ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十七.五話『月と太陽の物語』第六昇【十戒】

◆◇◆

 

 英雄は来ない。

 英雄は、来られない。

 その事実は、ソルの胸の奥に深く沈んでいた。

 

 ラインハルト・ヴァン・アストレア。

 世界最強の剣聖。

 最後の王国を守る英雄。

 空の下に残された、最後の希望。

 

 その男に、ソルたちは勝てなかった。

 

 救済の魔女に勝てなかったから外へ出た。

 ロストブルーの力だけでは足りないから、より強いものを求めた。

 英雄なら届くと思った。

 英雄を仲間にできないなら、力ずくで奪えるかもしれないと思った。

 

 だが、届かなかった。

 

 ノインの牙も、フューリーの呪術も、ズィーヴァの刃も、アインツの叡智も、ソルの『始源』〝ビッグバン〟さえも。

 何もかも、あの赤髪の英雄には届かなかった。

 それは、絶望だった。

 救済の魔女に勝てない。

 世界最強にも勝てない。

 ならば、今の時間では駄目なのだ。

 

 今ある戦力では足りない。

 今ある知識では足りない。

 今ある命では、未来へ届かない。

 だからソルは、最終手段を選んだ。

 

 亡き神龍ボルカニカが最後まで抱えていたという、最後の魔女因子。

 『憂鬱』。

 勇者の力。

 力を、空間を、大気を、世界を、圧縮する権能。

 

 

 そして、究極的には――時間すら圧縮する力。

 

 

◆◇◆

 

 

 ロストブルーへ戻る道は、誰も口を開かなかった。

 行きはまだ、希望があった。

 地上へ出れば、何かがあるかもしれない。

 空の下には、ロストブルーにはない未来が広がっているかもしれない。

 そう思えた。

 だが、帰り道にあったのは、ただの沈黙だった。

 

 空の下にあったのは荒廃した世界。

 王国にあったのは、最後の生存者たちを守るために動けない英雄。

 そして、自分たちではその英雄にすら勝てないという現実。

 

 ソルは先頭を歩いていた。

 黒いマフラーが、地上の風を吸って揺れる。

 その背中を、仲間たちは追った。

 

 ノインは無言だった。

 彼があそこまで押さえ込まれたことは、ロストブルーでは一度もない。

 暴力の頂点として生きてきた獅子が、初めて暴力の上を見せつけられた。

 

 ツヴァイは何度もノインの顔を見上げた。

 けれど、何も言わなかった。

 ノインの袖を握る手だけが、いつもより強い。

 

 フューリーは蒼白な顔で杖を抱えていた。

 自分の呪術が、ほとんど意味をなさなかった。

 それが彼女にとって、単なる敗北ではないことをソルは知っている。

 フューリーは誰かを殺すためではなく、守るために術を学び、教え、使ってきた。

 その守るための呪術が、世界最強の前では霧のように消えたのだ。

 

 ズィーヴァは軽口を言わなかった。

 いつもなら、重い空気を盗むみたいに冗談を差し込む女が、今は黙っている。

 その横顔には、笑みの名残すらなかった。

 

 アインツだけが、いつものように歩いていた。

 だが、その手は叡智の書を強く握っている。

 まるで、そこに記された文字を握り潰したいとでもいうように。

 

 やがて、ロストブルーへ続く古い避難路の前に着いた。

 空の光が、背後から差している。

 ソルは振り返らなかった。

 もう、空に見るものはなかった。

 

「アインツ」

 

「なんだ」

 

「憂鬱の魔女因子。使う方法を知ってるな」

 

 アインツはしばらく黙った。

 そして、静かに言う。

 

「知っている」

 

「なら教えろ」

 

「教えれば、お前は使う」

 

「使うために聞いてんだ」

 

「代償がいる。お前が思っているより、ずっと重い」

 

「それも聞いた」

 

「ソル」

 

 アインツの声が、わずかに低くなる。

 

「これは、失敗したから次へ行くための道具ではない」

 

「わかってる」

 

「本当にわかっているのか」

 

「わかってるって言ってんだろ」

 

「わかっていない」

 

 アインツは足を止めた。

 避難路の入口で、男はソルを見た。

 

「憂鬱は圧縮だ。力を押し潰す。空間を縮める。大気を重くし、時間の距離すら一点へ折り畳む。だが、圧縮するには重さがいる」

 

「重さ?」

 

「過去へ飛ぶということは、今この瞬間から、戻りたい過去までの距離を潰すということだ。その距離は時間だけではない。そこで生きた日々、選択、死、絆、罪、名前、記憶――それら全てが重さになる」

 

