◆◇◆
英雄は来ない。
英雄は、来られない。
その事実は、ソルの胸の奥に深く沈んでいた。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。
世界最強の剣聖。
最後の王国を守る英雄。
空の下に残された、最後の希望。
その男に、ソルたちは勝てなかった。
救済の魔女に勝てなかったから外へ出た。
ロストブルーの力だけでは足りないから、より強いものを求めた。
英雄なら届くと思った。
英雄を仲間にできないなら、力ずくで奪えるかもしれないと思った。
だが、届かなかった。
ノインの牙も、フューリーの呪術も、ズィーヴァの刃も、アインツの叡智も、ソルの『始源』〝ビッグバン〟さえも。
何もかも、あの赤髪の英雄には届かなかった。
それは、絶望だった。
救済の魔女に勝てない。
世界最強にも勝てない。
ならば、今の時間では駄目なのだ。
今ある戦力では足りない。
今ある知識では足りない。
今ある命では、未来へ届かない。
だからソルは、最終手段を選んだ。
亡き神龍ボルカニカが最後まで抱えていたという、最後の魔女因子。
『憂鬱』。
勇者の力。
力を、空間を、大気を、世界を、圧縮する権能。
そして、究極的には――時間すら圧縮する力。
◆◇◆
ロストブルーへ戻る道は、誰も口を開かなかった。
行きはまだ、希望があった。
地上へ出れば、何かがあるかもしれない。
空の下には、ロストブルーにはない未来が広がっているかもしれない。
そう思えた。
だが、帰り道にあったのは、ただの沈黙だった。
空の下にあったのは荒廃した世界。
王国にあったのは、最後の生存者たちを守るために動けない英雄。
そして、自分たちではその英雄にすら勝てないという現実。
ソルは先頭を歩いていた。
黒いマフラーが、地上の風を吸って揺れる。
その背中を、仲間たちは追った。
ノインは無言だった。
彼があそこまで押さえ込まれたことは、ロストブルーでは一度もない。
暴力の頂点として生きてきた獅子が、初めて暴力の上を見せつけられた。
ツヴァイは何度もノインの顔を見上げた。
けれど、何も言わなかった。
ノインの袖を握る手だけが、いつもより強い。
フューリーは蒼白な顔で杖を抱えていた。
自分の呪術が、ほとんど意味をなさなかった。
それが彼女にとって、単なる敗北ではないことをソルは知っている。
フューリーは誰かを殺すためではなく、守るために術を学び、教え、使ってきた。
その守るための呪術が、世界最強の前では霧のように消えたのだ。
ズィーヴァは軽口を言わなかった。
いつもなら、重い空気を盗むみたいに冗談を差し込む女が、今は黙っている。
その横顔には、笑みの名残すらなかった。
アインツだけが、いつものように歩いていた。
だが、その手は叡智の書を強く握っている。
まるで、そこに記された文字を握り潰したいとでもいうように。
やがて、ロストブルーへ続く古い避難路の前に着いた。
空の光が、背後から差している。
ソルは振り返らなかった。
もう、空に見るものはなかった。
「アインツ」
「なんだ」
「憂鬱の魔女因子。使う方法を知ってるな」
アインツはしばらく黙った。
そして、静かに言う。
「知っている」
「なら教えろ」
「教えれば、お前は使う」
「使うために聞いてんだ」
「代償がいる。お前が思っているより、ずっと重い」
「それも聞いた」
「ソル」
アインツの声が、わずかに低くなる。
「これは、失敗したから次へ行くための道具ではない」
「わかってる」
「本当にわかっているのか」
「わかってるって言ってんだろ」
「わかっていない」
アインツは足を止めた。
避難路の入口で、男はソルを見た。
「憂鬱は圧縮だ。力を押し潰す。空間を縮める。大気を重くし、時間の距離すら一点へ折り畳む。だが、圧縮するには重さがいる」
「重さ?」
