ゼロカラワカツイセカイセイカツ   作:萎える伸える

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第二十七.六話『月と太陽の物語』終昇【試練】

◆◇◆

 

 

 目を覚ます。

 そう表現するには、あまりにも意識の浮上は重かった。

 深い水底から引き上げられるように。

 あるいは、魂の底に沈められていたものを無理やり掴み上げられるように。

 ソルは、息をした。

 

「――ッ、は……!」

 

 肺に空気が入る。

 その瞬間、吐き気が込み上げた。

 体を丸め、喉を押さえる。

 胃の中には何もない。

 それでも、魂の奥に溜まったものを吐き出すように、ソルは膝をついた。

 

 草の匂いがした。

 土の匂いがした。

 風が頬を撫でている。

 見上げれば、そこには青い空がある。

 ロストブルーの天井ではない。

 陽光結晶の偽物の光でもない。

 どこまでも広い、夢のような草原。

 そして、そこに茶卓があった。

 

 白い卓。

 白い椅子。

 湯気を立てる茶杯。

 その向こうに、白い女が座っている。

 長い白髪。

 黒い瞳。

 喪服のような衣。

 酷く悍ましい瘴気を纏いながら、微笑む化け物。

 

 

「ようやくお目覚めだね」

 

 

 女は言った。

 声は、軽い。

 まるで、長い昼寝から目覚めた客人に声をかけるような調子だった。

 ソルは、その声を知っていた。

 知っている。

 思い出した。

 自分はここに来たことがある。

 

 怠惰を。

 色欲を。

 憤怒を。

 暴食を。

 強欲を。

 

 五つの魔女因子を魂に抱え込み、頭の中で大罪の声が鳴り響き、意識が壊れかけたあの瞬間。

 ソルは、ここへ来た。

 草原。

 茶会。

 強欲の魔女。

 エキドナ。

 その名を思い出した瞬間、喉の奥にまた吐き気が込み上げる。

 

「……テメェ」

 

 ソルは掠れた声で呟いた。

 

「エキドナッ」

 

「覚えていてくれて何よりだよ」

 

 エキドナは嬉しそうに笑った。

 

「もっとも、君にとってはついさっきのことでもあり、気が遠くなるほど昔のことでもあるのかな」

 

「……」

 

「どうだったかな、ソル」

 

 茶杯を持ち上げ、エキドナは優雅に問いかける。

 

「過去との再会は、君にどんなものをもたらした?」

 

 その言葉で、記憶が戻る。

 いや。

 戻ったのではない。

 流れ込んできた。

 ロストブルー。

 空のない地獄。

 ルナの誕生。

 母の死。

 父の震える手。

 天井の崩落。

 ルナの死。

 救済の魔女。

 死。

 回帰。

 

 ――そして。

 ノイン。

 ツヴァイ。

 フューリー。

 ズィーヴァ。

 アインツ。

 

 王座。

 ロストブルーの太陽。

 何度も死んだ。

 何度も戻った。

 何度も仲間を失った。

 王になった。

 魔女に負けた。

 外へ出た。

 荒廃した世界を見た。

 英雄に挑み、敗北した。

 憂鬱の魔女因子を得た。

 ルナと別れた。

 十戒を結んだ。

 ノインが『不壊』を捧げた。

 ツヴァイが『不感』を捧げた。

 フューリーが『不恕』を捧げた。

 ズィーヴァが『不惑』を捧げた。

 ソルが『不曲』『不諦』『不忘』を捧げた。

 アインツが『不信』『不騙』『不欲』を捧げた。

 そして、ソルは過去へ撃ち出された。

 

 月は沈み、太陽が昇った。

 

 そこまでのすべてを、ソルは見た。

 歩いた。

 選んだ。

 背負った。

 ――だが。

 

「……試練」

 

 ソルの唇から、言葉が漏れた。

 エキドナは微笑む。

 

「そう」

 

 その笑みは、優しくも、残酷でもあった。

 

「あれが第一の試練だ」

 

「……」

 

