ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十七.三話『月と太陽の物語』第四昇【敗北】

◆◇◆

 

 

 ――王になるとは、何か。

 問われれば、ソルはたぶん鼻で笑っただろう。

 

 金の冠を被ることか。

 綺麗な椅子に座ることか。

 民草とやらに偉そうな言葉を吐くことか。

 誰かに傅かれ、誰かを従え、誰かの上に立っている気になることか。

 

 そんなもの、ロストブルーにはない。

 

 玉座などない。

 王冠などない。

 城壁も、国旗も、法も、騎士も、まともな民ですらいない。

 

 あるのは、酒臭い息を吐く酔っ払い。

 薬で目を濁らせた女。

 盗んだものを奪われまいと抱え込む子ども。

 昨日まで隣にいた奴の死体を、今日の寝床代わりにする連中。

 

 掃き溜め。

 空のない地獄。

 それがロストブルーだった。

 

 だから、そんな場所の王になれと言われたとき、ソルは本気でアインツの頭がいかれたのかと思った。

 だが、アインツは本気だった。

 

 ノインも、面白そうに見ていた。

 ツヴァイは意味がわかっていない顔で、それでも嬉しそうに笑っていた。

 フューリーは不安そうに手を胸元で握り、何か言いたげにしていた。

 

 そしてソルは、なってやると言った。

 王でも太陽でも、好きに呼べばいい、と。

 

 ルナを救う。

 そのついでに、拾えるものは全部拾う。

 そう言った。

 

 それが、始まりだった。

 

 

◆◇◆

 

 

 まず必要だったのは、名前だった。

 ロストブルーでは、名前だけで人は動かない。

 綺麗な理想も、正論も、誰かを救いたいという願いも、腹を満たさないし、殴られた痛みを消しもしない。

 

 だが、恐怖は人を動かす。

 利益も人を動かす。

 そして、噂は人を動かす。

 だからソルは、噂を作った。

 

 ノインを連れて歩いた。

 ただそれだけで、路地の空気が変わった。

 ロストブルー最強の獣人が、黒いマフラーの少年の隣を歩いている。

 それは、言葉よりも雄弁だった。

 最初に反応したのは、腕自慢たちだった。

 当然だ。

 ロストブルーで誰かが上に立つ気配を見せれば、最初に噛みつくのは暴力を商売にしている連中と決まっている。

 

「おいおい、ノイン。なんだそのチビは。新しい玩具か?」

 

 そう笑った男は、次の瞬間には地面に顔面をめり込ませていた。

 ノインがやったのではない。

 ソルがやった。

 正確には、フューリーから学んだばかりの呪術を使った。

 

 足元に刻んだ簡易呪印が男の重心を崩し、そこへ不可視の力を叩き込む。

 男は何が起きたのか理解する前に地面へ落ちた。

 

「……今のは、なんだ」

 

 周囲の誰かが呟く。

 ソルは答えない。

 答えず、倒れた男の後頭部を踏みつける。

 

「俺に従え」

 

 静かな声だった。

 だが、通りにはよく響いた。

 

「従わねぇなら、好きにしろ。殺しに来い。罠を張れ。寝首を掻け。毒を盛れ。何でもいい」

 

 ソルは周囲を見回す。

 死んだ目の連中。

 怒りと怯えと好奇心の入り混じった視線。

 その全部を、真正面から受け止める。

 

「――全部、潰す」

 

 言葉は短かった。

 だが、それで十分だった。

 ノインが隣で笑った。

 

「言うじゃねぇか、小僧」

 

「小僧はやめろ」

 

「弱い間は小僧だ」

 

「なら、一生呼んでろ」

 

「そうする」

 

 そのやり取りに、何人かが引きつった笑みを浮かべた。

 ロストブルー最強の男が、殺さずに会話している。

 それだけで、十分異常だった。

 噂はすぐに広がった。

 

 ――ノインを従えたガキがいる。

 いや、従えたんじゃない。横に立たせたんだ。

 アインツが背後にいるらしい。

 フューリーの呪術も使うらしい。

 

 ――あいつは死なない。

 何度潰しても戻ってくる。

 黒いマフラーの王だ。

 太陽だ。

 空のない地下に昇った、黒い太陽だ。

 