「過去へ飛ぶということは、今この瞬間から、戻りたい過去までの距離を潰すということだ。その距離は時間だけではない。そこで生きた日々、選択、死、絆、罪、名前、記憶――それら全てが重さになる」
アインツは、叡智の書に触れる。
「その重さに見合う代償がなければ、過去には届かない」
「なら払う」
「簡単に言うな」
「簡単じゃねぇから言ってんだよ」
ソルの声が低くなる。
「今のままじゃ勝てない。救済の魔女にも、ラインハルトにも届かない。なら、もっと前に戻るしかない。もっと早く、もっと深く、もっと根っこから変えるしかない」
「そのために、何を捧げる」
「俺の命なら何度でもくれてやる」
「足りない。寿命でも、血でも、痛みでも、記憶でも足りない。お前一人の代償では、過去には届かない」
「……なら、何がいる」
アインツは答えなかった。
だが、沈黙が答えだった。
ノインが低く笑う。
「……俺たちか」
ソルは振り返った。
ノインの黄金の瞳が、まっすぐにソルを見ている。
「……」
ソルは答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
最初から、わかっていた。
アインツの言う重さ。
過去へ飛ぶために必要な代償。
ソル一人では足りないのなら、他に差し出せるものは限られる。
仲間。
この時間で得た全て。
ノイン。
ツヴァイ。
フューリー。
ズィーヴァ。
アインツ。
ソルが死んで、戻って、積み上げて、ようやく手に入れた者たち。
それを。
妹を救うために、天秤にかける。
「……俺は」
ソルの声が掠れた。
「俺は、ルナを救う」
誰も茶化さなかった。
「俺の始まりは、ルナだ。あいつが生まれて、俺は変わった。あいつが死んで、俺は戻った。何度も、何度も、あいつを救うために死んだ」
言葉を吐くたび、胸の奥が裂けるようだった。
「王になった。ロストブルーを救うって言った。お前らも仲間にした。守りたいものは増えた。増えちまった」
拳が震える。
「でも、最後に選ぶなら」
ソルは、顔を上げた。
仲間たちを見た。
ノインを。
ツヴァイを。
フューリーを。
ズィーヴァを。
アインツを。
その全員を、真正面から見た。
「俺は……」
最低の告白だった。
王としては失格だった。
仲間としても、きっと失格だった。
ソルは唇を噛む。
「俺は、お前らを天秤にかける」
沈黙。
風が吹く。
空の下で、誰も何も言わなかった。
やがて、ノインが息を吐いた。
「で?」
ソルは目を見開く。
「で、じゃねぇだろ」
「お前の妹だろ」
「そうだ」
「お前の始まりなんだろ」
「……そうだ」
「――なら選べ」
ノインは当然のように言った。
「王が迷うな」
ソルの喉が詰まった。
「お前、意味わかってんのか」
「わかってる」
「俺はお前らを捨てるって言ってんだぞ」
「違ぇな」
ノインが一歩前へ出る。
「――俺たちがお前を行かせるんだ」
その言葉に、ツヴァイが頷いた。
「うん」
フューリーは目を伏せ、両手を握り締めている。
ズィーヴァは苦く笑った。
「言い方が下手だねぇ、ソルは」
「……」
「そういうときはさ、助けてくれって言うんだよ。王様」
ソルは何も言えなかった。
助けてくれ。
そんな言葉を口にするくらいなら、殴られる方が楽だった。
だが、今はそれすら許されない。
仲間を天秤に乗せるなら、逃げてはいけない。
最低の選択をするなら、その最低さを誤魔化してはいけない。
「……助けてくれ」
ソルは言った。
声が震えた。
「――頼む。ルナを救うために、俺を過去へ行かせてくれ」
それは、王の命令ではなかった。
一人の兄としての懇願だった。
◆◇◆
ロストブルーの王座の間。
そう呼ばれる場所は、実際にはただの広い地下空間だった。
崩れた柱。
盗品を組み合わせた粗末な王座。
壁に吊られた陽光結晶の欠片。