「まずは己の過去と向き合え。君は、君自身の過去を見た。君が歩んだ地獄を、君が選んだ罪を、君が背負った名前を、もう一度見た」

 

 ソルは膝をついたまま、拳を握る。

 草が潰れる。

 土が指の間に食い込む。

 

「ふざけんな」

 

「ふざけてはいないよ」

 

「俺は……」

 

 声が震えた。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 重さだった。

 あまりにも多くを思い出しすぎた。

 あまりにも長い時間を、たった一瞬で取り戻しすぎた。

 

「俺は、あれを見せられてたってのか」

 

「見せられていた、という言い方もできる」

 

 エキドナは言う。

 

「けれど、あれは嘘ではない」

 

「……」

 

「あれは君の過去だ。君が確かに歩いた道だ。君が確かに選んだ罪だ。けれど、この茶会において、君はもう一度それと向き合った」

 

 エキドナは茶杯を置く。

 

「君はもう一度、仲間たちが存在理由を差し出す場面を見た。

 もう一度、妹と別れた。

 もう一度、王として立った。

 もう一度、過去へ行くことを選んだ」

 

 十戒の黒い光が、魂の奥で疼く。

 ソルは歯を食いしばった。

 

「……選ぶに決まってんだろ」

 

 エキドナの目が細くなる。

 

「ほう」

 

「何度見せられても、同じだ」

 

 ソルは立ち上がる。

 膝が震える。

 だが、立つ。

 立たなければならない。

 

 ノインが存在理由を差し出してまで、送り出した。

 ツヴァイがぬくもりを失ってまで、送り出した。

 フューリーが思いやりを失ってまで、送り出した。

 ズィーヴァが惑いを失ってまで、送り出した。

 アインツが自分の信仰も、罪も、願いも差し出してまで、送り出した。

 ならば、ここで膝をついているわけにはいかない。

 

「俺は行く」

 

 ソルは言った。

 

「ルナを救う。何度聞かれても、そこは変わらねぇ」

 

「妹のために、仲間を犠牲にしても?」

 

「……ルナは救う」

 

 その言葉は重い。

 重すぎるほどに重い。

 だが、ソルは続ける。

 

「……けど、それだけじゃねぇ」

 

 エキドナは黙って聞いている。

 

「ノインも、ツヴァイも、フューリーも、イーリスも、アインツも、ロストブルーも。俺はあいつらも救う」

 

「それはとても欲張りな答えだと、そうは思わないかい?」

 

「そうだよ」

 

 ソルは吐き捨てる。

 

「俺は欲張りだ。妹を救いたい。仲間も救いたい。ロストブルーも救いたい。今の世界で出会ったやつらも、なかったことにはしたくねぇ」

 

「それが不可能でも?」

 

「可能にする」

 

「どうやって?」

 

「知るか」

 

 ソルは、黒いマフラーを握る。

 

「知らねぇから進むんだろうが」

 

 その言葉に、エキドナは一瞬だけ目を丸くした。

 そして、愉快そうに笑う。

 

「なるほど。なるほど、なるほど。やはり君は面白い」

 

「気色悪いな」

 

「褒めているんだよ」

 

 エキドナは笑ったまま、白い指を立てた。

 

「いいだろう。では、第一の試練は通過だ」

 

 風が吹く。

 草原が揺れる。

 白い茶会の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

「君は過去を否定しなかった。罪から逃げなかった。仲間たちの選択を、自分の免罪符にもしなかった。そして、もう一度同じ選択をした」

 

 エキドナは、ソルを見る。

 

「――ならば次だ」

 

「次、だと?」

 

「そう。試練は一つではない」

 

 ソルの目が鋭くなる。

 

「まだやらせんのか」

 

「もちろん」

 

 魔女は微笑む。

 

「まずは己の過去と向き合え」

 

 茶会の景色が揺らぐ。

 

「次は――」

 

 草原の向こうに、青い光が差した。

 空よりも深い青。

 ロストブルーには存在しなかった色。

 潮の匂い。

 波の音。

 ありえないほど穏やかな笑い声。

 

 エキドナが告げる。

 

 

『――ありうべからざる今を見よ』

 

 

