◆◇◆
――王になるとは、何か。
問われれば、ソルはたぶん鼻で笑っただろう。
金の冠を被ることか。
綺麗な椅子に座ることか。
民草とやらに偉そうな言葉を吐くことか。
誰かに傅かれ、誰かを従え、誰かの上に立っている気になることか。
そんなもの、ロストブルーにはない。
玉座などない。
王冠などない。
城壁も、国旗も、法も、騎士も、まともな民ですらいない。
あるのは、酒臭い息を吐く酔っ払い。
薬で目を濁らせた女。
盗んだものを奪われまいと抱え込む子ども。
昨日まで隣にいた奴の死体を、今日の寝床代わりにする連中。
掃き溜め。
空のない地獄。
それがロストブルーだった。
だから、そんな場所の王になれと言われたとき、ソルは本気でアインツの頭がいかれたのかと思った。
だが、アインツは本気だった。
ノインも、面白そうに見ていた。
ツヴァイは意味がわかっていない顔で、それでも嬉しそうに笑っていた。
フューリーは不安そうに手を胸元で握り、何か言いたげにしていた。
そしてソルは、なってやると言った。
王でも太陽でも、好きに呼べばいい、と。
ルナを救う。
そのついでに、拾えるものは全部拾う。
そう言った。
それが、始まりだった。
◆◇◆
まず必要だったのは、名前だった。
ロストブルーでは、名前だけで人は動かない。
綺麗な理想も、正論も、誰かを救いたいという願いも、腹を満たさないし、殴られた痛みを消しもしない。
だが、恐怖は人を動かす。
利益も人を動かす。
そして、噂は人を動かす。
だからソルは、噂を作った。
ノインを連れて歩いた。
ただそれだけで、路地の空気が変わった。
ロストブルー最強の獣人が、黒いマフラーの少年の隣を歩いている。
それは、言葉よりも雄弁だった。
最初に反応したのは、腕自慢たちだった。
当然だ。
ロストブルーで誰かが上に立つ気配を見せれば、最初に噛みつくのは暴力を商売にしている連中と決まっている。
「おいおい、ノイン。なんだそのチビは。新しい玩具か?」
そう笑った男は、次の瞬間には地面に顔面をめり込ませていた。
ノインがやったのではない。
ソルがやった。
正確には、フューリーから学んだばかりの呪術を使った。
足元に刻んだ簡易呪印が男の重心を崩し、そこへ不可視の力を叩き込む。
男は何が起きたのか理解する前に地面へ落ちた。
「……今のは、なんだ」
周囲の誰かが呟く。
ソルは答えない。
答えず、倒れた男の後頭部を踏みつける。
「俺に従え」
静かな声だった。
だが、通りにはよく響いた。
「従わねぇなら、好きにしろ。殺しに来い。罠を張れ。寝首を掻け。毒を盛れ。何でもいい」
ソルは周囲を見回す。
死んだ目の連中。
怒りと怯えと好奇心の入り混じった視線。
その全部を、真正面から受け止める。
「――全部、潰す」
言葉は短かった。
だが、それで十分だった。
ノインが隣で笑った。
「言うじゃねぇか、小僧」
「小僧はやめろ」
「弱い間は小僧だ」
「なら、一生呼んでろ」
「そうする」
そのやり取りに、何人かが引きつった笑みを浮かべた。
ロストブルー最強の男が、殺さずに会話している。
それだけで、十分異常だった。
噂はすぐに広がった。
――ノインを従えたガキがいる。
いや、従えたんじゃない。横に立たせたんだ。
アインツが背後にいるらしい。
フューリーの呪術も使うらしい。
――あいつは死なない。
何度潰しても戻ってくる。
黒いマフラーの王だ。
太陽だ。
空のない地下に昇った、黒い太陽だ。
噂は勝手に歪み、膨らみ、走っていく。
ソルはそれを止めなかった。
むしろ、利用した。
◆◇◆
次に必要だったのは、道だった。
人も物も情報も、流れなければ腐る。
ロストブルーはすでに腐っていた。
盗みはあっても交易はない。
喧嘩はあっても秩序はない。
誰もが奪うことだけを考え、明日も使える道を壊している。
それを変えるには、裏道を知る者が必要だった。
――ズィーヴァ。
またの名を、イーリス。
スリ仲間の古株。
彼女はソルがガキの頃から、すでに路地の影にいた。
