせばいい。
ソルは短刀を抜いた。
刃こぼれした、粗末な短刀。
何度も使った。
何度も人を刺した。
何度も自分の血で濡らした。
柄を握る手に、迷いはなかった。
死ぬのは怖い。
いつだって怖い。
だが、間に合わない方が怖い。
ルナが死ぬ方が怖い。
母が血を吐く方が怖い。
また何もできずに終わる方が、ずっと怖い。
「……次は、もっと早く覚える」
ソルは呟いた。
そして、短刀を自分の喉へ押し当てた。
◆◇◆
「では、最初の授業です」
フューリーは言った。
「呪術とは、瘴気に意図を与える技術です」
「知ってる」
「え?」
戻ってきた。
初日のフューリーの部屋。
机の上の魔瘴石。
壁の紙。
震える指先。
困ったような顔。
ソルは椅子に座り、フューリーを見る。
「瘴気とマナの違いからだろ。ゲートを介する魔法と、外部の力を流用する呪術。魔瘴石に残る負の残滓。感情と呪いの結びつき。術式に意図を固定する方法」
フューリーが固まった。
「……え、あの」
「早く次に行け」
「え、ええ?」
「基礎はわかってる」
「ど、どこで……?」
「いいから」
フューリーは困惑した。
当然だ。
彼女にとっては初対面なのだから。
だが、ソルに説明している時間は惜しかった。
フューリーはおろおろしながらも、授業を進めた。
一日目で三日分進んだ。
二日目で十日分進んだ。
三日目には、ソルは前回の自分を越えた。
そして、また壁にぶつかった。
複合術式。
瘴気の圧縮。
呪印の同時展開。
わからない。
時間が足りない。
だから、また死んだ。
◆◇◆
何度も、授業を受けた。
何度も、同じ説明を聞いた。
何度も、同じ質問に先回りして答えた。
何度も、フューリーに困惑された。
何度も、彼女に心配された。
そのたびに、ソルは早くなった。
覚える。
戻る。
もっと早く覚える。
戻る。
もっと先へ進む。
戻る。
学ぶために死ぬ。
死ぬために学ぶ。
それを繰り返した。
ある回帰で、フューリーがついに問い詰めた。
「ソルさん」
「なんだ」
「あなた、何かしていますね」
ソルは手を止めた。
机の上には、複雑な呪印が描かれている。
それは本来、彼がまだ知っているはずのないものだった。
「何かって?」
「誤魔化さないでください」
フューリーの声は小さい。
だが、いつもより強かった。
「あなたは、初めて学ぶはずのことを知っています。知らないはずの術式を使います。私が言う前に、私の説明の続きを言います」
「勘がいいだけだ」
「嘘です」
「……」
「あなた、何をしているんですか」
ソルは黙った。
説明できるはずがない。
自分は死んで戻っている。
だから同じ授業を何度も受けている。
わからないところまで進んだら、自分で死んで時間を巻き戻している。
そんなことを言って、信じられるはずがない。
そして、信じられたとしても、どうなる。
フューリーは止めるだろう。
この女はそういう女だ。
「必要なことをしてるだけだ」
ソルは答えた。
フューリーの顔が歪む。
「必要なら、自分を殺してもいいんですか」
ソルの指が止まった。
沈黙。
フューリーは震えていた。
「……見えたのか」
「呪術師ですから」
彼女は自分の胸元を押さえる。
「あなたの周りに、死の残滓が濃すぎるんです。何度も、何度も、何度も。まるで、同じ場所を掘り返しているみたいに」
「……」
「あなたは、死んでいるんですね」
静かな問いだった。
ソルは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
フューリーは目を伏せる。
「どうして……」
「時間が足りない」
「だからって」
「崩れるんだよ」
ソルの声が低くなる。
「この場所は崩れる。ルナが死ぬ。母が死ぬ。父も死ぬ。お前も、ノインも、ツヴァイも、アインツも、みんな死ぬ」
「……」
「間に合わないんだ。普通に学んでたら。普通に生きてたら。普通に明日を待ってたら、全部終わる」
ソルはフューリーを見る。
「だから、時間を盗む」
「盗む……」
「俺はスリだからな」
乾いた笑みだった。
フューリーは笑わなかった。
「それは、盗みじゃありません」
「あ?」
「自分を削っているだけです」
「同じだ」
「違います」
「違わねぇよ」
「違います!」
初めて、フューリーが声を荒げた。
その声は細く、震えていた。
けれど、確かに怒っていた。
