ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十七.四話『月と太陽の物語』第五昇【英雄】

◆◇◆

 

 ロストブルーの外へ出る。

 それは、空無き大地に生きる者にとって、ただの移動ではなかった。

 

 地上へ出る。

 空を見る。

 最後の国へ足を踏み入れる。

 それは、地下で生まれ、地下で育ち、地下で死ぬしかない者たちにとって、伝説や夢想に近い響きを持っている。

 もっとも、ロストブルーに生きる多くの者は、そんな夢をとうに捨てていた。

 

 空など見たことがない。

 本物の太陽など知らない。

 風がどう吹くのかも、雨がどんな匂いをしているのかも、地平線がどこまで続いているのかも知らない。

 

 知ったところで、何になる。

 どうせ地上は自分たちを捨てた場所だ。

 追い出した側の世界だ。

 ならば、空など知らないままでいい。

 そうやって、諦める。

 

 だが、ソルは諦められなかった。

 何度も救済の魔女へ挑み、何度も仲間を死なせ、何度もルナを失った。

 王になっても届かない。

 ノインを得ても届かない。

 ツヴァイがいても、フューリーの呪術を積み上げても、ズィーヴァの道を使っても、アインツの叡智を借りても、勝てない。

 

 ならば、外だ。

 ロストブルーの外に、まだ何かがあるはずだ。

 もっと強い力。

 もっと大きな可能性。

 救済の魔女を殺せるだけの何か。

 その最後の可能性を求めて、ソルはロストブルーの外へ出る。

 

 空無き大地の王が。

 本物の空の下へ。

 

 

◆◇◆

 

 

 出口は、王座の裏にあった。

 

 王座と呼ぶには粗末な椅子。

 ズィーヴァが盗んできた廃材を組み合わせ、半ば冗談で作ったそれ。

 その奥、ひび割れた石壁の裏側に、隠された道があった。

 

 ズィーヴァが壁を叩く。

 こつ、こつ、こん。

 音が違う場所を確かめると、彼女は細い針金を取り出し、壁の隙間へ差し込んだ。

 

「まさか王座の裏に抜け道があるとはねぇ。王様ってのは、逃げ足も大事ってことかな?」

 

「俺も今知った」

 

「王様なのに?」

 

「王様だからって何でも知ってるわけじゃねぇよ」

 

「じゃあ王様って何する人?」

 

「面倒事を押し付けられるやつだ」

 

「うわ、なりたくなーい」

 

 ズィーヴァは軽く笑いながら、手元を動かす。

 数秒後、石壁の奥で鈍い音がした。

 壁の一部が、ゆっくりと沈む。

 

「はい、開いた」

 

「便利だな、お前」

 

「もっと褒めてもいいよ」

 

「調子に乗るからやめとく」

 

「けち」

 

 軽口を叩くズィーヴァの表情は、いつも通りに見えた。

 だが、その指先はわずかに硬い。

 ロストブルーの外へ出る。

 その意味を、彼女もわかっている。

 

 ノインは無言だった。

 大きな腕を組み、暗い抜け道の奥を睨んでいる。

 ツヴァイはその袖を握っていた。

 フューリーは不安そうに荷物を抱えている。

 札、薬、魔瘴石、呪具。

 必要そうなものを山ほど持ってきたせいで、小柄な彼女は荷物に潰されそうだった。

 

「おい、少し寄越せ」

 

 ソルが手を伸ばすと、フューリーは首を横に振った。

 

「だ、大丈夫です。これは私が持ちます」

 

「明らかに大丈夫じゃねぇだろ」

 

「でも、必要なものなので……」

 

「必要なものなら、なおさら落とすな」

 

「うっ……」

 

 結局、荷物の半分をノインが片手で持った。

 本人は露骨に面倒そうだったが、フューリーが何度も頭を下げると、さらに面倒そうな顔になった。

 

「礼はいらねぇ。うるせぇ」

 

「す、すみません……ありがとうございます……」

 

「だから礼はいらねぇっつってんだろ」

 

 ツヴァイがくすくす笑う。

 ソルはその光景を見て、胸の奥に妙な感覚を覚えた。

 

 仲間がいる。

 そう思うたび、同時にその全員が死ぬ光景も蘇る。

 ノインの腕が飛ぶ。

 ツヴァイの声が途切れる。

 フューリーの手が止まる。

 ズィーヴァが血を吐く。

 アインツが叡智の書を握り締めたまま、何も言えなくなる。

 それを、何度も見た。

 何度も見て、何度も繰り返した。

 

 だからこそ、外へ行く。

 このまま繰り返しても勝てないのなら、未知の手札を取りに行くしかない。

 

「行くぞ」

 

 ソルの声で、全員が動いた。

 アインツが先頭に立つ。

 古びた外套を翻し、手にした小さな灯りを掲げる。

 その灯りは、陽光結晶の光とは違った。

 もっと弱く、もっと頼りなく、しかし妙に温かい色をしていた。

 

 抜け道は狭かった。

 湿った石壁。

 低い天井。

 腐った木材の匂い。

 どこかで水が滴る音。

 ロストブルーの下に、さらに古い道がある。

 どれほど昔に作られたものなのか、ソルにはわからなかった。

 

「この道は何だ」

 

 ソルが問うと、アインツは前を向いたまま答えた。

 

「避難路だ」

 

「誰の」

 

