◆◇◆
ソルが眠っている間に、世界は待ってくれなかった。
水門都市プリステラは、最初に沈んだ。
水の都を守るはずの水門は、救いにはならなかった。
風が水を巻き上げ、渦を作り、街そのものを削り取った。
運河は逆流し、橋は折れ、広場にいた者たちは逃げる暇もなく水と風の刃に呑まれた。
騎士も、商人も、旅人も、母に手を引かれた子どもも、等しく終わった。
救済の魔女は、そこにいた全てへ同じ終わりを与えた。
次に落ちたのは、商業都市ピックタット。
王国の富が集まり、人と物が行き交う街だった。
だが、積み上げた金貨も、倉庫に詰まった品も、商人たちの契約も、風の前では意味を持たなかった。
空から降り注いだ見えざる刃が、街路を裂いた。
市場の天幕が舞い、馬車が横転し、荷箱も人も区別なく空へ巻き上げられた。
救済の魔女は奪わない。
ただ、終わらせる。
次は、鉱山都市コスツール。
山腹に穿たれた坑道の街は、外から攻められることには強かった。
岩盤に守られ、鉄と石に囲まれた都市。
だが、風は入り込んだ。
坑道の奥へ。
採掘場へ。
地下の支柱へ。
人が生きるために開けた穴へ。
風は叫びとなって通り抜け、岩を震わせ、支柱を折り、山の内側を崩した。
鉱夫も、兵も、避難していた村娘も、地竜も、まとめて岩の下へ沈んだ。
そして、地竜発祥の地フランダース。
王国の地竜を育み、竜車文化の根を支えてきた地。
そこには多くの地竜がいた。
騎竜も、荷竜も、幼い竜も、人と共に生きてきた竜たちが。
救済の魔女は、そこへ降りた。
極まった風の魔法。
それは嵐ではなかった。
災害ですらなかった。
意志を持った処刑だった。
風は地竜の鱗の隙間を裂き、脚を断ち、喉を潰した。
竜を庇った飼育士も、槍を構えた騎士も、祈る者も、逃げる者も、等しく切り刻まれた。
救済の名の下に、何もかもが平らにされた。
ルグニカの五大都市。
水門都市プリステラ。
商業都市ピックタット。
鉱山都市コスツール。
地竜発祥の地フランダース。
そして、王都ルグニカ。
そのうち、四つがすでに落ちた。
残るは王都。
最後の都。
王を戴く、親竜王国の心臓。
救済の魔女は、まもなくやってくる。
◆◇◆
ソルが眠っていたのは、十三日だった。
その間、誰もただ祈っていたわけではない。
フェルトは、真っ先に動いた。
「どうせ、兄ちゃんは起きたら戦うって言う」
彼女はそう言った。
だから、戦力を集めた。
メィリィの『魔操の加護』を使い、ルグニカ中に散った魔獣を呼び寄せた。
森に潜むもの。
廃村に棲みついたもの。
地下水路を這うもの。
山間に残っていたもの。
人を襲うだけの獣も、飢えた小さな魔獣も、戦えるものは片端から集めた。
メィリィは文句を言った。
怖い、面倒、死んじゃうかも。
それでも、笛を吹いた。
フェルトが走り、エルザが護衛し、メィリィが魔獣を従える。
エルザは、いつものように笑っていた。
けれど、その立ち位置は常にメィリィの前だった。
彼女は殺すために刃を振るう女だ。
だが、今は守るために刃を構えていた。
ロム爺――バルガ・クロムウェルもまた、動いた。
昔のツテ。
今のツテ。
裏通りのごろつき。
落ちぶれた傭兵。
武器を隠し持つ商人。
王都に残った職人。
戦う理由を失った者。
逃げる場所を失った者。
彼はその全てに声をかけた。
集めたのは兵隊ではない。
寄せ集めだった。
武器も揃っていない。
鎧も足りない。
食料も、薬も、数えればすぐに底が見える。
それでも、戦う意思だけはあった。
王都が落ちれば、もう逃げる場所はない。