 ソルの前で、草原が海へ変わっていく。

 

 

◆◇◆

 

 

 潮の匂いがした。

 草原がほどけ、青が広がる。

 足元の草は白い砂へ変わり、吹き抜ける風には塩の香りが混じっていた。

 波が寄せて、返る。

 それだけの音が、なぜか胸を締めつけた。

 

「……海」

 

 ソルは呟いた。

 見たことがある。

 いや、正確には、見たいと願ったことがある。

 ルナと見たかった。

 ロストブルーの連中に見せたかった。

 空のない地獄で生きてきた連中に、本物の空と、本物の太陽と、本物の海を見せてやりたかった。

 その願いが、目の前にあった。

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 

 声がした。

 振り向くより早く、小さな体がソルの手を掴んだ。

 ルナだった。

 血もない。

 傷もない。

 怖がってもいない。

 ただ、太陽の下で笑っている。

 

「海だよ! すごいね、ぜんぶ青い!」

 

 ルナが笑う。

 その笑顔に、ソルの呼吸が止まった。

 その隣で、ツヴァイが裸足で波打ち際を歩いている。

 波が足首に触れるたび、くすぐったそうに肩を揺らした。

 

「ノイン、これ、あったかい」

 

「濡れるぞ」

 

「もう濡れてる」

 

「なら戻れ」

 

「やだ」

 

 ノインは眉間に皺を寄せながらも、ツヴァイの手を離さない。

 ツヴァイはその手を握り返して、嬉しそうに笑っていた。

 ぬくもりを感じている。

 確かに、感じている。

 フューリーは少し離れた場所で、転びかけた子どもに慌てて駆け寄っていた。

 

「だ、大丈夫ですか? 海水は飲んではいけませんよ。お腹を壊しますからね」

 

 そう言いながら、濡れた服をどう乾かすべきか本気で悩んでいる。

 その姿は、誰かを思いやる先生そのものだった。

 ズィーヴァは砂浜にしゃがみ込み、貝殻を拾っている。

 

「これ、売れるかな」

 

「海まで来て商売ですか」

 

「違う違う。記念品。まあ、売れたら売るけど」

 

「売るんじゃないですか……」

 

 フューリーが呆れ、ズィーヴァが笑う。

 その笑みには迷いがあった。

 軽さの奥に、熱があった。

 ソルを見るたび、ほんの少しだけ目を逸らす。

 その揺らぎが、まだ彼女の中に残っていた。

 

 アインツもいた。

 叡智の書を抱え、海を見ている。

 いつものように眉間に皺を寄せているが、その表情はどこか穏やかだった。

 未来を読んでいるのではない。

 滅びを数えているのでもない。

 ただ、仲間たちが海を見る光景を、静かに見届けている。

 

 誰も失っていない。

 誰も欠けていない。

 

 ノインは壊す力を失っていない。

 ツヴァイはぬくもりを感じている。

 フューリーは思いやりを持っている。

 ズィーヴァは惑い、笑い、盗もうとしている。

 アインツはまだ、何かを信じている。

 

 ルナがいる。

 ロストブルーの仲間たちがいる。

 

 太陽がある。

 空がある。

 海がある。

 

 あまりにも、欲しかった。

 喉が焼けるほどに。

 魂が軋むほどに。

 

「悪くないだろう?」

 

 背後から、エキドナの声がした。

 ソルは振り向かない。

 振り向けば、この光景から目を逸らすことになる。

 

「君が欲しかったものは、ここにある。妹がいて、仲間がいて、誰も何も失っていない。ロストブルーは救われ、君は太陽として彼らをここまで連れてきた」

 

「……」

 

「これ以上、何が必要なんだい?」

 

 波の音がした。

 ルナがソルの手を引く。

 

「お兄ちゃん、早く!」

 

 行きたい。

 その手を取って、海へ入ってやりたい。

 ツヴァイと一緒に波を蹴って、ノインの不機嫌な顔を笑って、フューリーの説教を聞いて、ズィーヴァのくだらない冗談に舌打ちして、アインツの隣に立って。

 