「かつて、ルグニカから追放された者たちの」

 

「……」

 

「ロストブルーは自然にできた場所ではない。最初は避難所だった。国に見捨てられ、地上で生きられなくなった者たちが、地下へ逃げた」

 

「それが今じゃ掃き溜めか」

 

「時間は、救いも腐らせる」

 

 アインツの声は静かだった。

 

「最初は、ここにも秩序があった。約束があり、守るべき掟があり、地上へ戻る希望があった」

 

「希望ね」

 

「だが、地上は戻る場所ではなくなった。世界は崩れ、国は狭まり、人は余裕を失った。地下に逃げた者たちは、次第に忘れられた。忘れられた者たちもまた、自分たちが何者だったかを忘れた」

 

 アインツは一度だけ足を止めた。

 

「そして、ロストブルーになった」

 

 誰も何も言わなかった。

 ソルは壁に触れる。

 冷たい石。

 この道を通った者たちは、何を思っていたのだろう。

 逃げられると思ったのか。

 また地上へ戻れると思ったのか。

 子どもに空を見せたいと願ったのか。

 それとも、ただ生き延びたかっただけなのか。

 わからない。

 

 だが、今のソルには一つだけわかった。

 ロストブルーは、最初から掃き溜めだったわけではない。

 誰かの最後の希望が腐った果て。

 

 それが、あの地下なのだ。

 

 

◆◇◆

 

 

 道は長かった。

 まっすぐではない。

 何度も折れ、傾き、時には崩れた壁を乗り越え、時には膝まで水に浸かって進んだ。

 途中、古い標識らしきものが壁に刻まれていた。

 文字は掠れて読めない。

 だが、フューリーがそれを見て、そっと指でなぞる。

 

「……祈り、みたいです」

 

「読めるのか」

 

「少しだけ。古い呪印に近い形が混ざっています」

 

「何て書いてある」

 

 フューリーは目を細める。

 

「――いつか、空の下へ」

 

 その言葉に、誰もが黙った。

 ツヴァイが小さく呟く。

 

「空って、どんなの?」

 

 誰も答えられなかった。

 ロストブルーで生まれた者は、本物の空を知らない。

 ソルも知らない。

 天井が崩れたあの日、穴の向こうに見えたものが空だったのかもしれない。

 だが、あれは終わりの光景だった。

 空を見た、とは言えない。

 

「上に行けばわかる」

 

 ソルは言った。

 ツヴァイはノインの袖を握る手に少し力を込めた。

 

「ノインも知らない?」

 

「知らねぇ」

 

「そっか」

 

「怖いか」

 

「ちょっと」

 

「なら下がってろ」

 

「やだ」

 

 即答だった。

 ノインはため息を吐く。

 そのやり取りに、ズィーヴァが笑う。

 

「空かぁ。盗めるかな」

 

「無理だろ」

 

「わかんないよ。あたし、まだ試したことないし」

 

「盗めたらどうすんだ」

 

「ロストブルーに持って帰る」

 

 ズィーヴァは軽く言った。

 冗談のようだった。

 だが、その言葉には少しだけ本気が混じっていた。

 ソルは何も言わず、前を見る。

 いつか、ルナに空を見せたいと思った。

 

 青い空。

 広い世界。

 屋台で食べ歩いて、海を見て、笑って。

 それが、ソルとルナの世界征服だった。

 今、ようやく空へ近づいている。

 だが、胸は少しも軽くならなかった。

 

 嫌な予感がする。

 ソルの嫌な予感は、よく当たる。

 

 

◆◇◆

 

 

 出口は、瓦礫の下にあった。

 アインツが古い仕掛けを外し、ノインが崩れた石を押し退ける。

 その瞬間、冷たい風が吹き込んだ。

 

 誰もが動きを止めた。

 風。

 地下の淀んだ空気ではない。

 流れている。

 どこか遠くから来て、どこか遠くへ行く空気。

 

 ツヴァイの耳がぴんと立つ。

 フューリーが目を見開く。

 ズィーヴァが息を呑む。

 ノインですら、わずかに眉を動かした。

 ソルは風を受けながら、ゆっくりと外へ出た。

 

 そして、初めて本物の空を見た。

 

 広かった。

 あまりにも広かった。

 天井がない。

 どこまでも続いている。

 上を見上げても、そこには石も鉄骨も陽光結晶もない。

 

 ただ、空がある。

 かつて、ルナに見せたいと思ったもの。

 ロストブルーの誰もが知らず、そして諦めたもの。

 

 空。

 

「……」

 

 言葉が出なかった。

 だが、その感動はすぐに死んだ。

 視線を下ろした瞬間、そこに広がっていたのは、荒廃した世界だった。

 

 焼け落ちた村。

 崩れた街道。

 遠くに見える、半ば折れた塔。

 黒く焦げた大地。

 枯れた木々。

 白骨化した竜車の残骸。

 そして、風に乗ってくる死の匂い。

 

 地上は、美しい場所ではなかった。

 救いとは到底言い難い。

 そこにあったのは、ただ壊れた世界だった。

 

 

「……なんだよ、これ」

 

 

 ズィーヴァの声が震えていた。

 フューリーが口元を押さえる。

 ツヴァイはノインの背に隠れた。

 ノインは黙っていた。

 アインツだけは、知っていた顔をしている。

 ソルはゆっくりと振り返った。

 