誰もが、それを理解していた。
そして、レムだけは動かなかった。
動けなかった。
彼女はソルの傍にいた。
眠り続けるソルの手を握り、その額に浮かぶ汗を拭い、彼の内側から滲み出る瘴気を、その特別な角で吸い取っていた。
眠るソルの体からは、黒い靄が漏れ続けていた。
魔女因子の残滓。
魂を削る瘴気。
六つの罪の澱。
レムはそれを浄化した。
眠らずに。
食べることも忘れて。
ただ、ソルが目を覚ますことだけを願って。
自分には、それしかできないと思いながら。
◆◇◆
「……お兄ちゃん」
だから、ソルが目を開けた瞬間、レムは泣いた。
喜びと安心が、堰を切ったように溢れ出した。
「お兄ちゃん……っ」
レムはソルに抱きついた。
震える手で、彼の背中を掴む。
ソルは一瞬だけ息を詰める。
だが、すぐにその頭へ手を置いた。
「……心配かけた」
「心配、しました……っ」
「ああ」
「ずっと、ずっと……っ」
レムは泣いていた。
ソルの胸に顔を押しつけ、子どものように泣いていた。
その向こうで、フェルトが腕を組んでいた。
エルザは壁に背を預け、微笑んでいる。
メィリィはほっとしたように息を吐き、ロム爺は大きな肩を落とした。
「ったく」
フェルトが言った。
「やっと起きやがったか、兄ちゃん」
ソルはレムの頭に手を置いたまま、周囲を見た。
「……どれくらい寝てた」
「十三日だ」
ロム爺が答える。
ソルの眉が動いた。
「二週間近くか」
「その間に、四都市が落ちた」
フェルトの声が低くなる。
「プリステラ、ピックタット、コスツール、フランダース。残ってんのは、ここ王都だけだ」
ソルは黙った。
視線だけが鋭くなる。
エルザが続ける。
「人も竜も街もお構いなしね」
「だろうな」
ソルは低く言った。
「あいつにとってはそれが救済のつもりなんだろ」
「で、どうするのよぉ?」
メィリィが聞く。
その声はいつも通り甘かったが、目は笑っていなかった。
「寝起きで悪いけどぉ、もう時間ないわよぉ」
「なら、うだうだ寝てらんねぇな」
ソルはレムをそっと離す。
まだ立つな、と言いたげにレムが手を伸ばす。
だが、ソルは立った。
体が若干、ふらついた。
だが、それでも立つ。
「今すぐ迎え撃つぞ」
「おい、無理すんなよ兄ちゃん!」
フェルトが怒鳴る。
「この国には剣聖もいるんだぜ。まだ時間はあんだろ」
「そう言って、他の四都市は落ちたんだろ」
ソルの返答に、フェルトが言葉を詰まらせる。
「剣聖は王都を守らざるを得ない。王都を失えば、この国は終わりだ。だから、あいつはここを離れられなかった」
「だったら、王都にいれば問題ねぇはずだろ!」
「それじゃ駄目だ」
ソルは即座に言った。
「ここは守れても、それだけじゃ他の国が滅ぶ」
空気が重くなる。
「他の四大国が滅ぶ。そうなれば、救済の魔女はさらに力を増す。人が死に、都市が滅び、あいつはそれを取り込む。時間をやればやるほど、手に負えなくなる」
ソルは黒いマフラーを握る。
「いずれ剣聖でさえ届かなくなる」
フェルトの顔が歪んだ。
「じゃあ、どうすんだよ」
「今ここで殺す」
短い答えだった。
その言葉に、部屋の空気が凍る。
レムが息を呑む。
エルザが笑みを深める。
ロム爺が拳を握る。
メィリィが小さく唇を噛む。
フェルトは、しばらく黙っていた。
やがて、頭を掻きむしる。
「あー、もう!」
彼女は叫んだ。
「兄ちゃんならそう言うと思ってたよ!」
「なら話が早い」
「でもな、あたしらにも戦わせろ」
ソルの目が細くなる。