 アインツは、叡智の書に触れる。

 

「その重さに見合う代償がなければ、過去には届かない」

 

「なら払う」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単じゃねぇから言ってんだよ」

 

 ソルの声が低くなる。

 

「今のままじゃ勝てない。救済の魔女にも、ラインハルトにも届かない。なら、もっと前に戻るしかない。もっと早く、もっと深く、もっと根っこから変えるしかない」

 

「そのために、何を捧げる」

 

「俺の命なら何度でもくれてやる」

 

「足りない。寿命でも、血でも、痛みでも、記憶でも足りない。お前一人の代償では、過去には届かない」

 

「……なら、何がいる」

 

 アインツは答えなかった。

 だが、沈黙が答えだった。

 ノインが低く笑う。

 

「……俺たちか」

 

 ソルは振り返った。

 ノインの黄金の瞳が、まっすぐにソルを見ている。

 

「……」

 

 ソルは答えられなかった。

 答えられないことが、答えだった。

 最初から、わかっていた。

 アインツの言う重さ。

 過去へ飛ぶために必要な代償。

 ソル一人では足りないのなら、他に差し出せるものは限られる。

 

 仲間。

 この時間で得た全て。

 ノイン。

 ツヴァイ。

 フューリー。

 ズィーヴァ。

 アインツ。

 ソルが死んで、戻って、積み上げて、ようやく手に入れた者たち。

 

 それを。

 妹を救うために、天秤にかける。

 

「……俺は」

 

 ソルの声が掠れた。

 

「俺は、ルナを救う」

 

 誰も茶化さなかった。

 

「俺の始まりは、ルナだ。あいつが生まれて、俺は変わった。あいつが死んで、俺は戻った。何度も、何度も、あいつを救うために死んだ」

 

 言葉を吐くたび、胸の奥が裂けるようだった。

 

「王になった。ロストブルーを救うって言った。お前らも仲間にした。守りたいものは増えた。増えちまった」

 

 拳が震える。

 

「でも、最後に選ぶなら」

 

 ソルは、顔を上げた。

 仲間たちを見た。

 ノインを。

 ツヴァイを。

 フューリーを。

 ズィーヴァを。

 アインツを。

 その全員を、真正面から見た。

 

「俺は……」

 

 最低の告白だった。

 王としては失格だった。

 仲間としても、きっと失格だった。

 ソルは唇を噛む。

 

「俺は、お前らを天秤にかける」

 

 沈黙。

 風が吹く。

 空の下で、誰も何も言わなかった。

 やがて、ノインが息を吐いた。

 

「で?」

 

 ソルは目を見開く。

 

「で、じゃねぇだろ」

 

「お前の妹だろ」

 

「そうだ」

 

「お前の始まりなんだろ」

 

「……そうだ」

 

「――なら選べ」

 

 ノインは当然のように言った。

 

「王が迷うな」

 

 ソルの喉が詰まった。

 

「お前、意味わかってんのか」

 

「わかってる」

 

「俺はお前らを捨てるって言ってんだぞ」

 

「違ぇな」

 

 ノインが一歩前へ出る。

 

「――俺たちがお前を行かせるんだ」

 

 その言葉に、ツヴァイが頷いた。

 

「うん」

 

 フューリーは目を伏せ、両手を握り締めている。

 ズィーヴァは苦く笑った。

 

「言い方が下手だねぇ、ソルは」

 

「……」

 

「そういうときはさ、助けてくれって言うんだよ。王様」

 

 ソルは何も言えなかった。

 助けてくれ。

 そんな言葉を口にするくらいなら、殴られる方が楽だった。

 だが、今はそれすら許されない。

 仲間を天秤に乗せるなら、逃げてはいけない。

 最低の選択をするなら、その最低さを誤魔化してはいけない。

 

 

「……助けてくれ」

 

 

 ソルは言った。

 声が震えた。

 

 

「――頼む。ルナを救うために、俺を過去へ行かせてくれ」

 

 

 それは、王の命令ではなかった。

 一人の兄としての懇願だった。

 

 

◆◇◆

 

 

 ロストブルーの王座の間。

 そう呼ばれる場所は、実際にはただの広い地下空間だった。

 

 崩れた柱。

 盗品を組み合わせた粗末な王座。

 壁に吊られた陽光結晶の欠片。

 床にはフューリーが刻んだ無数の呪印。

 

 その中央に、憂鬱の魔女因子が置かれていた。

 黒く、重い輝き。

 光っているのに、光を吸い込んでいるようにも見える。

 それは石でも、結晶でも、炎でもなかった。

 ただ、そこにあるだけで周囲の空間が沈む。

 重い。

 存在そのものが、重い。

 