 噂は勝手に歪み、膨らみ、走っていく。

 ソルはそれを止めなかった。

 むしろ、利用した。

 

 

◆◇◆

 

 

 次に必要だったのは、道だった。

 人も物も情報も、流れなければ腐る。

 

 ロストブルーはすでに腐っていた。

 盗みはあっても交易はない。

 喧嘩はあっても秩序はない。

 誰もが奪うことだけを考え、明日も使える道を壊している。

 

 それを変えるには、裏道を知る者が必要だった。

 

 ――ズィーヴァ。

 またの名を、イーリス。

 スリ仲間の古株。

 彼女はソルがガキの頃から、すでに路地の影にいた。

 小柄で、身軽で、目端が利き、笑うときはいつも何かを隠しているような顔をする女だった。

 

 金を盗む。

 鍵を開ける。

 追手を撒く。

 誰が誰と繋がっているかを覚える。

 どの路地に逃げれば生き残れるかを知っている。

 そういう技術において、ズィーヴァはロストブルーでも指折りだった。

 

「へえ。ソルが王様ねぇ」

 

 話を持ちかけたとき、ズィーヴァは腹を抱えて笑った。

 うずくまるほど笑った。

 ソルが不機嫌そうに睨むと、さらに笑った。

 

「いや、悪い悪い。だってさぁ、あのちびソルが王様って。いやぁ、人生わかんないもんだねぇ」

 

「笑い終わったか」

 

「まだ」

 

「殺すぞ」

 

「王様が初手で殺すぞはよくないんじゃない?」

 

「俺は品のいい王様じゃねぇ」

 

「知ってる。スリの王様だもんね」

 

 ズィーヴァはにやりと笑う。

 

「で? あたしに何してほしいの?」

 

「道を作れ」

 

「道?」

 

「盗品、食料、薬、魔瘴石。流せるものを流す。奪い合いで腐らせるくらいなら、俺のところへ持ってこさせろ。分配する」

 

「ふぅん」

 

「ついでに、どこの連中が邪魔するか調べろ」

 

「邪魔したら?」

 

「ノインに行かせる」

 

「うわ、横暴」

 

「王様だからな」

 

 ズィーヴァは目を細めた。

 からかうような笑みだったが、その奥には鋭い観察がある。

 

「それ、うまくいくと思ってる?」

 

「思ってない」

 

「じゃあなんでやるの?」

 

「やらなきゃ終わる」

 

「終わる?」

 

「この地下がな」

 

 ズィーヴァの笑みが、少しだけ消えた。

 ソルは続けない。

 彼女は頭がいい。

 必要以上に説明しなくても、何かあると察する。

 

「……ねえ、ソル」

 

「あ?」

 

「それ、スリの仕事じゃないよ」

 

「知ってる」

 

「王様の仕事でもないかも」

 

「なら何だ」

 

「たぶん、馬鹿の仕事」

 

「上等だ」

 

 ズィーヴァはしばらくソルを見ていた。

 それから、肩を竦める。

 

「いいよ。乗ってあげる」

 

「軽いな」

 

「だって面白そうだし」

 

「それだけか」

 

「それだけじゃだめ?」

 

 ズィーヴァは笑う。

 

「それに、あんたが本気でそんな馬鹿やるってんなら、見てみたいじゃん。空のない地下に、太陽なんてものが昇るのか」

 

「……」

 

「昇らなかったら、あたしが一番に盗んで逃げてあげるよ。王冠も、財布も、心臓も」

 

「王冠なんざねぇよ」

 

「じゃあ、マフラーかな」

 

「触ったら殺す」

 

「はいはい、こわいこわい」

 

 そうして、ズィーヴァが加わった。

 

 暴力。

 呪術。

 情報。

 少しずつ、ソルの手札は増えていった。

 

 

◆◇◆

 

 

 王国と呼ぶには、あまりにも粗末なものだった。

 けれど、確かに形にはなった。

 

 ――ノインが暴力を抑えた。

 厳密には、より大きな暴力で小さな暴力を黙らせた。

 ロストブルーの喧嘩は消えない。

 盗みも消えない。

 恨みも、飢えも、薬も、酒も、全部残っている。

 だが、以前とは違った。

 子どもに手を出す者は消えた。

 薬の奪い合いで人を殺す連中は見せしめにされた。

 食料の流通を妨げる者は、ノインの縄張りに引きずられた。

 