 ただ、笑っていたかった。

 それだけでよかった。

 それだけで、よかったはずだった。

 だが。

 

「……違う」

 

 ソルは呟いた。

 ルナの手が止まる。

 

「お兄ちゃん?」

 

「……悪いな、ノインにでも遊んでもらってくれ」

 

 ソルは、ゆっくりと手を離した。

 ルナの頭を優しく撫でる。

 砂浜を見渡す。

 青い海。

 白い砂。

 笑う仲間たち。

 幸福そのものの光景。

 

 けれど、そこにはいなかった。

 

 ――レムがいない。

 フェルトがいない。

 エルザがいない。

 メィリィがいない。

 ロム爺がいない。

 今の世界で出会った者たちが、ここにはいない。

 自分がなかったことにはしないと決めた者たちが、この幸福には含まれていない。

 

 この海は、甘い。

 あまりにも甘い。

 ロストブルーだけを救った夢。

 ルナだけを救った夢。

 過去の仲間だけを連れてきた、都合のいい今。

 

「違う」

 

 もう一度、ソルは言った。

 エキドナが問う。

 

「何が違うんだい?」

 

「ここには、あいつらがいねぇ」

 

「……」

 

「俺は約束した。なかったことにはしねぇって」

 

 波が揺らぐ。

 空が歪む。

 ルナの笑顔が、遠くなる。

 

「俺は、ロストブルーだけの太陽じゃいられねぇ。ルナだけの兄貴でも、もういられねぇ」

 

 ソルは歯を食いしばった。

 

「フェルトも、エルザも、メィリィも、クロムウェルの爺も、レムも。俺が今の世界で出会ったやつらを見捨てて笑う未来なら、俺はそこには行けねぇ」

 

「この今が欲しくないのかい?」

 

「欲しい」

 

 即答だった。

 

「欲しいに決まってんだろ」

 

 ソルは、海を見た。

 ルナを見た。

 ノインを、ツヴァイを、フューリーを、ズィーヴァを、アインツを見た。

 焦がれるほどに見つめた。

 

「でも、ここには逃げねぇ」

 

「なぜ?」

 

「全部持っていくって決めたからだ」

 

 黒いマフラーを握る。

 

「ロストブルーも、今の仲間も、ルナも、俺の罪も。全部持っていく。だから、こんな都合のいい今には逃げねぇ」

 

 その瞬間、海が割れた。

 空が白く砕ける。

 ルナの声が遠ざかる。

 ノインの背中も、ツヴァイの笑顔も、フューリーの声も、ズィーヴァの揺らぎも、アインツの穏やかな眼差しも。

 すべてが、泡のように消えていく。

 

 ソルは最後まで目を逸らさなかった。

 欲しかった幸福が消える。

 手を伸ばせば届きそうだった夢が、砕けていく。

 それでも、目を逸らさなかった。

 

 

「君の願いはあまりに欲深で、【強欲】だ。

 しかし、これで第二の試練も終わりだ」

 

 

 エキドナの声が、静かに響いた。

 

 

◆◇◆

 

『――いずれ来る災厄の備えよ』

 

◆◇◆

 

 

 次に見えたのは、未来だった。

 いや、未来と呼ぶにはあまりにも暗い。

 そこには、夜があった。

 黒い空。

 砕けた大地。

 崩れた建物。

 血と瓦礫の匂い。

 

 そして、ひとりの男が立っている。

 ソルだった。

 未来のソル。

 今よりもさらに傷つき、魔女因子に魂を軋ませ、それでも黒いマフラーを握り締めて立っている。

 その前に――救済の魔女がいた。

 顔は見えない。

 あるいは、見えないように世界が歪んでいる。

 黒い衣。

 血のような瞳。

 愛してる、と囁く声。

 妬ましい、と軋む声。

 こちらを見ているのに、どこか遠くを見ているような女。

 救済の名を冠する理不尽。

 

 ソルは一人だった。

 ノインはいない。

 ツヴァイもいない。

 フューリーも、ズィーヴァも、アインツもいない。

 フェルトも、エルザも、メィリィも、ロム爺もいない。

 ルナもいない。

 ただ一人で、救済の魔女と向き合っている。

 