小柄で、身軽で、目端が利き、笑うときはいつも何かを隠しているような顔をする女だった。
金を盗む。
鍵を開ける。
追手を撒く。
誰が誰と繋がっているかを覚える。
どの路地に逃げれば生き残れるかを知っている。
そういう技術において、ズィーヴァはロストブルーでも指折りだった。
「へえ。ソルが王様ねぇ」
話を持ちかけたとき、ズィーヴァは腹を抱えて笑った。
うずくまるほど笑った。
ソルが不機嫌そうに睨むと、さらに笑った。
「いや、悪い悪い。だってさぁ、あのちびソルが王様って。いやぁ、人生わかんないもんだねぇ」
「笑い終わったか」
「まだ」
「殺すぞ」
「王様が初手で殺すぞはよくないんじゃない?」
「俺は品のいい王様じゃねぇ」
「知ってる。スリの王様だもんね」
ズィーヴァはにやりと笑う。
「で? あたしに何してほしいの?」
「道を作れ」
「道?」
「盗品、食料、薬、魔瘴石。流せるものを流す。奪い合いで腐らせるくらいなら、俺のところへ持ってこさせろ。分配する」
「ふぅん」
「ついでに、どこの連中が邪魔するか調べろ」
「邪魔したら?」
「ノインに行かせる」
「うわ、横暴」
「王様だからな」
ズィーヴァは目を細めた。
からかうような笑みだったが、その奥には鋭い観察がある。
「それ、うまくいくと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあなんでやるの?」
「やらなきゃ終わる」
「終わる?」
「この地下がな」
ズィーヴァの笑みが、少しだけ消えた。
ソルは続けない。
彼女は頭がいい。
必要以上に説明しなくても、何かあると察する。
「……ねえ、ソル」
「あ?」
「それ、スリの仕事じゃないよ」
「知ってる」
「王様の仕事でもないかも」
「なら何だ」
「たぶん、馬鹿の仕事」
「上等だ」
ズィーヴァはしばらくソルを見ていた。
それから、肩を竦める。
「いいよ。乗ってあげる」
「軽いな」
「だって面白そうだし」
「それだけか」
「それだけじゃだめ?」
ズィーヴァは笑う。
「それに、あんたが本気でそんな馬鹿やるってんなら、見てみたいじゃん。空のない地下に、太陽なんてものが昇るのか」
「……」
「昇らなかったら、あたしが一番に盗んで逃げてあげるよ。王冠も、財布も、心臓も」
「王冠なんざねぇよ」
「じゃあ、マフラーかな」
「触ったら殺す」
「はいはい、こわいこわい」
そうして、ズィーヴァが加わった。
暴力。
呪術。
情報。
少しずつ、ソルの手札は増えていった。
◆◇◆
王国と呼ぶには、あまりにも粗末なものだった。
けれど、確かに形にはなった。
――ノインが暴力を抑えた。
厳密には、より大きな暴力で小さな暴力を黙らせた。
ロストブルーの喧嘩は消えない。
盗みも消えない。
恨みも、飢えも、薬も、酒も、全部残っている。
だが、以前とは違った。
子どもに手を出す者は消えた。
薬の奪い合いで人を殺す連中は見せしめにされた。
食料の流通を妨げる者は、ノインの縄張りに引きずられた。
――フューリーは治安維持のための呪印を各所に仕込んだ。
争いそのものを止めることはできない。
けれど、大きな暴発の前兆を察知し、被害を抑えることはできる。
彼女はいつも震えていた。
「こ、これ、本当に必要ですか……?」
「必要だ」
「人を縛る術式です。使い方を間違えれば、ひどいことになります」
「間違えねぇように使え」
「簡単に言わないでください……」
言いながらも、フューリーはやった。
人殺しが嫌いな彼女は、それでも人死にを減らすために呪術を使った。
――ズィーヴァは物資を流した。
隠し通路。
盗品の換金先。
使える倉庫。
腐った食料とまだ食える食料の見分け方。
薬師もどきの居場所。
地上から流れてきた物資の出所。
彼女は笑いながら、ロストブルーの裏側を縫った。
「いやぁ、王様業って大変だねぇ。ソル、顔死んでるよ」
「元からだ」
「それよりもっと死んでる」
「うるせぇ」
――ツヴァイは子どもたちに懐かれた。
本人にそのつもりはない。
