◆◇◆
目を覚ます。
そう表現するには、あまりにも意識の浮上は重かった。
深い水底から引き上げられるように。
あるいは、魂の底に沈められていたものを無理やり掴み上げられるように。
ソルは、息をした。
「――ッ、は……!」
肺に空気が入る。
その瞬間、吐き気が込み上げた。
体を丸め、喉を押さえる。
胃の中には何もない。
それでも、魂の奥に溜まったものを吐き出すように、ソルは膝をついた。
草の匂いがした。
土の匂いがした。
風が頬を撫でている。
見上げれば、そこには青い空がある。
ロストブルーの天井ではない。
陽光結晶の偽物の光でもない。
どこまでも広い、夢のような草原。
そして、そこに茶卓があった。
白い卓。
白い椅子。
湯気を立てる茶杯。
その向こうに、白い女が座っている。
長い白髪。
黒い瞳。
喪服のような衣。
酷く悍ましい瘴気を纏いながら、微笑む化け物。
「ようやくお目覚めだね」
女は言った。
声は、軽い。
まるで、長い昼寝から目覚めた客人に声をかけるような調子だった。
ソルは、その声を知っていた。
知っている。
思い出した。
自分はここに来たことがある。
怠惰を。
色欲を。
憤怒を。
暴食を。
強欲を。
五つの魔女因子を魂に抱え込み、頭の中で大罪の声が鳴り響き、意識が壊れかけたあの瞬間。
ソルは、ここへ来た。
草原。
茶会。
強欲の魔女。
エキドナ。
その名を思い出した瞬間、喉の奥にまた吐き気が込み上げる。
「……テメェ」
ソルは掠れた声で呟いた。
「エキドナッ」
「覚えていてくれて何よりだよ」
エキドナは嬉しそうに笑った。
「もっとも、君にとってはついさっきのことでもあり、気が遠くなるほど昔のことでもあるのかな」
「……」
「どうだったかな、ソル」
茶杯を持ち上げ、エキドナは優雅に問いかける。
「過去との再会は、君にどんなものをもたらした?」
その言葉で、記憶が戻る。
いや。
戻ったのではない。
流れ込んできた。
ロストブルー。
空のない地獄。
ルナの誕生。
母の死。
父の震える手。
天井の崩落。
ルナの死。
救済の魔女。
死。
回帰。
――そして。
ノイン。
ツヴァイ。
フューリー。
ズィーヴァ。
アインツ。
王座。
ロストブルーの太陽。
何度も死んだ。
何度も戻った。
何度も仲間を失った。
王になった。
魔女に負けた。
外へ出た。
荒廃した世界を見た。
英雄に挑み、敗北した。
憂鬱の魔女因子を得た。
ルナと別れた。
十戒を結んだ。
ノインが『不壊』を捧げた。
ツヴァイが『不感』を捧げた。
フューリーが『不恕』を捧げた。
ズィーヴァが『不惑』を捧げた。
ソルが『不曲』『不諦』『不忘』を捧げた。
アインツが『不信』『不騙』『不欲』を捧げた。
そして、ソルは過去へ撃ち出された。
月は沈み、太陽が昇った。
そこまでのすべてを、ソルは見た。
歩いた。
選んだ。
背負った。
――だが。
「……試練」
ソルの唇から、言葉が漏れた。
エキドナは微笑む。
「そう」
その笑みは、優しくも、残酷でもあった。
「あれが第一の試練だ」
「……」
「まずは己の過去と向き合え。君は、君自身の過去を見た。君が歩んだ地獄を、君が選んだ罪を、君が背負った名前を、もう一度見た」
ソルは膝をついたまま、拳を握る。
草が潰れる。
土が指の間に食い込む。
「ふざけんな」
「ふざけてはいないよ」
「俺は……」
声が震えた。
怒りではない。
悲しみでもない。
重さだった。
あまりにも多くを思い出しすぎた。
あまりにも長い時間を、たった一瞬で取り戻しすぎた。
「俺は、あれを見せられてたってのか」
「見せられていた、という言い方もできる」
エキドナは言う。
「けれど、あれは嘘ではない」
「……」