「お前らの手に負える存在じゃねぇ」
「知ってる」
フェルトは睨み返す。
「あいつは俺が――」
「だから、あたしらも指くわえて見てただけじゃねぇって言ってんだ!」
フェルトの声が部屋に響く。
「メィリィの力で魔獣を集めた。ロム爺に人手と武器も集めてもらった。エルザもいる。王都の連中も、逃げられねぇなら戦うって腹括ってる」
フェルトは一歩前へ出る。
「戦力はある」
「……」
「なら、次はどうすればいい」
その目は、真っ直ぐだった。
王族の血を引く少女。
貧民街で生き、盗み、走り、誰にも傅かなかった少女。
そのフェルトが、今、ソルに問うている。
「教えてくれ、兄ちゃん」
ソルは、言葉を失った。
望外だった。
魔獣。
人。
武器。
物資。
それらが魔女に対してどれだけ役に立つかはわからない。
救済の魔女の前では、あまりにも頼りないかもしれない。
だが、何もないわけではなかった。
誰も、ただ怯えていたわけではなかった。
ソルが眠っている間も、この世界は進んでいた。
フェルトは戦力を集めた。
エルザは刃を磨いた。
メィリィは魔獣を呼んだ。
ロム爺は人と武器を集めた。
レムはソルを守り続けた。
そして、その姿に、ソルは別の光景を重ねた。
ロストブルー。
酒臭い路地。
盗んだものを抱えた子ども。
壊れかけた王座。
空のない地獄。
ノイン。
ツヴァイ。
フューリー。
ズィーヴァ。
アインツ。
あの時も、そうだった。
掃き溜めの連中が、まともな兵でもない者たちが、それでも王と呼んで立ち上がった。
ならば。
今ここで、ソルがするべきことは一つだった。
逃げるな。
俯くな。
太陽たれ。
ソルは息を吸う。
体の痛みを無視する。
魂の重さを飲み込む。
そして、周囲を見渡した。
「フェルト。魔獣はメィリィの指揮下に置け。数で押すな。雑兵の足止めに使う。無駄死にはさせるな」
「わかったわぁ」
メィリィが頷く。
「エルザ」
「なにかしら」
「メィリィを守れ。敵の魔獣が来たら、お前が斬れ」
「いいわ。そういうの、嫌いじゃないもの」
「ロム爺」
「なんじゃ」
「武器を配れ。戦える奴は前へ。戦えねぇ奴は運べ。怪我人、物資、矢、油、石、何でもいい。動ける奴は全員役目を持たせろ」
「あいわかった」
「フェルト」
「ああ」
「お前は人を動かせ。ごろつきでも、盗人でも、商人でも、逃げ遅れた奴でもいい。お前が怒鳴れば動く奴がいる」
「へっ、上等だ」
フェルトが笑った。
ソルは最後に、レムを見る。
レムは不安そうにソルを見ていた。
「レム」
「はい」
「俺の傍にいろ」
レムの目が揺れる。
「レムも、戦えますか」
「戦わせる」
ソルは言った。
「ただし、無茶はするな。俺の瘴気を祓えるのはお前だけだ」
「……はい」
レムは頷く。
その顔には、嬉しさと不安が混じっていた。
役に立てる。
その思いが、彼女の胸に灯ったのがわかった。
ソルは、全員を見る。
魔獣と人と武器。
寄せ集め。
継ぎ接ぎ。
とても軍とは呼べない。
だが、戦う意思がある。
それだけで十分だった。
「聞け」
ソルの声が、部屋に響いた。
「相手は魔女だ。まともにやれば死ぬ。逃げても死ぬ。祈っても死ぬ」
誰も笑わない。
誰も目を逸らさない。
「だから、殺す」
ソルは黒いマフラーを巻き直す。
「俺たちの手で、魔女を殺す」
フェルトが口角を上げる。
エルザが刃を鳴らす。
メィリィが笛を握る。
ロム爺が拳を打ち鳴らす。
レムが、ソルの隣に立つ。
ソルは扉へ向かう。
「俺が魔女を止める」
そして、振り返らずに言った。
「ついてこい」