ただノインの近くで丸くなっていると、いつの間にか小さな子どもが近づいてくる。
ノインの傍は怖い。
でも、ツヴァイの傍は温かい。
そうして、子どもたちはツヴァイの周りで眠るようになった。
ノインは露骨に嫌そうな顔をしたが、追い払わなかった。
「お前、保育所でも作る気か」
ソルが言うと、ノインは鼻を鳴らす。
「近づいてくるだけだ」
「追い払えよ」
「泣く」
「誰が」
「ツヴァイが」
「……」
ツヴァイは子どもたちに囲まれて、幸せそうに寝息を立てていた。
ソルは鼻で笑った。
「最強の男が、随分丸くなったな」
「殺すぞ」
「守るものは壊さないんじゃなかったのか」
「お前はまだ守るものじゃねぇ」
「ひでぇな」
そんな会話をする日が増えた。
アインツは全体を見ていた。
叡智の書を抱え、未来を読み、起こるはずの失敗を少しずつ減らしていく。
それでも、未来は完全には変わらない。
破滅の影は、常にあった。
遠く、しかし確実に近づいてくる。
――救済の魔女。
その名を口にするたび、空気が重くなる。
だが、ロストブルーの中には、初めて微かな秩序が生まれた。
粗末なものだ。
穴だらけで、脆くて、明日壊れるかもしれない。
けれど、それでも。
誰かが飢えれば、どこかから食料が届くようになった。
子どもが泣けば、誰かが拾い上げるようになった。
争いが起きれば、殺し合いになる前に止まることが増えた。
変わり始めていた。
ロストブルーが。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
◆◇◆
王座は、ズィーヴァが作った。
いや、作ったというより、盗んだ。
どこから持ってきたのかもわからない椅子の脚。
壊れた机の板。
古い金具。
誰かの店先から消えた布。
どこかの貴族が落としていったらしい装飾品の欠片。
それらを組み合わせて、彼女は妙な椅子を作った。
「はい、王様の椅子」
「いらねぇ」
「いるよ」
「いらねぇって言ってんだろ」
「でも王様には椅子が必要じゃん」
「俺は立ってりゃいい」
「立ちっぱなしの王様なんて嫌だよ。座んな」
ズィーヴァに背中を押され、ソルは不承不承その椅子に座った。
ぎし、と音が鳴る。
今にも壊れそうだった。
「これ座って大丈夫なのか」
「たぶん」
「たぶんで王を座らせるな」
「壊れたら縁起が悪いね」
「本当に殺すぞ」
ズィーヴァは笑った。
フューリーはおろおろしながら「補強しますか?」と言い、ツヴァイは「王様の椅子?」と首を傾げ、ノインは「似合わねぇ」と言った。
アインツだけが、静かにそれを見ていた。
ソルは不機嫌そうに頬杖をつく。
「で、満足か」
「うん」
ズィーヴァは満面の笑みで頷く。
「似合ってるよ、我らが王」
その言葉に、ソルの胸の奥が少しだけざわついた。
我らが王。
冗談のような呼び方だった。
だが、その呼び名はやがてロストブルーの中に広がった。
我らが王。
我らが太陽。
空無き大地の王。
ロストブルーの太陽。
ソルはそのたびに顔をしかめた。
だが、否定し続けるには、あまりにも多くの者がその名を使うようになっていた。
そして何より。
ルナが、その呼び方を気に入った。
「お兄ちゃん、王様なの?」
小さな妹が、目を輝かせて尋ねた。
ソルは言葉に詰まる。
「……違う」
「でも、みんな言ってるよ」
「みんな馬鹿なんだよ」
「お兄ちゃん、王様?」
「違う」
「王様!」
「違うっつってんだろ」
ルナは笑った。
その笑顔を見て、ソルはそれ以上否定できなかった。
彼は王になった。
なってしまった。
ただ妹を救うために走っていた少年は、気づけば空無き大地の王になっていた。
◆◇◆
そして――救済の魔女は来た。
その日、ロストブルーの空気は朝から重かった。
朝と呼べるものはない。
陽光結晶はいつもと同じように光っている。
だが、全員が何かを感じていた。
ノインは言葉少なだった。
ツヴァイはノインの袖をずっと握っていた。
フューリーは何度も術式を確認し、震える指で呪印をなぞっていた。