「あれは君の過去だ。君が確かに歩いた道だ。君が確かに選んだ罪だ。けれど、この茶会において、君はもう一度それと向き合った」
エキドナは茶杯を置く。
「君はもう一度、仲間たちが存在理由を差し出す場面を見た。
もう一度、妹と別れた。
もう一度、王として立った。
もう一度、過去へ行くことを選んだ」
十戒の黒い光が、魂の奥で疼く。
ソルは歯を食いしばった。
「……選ぶに決まってんだろ」
エキドナの目が細くなる。
「ほう」
「何度見せられても、同じだ」
ソルは立ち上がる。
膝が震える。
だが、立つ。
立たなければならない。
ノインが存在理由を差し出してまで、送り出した。
ツヴァイがぬくもりを失ってまで、送り出した。
フューリーが思いやりを失ってまで、送り出した。
ズィーヴァが惑いを失ってまで、送り出した。
アインツが自分の信仰も、罪も、願いも差し出してまで、送り出した。
ならば、ここで膝をついているわけにはいかない。
「俺は行く」
ソルは言った。
「ルナを救う。何度聞かれても、そこは変わらねぇ」
「妹のために、仲間を犠牲にしても?」
「……ルナは救う」
その言葉は重い。
重すぎるほどに重い。
だが、ソルは続ける。
「……けど、それだけじゃねぇ」
エキドナは黙って聞いている。
「ノインも、ツヴァイも、フューリーも、イーリスも、アインツも、ロストブルーも。俺はあいつらも救う」
「それはとても欲張りな答えだと、そうは思わないかい?」
「そうだよ」
ソルは吐き捨てる。
「俺は欲張りだ。妹を救いたい。仲間も救いたい。ロストブルーも救いたい。今の世界で出会ったやつらも、なかったことにはしたくねぇ」
「それが不可能でも?」
「可能にする」
「どうやって?」
「知るか」
ソルは、黒いマフラーを握る。
「知らねぇから進むんだろうが」
その言葉に、エキドナは一瞬だけ目を丸くした。
そして、愉快そうに笑う。
「なるほど。なるほど、なるほど。やはり君は面白い」
「気色悪いな」
「褒めているんだよ」
エキドナは笑ったまま、白い指を立てた。
「いいだろう。では、第一の試練は通過だ」
風が吹く。
草原が揺れる。
白い茶会の空気が、ほんの少しだけ変わった。
「君は過去を否定しなかった。罪から逃げなかった。仲間たちの選択を、自分の免罪符にもしなかった。そして、もう一度同じ選択をした」
エキドナは、ソルを見る。
「――ならば次だ」
「次、だと?」
「そう。試練は一つではない」
ソルの目が鋭くなる。
「まだやらせんのか」
「もちろん」
魔女は微笑む。
「まずは己の過去と向き合え」
茶会の景色が揺らぐ。
「次は――」
草原の向こうに、青い光が差した。
空よりも深い青。
ロストブルーには存在しなかった色。
潮の匂い。
波の音。
ありえないほど穏やかな笑い声。
エキドナが告げる。
『――ありうべからざる今を見よ』
ソルの前で、草原が海へ変わっていく。
◆◇◆
潮の匂いがした。
草原がほどけ、青が広がる。
足元の草は白い砂へ変わり、吹き抜ける風には塩の香りが混じっていた。
波が寄せて、返る。
それだけの音が、なぜか胸を締めつけた。
「……海」
ソルは呟いた。
見たことがある。
いや、正確には、見たいと願ったことがある。
ルナと見たかった。
ロストブルーの連中に見せたかった。
空のない地獄で生きてきた連中に、本物の空と、本物の太陽と、本物の海を見せてやりたかった。
その願いが、目の前にあった。
「お兄ちゃん!」
声がした。
振り向くより早く、小さな体がソルの手を掴んだ。
ルナだった。
血もない。
傷もない。
怖がってもいない。
ただ、太陽の下で笑っている。
「海だよ! すごいね、ぜんぶ青い!」
ルナが笑う。
その笑顔に、ソルの呼吸が止まった。
その隣で、ツヴァイが裸足で波打ち際を歩いている。