「これが、憂鬱……」

 

 フューリーが呟く。

 彼女の声は震えていた。

 

「近づくだけで、術式が歪みます。こんなものを……本当に使うんですか」

 

「使う」

 

 ソルは答えた。

 迷いはなかった。

 迷いを捨てたわけではない。

 迷いごと、選んだ。

 アインツが叡智の書を開く。

 その頁には、びっしりと文字が記されていた。

 未来を記す書。

 だが今、そこに記されているのは、未来ではなく過去へ至るための術式だった。

 

「憂鬱の魔女因子は、突き詰めれば誰にでも使える」

 

 アインツが言う。

 

「だが、その代わりに一回の行使ごとに代償を要求する。代償は、単なる命ではない。術者の中核、存在の意味、あるいは未来における可能性。その者がその者であるための核を差し出す必要がある」

 

「核……」

 

 ツヴァイが小さく呟く。

 ノインは憂鬱の魔女因子を見据えていた。

 

「つまり、俺らが俺らである理由を捧げろってか」

 

「そうだ」

 

 アインツは頷く。

 

「中途半端な代償では届かない。過去へ飛ぶには、この時間で積み上げた重さを圧縮し、ソルを過去へ撃ち出すだけの力に変える必要がある」

 

「命じゃ駄目なのか」

 

 ズィーヴァが問う。

 

「命だけでは軽い」

 

「命が軽いって、嫌な言い方だねぇ」

 

「事実だ」

 

 アインツは表情を変えない。

 

「死ぬだけなら、ソルは何度も死んでいる。必要なのは死そのものではない。失うことで、その存在のあり方が変わるほどの代償だ」

 

 フューリーが唇を噛む。

 

「それは……あまりにも残酷です」

 

「ああ」

 

 アインツは否定しなかった。

 

「残酷だ。だから、俺は最後までこの方法を取りたくなかった」

 

「アンタが?」

 

 ソルが皮肉げに笑う。

 

「性格の悪いアンタが、よく言う」

 

「性格が悪くても、失うことを好むわけではない」

 

 アインツの声は静かだった。

 その静けさが、逆に重かった。

 

「……めるぞ」

 

 ソルが言う。

 フューリーは深く息を吸った。

 震えた手で杖を握り、床の呪印に魔力を流す。

 黒紫の光が広がる。

 憂鬱の魔女因子が、低く鳴動した。

 それは音ではなかった。

 骨の内側に響くような、世界の底が軋む感覚。

 圧が増していく。

 床が沈む。

 空気が重くなる。

 呼吸が浅くなる。

 

 

 十戒の儀式が始まった。

 

 

◆◇◆

 

 

 最初に前へ出たのは、ノインだった。

 獅子の獣人。

 ロストブルー最強の男。

 暴力が支配する地下で、暴力そのものとして君臨していた存在。

 ノインは憂鬱の魔女因子の前に立つ。

 その背中は大きかった。

 何度もソルを殺した背中。

 何度もソルの前に立った背中。

 救済の魔女に挑み、何度も砕かれ、それでも立ち上がった背中。

 

「ノイン」

 

 ツヴァイが小さく呼んだ。

 ノインは振り返らない。

 

「泣くな」

 

「まだ泣いてない」

 

「なら泣くな」

 

「うん」

 

 ツヴァイの声が揺れていた。

 ノインは憂鬱の魔女因子を見下ろす。

 

「俺は壊すことで守ってきた」

 

 その声は低く、広間に響いた。

 

「殴って、砕いて、裂いて、潰して、近づく奴を壊してきた。そうすりゃ守れると思ってた。実際、守れたものもある」

 

 彼の爪が光を受ける。

 何人を裂いたのか、本人も数えていないだろう。

 

「だが、王」

 

 ノインはソルを見た。

 

「お前は壊すだけじゃ守れねぇもんを見せた」

 

「……」

 

「だから、くれてやる」

 

 ノインは右手を上げる。

 

「――『不壊』」

 

 憂鬱の魔女因子が、低く唸る。

 

「俺は誓う。二度と、人もモノも壊さねぇ」

 

 瞬間、空間が歪んだ。

 ノインの爪から、力が抜ける。

 牙が鈍くなるわけではない。

 筋肉が萎えるわけでもない。

 だが、何かが消えた。

 

 ロストブルー最強の暴力。

 壊すことで守る獣の核。

 それが、憂鬱の魔女因子へ吸い込まれていく。

 ノインの膝が、わずかに揺れた。

 ツヴァイが駆け寄ろうとする。

 