床にはフューリーが刻んだ無数の呪印。
その中央に、憂鬱の魔女因子が置かれていた。
黒く、重い輝き。
光っているのに、光を吸い込んでいるようにも見える。
それは石でも、結晶でも、炎でもなかった。
ただ、そこにあるだけで周囲の空間が沈む。
重い。
存在そのものが、重い。
「これが、憂鬱……」
フューリーが呟く。
彼女の声は震えていた。
「近づくだけで、術式が歪みます。こんなものを……本当に使うんですか」
「使う」
ソルは答えた。
迷いはなかった。
迷いを捨てたわけではない。
迷いごと、選んだ。
アインツが叡智の書を開く。
その頁には、びっしりと文字が記されていた。
未来を記す書。
だが今、そこに記されているのは、未来ではなく過去へ至るための術式だった。
「憂鬱の魔女因子は、突き詰めれば誰にでも使える」
アインツが言う。
「だが、その代わりに一回の行使ごとに代償を要求する。代償は、単なる命ではない。術者の中核、存在の意味、あるいは未来における可能性。その者がその者であるための核を差し出す必要がある」
「核……」
ツヴァイが小さく呟く。
ノインは憂鬱の魔女因子を見据えていた。
「つまり、俺らが俺らである理由を捧げろってか」
「そうだ」
アインツは頷く。
「中途半端な代償では届かない。過去へ飛ぶには、この時間で積み上げた重さを圧縮し、ソルを過去へ撃ち出すだけの力に変える必要がある」
「命じゃ駄目なのか」
ズィーヴァが問う。
「命だけでは軽い」
「命が軽いって、嫌な言い方だねぇ」
「事実だ」
アインツは表情を変えない。
「死ぬだけなら、ソルは何度も死んでいる。必要なのは死そのものではない。失うことで、その存在のあり方が変わるほどの代償だ」
フューリーが唇を噛む。
「それは……あまりにも残酷です」
「ああ」
アインツは否定しなかった。
「残酷だ。だから、俺は最後までこの方法を取りたくなかった」
「アンタが?」
ソルが皮肉げに笑う。
「性格の悪いアンタが、よく言う」
「性格が悪くても、失うことを好むわけではない」
アインツの声は静かだった。
その静けさが、逆に重かった。
「……めるぞ」
ソルが言う。
フューリーは深く息を吸った。
震えた手で杖を握り、床の呪印に魔力を流す。
黒紫の光が広がる。
憂鬱の魔女因子が、低く鳴動した。
それは音ではなかった。
骨の内側に響くような、世界の底が軋む感覚。
圧が増していく。
床が沈む。
空気が重くなる。
呼吸が浅くなる。
十戒の儀式が始まった。
◆◇◆
最初に前へ出たのは、ノインだった。
獅子の獣人。
ロストブルー最強の男。
暴力が支配する地下で、暴力そのものとして君臨していた存在。
ノインは憂鬱の魔女因子の前に立つ。
その背中は大きかった。
何度もソルを殺した背中。
何度もソルの前に立った背中。
救済の魔女に挑み、何度も砕かれ、それでも立ち上がった背中。
「ノイン」
ツヴァイが小さく呼んだ。
ノインは振り返らない。
「泣くな」
「まだ泣いてない」
「なら泣くな」
「うん」
ツヴァイの声が揺れていた。
ノインは憂鬱の魔女因子を見下ろす。
「俺は壊すことで守ってきた」
その声は低く、広間に響いた。
「殴って、砕いて、裂いて、潰して、近づく奴を壊してきた。そうすりゃ守れると思ってた。実際、守れたものもある」
彼の爪が光を受ける。
何人を裂いたのか、本人も数えていないだろう。
「だが、王」
ノインはソルを見た。
「お前は壊すだけじゃ守れねぇもんを見せた」
「……」
「だから、くれてやる」
ノインは右手を上げる。
「――『不壊』」
憂鬱の魔女因子が、低く唸る。
「俺は誓う。二度と、人もモノも壊さねぇ」
瞬間、空間が歪んだ。
ノインの爪から、力が抜ける。
牙が鈍くなるわけではない。
筋肉が萎えるわけでもない。
だが、何かが消えた。