「あなたは、死ぬことを便利な道具にしないでください!」
ソルは言葉を失った。
フューリーの目に涙が浮かぶ。
「私は、人を殺すのが嫌いです。人が死ぬのも嫌いです。自分で自分を殺すのだって、同じくらい嫌です」
「……」
「それでも、止められないんですか」
「止められない」
「どうして」
「俺が止まったら――ルナが死ぬ」
即答だった。
フューリーは泣きそうな顔で、けれど何も言えなかった。
ソルの答えは歪んでいる。
間違っている。
壊れている。
それでも、その根だけはどうしようもなく真っ直ぐだった。
妹を救いたい。
ただ、それだけ。
「……わかりました」
フューリーは涙を拭った。
「私は、あなたを止められません」
「なら――」
「でも、条件があります」
彼女は机の上の紙を取る。
そこに、新しい術式を書き始めた。
「次に戻ってきたとき、これを覚えていてください」
「なんだ、それ」
「肉体への負荷を下げる術式です。瘴気の逆流を抑えます。完全ではありませんが、あなたが無茶をするとき、少しだけ壊れにくくなります」
「……」
「本当は教えたくありません。無茶を助けることになるから」
フューリーは、震える手で術式を書き終える。
「でも、あなたが止まらないなら、せめて壊れ方を遅くします」
ソルは黙ってそれを見た。
胸の奥が、妙に重かった。
「先生みてぇだな」
「先生です」
フューリーは、少しだけ怒ったように言った。
「あなたが勝手に死んでも、私は先生です。だから、覚えてください。ちゃんと。間違えないで。次は、もっと上手くやりましょう」
ソルは、その紙を受け取った。
「……ああ」
その返事だけは、いつもより少しだけ素直だった。
◆◇◆
フューリーとの日々は、奇妙なものだった。
彼女は毎回、ソルを初対面として迎える。
けれど、ソルだけは彼女を知っていく。
彼女が茶を淹れるとき、必ず一度湯をこぼすこと。
緊張すると前髪を触ること。
怖い話が苦手なくせに、呪術の怪談だけは妙に詳しいこと。
人殺しが嫌いだと言いながら、治安維持のためには震えながらも術式を展開すること。
ロストブルーの子どもたちに、こっそり薬を渡していること。
怪我人を見つけると放っておけないこと。
誰かが死ぬと、知らない相手でも部屋の隅で祈ること。
そういうことを、ソルだけが積み重ねていく。
フューリーは知らない。
自分が何度もソルに授業をしたことを。
何度も怒ったことを。
何度も泣いたことを。
何度も、ソルを見送ったことを。
知らない。
それでも、彼女は毎回、同じように言う。
「急がないでください」
「自分の体を道具みたいに扱わないでください」
「呪いは、使う人の心も削ります」
「あなたが守りたいものを、あなた自身が壊さないでください」
その言葉は、回帰を越えて積み重なった。
ソルは呪術を覚えた。
瘴気を扱えるようになった。
魔瘴石から力を取り出せるようになった。
簡易結界、妨害術式、追跡呪、隠蔽呪、転移術。
不可視の力を、ただ放つだけではなく、圧縮する。
空間を跳ぶだけではなく、歪ませる。
瘴気を弾丸にするだけではなく、術式として固定する。
力が形を持ち始める。
ただの暴力ではない。
ただの盗みでもない。
ソル自身の力として。
それでも、フューリーは最後まで言った。
「忘れないでください。呪術は、人を呪う技ではありません」
「名前からして呪ってんだろ」
「違います。呪いを知る技です。誰かの痛みを、苦しみを、悪意を、悲しみを、形として見る技です」
フューリーは微笑んだ。
「だから、本当は優しく使えるんです」
「……アンタには向いてるかもな」
「そうでしょうか」
「ああ」
ソルは、珍しく素直に言った。
「アンタは、人を殺すより教える方が向いてる」
フューリーは目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「なら、あなたは私の生徒ですね」
「柄じゃねぇな」
「でも、生徒です」
「面倒くせぇ先生だ」
「はい。よく言われます」
言われているところを、ソルは一度も見たことがなかった。
だが、否定はしなかった。
◆◇◆
何度目かの回帰。
ソルはついに、フューリーが用意した最後の術式を完成させた。
瘴気の圧縮と解放。
空間歪曲の補助。
魔瘴石を外部燃料として接続する回路。
そして、呪い返しの防壁。