 ――フューリーは治安維持のための呪印を各所に仕込んだ。

 争いそのものを止めることはできない。

 けれど、大きな暴発の前兆を察知し、被害を抑えることはできる。

 彼女はいつも震えていた。

 

「こ、これ、本当に必要ですか……?」

 

「必要だ」

 

「人を縛る術式です。使い方を間違えれば、ひどいことになります」

 

「間違えねぇように使え」

 

「簡単に言わないでください……」

 

 言いながらも、フューリーはやった。

 人殺しが嫌いな彼女は、それでも人死にを減らすために呪術を使った。

 

 ――ズィーヴァは物資を流した。

 隠し通路。

 盗品の換金先。

 使える倉庫。

 腐った食料とまだ食える食料の見分け方。

 薬師もどきの居場所。

 地上から流れてきた物資の出所。

 彼女は笑いながら、ロストブルーの裏側を縫った。

 

「いやぁ、王様業って大変だねぇ。ソル、顔死んでるよ」

 

「元からだ」

 

「それよりもっと死んでる」

 

「うるせぇ」

 

 ――ツヴァイは子どもたちに懐かれた。

 本人にそのつもりはない。

 ただノインの近くで丸くなっていると、いつの間にか小さな子どもが近づいてくる。

 ノインの傍は怖い。

 でも、ツヴァイの傍は温かい。

 そうして、子どもたちはツヴァイの周りで眠るようになった。

 ノインは露骨に嫌そうな顔をしたが、追い払わなかった。

 

「お前、保育所でも作る気か」

 

 ソルが言うと、ノインは鼻を鳴らす。

 

「近づいてくるだけだ」

 

「追い払えよ」

 

「泣く」

 

「誰が」

 

「ツヴァイが」

 

「……」

 

 ツヴァイは子どもたちに囲まれて、幸せそうに寝息を立てていた。

 ソルは鼻で笑った。

 

「最強の男が、随分丸くなったな」

 

「殺すぞ」

 

「守るものは壊さないんじゃなかったのか」

 

「お前はまだ守るものじゃねぇ」

 

「ひでぇな」

 

 そんな会話をする日が増えた。

 アインツは全体を見ていた。

 叡智の書を抱え、未来を読み、起こるはずの失敗を少しずつ減らしていく。

 それでも、未来は完全には変わらない。

 破滅の影は、常にあった。

 遠く、しかし確実に近づいてくる。

 

 ――救済の魔女。

 その名を口にするたび、空気が重くなる。

 だが、ロストブルーの中には、初めて微かな秩序が生まれた。

 粗末なものだ。

 穴だらけで、脆くて、明日壊れるかもしれない。

 けれど、それでも。

 

 誰かが飢えれば、どこかから食料が届くようになった。

 子どもが泣けば、誰かが拾い上げるようになった。

 争いが起きれば、殺し合いになる前に止まることが増えた。

 

 変わり始めていた。

 ロストブルーが。

 少しずつ。

 本当に、少しずつ。

 

 

◆◇◆

 

 

 王座は、ズィーヴァが作った。

 いや、作ったというより、盗んだ。

 

 どこから持ってきたのかもわからない椅子の脚。

 壊れた机の板。

 古い金具。

 誰かの店先から消えた布。

 どこかの貴族が落としていったらしい装飾品の欠片。

 それらを組み合わせて、彼女は妙な椅子を作った。

 

「はい、王様の椅子」

 

「いらねぇ」

 

「いるよ」

 

「いらねぇって言ってんだろ」

 

「でも王様には椅子が必要じゃん」

 

「俺は立ってりゃいい」

 

「立ちっぱなしの王様なんて嫌だよ。座んな」

 

 ズィーヴァに背中を押され、ソルは不承不承その椅子に座った。

 ぎし、と音が鳴る。

 今にも壊れそうだった。

 

「これ座って大丈夫なのか」

 

「たぶん」

 

「たぶんで王を座らせるな」

 

「壊れたら縁起が悪いね」

 

「本当に殺すぞ」

 

 ズィーヴァは笑った。

 フューリーはおろおろしながら「補強しますか?」と言い、ツヴァイは「王様の椅子?」と首を傾げ、ノインは「似合わねぇ」と言った。

 アインツだけが、静かにそれを見ていた。

 ソルは不機嫌そうに頬杖をつく。

 