「来るな」

 ノインは言った。

 声は変わらない。

 だが、その声には今までにない重さがあった。

 ソルは歯を食いしばった。

 

「ノイン……」

 

「王よ」

 

 ノインは笑った。

 

「俺はお前の爪だ。必要なら、くれてやる」

 

 その言葉に、ソルは何も言えなかった。

 

 

◆◇◆

 

 

 次に前へ出たのは、ツヴァイだった。

 猫のような女。

 ノインの隣にいた存在。

 恋人ではない。

 家族とも違う。

 主従でもない。

 もっと動物的で、もっと原始的で、もっと言葉にしにくい絆。

 

 ノインはツヴァイを守った。

 ツヴァイはノインを癒した。

 獅子と猫。

 同じ縄張りで体温を分け合って生きてきた二人。

 ツヴァイはノインの袖を握った。

 だが、すぐに手を離す。

 

「ツヴァイ」

 

 ノインが低く呼ぶ。

 

「大丈夫」

 

 ツヴァイは笑った。

 無理をした笑顔だった。

 

「ノインがいるから、こわくない」

 

「……馬鹿やろう」

 

「うん」

 

 彼女は憂鬱の魔女因子の前に立つ。

 小さな体。

 細い肩。

 だが、その瞳は逃げていなかった。

 

「私は、ずっとあったかいのが好きだった」

 

 ツヴァイは言う。

 

「ノインの隣、あったかかった。子どもたちも、フューリーも、ズィーヴァも、ソルも。みんな、近くにいると、あったかかった」

 

 彼女は自分の手を見る。

 

「ロストブルーは寒いけど、誰かの隣は寒くなかった」

 

 ソルの胸が締め付けられる。

 ツヴァイにとって、ぬくもりは世界そのものだったのだ。

 守られ、癒し、隣で眠る。

 その関係の核が、体温だった。

 

「でも、ソルが行くなら」

 

 ツヴァイは顔を上げる。

 

「――『不感』」

 

 黒い光が、彼女の足元に広がる。

 

「私は誓う。もう二度と、人のぬくもりを感じない」

 

 ノインが、初めて表情を歪めた。

 

「ツヴァイ」

 

「いいの」

 

「よくねぇ」

 

「いいのっ」

 

 ツヴァイは、もう一度笑う。

 

「だって、ノインがいるって知ってるから」

 

 その瞬間、憂鬱の魔女因子が彼女の誓いを呑み込んだ。

 ツヴァイの体が小さく震える。

 ノインが彼女を支える。

 ツヴァイはノインの腕の中にいる。

 だが、その目が揺れた。

 

「あれ……ノイン、いるのに」

 

 声が震える。

 

「わかるのに、あったかくない」

 

 ノインは何も言わず、ツヴァイを抱きしめた。

 ツヴァイは涙をこぼした。

 けれど、泣き声を上げなかった。

 不感。

 諦めないために、ぬくもりを失った。

 

 

◆◇◆

 

 

 三番目は、フューリーだった。

 彼女はずっと震えていた。

 最初から、最後まで。

 杖を握る手は白く、唇は青い。

 それでも、逃げなかった。

 人殺しが嫌いな呪術師。

 引っ込み思案で、すぐに怯えて、けれど誰よりも優しい先生。

 ロストブルーの治安を守るために協力していた。

 傷ついた子どもを放っておけなかった。

 名前も知らない死者に祈った。

 ソルが自分を殺して戻っていると知ったとき、本気で怒って泣いた。

 そのフューリーが、憂鬱の魔女因子の前に立つ。

 

「私は……」

 

 声が震える。

 

「私は、人を殺すのが嫌いです」

 

「知ってる」

 

 ソルが言う。

 フューリーは少しだけ笑った。

 

「人が死ぬのも嫌いです。誰かが泣くのも、誰かが痛がるのも、誰かが諦めるのも嫌いです。呪術は怖いものです。でも、本当は、誰かの苦しみを知るためにも使えるんです」

 

 彼女は杖を胸に抱く。

 

「私は、そう信じていました」

 

「フューリー」

 

「ソルさん」

 

 彼女はソルを見る。

 

「先生としては、こんなこと、絶対に教えたくありません」

 

「ならやめろ」

 

「でも」

 

 彼女の目に涙が浮かぶ。

 

「あなたがまだ学べるなら、次へ進んでください」

 

 ソルの喉が詰まった。

 フューリーは憂鬱の魔女因子に向き直る。

 

「――『不恕』」

 

 黒紫の光が、彼女の体を照らす。

 

「私は誓います。もう二度と、誰のことも思いやらない」

 