 未来のソルが、黒い瘴気を纏う。

 五つの魔女因子が暴れる。

 憂鬱の残響が軋む。

 全てを注ぎ込んだ一撃が放たれる。

 

 だが、届かない。

 

 救済の魔女は、ただそこに立っている。

 ソルは叫ぶ。

 何かを叫んでいる。

 だが、声は聞こえない。

 世界が、それを隠している。

 

 次の瞬間、救済の魔女の影が伸びた。

 

 黒い手が、ソルの胸を貫く。

 未来のソルの体が、崩れる。

 それでも、ソルは手を伸ばしていた。

 

 殺せなかった。

 届かなかった。

 救えなかった。

 ――また、負けた。

 

 

◆◇◆

 

 

 白い世界のソルは、息を呑んだ。

 

「……俺が、負ける未来か」

 

「そう」

 

 エキドナの声がした。

 

「第三の試練。いずれ来る災厄に備えよ」

 

 

◆◇◆

 

 

 ――未来は続く。

 

 ソルが倒れる。

 救済の魔女が歩き出す。

 その背後で、世界が壊れていく。

 都市が沈む。

 森が焼ける。

 人々が逃げる。

 祈りが悲鳴に変わる。

 救済の魔女は世界を浄化していく。

 その浄化の果てに、神獣が生まれる。

 

 黒龍ジズ。

 空を覆い、ヴォラキアを焼く。

 黒蛇ごと、国を焼き尽くす。

 

 レヴィアタン。

 海を裂き、カララギを沈める。

 白鯨すら、海底へ引きずり込む。

 

 ベヒモス。

 大地を踏み砕き、グステコを潰す。

 大兎の群れごと、地に沈める。

 

 ラインハルトがそれらを駆逐する。

 剣聖が神獣を斬る。

 英雄は勝つ。

 

 だが、国は救えない。

 

 ヴォラキアは滅びている。

 カララギは沈んでいる。

 グステコは踏み均されている。

 最後に残ったルグニカも、もはや王なき王国の残骸となる。

 

 人々は行き場を失う。

 亜人。

 混血。

 難民。

 罪人。

 捨てられた者たち。

 地上に居場所をなくした者が、地下へ追いやられる。

 古い避難路が開かれる。

 祈りの言葉が壁に刻まれる。

 いつか、空の下へ。

 その祈りは腐っていく。

 秩序は崩れる。

 約束は忘れられる。

 希望は酒と薬と血に沈む。

 

 ロストブルーが生まれる。

 

 空のない地獄。

 掃き溜め。

 それでも、ソルが生まれた場所。

 長い長い滅びの果てに、ひとりの赤子が泣く。

 ルナではない。

 もっと前。

 

 

 ――ソルが生まれる。

 

 

 その光景を見て、ソルは理解した。

 これは未来だ。

 だが、自分にとっては過去のようにも見える。

 

 ――自分が負けた先に、ロストブルーが生まれる。

 

 ロストブルーが生まれたから、自分が生まれる。

 つまり。

 自分が勝てば、自分は生まれないかもしれない。

 

 

「君にとっては、過去の光景みたいだね」

 

 

 エキドナが言った。

 その声には、笑みが混じっていなかった。

 

「だが、それは未来だ。君が負けた結果として生まれる未来。そして、その未来の果てに、君自身が生まれる」

 

 ソルは黙っていた。

 

「君が勝てば、君は存在しないかもしれない」

 

「……」

 

「ロストブルーも存在しない。ルナと過ごした日々も、ノインたちと出会った因果も、君が王になった事実も。全て、なくなるかもしれない」

 

 エキドナは問う。

 

「君はそれでいいのかい?」

 

 沈黙。

 ソルは、遠くに生まれたばかりの自分を見る。

 何も知らない赤子。

 

「君はなによりもそれを厭うていたんじゃないのかい?」

 

 空のない地獄に生まれ、妹を抱き、死に戻り、王になり、仲間を天秤にかけた男になるはずの命。

 その命が、なかったことになるかもしれない。

 それは、恐ろしいことだった。

 死ぬこととは違う。

 