「で、満足か」

 

「うん」

 

 ズィーヴァは満面の笑みで頷く。

 

「似合ってるよ、我らが王」

 

 その言葉に、ソルの胸の奥が少しだけざわついた。

 我らが王。

 冗談のような呼び方だった。

 だが、その呼び名はやがてロストブルーの中に広がった。

 

 我らが王。

 我らが太陽。

 空無き大地の王。

 ロストブルーの太陽。

 

 ソルはそのたびに顔をしかめた。

 だが、否定し続けるには、あまりにも多くの者がその名を使うようになっていた。

 そして何より。

 ルナが、その呼び方を気に入った。

 

「お兄ちゃん、王様なの?」

 

 小さな妹が、目を輝かせて尋ねた。

 ソルは言葉に詰まる。

 

「……違う」

 

「でも、みんな言ってるよ」

 

「みんな馬鹿なんだよ」

 

「お兄ちゃん、王様?」

 

「違う」

 

「王様!」

 

「違うっつってんだろ」

 

 ルナは笑った。

 その笑顔を見て、ソルはそれ以上否定できなかった。

 彼は王になった。

 なってしまった。

 ただ妹を救うために走っていた少年は、気づけば空無き大地の王になっていた。

 

 

◆◇◆

 

 

 そして――救済の魔女は来た。

 その日、ロストブルーの空気は朝から重かった。

 

 朝と呼べるものはない。

 陽光結晶はいつもと同じように光っている。

 だが、全員が何かを感じていた。

 

 ノインは言葉少なだった。

 ツヴァイはノインの袖をずっと握っていた。

 フューリーは何度も術式を確認し、震える指で呪印をなぞっていた。

 ズィーヴァは笑っていたが、その笑みはいつもより薄かった。

 アインツは叡智の書を開き、ただ一言だけ告げた。

 

「来る」

 

 ソルは王座から立ち上がった。

 黒いマフラーを巻く。

 ルナは母の傍にいた。

 母はルナを抱きしめ、父は酒瓶ではなく古い斧を握っていた。

 変わった。

 確かに、変わったのだ。

 前とは違う。

 今度は一人ではない。

 

 仲間がいる。

 力がある。

 知識がある。

 準備がある。

 王として積み上げたロストブルーがある。

 

 だから、今度こそ。

 そう思った。

 思ってしまった。

 中央区画に、女が現れた。

 

 黒いローブ。

 血のような瞳。

 整いすぎた顔。

 救済の名を冠する理不尽。

 女は名乗らない。

 ただ、ソルを見ていた。

 

 ロストブルーも。

 ノインも。

 ツヴァイも。

 フューリーも。

 ズィーヴァも。

 アインツも。

 

 何も見ていない。

 その血のような瞳は、ただソルだけを映していた。

 

【――ミツケタ】

 

 女が言った。

 歓喜のように。

 祈りのように。

 呪いのように。

 

【――アイシテ】

 

 その声に、ソルの背筋が凍った。

 意味がわからない。

 会ったこともない。

 名前も知らない。

 なのに、その声は、どこか懐かしいものを引き裂くように響いた。

 女の視線が、ソルの背後へ滑る。

 ルナへ。

 

【――妬ましい】

 

 次の瞬間、世界が裂けた。

 

「――ルナ!」

 

 叫んだのは、誰だったのか。

 ソルか。

 母か。

 父か。

 それとも、ロストブルーの誰かか。

 わからない。

 わからないまま、戦いは始まった。

 周囲の呪印が反応する。

 フューリーが叫ぶ。

 

「結界、起動します!」

 

 黒紫の光が走り、救済の魔女を囲う。

 ノインが吠えた。

 獅子の咆哮。

 ロストブルー最強の男が、初手から全力で踏み込む。

 

 ズィーヴァが裏道を使って背後へ回る。

 ツヴァイが子どもたちを避難させる。

 アインツが指示を飛ばす。

 ソルは術式を展開し、魔瘴石の瘴気を圧縮する。

 

 いける。

 そう思った瞬間――ノインの右腕が飛んだ。

 

「――」

 