「アインツ」

 

「これが外だ」

 

 アインツは淡々と言った。

 

「……」

 

「これが、ロストブルーの外にある世界だ」

 

 ソルは答えなかった。

 答えられなかった。

 地上に出れば、何かがあると思っていた。

 

 ロストブルーにはない力。

 ロストブルーにはない知恵。

 ロストブルーにはない、救い。

 けれど、そこにあったのは救いではなかった。

 ただ、滅びの跡だった。

 

「言っただろう」

 

 アインツが続ける。

 

「ヴォラキアを滅ぼした黒龍ジズ。カララギを沈めたレヴィアタン。グステコを踏み均したベヒモス」

 

「……」

 

「あれは御伽噺じゃない。誇張された災害でもない。ここにあるものが、その爪痕だ」

 

 アインツの声は、冷たくも熱くもなかった。

 ただ、事実だけを並べる声だった。

 

「黒龍ジズが空を覆い、黒蛇ごとヴォラキアを焼いた」

 

 風が、焦げた大地を撫でる。

 

「レヴィアタンが海を裂き、カララギを沈め、白鯨すら海底へ引きずり込んだ」

 

 遠く、ひび割れた地平線が揺れて見えた。

 

「ベヒモスが大地を踏み砕き、グステコを潰し、大兎の群れごと呑み込んだ」

 

 ツヴァイが、ノインの袖を握る手に力を込める。

 フューリーは口元を押さえ、ズィーヴァはもう笑っていなかった。

 ノインですら、言葉を失っていた。

 

「そして、それを招いたのが救済の魔女だ」

 

 アインツは言った。

 

「魔女が、これをやった」

 

 ソルの奥歯が鳴った。

 地上に出れば、希望があると思っていた。

 もっと豊かな国が、もっと大きな力が、もっと強い誰かがいると思っていた。

 だが、世界そのものが壊れている。

 ロストブルーは世界の掃き溜めだと思っていた。

 

 違った。

 世界がもう、掃き溜めなのだ。

 ロストブルーは、その中でもさらに見捨てられた者たちの行き着く底。

 最後の国からすら追い出された者たちの、終着点。

 

「……ふざけやがって」

 

 ソルは呟いた。

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。

 救済の魔女か。

 世界か。

 空か。

 それとも、まだどこかに希望があると思っていた自分か。

 

「行くぞ」

 

 アインツが言った。

 

「どこへ」

 

「ルグニカ王都だ」

 

 王都。

 最後の国の中心。

 かつて王がいた場所。

 今は王なき王国の残骸。

 

「そこにいる」

 

 アインツは短く答えた。

 

 

「剣聖がな」

 

 

◆◇◆

 

 

 王都までの道は、沈黙に満ちていた。

 地上の景色は、ロストブルーとは違う形で壊れていた。

 地下には密度があった。

 人の悪意と体臭と酒と薬と血が詰まっている。

 息苦しいほど、生きている者たちの残骸で満ちていた。

 

 だが地上は、空白だった。

 人がいない。

 声がしない。

 かつて人が住んでいた痕跡だけが残り、そこに生者はいない。

 崩れた家。

 焼けた畑。

 折れた標識。

 

 誰かが最後まで抱えていたらしい人形。

 ツヴァイがそれを見つけて、足を止めた。

 小さな布人形だった。

 泥に汚れ、片腕が千切れている。

 ツヴァイはそれを拾い上げ、じっと見た。

 

「……子ども、いたのかな」

 

「いたんだろ」

 

「今は?」

 

「いねぇ」

 

 それだけだった。

 ツヴァイは人形をそっと道端に置いた。

 ノインは何も言わなかった。

 ズィーヴァはいつもの軽口を言わなくなった。

 フューリーは時折、道端に残った痕跡を見て、祈るように目を閉じた。

 ソルは歩き続けた。

 立ち止まれば、何かが崩れそうだった。

 

 やがて、王都が見えた。

 かつては壮麗だったのだろう。

 巨大な城壁。

 街を囲む石造りの外郭。

 遠くに見える王城。

 だが、今はその全てが傷ついていた。

 城壁はところどころ崩れ、門は補修跡だらけ。

 王城の一部は焼け落ち、街の中には煙が上がっている。

 それでも、まだ人がいた。

 わずかながら、生きている者たちが。

 

 兵士。

 避難民。

 子ども。

 老人。

 負傷者。

 祈る者。

 最後の国。

 その名に相応しいほどの威厳は、もうない。

 だが、それでもそこは最後の砦だった。

 

「……ここが、王国」

 

 ズィーヴァが呟く。

 その声には、失望とも畏怖ともつかない色があった。

 

「案外、ボロいね」

 

「ボロいな」

 

 ソルは短く答えた。

 ロストブルーと何が違うのか。

 そう思いかけて、すぐに違うと気付く。

 ここには、まだ守られている者たちがいる。

 ロストブルーは、守られなかった者たちの場所だ。

 その差は、決定的だった。

 

 

◆◇◆

 

 

 ラインハルト・ヴァン・アストレアは、王都の外縁にいた。

 

 赤い髪。

 青い瞳。

 端正な顔立ち。

 そこに立っているだけで、周囲の空気が整うような存在感。

 荒廃した世界の中で、その男だけが壊れていなかった。

 