波が足首に触れるたび、くすぐったそうに肩を揺らした。
「ノイン、これ、あったかい」
「濡れるぞ」
「もう濡れてる」
「なら戻れ」
「やだ」
ノインは眉間に皺を寄せながらも、ツヴァイの手を離さない。
ツヴァイはその手を握り返して、嬉しそうに笑っていた。
ぬくもりを感じている。
確かに、感じている。
フューリーは少し離れた場所で、転びかけた子どもに慌てて駆け寄っていた。
「だ、大丈夫ですか? 海水は飲んではいけませんよ。お腹を壊しますからね」
そう言いながら、濡れた服をどう乾かすべきか本気で悩んでいる。
その姿は、誰かを思いやる先生そのものだった。
ズィーヴァは砂浜にしゃがみ込み、貝殻を拾っている。
「これ、売れるかな」
「海まで来て商売ですか」
「違う違う。記念品。まあ、売れたら売るけど」
「売るんじゃないですか……」
フューリーが呆れ、ズィーヴァが笑う。
その笑みには迷いがあった。
軽さの奥に、熱があった。
ソルを見るたび、ほんの少しだけ目を逸らす。
その揺らぎが、まだ彼女の中に残っていた。
アインツもいた。
叡智の書を抱え、海を見ている。
いつものように眉間に皺を寄せているが、その表情はどこか穏やかだった。
未来を読んでいるのではない。
滅びを数えているのでもない。
ただ、仲間たちが海を見る光景を、静かに見届けている。
誰も失っていない。
誰も欠けていない。
ノインは壊す力を失っていない。
ツヴァイはぬくもりを感じている。
フューリーは思いやりを持っている。
ズィーヴァは惑い、笑い、盗もうとしている。
アインツはまだ、何かを信じている。
ルナがいる。
ロストブルーの仲間たちがいる。
太陽がある。
空がある。
海がある。
あまりにも、欲しかった。
喉が焼けるほどに。
魂が軋むほどに。
「悪くないだろう?」
背後から、エキドナの声がした。
ソルは振り向かない。
振り向けば、この光景から目を逸らすことになる。
「君が欲しかったものは、ここにある。妹がいて、仲間がいて、誰も何も失っていない。ロストブルーは救われ、君は太陽として彼らをここまで連れてきた」
「……」
「これ以上、何が必要なんだい?」
波の音がした。
ルナがソルの手を引く。
「お兄ちゃん、早く!」
行きたい。
その手を取って、海へ入ってやりたい。
ツヴァイと一緒に波を蹴って、ノインの不機嫌な顔を笑って、フューリーの説教を聞いて、ズィーヴァのくだらない冗談に舌打ちして、アインツの隣に立って。
ただ、笑っていたかった。
それだけでよかった。
それだけで、よかったはずだった。
だが。
「……違う」
ソルは呟いた。
ルナの手が止まる。
「お兄ちゃん?」
「……悪いな、ノインにでも遊んでもらってくれ」
ソルは、ゆっくりと手を離した。
ルナの頭を優しく撫でる。
砂浜を見渡す。
青い海。
白い砂。
笑う仲間たち。
幸福そのものの光景。
けれど、そこにはいなかった。
――レムがいない。
フェルトがいない。
エルザがいない。
メィリィがいない。
ロム爺がいない。
今の世界で出会った者たちが、ここにはいない。
自分がなかったことにはしないと決めた者たちが、この幸福には含まれていない。
この海は、甘い。
あまりにも甘い。
ロストブルーだけを救った夢。
ルナだけを救った夢。
過去の仲間だけを連れてきた、都合のいい今。
「違う」
もう一度、ソルは言った。
エキドナが問う。
「何が違うんだい?」
「ここには、あいつらがいねぇ」
「……」
「俺は約束した。なかったことにはしねぇって」
波が揺らぐ。
空が歪む。
ルナの笑顔が、遠くなる。
「俺は、ロストブルーだけの太陽じゃいられねぇ。ルナだけの兄貴でも、もういられねぇ」
ソルは歯を食いしばった。