 それは、フューリーという人間を根元から壊す誓いだった。

 彼女にとって、思いやりは弱さではない。

 彼女の呪術の核だった。

 人殺しが嫌いで、誰かを守りたいからこそ、彼女は呪いを扱えた。

 その優しさを差し出す。

 憂鬱の魔女因子が、彼女の誓いを呑み込む。

 

 フューリーの涙が止まった。

 表情が、静かになる。

 震えも止まる。

 それは強くなったのではない。

 何かが、抜け落ちたのだ。

 

「……ああ」

 

 フューリーは自分の頬に触れる。

 

「震えが、止まりました」

 

 ソルは何も言えなかった。

 フューリーは淡く微笑む。

 その笑みは、ひどく空っぽだった。

 

「これで、少しは先生らしくなくなれたでしょうか」

 

「……やめろ」

 

「すみません。もう、どう謝ればいいのかも、わからないんです」

 

 ソルは拳を握った。

 爪が掌に食い込む。

 痛かった。

 その痛みを、忘れたくなかった。

 

 

◆◇◆

 

 

 四番目は、ズィーヴァだった。

 彼女は、いつものように軽い足取りで前へ出た。

 軽い。

 軽すぎる。

 まるで、これから誰かの財布でも盗みにいくみたいな顔だった。

 

「じゃ、あたしか」

 

「ズィーヴァ」

 

「そんな顔しないでよ、ソル」

 

 彼女は笑う。

 その笑顔が、ソルは嫌だった。

 いつもと同じ笑みなのに、今だけはひどく痛かった。

 

「スリの基本、覚えてる?」

 

「……何の話だ」

 

「盗るときに迷うな。迷ったら手元が鈍る。手元が鈍ったら捕まる。捕まったら終わり」

 

「今する話かよ」

 

「今だからする話だよ」

 

 ズィーヴァは肩を竦める。

 

「ソル。あんたは今、過去を盗みに行くんだ。だったら迷っちゃだめ」

 

「……」

 

「迷うのは、あたしが引き受ける」

 

 ソルの眉が動く。

 ズィーヴァは憂鬱の魔女因子を見る。

 

「――『不惑』」

 

 その声は、意外なほど澄んでいた。

 

「私は誓う。もう二度と、惑わされない」

 

 黒い光が、彼女を包む。

 ズィーヴァは笑ったまま続けた。

 

「迷わない。揺れない。躊躇わない。どんな道でも、どんな選択でも、まっすぐ進めるように」

 

「ズィーヴァ」

 

「あとさ」

 

 彼女は、ソルを見た。

 その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「これも、持っていって」

 

 ソルは言葉の意味をすぐには理解できなかった。

 だが、次の瞬間、理解した。

 ズィーヴァの胸の奥にあったもの。

 ソルを見るときの、軽い笑みの裏に隠れていた熱。

 からかいに紛れ込ませた、ほんの少しの本気。

 女としてソルを見る気持ち。

 それを、彼女は惑いとして差し出そうとしている。

 

「……イーリス」

 

 ソルは言った。

 反射的な言葉だった。

 ズィーヴァ、否、イーリスは笑う。

 

「止めても無駄だよ」

 

「それは、関係ねぇだろ」

 

「関係あるよ。だって、あたしの迷いだもん」

 

「イーリス」

 

「重かった?」

 

 軽く尋ねる。

 けれど、その声の奥は震えていた。

 

「ごめんね。言わないつもりだったんだけどなぁ。こんな形で渡すことになるとは思わなかった」

 

「……」

 

「でも、いいよ。あんたが背負うっていうなら、あたしのこれも持っていきな」

 

 ズィーヴァは、いつものように笑う。

 

「盗みの基本だよ、ソル。盗れるもんは全部盗れ。未来だって、恋心だって、例外じゃない」

 

 憂鬱の魔女因子が輝いた。

 ズィーヴァの目から、揺らぎが消えていく。

 迷いが消える。

 同時に、熱も消える。

 ソルを見る目が、少しずつ変わっていく。

 仲間を見る目へ。

 王を見る目へ。

 かつてそこにあった女としての感情だけが、綺麗に抜き取られていく。

 

「……あれ」

 

 ズィーヴァは首を傾げた。

 

「なんか、変な感じ……うん。大丈夫」

 

 彼女は笑った。

 その笑みは、さっきまでよりずっと迷いがなかった。

 だからこそ、ソルの胸を抉った。

 

「ほら、王様。あたしはもう惑わないよ」

 

 ソルは答えられなかった。

 

 

◆◇◆

 

 四つの誓いが捧げられた。

 ノインの『不壊』。

 ツヴァイの『不感』。

 フューリーの『不恕』。

 ズィーヴァの『不惑』。

 