 瓦礫の街。

 煤けた城壁。

 傷ついた兵士。

 疲れ切った民。

 その中心にいてなお、男は英雄だった。

 真実、英雄であり、英雄でしかない男。

 

 彼はこちらに気付くと、静かに振り返った。

 その視線がソルを捉える。

 ソルの全身が、無意識に強張った。

 ――強い。

 見ただけでわかる。

 ノインが低く唸った。

 

「……なんだ、ありゃ」

 

 ロストブルー最強の男が、そう呟いた。

 その声には、珍しく警戒があった。

 アインツが一歩前へ出る。

 

「ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

 赤髪の男はアインツを見る。

 そして、次にソルを見た。

 

「君が、ソルか」

 

 その一人称は、若い英雄のものではなかった。

 姿はまだ美しく、背筋は真っ直ぐで、声も澄んでいる。

 だが、その響きには歳月があった。

 世界の終わりを見届けた者の、静かな重さがあった。

 ソルは目を細める。

 

「知ってるのか」

 

「噂は聞いている。ロストブルーに王が現れたと」

 

 フェルトやズィーヴァが言えば冗談に聞こえるその言葉も、ラインハルトが言うと奇妙に重かった。

 ソルは鼻で笑う。

 

「掃き溜めの王様なんざ、いい噂じゃねぇだろ」

 

「それでも、誰かが立ったということだ」

 

「……」

 

「それには意味がある」

 

 穏やかな声だった。

 敵意はない。

 侮りもない。

 ただ真っ直ぐに、ソルという存在を見ている。

 そのことが、ソルには少し不快だった。

 

「ラインハルト」

 

 アインツが言った。

 

「話がある」

 

「ああ。聞こう」

 

 ラインハルトはすぐに頷いた。

 あまりにも真っ直ぐだった。

 その姿勢すら、ソルの神経を逆撫でした。

 この男はたぶん、どんな相手にもこうなのだ。

 貧民だろうが、王族だろうが、敵だろうが、見捨てられた者だろうが。

 正しく向き合う。

 だから英雄なのだろう。

 だからこそ、腹が立つ。

 

「ロストブルーを救うために、お前の力が借りたい」

 

 ソルは言った。

 頼むというには、あまりにも硬い声だった。

 命令というには、あまりにも切実だった。

 ラインハルトの表情が、わずかに曇る。

 

「救済の魔女が来る。あの地下は終わる。俺たちだけじゃ勝てない」

 

 ソルは真正面から言う。

 

「だが、お前がいれば勝てるかもしれない」

 

 その言葉に、ノインが何も言わない。

 不満げでも、怒ってもいない。

 それほどまでに、ラインハルトは別格だった。

 ラインハルトは静かにソルを見た。

 そして、短く言った。

 

「――すまないが、それはできない」

 

 その顔には、確かに申し訳なさがあった。

 だが、伏せられた声とは裏腹に、その双眸には決して揺らがぬ意思が宿っている。

 ソルの胸の奥が冷える。

 

「できない、ってか」

 

「私は、ここを離れられない」

 

「ロストブルーにもまだ生きてる奴らがいる」

 

「知っている」

 

「子どももいる。亜人も、女も、地上から追い出されて、行き場を失って、地下に逃げ込んだ奴らだ」

 

「それも知っている」

 

「なら、なんでだ」

 

 ソルの声が低くなる。

 

「なんで、助けに来ない」

 

 ラインハルトは目を伏せなかった。

 逃げることも、言い訳することもなかった。

 

「私がここを離れれば、この国が落ちる」

 

「もう落ちてるだろ」

 

「まだ生きている者がいる」

 

「ロストブルーにもいる」

 

「そうだ」

 

「なら――」

 

「だからこそ、私は選ばなければならない」

 

 選ぶ。

 その言葉に、ソルの奥歯が鳴った。

 嫌いな言葉だった。

 何度も何度も迫られた地獄の名前だった。

 ラインハルトは続ける。

 

「私は英雄と呼ばれてきた。だが、全てを救えるわけではない。私が一歩動けば、私が守っていた場所から命がこぼれる」

 

「……」

 

「私がロストブルーへ行けば、王都に残った者たちは死ぬ」

 

「だから、俺たちは死ねって?」

 

「違う」

 

「同じだろうが」

 

 ソルの声が震えた。

 怒りだけではない。

 理解しているからこそ、震えていた。

 

 ラインハルトは悪くない。

 この男は、正しい。

 誰よりも正しく、誰よりも誠実で、誰よりも英雄に相応しい。

 王都を守らなければならない。

 最後の国を捨てることはできない。

 ここにいる生き残りを見捨てられない。

 

 それは正しい。

 正しすぎるほどに正しい。

 だから、ロストブルーは救われない。

 

「お前が正しいのはわかる」

 

 ソルは言った。

 

「お前がここを離れられないのもわかる。悪くねぇことも、わかってる」

 

 拳を握る。

 

「でもな、それじゃあロストブルーは救われねぇんだよ」

 

「ああ」

 

 ラインハルトは静かに頷いた。

 今度は謝らなかった。

 どちらにせよ、ロストブルーは救われない。

 

 世界最強の男が。

 誰よりも英雄に近い男が。

 ただ、そこに立っていることしかできなかった。

 

 ――その瞬間、ソルは悟った。

 英雄には頼れないのだと。

 

 

◆◇◆

 

 

 沈黙を破ったのは、アインツだった。

 