一瞬の沈黙。
次いで、声が上がった。
「おおッ!」
それは騎士の鬨の声ではなかった。
正規軍の整った返答でもなかった。
ごろつきの叫び。
盗人の怒号。
魔獣使いの笛。
刃を鳴らす音。
老人の低い唸り。
少女の息を呑む音。
けれど、それは確かに戦いの声だった。
夜が始まる。
現代の魔女が集う夜。
暁を待たぬ祭り。
ワルプルギス。
聖戦と呼ぶには、あまりにも泥臭く。
だが、終わりを拒む者たちの戦いが。
今、始まった。
◆◇◆
リーファウス平原。
フリューゲルの大樹が根を張る、広大な草の海。
遮るものは少なく、どこまでも見渡せるはずの平原だった。
だが、その日の空は低かった。
夕刻。
本来なら、傾いた陽が草原を赤く染めている頃合いだ。
しかし、空には分厚い暗雲が垂れ込めていた。
雲は黒く、重く、まるで空そのものが地上へ沈んでくるようだった。
風が吹く。
冷たい風だった。
日の落ちる前の涼しさではない。
もっと底冷えする、死の気配を含んだ
その中心に、ソルは立っていた。
黒いマフラーが風に揺れる。
彼の近くには、誰もいない。
あえて離れさせた。
魔女が来る。
なら、最初に受けるのは自分でなければならない。
後方では、人が動いていた。
木箱を運ぶ者。
油壺を並べる者。
槍や剣を配る者。
負傷者を運ぶための担架を用意する者。
逃げ道を確保する者。
叫び、怒鳴り、走り、転び、それでも立ち上がる者たち。
兵ではない。
騎士でもない。
王都の正規軍と呼ぶには、あまりにも雑多な集まりだった。
ごろつき。
盗人。
傭兵崩れ。
貧民街の連中。
逃げ遅れた住民。
商人の私兵。
ロム爺がかき集めた、今と昔の縁で繋がった者たち。
誰もが役目を持っていた。
誰もが、何かをしていた。
その端では、メィリィが笛を握っている。
彼女の周囲には、ルグニカ中から集められた魔獣たちがうごめいていた。
森から来たもの。
地下水路に潜んでいたもの。
山間から追い立てられたもの。
小さなものも、大きなものも、牙を剥き、唸り、落ち着きなく地を掻いている。
その傍らにはエルザがいた。
片手に刃を遊ばせながら、しかし立つ位置はメィリィの前。
殺す女が、守るためにそこにいる。
フェルトはロム爺とともに、人々に怒鳴っていた。
「そっちの箱は後ろだ! 武器持てる奴は前! 走れる奴は伝令! 倒れた奴を踏むな、引きずってでも下げろ!」
小さな体で、誰より大きな声を張り上げる。
ロム爺はその隣で、混乱する者たちを押さえ、武器を配り、道を作っていた。
そして、レムは少し離れた場所にいた。
ソルを見ている。
何か言いたげに、けれど何も言えずに。
ソルはその視線を背中で感じながら、空を見上げた。
ようやく。
ようやく、ここまで来た。
奴が得るはずだった魔女因子を奪った。
怠惰を、色欲を、憤怒を、暴食を、強欲を。
そして、憂鬱を。
未来よりも、救済の魔女は弱いはずだ。
まだ奪った命も少ない。
まだ滅ぼした世界も狭い。
まだ、あのロストブルーの果てで見た怪物には至っていないはずだ。
ここにはノインはいない。
ツヴァイもいない。
フューリーもいない。
ズィーヴァも、アインツもいない。
だが、あいつらがいる。
レムがいる。
フェルトがいる。
エルザがいる。
メィリィがいる。
ロム爺がいる。
名前も知らないごろつきがいる。
盗人がいる。
武器を持つことすら初めての者がいる。
魔獣たちがいる。
戦力になるかどうかもわからない。
それでも、生きようと足掻く者たちがいる。
なら。
俺は曲がらない。