 音が遅れて来た。

 血が舞う。

 ノインは止まらない。

 片腕を失ってなお踏み込む。

 だが、届かない。

 救済の魔女は、ただそこにいるだけだった。

 無関心。

 憐憫にも似た、慈悲にも似た、けれどそのどちらでもない目で、ノインを見ていた。

 次の瞬間、ノインの胸が裂けた。

 

「ノイン!」

 

 ツヴァイの叫びが響く。

 彼女が駆け出そうとする。

 ソルは怒鳴った。

 

「行くな!」

 

 だが、ツヴァイは止まらない。

 止まれるはずがない。

 ノインは彼女の獅子だった。

 守るものだった。

 そして、守ってくれるものだった。

 そのノインが膝をつく。

 ツヴァイは飛び出した。

 救済の魔女の視線が、彼女へ向く。

 ソルはその瞬間、空間を裂いた。

 ツヴァイの前に出る。

 

「――〝バン〟!」

 

 不可視の砲撃が放たれる。

 圧縮された瘴気が空間を歪め、救済の魔女へ叩き込まれる。

 

 直撃。

 したはずだった。

 だが、女はそこに立っていた。

 傷一つない。

 

「……嘘でしょ」

 

 ズィーヴァの声が聞こえた。

 フューリーが呪術を重ねる。

 拘束、妨害、反転、封印。

 彼女が人を傷つけるためではなく、守るために学び続けた呪術が、一斉に展開される。

 救済の魔女は、ゆっくりと手を上げた。

 術式が、ほどけた。

 フューリーが血を吐く。

 

「フューリー!」

 

 ズィーヴァが叫ぶ。

 彼女は走った。

 速い。

 スリとして生き、逃げ続け、盗み続けた足。

 救済の魔女の背後へ回る。

 その手には短刀。

 刺すためではない。

 気を逸らすためだ。

 ズィーヴァは最初から、自分が通じると思っていない。

 それでも走った。

 ソルのために。

 ロストブルーのために。

 ルナのために。

 

「こっち見なよ、魔女サマ!」

 

 救済の魔女が振り返る。

 ズィーヴァは笑っていた。

 次の瞬間、その体が壁へ叩きつけられた。

 骨の折れる音がした。

 

 ――ソルの中で、何かが切れた。

 

「――ッァアアアアアア!」

 

 術式を重ねる。

 魔瘴石を砕く。

 瘴気を引き出す。

 圧縮する。

 さらに圧縮する。

 

 ノインが叫ぶ。

 ツヴァイが泣く。

 フューリーが立とうとする。

 アインツが何かを叫ぶ。

 

 聞こえない。

 聞きたくない。

 ソルの全身に、黒紫の光が走った。

 

 

「『始源』――」

 

 

 全ての力を、一点へ集める。

 

 

「〝ビッグバン〟!」

 

 

 破滅が放たれた。

 空間が歪む。

 地面が裂ける。

 陽光結晶の光が揺らぐ。

 それはロストブルーの一角を吹き飛ばすほどの一撃だった。

 救済の魔女の姿が、黒い光に呑まれる。

 

 静寂。

 土煙。

 崩れる瓦礫。

 

 そして。

 

 女は、立っていた。

 変わらず。

 何も変わらず。

 

「……なんで」

 

 ソルの声が漏れた。

 救済の魔女の目が、こちらを見る。

 血のような瞳。

 その奥にある感情を、ソルは読めなかった。

 

 憐れみか。

 愛か。

 無関心か。

 それとも。

 女の唇が動いた。

 

【――アイシテル】

 

 その手が、ソルへ伸びた。

 胸を貫かれた感覚があった。

 痛みより先に、寒気が来た。

 

 ――死ぬ。

 そう理解した瞬間、女の顔が歪んだ。

 

 悲しそうに。

 嬉しそうに。

 壊れたように。

 

【――アイシテル】

 

 それは声だったのか。

 願いだったのか。

 呪いだったのか。

 

 わからない。

 ただ、その瞬間。

 ソルの死が、世界から剥がされた。

 

 

◆◇◆

 

 

 赤子の泣き声がする。

 おぎゃあ、おぎゃあと。

 ソルは目を覚ました。

 腕の中には、生まれたばかりのルナがいた。

 

「……」

 