「なら、別のものを渡せ」

 

 ラインハルトの表情が、わずかに変わる。

 

「別のもの?」

 

「ああ」

 

 アインツは叡智の書を抱えたまま、静かに言った。

 

「以前、俺はお前に頼んだ」

 

 ラインハルトの目が、わずかに細くなる。

 

「ああ」

 

「だが、お前は拒んだ」

 

「拒むしかなかった」

 

「わかっている」

 

 アインツは頷いた。

 

「俺では足りなかった。俺は知っているだけの男だ。導くだけの男だ。ロストブルーを救いたいと願いながら、自分では王になれなかった男だ」

 

 ソルは、アインツを見る。

 何の話だ。

 そう問おうとして、声が出なかった。

 アインツは続ける。

 

「だが、今は違う」

 

 その視線が、ソルへ向く。

 

「こいつがいる」

 

「……」

 

「ソルは強くない。お前には届かないし、救済の魔女にも届かない。何度も敗れ、何度も折れかけ、それでも諦めなかっただけの男だ」

 

「褒めてんのか、それ」

 

 ソルが言う。

 アインツは答えない。

 

「だが、こいつはロストブルーの王だ」

 

 ラインハルトは、ソルを見る。

 それから、ノインを。

 ツヴァイを。

 フューリーを。

 ズィーヴァを。

 彼らはまだ、何も成していない。

 だが、誰もソルから離れていない。

 アインツは、ラインハルトへ向き直る。

 

「なら、もう一度頼む」

 

「……」

 

「【憂鬱の魔女因子】を、ソルに託せ」

 

 ソルの眉が動いた。

 

「憂鬱……?」

 

 知らない名だった。

 いや、魔女因子という言葉は知っている。

 だが、憂鬱。

 それが何なのか、ソルは知らない。

 アインツは、ソルを見ずに言った。

 

「亡き神龍ボルカニカが最後まで抱えていた、最後の魔女因子だ」

 

「最後の……?」

 

「勇者の力。圧縮の権能。空間も、力も、因果も、時間さえも、理屈の上では押し固めることができる」

 

 ソルの呼吸が止まる。

 

「時間……?」

 

「ああ」

 

 アインツは言った。

 

「今から過去までの距離を圧縮する。お前が今いる地点から、全てが始まる前の過去へ飛ぶ。その可能性が、憂鬱にはある」

 

「なんで」

 

 ソルの声が低くなる。

 

「なんで、それを今まで言わなかった」

 

「使えないからだ」

 

「……」

 

「俺ではダメだった。ラインハルトにも使えない。こいつが使えば加護を全て失い、最後のルグニカを守る力を失う。そして俺は、希望を託すに足る器ではなかった」

 

 アインツは静かに言った。

 

「だが、お前なら違う」

 

「勝手に決めんな」

 

「勝手に決める。俺は、そういう男だ」

 

 ソルは何も言えなかった。

 ラインハルトは、長い沈黙の後に言う。

 

「渡せない」

 

 即答だった。

 

「ソルが失敗すれば、全てが終わる。救済の魔女に奪われれば、ルグニカもロストブルーも、本当の意味で終わる」

 

「それでも、ここに置いておけば何も変わらない」

 

 アインツの声は硬かった。

 

「お前は守ってきた。だが、守っている間に世界はここまで壊れた」

 

 ラインハルトは否定しない。

 アインツはさらに言う。

 

「ラインハルト。お前は勝った。三大神獣を駆逐した。だが、国は救えなかった」

 

「……」

 

「俺たちは負け続けた。魔女に届かなかった。だが、ソルはまだ諦めていない」

 

「だから託せと?」

 

「そうだ」

 

「それだけでは足りない」

 

 ラインハルトの声は静かだった。

 だが、そこには揺るがない硬さがある。

 

「私は憂鬱の魔女因子の使用者ではない。守護者だ。鍵を持ち、扉の前に立ち、誰にも開けさせないための番人にすぎない」

 

「……」

 

「それを渡すということは、この国に残された最後の可能性を手放すということだ」

 

 ラインハルトの青い瞳が、ソルへ向く。

 

「君が失敗すれば、全てが終わる。君が魔女に敗れれば、魔女は憂鬱すら手に入れる」

 

「なら、渡すなよ」

 

 ソルは言った。

 その声は、低かった。

 

「けど、俺にはいる」

 

「……」

 

「お前がくれねぇなら、力づくで奪う」

 

 ノインが、ゆっくりと笑った。

 ズィーヴァが息を吐く。

 

「王様、思い切りがよすぎ」

 

「黙ってろ」

 

「嫌いじゃないけどね」

 

 フューリーが震える声で言う。

 

「ソルさん、それは……」

 

「止めるな」

 

「でも」

 

「止めるな、フューリー」

 

 フューリーは言葉を飲み込んだ。

 アインツはただ、叡智の書を握っている。

 その顔は暗い。

 まるで、この先をもう読んでいるようだった。

 

 ラインハルトは静かにソルを見ていた。

 悲しそうだった。

 だが、その手は剣へ近づいていない。

 まだ、抜いてはいない。

 

「ソル」

 

「なんだ」

 

「私に勝つつもりか」

 

「勝てるかどうかじゃねぇ」

 

「なら、何のために」

 

「お前に見せる」

 

 ソルは黒いマフラーを握る。

 

「俺が、何を背負ってるのかを」

 