俺は諦めない。
俺は忘れない。
ここにいる理由を。
俺がすべきことを。
――あいつを殺す。
救済の魔女を、ここで殺す。
その瞬間だった。
空が陰った。
いや、元より暗かった空が、さらに深く沈んだ。
「……来たか」
風が止まる。
次いで、冷たい突風が平原を吹き抜けた。
人々が顔を伏せる。
魔獣が怯えたように唸る。
草が一斉に同じ方向へ倒れた。
暗雲が渦を巻いた。
その中心に、穴が開く。
黒い雲を突き破るように、天から白い光が落ちた。
光の柱。
けれど、それは清浄ではない。
白すぎる。
人の営みも、罪も、汚れも、悲鳴も、何もかもを塗り潰すような白。
その光の中心に、女がいた。
球形の風を纏っている。
風は透き通っているのに、そこにあるだけで空間が歪んで見えた。
触れれば裂かれる。
近づけば削られる。
そう本能でわかるほど、完成された風の檻。
桃色の髪。
額に輝く白い角。
白を基調とした和装めいた衣。
凛然とした顔立ち。
冷たい瞳。
ラム。
傲慢の大罪司教。
救済の魔女。
世界を浄化する者として、パンドラに選ばれた少女。
その隣に、もう一人の女が立っていた。
白い髪。
白い衣。
不可侵の神聖を纏う、虚飾の魔女。
パンドラ。
彼女は微笑んでいた。
まるで、これから始まる惨劇を祝福するように。
「これはこれは」
パンドラは言った。
柔らかな声だった。
「とても素敵なお出迎えですね」
「……」
ラムは何も言わない。
ただ、眼下を見下ろしていた。
ソルを。
フェルトたちを。
魔獣を。
武器を持ったごろつきを。
ちり芥を眺めるように。
ソルは口元を歪めた。
「随分と偉そうに降りてきやがったな」
パンドラが微笑む。
「この行いは聖なるもの。世界を浄化するための、尊い始まりなのですから」
ソルは答えない。
視線はラムへ向けたまま。
ラムもまた、ソルを見ていた。
その目には、かつての辛辣さはない。
優しさもない。
怒りすらない。
ただ、救済すべき世界を見下ろす、無機質な傲慢があるだけだった。
そして、ラムが右手を上げた。
ただ、それだけ。
次の瞬間、平原全体の大気が鳴いた。
風が生まれる。
風が束ねられる。
風が、刃となる。
――本来なら、その一撃で終わっていた。
ソルの後方に陣取ったごろつきも、魔獣も、武器も、物資も、人の意思も、すべてまとめて薙ぎ払われていたはずだった。
王都の四都市を滅ぼした風。
人も竜も騎士も村娘も区別なく終わらせた救済の刃。
それが、平原へ降った。
だが。
「――『不退』」
ソルが呟く。
胸の奥で、強欲の魔女因子が脈打った。
「〝レグルス〟」
透明な膜のようなものが、戦場に広がった。
ソルの背後にいる者たち。
武器を持ち、逃げず、抗う意思を持った者たち。
メィリィの指揮下にある魔獣たち。
フェルトの声に応じて動くごろつきたち。
ロム爺に従って物資を運ぶ者たち。
それらを、見えない庇護が包み込む。
――強欲の権能。
前任者のように、自分だけを世界から切り離すためのものではない。
ソルの強欲は、仲間を守る。
共に戦う者を庇護する。
退かず、逃げず、戦場に留まる者へ、外からの破壊を遠ざける。
風の刃が降り注いだ。
平原が裂ける。
草が消し飛ぶ。
地面が削られる。
だが、人は死ななかった。
ごろつきたちは倒れなかった。
魔獣たちも、まだ唸っていた。
外からの衝撃は、見えない壁に弾かれている。
ラムの瞳が、わずかに動いた。
驚いたのだろう。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「ざまぁみやがれ」