 ――初めからいなかったことになる。

 

 誰にも覚えられない。

 誰にも呼ばれない。

 誰の中にも残らない。

 それでも。

 

 

「たとえ俺が存在しなくなっても」

 

 

 ソルは言った。

 

 

「あいつらがいる」

 

 

 エキドナは目を細める。

 

「君は忘れられるかもしれないよ」

 

「なら、俺は忘れねぇ」

 

「誰にも覚えられず、誰にも報われず、それでも?」

 

「――俺はあいつらの太陽であり続ける」

 

 エキドナは黙った。

 

「わからないな」

 

 やがて、彼女は呟く。

 

「なぜそこまで自らを犠牲にするんだい?」

 

 ソルは答えた。

 迷いなく。

 

 

「俺が兄だからだ」

 

 

 白い世界に、沈黙が落ちた。

 その一言だけで、何かが変わった。

 エキドナの表情が、ほんのわずかに揺れる。

 知識欲の権化。

 非情な魔女。

 人の感情すら観察対象にする存在。

 その彼女が、わずかに目を伏せた。

 

「……そうか」

 

 ただ、それだけだった。

 ソルはその意味を知らない。

 知らないままでいい。

 けれど、その一言には、ソルの知らない誰かの影があった。

 憂鬱を背負った、かつての誰か。

 エキドナにとって、兄に近しい何かだった存在の影が――。

 

 白い世界が開いていく。

 未来の光景が消える。

 神獣も、滅びも、ロストブルーの誕生も、赤子の泣き声も、すべて白に呑まれていく。

 エキドナは、ソルを見た。

 

「認めよう」

 

 その声は、いつもの軽薄なものではなかった。

 

「君が、賢人に至るにふさわしいと」

 

 ソルは眉をひそめる。

 

「賢人なんざになる気はねぇ」

 

「だろうね」

 

「魔女因子を集めたいわけでもねぇ」

 

「それもわかっている」

 

「俺はただ、終わらせる。

 救済なんて名前の、この地獄を」

 

 エキドナは、少しだけ笑った。

 

「だからこそ、君は面白い」

 

 その瞬間、ソルの胸の奥で暴れていた魔女因子が一斉に叫んだ。

 怠惰が沈む。

 色欲が絡みつく。

 憤怒が燃える。

 暴食が飢える。

 強欲が奪おうとする。

 そして、憂鬱が重く圧し掛かる。

 六つの異物が、魂の中で軋む。

 

「ぐ、ぁ……ッ!」

 

 ソルは膝をつきかけた。

 だが、エキドナが手を伸ばす。

 白い指先が、ソルの胸に触れた。

 冷たい。

 だが、不快ではなかった。

 

「完全に制御できるとは思わないことだね」

 

 エキドナは言った。

 

「君は資格を得ただけで、完成したわけではない。六つの因子は、いずれまた君を喰おうとする」

 

「……ッ」

 

「だから、少しだけ手を貸してあげよう」

 

「恩着せがましいな」

 

「恩に着てくれて構わないよ」

 

 エキドナは笑う。

 白い光が、ソルの胸の奥へ広がっていく。

 

「怠惰」

 

 怠惰の影が沈黙する。

 

「色欲」

 

 絡みつく影がほどける。

 

「憤怒」

 

 炎が低く沈む。

 

「暴食」

 

 飢えた口が閉じる。

 

「強欲」

 

 黒い欲望が、奥へ退く。

 

「憂鬱」

 

 最後に、重さが沈んだ。

 消えたわけではない。

 そこにいる。

 魂の裏側に。

 決して取り出せない場所に。

 だが今だけは、静かだった。

 一時的に、抑え込まれている。

 ソルは荒い息を吐いた。

 

「……気持ち悪ぃ」

 

「ひどい感想だね。せっかく助けてあげたのに」

 

「魔女に胸触られて気分いい奴がいるかよ」

 

「探せばいるかもしれないよ」

 

「言ってろ」

 