それらを同時に展開し、維持する。
普通なら、複数人で行う儀式だ。
だが、ソルは一人でやり切った。
術式が閉じる。
黒紫の光が、床に刻まれた印を流れ、やがて静かに消えた。
フューリーは息を呑んでいた。
「……できた」
「できたな」
「本当に、できました」
「見りゃわかる」
「ソルさん」
「なんだ」
「あなたは、すごいです」
その言葉に、ソルは少しだけ眉をひそめた。
「気色悪いことを言うな」
「褒めてるんです」
「だから気色悪いんだよ」
「何度も、何度も、たぶん私が知らないところで、たくさん努力したんですね」
ソルは何も言わなかった。
フューリーは柔らかく笑う。
「合格です」
その瞬間、ソルは少しだけ目を閉じた。
終わった。
ようやく。
長かった。
何度も死んだ。
何度も学んだ。
何度も戻った。
何度も同じ先生に教わった。
そのすべてが、ここで一つの形になった。
「……世話になった」
ソルは呟く。
フューリーはまた目を丸くした。
「今、ちゃんとお礼言いました?」
「言ってねぇ」
「言いました」
「聞き間違いだ」
「ふふ」
フューリーは笑った。
それは、ロストブルーには似つかわしくない、穏やかな笑みだった。
「では、最後に一つだけ」
「まだあんのかよ」
「はい。先生ですから」
フューリーはソルを見る。
「あなたがいつか、本当に大きな力を手にしたとき。誰かを殺すことも、何かを壊すことも、簡単にできるようになったとき」
「……」
「そのとき、今日のことを思い出してください」
――あなたは、誰かを守るために呪術を学びました。
彼女は言った。
「それだけは、忘れないでください」
ソルはしばらく黙っていた。
そして、短く答える。
「ああ」
その約束が守れるかどうかは、わからなかった。
けれど、そのときだけは、確かに頷いた。
◆◇◆
アインツの元へ戻ったとき、ソルは以前とは違っていた。
目つきは相変わらず悪い。
口も悪い。
態度も悪い。
だが、身に纏う気配が変わっていた。
暴力を得た者の荒さではない。
呪いを知った者の静けさがあった。
ノインはその変化を見て、少しだけ口角を上げた。
「少しはマシになったな、小僧」
「まだ小僧呼びかよ」
「俺より弱い間は小僧だ」
「なら一生そのままだな」
「よく分かってるじゃねぇか」
ツヴァイはソルの周りをくるくる回り、鼻をひくつかせる。
「匂い変わった」
「……臭いか?」
「ううん。フューリーの匂いがする」
「それは、どうなんだ」
「いい匂いだよ」
「ならいいか」
アインツは、部屋の奥で待っていた。
いつもの椅子。
いつもの本。
いつもの冷めた目。
だが、その視線がソルを見た瞬間、わずかに変わった。
「越えたか」
「ああ」
「フューリーが合格を出したなら、間違いないだろう」
「アンタが見てたみたいに言うな」
「見ていた」
ソルの眉が動いた。
「……なんだと?」
アインツは膝の上の本を撫でる。
「正確には、
その言葉とともに、部屋の空気が変わった。
ノインがわずかに目を細める。
ツヴァイも、何かを感じたのかノインの背後へ下がった。
アインツは立ち上がる。
そして、机の上に一冊の本を置いた。
古びた革表紙。
擦り切れた背。
けれど、朽ちることを拒むような異様な存在感。
「これは、俺が拾った本だ」
「本?」
「――叡智の書、と呼ばれる類のものだ」
ソルの胸の奥が、嫌な音を立てた。
「この本には未来が記される」
沈黙。
「断片的ではあるがな。誰が死ぬ。何が起きる。どこが崩れる。どの選択が、どの破滅へ繋がる」
「……じゃあ、アンタは」
「知っていた」
アインツは言った。
「ロストブルーが滅ぶことを」
ソルの喉が鳴った。
「ルナが死ぬこともか」
「知っていた」
「お袋が死ぬことも」
「知っていた」
「親父が逃げて、後悔して、泣きそうな顔で言い訳することも」
「知っていた」
ソルの指が震えた。
怒りか。
憎しみか。
疲れか。
自分でもわからない。
「じゃあ、なんで黙ってた」
声が低くなる。
「最初から言えばよかっただろ。全部知ってんなら、どうして黙って見てやがった」
「言って救えたか」
アインツの返答は、冷たかった。
「ノインもおらず、フューリーの呪術も知らず、死ぬ覚悟だけを抱えたガキのお前が、俺の言葉一つでロストブルーを救えたか」
「それは……」
「救えなかった」