ロストブルー最強の暴力。
壊すことで守る獣の核。
それが、憂鬱の魔女因子へ吸い込まれていく。
ノインの膝が、わずかに揺れた。
ツヴァイが駆け寄ろうとする。
「来るな」
ノインは言った。
声は変わらない。
だが、その声には今までにない重さがあった。
ソルは歯を食いしばった。
「ノイン……」
「王よ」
ノインは笑った。
「俺はお前の爪だ。必要なら、くれてやる」
その言葉に、ソルは何も言えなかった。
◆◇◆
次に前へ出たのは、ツヴァイだった。
猫のような女。
ノインの隣にいた存在。
恋人ではない。
家族とも違う。
主従でもない。
もっと動物的で、もっと原始的で、もっと言葉にしにくい絆。
ノインはツヴァイを守った。
ツヴァイはノインを癒した。
獅子と猫。
同じ縄張りで体温を分け合って生きてきた二人。
ツヴァイはノインの袖を握った。
だが、すぐに手を離す。
「ツヴァイ」
ノインが低く呼ぶ。
「大丈夫」
ツヴァイは笑った。
無理をした笑顔だった。
「ノインがいるから、こわくない」
「……馬鹿やろう」
「うん」
彼女は憂鬱の魔女因子の前に立つ。
小さな体。
細い肩。
だが、その瞳は逃げていなかった。
「私は、ずっとあったかいのが好きだった」
ツヴァイは言う。
「ノインの隣、あったかかった。子どもたちも、フューリーも、ズィーヴァも、ソルも。みんな、近くにいると、あったかかった」
彼女は自分の手を見る。
「ロストブルーは寒いけど、誰かの隣は寒くなかった」
ソルの胸が締め付けられる。
ツヴァイにとって、ぬくもりは世界そのものだったのだ。
守られ、癒し、隣で眠る。
その関係の核が、体温だった。
「でも、ソルが行くなら」
ツヴァイは顔を上げる。
「――『不感』」
黒い光が、彼女の足元に広がる。
「私は誓う。もう二度と、人のぬくもりを感じない」
ノインが、初めて表情を歪めた。
「ツヴァイ」
「いいの」
「よくねぇ」
「いいのっ」
ツヴァイは、もう一度笑う。
「だって、ノインがいるって知ってるから」
その瞬間、憂鬱の魔女因子が彼女の誓いを呑み込んだ。
ツヴァイの体が小さく震える。
ノインが彼女を支える。
ツヴァイはノインの腕の中にいる。
だが、その目が揺れた。
「あれ……ノイン、いるのに」
声が震える。
「わかるのに、あったかくない」
ノインは何も言わず、ツヴァイを抱きしめた。
ツヴァイは涙をこぼした。
けれど、泣き声を上げなかった。
不感。
諦めないために、ぬくもりを失った。
◆◇◆
三番目は、フューリーだった。
彼女はずっと震えていた。
最初から、最後まで。
杖を握る手は白く、唇は青い。
それでも、逃げなかった。
人殺しが嫌いな呪術師。
引っ込み思案で、すぐに怯えて、けれど誰よりも優しい先生。
ロストブルーの治安を守るために協力していた。
傷ついた子どもを放っておけなかった。
名前も知らない死者に祈った。
ソルが自分を殺して戻っていると知ったとき、本気で怒って泣いた。
そのフューリーが、憂鬱の魔女因子の前に立つ。
「私は……」
声が震える。
「私は、人を殺すのが嫌いです」
「知ってる」
ソルが言う。
フューリーは少しだけ笑った。
「人が死ぬのも嫌いです。誰かが泣くのも、誰かが痛がるのも、誰かが諦めるのも嫌いです。呪術は怖いものです。でも、本当は、誰かの苦しみを知るためにも使えるんです」
彼女は杖を胸に抱く。
「私は、そう信じていました」
「フューリー」
「ソルさん」
彼女はソルを見る。
「先生としては、こんなこと、絶対に教えたくありません」
「ならやめろ」
「でも」
彼女の目に涙が浮かぶ。
「あなたがまだ学べるなら、次へ進んでください」
ソルの喉が詰まった。
フューリーは憂鬱の魔女因子に向き直る。
「――『不恕』」
黒紫の光が、彼女の体を照らす。
「私は誓います。もう二度と、誰のことも思いやらない」