 ロストブルーでソルが集めた仲間たち。

 その一人一人が、自分の核を差し出した。

 壊すことで守ってきた獅子が、壊す力を捨てた。

 ぬくもりに縋って生きてきた猫が、体温を感じる心を捨てた。

 誰かを思いやることで呪いを制していた先生が、その思いやりを捨てた。

 迷いながら、惑いながら、それでも笑って隣にいた女が、その惑いを捨てた。

 

 憂鬱の魔女因子は、黒く輝いている。

 床の呪印は脈打ち、空間は圧縮され、王座の間全体が重く沈んでいた。

 それでも――まだ足りない。

 誰に言われずとも、ソルにはわかった。

 憂鬱の魔女因子が求めている。

 もっと重いものを。

 もっと深いものを。

 ただ死ぬだけでは届かない。

 命だけでは軽すぎる。

 この時間から、すべてが始まる前の過去まで。

 そこへ至るには、存在の理由そのものを差し出さなければならない。

 

 ソルは、仲間たちを見た。

 ノインが立っていた。

 壊す力を失ってなお、獅子はソルの前に立っていた。

 ツヴァイがいた。

 ぬくもりを失ってなお、ノインの袖を握っていた。

 フューリーがいた。

 思いやりを失ってなお、術式を維持していた。

 ズィーヴァがいた。

 惑いを失ってなお、迷いなくソルを見ていた。

 その全員が、ソルを見ていた。

 

 行け、と。

 救え、と。

 終わらせるな、と。

 妹だけではない。

 ロストブルーも。

 自分たちも。

 この空のない地獄で、それでも生きていた全てを。

 なかったことにするのではなく、別つために。

 ソルを送り出そうとしていた。

 

「……お前ら。そこまでして、俺に行けって言うのか」

 

 ソルの声は、低かった。

 怒鳴り声ではなかった。

 泣き声でもなかった。

 ただ、深く沈んだ声だった。

 

「行けよ、お前が俺たちの王だ」

 

 ノインが鼻を鳴らした。

 

「ソルが行けば、ルナも、みんなも、助かるかもしれない」

 

 ツヴァイが、小さく頷く。

 

「貴方が進むなら、まだ学べる未来があります」

 

 フューリーは、静かに目を伏せる。

 

「過去を盗みに行くんでしょ、王様。なら、手ぶらじゃ格好つかないよ」

 

 ズィーヴァは笑った。

 迷いのない笑みだった。

 

 ソルは、目を閉じた。

 重かった。

 あまりにも重かった。

 自分はルナを救いたかった。

 それが一番だった。

 今でも、それは変わらない。

 ルナを救う。

 それだけは、何に代えても譲れない。

 だが、それだけではなくなっていた。

 

 ノインを救いたい。

 ツヴァイを救いたい。

 フューリーを救いたい。

 ズィーヴァを救いたい。

 アインツを救いたい。

 ロストブルーを救いたい。

 

 酒と薬と血と泥に沈んだ掃き溜めを。

 それでも自分を王と呼んだ、空のない地獄を。

 

 ソルは、救いたいと思ってしまった。

 あいつらの太陽でありたいと、思ってしまった。

 太陽でなくちゃならないと、思ってしまった。

 

 ならば。

 

 ここで膝をつくことだけは、許されない。

 ソルは、ゆっくりと憂鬱の魔女因子の前へ進んだ。

 

「王」

 

 ノインが呼んだ。

 ソルは振り返らない。

 

「いいや」

 

 ソルは言った。

 

「これは、俺が捧げなくちゃならねぇことだ」

 

 黒い光が、ソルの足元へ広がっていく。

 憂鬱が、彼を見ている。

 世界を圧縮し、時間を折り畳み、過去へ至る道を開くための最後の重さを求めている。

 ソルは、黒いマフラーを握った。

 

「お前らがそこまでの覚悟を見せた」

 

 声は震えていなかった。

 

「なら、俺も捧げる」

 

 憂鬱の魔女因子が、低く鳴る。

 

 

「俺がお前らの『太陽』であるために」

 

 

 ソルは顔を上げた。

 

 

「――『不曲』」

 

 

 黒い光が、彼の胸に沈む。

 

「俺は誓う。もう曲がらない。兄である俺を、王である俺を、太陽である俺を、どれだけ世界が捻じ曲げようとしても、俺は俺のまま立ち続ける」

 

 空間が軋んだ。

 ソルの魂に、最初の戒律が刻まれる。

 

 

「――『不諦』」

 

 

 ソルは続けた。

 