断言だった。
「だから試した。お前が未来を変えるだけの器かどうか。ロストブルーの暴力を味方にできるか。呪いを学び、力を制御できるか。死を浪費せず、未来に変えられるか」
「……性格悪ぃな」
「ああ」
アインツは否定しなかった。
「俺は性格が悪い。臆病で、卑怯で、見ているだけの男だ。叡智などと大層なものを持ちながら、破滅を止められなかった」
その声が、初めて揺れた。
「何度も見た。何度も読んだ。この場所が終わる未来を。子どもが潰れ、母親が裂かれ、父親が狂い、友が死に、獣が吠え、最後には空が落ちてくる」
「……」
「俺には止められなかった」
アインツは、ゆっくりと頭を下げた。
ノインが目を見開く。
ツヴァイが息を呑む。
ソルも、言葉を失った。
ロストブルーの守役。
監視役。
管理者。
知恵者。
誰よりも先を見て、誰よりも冷たく盤面を眺めていた男が。
頭を下げていた。
「頼む」
アインツは言った。
「ソル。この場所を救ってくれ」
「……」
「――ロストブルーを救う太陽になってくれ」
ソルの胸の奥で、何かが軋んだ。
――太陽。
空を知らない自分に。
偽物の陽光結晶しか知らない自分に。
地下で生まれ、地下で育ち、地下で死ぬはずだった自分に。
この男は、太陽になれと言っている。
「お前が、ここの王になるんだ」
その言葉は、呪いに似ていた。
祈りにも似ていた。
願いにも、命令にも、懺悔にも聞こえた。
ソルは長く黙っていた。
そして、乾いた笑みを浮かべる。
「王、ね」
「ああ」
「ガキに押し付けるには、重すぎる肩書きだろ」
「だから、お前にしか頼めない」
「買いかぶりすぎだ」
「いいや」
アインツは顔を上げた。
「お前はもう、ただのスリのガキじゃない」
その目には、確かな光があった。
「お前は、死を越えて仲間を集めた。暴力を越え、呪いを越え、時間を越えた。なら次は、この空無き大地さえも越えてみせろ」
沈黙。
重い沈黙だった。
ソルは黒いマフラーを握り締める。
ルナの笑顔が浮かんだ。
母の謝罪が浮かんだ。
父の泣きそうな顔が浮かんだ。
ノインの牙が、ツヴァイの体温が、フューリーの震える声が浮かんだ。
まだ出会っていない誰かの声まで、胸の奥で騒いでいる気がした。
全部、失いたくないものだった。
全部、救えるかもしれないものだった。
全部、また失うかもしれないものだった。
「……ああ、そうかよ」
ソルは吐き捨てるように言った。
「なら、なってやる」
アインツが静かに息を呑む。
ノインが笑う。
ツヴァイが目を輝かせる。
ソルは、ひどく不機嫌そうな顔で続けた。
「王でも太陽でも、好きに呼べばいい。だが勘違いすんな。俺は立派な王様になりたいわけじゃねぇ。綺麗な救済者になりたいわけでもねぇ」
彼の声は低く、けれど確かだった。
「俺はルナを救う。そのついでに、お袋も親父も、この腐った地下も、拾えるもんは全部拾ってやるよ」
ソルはアインツを見る。
「それでいいなら、乗ってやる」
アインツは、もう一度頭を下げた。
「十分だ」
空のない地下で。
偽物の太陽が照らす掃き溜めで。
スリの少年は、王になることを選んだ。
それが救いになるのか。
それとも、さらなる地獄の始まりなのか。
その答えを、このときのソルはまだ知らない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
◆◇◆
フューリー
ロストブルーの優秀な呪術師であり、ソルの先生。引っ込み思案で人殺しを好まないが、根は心優しく、荒れ果てた地下の治安を守るために力を貸している。憎しみに呑まれることを嫌い、誰かを罰するためではなく、壊れた場所にまだ良き未来を残すために呪術を使う。
ソルのことは、危うく、放っておけば憎しみで潰れてしまう子だと思っている。だが、それでもロストブルーを救うために足掻く姿を見て、彼に呪術を教える。彼が壊れないように見守りながら、未来へ進むための力を授けるべき生徒として向き合っている。
アインツ
ロストブルーの守役であり、街の裏側を見ている知恵者。未来を記す「叡智の書」を持っており、ロストブルーに迫る破滅と、ソルの死と巻き戻りの永劫回帰を理解している。感情で動く男ではなく、軽々しく誰かに賭けることはしないが、何度死んでも折れずに進むソルなら、ロストブルーを救えるかもしれないと可能性を感じている。