それは、フューリーという人間を根元から壊す誓いだった。
彼女にとって、思いやりは弱さではない。
彼女の呪術の核だった。
人殺しが嫌いで、誰かを守りたいからこそ、彼女は呪いを扱えた。
その優しさを差し出す。
憂鬱の魔女因子が、彼女の誓いを呑み込む。
フューリーの涙が止まった。
表情が、静かになる。
震えも止まる。
それは強くなったのではない。
何かが、抜け落ちたのだ。
「……ああ」
フューリーは自分の頬に触れる。
「震えが、止まりました」
ソルは何も言えなかった。
フューリーは淡く微笑む。
その笑みは、ひどく空っぽだった。
「これで、少しは先生らしくなくなれたでしょうか」
「……やめろ」
「すみません。もう、どう謝ればいいのかも、わからないんです」
ソルは拳を握った。
爪が掌に食い込む。
痛かった。
その痛みを、忘れたくなかった。
◆◇◆
四番目は、ズィーヴァだった。
彼女は、いつものように軽い足取りで前へ出た。
軽い。
軽すぎる。
まるで、これから誰かの財布でも盗みにいくみたいな顔だった。
「じゃ、あたしか」
「ズィーヴァ」
「そんな顔しないでよ、ソル」
彼女は笑う。
その笑顔が、ソルは嫌だった。
いつもと同じ笑みなのに、今だけはひどく痛かった。
「スリの基本、覚えてる?」
「……何の話だ」
「盗るときに迷うな。迷ったら手元が鈍る。手元が鈍ったら捕まる。捕まったら終わり」
「今する話かよ」
「今だからする話だよ」
ズィーヴァは肩を竦める。
「ソル。あんたは今、過去を盗みに行くんだ。だったら迷っちゃだめ」
「……」
「迷うのは、あたしが引き受ける」
ソルの眉が動く。
ズィーヴァは憂鬱の魔女因子を見る。
「――『不惑』」
その声は、意外なほど澄んでいた。
「私は誓う。もう二度と、惑わされない」
黒い光が、彼女を包む。
ズィーヴァは笑ったまま続けた。
「迷わない。揺れない。躊躇わない。どんな道でも、どんな選択でも、まっすぐ進めるように」
「ズィーヴァ」
「あとさ」
彼女は、ソルを見た。
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「これも、持っていって」
ソルは言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、次の瞬間、理解した。
ズィーヴァの胸の奥にあったもの。
ソルを見るときの、軽い笑みの裏に隠れていた熱。
からかいに紛れ込ませた、ほんの少しの本気。
女としてソルを見る気持ち。
それを、彼女は惑いとして差し出そうとしている。
「……イーリス」
ソルは言った。
反射的な言葉だった。
ズィーヴァ、否、イーリスは笑う。
「止めても無駄だよ」
「それは、関係ねぇだろ」
「関係あるよ。だって、あたしの迷いだもん」
「イーリス」
「重かった?」
軽く尋ねる。
けれど、その声の奥は震えていた。
「ごめんね。言わないつもりだったんだけどなぁ。こんな形で渡すことになるとは思わなかった」
「……」
「でも、いいよ。あんたが背負うっていうなら、あたしのこれも持っていきな」
ズィーヴァは、いつものように笑う。
「盗みの基本だよ、ソル。盗れるもんは全部盗れ。未来だって、恋心だって、例外じゃない」
憂鬱の魔女因子が輝いた。
ズィーヴァの目から、揺らぎが消えていく。
迷いが消える。
同時に、熱も消える。
ソルを見る目が、少しずつ変わっていく。
仲間を見る目へ。
王を見る目へ。
かつてそこにあった女としての感情だけが、綺麗に抜き取られていく。
「……あれ」
ズィーヴァは首を傾げた。
「なんか、変な感じ……うん。大丈夫」
彼女は笑った。
その笑みは、さっきまでよりずっと迷いがなかった。
だからこそ、ソルの胸を抉った。
「ほら、王様。あたしはもう惑わないよ」