ズィーヴァは笑っていたが、その笑みはいつもより薄かった。
アインツは叡智の書を開き、ただ一言だけ告げた。
「来る」
ソルは王座から立ち上がった。
黒いマフラーを巻く。
ルナは母の傍にいた。
母はルナを抱きしめ、父は酒瓶ではなく古い斧を握っていた。
変わった。
確かに、変わったのだ。
前とは違う。
今度は一人ではない。
仲間がいる。
力がある。
知識がある。
準備がある。
王として積み上げたロストブルーがある。
だから、今度こそ。
そう思った。
思ってしまった。
中央区画に、女が現れた。
黒いローブ。
血のような瞳。
整いすぎた顔。
救済の名を冠する理不尽。
女は名乗らない。
ただ、ソルを見ていた。
ロストブルーも。
ノインも。
ツヴァイも。
フューリーも。
ズィーヴァも。
アインツも。
何も見ていない。
その血のような瞳は、ただソルだけを映していた。
【――ミツケタ】
女が言った。
歓喜のように。
祈りのように。
呪いのように。
【――アイシテ】
その声に、ソルの背筋が凍った。
意味がわからない。
会ったこともない。
名前も知らない。
なのに、その声は、どこか懐かしいものを引き裂くように響いた。
女の視線が、ソルの背後へ滑る。
ルナへ。
【――妬ましい】
次の瞬間、世界が裂けた。
「――ルナ!」
叫んだのは、誰だったのか。
ソルか。
母か。
父か。
それとも、ロストブルーの誰かか。
わからない。
わからないまま、戦いは始まった。
周囲の呪印が反応する。
フューリーが叫ぶ。
「結界、起動します!」
黒紫の光が走り、救済の魔女を囲う。
ノインが吠えた。
獅子の咆哮。
ロストブルー最強の男が、初手から全力で踏み込む。
ズィーヴァが裏道を使って背後へ回る。
ツヴァイが子どもたちを避難させる。
アインツが指示を飛ばす。
ソルは術式を展開し、魔瘴石の瘴気を圧縮する。
いける。
そう思った瞬間――ノインの右腕が飛んだ。
「――」
音が遅れて来た。
血が舞う。
ノインは止まらない。
片腕を失ってなお踏み込む。
だが、届かない。
救済の魔女は、ただそこにいるだけだった。
無関心。
憐憫にも似た、慈悲にも似た、けれどそのどちらでもない目で、ノインを見ていた。
次の瞬間、ノインの胸が裂けた。
「ノイン!」
ツヴァイの叫びが響く。
彼女が駆け出そうとする。
ソルは怒鳴った。
「行くな!」
だが、ツヴァイは止まらない。
止まれるはずがない。
ノインは彼女の獅子だった。
守るものだった。
そして、守ってくれるものだった。
そのノインが膝をつく。
ツヴァイは飛び出した。
救済の魔女の視線が、彼女へ向く。
ソルはその瞬間、空間を裂いた。
ツヴァイの前に出る。
「――〝バン〟!」
不可視の砲撃が放たれる。
圧縮された瘴気が空間を歪め、救済の魔女へ叩き込まれる。
直撃。
したはずだった。
だが、女はそこに立っていた。
傷一つない。
「……嘘でしょ」
ズィーヴァの声が聞こえた。
フューリーが呪術を重ねる。
拘束、妨害、反転、封印。
彼女が人を傷つけるためではなく、守るために学び続けた呪術が、一斉に展開される。
救済の魔女は、ゆっくりと手を上げた。
術式が、ほどけた。
フューリーが血を吐く。
「フューリー!」
ズィーヴァが叫ぶ。
彼女は走った。
速い。
スリとして生き、逃げ続け、盗み続けた足。
救済の魔女の背後へ回る。
その手には短刀。
刺すためではない。
気を逸らすためだ。
ズィーヴァは最初から、自分が通じると思っていない。
それでも走った。
ソルのために。
ロストブルーのために。
ルナのために。
「こっち見なよ、魔女サマ!」
救済の魔女が振り返る。
ズィーヴァは笑っていた。
次の瞬間、その体が壁へ叩きつけられた。
骨の折れる音がした。
――ソルの中で、何かが切れた。
「――ッァアアアアアア!」
術式を重ねる。
魔瘴石を砕く。
瘴気を引き出す。
圧縮する。
さらに圧縮する。
ノインが叫ぶ。
ツヴァイが泣く。
フューリーが立とうとする。