「フェルトも、エルザも、メィリィも、クロムウェルの爺も、レムも。俺が今の世界で出会ったやつらを見捨てて笑う未来なら、俺はそこには行けねぇ」
「この今が欲しくないのかい?」
「欲しい」
即答だった。
「欲しいに決まってんだろ」
ソルは、海を見た。
ルナを見た。
ノインを、ツヴァイを、フューリーを、ズィーヴァを、アインツを見た。
焦がれるほどに見つめた。
「でも、ここには逃げねぇ」
「なぜ?」
「全部持っていくって決めたからだ」
黒いマフラーを握る。
「ロストブルーも、今の仲間も、ルナも、俺の罪も。全部持っていく。だから、こんな都合のいい今には逃げねぇ」
その瞬間、海が割れた。
空が白く砕ける。
ルナの声が遠ざかる。
ノインの背中も、ツヴァイの笑顔も、フューリーの声も、ズィーヴァの揺らぎも、アインツの穏やかな眼差しも。
すべてが、泡のように消えていく。
ソルは最後まで目を逸らさなかった。
欲しかった幸福が消える。
手を伸ばせば届きそうだった夢が、砕けていく。
それでも、目を逸らさなかった。
「君の願いはあまりに欲深で、【強欲】だ。
しかし、これで第二の試練も終わりだ」
エキドナの声が、静かに響いた。
◆◇◆
『――いずれ来る災厄の備えよ』
◆◇◆
次に見えたのは、未来だった。
いや、未来と呼ぶにはあまりにも暗い。
そこには、夜があった。
黒い空。
砕けた大地。
崩れた建物。
血と瓦礫の匂い。
そして、ひとりの男が立っている。
ソルだった。
未来のソル。
今よりもさらに傷つき、魔女因子に魂を軋ませ、それでも黒いマフラーを握り締めて立っている。
その前に――救済の魔女がいた。
顔は見えない。
あるいは、見えないように世界が歪んでいる。
黒い衣。
血のような瞳。
愛してる、と囁く声。
妬ましい、と軋む声。
こちらを見ているのに、どこか遠くを見ているような女。
救済の名を冠する理不尽。
ソルは一人だった。
ノインはいない。
ツヴァイもいない。
フューリーも、ズィーヴァも、アインツもいない。
フェルトも、エルザも、メィリィも、ロム爺もいない。
ルナもいない。
ただ一人で、救済の魔女と向き合っている。
未来のソルが、黒い瘴気を纏う。
五つの魔女因子が暴れる。
憂鬱の残響が軋む。
全てを注ぎ込んだ一撃が放たれる。
だが、届かない。
救済の魔女は、ただそこに立っている。
ソルは叫ぶ。
何かを叫んでいる。
だが、声は聞こえない。
世界が、それを隠している。
次の瞬間、救済の魔女の影が伸びた。
黒い手が、ソルの胸を貫く。
未来のソルの体が、崩れる。
それでも、ソルは手を伸ばしていた。
殺せなかった。
届かなかった。
救えなかった。
――また、負けた。
◆◇◆
白い世界のソルは、息を呑んだ。
「……俺が、負ける未来か」
「そう」
エキドナの声がした。
「第三の試練。いずれ来る災厄に備えよ」
◆◇◆
――未来は続く。
ソルが倒れる。
救済の魔女が歩き出す。
その背後で、世界が壊れていく。
都市が沈む。
森が焼ける。
人々が逃げる。
祈りが悲鳴に変わる。
救済の魔女は世界を浄化していく。
その浄化の果てに、神獣が生まれる。
黒龍ジズ。
空を覆い、ヴォラキアを焼く。
黒蛇ごと、国を焼き尽くす。
レヴィアタン。
海を裂き、カララギを沈める。
白鯨すら、海底へ引きずり込む。
ベヒモス。
大地を踏み砕き、グステコを潰す。
大兎の群れごと、地に沈める。
ラインハルトがそれらを駆逐する。
剣聖が神獣を斬る。
英雄は勝つ。
だが、国は救えない。
ヴォラキアは滅びている。
カララギは沈んでいる。
グステコは踏み均されている。
最後に残ったルグニカも、もはや王なき王国の残骸となる。
人々は行き場を失う。
亜人。
混血。
難民。
罪人。
捨てられた者たち。
地上に居場所をなくした者が、地下へ追いやられる。