 

◆◇◆

 

 

 最初に動いたのは、ノインだった。

 獣の咆哮。

 ロストブルー最強の男が、地面を砕いて踏み込む。

 

 その一撃は、岩壁を粉砕する。

 その爪は、鋼を裂く。

 その牙は、魔獣ですら怯ませる。

 

 だが、ラインハルトは動かなかった。

 いや、動いたのだ。

 ただ、ソルには見えなかった。

 次の瞬間、ノインの拳は空を切り、巨体が地面へ叩きつけられていた。

 

「――ッ!」

 

 ツヴァイが叫ぶ。

 ノインはすぐに起き上がる。

 だが、その表情から余裕が消えていた。

 

「……なんだ、今の」

 

 ノインの声に、初めて本気の困惑が混じる。

 ラインハルトは言った。

 

「やめないか。君を傷つけたいわけじゃない」

 

「舐めてんじゃねぇぞ、英雄」

 

 ノインが再び踏み込む。

 ズィーヴァが同時に動いた。

 正面からノイン。

 死角からズィーヴァ。

 足元にはフューリーの呪印。

 アインツの指示で、タイミングは完璧だった。

 ソルも術式を展開する。

 不可視の砲撃を複数の角度から撃ち込む。

 

 これまで何度も救済の魔女へ挑むために磨いてきた連携。

 ロストブルーの王と仲間たちの総力。

 だが、ラインハルトはそこにいた。

 

 呪印は発動する前に無効化された。

 ズィーヴァの刃は届く前に弾かれた。

 ノインの拳は受け流された。

 ソルの〝バン〟は、剣を抜くまでもなく逸らされた。

 

「……は?」

 

 ズィーヴァが呟く。

 その声は、今まで聞いたことがないほど乾いていた。

 フューリーが次の術式を展開する。

 

 拘束。

 妨害。

 重圧。

 瘴気によるマナ撹乱。

 だが、効かない。

 ラインハルトはただ一歩踏み出す。

 それだけで術式が崩れる。

 フューリーが膝をついた。

 

「な、なんで……」

 

「相性が悪い」

 

 アインツが低く言った。

 

「いや、相性以前の問題か」

 

 ソルは歯を食いしばる。

 出し惜しみなどしている場合ではない。

 

 

「――〝ビッグバン〟!」

 

 

 不可視の砲撃ではない。

 圧縮した瘴気を一点に束ね、破裂させる黒い爆ぜる星。

 ロストブルーで何度も救済の魔女へ撃ち込み、そのたびに届かなかった技。

 だが、それでも、今のソルが放てる大技の一つだった。

 黒い光が走る。

 大気が軋み、地面が裂け、王都の外縁に積もった瓦礫が吹き飛ぶ。

 

 それを、ラインハルトは斬った。

 抜いた剣の軌跡すら、ソルには見えなかった。

 ただ、結果だけがあった。

 黒い破滅が二つに割れ、左右へ逸れ、遠くの荒野を抉る。

 

 ラインハルトは、その場に立っていた。

 一歩も退いていない。

 

「……ふざけんな」

 

 ソルは呻いた。

 胸の奥が焼ける。

 悔しさでは足りない。

 怒りでも足りない。

 憎悪と絶望と、それでも認めざるを得ない圧倒的な差が、喉の奥で黒く渦巻いていた。

 

「まだだ」

 

 ソルは魔瘴石を握り潰す。

 フューリーが顔色を変えた。

 

「ソルさん、それ以上は――」

 

「止めるな」

 

 黒い瘴気が溢れる。

 ただ撃つのではない。

 爆ぜさせるのでもない。

 周囲の大気ごと、瘴気を重ね、魂を削り、圧縮し、成形する。

 黒い球体。

 光を呑み、音を歪め、そこにあるだけで世界の一部を腐らせるような瘴気の塊。

 ソルの掌の先に、黒い星が生まれた。

 

 

「――〝アトモスフィア〟」

 

 

 それは、ソルが積み上げてきた呪術と瘴気操作の果てだった。

 

 フューリーから学んだ術。

 ノインとの戦いで得た間合い。

 ツヴァイから盗んだ身のこなし。

 ズィーヴァから学んだ目端。

 アインツに叩き込まれた読み。

 何度も死んで、何度も戻って、何度も敗れて、それでも手放せなかった全て。

 その全てを、黒い一撃に変える。

 

「これで――」

 

 ソルは歯を食いしばる。

 

「終われぇぇぇぇぇぇッ!!」

 

 黒星が放たれた。

 空気が死んだ。

 音が潰れた。

 王都の外縁が、一瞬で夜に沈んだように暗くなる。

 

 ラインハルトは、その黒い星を見た。

 そして、剣を振った。

 たった、それだけだった。

 

 ――黒い星が割れた。

 アトモスフィアが、斬られた。

 空間ごと裂かれた瘴気の塊が、左右へ崩壊し、遅れて凄まじい衝撃が周囲を叩く。

 

 ノインが踏ん張り、ツヴァイを庇う。

 ズィーヴァが地面を転がる。

 フューリーの呪具が砕ける。

 アインツの外套が風に煽られる。

 ソルだけが、動けなかった。

 

 届かない。

 ビッグバンでも。

 アトモスフィアでも。

 

 届かない。

 

「……なんでだよ」

 

 声が漏れた。

 