 戻った。

 いや。

 戻された。

 失敗した。

 王になっても。

 仲間を集めても。

 ノインがいても、ツヴァイがいても、フューリーがいても、ズィーヴァがいても、アインツがいても。

 

 勝てなかった。

 救えなかった。

 だが、終われない。

 

 ――ソルはまた走った。

 

 二度目の王国を作った。

 前より速く。

 前より正確に。

 前より無駄なく。

 ノインを仲間にする方法を知っている。

 ツヴァイが狙われる日を知っている。

 フューリーの授業を先取りできる。

 ズィーヴァを口説く言葉も知っている。

 アインツがどこまで知っているかも、もう知っている。

 

 前よりうまくやれる。

 そう思った。

 だが、また負けた。

 

 ――三度目。

 負けた。

 

 ――四度目。

 負けた。

 

 ――五度目。

 負けた。

 

 ――十度目。

 ノインが死んだ。

 

 ――二十度目。

 フューリーが自分の呪術に呑まれて死んだ。

 

 ――三十度目。

 ズィーヴァがルナを逃がすために囮になった。

 

 ――四十度目。

 ツヴァイがノインの死体に縋ったまま動かなくなった。

 

 ――五十度目。

 アインツが叡智の書を抱え、何も言えずに目を閉じた。

 

 ――六十度目。

 ルナが、また死んだ。

 

 何度やっても。

 何度繰り返しても。

 何度積み上げても。

 

 勝てない。

 勝てないのだ。

 ソルは、勝てない。

 

 

◆◇◆

 

 

 そして、ソルは違和感に気づき始めた。

 

 死ねば戻る。

 それは変わらない。

 だが、戻る場所が違う。

 

 ノインに殺されたときは、ノインへ挑む前に戻った。

 フューリーの呪術を学ぶ途中で死んだときは、修行の始まりへ戻った。

 使者を出し、道を誤り、外へ届く前に死んだときは、その選択の前へ戻った。

 

 だが、救済の魔女に殺されたときだけは違う。

 

 ――必ず、ルナの産声へ戻る。

 あの日へ。

 ソルが、兄になった日へ。

 なぜなのかは、わからない。

 わからないが、確かなことが一つだけある。

 これは、ソルのための力ではない。

 死をなかったことにしているのではない。

 死が、ソルから剥がされている。

 死んだはずの自分が消えない。

 

 ――戻るたびに、内側で何かが重くなる。

 

 何度も死んだ自分が、魂の奥に沈んでいく。

 折り重なっていく。

 消えずに、溶けずに、ソルという器の内側へ押し込まれていく。

 

 最初は、それを力だと思った。

 呪術の出力が上がった。

 瘴気を扱える量が増えた。

 オドに触れる感覚が鋭くなった。

 死ぬたびに、できることが増えていった。

 

 だから、ソルは使った。

 使えるものは全部使った。

 自分の死も。

 積み上がった記憶も。

 魂の重さも。

 仲間の死に様さえも。

 

 

 それでも、勝てなかった。

 

 

◆◇◆

 

 

 何度目かの敗北のあと、ソルは王座に座っていた。

 

 血に濡れた王座だった。

 王座と呼ぶには粗末な椅子。

 ズィーヴァが盗んできた材料で作った、今にも壊れそうな椅子。

 

 そこに、ソルは座っていた。

 足元には、仲間たちが倒れている。

 

 ノインが膝をついている。

 その牙は折れ、爪は砕け、獅子の瞳から光が消えかけていた。

 ツヴァイの声がしない。

 いつもノインの傍で丸くなっていた猫は、もう動かない。

 フューリーの震える手は、もう術式を描けない。

 人殺しが嫌いだと言った先生は、守るために呪いを使い尽くして倒れていた。

 ズィーヴァの笑い声は聞こえない。

 いつも軽く、いつも盗むように笑っていた女は、壁にもたれて血を吐いている。

 アインツは叡智の書を抱えていた。

 その目は、未来を読んでいるのではない。

 ただ、諦めを読んでいた。

 

 そして。

 ルナが、いなかった。

 

「……またか」

 

 声が出た。

 自分の声とは思えないほど、乾いていた。

 

「また、負けた」

 

 笑いが漏れた。

 喉の奥から、壊れた音が漏れた。

 

「王になったんだぞ」

 