アインツが何かを叫ぶ。
聞こえない。
聞きたくない。
ソルの全身に、黒紫の光が走った。
「『始源』――」
全ての力を、一点へ集める。
「〝ビッグバン〟!」
破滅が放たれた。
空間が歪む。
地面が裂ける。
陽光結晶の光が揺らぐ。
それはロストブルーの一角を吹き飛ばすほどの一撃だった。
救済の魔女の姿が、黒い光に呑まれる。
静寂。
土煙。
崩れる瓦礫。
そして。
女は、立っていた。
変わらず。
何も変わらず。
「……なんで」
ソルの声が漏れた。
救済の魔女の目が、こちらを見る。
血のような瞳。
その奥にある感情を、ソルは読めなかった。
憐れみか。
愛か。
無関心か。
それとも。
女の唇が動いた。
【――アイシテル】
その手が、ソルへ伸びた。
胸を貫かれた感覚があった。
痛みより先に、寒気が来た。
――死ぬ。
そう理解した瞬間、女の顔が歪んだ。
悲しそうに。
嬉しそうに。
壊れたように。
【――アイシテル】
それは声だったのか。
願いだったのか。
呪いだったのか。
わからない。
ただ、その瞬間。
ソルの死が、世界から剥がされた。
◆◇◆
赤子の泣き声がする。
おぎゃあ、おぎゃあと。
ソルは目を覚ました。
腕の中には、生まれたばかりのルナがいた。
「……」
戻った。
いや。
戻された。
失敗した。
王になっても。
仲間を集めても。
ノインがいても、ツヴァイがいても、フューリーがいても、ズィーヴァがいても、アインツがいても。
勝てなかった。
救えなかった。
だが、終われない。
――ソルはまた走った。
二度目の王国を作った。
前より速く。
前より正確に。
前より無駄なく。
ノインを仲間にする方法を知っている。
ツヴァイが狙われる日を知っている。
フューリーの授業を先取りできる。
ズィーヴァを口説く言葉も知っている。
アインツがどこまで知っているかも、もう知っている。
前よりうまくやれる。
そう思った。
だが、また負けた。
――三度目。
負けた。
――四度目。
負けた。
――五度目。
負けた。
――十度目。
ノインが死んだ。
――二十度目。
フューリーが自分の呪術に呑まれて死んだ。
――三十度目。
ズィーヴァがルナを逃がすために囮になった。
――四十度目。
ツヴァイがノインの死体に縋ったまま動かなくなった。
――五十度目。
アインツが叡智の書を抱え、何も言えずに目を閉じた。
――六十度目。
ルナが、また死んだ。
何度やっても。
何度繰り返しても。
何度積み上げても。
勝てない。
勝てないのだ。
ソルは、勝てない。
◆◇◆
そして、ソルは違和感に気づき始めた。
死ねば戻る。
それは変わらない。
だが、戻る場所が違う。
ノインに殺されたときは、ノインへ挑む前に戻った。
フューリーの呪術を学ぶ途中で死んだときは、修行の始まりへ戻った。
使者を出し、道を誤り、外へ届く前に死んだときは、その選択の前へ戻った。
だが、救済の魔女に殺されたときだけは違う。
――必ず、ルナの産声へ戻る。
あの日へ。
ソルが、兄になった日へ。
なぜなのかは、わからない。
わからないが、確かなことが一つだけある。
これは、ソルのための力ではない。
死をなかったことにしているのではない。
死が、ソルから剥がされている。
死んだはずの自分が消えない。
――戻るたびに、内側で何かが重くなる。
何度も死んだ自分が、魂の奥に沈んでいく。
折り重なっていく。
消えずに、溶けずに、ソルという器の内側へ押し込まれていく。
最初は、それを力だと思った。
呪術の出力が上がった。
瘴気を扱える量が増えた。
オドに触れる感覚が鋭くなった。
死ぬたびに、できることが増えていった。
だから、ソルは使った。
使えるものは全部使った。
自分の死も。
積み上がった記憶も。
魂の重さも。
仲間の死に様さえも。
それでも、勝てなかった。
◆◇◆
何度目かの敗北のあと、ソルは王座に座っていた。
血に濡れた王座だった。
王座と呼ぶには粗末な椅子。
ズィーヴァが盗んできた材料で作った、今にも壊れそうな椅子。