古い避難路が開かれる。
祈りの言葉が壁に刻まれる。
いつか、空の下へ。
その祈りは腐っていく。
秩序は崩れる。
約束は忘れられる。
希望は酒と薬と血に沈む。
ロストブルーが生まれる。
空のない地獄。
掃き溜め。
それでも、ソルが生まれた場所。
長い長い滅びの果てに、ひとりの赤子が泣く。
ルナではない。
もっと前。
――ソルが生まれる。
その光景を見て、ソルは理解した。
これは未来だ。
だが、自分にとっては過去のようにも見える。
――自分が負けた先に、ロストブルーが生まれる。
ロストブルーが生まれたから、自分が生まれる。
つまり。
自分が勝てば、自分は生まれないかもしれない。
「君にとっては、過去の光景みたいだね」
エキドナが言った。
その声には、笑みが混じっていなかった。
「だが、それは未来だ。君が負けた結果として生まれる未来。そして、その未来の果てに、君自身が生まれる」
ソルは黙っていた。
「君が勝てば、君は存在しないかもしれない」
「……」
「ロストブルーも存在しない。ルナと過ごした日々も、ノインたちと出会った因果も、君が王になった事実も。全て、なくなるかもしれない」
エキドナは問う。
「君はそれでいいのかい?」
沈黙。
ソルは、遠くに生まれたばかりの自分を見る。
何も知らない赤子。
「君はなによりもそれを厭うていたんじゃないのかい?」
空のない地獄に生まれ、妹を抱き、死に戻り、王になり、仲間を天秤にかけた男になるはずの命。
その命が、なかったことになるかもしれない。
それは、恐ろしいことだった。
死ぬこととは違う。
――初めからいなかったことになる。
誰にも覚えられない。
誰にも呼ばれない。
誰の中にも残らない。
それでも。
「たとえ俺が存在しなくなっても」
ソルは言った。
「あいつらがいる」
エキドナは目を細める。
「君は忘れられるかもしれないよ」
「なら、俺は忘れねぇ」
「誰にも覚えられず、誰にも報われず、それでも?」
「――俺はあいつらの太陽であり続ける」
エキドナは黙った。
「わからないな」
やがて、彼女は呟く。
「なぜそこまで自らを犠牲にするんだい?」
ソルは答えた。
迷いなく。
「俺が兄だからだ」
白い世界に、沈黙が落ちた。
その一言だけで、何かが変わった。
エキドナの表情が、ほんのわずかに揺れる。
知識欲の権化。
非情な魔女。
人の感情すら観察対象にする存在。
その彼女が、わずかに目を伏せた。
「……そうか」
ただ、それだけだった。
ソルはその意味を知らない。
知らないままでいい。
けれど、その一言には、ソルの知らない誰かの影があった。
憂鬱を背負った、かつての誰か。
エキドナにとって、兄に近しい何かだった存在の影が――。
白い世界が開いていく。
未来の光景が消える。
神獣も、滅びも、ロストブルーの誕生も、赤子の泣き声も、すべて白に呑まれていく。
エキドナは、ソルを見た。
「認めよう」
その声は、いつもの軽薄なものではなかった。
「君が、賢人に至るにふさわしいと」
ソルは眉をひそめる。
「賢人なんざになる気はねぇ」
「だろうね」
「魔女因子を集めたいわけでもねぇ」
「それもわかっている」
「俺はただ、終わらせる。
救済なんて名前の、この地獄を」
エキドナは、少しだけ笑った。
「だからこそ、君は面白い」
その瞬間、ソルの胸の奥で暴れていた魔女因子が一斉に叫んだ。
怠惰が沈む。
色欲が絡みつく。
憤怒が燃える。
暴食が飢える。
強欲が奪おうとする。
そして、憂鬱が重く圧し掛かる。
六つの異物が、魂の中で軋む。
「ぐ、ぁ……ッ!」
ソルは膝をつきかけた。
だが、エキドナが手を伸ばす。
白い指先が、ソルの胸に触れた。
冷たい。
だが、不快ではなかった。
「完全に制御できるとは思わないことだね」
エキドナは言った。