 エキドナは愉快そうに笑う。

 そして、茶杯を持ち上げた。

 

「さて」

 

 その声音が、わずかに変わる。

 

「茶会はここまでだ」

 

「……終わりか」

 

「名残惜しいかい?」

 

「二度と来ねぇよ」

 

「それは残念だ。ボクとしては、君という観察対象をまだまだ眺めていたいんだけどね」

 

「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ」

 

 ソルは吐き捨てる。

 だが、足元の草原が揺らぎ始めていた。

 青い空が白く霞む。

 風の匂いが薄れていく。

 茶卓も、椅子も、エキドナの輪郭さえ、少しずつ夢の奥へ沈んでいく。

 戻る時間なのだと、ソルにもわかった。

 

 ロストブルーへではない。

 あの空のない地獄へ帰るわけではない。

 過去へ撃ち出されるわけでもない。

 自分が五つの魔女因子を取り込み、魂が限界を迎え、意識を失ったあの瞬間。

 レムがいる。

 フェルトがいる。

 エルザがいる。

 ロム爺がいる。

 メィリィがいる。

 誰かが、必死に自分を呼んでいる。

 あの現実へ帰るのだ。

 

 

「……もう一度、あいつらに会えた」

 

 

 ソルは呟いた。

 エキドナの目が、わずかに細くなる。

 

 

「それだけは、感謝しといてやる」

 

 

 風が止まった。

 茶会の空気が、ほんの一瞬だけ静まる。

 エキドナは、口元に手を添えて、小さく笑った。

 

「なるほど」

 

「あ?」

 

「君は、”つんでれ”というやつなんだね」

 

「……あ?」

 

 ソルの声が、低くなる。

 

「どこで覚えた、その気色悪い言葉」

 

「知識欲の魔女を舐めないでほしいな。未知の概念にはそれなりに興味があるんだ」

 

「二度と使うな。殺すぞ」

 

「照れ隠しが激しいね」

 

「本気で殺すぞ」

 

「怖い怖い」

 

 エキドナは笑う。

 だが、その笑みはいつもより少しだけ柔らかかった。

 ほんの少し。

 本当に、わずかに。

 

「でも、そうだね。君がそう思えたのなら、この試練にも意味はあったのだろう」

 

「勝手に綺麗にまとめんな」

 

 エキドナは茶杯を置く。

 

「……ふむ、どうやら急いだ方がいいらしい」

 

「あ?」

 

 白い世界の端に、黒い染みが広がる。

 そこに、炎が見えた。

 都市が燃えている。

 水門都市プリステラ。

 

 崩れる街。

 逃げる人々。

 祈る声。

 そして、その上に立つ、白と赤の影。

 

 救済の魔女。

 傲慢の大罪司教。

 レムの姉。

 ラム。

 

「彼女はもう動いている」

 

 エキドナが言う。

 

「プリステラは滅びた。ルグニカの主要都市も、次々に落ちている。次は王都だ」

 

「……」

 

「君が茶会で過去を見ている間にも、現実は進んでいる」

 

 ソルの目が細くなる。

 胸の奥の魔女因子が、わずかに疼く。

 だが、暴れない。

 今は、抑え込まれている。

 

「そうかよ」

 

 ソルは黒いマフラーを握る。

 

「なら、起きる」

 

「ふっ」

 

 エキドナは満足そうに頷いた。

 

「行きたまえ。空無き大地の王」

 

「その呼び方やめろ」

 

「では、ロストブルーの太陽?」

 

「お前に呼ばれる筋合いはねぇ」

 

「では、妹を救うために仲間を天秤にかけた罪深い兄?」

 

「殺すぞ」

 

「怖い怖い」

 

 魔女は笑う。

 けれど、その笑みはどこか静かだった。

 

「行きたまえ、ソル。

 君の物語は、まだ終わっていない」

 

 ソルは最後に、エキドナを見た。

 

「エキドナ」

 

「なんだい?」

 

「俺は、忘れねぇ」

 

「……」

 

「ノインも、ツヴァイも、フューリーも、イーリスも、アインツも。ルナも。ロストブルーも。今の世界で出会った奴らも。全部だ」

 