 誰に言っているのか、ソル自身にもわからなかった。

 

「ノインを連れてきた。フューリーの呪術も覚えた。ズィーヴァに道を作らせた。アインツの本も読んだ。ツヴァイが笑ってくれる未来も見た。ロストブルーも変えた。酒を減らした奴もいた。薬をやめた奴もいた。子どもが笑う場所だって作った」

 

 拳が震える。

 

「なのに、なんでだ」

 

 答えはない。

 答える者は、もう誰もいない。

 ただ、どこかで女の声がする。

 

【――ミツケタ】

 

 優しい声だった。

 

【――アイシテ】

 

 温かい声だった。

 

【――妬ましい】

 

 吐き気がするほど、愛に満ちた声だった。

 

【――アイシテル】

 

「黙れ」

 

 ソルは呟いた。

 

 

【――死なないで】

 

 

「黙れ……!」

 

 その声は、何度も聞いた。

 ルナが死ぬとき。

 救済の魔女が現れるとき。

 自分の胸が貫かれるとき。

 世界が剥がれ落ちる直前。

 

 必ず、聞こえる。

 愛してる。

 死なないで。

 

 その言葉が、ソルには呪いにしか聞こえなかった。

 

「……ふざけるな」

 

 ソルは吐き捨てる。

 

「そんなものが愛なら」

 

 世界が暗くなる。

 また戻る。

 また、ルナが生まれる日に。

 また、最初から。

 ――ゼロから。

 

「俺は、愛なんざいらねぇ」

 

 それでも、ソルは戻された。

 

 

◆◇◆

 

 

 異変に気づいたのは、フューリーだった。

 その周回で、ソルはいつもより長く呪術を使った。

 救済の魔女に届かないことなど、もうわかっていた。

 それでも届かせるために、ソルは無理やり術式を重ねた。

 

 瘴気を練る。

 オドに触れる。

 魂を削り、魂を燃やし、魂を叩きつける。

 

 そのたびに、できることが増えていく。

 限界が伸びていく。

 だが、それは成長ではなかった。

 

 フューリーは、ソルの背後にあるものを見てしまった。

 黒く、重く、巨大な魂。

 一人分ではない。

 何十人。

 何百人。

 いや、それ以上。

 それほどの魂が、一つの器に縫い止められている。

 

「ソルさん」

 

 フューリーの声は震えていた。

 

「……何だ」

 

「もう、これ以上は駄目です」

 

「何がだ」

 

「これ以上、死んではいけません」

 

 ソルは眉をひそめる。

 

「今さら何言ってんだ。死ねば戻る」

 

「戻った先の器も、貴方なんです」

 

 その言葉に、ソルは黙った。

 フューリーは唇を噛み、それでも言葉を続ける。

 

「ソルさんの魂は、本来ありえないほど大きいです。大きい、というより……重なっています。まるで、何十人、何百人もの魂を、一つの器に無理やり縫い合わせたみたいに」

 

「他人の魂ってことか」

 

「違います」

 

 フューリーは首を振った。

 

「もっと、恐ろしいです」

 

「何がだ」

 

「全部、ソルさんです」

 

 静寂が落ちた。

 

「死んだ貴方。戻った貴方。敗れた貴方。諦めなかった貴方。その全部が、今の貴方に重なっている。貴方は戻っているのではありません。増えているんです」

 

「増えてるなら、いいじゃねぇか」

 

 ソルは笑った。

 笑おうとした。

 

「強くなってるってことだろ」

 

「違います」

 

 フューリーの声が鋭くなった。

 

「これは成長ではありません。膨張です」

 

 ソルの笑みが止まる。

 

「魂が大きくなれば、確かに力は増します。呪術の出力も、瘴気を扱う量も、オドへの干渉力も上がる。ですが、肉体は違います。器は、貴方一人分のままなんです」

 

「……」

 

「このまま死を重ねれば、いずれ貴方の器は魂に耐え切れなくなります。そうなれば、待っているのは……考えるのも悍ましい末路です」

 

「死ねば戻る」

 

「戻っても壊れます」

 

 フューリーは、泣きそうな顔で言った。

 

「戻った瞬間に、貴方の肉体が魂に耐え切れず壊れる。壊れて死ぬ。死ねばまた戻る。戻ればまた壊れる。永遠に、壊れ続ける」

 