ソルは答えられなかった。
◆◇◆
四つの誓いが捧げられた。
ノインの『不壊』。
ツヴァイの『不感』。
フューリーの『不恕』。
ズィーヴァの『不惑』。
ロストブルーでソルが集めた仲間たち。
その一人一人が、自分の核を差し出した。
壊すことで守ってきた獅子が、壊す力を捨てた。
ぬくもりに縋って生きてきた猫が、体温を感じる心を捨てた。
誰かを思いやることで呪いを制していた先生が、その思いやりを捨てた。
迷いながら、惑いながら、それでも笑って隣にいた女が、その惑いを捨てた。
憂鬱の魔女因子は、黒く輝いている。
床の呪印は脈打ち、空間は圧縮され、王座の間全体が重く沈んでいた。
それでも――まだ足りない。
誰に言われずとも、ソルにはわかった。
憂鬱の魔女因子が求めている。
もっと重いものを。
もっと深いものを。
ただ死ぬだけでは届かない。
命だけでは軽すぎる。
この時間から、すべてが始まる前の過去まで。
そこへ至るには、存在の理由そのものを差し出さなければならない。
ソルは、仲間たちを見た。
ノインが立っていた。
壊す力を失ってなお、獅子はソルの前に立っていた。
ツヴァイがいた。
ぬくもりを失ってなお、ノインの袖を握っていた。
フューリーがいた。
思いやりを失ってなお、術式を維持していた。
ズィーヴァがいた。
惑いを失ってなお、迷いなくソルを見ていた。
その全員が、ソルを見ていた。
行け、と。
救え、と。
終わらせるな、と。
妹だけではない。
ロストブルーも。
自分たちも。
この空のない地獄で、それでも生きていた全てを。
なかったことにするのではなく、別つために。
ソルを送り出そうとしていた。
「……お前ら。そこまでして、俺に行けって言うのか」
ソルの声は、低かった。
怒鳴り声ではなかった。
泣き声でもなかった。
ただ、深く沈んだ声だった。
「行けよ、お前が俺たちの王だ」
ノインが鼻を鳴らした。
「ソルが行けば、ルナも、みんなも、助かるかもしれない」
ツヴァイが、小さく頷く。
「貴方が進むなら、まだ学べる未来があります」
フューリーは、静かに目を伏せる。
「過去を盗みに行くんでしょ、王様。なら、手ぶらじゃ格好つかないよ」
ズィーヴァは笑った。
迷いのない笑みだった。
ソルは、目を閉じた。
重かった。
あまりにも重かった。
自分はルナを救いたかった。
それが一番だった。
今でも、それは変わらない。
ルナを救う。
それだけは、何に代えても譲れない。
だが、それだけではなくなっていた。
ノインを救いたい。
ツヴァイを救いたい。
フューリーを救いたい。
ズィーヴァを救いたい。
アインツを救いたい。
ロストブルーを救いたい。
酒と薬と血と泥に沈んだ掃き溜めを。
それでも自分を王と呼んだ、空のない地獄を。
ソルは、救いたいと思ってしまった。
あいつらの太陽でありたいと、思ってしまった。
太陽でなくちゃならないと、思ってしまった。
ならば。
ここで膝をつくことだけは、許されない。
ソルは、ゆっくりと憂鬱の魔女因子の前へ進んだ。
「王」
ノインが呼んだ。
ソルは振り返らない。
「いいや」
ソルは言った。
「これは、俺が捧げなくちゃならねぇことだ」
黒い光が、ソルの足元へ広がっていく。
憂鬱が、彼を見ている。
世界を圧縮し、時間を折り畳み、過去へ至る道を開くための最後の重さを求めている。
ソルは、黒いマフラーを握った。
「お前らがそこまでの覚悟を見せた」
声は震えていなかった。
「なら、俺も捧げる」
憂鬱の魔女因子が、低く鳴る。
「俺がお前らの『太陽』であるために」
ソルは顔を上げた。
「――『不曲』」
黒い光が、彼の胸に沈む。
「俺は誓う。もう曲がらない。兄である俺を、王である俺を、太陽である俺を、どれだけ世界が捻じ曲げようとしても、俺は俺のまま立ち続ける」
空間が軋んだ。