そこに、ソルは座っていた。
足元には、仲間たちが倒れている。
ノインが膝をついている。
その牙は折れ、爪は砕け、獅子の瞳から光が消えかけていた。
ツヴァイの声がしない。
いつもノインの傍で丸くなっていた猫は、もう動かない。
フューリーの震える手は、もう術式を描けない。
人殺しが嫌いだと言った先生は、守るために呪いを使い尽くして倒れていた。
ズィーヴァの笑い声は聞こえない。
いつも軽く、いつも盗むように笑っていた女は、壁にもたれて血を吐いている。
アインツは叡智の書を抱えていた。
その目は、未来を読んでいるのではない。
ただ、諦めを読んでいた。
そして。
ルナが、いなかった。
「……またか」
声が出た。
自分の声とは思えないほど、乾いていた。
「また、負けた」
笑いが漏れた。
喉の奥から、壊れた音が漏れた。
「王になったんだぞ」
誰に言っているのか、ソル自身にもわからなかった。
「ノインを連れてきた。フューリーの呪術も覚えた。ズィーヴァに道を作らせた。アインツの本も読んだ。ツヴァイが笑ってくれる未来も見た。ロストブルーも変えた。酒を減らした奴もいた。薬をやめた奴もいた。子どもが笑う場所だって作った」
拳が震える。
「なのに、なんでだ」
答えはない。
答える者は、もう誰もいない。
ただ、どこかで女の声がする。
【――ミツケタ】
優しい声だった。
【――アイシテ】
温かい声だった。
【――妬ましい】
吐き気がするほど、愛に満ちた声だった。
【――アイシテル】
「黙れ」
ソルは呟いた。
【――死なないで】
「黙れ……!」
その声は、何度も聞いた。
ルナが死ぬとき。
救済の魔女が現れるとき。
自分の胸が貫かれるとき。
世界が剥がれ落ちる直前。
必ず、聞こえる。
愛してる。
死なないで。
その言葉が、ソルには呪いにしか聞こえなかった。
「……ふざけるな」
ソルは吐き捨てる。
「そんなものが愛なら」
世界が暗くなる。
また戻る。
また、ルナが生まれる日に。
また、最初から。
――ゼロから。
「俺は、愛なんざいらねぇ」
それでも、ソルは戻された。
◆◇◆
異変に気づいたのは、フューリーだった。
その周回で、ソルはいつもより長く呪術を使った。
救済の魔女に届かないことなど、もうわかっていた。
それでも届かせるために、ソルは無理やり術式を重ねた。
瘴気を練る。
オドに触れる。
魂を削り、魂を燃やし、魂を叩きつける。
そのたびに、できることが増えていく。
限界が伸びていく。
だが、それは成長ではなかった。
フューリーは、ソルの背後にあるものを見てしまった。
黒く、重く、巨大な魂。
一人分ではない。
何十人。
何百人。
いや、それ以上。
それほどの魂が、一つの器に縫い止められている。
「ソルさん」
フューリーの声は震えていた。
「……何だ」
「もう、これ以上は駄目です」
「何がだ」
「これ以上、死んではいけません」
ソルは眉をひそめる。
「今さら何言ってんだ。死ねば戻る」
「戻った先の器も、貴方なんです」
その言葉に、ソルは黙った。
フューリーは唇を噛み、それでも言葉を続ける。
「ソルさんの魂は、本来ありえないほど大きいです。大きい、というより……重なっています。まるで、何十人、何百人もの魂を、一つの器に無理やり縫い合わせたみたいに」
「他人の魂ってことか」
「違います」
フューリーは首を振った。
「もっと、恐ろしいです」
「何がだ」
「全部、ソルさんです」
静寂が落ちた。
「死んだ貴方。戻った貴方。敗れた貴方。諦めなかった貴方。その全部が、今の貴方に重なっている。貴方は戻っているのではありません。増えているんです」
「増えてるなら、いいじゃねぇか」
ソルは笑った。
笑おうとした。
「強くなってるってことだろ」
「違います」
フューリーの声が鋭くなった。
「これは成長ではありません。膨張です」
ソルの笑みが止まる。
「魂が大きくなれば、確かに力は増します。呪術の出力も、瘴気を扱う量も、オドへの干渉力も上がる。ですが、肉体は違います。器は、貴方一人分のままなんです」