 ソルは、息を止めた。

 死ねば戻る。

 それだけが、最後の支えだった。

 

 どれだけ痛くても。

 どれだけ苦しくても。

 どれだけ負けても。

 

 戻れるなら、まだやれる。

 だが。

 戻った先さえ、もう壊れるのなら。

 死ぬことすら、次に進む道ではなくなるのなら。

 

「じゃあ」

 

 声が掠れた。

 

「じゃあ、どうすりゃいいんだ」

 

 誰も答えない。

 

「諦めろってのか」

 

 ソルの拳が震える。

 

「ここまで来て、ここまでやって、何度も死んで、何度も負けて、それでも……俺は、ルナを救えねぇのか」

 

「ソルさん……」

 

「俺は、また」

 

 声が割れる。

 

「また、何も救えねぇのかよ」

 

 フューリーは俯いた。

 アインツが、何かを言いかけた。

 だが、それより早く、フューリーが顔を上げた。

 

「……ソル」

 

 初めて、彼女は呼び捨てにした。

 ノインが目を細める。

 ツヴァイが息を呑む。

 ズィーヴァの笑みが消える。

 アインツだけが、苦い顔をした。

 

「戦力を、集めましょう」

 

「……戦力?」

 

「次で、終わりにするんです」

 

 フューリーの声は震えていた。

 それでも、彼女は止まらなかった。

 

「もう何度も挑むのではなく、次の戦いで必ず勝つ。そのために、使えるものをすべて使うんです」

 

「ロストブルーには、もうねぇよ。全部試した。全部やった。全部使った。もう、なにも……」

 

「――外には、あります」

 

 その一言で、部屋の空気が止まった。

 外。

 ロストブルーの外。

 空のある世界。

 ソルは、初めてその言葉を本当の意味で意識した。

 なぜ考えなかった。

 なぜ、ここだけで戦っていた。

 外に行けば、まだ何かあるかもしれない。

 救済の魔女を殺せる力が。

 この永劫回帰の仕組みを暴く術が。

 ソルの魂を壊さずに済む方法が。

 だが、その微かな光を、アインツの声が凍らせた。

 

「外に救いはない」

 

 低い声だった。

 フューリーが唇を噛む。

 ソルが、アインツを見る。

 

「知ってたのか」

 

「知っていた」

 

「なら、なんで言わなかった」

 

「言う必要がなかった」

 

「ふざけんな」

 

 ソルの声が低くなる。

 

「外に救いはない。見れば戻れなくなる。だから黙っていた」

 

「誰が決めた」

 

「俺だ」

 

「テメェが、俺の道を決めんのか」

 

 アインツは答えない。

 ソルは立ち上がる。

 

「外に救いがあるかどうかは、俺が見る」

 

「見れば、戻れなくなる」

 

「もうとっくに戻れねぇよ」

 

 アインツは、静かに目を閉じた。

 その沈黙は、長かった。

 やがて、彼は叡智の書を閉じる。

 

「いいだろう」

 

 その声は重かった。

 

「なら、見せてやる」

 

 アインツは立ち上がった。

 その声は、これまでになく重かった。

 

 

「ヴォラキアを滅ぼし、黒蛇を葬った黒龍

 ――【ジズ】」

 

 

 一つ名が落ちるたび、部屋の空気が沈んでいく。

 

 

「カララギを沈め、白鯨を喰らった海の王

 ――【レヴィアタン】」

 

 

 誰も口を挟まなかった。

 

 

「グステコを踏み均し、大兎を飲み込んだ大地の災厄

 ――【ベヒモス】」

 

 

 ソルは眉をひそめた。

 国を滅ぼした災厄。

 三大魔獣すら呑み込んだ、世界を終わらせた獣たち。

 外に希望などない。

 その言葉の意味を、アインツは一つずつ突きつけている。

 

 だが、アインツはそこで言葉を切った。

 重苦しい沈黙が落ちる。

 そして、次に続いた言葉は、ソルの予想に反するものだった。

 

 

「――そして、それら三大神獣を駆逐した最後の英雄」

 

 

 ソルの目が細くなる。

 アインツは告げる。

 その男の名を――。

 

 

 

「『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

 

 

◆◇◆

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