ソルは笑った。
黒いマフラーが風に揺れる。
「さぁ、始めようぜ」
ソルは右手を上げる。
「――魔女狩りだ」
「いけぇぇぇぇッ!」
フェルトの声が響いた。
人が走る。
槍を構えたごろつきが、怒号を上げて前へ出る。
盗人が石を投げ、傭兵崩れが剣を抜き、逃げ遅れた民が油壺を抱えて走る。
「やっちゃってぇ!」
メィリィの笛が鳴る。
魔獣たちが一斉に駆け出した。
牙を剥く。
爪を立てる。
大地を蹴り、風の中へ突っ込む。
人と魔獣。
ありえない混成の群れが、救済の魔女へ殺到した。
同時に、ソルも動く。
足元の空間を蹴るように踏み込み、右手を突き出す。
「――〝バン〟」
不可視の砲撃が放たれた。
かつて、ラムに防がれた一撃。
だが、今は違う。
「前とは違うぜ」
強欲の権能が、砲撃へ重なる。
外的干渉から守られた不可視の弾丸。
途中で乱されず、逸らされず、世界の抵抗すら押し退けて進む破壊。
ラムが風の壁を張る。
白い角が輝き、大気が圧縮される。
だが、不可視の砲撃はそれを穿った。
風の壁を貫き、ラムの肩を抉る。
白い衣に、赤が散った。
「――」
ラムの目が、わずかに見開かれる。
ソルの胸が熱くなる。
いける。
届く。
未来の救済の魔女とは違う。
今のラムには、まだ届く。
そう思った刹那。
「――もし、見間違いでは?」
パンドラが言った。
柔らかく。
何でもないことのように。
次の瞬間、ラムの肩から傷が消えた。
裂けた衣も、流れた血も、何もなかったことのように。
ラムはパンドラを見た。
余計なことを。
そう言いたげな、冷たい一瞥だった。
パンドラは微笑む。
「素晴らしい」
彼女は手を叩くでもなく、ただ言葉だけで称賛した。
「運命に抗う気概こそが、人を人たらしめるのです。しかし、ラムさん」
パンドラは、穏やかに告げる。
「遊びは終わりにしましょう」
ラムは無言のまま、右手を下ろした。
白い角が輝く。
リーファウス平原に満ちる大気が、上へ上へと引き上げられる。
空が軋む。
雲がねじれる。
平原の上空に、無数の風の星が生まれた。
小さな星。
透明な星。
だが、その一つ一つが、極限まで圧縮された風の爆弾だった。
ラムが唇を開く。
「――〝天墜〟」
空が落ちた。
数多の風の星が、平原へ降り注ぐ。
ソルは歯を食いしばる。
「踏み止まれ!」
『不退』が輝く。
ごろつきたちは死ななかった。
フェルトも、ロム爺も、メィリィも、エルザも、無事だった。
抗う意思を持ち、ソルの庇護の内にいた者たちは、風の直撃を耐えた。
だが、すべてではない。
――限界があった。
ソルが同時に庇護できる数には、限界があった。
魔獣たちの多くが、風の星に呑まれた。
牙を剥いて走っていたものが、胴を裂かれる。
翼を持つものが、空中で砕ける。
大きな魔獣が、地面ごと削り取られる。
メィリィが息を呑んだ。
「もう、なんなのよぉ……!」
戦場が崩れる。
人は死ななかった。
だが、地形は死んだ。
平原は穴だらけになり、地面は深く抉れ、立っていることさえ困難になる。
外的衝撃は防げても、自分の足場を失えば倒れる。
倒れた者が仲間に引きずられて後退する。
庇護の内側から、意思が揺らぐ。
逃げたい。
下がりたい。
死にたくない。
その当然の感情が、ソルの権能を弱める。
さらに、ラムはソルを見た。
次の瞬間、風がソルの体を掴んだ。
「ッ――!」
地面が遠ざかる。
ソルの体が空へ持ち上げられる。
ただ吹き飛ばされたのではない。
風が、彼を上へ上へと運んでいる。