「王になった」

 

 ラインハルトは何も言わない。

 

「仲間も集めた。呪術も学んだ。何度も死んだ。何度もやり直した。ロストブルーも変えた。ここまで来た」

 

 ソルの拳が震える。

 

「なのに、魔女にも勝てねぇ。英雄にも勝てねぇ」

 

 胸の奥で、何かが黒く沈んでいく。

 

「まだ、足りねぇのかよ」

 

 ラインハルトは、静かにソルを見る。

 

「ソル。君は――」

 

「黙れ」

 

 ソルは遮った。

 

「黙れよ、英雄」

 

 その声には、明確な敵意があった。

 ラインハルトがわずかに目を伏せる。

 ソルは笑った。

 乾いた笑いだった。

 

「忌々しいな」

 

「……」

 

「それだけの力があって。それだけの才能があって。世界に選ばれて、英雄で、誰よりも強くて」

 

 ソルの目が暗く沈む。

 

「なのに、お前はロストブルーを救わない」

 

「救わないのではない」

 

「ああ、そうだろうよ」

 

 ソルは吐き捨てる。

 

「救えないんだろ。知ってるよ」

 

 わかっている。

 わかっているからこそ、憎かった。

 ラインハルトが悪なら、どれほど楽だっただろう。

 傲慢で、薄情で、ロストブルーなど知ったことではないと笑う男なら、心置きなく憎めた。

 

 だが、違う。

 この男は正しい。

 正しく、優しく、誠実で、英雄だ。

 だからこそ、ロストブルーは救われない。

 

「この滅んだ世界で、一体何を守るって言うんだ」

 

 ソルは言った。

 声が震えていた。

 

「何も守れてねぇだろうが。俺も、お前も」

 

 ラインハルトは、否定しなかった。

 沈黙した。

 その沈黙は、肯定だった。

 長い沈黙の後、ラインハルトは言った。

 

「私は守れなかった」

 

 静かな声だった。

 

「黒龍を斬った。レヴィアタンを斬った。ベヒモスも止めた」

 

 赤い髪が、風に揺れる。

 

「勝つことはできた。斬ることもできた。だが、救えなかった」

 

「……」

 

「ヴォラキアも、カララギも、グステコも、私の剣が届いた時にはもう手遅れだった」

 

 ラインハルトの青い瞳は、空ではなく、遠い地平を見ていた。

 

「私は最後の英雄などと呼ばれている。だが、最後とはつまり、次がないということだ」

 

 ソルは何も言わなかった。

 

「私は、どこかで諦めていたのかもしれない。勝つことはできる。守ることもできる。だが、救うことはできないのだと」

 

 その言葉は懺悔ではなかった。

 自己嫌悪でもない。

 ただ、長い年月の果てに辿り着いた絶望だった。

 世界最強の男が、静かに抱え続けた敗北だった。

 

「――だが、君は違う」

 

「何がだ」

 

「君はまだ諦めていない」

 

 ラインハルトの視線が、ソルの背後へ向く。

 ノインがいる。

 ツヴァイがいる。

 フューリーがいる。

 ズィーヴァがいる。

 アインツがいる。

 

 全員が傷ついていた。

 全員が敗北を知っていた。

 それでも、誰一人としてソルから離れていない。

 

「お前ら、下がってろ」

 

 ソルは言った。

 だが、誰も動かなかった。

 ノインが血を吐きながら立ち上がる。

 

「命令すんな、小僧」

 

「お前こそ座ってろ。役に立たねぇ」

 

「今のは聞き捨てならねぇな」

 

 ツヴァイが震えながらもノインの横に立つ。

 

「ノインが立つなら、私も立つ」

 

「お前は下がってろ」

 

「やだ」

 

 フューリーが膝を震わせながら呪印を描く。

 

「ソルさん、これ以上は本当に危険です。でも……貴方が立つなら、私も」

 

「だから下がれって言ってんだろ」

 

「聞けません」

 

 ズィーヴァが唇の血を拭う。

 

「ほんと、馬鹿な王様だねぇ。逃げるなら一番に逃げるって言ったのにさ」

 

「なら逃げろ」

 

「今さら? 無理無理。あたし、盗み逃げするタイミングは見極める方だけど、今じゃないってことくらいわかるよ」

 

 アインツは叡智の書を閉じた。

 それは、未来を閉じる音だった。

 

「ソル。お前は王ではないと言い続けるが」

 

「……」

 

「少なくとも、こいつらはそう思っていない」

 

 ソルは何も言えなかった。

 ラインハルトは、その光景を見ていた。

 ソルが命令しているのではない。

 ソルが従わせているのでもない。

 彼らは止め、叱り、支え、それでもソルが立つなら共に立つ。

 この男は、人を従えているのではない。

 

 人を立たせている。

 ラインハルトは、そこに王を見た。

 

 王冠も血筋もない。

 玉座も国旗もない。

 ただ掃き溜めの地下で、壊れかけた者たちがそれでも明日を見ようとする中心にいる男。

 

 英雄ではない。

 化け物でもない。

 ただの人間。

 ただの兄。

 ただの王。

 

「……そうか」

 

 ラインハルトは呟いた。

 

「希望は、生まれていたんだな」

 

「あ?」

 

「君こそが、世界が選んだ新たな希望なんだろう」

 

「知るか」

 

 ソルは即座に吐き捨てた。

 