「俺は誓う。もう諦めない。ルナを救うことも、ロストブルーを救うことも、敵を滅ぼすことも、何一つ諦めない」

 

 重みが増す。

 憂鬱の魔女因子が、ソルの覚悟を呑み込んでいく。

 だが、ソルは目を逸らさない。

 ここで逸らせば、太陽ではいられない。

 ここで膝を折れば、王ではいられない。

 ここで忘れれば、兄ではいられない。

 だから、最後の一つを口にする。

 

 

「――『不忘』」

 

 

 王座の間が、静まり返った。

 

「俺は誓う。忘れない」

 

 ルナの泣き顔が浮かぶ。

 ノインの背中が浮かぶ。

 ツヴァイの手が浮かぶ。

 フューリーの震える声が浮かぶ。

 ズィーヴァの笑みが浮かぶ。

 アインツの静かな眼差しが浮かぶ。

 

 酒臭い路地。

 薬に沈んだ女。

 盗みを覚えた子ども。

 粗末な王座。

 陽光結晶の鈍い光。

 空のない地獄。

 それでも故郷であるロストブルー。

 

 

「――俺は、お前らを忘れない」

 

 

 ソルの声が、広間に響いた。

 

「お前らがいたことを、なかったことにはしない。お前らの生き様を、死に様を、笑い声を、泣き声を、怒りを、祈りを、全部持っていく」

 

 黒い光が、ソルを包んだ。

 

「俺は忘れない。絶対に、忘れない」

 

 憂鬱の魔女因子が、大きく脈打った。

 ソルの三つの戒律。

 不曲。

 不諦。

 不忘。

 それは、彼が太陽であるための核だった。

 彼が兄であり、王であり、ロストブルーの太陽であるために、絶対に手放してはならない三つだった。

 だからこそ、捧げる。

 捧げてなお、背負い続ける。

 その覚悟を、憂鬱は受け取った。

 だが――。

 

「……まだ、届かんか」

 

 アインツが呟いた。

 声は、静かだった。

 ソルは振り返る。

 アインツは、叡智の書を抱えていた。

 その顔に驚きはない。

 まるで、こうなることを最初から知っていたように。

 

「アインツ」

 

「十のうち、七つが揃った」

 

 アインツは言った。

 

「ノインの不壊。ツヴァイの不感。フューリーの不恕。ズィーヴァの不惑。そして、お前の不曲、不諦、不忘」

 

 ソルの胸が、嫌な予感で冷える。

 

「残り三つ」

 

 アインツは一歩前へ出た。

 

「それは俺のものだ」

 

 アインツは、淡々と言った。

 いつもの声だった。

 だが、その奥にあるものは、いつもよりずっと深かった。

 

「……やめろ」

 

 ソルは即座に言った。

 だが、アインツは止まらない。

 罪悪感。

 悔恨。

 それでも果たさなければならない務め。

 ロストブルーの守役として、叡智の書の所有者として、ソルをここまで導いた男として。

 最後に払うべき代償を、彼はずっと知っていた。

 

「俺は叡智の書を信じてきた」

 

 アインツは本を開く。

 頁が風もないのにめくれていく。

 

「書に記された未来を信じ、書にない未来を諦めた。ロストブルーは滅びる。救済の魔女には勝てない。そう記されていたから、俺はそれを前提に動いた」

 

 文字が、黒い光に浮かび上がる。

 

「だが、お前は違った」

 

 アインツはソルを見る。

 

「お前は書にない未来を作った。ノインを変え、ツヴァイを立たせ、フューリーを進ませ、ズィーヴァを惑わせ、俺にもう一度、希望を見せた」

 

 アインツは右手を上げる。

 

「――『不信』」

 

 叡智の書の文字が、一行剥がれた。

 

「俺は誓う。もう二度と、書かれた未来を信じない」

 

 文字が黒い粒子となって、憂鬱の魔女因子へ吸い込まれる。

 アインツの体がわずかに揺れた。

 ソルは踏み出そうとする。

 だが、フューリーの術式が彼を縛っていた。

 

「フューリー」

 

「すみません」

 

 彼女は静かに言った。

 

「でも、行かせます」

 

 アインツは続ける。

 

「俺は、お前を騙した」

 

「……」

 

「試した。隠した。誘導した。ノインを手懐けろと言い、フューリーに学べと言い、外に希望がないことを黙っていた。必要だと信じて、何度もお前を欺いた」

 

「それは、俺に必要だった」

 

「そうだとしても、騙した事実は消えん」

 

 アインツは頁をめくる。

 

「――『不騙』」

 

 黒い光が、彼の胸を裂くように広がった。

 

「俺は誓う。もう二度と、誰も騙さない」

 