「君は資格を得ただけで、完成したわけではない。六つの因子は、いずれまた君を喰おうとする」
「……ッ」
「だから、少しだけ手を貸してあげよう」
「恩着せがましいな」
「恩に着てくれて構わないよ」
エキドナは笑う。
白い光が、ソルの胸の奥へ広がっていく。
「怠惰」
怠惰の影が沈黙する。
「色欲」
絡みつく影がほどける。
「憤怒」
炎が低く沈む。
「暴食」
飢えた口が閉じる。
「強欲」
黒い欲望が、奥へ退く。
「憂鬱」
最後に、重さが沈んだ。
消えたわけではない。
そこにいる。
魂の裏側に。
決して取り出せない場所に。
だが今だけは、静かだった。
一時的に、抑え込まれている。
ソルは荒い息を吐いた。
「……気持ち悪ぃ」
「ひどい感想だね。せっかく助けてあげたのに」
「魔女に胸触られて気分いい奴がいるかよ」
「探せばいるかもしれないよ」
「言ってろ」
エキドナは愉快そうに笑う。
そして、茶杯を持ち上げた。
「さて」
その声音が、わずかに変わる。
「茶会はここまでだ」
「……終わりか」
「名残惜しいかい?」
「二度と来ねぇよ」
「それは残念だ。ボクとしては、君という観察対象をまだまだ眺めていたいんだけどね」
「気色悪ぃこと言ってんじゃねぇ」
ソルは吐き捨てる。
だが、足元の草原が揺らぎ始めていた。
青い空が白く霞む。
風の匂いが薄れていく。
茶卓も、椅子も、エキドナの輪郭さえ、少しずつ夢の奥へ沈んでいく。
戻る時間なのだと、ソルにもわかった。
ロストブルーへではない。
あの空のない地獄へ帰るわけではない。
過去へ撃ち出されるわけでもない。
自分が五つの魔女因子を取り込み、魂が限界を迎え、意識を失ったあの瞬間。
レムがいる。
フェルトがいる。
エルザがいる。
ロム爺がいる。
メィリィがいる。
誰かが、必死に自分を呼んでいる。
あの現実へ帰るのだ。
「……もう一度、あいつらに会えた」
ソルは呟いた。
エキドナの目が、わずかに細くなる。
「それだけは、感謝しといてやる」
風が止まった。
茶会の空気が、ほんの一瞬だけ静まる。
エキドナは、口元に手を添えて、小さく笑った。
「なるほど」
「あ?」
「君は、”つんでれ”というやつなんだね」
「……あ?」
ソルの声が、低くなる。
「どこで覚えた、その気色悪い言葉」
「知識欲の魔女を舐めないでほしいな。未知の概念にはそれなりに興味があるんだ」
「二度と使うな。殺すぞ」
「照れ隠しが激しいね」
「本気で殺すぞ」
「怖い怖い」
エキドナは笑う。
だが、その笑みはいつもより少しだけ柔らかかった。
ほんの少し。
本当に、わずかに。
「でも、そうだね。君がそう思えたのなら、この試練にも意味はあったのだろう」
「勝手に綺麗にまとめんな」
エキドナは茶杯を置く。
「……ふむ、どうやら急いだ方がいいらしい」
「あ?」
白い世界の端に、黒い染みが広がる。
そこに、炎が見えた。
都市が燃えている。
水門都市プリステラ。
崩れる街。
逃げる人々。
祈る声。
そして、その上に立つ、白と赤の影。
救済の魔女。
傲慢の大罪司教。
レムの姉。
ラム。
「彼女はもう動いている」
エキドナが言う。
「プリステラは滅びた。ルグニカの主要都市も、次々に落ちている。次は王都だ」
「……」
「君が茶会で過去を見ている間にも、現実は進んでいる」
ソルの目が細くなる。
胸の奥の魔女因子が、わずかに疼く。
だが、暴れない。
今は、抑え込まれている。
「そうかよ」
ソルは黒いマフラーを握る。
「なら、起きる」
「ふっ」
エキドナは満足そうに頷いた。
「行きたまえ。空無き大地の王」
「その呼び方やめろ」
「では、ロストブルーの太陽?」
「お前に呼ばれる筋合いはねぇ」
「では、妹を救うために仲間を天秤にかけた罪深い兄?」
「殺すぞ」