ソルの魂に、最初の戒律が刻まれる。
「――『不諦』」
ソルは続けた。
「俺は誓う。もう諦めない。ルナを救うことも、ロストブルーを救うことも、敵を滅ぼすことも、何一つ諦めない」
重みが増す。
憂鬱の魔女因子が、ソルの覚悟を呑み込んでいく。
だが、ソルは目を逸らさない。
ここで逸らせば、太陽ではいられない。
ここで膝を折れば、王ではいられない。
ここで忘れれば、兄ではいられない。
だから、最後の一つを口にする。
「――『不忘』」
王座の間が、静まり返った。
「俺は誓う。忘れない」
ルナの泣き顔が浮かぶ。
ノインの背中が浮かぶ。
ツヴァイの手が浮かぶ。
フューリーの震える声が浮かぶ。
ズィーヴァの笑みが浮かぶ。
アインツの静かな眼差しが浮かぶ。
酒臭い路地。
薬に沈んだ女。
盗みを覚えた子ども。
粗末な王座。
陽光結晶の鈍い光。
空のない地獄。
それでも故郷であるロストブルー。
「――俺は、お前らを忘れない」
ソルの声が、広間に響いた。
「お前らがいたことを、なかったことにはしない。お前らの生き様を、死に様を、笑い声を、泣き声を、怒りを、祈りを、全部持っていく」
黒い光が、ソルを包んだ。
「俺は忘れない。絶対に、忘れない」
憂鬱の魔女因子が、大きく脈打った。
ソルの三つの戒律。
不曲。
不諦。
不忘。
それは、彼が太陽であるための核だった。
彼が兄であり、王であり、ロストブルーの太陽であるために、絶対に手放してはならない三つだった。
だからこそ、捧げる。
捧げてなお、背負い続ける。
その覚悟を、憂鬱は受け取った。
だが――。
「……まだ、届かんか」
アインツが呟いた。
声は、静かだった。
ソルは振り返る。
アインツは、叡智の書を抱えていた。
その顔に驚きはない。
まるで、こうなることを最初から知っていたように。
「アインツ」
「十のうち、七つが揃った」
アインツは言った。
「ノインの不壊。ツヴァイの不感。フューリーの不恕。ズィーヴァの不惑。そして、お前の不曲、不諦、不忘」
ソルの胸が、嫌な予感で冷える。
「残り三つ」
アインツは一歩前へ出た。
「それは俺のものだ」
アインツは、淡々と言った。
いつもの声だった。
だが、その奥にあるものは、いつもよりずっと深かった。
「……やめろ」
ソルは即座に言った。
だが、アインツは止まらない。
罪悪感。
悔恨。
それでも果たさなければならない務め。
ロストブルーの守役として、叡智の書の所有者として、ソルをここまで導いた男として。
最後に払うべき代償を、彼はずっと知っていた。
「俺は叡智の書を信じてきた」
アインツは本を開く。
頁が風もないのにめくれていく。
「書に記された未来を信じ、書にない未来を諦めた。ロストブルーは滅びる。救済の魔女には勝てない。そう記されていたから、俺はそれを前提に動いた」
文字が、黒い光に浮かび上がる。
「だが、お前は違った」
アインツはソルを見る。
「お前は書にない未来を作った。ノインを変え、ツヴァイを立たせ、フューリーを進ませ、ズィーヴァを惑わせ、俺にもう一度、希望を見せた」
アインツは右手を上げる。
「――『不信』」
叡智の書の文字が、一行剥がれた。
「俺は誓う。もう二度と、書かれた未来を信じない」
文字が黒い粒子となって、憂鬱の魔女因子へ吸い込まれる。
アインツの体がわずかに揺れた。
ソルは踏み出そうとする。
だが、フューリーの術式が彼を縛っていた。
「フューリー」
「すみません」
彼女は静かに言った。
「でも、行かせます」
アインツは続ける。
「俺は、お前を騙した」
「……」
「試した。隠した。誘導した。ノインを手懐けろと言い、フューリーに学べと言い、外に希望がないことを黙っていた。必要だと信じて、何度もお前を欺いた」
「それは、俺に必要だった」
「そうだとしても、騙した事実は消えん」
アインツは頁をめくる。