 その誓いも、憂鬱へ呑まれた。

 アインツの口元から、血が一筋落ちる。

 ソルの拳が震えた。

 

「アインツ、もういい」

 

「まだだ」

 

 アインツは首を横に振る。

 

「俺は、誰よりも救済を欲した」

 

 その声は、初めて掠れた。

 

「欲して、欲して、欲して、叡智の書に縋り、お前に縋った。俺は欲深い男だ。救いたいと願いながら、その願いをお前に背負わせた」

 

「……」

 

「だから、最後の欲は俺が払う」

 

 叡智の書が震える。

 頁が裂ける。

 未来を記した文字が、黒い渦となって浮かび上がる。

 

「――『不欲』」

 

 アインツは誓う。

 

「俺は誓う。もう二度と、救済を欲しない」

 

 それは、アインツという男の核だった。

 ロストブルーを救いたい。

 この場所を終わらせたくない。

 その一心で、彼は叡智の書を抱え、ソルを導き、何度も何度も未来を読み続けた。

 その欲を、差し出す。

 憂鬱の魔女因子が、アインツの三つの戒律を呑み込んだ。

 書が閉じる。

 叡智の書の表紙に、亀裂が走る。

 アインツの膝が、わずかに折れた。

 それでも、男は倒れなかった。

 

「……これで、十だ」

 

 アインツは言った。

 黒い光が、王座の間を満たしていく。

 憂鬱の魔女因子が、ついに応えた。

 十の戒律が揃う。

 

 不壊。

 不感。

 不恕。

 不惑。

 不曲。

 不諦。

 不忘。

 不信。

 不騙。

 不欲。

 

 世界が、音を立てて歪んだ。

 

「ソル」

 

 アインツは、崩れかけた叡智の書を抱えたまま言う。

 

「行け」

 

「……」

 

「お前こそが、俺たちの太陽だ」

 

 ソルは、アインツを見た。

 ノインを見た。

 ツヴァイを見た。

 フューリーを見た。

 ズィーヴァを見た。

 そして、胸の奥にルナを思った。

 逃げられない。

 もう、逃げる理由がない。

 ここまでされて、立ち止まることだけはできない。

 ソルは、黒いマフラーを握る。

 

「ああ」

 

 短く答えた。

 

 

「行ってくる」

 

 

◆◇◆

 

 

 世界が潰れていく。

 王座が歪む。

 柱が折れる。

 陽光結晶の光が吸い込まれる。

 ロストブルーの路地が、酒場が、寝床が、子どもたちの笑い声が、喧嘩の怒号が、泣き声が、祈りが、全て一点へ沈み込んでいく。

 

 ノインが立っていた。

 壊す力を失った獅子が、それでも王の前に立っていた。

 

 ツヴァイがいた。

 ぬくもりを感じられなくなった猫が、それでもノインの袖を握っていた。

 

 フューリーがいた。

 思いやりを失った先生が、それでも術式を維持していた。

 

 ズィーヴァがいた。

 迷いを失った女が、それでもソルに笑っていた。

 

 アインツがいた。

 未来を信じず、誰も騙さず、救済を欲しないと誓った男が、それでも最後までソルを見ていた。

 

 ソルは叫ばなかった。

 泣かなかった。

 ただ、立っていた。

 彼らが太陽と呼んだものとして。

 彼らの期待を背負う王として。

 ルナを救う兄として。

 

 憂鬱の魔女因子が、黒い太陽のように輝く。

 圧縮。

 圧縮。

 圧縮。

 空間が潰れる。

 時間が折れる。

 現在から過去までの距離が、一点へと縮められていく。

 十の戒律が、ソルを過去へ撃ち出す矢になる。

 

 重い。

 あまりにも重い。

 だが、ソルはその重さを受け止めた。

 ノインが牙を失った意味も。

 ツヴァイがぬくもりを失った意味も。

 フューリーが優しさを失った意味も。

 ズィーヴァが恋を失った意味も。

 アインツが信じることも騙すことも欲することも捨てた意味も。

 

 全部、背負う。

 全部、忘れない。

 そして、全部を救うために行く。

 

 

「――『終焉』」

 

 

 ソルの声が、潰れていく世界に響いた。

 憂鬱の魔女因子が応える。

 重さが一点に集まる。

 ロストブルーという時間が、現在から過去へ向かう矢になる。

 

 

「〝ビッグクランチ〟」

 

 

 その瞬間、空無き大地が潰れた。

 すべてが一点へ収束する。

 終わりが始まりへと叩き込まれる。

 ソルは、過去へ撃ち出された。

 

 

◆◇◆

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