「怖い怖い」
魔女は笑う。
けれど、その笑みはどこか静かだった。
「行きたまえ、ソル。
君の物語は、まだ終わっていない」
ソルは最後に、エキドナを見た。
「エキドナ」
「なんだい?」
「俺は、忘れねぇ」
「……」
「ノインも、ツヴァイも、フューリーも、イーリスも、アインツも。ルナも。ロストブルーも。今の世界で出会った奴らも。全部だ」
ソルは言った。
「全部、持っていく」
エキドナは、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうか」
その声は、いつもより静かだった。
「なら、君へ一つだけ助言を送ろう」
「助言?」
「そう。知識欲の魔女から、賢人へ至る者への餞別だ」
「賢人になる気はねぇって言ってんだろ」
「では、兄への餞別でもいい」
その言葉に、ソルは黙った。
エキドナは微笑む。
悪意とも善意ともつかない、魔女らしい笑みだった。
「もし、どうしようもなくなったら」
エキドナは言った。
「
「……なんだそりゃ」
「そのままの意味だよ」
「仲間でも思い出せってか?」
「さあ。どう受け取るかは君次第だ」
エキドナは茶杯を置いた。
「ただ、君は忘れないのだろう?」
「……」
「なら、きっと気付けるさ。君が本当に、何に支えられているのか」
「回りくどいんだよ、魔女」
「知識とは、少し回り道をした方が味わい深いものだからね」
「やっぱり気色悪ぃな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてねぇよ」
ソルは吐き捨てる。
けれど、エキドナは楽しげに笑うだけだった。
草原が崩れていく。
茶会が遠ざかっていく。
エキドナの白い姿が、光の向こうへ薄れていく。
白が弾ける。
◆◇◆
ソルが消えた後。
草原には、静寂だけが残った。
白い茶卓。
白い椅子。
湯気を立てる茶杯。
強欲の魔女は、ひとり残された茶会の席で、ゆっくりと茶を口に運ぶ。
そして、微笑んだ。
「ふふ」
それは、愉悦だった。
それは、期待だった。
それは、わずかな憐憫にも似ていた。
「彼はいつ気付くかな」
エキドナは、誰に聞かせるでもなく呟く。
「この運命の真実に」
草原を、風が撫でる。
白い魔女の笑みだけを残して、茶会は静かに閉じられた。
◆◇◆
目が覚める直前。
ソルはまた、仲間たちの声を聞いた。
ノイン。
ツヴァイ。
フューリー。
ズィーヴァ。
アインツ。
彼らはもういない。
魂がついてくるわけではない。
救われたわけでも、報われたわけでもない。
それでも、名前はある。
ソルの中に。
罪として。
誓いとして。
もう二度と会えない仲間たちの墓標として。
「忘れねぇ」
ソルは暗闇の底で呟く。
「忘れるわけがねぇ」
六つの魔女因子が、静かに沈んでいる。
だが、消えたわけではない。
いずれまた暴れるだろう。
いずれまた、ソルを喰おうとするだろう。
それでも構わない。
今は立てる。
今は動ける。
なら十分だ。
遠くで声がする。
『──いちゃん!』
泣きそうな声。
『──おにいさん!』
必死に呼ぶ声。
『──にいちゃん!』
震える声。
『──小僧!』
怒鳴るような声。
現実が、ソルを呼んでいる。
レムがいる。
フェルトがいる。
エルザがいる。
ロム爺がいる。
メィリィがいる。
自分がなかったことにはしないと決めた、今の世界がある。
救済の魔女が来る。
王都が狙われている。
レムの姉が、世界を蹂躙している。
だから、起きなければならない。
月は沈んだ。
太陽が昇る。
ただし、その太陽はもう、何も知らない少年ではない。
罪を抱え、仲間の名を背負い、六つの魔女因子をその身に宿した者。
賢人への試練を越えた、空無き大地の王。
ソルは、現実へ帰る。
◆◇◆