「……」
「このまま死を重ねれば、いずれ貴方の器は魂に耐え切れなくなります。そうなれば、待っているのは……考えるのも悍ましい末路です」
「死ねば戻る」
「戻っても壊れます」
フューリーは、泣きそうな顔で言った。
「戻った瞬間に、貴方の肉体が魂に耐え切れず壊れる。壊れて死ぬ。死ねばまた戻る。戻ればまた壊れる。永遠に、壊れ続ける」
ソルは、息を止めた。
死ねば戻る。
それだけが、最後の支えだった。
どれだけ痛くても。
どれだけ苦しくても。
どれだけ負けても。
戻れるなら、まだやれる。
だが。
戻った先さえ、もう壊れるのなら。
死ぬことすら、次に進む道ではなくなるのなら。
「じゃあ」
声が掠れた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ」
誰も答えない。
「諦めろってのか」
ソルの拳が震える。
「ここまで来て、ここまでやって、何度も死んで、何度も負けて、それでも……俺は、ルナを救えねぇのか」
「ソルさん……」
「俺は、また」
声が割れる。
「また、何も救えねぇのかよ」
フューリーは俯いた。
アインツが、何かを言いかけた。
だが、それより早く、フューリーが顔を上げた。
「……ソル」
初めて、彼女は呼び捨てにした。
ノインが目を細める。
ツヴァイが息を呑む。
ズィーヴァの笑みが消える。
アインツだけが、苦い顔をした。
「戦力を、集めましょう」
「……戦力?」
「次で、終わりにするんです」
フューリーの声は震えていた。
それでも、彼女は止まらなかった。
「もう何度も挑むのではなく、次の戦いで必ず勝つ。そのために、使えるものをすべて使うんです」
「ロストブルーには、もうねぇよ。全部試した。全部やった。全部使った。もう、なにも……」
「――外には、あります」
その一言で、部屋の空気が止まった。
外。
ロストブルーの外。
空のある世界。
ソルは、初めてその言葉を本当の意味で意識した。
なぜ考えなかった。
なぜ、ここだけで戦っていた。
外に行けば、まだ何かあるかもしれない。
救済の魔女を殺せる力が。
この永劫回帰の仕組みを暴く術が。
ソルの魂を壊さずに済む方法が。
だが、その微かな光を、アインツの声が凍らせた。
「外に救いはない」
低い声だった。
フューリーが唇を噛む。
ソルが、アインツを見る。
「知ってたのか」
「知っていた」
「なら、なんで言わなかった」
「言う必要がなかった」
「ふざけんな」
ソルの声が低くなる。
「外に救いはない。見れば戻れなくなる。だから黙っていた」
「誰が決めた」
「俺だ」
「テメェが、俺の道を決めんのか」
アインツは答えない。
ソルは立ち上がる。
「外に救いがあるかどうかは、俺が見る」
「見れば、戻れなくなる」
「もうとっくに戻れねぇよ」
アインツは、静かに目を閉じた。
その沈黙は、長かった。
やがて、彼は叡智の書を閉じる。
「いいだろう」
その声は重かった。
「なら、見せてやる」
アインツは立ち上がった。
その声は、これまでになく重かった。
「ヴォラキアを滅ぼし、黒蛇を葬った黒龍
――【ジズ】」
一つ名が落ちるたび、部屋の空気が沈んでいく。
「カララギを沈め、白鯨を喰らった海の王
――【レヴィアタン】」
誰も口を挟まなかった。
「グステコを踏み均し、大兎を飲み込んだ大地の災厄
――【ベヒモス】」
ソルは眉をひそめた。
国を滅ぼした災厄。
三大魔獣すら呑み込んだ、世界を終わらせた獣たち。
外に希望などない。
その言葉の意味を、アインツは一つずつ突きつけている。
だが、アインツはそこで言葉を切った。
重苦しい沈黙が落ちる。
そして、次に続いた言葉は、ソルの予想に反するものだった。
「――そして、それら三大神獣を駆逐した最後の英雄」
ソルの目が細くなる。
アインツは告げる。
その男の名を――。
「『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア」
◆◇◆