戦場から引き剥がすように。
仲間たちから遠ざけるように。
――まずい。
直感が叫んだ。
このまま距離を取られれば、『不退』の範囲から仲間が外れる。
庇護が消える。
戦線が壊れる。
それだけではない。
ソルの強欲は、仲間を守り、仲間に守られる権能だ。
近くに抗う者がいなければ、機能しない。
自分一人では、やつのような完成された無敵にはならない。
共に立つ者がいて初めて、ソルは力を借りられる。
「させるかよ……!」
ソルは歯を食いしばる。
身動きのできない今、『空間跳躍』はできない。
なら――憂鬱の残響を引き出す。
空間を圧縮する。
距離を折り畳む。
次の瞬間、ソルの姿が空から消えた。
転移。
彼は地上へ戻る。
抉れた平原の中央へ、膝をつきながら落ちる。
「ぐ、ッ……!」
戻った。
だが、戦線は崩れていた。
魔獣の多くが死んだ。
人は生きている。
けれど、立っていない。
外的衝撃は防げた。
だが、崩れた足場で転び、自重で骨を折り、仲間に引きずられて後退する者がいる。
逃げる者はいない。
だが、前へ出られる者も減っている。
それだけで、ソルの力は弱くなった。
『不退』は、共に戦う仲間を守る。
戦いに挑み続ける者を庇護する。
だが、後方へ下がり、戦線から離れた者からは、その庇護が薄れていく。
庇護する仲間が減れば、ソルが借りられる力も減る。
強欲。
仲間を守る力。
同時に、仲間がいなければ成立しない力。
「なるほど」
パンドラが感嘆したように言った。
「それは『強欲』の権能ですね」
ソルは息を乱しながら、彼女を睨む。
「素晴らしい。仲間を守り、仲間に守られる。前任者の自分本位な権能とは正反対の、他者のための力」
「……黙れ」
「ですが、だからこそ脆い」
パンドラは微笑む。
「仲間が倒れれば、貴方も弱くなる。仲間が退けば、貴方の無敵も遠ざかる。なんとも美しく、なんとも残酷な強欲です」
ソルは答えない。
答える余裕がない。
息を整え、戦場を見る。
まだ、終わっていない。
フェルトが怒鳴っている。
ロム爺が倒れた者を引きずり起こしている。
メィリィが涙目で、それでも残った魔獣たちへ指示を出している。
エルザは笑いながら、近づく風の刃を斬り払っている。
レムは、後方でソルを見ている。
不安と恐怖を滲ませながら。
それでも、まだ戦線は生きている。
まだ、終わっていない。
だが、魔女は待たない。
パンドラが言った。
「ラムさん」
ラムは無言で、遠くを見た。
リーファウス平原の遥か彼方。
地平線の向こう。
黒い雲の下。
何かが、動いた。
ラムが静かに告げる。
「……来なさい」
その声は、命令だった。
世界そのものへ向けた命令。
次の瞬間、地平線が震えた。
音が来る。
遅れて、風が来る。
さらに遅れて、圧が来る。
大地が鳴動する。
空が黒く染まっていく。
リーファウス平原の果てから、巨大な影が現れた。
山のような体躯。
黒い鱗。
燃えるような眼。
空を覆う翼。
世界の終焉が、咆哮となって響き渡る。
――黒龍ジズ。
遠くない未来。
ヴォラキアを焼き、黒蛇ごと国を滅ぼす終焉の神獣。
それが、救済の魔女の呼び声に応じて、戦場へ現れた。
ソルは、黒いマフラーを握り締める。
フェルトが息を呑む。
ロム爺が唸る。
メィリィの笛を持つ手が震える。
エルザからも余裕の笑みが消える。
レムが、言葉を失う。
パンドラはただ、微笑んでいた。
「さあ」
虚飾の魔女は、祝福するように言った。
「聖なる夜は、まだ始まったばかりです」
夕刻。
陽が落ちる。
◆◇◆