 ソルは言った。

 

「全部、持っていく」

 

 エキドナは、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「そうか」

 

 その声は、いつもより静かだった。

 

「なら、君へ一つだけ助言を送ろう」

 

「助言?」

 

「そう。知識欲の魔女から、賢人へ至る者への餞別だ」

 

「賢人になる気はねぇって言ってんだろ」

 

「では、兄への餞別でもいい」

 

 その言葉に、ソルは黙った。

 エキドナは微笑む。

 悪意とも善意ともつかない、魔女らしい笑みだった。

 

「もし、どうしようもなくなったら」

 

 エキドナは言った。

 

()()()()()()()()()が何か、よく考えるといい」

 

「……なんだそりゃ」

 

「そのままの意味だよ」

 

「仲間でも思い出せってか?」

 

「さあ。どう受け取るかは君次第だ」

 

 エキドナは茶杯を置いた。

 

「ただ、君は忘れないのだろう?」

 

「……」

 

「なら、きっと気付けるさ。君が本当に、何に支えられているのか」

 

「回りくどいんだよ、魔女」

 

「知識とは、少し回り道をした方が味わい深いものだからね」

 

「やっぱり気色悪ぃな」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒めてねぇよ」

 

 ソルは吐き捨てる。

 けれど、エキドナは楽しげに笑うだけだった。

 草原が崩れていく。

 茶会が遠ざかっていく。

 エキドナの白い姿が、光の向こうへ薄れていく。

 

 白が弾ける。

 

 

◆◇◆

 

 

 ソルが消えた後。

 草原には、静寂だけが残った。

 白い茶卓。

 白い椅子。

 湯気を立てる茶杯。

 強欲の魔女は、ひとり残された茶会の席で、ゆっくりと茶を口に運ぶ。

 そして、微笑んだ。

 

「ふふ」

 

 それは、愉悦だった。

 それは、期待だった。

 それは、わずかな憐憫にも似ていた。

 

「彼はいつ気付くかな」

 

 エキドナは、誰に聞かせるでもなく呟く。

 

「この運命の真実に」

 

 草原を、風が撫でる。

 白い魔女の笑みだけを残して、茶会は静かに閉じられた。

 

 

◆◇◆

 

 

 目が覚める直前。

 ソルはまた、仲間たちの声を聞いた。

 ノイン。

 ツヴァイ。

 フューリー。

 ズィーヴァ。

 アインツ。

 彼らはもういない。

 

 魂がついてくるわけではない。

 救われたわけでも、報われたわけでもない。

 それでも、名前はある。

 ソルの中に。

 罪として。

 誓いとして。

 もう二度と会えない仲間たちの墓標として。

 

「忘れねぇ」

 

 ソルは暗闇の底で呟く。

 

「忘れるわけがねぇ」

 

 六つの魔女因子が、静かに沈んでいる。

 だが、消えたわけではない。

 いずれまた暴れるだろう。

 いずれまた、ソルを喰おうとするだろう。

 それでも構わない。

 今は立てる。

 今は動ける。

 なら十分だ。

 

 遠くで声がする。

 

『──いちゃん!』

 

 泣きそうな声。

 

『──おにいさん!』

 

 必死に呼ぶ声。

 

『──にいちゃん!』

 

 震える声。

 

『──小僧!』

 

 怒鳴るような声。

 現実が、ソルを呼んでいる。

 レムがいる。

 フェルトがいる。

 エルザがいる。

 ロム爺がいる。

 メィリィがいる。

 自分がなかったことにはしないと決めた、今の世界がある。

 

 救済の魔女が来る。

 王都が狙われている。

 レムの姉が、世界を蹂躙している。

 だから、起きなければならない。

 

 月は沈んだ。

 太陽が昇る。

 ただし、その太陽はもう、何も知らない少年ではない。

 罪を抱え、仲間の名を背負い、六つの魔女因子をその身に宿した者。

 賢人への試練を越えた、空無き大地の王。

 

 

 ソルは、現実へ帰る。

 

 

◆◇◆

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