「――『不騙』」
黒い光が、彼の胸を裂くように広がった。
「俺は誓う。もう二度と、誰も騙さない」
その誓いも、憂鬱へ呑まれた。
アインツの口元から、血が一筋落ちる。
ソルの拳が震えた。
「アインツ、もういい」
「まだだ」
アインツは首を横に振る。
「俺は、誰よりも救済を欲した」
その声は、初めて掠れた。
「欲して、欲して、欲して、叡智の書に縋り、お前に縋った。俺は欲深い男だ。救いたいと願いながら、その願いをお前に背負わせた」
「……」
「だから、最後の欲は俺が払う」
叡智の書が震える。
頁が裂ける。
未来を記した文字が、黒い渦となって浮かび上がる。
「――『不欲』」
アインツは誓う。
「俺は誓う。もう二度と、救済を欲しない」
それは、アインツという男の核だった。
ロストブルーを救いたい。
この場所を終わらせたくない。
その一心で、彼は叡智の書を抱え、ソルを導き、何度も何度も未来を読み続けた。
その欲を、差し出す。
憂鬱の魔女因子が、アインツの三つの戒律を呑み込んだ。
書が閉じる。
叡智の書の表紙に、亀裂が走る。
アインツの膝が、わずかに折れた。
それでも、男は倒れなかった。
「……これで、十だ」
アインツは言った。
黒い光が、王座の間を満たしていく。
憂鬱の魔女因子が、ついに応えた。
十の戒律が揃う。
不壊。
不感。
不恕。
不惑。
不曲。
不諦。
不忘。
不信。
不騙。
不欲。
世界が、音を立てて歪んだ。
「ソル」
アインツは、崩れかけた叡智の書を抱えたまま言う。
「行け」
「……」
「お前こそが、俺たちの太陽だ」
ソルは、アインツを見た。
ノインを見た。
ツヴァイを見た。
フューリーを見た。
ズィーヴァを見た。
そして、胸の奥にルナを思った。
逃げられない。
もう、逃げる理由がない。
ここまでされて、立ち止まることだけはできない。
ソルは、黒いマフラーを握る。
「ああ」
短く答えた。
「行ってくる」
◆◇◆
世界が潰れていく。
王座が歪む。
柱が折れる。
陽光結晶の光が吸い込まれる。
ロストブルーの路地が、酒場が、寝床が、子どもたちの笑い声が、喧嘩の怒号が、泣き声が、祈りが、全て一点へ沈み込んでいく。
ノインが立っていた。
壊す力を失った獅子が、それでも王の前に立っていた。
ツヴァイがいた。
ぬくもりを感じられなくなった猫が、それでもノインの袖を握っていた。
フューリーがいた。
思いやりを失った先生が、それでも術式を維持していた。
ズィーヴァがいた。
迷いを失った女が、それでもソルに笑っていた。
アインツがいた。
未来を信じず、誰も騙さず、救済を欲しないと誓った男が、それでも最後までソルを見ていた。
ソルは叫ばなかった。
泣かなかった。
ただ、立っていた。
彼らが太陽と呼んだものとして。
彼らの期待を背負う王として。
ルナを救う兄として。
憂鬱の魔女因子が、黒い太陽のように輝く。
圧縮。
圧縮。
圧縮。
空間が潰れる。
時間が折れる。
現在から過去までの距離が、一点へと縮められていく。
十の戒律が、ソルを過去へ撃ち出す矢になる。
重い。
あまりにも重い。
だが、ソルはその重さを受け止めた。
ノインが牙を失った意味も。
ツヴァイがぬくもりを失った意味も。
フューリーが優しさを失った意味も。
ズィーヴァが恋を失った意味も。
アインツが信じることも騙すことも欲することも捨てた意味も。
全部、背負う。
全部、忘れない。
そして、全部を救うために行く。
「――『終焉』」
ソルの声が、潰れていく世界に響いた。
憂鬱の魔女因子が応える。
重さが一点に集まる。
ロストブルーという時間が、現在から過去へ向かう矢になる。
「〝ビッグクランチ〟」
その瞬間、空無き大地が潰れた。
すべてが一点へ収束する。
終わりが始まりへと叩き込まれる。
ソルは、過去へ撃ち出された。
◆◇◆