「俺は世界なんてもんの希望じゃねぇ。英雄でも救世主でもねぇ」

 

 血に濡れた手で、黒いマフラーを握る。

 

 

「俺はただ――あいつらの太陽でありたいだけだ」

 

 

 ラインハルトは、目を伏せた。

 その顔に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。

 けれどそれは、喜びではない。

 どこか救われたような、ひどく痛ましい表情だった。

 

「なら、それでいい」

 

「何がだ」

 

「世界の希望などという言葉は、大きすぎたのかもしれない」

 

 ラインハルトは言った。

 

「私にも、君にも」

 

 ソルは黙る。

 

「君は世界を救わなくていい。君の妹を救え。君の仲間を救え。君が失いたくないものを救え」

 

 風が吹く。

 壊れた王都の空を、乾いた風が流れていく。

 

 

「その先に世界が残るなら、それで十分だ」

 

 

◆◇◆

 

 

 憂鬱の魔女因子は、王城の地下に安置されていた。

 そこに辿り着くまで、ラインハルトは何も言わなかった。

 ソルも何も言わなかった。

 

 和解したわけではない。

 許したわけでもない。

 ソルはラインハルトを憎んでいる。

 

 その力を憎んでいる。

 その正しさを憎んでいる。

 そのくせ救えなかったという事実を憎んでいる。

 ラインハルトもまた、ソルの全てを正しいとは思っていない。

 奪い、殺し、繰り返し、壊れかけながらも進むソルの道は、英雄が肯定できるものではない。

 

 だが、それでも。

 ラインハルトは認めた。

 ソルがまだ諦めていないことを。

 仲間たちがソルを王と信じていることを。

 そして、ラインハルト自身にはできなかった救いの形が、そこにあるかもしれないことを。

 

 地下の最奥。

 白い石で作られた祭壇の上に、それはあった。

 小さな、黒い核。

 だが、それを見た瞬間、ソルの魂が軋んだ。

 

 圧縮。

 沈降。

 停滞。

 時間すら、押し固められているような重さ。

 それが、憂鬱の魔女因子。

 亡き神龍ボルカニカが最後まで抱えていた、勇者の力。

 

「持っていくといい」

 

 ラインハルトは言った。

 ソルは彼を見る。

 

「いいのかよ」

 

「よくはないのだろうね」

 

 ラインハルトは即答した。

 

「君が失敗すれば、世界は終わる。君が救済の魔女に敗れれば、憂鬱の魔女因子も奪われる。そうなれば、ルグニカも、ロストブルーも、本当の意味で終わりだ」

 

 ラインハルトはそこで一度言葉を区切った。

 

「だが、ここに置いておけば、何も変わらない」

 

 ラインハルトは、憂鬱の魔女因子を見る。

 

「私は守ってきた。守ることしかできなかった。そして、守っている間に世界はここまで壊れた」

 

「……」

 

「ソル。私は君のやり方を正しいとは思わない」

 

「俺もお前のことは嫌いだよ」

 

「ふっ、そうか」

 

 ラインハルトは静かに頷く。

 

「だが、君はまだ諦めていない。届かなくても、敗れても、失っても、まだ手を伸ばしている」

 

「……」

 

「君は英雄ではない。だが、王だ」

 

 ソルは眉をひそめる。

 

「少なくとも、彼らはそう信じている」

 

 ラインハルトの視線が、ソルの背後へ向く。

 ノイン。

 ツヴァイ。

 フューリー。

 ズィーヴァ。

 アインツ。

 誰も否定しなかった。

 

「ならば私は、その王に託そう」

 

 ラインハルトは、祭壇から憂鬱の魔女因子を取り上げた。

 その手が、わずかに震えた。

 魔女因子を使えば、ラインハルトは加護を失う。

 ゆえに彼には使えない。

 世界最強の英雄は、最後の鍵を持っていながら、自分では扉を開けられない。

 その事実が、ひどく滑稽で、ひどく残酷だった。

 ラインハルトはそれをソルへ差し出す。

 

「持っていくんだ、ソル」

 

 ソルは受け取る。

 手の中に落ちたそれは、小さいくせに、世界より重かった。

 

「私はここに残り、ルグニカを守る。君は、君の救いたいものを救え」

 

 ソルは憂鬱の魔女因子を握り締めた。

 

「言われなくてもそうする」

 

 ソルは踵を返す。

 ノインたちも続く。

 アインツが最後に一度だけ、ラインハルトを見る。

 ラインハルトは、壊れかけた王国の地下で、ただ静かに立っていた。

 

 最後の英雄。

 化け物を狩る化け物。

 勝つことはできたが、救うことはできなかった男。

 その男は、もう一度だけソルの背に声をかけた。

 

「ソル。希望は、生まれていたんだな」

 

 もう一度、ラインハルトは噛みしめるように告げた。

 ソルは振り返らない。

 

「知るかよ。俺は、ロストブルーに帰るだけだ」

 

 そうして、空無き大地の王は地上を後にする。

 憂鬱の魔女因子を携えて。

 敗北を抱えて。

 憎悪を抱えて。

 それでも、まだ諦めずに。

 英雄は来ない。

 英雄は、来られない。

 だから、王が帰る。

 妹と別れるために。

 仲間と誓うために。

 

 

 

 過去へ飛び、すべての因果をゼロから別つために。

 

 

 

◆◇◆

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